小部経典15-2:パティサンビダーマッガ

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1.2 見解についての言説




122.




 [710]【135】何が、見解であるのか。どれだけの、見解の拠点(直接原因)があるのか。どれだけの、見解の妄執があるのか。どれだけの、見解があるのか。どれだけの、見解の固着(固定観念)があるのか。どのようなものが、見解の拠点の根絶であるのか。ということで――


 [711](1)「何が、見解であるのか」とは、固着への執着が、見解である。


 [712](2)「どれだけの、見解の拠点があるのか」とは、八つの見解の拠点がある。


 [713](3)「どれだけの、見解の妄執があるのか」とは、十八の見解の妄執がある。


 [714](4)「どれだけの、見解があるのか」とは、十六の見解がある。


 [715](5)「どれだけの、見解の固着があるのか」とは、三百の見解の固着がある。


 [716](6)「どのようなものが、見解の拠点の根絶であるのか」とは、預流道が、見解の拠点の根絶である。




123.




 [717](1)どのように、固着(固定観念)への執着が、見解となるのか。形態を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。感受〔作用〕を、「これは、わたしのものである……略……。表象〔作用〕を、「これは、わたしのものである……略……。諸々の形成〔作用〕を、「これは、わたしのものである……略……。識別〔作用〕を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。眼を、「これは、わたしのものである……。耳を、「これは、わたしのものである……。鼻を、「これは、わたしのものである……。舌を、「これは、わたしのものである……。身を、「これは、わたしのものである……。意を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。諸々の形態を、「これは、わたしのものである……。諸々の音声を、「これは、わたしのものである……。諸々の臭香“におい”を、「これは、わたしのものである……。諸々の味感“あじわい”を、「これは、わたしのものである……。諸々の感触を、「これは、わたしのものである……。諸々の法(意の対象)を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。【136】眼の識別〔作用〕を、「これは、わたしのものである……。耳の識別〔作用〕を、「これは、わたしのものである……。鼻の識別〔作用〕を、「これは、わたしのものである……。舌の識別〔作用〕を、「これは、わたしのものである……。身の識別〔作用〕を、「これは、わたしのものである……。意の識別〔作用〕を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。眼の接触を、「これは、わたしのものである……。耳の接触を、「これは、わたしのものである……。鼻の接触を、「これは、わたしのものである……。舌の接触を、「これは、わたしのものである……。身の接触を、「これは、わたしのものである……。意の接触を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。眼の接触から生じる感受を、「これは、わたしのものである……。耳の接触から生じる感受を、「これは、わたしのものである……。鼻の接触から生じる感受を、「これは、わたしのものである……。舌の接触から生じる感受を、「これは、わたしのものである……。身の接触から生じる感受を、「これは、わたしのものである……。意の接触から生じる感受を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。


 [718]形態の表象を、「これは、わたしのものである……。音声の表象を、「これは、わたしのものである……。臭香の表象を、「これは、わたしのものである……。味感の表象を、「これは、わたしのものである……。感触の表象を、「これは、わたしのものである……。法(意の対象)の表象を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。形態の思欲を、「これは、わたしのものである……。音声の思欲を、「これは、わたしのものである……。臭香の思欲を、「これは、わたしのものである……。味感の思欲を、「これは、わたしのものである……。感触の思欲を、「これは、わたしのものである……。法(意の対象)の思欲を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。形態の渇愛を、「これは、わたしのものである……。音声の渇愛を、「これは、わたしのものである……。臭香の渇愛を、「これは、わたしのものである……。味感の渇愛を、「これは、わたしのものである……。感触の渇愛を、「これは、わたしのものである……。法(意の対象)の渇愛を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。形態の思考を、「これは、わたしのものである……。音声の思考を、「これは、わたしのものである……。臭香の思考を、「これは、わたしのものである……。味感の思考を、「これは、わたしのものである……。感触の思考を、「これは、わたしのものである……。法(意の対象)の思考を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。形態の想念を、「これは、わたしのものである……。音声の想念を、「これは、わたしのものである……。臭香の想念を、「これは、わたしのものである……。味感の想念を、「これは、わたしのものである……。感触の想念を、「これは、わたしのものである……。法(意の対象)の想念を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。


 [719]地の界域を、「これは、わたしのものである……。水の界域を、「これは、わたしのものである……。火の界域を、「これは、わたしのものである……。風の界域を、「これは、わたしのものである……。虚空の界域を、「これは、わたしのものである……。識別〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。地の遍満を、「これは、わたしのものである……。水の遍満を……。火の遍満を……。風の遍満を……。青の遍満を……。黄の遍満を……。赤の遍満を……。白の遍満を……。虚空の遍満を……。識別〔作用〕の遍満を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。


 [720]髪を、「これは、わたしのものである……。毛を、「これは、わたしのものである……。爪を、「これは、わたしのものである……。【137】歯を、「これは、わたしのものである……。皮膚を、「これは、わたしのものである……。肉を、「これは、わたしのものである……。腱を、「これは、わたしのものである……。骨を、「これは、わたしのものである……。骨髄を、「これは、わたしのものである……。腎臓を、「これは、わたしのものである……。心臓を、「これは、わたしのものである……。肝臓を、「これは、わたしのものである……。肋膜を、「これは、わたしのものである……。脾臓を、「これは、わたしのものである……。肺臓を、「これは、わたしのものである……。腸を、「これは、わたしのものである……。腸間膜を、「これは、わたしのものである……。胃物を、「これは、わたしのものである……。糞を、「これは、わたしのものである……。胆汁を、「これは、わたしのものである……。痰を、「これは、わたしのものである……。膿を、「これは、わたしのものである……。血を、「これは、わたしのものである……。汗を、「これは、わたしのものである……。脂肪を、「これは、わたしのものである……。涙を、「これは、わたしのものである……。膏“あぶら”を、「これは、わたしのものである……。唾液を、「これは、わたしのものである……。鼻水を、「これは、わたしのものである……。髄液を、「これは、わたしのものである……。尿を、「これは、わたしのものである……。脳味噌を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。


 [721]眼の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである……。形態の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである……。耳の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである……。音声の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである……。鼻の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである……。臭香の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである……。舌の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである……。味感の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである……。身の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである……。感触の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである……。意の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである……。法(意の対象)の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである……。


 [722]眼の界域を、「これは、わたしのものである……。形態の界域を、「これは、わたしのものである……。眼の識別〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである……。耳の界域を、「これは、わたしのものである……。音声の界域を、「これは、わたしのものである……。耳の識別〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである……。鼻の界域を、「これは、わたしのものである……。臭香の界域を、「これは、わたしのものである……。鼻の識別〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである……。舌の界域を、「これは、わたしのものである……。味感の界域を、「これは、わたしのものである……。舌の識別〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである……。身の界域を、「これは、わたしのものである……。感触の界域を、「これは、わたしのものである……。身の識別〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである……。意の界域を、「これは、わたしのものである……。法(意の対象)の界域を、「これは、わたしのものである……。意の識別〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。


 [723]眼の機能を、「これは、わたしのものである……。耳の機能を、「これは、わたしのものである……。鼻の機能を、「これは、わたしのものである……。舌の機能を、「これは、わたしのものである……。身の機能を、「これは、わたしのものである……。意の機能を、「これは、わたしのものである……。生命の機能を、「これは、わたしのものである……。女の機能を、「これは、わたしのものである……。男の機能を、「これは、わたしのものである……。安楽の機能を、「これは、わたしのものである……。苦痛の機能を、「これは、わたしのものである……。悦意の機能を、「これは、わたしのものである……。失意の機能を、「これは、わたしのものである……。放捨の機能を、「これは、わたしのものである……。信の機能を、「これは、わたしのものである……。精進の機能を、「これは、わたしのものである……。気づきの機能を、「これは、わたしのものである……。〔心の〕統一の機能を、「これは、わたしのものである……。知慧の機能を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。


 [724]欲望の界域を、「これは、わたしのものである……。形態の界域を、「これは、わたしのものである……。形態なき界域を、「これは、わたしのものである……。欲望の生存を、「これは、わたしのものである……。形態の生存を、「これは、わたしのものである……。形態なき生存を、「これは、わたしのものである……。表象の生存を、「これは、わたしのものである……。【138】表象なき生存を、「これは、わたしのものである……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存を、「これは、わたしのものである……。一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)を、「これは、わたしのものである……。四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)を、「これは、わたしのものである……。五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)を、「これは、わたしのものである……。第一の瞑想を、「これは、わたしのものである……。第二の瞑想を、「これは、わたしのものである……。第三の瞑想を、「これは、わたしのものである……。第四の瞑想を、「これは、わたしのものである……。慈愛“おもいやり”という〔寂止の〕心による解脱を、「これは、わたしのものである……。慈悲“いたわり”という〔寂止の〕心による解脱を、「これは、わたしのものである……。歓喜“わかちあい”という〔寂止の〕心による解脱を、「これは、わたしのものである……。放捨“おのずから”という〔寂止の〕心による解脱を、「これは、わたしのものである……。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定を、「これは、わたしのものである……。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定を、「これは、わたしのものである……。無所有なる〔認識の〕場所への入定を、「これは、わたしのものである……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。


 [725]無明を、「これは、わたしのものである……。諸々の形成〔作用〕を、「これは、わたしのものである……。識別〔作用〕を、「これは、わたしのものである……。名前と形態を、「これは、わたしのものである……。六つの〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである……。接触を、「これは、わたしのものである……。感受を、「これは、わたしのものである……。渇愛を、「これは、わたしのものである……。執取を、「これは、わたしのものである……。生存を、「これは、わたしのものである……。生を、「これは、わたしのものである……。老と死を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への執着が、見解となる。このように、固着への執着が、見解となる。




124.




 [726](2)どのような八つの見解の拠点(直接原因)があるのか。諸々の範疇もまた、見解の拠点となる。無明もまた、見解の拠点となる。接触もまた、見解の拠点となる。表象もまた、見解の拠点となる。思考もまた、見解の拠点となる。根源“あり”のままに意“おもい”を為さないこともまた、見解の拠点となる。悪しき朋友もまた、見解の拠点となる。他者からの声もまた、見解の拠点となる。


 [727]諸々の範疇が因となり、諸々の範疇が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、諸々の範疇もまた、見解の拠点となる。


 [728]無明が因となり、無明が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するもの義(意味)によって、このように、無明もまた、見解の拠点となる。


 [729]接触が因となり、接触が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、接触もまた、見解の拠点となる。


 [730]表象が因となり、表象が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、表象もまた、見解の拠点となる。


 [731]思考が因となり、思考が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、思考もまた、見解の拠点となる。


 [732]根源“あり”のままに意“おもい”を為さないことが因となり、根源のままに意を為さないことが縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、根源のままに意を為さないこともまた、見解の拠点となる。


 [733]悪しき朋友が因となり、悪しき朋友が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、悪しき朋友もまた、見解の拠点となる。


 [734]他者からの声が因となり、他者からの声が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、他者からの声もまた、見解の拠点となる。これらの八の見解の拠点がある。




125.




 [735](3)どのような十八の見解の妄執があるのか。それが、見解であるとして、見解の成立(悪見)、見解の捕捉、見解の難所、見解の演芸、見解の騒動、見解の束縛、見解の矢、見解の煩雑、見解の障害、見解の結縛、見解の深淵、見解の悪習、見解の熱苦、見解の苦悶、見解の拘束、見解の執取、見解の固着、見解の執着、これらの十八の見解の妄執がある。




126.




 [736]【139】(4)どのような十六の見解があるのか。悦楽の見解、自己についての誤った見解、誤った見解(邪見)、身体が有るという見解(有身見)、身体が有るという〔思い〕を基盤(根拠)とする常恒の見解(常見:常住論)、身体が有るという〔思い〕を基盤とする断絶の見解(断見:断絶論)、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解、過去の極(前際)についての誤った見解、未来の極(後際)についての誤った見解、束縛するものとしての見解、「わたしである」という思量の結縛としての見解、「わたしのものである」という思量の結縛としての見解、自己の論と結び付いた見解、世〔界〕の論と結び付いた見解、生存の見解(有見:実体論)、非生存の見解(非有見:虚無論)、これらの十六の見解がある。




127.




 [737](5)どのような三百の見解の固着があるのか。悦楽の見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。自己についての誤った見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。誤った見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。身体が有るという見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。身体が有るという〔思い〕を基盤とする常恒の見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。身体が有るという〔思い〕を基盤とする断絶の見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。過去の極についての誤った見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。未来の極についての誤った見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。束縛するものとしての見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。「わたしである」という思量の結縛としての見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。「わたしのものである」という思量の結縛としての見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。自己の論と結び付いた見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。世〔界〕の論と結び付いた見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。生存の見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。非生存の見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。


 [738](5―1)悦楽の見解のばあい、三十五の行相によって、固着と成る。(5―2)自己についての誤った見解のばあい、二十の行相によって、固着と成る。(5―3)誤った見解のばあい、十の行相によって、固着と成る。(5―4)身体が有るという見解のばあい、二十の行相によって、固着と成る。(5―5)身体が有るという〔思い〕を基盤(根拠)とする常恒の見解のばあい、十五の行相によって、固着と成る。(5―6)身体が有るという〔思い〕を基盤とする断絶の見解のばあい、五つの行相によって、固着と成る。(5―7)〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、五十の行相によって、固着と成る。(5―8)過去の極についての誤った見解のばあい、十八の行相によって、固着と成る。(5―9)未来の極についての誤った見解のばあい、四十四の行相によって、固着と成る。(5―10)束縛するものとしての見解のばあい、十八の行相によって、固着と成る。(5―11)「わたしである」という思量の結縛としての見解のばあい、十八の行相によって、固着と成る。(5―12)「わたしのものである」という思量の結縛としての見解のばあい、十八の行相によって、固着と成る。(5―13)自己の論と結び付いた見解のばあい、二十の行相によって、固着と成る。【140】(5―14)世〔界〕の論と結び付いた見解のばあい、八の行相によって、固着と成る。(5―15)生存の見解のばあい、一つの行相によって、固着と成る。(5―16)非生存の見解のばあい、一つの行相によって、固着と成る。




1.2.1 悦楽の見解についての釈示




128.




 [739]悦楽の見解のばあい、どのような三十五の行相によって、固着と成るのか。(1)それが、形態を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、「これは、形態の、悦楽である」と、固着への執着が、見解となる。見解は、悦楽にあらず。悦楽は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、悦楽がある(両者は別個のものである)。それが、見解としてもあり、それが、悦楽としてもあるなら、これが、悦楽の見解と説かれる。


 [740]悦楽の見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。その見解の衰滅を具備した人は、見解が衰滅した者である。見解が衰滅した人は、慣れ親しむべきではなく、親しくするべきではなく、奉侍するべきではない。それは、何を因としてか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであるからである。それが、見解にたいする貪欲であるなら、それは、見解にあらず。見解は、貪欲にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、貪欲がある。それが、見解としてもあり、それが、貪欲としてもあるなら、これが、見解の貪欲と説かれる。その見解と、その貪欲とを、〔両者を〕具備した人は、見解の貪欲に染まった者である。見解の貪欲に染まった人に施された布施は、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成ら〕ない。それは、何を因としてか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであり、悦楽の見解であり、誤った見解であるからである。


 [741]誤った見解の人士たる人には、二つの〔死後の〕境遇(趣)がある。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎である。誤った見解の人士たる人には、見解のとおりに完結され受持された、まさしく、その身体の行為(身業)と……略……その言葉の行為(口業)と、見解のとおりに完結され受持された、その意“こころ”の行為(意業)と、その思欲と、その切望と、その切願と、それらの諸々の形成〔作用〕(行:意志・衝動)とであるが、それらの諸法(性質)は、〔その〕全てが、好ましくないもののために〔転起し〕、欲せられないもののために〔転起し〕、意に適わないもののために〔転起し〕、益ならざるもののために〔転起し〕、苦痛のために転起する。それは、何を因としてか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであるからである。それは、たとえば、また、あるいは、ニンバの種が、あるいは、コーサータキーの種が、あるいは、ティッタカーラーブの種が、水気のある地に置かれ、まさしく、しかして、その地の味を執取するとして、さらには、その【141】水の味を執取するとして、その全ては、苦きことのために〔転起し〕、辛きことのために〔転起し〕、不快なることのために転起するように――それは、何を因としてか。なぜなら、その種は、悪しきものであるからである――まさしく、このように、誤った見解の人士たる人には、見解のとおりに完結され受持された、まさしく、その身体の行為と……略……その言葉の行為と、見解のとおりに完結され受持された、その意の行為と、その思欲と、その切望と、その切願と、それらの諸々の形成〔作用〕とであるが、それらの諸法(性質)は、〔その〕全てが、好ましくないもののために〔転起し〕、欲せられないもののために〔転起し〕、意に適わないもののために〔転起し〕、益ならざるもののために〔転起し〕、苦痛のために転起する。それは、何を因としてか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであり、悦楽の見解であり、誤った見解であるからである。


 [742]誤った見解は、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の演芸、見解の騒動、見解の束縛、見解の矢、見解の煩雑、見解の障害、見解の結縛、見解の深淵、見解の悪習、見解の熱苦、見解の苦悶、見解の拘束、見解の執取、見解の固着、見解の執着である。これらの十八の行相によって、心が妄執された者には、束縛がある。




129.




 [743]まさしく、しかして、諸々の束縛するものであり、かつまた、諸々の見解でもあるものが存在する。諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではないものが存在する。


 [744]どのようなものが、まさしく、しかして、諸々の束縛するものであり、かつまた、諸々の見解でもあるのか。身体が有るという見解(有身見)、戒や掟への執着(戒禁取)である。これらが、まさしく、しかして、諸々の束縛するものであり、かつまた、諸々の見解でもある。


 [745]どのようなものが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではないのか。欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの、憤激〔の思い〕という束縛するもの、思量“おれがわたしが”〔の思い〕という束縛するもの、疑惑〔の思い〕という束縛するもの、生存にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの、嫉妬〔の思い〕という束縛するもの、物惜しみ〔の思い〕という束縛するもの、悪習という束縛するもの、無明〔の思い〕という束縛するものである。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [746](2)それが、感受〔作用〕を縁として……略……。(3)それが、表象〔作用〕を縁として……略……。(4)それが、諸々の形成〔作用〕を縁として……略……。(5)それが、識別〔作用〕を縁として……。(6)それが、眼を縁として……。(7)それが、耳を縁として……。(8)それが、鼻を縁として……。(9)それが、舌を縁として……。(10)それが、身を縁として……。(11)それが、意を縁として……。(12)それが、諸々の形態を縁として……。(13)それが、諸々の音声を縁として……。(14)それが、諸々の臭香を縁として……。(15)それが、諸々の味感を縁として……。(16)それが、諸々の感触を縁として……。(17)それが、諸々の法(意の対象)を縁として……。(18)それが、眼の識別〔作用〕を縁として……。(19)それが、耳の識別〔作用〕を縁として……。(20)それが、鼻の識別〔作用〕を縁として……。(21)それが、舌の識別〔作用〕を縁として……。(22)それが、身の識別〔作用〕を縁として……。(23)それが、意の識別〔作用〕を縁として……。(24)それが、眼の接触を縁として……。(25)それが、耳の接触を縁として……。(26)それが、鼻の接触を縁として……。(27)それが、舌の接触を縁として……。(28)それが、身の接触を縁として……。(29)それが、意の接触を縁として……。(30)それが、眼の接触から生じる感受を縁として……。(31)それが、耳の接触から生じる感受を縁として……。(32)それが、鼻の接触から生じる感受を縁として……。(33)それが、舌の接触から生じる感受を縁として……。(34)それが、身の接触から生じる感受を縁として……。(35)それが、意の接触から生じる感受を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、「これは、形態の、悦楽である」と、固着への執着が、見解となる。見解は、悦楽にあらず。悦楽は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、悦楽がある(両者は別個のものである)。それが、見解としてもあり、それが、悦楽としてもあるなら、【142】これが、悦楽の見解と説かれる。


 [747]悦楽の見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。その見解の衰滅を具備した人は、見解が衰滅した者である。見解が衰滅した人は、慣れ親しむべきではなく、親しくするべきではなく、奉侍するべきではない。それは、何を因としてか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであるからである。それが、見解にたいする貪欲であるなら、それは、見解にあらず。見解は、貪欲にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、貪欲がある。それが、見解としてもあり、それが、貪欲としてもあるなら、これが、見解の貪欲と説かれる。その見解と、その貪欲とを、〔両者を〕具備した人は、見解の貪欲に染まった者である。見解の貪欲に染まった人に施された布施は、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成ら〕ない。それは、何を因としてか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであり、悦楽の見解であり、誤った見解であるからである。


 [748]誤った見解の人士たる人には、二つの〔死後の〕境遇がある。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎である。誤った見解の人士たる人には、見解のとおりに完結され受持された、まさしく、その身体の行為と……略……その言葉の行為と、見解のとおりに完結され受持された、その意の行為と、その思欲と、その切望と、その切願と、それらの諸々の形成〔作用〕とであるが、それらの諸法(性質)は、〔その〕全てが、好ましくないもののために〔転起し〕、欲せられないもののために〔転起し〕、意に適わないもののために〔転起し〕、益ならざるもののために〔転起し〕、苦痛のために転起する。それは、何を因としてか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであるからである。それは、たとえば、また、あるいは、ニンバの種が、あるいは、コーサータキーの種が、あるいは、ティッタカーラーブの種が、水気のある地に置かれ、まさしく、しかして、その地の味を執取するとして、さらには、その水の味を執取するとして、その全ては、苦きことのために〔転起し〕、辛きことのために〔転起し〕、不快なることのために転起するように――それは、何を因としてか。なぜなら、なぜなら、その種は、悪しきものであるからである――まさしく、このように、誤った見解の人士たる人には、見解のとおりに完結され受持された、まさしく、その身体の行為と……略……その言葉の行為と、見解のとおりに完結され受持された、その意の行為と、その思欲と、その切望と、その切願と、それらの諸々の形成〔作用〕とであるが、それらの諸法(性質)は、〔その〕全てが、好ましくないもののために〔転起し〕、欲せられないもののために〔転起し〕、意に適わないもののために〔転起し〕、益ならざるもののために〔転起し〕、苦痛のために転起する。それは、何を因としてか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであり、悦楽の見解であり、誤った見解であるからである。


 [749]誤った見解は、見解の成立、見解の捕捉【143】……略……見解の固着、見解の執着である。これらの十八の行相によって、心が妄執された者には、束縛がある。


 [750]まさしく、しかして、諸々の束縛するものであり、かつまた、諸々の見解でもあるものが存在する。諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではないものが存在する。どのようなものが、まさしく、しかして、諸々の束縛するものであり、かつまた、諸々の見解でもあるのか。身体が有るという見解(有身見)、戒や掟への執着(戒禁取)である。これらが、まさしく、しかして、諸々の束縛するものであり、かつまた、諸々の見解でもある。どのようなものが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではないのか。欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの、憤激〔の思い〕という束縛するもの、思量“おれがわたしが”〔の思い〕という束縛するもの、疑惑〔の思い〕という束縛するもの、生存にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの、嫉妬〔の思い〕という束縛するもの、物惜しみ〔の思い〕という束縛するもの、悪習という束縛するもの、無明〔の思い〕という束縛するものである。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。悦楽の見解のばあい、これらの三十五の行相によって、固着と成る。


 [751]悦楽の見解についての釈示が、第一となる。




1.2.2 自己についての誤った見解についての釈示




130.




 [752]自己についての誤った見解のばあい、どのような二十の行相によって、固着と成るのか。ここに、無聞の凡夫が、聖者たちへの見なく、聖者の法(真理)に熟知なく、聖者の法(真理)に教え導かれず、正しい人たちへの見なく、正しい人の法(真理)に熟知なく、正しい人の法(真理)に教え導かれず、(1)形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観し(偏見のとおりに見る)、(2)あるいは、形態あるものを、自己と〔偏見のままに等しく随観し〕(自己である、と錯視する)、(3)あるいは、自己のうちに、形態を〔偏見のままに等しく随観し〕、(4)あるいは、形態のうちに、自己を〔偏見のままに等しく随観する〕。(5)感受〔作用〕を……略……。(9)表象〔作用〕を……略……。(13)諸々の形成〔作用〕を……略……。(17)識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観し、(18)あるいは、識別〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに等しく随観し〕、(19)あるいは、自己のうちに、識別〔作用〕を〔偏見のままに等しく随観し〕、(20)あるいは、識別〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに等しく随観する〕。




131.




 [753](1)どのように、形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、地の遍満を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、地の遍満であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、地の遍満である」と、地の遍満と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、【144】それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、炎と、色とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、地の遍満を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、地の遍満であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、地の遍満である」と、地の遍満と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある(両者は別個のものである)。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、形態を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である……略……自己についての誤った見解であり、誤った見解であるからである。誤った見解の人士たる人には、二つの〔死後の〕境遇がある……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [754]ここに、一部の者が、水の遍満を……火の遍満を……風の遍満を……青の遍満を……黄の遍満を……赤の遍満を……白の遍満を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、白の遍満であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、白の遍満である」と、白の遍満と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、炎と、色とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が……略……白の遍満と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、形態を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [755](2)どのように、形態あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この形態によって、形態あるものとなる」と、形態あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、木が、影を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、木である。これは、影である。他なるものとして、木があり、他なるものとして、影がある。また、まさに、その、この木は、この影によって、影あるものとなる」と、影あるものを、木と〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この形態によって、形態あるものとなる」と、形態あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第二の、形態を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、形態あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [756]【145】(3)どのように、自己のうちに、形態を〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。しかして、また、この自己のうちに、この形態がある」と、自己のうちに、形態を〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、花が、香を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、花である。これは、香である。他なるものとして、花があり、他なるものとして、香がある。また、まさに、その、この香は、この花のうちにある」と、花のうちに、香を〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。しかして、また、この自己のうちに、この形態がある」と、自己のうちに、形態を〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第三の、形態を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、自己のうちに、形態を〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [757](4)どのように、形態のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この形態のうちにある」と、形態のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、宝珠が、箱のうちに置かれたものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、宝珠である。これは、箱である。他なるものとして、宝珠があり、他なるものとして、箱がある。また、まさに、その、この宝珠は、この箱のうちにある」と、箱のうちに、宝珠を〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この形態のうちにある」と、形態のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第四の、形態を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、形態のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観する。




132.




 [758](5)どのように、感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、眼の接触から生じる感受を……耳の接触から生じる感受を……鼻の接触から生じる感受を……舌の接触から生じる感受を……身の接触から生じる感受を……意の接触から生じる感受を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、【146】意の接触から生じる感受であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の接触から生じる感受である」と、意の接触から生じる感受と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、炎と、色とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、意の接触から生じる感受を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、意の接触から生じる感受であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の接触から生じる感受である」と、意の接触から生じる感受と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、感受〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [759](6)どのように、感受〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を……形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この感受〔作用〕によって、感受〔作用〕あるものとなる」と、感受〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、木が、影を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、木である。これは、影である。他なるものとして、木があり、他なるものとして、影がある。また、まさに、その、この木は、この影によって、影あるものとなる」と、影あるものを、木と〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を……形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この感受〔作用〕によって、感受〔作用〕あるものとなる」と、感受〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第二の、感受〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、感受〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [760](7)どのように、自己のうちに、感受〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を……形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。しかして、また、この自己のうちに、この感受〔作用〕がある」と、自己のうちに、感受〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、花が、香を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、花である。これは、香である。他なるものとして、花があり、他なるものとして、香がある。また、まさに、その、この香は、この花のうちにある」と、花のうちに、香を〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を……形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。しかして、また、この自己のうちに、この感受〔作用〕がある」と、自己のうちに、感受〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第三の、感受〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、自己のうちに、感受〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [761](8)どのように、感受〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を……形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この感受〔作用〕のうちにある」と、感受〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、宝珠が、箱のうちに置かれたものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、宝珠である。これは、箱である。他なるものとして、宝珠があり、他なるものとして、箱がある。また、まさに、その、この宝珠は、この箱のうちにある」と、箱のうちに、宝珠を〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を……形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この感受〔作用〕のうちにある」と、感受〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第四の、感受〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、感受〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観する。




133.




 [762](9)どのように、表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、眼の接触から生じる表象を……耳の接触から生じる表象を……鼻の接触から生じる表象を……舌の接触から生じる表象を……身の接触から生じる表象を……意の接触から生じる表象を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、意の接触から生じる表象であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の接触から生じる表象である」と、意の接触から生じる表象と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、炎と、色とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、意の接触から生じる表象を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、意の接触から生じる表象であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の接触から生じる表象である」と、意の接触から生じる表象と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、表象〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり……略……。これらが、【147】諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [763](10)どのように、表象〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この表象〔作用〕によって、表象〔作用〕あるものとなる」と、表象〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、木が、影を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、木である。これは、影である。他なるものとして、木があり、他なるものとして、影がある。また、まさに、その、この木は、この影によって、影あるものとなる」と、影あるものを、木と〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この表象〔作用〕によって、表象〔作用〕あるものとなる」と、表象〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第二の、表象〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、表象〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [764](11)どのように、自己のうちに、表象〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。しかして、また、この自己のうちに、この表象〔作用〕がある」と、自己のうちに、表象〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、花が、香を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、花である。これは、香である。他なるものとして、花があり、他なるものとして、香がある。また、まさに、その、この香は、この花のうちにある」と、花のうちに、香を〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。しかして、また、この自己のうちに、この表象〔作用〕がある」と、自己のうちに、表象〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第三の、表象〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、自己のうちに、表象〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [765](12)どのように、表象〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この表象〔作用〕のうちにある」と、表象〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、宝珠が、箱のうちに置かれたものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、宝珠である。これは、箱である。他なるものとして、宝珠があり、他なるものとして、箱がある。また、まさに、その、この宝珠は、この箱のうちにある」と、箱のうちに、宝珠を〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この表象〔作用〕のうちにある」と、表象〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第四の、表象〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、表象〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観する。




134.




 [766](13)どのように、諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、眼の接触から生じる思欲を……耳の接触から生じる思欲を……鼻の接触から生じる思欲を……舌の接触から生じる思欲を……身の接触から生じる思欲を……意の接触から生じる思欲を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、意の接触から生じる思欲であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の接触から生じる思欲である」と、意の接触から生じる思欲と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、炎と、色とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、意の接触から生じる思欲を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、意の接触から生じる思欲であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の接触から生じる思欲である」と、意の接触から生じる思欲と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、諸々の形成〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [767](14)どのように、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、識別〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、これらの諸々の形成〔作用〕によって、諸々の形成〔作用〕あるものとなる」と、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、木が、影を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、木である。これは、影である。他なるものとして、木があり、他なるものとして、影がある。また、まさに、その、この木は、この影によって、影あるものとなる」と、影あるものを、木と〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、識別〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、これらの諸々の形成〔作用〕によって、諸々の形成〔作用〕あるものとなる」と、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第二の、諸々の形成〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [768]【148】(15)どのように、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、識別〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。しかして、また、この自己のうちに、これらの諸々の形成〔作用〕がある」と、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、花が、香を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、花である。これは、香である。他なるものとして、花があり、他なるものとして、香がある。また、まさに、その、この香は、この花のうちにある」と、花のうちに、香を〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、識別〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。しかして、また、この自己のうちに、これらの諸々の形成〔作用〕がある」と、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第三の、諸々の形成〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [769](16)どのように、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、識別〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、これらの諸々の形成〔作用〕のうちにある」と、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、宝珠が、箱のうちに置かれたものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、宝珠である。これは、箱である。他なるものとして、宝珠があり、他なるものとして、箱がある。また、まさに、その、この宝珠は、この箱のうちにある」と、箱のうちに、宝珠を〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、識別〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、これらの諸々の形成〔作用〕のうちにある」と、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第四の、諸々の形成〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観する。




135.




 [770](17)どのように、識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、眼の識別〔作用〕を……耳の識別〔作用〕を……鼻の識別〔作用〕を……舌の識別〔作用〕を……身の識別〔作用〕を……意の識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、意の識別〔作用〕であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の識別〔作用〕である」と、意の識別〔作用〕と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、炎と、色とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、意の識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、意の識別〔作用〕であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の識別〔作用〕である」と、意の識別〔作用〕と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、識別〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [771](18)どのように、識別〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この識別〔作用〕によって、識別〔作用〕あるものとなる」と、識別〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、木が、影を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、木である。これは、影である。他なるものとして、木があり、他なるものとして、影がある。また、まさに、その、この木は、この影によって、影あるものとなる」と、影あるものを、木と〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この識別〔作用〕によって、識別〔作用〕あるものとなる」と、識別〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第二の、識別〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、識別〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [772](19)どのように、自己のうちに、識別〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。しかして、また、この自己のうちに、この識別〔作用〕がある」と、自己のうちに、識別〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、花が、香を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、花である。これは、香である。他なるものとして、花があり、他なるものとして、香がある。また、まさに、その、この香は、この花のうちにある」と、花のうちに、香を〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。しかして、また、この自己のうちに、この識別〔作用〕がある」と、自己のうちに、識別〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第三の、識別〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、自己のうちに、識別〔作用〕を〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [773](20)どのように、識別〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この識別〔作用〕のうちにある」と、識別〔作用〕のうちに、【149】自己を〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、宝珠が、箱のうちに置かれたものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、宝珠である。これは、箱である。他なるものとして、宝珠があり、他なるものとして、箱がある。また、まさに、その、この宝珠は、この箱のうちにある」と、箱のうちに、宝珠を〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この識別〔作用〕のうちにある」と、識別〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観し、固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第四の、識別〔作用〕を基盤とする、自己についての誤った見解となる。自己についての誤った見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、識別〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに〕等しく随観する。自己についての誤った見解のばあい、これらの二十の行相によって、固着と成る。


 [774]自己についての誤った見解についての釈示が、第二となる。




1.2.3 誤った見解についての釈示




136.




 [775]誤った見解のばあい、どのような十の行相によって、固着と成るのか。(1)「施されたものは、存在しない」という基盤があり、このような論があり、誤った固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、誤った〔論〕を基盤とする、誤った見解となる。〔それは〕誤った見解であり、見解の衰滅である……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。(2)「祭祀されたものは、存在しない」という基盤があり……略……。(3)「捧げられたものは、存在しない」という基盤があり……。(4)「諸々の為した善〔の行為〕と為した悪の行為の果たる報いは、存在しない」という基盤があり……。(5)「この世は、存在しない」という基盤があり……。(6)「他世は、存在しない」という基盤があり……。(7)「母は、存在しない」という基盤があり……。(8)「父は、存在しない」という基盤があり……。(9)「化生の有情たちは、存在しない」という基盤があり……。(10)「彼ら、この世をも、他世をも、自ら、証知して、実証して〔そののち〕、〔他に〕知らせる者たちである、正しい在り方の者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは、世において、存在しない」という基盤があり、このような論があり、誤った固着への執着が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第十の、誤った〔論〕を基盤とする、誤った見解となる。〔それは〕誤った見解であり、見解の衰滅である……略……誤った見解の人士たる人には、二つの〔死後の〕境遇がある……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。誤った見解のばあい、これらの十の行相によって、固着と成る。


 [776]誤った見解についての釈示が、第三となる。




1.2.4 身体が有るという見解についての釈示




137.




 [777]身体が有るという見解のばあい、どのような二十の行相によって、固着と成るのか。ここに、無聞の凡夫が、聖者たちへの見なく、聖者の法(真理)に熟知なく、聖者の法(真理)に教え導かれず、正しい人たちへの見なく、正しい人の法(真理)に熟知なく、正しい人の法(真理)に教え導かれず、(1)形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観し(偏見のとおりに見る)、(2)あるいは、形態あるものを、自己と〔偏見のままに等しく随観し〕(自己である、と錯視する)、(3)あるいは、自己のうちに、形態を〔偏見のままに等しく随観し〕、(4)あるいは、形態のうちに、自己を〔偏見のままに等しく随観する〕。(5)感受〔作用〕を……。(9)表象〔作用〕を……。(13)諸々の形成〔作用〕を……。(17)識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観し、(18)あるいは、識別〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに等しく随観し〕、(19)あるいは、自己のうちに、識別〔作用〕を〔偏見のままに等しく随観し〕、(20)あるいは、識別〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに等しく随観する〕。


 [778]どのように、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、地の遍満を……略……白の遍満を、【150】自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、白の遍満であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、白の遍満である」と、白の遍満と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると……略……まさしく、このように、ここに、白の遍満を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。固着への執着が、見解となる……略……これが、第一の、形態を基盤とする、身体が有るという見解となる。身体が有るという見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する……略……。身体が有るという見解のばあい、これらの二十の行相によって、固着と成る。


 [779]身体が有るという見解についての釈示が、第四となる。




1.2.5 身体が有るという〔思い〕を基盤とする常恒の見解についての釈示




138.




 [780]身体が有るという〔思い〕を基盤とする常恒の見解のばあい、どのような十五の行相によって、固着と成るのか。ここに、無聞の凡夫が、聖者たちへの見なく、聖者の法(真理)に熟知なく、聖者の法(真理)に教え導かれず、正しい人たちへの見なく、正しい人の法(真理)に熟知なく、正しい人の法(真理)に教え導かれず、(1)あるいは、形態あるものを、自己と〔偏見のままに等しく随観し〕、(2)あるいは、自己のうちに、形態を〔偏見のままに等しく随観し〕、(3)あるいは、形態のうちに、自己を〔偏見のままに等しく随観する〕。(4)あるいは、感受〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに等しく随観し〕……略……。(7)あるいは、表象〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに等しく随観し〕……。(10)あるいは、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに等しく随観し〕……。(13)あるいは、識別〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに等しく随観し〕、(14)あるいは、自己のうちに、識別〔作用〕を〔偏見のままに等しく随観し〕、(15)あるいは、識別〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに等しく随観する〕。


 [781]どのように、形態あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、その、わたしのこの自己は、この形態によって、形態あるものとなる」と、形態あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、木が、影を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、このことを、人が、このように説くであろうなら、〔すなわち〕「これは、木である。これは、影である。他なるものとして、木があり、他なるものとして、影がある。また、まさに、その、この木は、この影によって、影あるものとなる」と、影あるものを、木と〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……略……これが、第一の、身体が有るという〔思い〕を基盤とする常恒の見解となる。常恒の見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、形態あるものを、自己と〔偏見のままに〕等しく随観する……略……。身体が有るという〔思い〕を基盤とする常恒の見解のばあい、これらの十五の行相によって、固着と成る。


 [782]身体が有るという〔思い〕を基盤とする常恒の見解についての釈示が、第五となる。




1.2.6 身体が有るという〔思い〕を基盤とする断絶の見解についての釈示




139.




 [783]身体が有るという〔思い〕を基盤とする断絶の見解のばあい、どのような五つの行相によって、固着と成るのか。ここに、無聞の凡夫が、聖者たちへの見なく、聖者の法(真理)に熟知なく、聖者の法(真理)に教え導かれず、正しい人たちへの見なく、正しい人の法(真理)に熟知なく、正しい人の法(真理)に教え導かれず、(1)形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観し、(2)感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観し、(3)表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観し、(4)諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観し、(5)識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。


 [784]どのように、形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観するのか。【151】ここに、一部の者が、地の遍満を……略……白の遍満を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、白の遍満であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、白の遍満である」と、白の遍満と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると……略……これが、第一の、身体が有るという〔思い〕を基盤とする断絶の見解となる。断絶の見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する……略……。身体が有るという〔思い〕を基盤とする断絶の見解のばあい、これらの五つの行相によって、固着と成る。


 [785]身体が有るという〔思い〕を基盤とする断絶の見解についての釈示が、第六となる。




1.2.7 〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解についての釈示




140.




 [786]〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どのような五十の行相によって、固着と成るのか。「世〔界〕は、常恒である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。「世〔界〕は、常恒ならざるものである」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。「世〔界〕は、終極がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい……。「世〔界〕は、終極がない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい……。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい……。「他のものとして生命があり、他のものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい……。「如来は、死後に有る」と……略……。「如来は、死後に有ることがない」と……。「如来は、死後に、有ることもあれば、有ることがないこともある」と……。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どれだけの行相によって、固着と成るのか。


 [787]「世〔界〕は、常恒である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、五つの行相によって、固着と成る……略……。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、五つの行相によって、固着と成る。


 [788]「世〔界〕は、常恒である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どのような五つの行相によって、固着と成るのか。(1)「形態は、まさしく、しかして、世〔界〕であり、さらには、常恒である」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、「世〔界〕は、常恒である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [789](2)「感受〔作用〕は、まさしく、しかして、世〔界〕であり、さらには、常恒である」と……略……。(3)「表象〔作用〕は、まさしく、しかして、世〔界〕であり、さらには、常恒である」と……略……。(4)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、しかして、世〔界〕であり、さらには、常恒である」と……略……。(5)「識別〔作用〕は、まさしく、しかして、世〔界〕であり、さらには、常恒である」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、【152】第五の、「世〔界〕は、常恒である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。「世〔界〕は、常恒である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、これらの五つの行相によって、固着と成る。


 [790]「世〔界〕は、常恒ならざるものである」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どのような五つの行相によって、固着と成るのか。(6)「形態は、まさしく、しかして、世〔界〕であり、さらには、常恒ならざるものである」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる……略……これが、第一の、「世〔界〕は、常恒ならざるものである」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [791](7)「感受〔作用〕は、まさしく、しかして、世〔界〕であり、さらには、常恒ならざるものである」と……略……。(8)「表象〔作用〕は、まさしく、しかして、世〔界〕であり、さらには、常恒ならざるものである」と……略……。(9)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、しかして、世〔界〕であり、さらには、常恒ならざるものである」と……略……。(10)「識別〔作用〕は、まさしく、しかして、世〔界〕であり、さらには、常恒ならざるものである」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる……略……。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。「世〔界〕は、常恒ならざるものである」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、これらの五つの行相によって、固着と成る。


 [792]「世〔界〕は、終極がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どのような五つの行相によって、固着と成るのか。(11)ここに、一部の者が、微小なる空間を、青なるもの〔の観点〕から充満する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「この世〔界〕は、円周があり、終極がある」と。〔彼は〕終極の表象ある者と成る。「それを充満するなら、まさしく、しかして、それは、基盤であり、さらには、世〔界〕である。それによって充満するなら、それは、まさしく、しかして、それは、自己であり、さらには、世〔界〕である」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、「世〔界〕は、終極がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [793](12)ここに、一部の者が、微小なる空間を、黄なるもの〔の観点〕から充満する……(13)赤なるもの〔の観点〕から充満する……(14)白なるもの〔の観点〕から充満する……(15)光なるもの〔の観点〕から充満する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「この世〔界〕は、円周があり、終極がある」と。〔彼は〕終極の表象ある者と成る。「それを充満するなら、まさしく、しかして、それは、基盤であり、さらには、世〔界〕である。それによって充満するなら、それは、まさしく、しかして、それは、自己であり、さらには、世〔界〕である」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる……略……。【153】「世〔界〕は、終極がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、これらの五つの行相によって、固着と成る。


 [794]「世〔界〕は、終極がない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どのような五つの行相によって、固着と成るのか。(16)ここに、一部の者が、広大なる空間を、青なるもの〔の観点〕から充満する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「この世〔界〕は、極限がなく、終極がない」と。〔彼は〕終極なき表象ある者と成る。「それを充満するなら、まさしく、しかして、それは、基盤であり、さらには、世〔界〕である。それによって充満するなら、それは、まさしく、しかして、それは、自己であり、さらには、世〔界〕である」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、「世〔界〕は、終極がない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [795](17)ここに、一部の者が、広大なる空間を、黄なるもの〔の観点〕から充満する……(18)赤なるもの〔の観点〕から充満する……(19)白なるもの〔の観点〕から充満する……(20)光なるもの〔の観点〕から充満する。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「この世〔界〕は、極限がなく、終極がない」と。〔彼は〕終極なき表象ある者と成る。「それを充満するなら、まさしく、しかして、それは、基盤であり、さらには、世〔界〕である。それによって充満するなら、それは、まさしく、しかして、それは、自己であり、さらには、世〔界〕である」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる……略……。「世〔界〕は、終極がない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、これらの五つの行相によって、固着と成る。


 [796]「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どのような五つの行相によって、固着と成るのか。(21)「形態は、まさしく、しかして、生命であり、さらには、肉体である。それが、生命であるなら、それは、肉体である。それが、肉体であるなら、それは、生命である」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [797](22)「感受〔作用〕は、まさしく、しかして、生命であり、さらには、肉体である……。(23)「表象〔作用〕は、まさしく、しかして、生命であり、さらには、肉体である……。(24)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、しかして、生命であり、さらには、肉体である……。(25)「識別〔作用〕は、まさしく、しかして、生命であり、さらには、肉体である。それが、生命であるなら、それは、肉体である。それが、肉体であるなら、それは、生命である」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる……略……。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、これらの五つの行相によって、固着と成る。


 [798]「他のものとして生命があり、他のものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どのような五つの行相によって、固着と成るのか。(26)「形態は、肉体であり、生命ではない。生命は、肉体ではない。他のものとして生命があり、他のものとして肉体がある」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、「他のものとして生命があり、他のものとして肉体がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [799](27)「感受〔作用〕は、肉体であり、生命ではない……。(28)「表象〔作用〕は、肉体であり、生命ではない……。(29)「諸々の形成〔作用〕は、肉体であり、生命ではない……。(30)「識別〔作用〕は、肉体であり、生命ではない。生命は、肉体ではない。他のものとして生命があり、他のものとして肉体がある」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる……略……。【154】「他のものとして生命があり、他のものとして肉体がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、これらの五つの行相によって、固着と成る。


 [800]「如来は、死後に有る」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どのような五つの行相によって、固着と成るのか。(31)「形態は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来は、身体の破壊ののち、有りもまたするし、止住もまたするし、生起もまたするし、発現もまたする」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、「如来は、死後に有る」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [801](32)「感受〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である……略……。(33)「表象〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である……。(34)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である……。(35)「識別〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来は、身体の破壊ののち、有りもまたするし、止住もまたするし、生起もまたするし、発現もまたする」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる……略……。「如来は、死後に有る」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、これらの五つの行相によって、固着と成る。


 [802]「如来は、死後に有ることがない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どのような五つの行相によって、固着と成るのか。(36)「形態は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来もまた、身体の破壊ののち、断絶し、消失する。如来は、死後に有ることがない」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、「如来は、死後に有ることがない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [803](37)「感受〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である……。(38)「表象〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である……。(39)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である……。(40)「識別〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来もまた、身体の破壊ののち、断絶し、消失する。如来は、死後に有ることがない」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる……略……。「如来は、死後に有ることがない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、これらの五つの行相によって、固着と成る。


 [804]「如来は、死後に、有ることもあれば、有ることがないこともある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どのような五つの行相によって、固着と成るのか。(41)「形態は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来は、身体の破壊ののち、有ることもあれば、有ることがないこともある」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、「如来は、死後に、有ることもあれば、有ることがないこともある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [805](42)「感受〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である……。(43)「表象〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である……。(44)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である……。(45)「識別〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来は、身体の破壊ののち、有ることもあれば、有ることがないこともある」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる……略……。「如来は、死後に、有ることもあれば、有ることがないこともある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、これらの五つの行相によって、固着と成る。


 [806]「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない」と、【155】〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、どのような五つの行相によって、固着と成るのか。(46)「形態は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来は、身体の破壊ののち、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [807](47)「感受〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である……。(48)「表象〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である……。(49)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である……。(50)「識別〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来は、身体の破壊ののち、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない」と、固着への執着が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第五の、「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、これらの五つの行相によって、固着と成る。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、これらの五十の行相によって、固着と成る。


 [808]〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解についての釈示が、第七となる。




1.2.8 過去の極についての誤った見解についての釈示




141.




 [809]過去の極(前際)についての誤った見解のばあい、どのような十八の行相によって、固着と成るのか。四つの常恒の論があり、四つの一部常恒〔の論〕があり、四つの有極無極〔の論〕があり、四つの詭弁不当〔の論〕があり、二つの偶発生起〔の論〕がある。過去の極についての誤った見解のばあい、これらの十八の行相によって、固着と成る。


 [810]過去の極についての誤った見解についての釈示が、第八となる。




1.2.9 未来の極についての誤った見解についての釈示




142.




 [811]未来の極(後際)についての誤った見解のばあい、どのような四十四の行相によって、固着と成るのか。十六の表象ある論があり、八つの表象なき論があり、八つの表象あるにもあらず表象なきにもあらざる論があり、七つの断絶の論があり、五つの〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)における涅槃の論がある。未来の極についての誤った見解のばあい、これらの四十四の行相によって、固着と成る。


 [812]未来の極についての誤った見解についての釈示が、第九となる。




1.2.10 束縛するものとしての見解についての釈示




143.




 [813]束縛するものとしての見解のばあい、どのような十八の行相によって、固着と成るのか。それが、見解であるとして、見解の成立、見解の捕捉……略……見解の固着、見解の執着、束縛するものとしての見解のばあい、これらの十八の行相によって、固着と成る。


 [814]束縛するものとしての誤った見解についての釈示が、第十となる。




1.2.11 「わたしである」という思量の結縛としての見解についての釈示




144.




 [815]「わたしである」という思量の結縛としての見解のばあい、どのような十八の行相によって、固着と成るのか。(1)「眼は、わたしである」と、固着への執着が、「わたしである」という思量の結縛としての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある(両者は別個のものである)。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、【156】これが、第一の、「わたしである」という思量の結縛としての見解となる。「わたしである」という思量の結縛としての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [816](2)「耳は、わたしである」と……略……(3)「鼻は、わたしである」と……略……(4)「舌は、わたしである」と……略……(5)「身は、わたしである」と……略……(6)「意は、わたしである」と……略……(7)「諸々の形態は、わたしである」と……略……(12)「諸々の法(意の対象)は、わたしである」と……略……(13)「眼の識別〔作用〕は、わたしである」と……略……(18)「意の識別〔作用〕は、わたしである」と、固着への執着が、「わたしである」という思量の結縛としての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第十八の、「わたしである」という思量の結縛としての見解となる。「わたしである」という思量の結縛としての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。「わたしである」という思量の結縛としての見解のばあい、これらの十八の行相によって、固着と成る。


 [817]「わたしである」という思量の結縛としての見解についての釈示が、第十一となる。




1.2.12 「わたしのものである」という思量の結縛としての見解についての釈示




145.




 [818]「わたしのものである」という思量の結縛としての見解のばあい、どのような十八の行相によって、固着と成るのか。(1)「眼は、わたしのものである」と、固着への執着が、「わたしのものである」という思量の結縛としての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある(両者は別個のものである)。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、「わたしのものである」という思量の結縛としての見解となる。「わたしのものである」という思量の結縛としての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [819](2)「耳は、わたしのものである」と……略……(3)「鼻は、わたしのものである」と……略……(4)「舌は、わたしのものである」と……略……(5)「身は、わたしのものである」と……略……(6)「意は、わたしのものである」と……略……(7)「諸々の形態は、わたしのものである」と……略……(12)「諸々の法(意の対象)は、わたしのものである」と……略……(13)「眼の識別〔作用〕は、わたしのものである」と……略……(18)「意の識別〔作用〕は、わたしのものである」と、固着への執着が、「わたしのものである」という思量の結縛としての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第十八の、「わたしのものである」という思量の結縛としての見解となる。「わたしのものである」という思量の結縛としての見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。「わたしのものである」という思量の結縛としての見解のばあい、これらの十八の行相によって、固着と成る。


 [820]「わたしのものである」という思量の結縛としての見解についての釈示が、第十二となる。




1.2.13 自己の論と結び付いた見解についての釈示




146.




 [821]自己の論と結び付いた見解のばあい、どのような二十の行相によって、固着と成るのか。ここに、無聞の凡夫が、聖者たちへの見なく、聖者の法(真理)に熟知なく、聖者の法(真理)に教え導かれず、正しい人たちへの見なく、正しい人の法(真理)に熟知なく、正しい人の法(真理)に教え導かれず、(1)形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観し、(2)あるいは、形態あるものを、自己と〔偏見のままに等しく随観し〕、(3)あるいは、自己のうちに、形態を〔偏見のままに等しく随観し〕、(4)あるいは、形態のうちに、自己を〔偏見のままに等しく随観する〕……略……。(5)感受〔作用〕を……。(9)表象〔作用〕を……。(13)諸々の形成〔作用〕を……。(17)識別〔作用〕を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観し、(18)あるいは、識別〔作用〕あるものを、自己と〔偏見のままに等しく随観し〕、(19)あるいは、自己のうちに、識別〔作用〕を〔偏見のままに等しく随観し〕、(20)あるいは、識別〔作用〕のうちに、自己を〔偏見のままに等しく随観する〕……略……。


 [822]どのように、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観するのか。ここに、一部の者が、地の遍満を……略……白の遍満を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する。「それが、白の遍満であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、白の遍満である」と、白の遍満と、自己とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、炎と、色とを、〔両者を〕不二なるものと〔偏見のままに〕等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、地の遍満を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する【157】……略……これが、第一の、形態を基盤とする自己の論と結び付いた見解となる。自己の論と結び付いた見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。このように、形態を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観する……略……。自己の論と結び付いた見解のばあい、これらの二十の行相によって、固着と成る。


 [823]自己の論と結び付いた見解についての釈示が、第十三となる。




1.2.14 世〔界〕の論と結び付いた見解についての釈示




147.




 [824]世〔界〕の論と結び付いた見解のばあい、どのような八の行相によって、固着と成るのか。(1)「自己も、世〔界〕も、常恒である」と、固着への執着が、世〔界〕の論と結び付いた見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある(両者は別個のものである)。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第一の、世〔界〕の論と結び付いた見解となる。世〔界〕の論と結び付いた見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。


 [825](2)「自己も、世〔界〕も、常恒ではない」と……略……。(3)「自己も、世〔界〕も、常恒でもあれば、常恒でなくもある」と……略……。(4)「自己も、世〔界〕も、常恒でもなければ、常恒でないのでもない」と……。(5)「自己も、世〔界〕も、終極がある」と……。(6)「自己も、世〔界〕も、終極がない」と……。(7)「自己も、世〔界〕も、終極がありもすれば、終極がなくもある」と……。(8)「自己も、世〔界〕も、終極があるのでもなければ、終極がないのでもない」と、固着への執着が、世〔界〕の論と結び付いた見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。それが、見解としてもあり、それが、基盤としてもあるなら、これが、第八の、世〔界〕の論と結び付いた見解となる。世〔界〕の論と結び付いた見解は、誤った見解であり……略……。これらが、諸々の束縛するものではあるが、しかるに、諸々の見解ではない。世〔界〕の論と結び付いた見解のばあい、これらの八つの行相によって、固着と成る。


 [826]世〔界〕の論と結び付いた見解についての釈示が、第十四となる。




1.2.15-16 生存と非生存の見解についての釈示




148.




 [827]〔有るところのものに〕執着することとしての固着が、生存(有:実体)の見解となる。〔有るところのものから〕逸脱することとしての固着が、非生存(非有:虚無)の見解となる。悦楽の見解のばあい、三十五の行相によって、固着となるとして、どれだけの生存の見解があり、どれだけの非生存の見解があるのか。自己についての誤った見解のばあい、二十の行相によって、固着となるとして、どれだけの生存の見解があり、どれだけの非生存の見解があるのか……略……。世〔界〕の論と結び付いた見解のばあい、八の行相によって、固着となるとして、どれだけの生存の見解があり、どれだけの非生存の見解があるのか。


 [828]悦楽の見解のばあい、三十五の行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう(どちらにもなりうる)。自己についての誤った見解のばあい、二十の行相によって、固着となるとして、十五の生存の見解があり、五つの非生存の見解がある。誤った見解のばあい、十の行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、非生存の見解である。身体が有るという見解のばあい、二十の行相によって、固着となるとして、十五の生存の見解があり、五つの非生存の見解がある。身体が有るという〔思い〕を基盤(根拠)とする常恒の見解のばあい、十五の【158】行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、生存の見解である。身体が有るという〔思い〕を基盤とする断絶の見解のばあい、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、非生存の見解である。


 [829]「世〔界〕は、常恒である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、生存の見解である。「世〔界〕は、常恒ではない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、非生存の見解である。「世〔界〕は、終極がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、五つの行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう(どちらにもなりうる)。「世〔界〕は、終極がない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、五つの行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、非生存の見解である。「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、生存の見解である。「如来は、死後に有る」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、生存の見解である。「如来は、死後に有ることがない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、非生存の見解である。「如来は、死後に、有ることもあれば、有ることがないこともある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、五つの行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解のばあい、五つの行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。


 [830]過去の極についての誤った見解のばあい、十八の行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。未来の極についての誤った見解のばあい、四十四の行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。束縛するものとしての見解のばあい、十八の行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。「わたしである」という思量の結縛としての見解のばあい、十八の行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、非生存の見解である。「わたしのものである」という思量の結縛としての見解のばあい、十八の行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、生存の見解である。自己の論と結び付いた見解のばあい、二十の行相によって、固着となるとして、十五の生存の見解があり、五つの非生存の見解がある。世〔界〕の論と結び付いた見解のばあい、八の行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。


 [831]それらの見解は、まさしく、全てが、悦楽の見解である。それらの見解は、まさしく、全てが、自己についての誤った見解である。それらの見解は、まさしく、全てが、誤った見解である。それらの見解は、まさしく、全てが、身体が有るという見解である。それらの見解は、まさしく、全てが、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解である。【159】それらの見解は、まさしく、全てが、束縛するものとしての見解である。それらの見解は、まさしく、全てが、自己の論と結び付いた見解である。




 [832]〔しかして、詩偈に言う〕「生存の見解と、非生存の見解と、この二者に依存する者たちは、〔悪しき〕説ある者たちである。彼らに、止滅についての知恵は、まさに、存在しない――そこにおいて、転倒した表象あるのが、この世〔の人々〕である」と。




149.




 [833]比丘たちよ、二つの悪しき見解(常見・断見)に遍く取り囲まれた天〔の神々〕や人間たちがいる。或る者たちは、〔有るところのものに〕執着し、或る者たちは、〔有るところのものから〕逸脱する。しかして、眼ある者たちは、〔あるがままに〕見る。比丘たちよ、しからば、どのように、或る者たちは、〔有るところのものに〕執着するのか。比丘たちよ、生存を喜びとする天〔の神々〕や人間たちは、生存に喜びある者たちであり、生存を歓喜する者たちである。彼らのばあい、生存の止滅〔の観点〕から法(教え)が説示されているとき、〔彼らの〕心は、跳入せず、清信せず、確立せず、信念しない。比丘たちよ、このように、まさに、或る者たちは、〔有るところのものに〕執着する。


 [834]比丘たちよ、しからば、どのように、或る者たちは、〔有るところのものから〕逸脱するのか。また、まさに、或る者たちは、まさしく、生存によって、苦悩しつつ、自責しつつ、忌避しつつ、非生存を喜ぶ。「ああ、まさに、この自己は、身体の破壊ののち、死後において、断絶し、消失し、死後において、有ることなきことから、この〔非生存〕は、寂静である、この〔非生存〕は、精妙である、この〔非生存〕は、あるがままのものである」と。比丘たちよ、このように、まさに、或る者たちは、〔有るところのものから〕逸脱する。


 [835]比丘たちよ、しからば、どのように、しかして、眼“まなこ”ある者たちは、〔あるがままに〕見るのか。比丘たちよ、ここに、比丘が、〔世に〕有るところのものを、有るところのもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見る。〔世に〕有るところのものを、有るところのもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見て〔そののち〕、〔世に〕有るところのものの厭離と離貪と止滅のために、〔道の〕実践者と成る。比丘たちよ、このように、まさに、しかして、眼ある者たちは、〔あるがままに〕見る。




 [836]〔しかして、詩偈に言う〕「彼が、有るところのものを、有るところのもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見て、さらには、有るところのものの超越を〔あるがままに見て〕、生存への渇愛の完全なる滅尽あることから、有るところのとおりに信念するなら――


 [837]彼は、まさに、有るところのものを遍知した者であり、生存と非生存にたいする渇愛を離れた者であり、有るところのものの非生存あることから、〔その〕比丘は、さらなる〔迷いの〕生存には帰り来ない」と。




150.




 [838]【160】三者の人が、衰滅した見解ある者たちとなる。三者の人が、成就した見解ある者たちとなる。どのような三者の人が、衰滅した見解ある者たちとなるのか。異教の者と、異教の弟子と、〔まさに〕その、誤った見解の者とである。これらの三者の人が、衰滅した見解ある者たちとなる。


 [839]どのような三者の人が、成就した見解ある者たちとなるのか。如来と、如来の弟子と、〔まさに〕その、正しい見解の者とである。これらの三者の人が、成就した見解ある者たちとなる。




 [840] 〔しかして、詩偈に言う〕「その人が、忿怒の者であるなら、かつまた、怨恨の者であるなら、さらには、〔為した〕悪を隠覆する者であるなら、衰滅した見解ある幻術師(偽善者)であり、彼のことを、『賤民である』と知るがよい。


 [841]忿怒なき者であるなら、怨恨なき者であるなら、清浄の者であるなら、清浄なることを具した者であるなら、成就した見解ある思慮ある者であり、彼のことを、『聖者である』と知るがよい」と。




 [842]三つのものが、衰滅した見解となる。三つのものが、成就した見解となる。どのようなものが、三つの衰滅した見解となるのか。「これは、わたしのものである」と、衰滅した見解となる。「これは、わたしとして存在する」と、衰滅した見解となる。「これは、わたしの自己である」と、衰滅した見解となる。これらのものが、三つの衰滅した見解となる。


 [843]どのようなものが、三つの成就した見解となるのか。「これは、わたしのものではない」と、成就した見解となる。「これは、わたしとして存在しない」と、成就した見解となる。「これは、わたしの自己ではない」と、成就した見解となる。これらのものが、三つの成就した見解となる。


 [844]「これは、わたしのものである」とは、何が、見解であるのか、どれだけの、見解があるのか、どのような極が収め取られたものとして、それらの見解があるのか。「これは、わたしとして存在する」とは、何が、見解であるのか、どれだけの、見解があるのか、どのような極が収め取られたものとして、それらの見解があるのか。「これは、わたしの自己である」とは、何が、見解であるのか、どれだけの、見解があるのか、どのような極が収め取られたものとして、それらの見解があるのか。


 [845]「これは、わたしのものである」とは、過去の極についての誤った見解であり、十八の見解があり、過去の極が収め取られたものとして、それらの見解がある。「これは、わたしとして存在する」とは、未来の極についての誤った見解であり、四十四の見解があり、未来の極が収め取られたものとして、それらの見解がある。【161】「これは、わたしの自己である」とは、二十のものを基盤とする、自己についての誤った見解があり、二十のものを基盤とする、身体が有るという見解があり、身体が有るという見解を頂点とする、六十二の悪しき見解があり、過去の極と未来の極が収め取られたものとして、それらの見解がある。




151.




 [846]比丘たちよ、彼らが誰であれ、わたし〔の教え〕において、究極〔の境地〕に至った者たちであるなら、彼らは、〔その〕全てが、見解を成就した者たちである。それらの見解を成就した者たちのなかの、五者には、この〔世において〕、究極〔の境地〕があり、五者には、この〔世において〕、〔身体を〕捨棄して〔そののち〕、究極〔の境地〕がある。どのような五者には、この〔世において〕、究極〔の境地〕があるのか。最高で七回〔の再生〕ある者には、〔善き〕家〔善き〕家〔の再生〕ある者には、一つの種ある者には、一来たる者には、さらには、彼が、まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)における、阿羅漢であるなら、これらの五者には、この〔世において〕、究極〔の境地〕がある。


 [847]どのような五者には、この〔世において〕、〔身体を〕捨棄して〔そののち〕、究極〔の境地〕があるのか。〔寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者には、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者には、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者には、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者には、上流のアカニッタ〔天〕に赴く者には、これらの五者には、この〔世において〕、〔身体を〕捨棄して〔そののち〕、究極〔の境地〕がある。


 [848]比丘たちよ、彼らが誰であれ、わたし〔の教え〕において、究極〔の境地〕に至った者たちであるなら、彼らは、〔その〕全てが、見解を成就した者たちである。それらの見解を成就した者たちのなかの、これらの五者には、この〔世において〕、究極〔の境地〕があり、これらの五者には、この〔世において〕、〔身体を〕捨棄して〔そののち〕、究極〔の境地〕がある。


 [849]比丘たちよ、彼らが誰であれ、わたし〔の教え〕において、確固たる清らかな信あるた者たちであるなら、彼らは、〔その〕全てが、預流たる者たちである。それらの預流たる者たちのなかの、五者には、この〔世において〕、究極〔の境地〕があり、五者には、この〔世において〕、〔身体を〕捨棄して〔そののち〕、究極〔の境地〕がある。どのような五者には、この〔世において〕、究極〔の境地〕があるのか。最高で七回〔の再生〕ある者には、〔善き〕家〔善き〕家〔の再生〕ある者には、一つの種ある者には、一来たる者には、さらには、彼が、まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)における、阿羅漢であるなら、これらの五者には、この〔世において〕、究極〔の境地〕がある。


 [850]どのような五者には、この〔世において〕、〔身体を〕捨棄して〔そののち〕、究極〔の境地〕があるのか。〔寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者には、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者には、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者には、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者には、上流のアカニッタ〔天〕に赴く者には、これらの五者には、この〔世において〕、〔身体を〕捨棄して〔そののち〕、究極〔の境地〕がある。


 [851]比丘たちよ、彼らが誰であれ、わたし〔の教え〕において、確固たる清らかな信あるた者たちであるなら、彼らは、〔その〕全てが、預流たる者たちである。それらの預流たる者たちのなかの、これらの五者には、この〔世において〕、究極〔の境地〕があり、これらの五者には、この〔世において〕、〔身体を〕捨棄して〔そののち〕、究極〔の境地〕がある。ということで――


 [852]生存と非生存の見解についての釈示が、第十六となる。


 見解についての言説は、〔以上で〕終了した。




1.3 呼吸についての気づきについての言説




1.3.1 数の部




152.




 [853]【162】十六の基盤(根拠)ある、呼吸についての気づきという〔心の〕統一を修行している者には、二百の〔心の〕統一の知恵が生起する。(1)八つの障害についての知恵、および、八つの資益についての知恵、(2)十八の付随する〔心の〕汚れについての知恵、(3)十三の浄化するものについての知恵、(4)三十二の気づきある為し手の知恵、(5)二十四の〔心の〕統一を所以にする知恵、(6)七十二の〔あるがままの〕観察を所以にする知恵、(7)八つの厭離の知恵、(8)八つの厭離に随順するものについての知恵、(9)八つの厭離の静息の知恵、(10)二十一の解脱の安楽についての知恵である。


 [854](1)どのような、八つの障害についての知恵、および、八つの資益についての知恵があるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、〔心の〕統一にとっての障害となり、離欲(出離)が、〔心の〕統一にとっての資益となる。加害〔の思い〕(瞋)が、〔心の〕統一にとっての障害となり、加害〔の思い〕なきが、〔心の〕統一にとっての資益となる。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が、〔心の〕統一にとっての障害となり、光明の表象(光明想)が、〔心の〕統一にとっての資益となる。〔心の〕高揚(掉挙)が、〔心の〕統一にとっての障害となり、〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一にとっての資益となる。疑惑〔の思い〕(疑)が、〔心の〕統一にとっての障害となり、法(性質)の〔差異を〕定め置くことが、〔心の〕統一にとっての資益となる。無明が、〔心の〕統一にとっての障害となり、知恵が、〔心の〕統一にとっての資益となる。不満〔の思い〕が、〔心の〕統一にとっての障害となり、歓喜が、〔心の〕統一にとっての資益となる。諸々の善ならざる法(性質)は、〔その〕全てでさえもが、〔心の〕統一にとっての障害となり、諸々の善なる法(性質)は、〔その〕全てでさえもが、〔心の〕統一にとっての資益となる。これらの、八つの障害についての知恵、および、八つの資益についての知恵がある。


 [855]数の部が、第一となる。




1.3.2 十六の知恵についての釈示




153.




 [856]これらの十六の行相によって、蓄積された心は、集積された心は、一なることにおいて確立し、諸々の〔修行の〕妨害“さまたげ”(蓋)から清浄となる。【163】どのようなものが、それらの一なることであるのか。離欲が、一なることである。加害〔の思い〕なきが、一なることである。光明の表象が、一なることである。〔心の〕散乱なきが、一なることである。法(性質)の〔差異を〕定め置くことが、一なることである。知恵が、一なることである。歓喜が、一なることである。諸々の善なる法(性質)は、〔その〕全てでさえもが、一なることである。


 [857]「諸々の〔修行の〕妨害」とは、どのようなものが、それらの〔修行の〕妨害であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、〔修行の〕妨害である。加害〔の思い〕が、〔修行の〕妨害である。〔心の〕沈滞と眠気が、〔修行の〕妨害である。〔心の〕高揚が、〔修行の〕妨害である。疑惑〔の思い〕が、〔修行の〕妨害である。無明が、〔修行の〕妨害である。不満〔の思い〕が、〔修行の〕妨害である。諸々の善ならざる法(性質)は、〔その〕全てでさえもが、諸々の〔修行の〕妨害である。


 [858]「諸々の〔修行の〕妨害」とは、どのような義(意味)によって、諸々の〔修行の〕妨害となるのか。出脱の妨害の義(意味)によって、諸々の〔修行の〕妨害となる。


 [859]どのようなものが、それらの出脱であるのか。


 [860]離欲が、聖者たちにとっての出脱である。しかして、その離欲によって、聖者たちは出脱する。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、出脱の妨害である。しかして、その欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕によって覆われたことから、〔凡夫たちは〕離欲を、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、出脱の妨害となる。


 [861]加害〔の思い〕なきが、聖者たちにとっての出脱である。しかして、その加害〔の思い〕なきによって、聖者たちは出脱する。加害〔の思い〕が、出脱の妨害である。しかして、その加害〔の思い〕によって覆われたことから、〔凡夫たちは〕加害〔の思い〕なきを、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、加害〔の思い〕が、出脱の妨害となる。


 [862]光明の表象が、聖者たちにとっての出脱である。しかして、その光明の表象によって、聖者たちは出脱する。〔心の〕沈滞と眠気が、出脱の妨害である。しかして、その〔心の〕沈滞と眠気によって覆われたことから、〔凡夫たちは〕光明の表象を、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、〔心の〕沈滞と眠気が、出脱の妨害となる。


 [863]〔心の〕散乱なきが、聖者たちにとっての出脱である。しかして、その〔心の〕散乱なきによって、聖者たちは出脱する。〔心の〕高揚が、出脱の妨害である。しかして、その〔心の〕高揚によって覆われたことから、〔凡夫たちは〕〔心の〕散乱なきを、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、〔心の〕高揚が、出脱の妨害となる。


 [864]法(性質)の〔差異を〕定め置くことが、聖者たちにとっての出脱である。しかして、その法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、聖者たちは出脱する。疑惑〔の思い〕が、出脱の妨害である。しかして、その疑惑〔の思い〕によって覆われたことから、〔凡夫たちは〕法(性質)の〔差異を〕定め置くことを、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、疑惑〔の思い〕が、出脱の妨害となる。


 [865]知恵が、聖者たちにとっての出脱である。しかして、その知恵によって、聖者たちは出脱する。無明が、出脱の妨害である。しかして、その無明によって覆われたことから、〔凡夫たちは〕知恵を、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、無明が、出脱の妨害となる。


 [866]歓喜が、聖者たちにとっての出脱である。しかして、その歓喜によって、聖者たちは出脱する。不満〔の思い〕が、出脱の妨害である。しかして、その不満〔の思い〕によって覆われたことから、〔凡夫たちは〕歓喜を、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、不満〔の思い〕が、出脱の妨害となる。


 [867]諸々の善なる法(性質)は、〔その〕全てでさえもが、聖者たちにとっての出脱である。しかして、それらの善なる法(性質)によって、聖者たちは出脱する。諸々の善ならざる法(性質)は、〔その〕全てでさえもが、出脱の妨害である。しかして、それらの善ならざる法(性質)によって覆われたことから、〔凡夫たちは〕諸々の善なる法(性質)を、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、諸々の善ならざる法(性質)は、〔その〕全てでさえもが、出脱の妨害となる。


 [868]十六の知恵についての釈示が、第二となる。




1.3.3 付随する〔心の〕汚れについての釈示




1.3.3.1 第一の六なるもの




154.




 [869](2)しかして、また、これらの〔修行の〕妨害との瞬間の結集あることから、【164】十六の基盤ある、呼吸についての気づきという〔心の〕統一を修行している清浄心の者には、どのような十八の付随する〔心の〕汚れが生起するのか。入息の最初と中間と結末〔の全部〕に、気づきをもって従い行きつつあると、内に散乱へと赴いた心が、〔心の〕統一にとっての障害となる。出息の最初と中間と結末〔の全部〕に、気づきをもって従い行きつつあると、外に散乱へと赴いた心が、〔心の〕統一にとっての障害となる。入息への希求と欲念と渇愛の性行が、〔心の〕統一にとっての障害となる。出息への希求と欲念と渇愛の性行が、〔心の〕統一にとっての障害となる。入息によって〔心を〕制圧したなら、出息の獲得における混迷が、〔心の〕統一にとっての障害となる。出息によって〔心を〕制圧したなら、入息の獲得における混迷が、〔心の〕統一にとっての障害となる。




 [870]〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、入息に従い行く〔気づき〕、出息に従い行く気づき、内なる〔心の〕散乱の希求、外なる〔心の〕散乱の切望――


 [871]入息によって〔心を〕制圧したなら、出息の獲得における混迷、出息によって〔心を〕制圧したなら、入息の獲得における混迷――


 [872]呼吸についての気づきという〔心の〕統一には、これらの六つの付随する〔心の〕汚れがあり、それらによって意“おもい”が散乱したなら、しかして、心は、解脱することがない。解脱を覚知せずにいる彼らは、他を縁とする者たちとして有る」と。




1.3.3.2 第二の六なるもの




155.




 [873]【165】形相に〔心を〕傾注していると、入息において、心は動揺し、〔心の〕統一にとっての障害となる。入息に〔心を〕傾注していると、形相において、心は動揺し、〔心の〕統一にとっての障害となる。形相に〔心を〕傾注していると、出息において、心は動揺し、〔心の〕統一にとっての障害となる。出息に〔心を〕傾注していると、形相において、心は動揺し、〔心の〕統一にとっての障害となる。入息に〔心を〕傾注していると、出息において、心は動揺し、〔心の〕統一にとっての障害となる。出息に〔心を〕傾注していると、入息において、心は動揺し、〔心の〕統一にとっての障害となる。




 [874]〔しかして、詩偈に言う〕「形相に〔心を〕傾注していると、入息において、意は散乱する。入息に〔心を〕傾注していると、形相において、心は動揺する。


 [875]形相に〔心を〕傾注していると、出息において、意は散乱する。出息に〔心を〕傾注していると、形相において、心は動揺する。


 [876]入息に〔心を〕傾注していると、出息において、意は散乱する。出息に〔心を〕傾注していると、入息において、心は動揺する。


 [877]呼吸についての気づきという〔心の〕統一には、これらの六つの付随する〔心の〕汚れがあり、それらによって意が散乱したなら、しかして、心は、解脱することがない。解脱を覚知せずにいる彼らは、他を縁とする者たちとして有る」と。




1.3.3.3 第三の六なるもの




156.




 [878]過去に従い走る心は、〔心の〕散乱が従起したものとなり、〔心の〕統一にとっての障害となる。未来を希求する心は、動揺したものとなり、〔心の〕統一にとっての障害となる。萎縮した心は、〔心の〕怠慢が従起したものとなり、〔心の〕統一にとっての障害となる。極めて励起した心は、〔心の〕高揚が従起したものとなり、〔心の〕統一にとっての障害となる。〔特定の対象へと〕傾いた心は、貪欲〔の思い〕が従起したものとなり、〔心の〕統一にとっての障害となる。〔特定の対象から〕逸れた心は、加害〔の思い〕が従起したものとなり、〔心の〕統一にとっての障害となる。




 [879]〔しかして、詩偈に言う〕「過去に従い走る心、未来を希求する〔心〕、萎縮した〔心〕、極めて励起した〔心〕、〔特定の対象へと〕傾いた〔心〕、〔特定の対象から〕逸れた心は、定められることがない。


 [880]呼吸についての気づきという〔心の〕統一には、これらの六つの付随する〔心の〕汚れがあり、思惟がそれらに付随して汚れた者は、向上の心(増上心:定心)を覚知することがない」と。




157.




 [881]入息の最初と中間と結末〔の全部〕に、気づきをもって従い行きつつあると、内に散乱へと赴いた心によって、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。出息の最初と中間と結末〔の全部〕に、気づきをもって従い行きつつあると、外に散乱へと赴いた心によって、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。入息への希求と欲念と渇愛の性行によって、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。出息への希求と欲念と渇愛の性行によって、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、【166】さらには、震動したものと〔成る〕。入息によって〔心を〕制圧したなら、出息の獲得において混迷したことから、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。出息によって〔心を〕制圧したなら、入息の獲得において混迷したことから、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。


 [882]形相に〔心を〕傾注していると、入息において、心が動揺したことから、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。入息に〔心を〕傾注していると、形相において、心が動揺したことから、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。形相に〔心を〕傾注していると、出息において、心が動揺したことから、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。出息に〔心を〕傾注していると、形相において、心が動揺したことから、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。入息に〔心を〕傾注していると、出息において、心が動揺したことから、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。出息に〔心を〕傾注していると、入息において、心が動揺したことから、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。過去に従い走る心によって、〔心の〕散乱が従起した〔心〕によって、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。未来を希求する心によって、動揺した〔心〕によって、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。萎縮した心によって、〔心の〕怠慢が従起した〔心〕によって、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。極めて励起した心によって、〔心の〕高揚が従起した〔心〕によって、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。〔特定の対象へと〕傾いた心によって、貪欲〔の思い〕が従起した〔心〕によって、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。〔特定の対象から〕逸れた心によって、加害〔の思い〕が従起した〔心〕によって、身体もまた、心もまた、しかして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動揺したものと〔成り〕、さらには、震動したものと〔成る〕。




 [883]〔しかして、詩偈に言う〕「彼の、呼吸についての気づきが、円満成就されたものとして修行されていないなら、身体もまた、動揺したものと成り、心もまた、動揺したものと成り、身体もまた、震動したものと成り、心もまた、震動したものと成る。


 [884]彼の、呼吸についての気づきが、円満成就されたものとして善く修行されたなら、身体もまた、動揺なきものと成り、心もまた、動揺なきものと成り、身体もまた、震動なきものと成り、心もまた、震動なきものと成る」と。




 [885]しかして、また、これらの〔修行の〕妨害との瞬間の結集あることから、十六の基盤ある、呼吸についての気づきという〔心の〕統一を修行している清浄心の者には、これらの十八の付随する〔心の〕汚れが生起する。


 [886]付随する〔心の〕汚れについての釈示が、第三となる。




1.3.4 浄化するものについての釈示




158.




 [887](3)どのような十三の浄化するものについての知恵があるのか。過去に従い走る心は、〔心の〕散乱が従起した〔心〕であり、その〔心〕を避けて、一なる境位に〔心を〕定める。このようにもまた、心は、散乱へと赴かない。未来を希求する心は、動揺した〔心〕であり、【167】その〔心〕を避けて、まさしく、そこにおいて、〔心を〕信念させる。このようにもまた、心は、散乱へと赴かない。萎縮した心は、〔心の〕怠慢が従起した〔心〕であり、その〔心〕を励起して、〔心の〕怠慢を捨棄する。このようにもまた、心は、散乱へと赴かない。極めて励起したは、〔心の〕高揚が従起した〔心〕であり、その〔心〕を制御して、〔心の〕高揚を捨棄する。このようにもまた、心は、散乱へと赴かない。〔特定の対象へと〕傾いた心は、貪欲〔の思い〕が従起した〔心〕であり、その〔心〕を正知する者と成って、貪欲〔の思い〕を捨棄する。このようにもまた、心は、散乱へと赴かない。〔特定の対象から〕逸れた心は、加害〔の思い〕が従起した〔心〕であり、その〔心〕を正知する者と成って、加害〔の思い〕を捨棄する。このようにもまた、心は、散乱へと赴かない。これらの六つの境位によって、完全なる清浄の心となり、遍く清められた〔心〕となり、一なることに至った〔心〕となる。


 [888]どのようなものが、それらの一なることであるのか。布施と放棄の現起の一なること、〔心の〕寂止と形相の現起の一なること、衰微の特相の現起の一なること、止滅の現起の一なることである。棄捨を信念した者たちには、布施と放棄の現起の一なることがあり、しかして、向上の心(瞑想)に専念した者たちには、〔心の〕寂止と形相の現起の一なることがあり、かつまた、〔あるがままの〕観察者たちには、衰微の特相の現起の一なることがあり、さらには、聖者たる人たちには、止滅の現起の一なることがある。これらの四つの境位によって、一なることに至った心は、まさしく、しかして、〔実践の〕道の清浄に跳入したものと成り、かつまた、放捨〔の心〕が増進されたものと〔成り〕、さらには、知恵によって歓喜させられたものと〔成る〕。


 [889]第一の瞑想(初禅・第一禅)のばあい、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか。第一の瞑想のばあい、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であり、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあり、歓喜することが、〔その〕結末である。第一の瞑想のばあい、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であるとして、最初には、どれだけの特相があるのか。最初には、三つの特相がある。それが、その〔第一の瞑想〕にとっての障害であるなら、その〔障害〕から、心は清浄となる。清浄となったことから、心は、〔両極を離れた〕中なる〔心の〕寂止の形相を実践する。〔心の寂止の形相が〕実践されたことから、そこ(第一の瞑想)において、心は跳入する。〔まさに〕その、障害から、心が清浄となることと――〔まさに〕その、清浄となったことから、心が、〔両極を離れた〕中なる〔心の〕寂止の形相を実践することと――〔まさに〕その、〔心の寂止の形相が〕実践されたことから、そこ(第一の瞑想)において、心が跳入することと――第一の【168】瞑想のばあい、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であるとして、最初には、これらの三つの特相がある。それによって説かれる。「第一の瞑想は、まさしく、しかして、最初の善あるものと成り、さらには、〔三つの〕特相を成就したものと〔成る〕」〔と〕。


 [890]第一の瞑想のばあい、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあるとして、中間には、どれだけの特相があるのか。中間には、三つの特相がある。清浄となった心を放捨する(客観視する)。寂止〔の形相〕が実践された〔心〕を放捨する。一なることの現起ある〔心〕を放捨する。〔まさに〕その、清浄となった心を放捨することと――〔まさに〕その、寂止〔の形相〕が実践された〔心〕を放捨することと――〔まさに〕その、一なることの現起ある〔心〕を放捨することと――第一の瞑想のばあい、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあるとして、中間には、これらの三つの特相がある。それによって説かれる。「第一の瞑想は、まさしく、しかして、中間における善あるものと成り、さらには、〔三つの〕特相を成就したものと〔成る〕」〔と〕。


 [891]第一の瞑想のばあい、歓喜することが、〔その〕結末であるとして、結末には、どれだけの特相があるのか。結末には、四つの特相がある。そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなき(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、歓喜することがある。諸々の機能(根)の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)によって、歓喜することがある。それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、歓喜することがある。習修の義(意味)によって、歓喜することがある。第一の瞑想のばあい、歓喜することが、〔その〕結末であるとして、結末には、これらの四つの特相がある。それによって説かれる。「第一の瞑想は、まさしく、しかして、結末の善あるものと成り、さらには、〔四つの〕特相を成就したものと〔成る〕」〔と〕。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あり、十の特相を成就した、まさしく、しかして、〔粗雑な〕思考(尋)を成就したものと成り、かつまた、〔微細な〕想念(伺)を成就したものと〔成り〕、かつまた、喜悦(喜)を成就したものと〔成り〕、かつまた、安楽(楽)を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立(一境性)を成就したものと〔成り〕、かつまた、信を成就したものと〔成り〕、かつまた、精進を成就したものと〔成り〕、かつまた、気づきを成就したものと〔成り〕、かつまた、〔心の〕統一を成就したものと〔成り〕、かつまた、知慧を成就したものと〔成る〕。


 [892]第二の瞑想(第二禅)のばあい、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか。第二の瞑想のばあい、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であり、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあり、歓喜することが、〔その〕結末である……略……。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あり、十の特相を成就した、まさしく、しかして、喜悦を成就したものと〔成り〕、かつまた、安楽を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立を成就したものと〔成り〕、かつまた、信を成就したものと〔成り〕、かつまた、精進を成就したものと〔成り〕、かつまた、気づきを成就したものと〔成り〕、かつまた、〔心の〕統一を成就したものと〔成り〕、かつまた、知慧を成就したものと〔成る〕。


 [893]【169】第三の瞑想(第三禅)のばあい、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか……略……。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あり、十の特相を成就した、まさしく、しかして、安楽を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立を成就したものと〔成り〕、かつまた、信を成就したものと〔成り〕、かつまた、精進を成就したものと〔成り〕、かつまた、気づきを成就したものと〔成り〕、かつまた、〔心の〕統一を成就したものと〔成り〕、かつまた、知慧を成就したものと〔成る〕。


 [894]第四の瞑想(第四禅)のばあい、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか……略……。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あり、十の特相を成就した、まさしく、しかして、放捨(捨)を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立を成就したものと〔成り〕、かつまた、信を成就したものと〔成り〕、かつまた、精進を成就したものと〔成り〕、かつまた、気づきを成就したものと〔成り〕、かつまた、〔心の〕統一を成就したものと〔成り〕、かつまた、知慧を成就したものと〔成る〕。


 [895]虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)への入定のばあい……略……。識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定のばあい……。無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定のばあい……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)への入定のばあい、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか……略……。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あり、十の特相を成就した、まさしく、しかして、放捨を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立を成就したものと〔成り〕……略……知慧を成就したものと〔成る〕。


 [896]無常の随観のばあい、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか……略……。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あり、十の特相を成就した、まさしく、しかして、〔粗雑な〕思考を成就したものと成り、かつまた、〔微細な〕想念を成就したものと〔成り〕、かつまた、喜悦を成就したものと〔成り〕、かつまた、安楽を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立(一境性)を成就したものと〔成り〕、かつまた、信を成就したものと〔成り〕、かつまた、精進を成就したものと〔成り〕、かつまた、気づきを成就したものと〔成り〕、かつまた、〔心の〕統一を成就したものと〔成り〕、かつまた、知慧を成就したものと〔成る〕。苦痛の随観のばあい……略……。無我の随観のばあい……。厭離の随観のばあい……。離貪の随観のばあい……。止滅の随観のばあい……。放棄の随観のばあい……。滅尽の随観のばあい……。衰微の随観のばあい……。変化の随観のばあい……。無相の随観のばあい……。無願の随観のばあい……。空性の随観のばあい……。向上の知慧の法(性質)の〔あるがままの〕観察のばあい……。事実のとおりの知見のばあい……。危険の随観のばあい……。審慮の随観のばあい……。還転の随観のばあい……。


 [897]預流道のばあい……略……。一来道のばあい……。不還道のばあい……。阿羅漢道のばあい、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか。阿羅漢道のばあい、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であり、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあり、歓喜することが、〔その〕結末である。阿羅漢道のばあい、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であるとして、最初には、どれだけの特相があるのか。最初には、三つの特相がある。それが、その〔阿羅漢道〕にとっての障害であるなら、その〔障害〕から、心は清浄となる。清浄となったことから、心は、〔両極を離れた〕中なる〔心の〕寂止の形相を実践する。〔心の寂止の形相が〕実践されたことから、そこ(阿羅漢道)において、心は跳入する。【170】〔まさに〕その、障害から、心が清浄となることと――〔まさに〕その、清浄となったことから、心が、〔両極を離れた〕中なる〔心の〕寂止の形相を実践することと――〔まさに〕その、〔心の寂止の形相が〕実践されたことから、そこ(阿羅漢道)において、心が跳入することと――阿羅漢道のばあい、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であるとして、最初には、これらの三つの特相がある。それによって説かれる。「阿羅漢道は、まさしく、しかして、最初の善あるものと成り、さらには、〔三つの〕特相を成就したものと〔成る〕」〔と〕。


 [898]阿羅漢道のばあい、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあるとして、中間には、どれだけの特相があるのか。中間には、三つの特相がある。清浄となった心を放捨する(客観視する)。寂止〔の形相〕が実践された〔心〕を放捨する。一なることの現起ある〔心〕を放捨する。〔まさに〕その、清浄となった心を放捨することと――〔まさに〕その、寂止〔の形相〕が実践された〔心〕を放捨することと――〔まさに〕その、一なることの現起ある〔心〕を放捨することと――阿羅漢道のばあい、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあるとして、中間には、これらの三つの特相がある。それによって説かれる。「阿羅漢道は、まさしく、しかして、中間における善あるものと成り、さらには、〔三つの〕特相を成就したものと〔成る〕」〔と〕。


 [899]阿羅漢道のばあい、歓喜することが、〔その〕結末であるとして、結末には、どれだけの特相があるのか。結末には、四つの特相がある。そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、歓喜することがある。〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、歓喜することがある。それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、歓喜することがある。習修の義(意味)によって、歓喜することがある。阿羅漢道のばあい、歓喜することが、〔その〕結末であるとして、結末には、これらの四つの特相がある。それによって説かれる。「阿羅漢道は、まさしく、しかして、結末の善あるものと成り、さらには、〔四つの〕特相を成就したものと〔成る〕」〔と〕。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あり、十の特相を成就した、まさしく、しかして、〔粗雑な〕思考を成就したものと成り、かつまた、〔微細な〕想念を成就したものと〔成り〕、かつまた、喜悦を成就したものと〔成り〕、かつまた、安楽を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立を成就したものと〔成り〕、かつまた、信を成就したものと〔成り〕、かつまた、精進を成就したものと〔成り〕、かつまた、気づきを成就したものと〔成り〕、かつまた、〔心の〕統一を成就したものと〔成り〕、かつまた、知慧を成就したものと〔成る〕。




159.




 [900]〔しかして、詩偈に言う〕「形相と入息と出息は、一つの心の対象ではなく、しかして、三つの法(性質)を知らずにいる者に、修行は認められない。


 [901]【171】形相と入息と出息は、一つの心の対象ではなく、しかして、三つの法(性質)を知っている者に、修行は認められる」と。




 [902]どのように、これらの三つの法(性質)は、一つの心の対象と成らず、なおかつ、これらの三つの法(性質)は、見い出されざるものと成らず、しかして、心は、散乱へと赴かず、かつまた、精励が覚知され、さらには、〔修行への〕専念を遂行し、殊勝〔の境地〕に到達するのか。それは、たとえば、また、平坦な地の部分に置かれた〔製材用の〕木があるとして、〔まさに〕その、この〔木〕を、人が鋸で切るなら、木に接触したところの鋸の諸歯を所以に、〔その〕人の気づきは現起されたものと成り、あるいは、戻り、あるいは、行く、鋸の諸歯に、意を為すことはないが、あるいは、戻り、あるいは、行く、鋸の諸歯は、見い出されざるものと成らず、かつまた、精励が覚知され、さらには、〔作業への〕専念を遂行するように、〔このように、殊勝なる境地に到達する〕。平坦な地の部分に置かれた〔製材用の〕木のように、このように、〔気づきと〕連結する形相(入息と出息が接触する、鼻の先端、あるいは、上唇)がある。鋸の諸歯のように、このように、諸々の入息と出息がある。木に接触したところの鋸の諸歯を所以に、〔その〕人の気づきは現起されたものと成り、あるいは、戻り、あるいは、行く、鋸の諸歯に、意を為すことはないが、あるいは、戻り、あるいは、行く、鋸の諸歯は、見い出されざるものと成らず、かつまた、精励が覚知され、さらには、〔作業への〕専念を遂行するように、まさしく、このように、比丘は、あるいは、鼻の先端(鼻孔)において、あるいは、口の形相(上唇)において、気づきを現起させて坐した者と成り、あるいは、戻り、あるいは、行く、諸々の入息と出息に、意を為すことはないが、あるいは、戻り、あるいは、行く、諸々の入息と出息は、見い出されざるものと成らず、かつまた、精励が覚知され、さらには、〔修行への〕専念を遂行し、殊勝〔の境地〕に到達する。


 [903]どのようなものが、精励であるのか。精進に励む者のばあい、身体もまた、心もまた、行為に適するものと成る。これが、精励である。どのようなものが、〔修行への〕専念であるのか。精進に励む者のばあい、諸々の付随する〔心の〕汚れは捨棄され、諸々の思考は寂止される。これが、〔修行への〕専念である。どのようなものが、殊勝〔の境地〕であるのか。精進に励む者のばあい、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成る。これが、殊勝〔の境地〕である。このように、これらの三つの法(性質)は、一つの心の対象と【172】成らず、なおかつ、これらの三つの法(性質)は、見い出されざるものと成らず、しかして、心は、散乱へと赴かず、かつまた、精励が覚知され、さらには、〔修行への〕専念を遂行し、殊勝〔の境地〕に到達する。




160.




 [904]〔しかして、詩偈に言う〕「彼の、呼吸についての気づきが、円満成就されたものとして善く修行され、覚者によって説示されたとおりに、順次に蓄積されたなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす」と。




 [905]「吸」とは、入息である。出息ではない。「呼」とは、出息である。入息ではない。入息を所以に、現起としての気づきがある。出息を所以に、現起としての気づきがある。


 [906]彼が、入息するなら、彼に、〔気づきが〕現起する。彼が、出息するなら、彼に、〔気づきが〕現起する。「円満成就されたもの」とは、遍き収取(理解・把握)の義(意味)によって円満成就され、付属の義(意味)によって円満成就され、円満成就の義(意味)によって円満成就されたものである。「善く修行され」とは、四つの修行がある。そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなき(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)によって、修行となる。それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。彼の、これらの四つの修行の義(意味)が、乗物(手段)として作り為されたものと成り、地所(基盤)として作り為されたものと〔成り〕、奮起されたものと〔成り〕、蓄積されたものと〔成り〕、善く正しく勉励されたものと〔成る〕。


 [907]「乗物として作り為されたものと〔成り〕」とは、そこかしこにおいて、〔彼が〕望むなら、そこかしこにおいて、〔彼は〕自在を得た者と成り、力を得た者と〔成り〕、離怖を得た者と〔成る〕。彼の、これらの〔四つの〕法(性質)が、〔心を〕傾注することと連結されたものと成り、望みと連結されたものと〔成り〕、意を為すことと連結されたものと〔成り〕、心の現起と連結されたものと〔成る〕。それによって説かれる。「乗物として作り為されたものと〔成り〕」と。「地所として作り為されたものと〔成り〕」とは、その〔基盤〕その基盤において、心が、善く確立されたものと成るなら、その〔基盤〕その基盤において、気づきは、善く現起されたものと成る。あるいは、また、その〔基盤〕その基盤において、気づきが、善く現起されたものと成るなら、その〔基盤〕その基盤において、心は、善く確立されたものと成る。それによって説かれる。「地所として作り為されたものと〔成り〕」と。「奮起されたものと〔成り〕」とは、基盤において、そのものそのものによって、〔彼が〕心を導引するなら、そのものそのものによって、気づきは随転する。あるいは、また、そのものそのものによって、気づきが随転するなら、そのものそのものによって、〔彼は〕心を導引する。それによって説かれる。「奮起されたものと〔成り〕」と。「蓄積されたものと〔成り〕」とは、遍き収取(理解・把握)の義(意味)によって蓄積されたものとなり、付属の義(意味)によって蓄積されたものとなり、円満成就の義(意味)によって蓄積されたものとなる。気づきによって〔常に〕遍く収め取っている者は、【173】諸々の悪しき善ならざる法(性質)を知る。それによって説かれる。「蓄積されたものと〔成り〕」と。「善く正しく勉励されたものと〔成る〕」とは、四つの善く正しく勉励されたものがある。そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、善く正しく勉励されたものとなる。〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、善く正しく勉励されたものとなる。それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、善く正しく勉励されたものとなる。それと正反対のものたる諸々の〔心の〕汚れが善く完破されたことから、善く正しく勉励されたものとなる。




161.




 [908]「善く正しく」とは、正しきことが存在し、善く正しきことが存在する。どのようなものが、正しきことであるのか。それらが、そこに生じた諸々の罪過なく善なる覚り(菩提)の項目としてあるなら、これが、正しきことである。どのようなものが、善く正しきことであるのか。それが、それら〔の諸法〕それらの諸法(性質)にとっての、対象、止滅、涅槃であるなら、これが、善く正しきことである。かくのごとく、しかして、これが、正しきことであり、さらには、これが、善く正しきことであり、〔すでに〕知られたものと成り、〔すでに〕見られたものと〔成り〕、〔すでに〕見い出されたものと〔成り〕、〔すでに〕実証されたものと〔成り〕、知慧によって〔すでに〕接触されたもの(体得されたもの)と〔成る〕。退去なき精進として勉励されたものと成り、忘却なき気づきとして現起されたものと〔成り〕、懊悩を有することなき身体として安息されたものと〔成り〕、一境の心として定められたものと〔成る〕。それによって説かれる。「善く正しく勉励されたもの」と。


 [909]「順次に蓄積された」とは、長き入息を所以に、前のもの前のものが蓄積され、後のもの後のものが〔それに〕従い蓄積され、長き出息を所以に、前のもの前のものが蓄積され、後のもの後のものが〔それに〕従い蓄積され、短き入息を所以に、前のもの前のものが蓄積され、後のもの後のものが〔それに〕従い蓄積され、短き出息を所以に、前のもの前のものが蓄積され、後のもの後のものが〔それに〕従い蓄積され……略……放棄の随観ある、入息を所以に、前のもの前のものが蓄積され、後のもの後のものが〔それに〕従い蓄積され、放棄の随観ある、出息を所以に、前のもの前のものが蓄積され、後のもの後のものが〔それに〕従い蓄積されたものと〔成る〕。十六の基盤(根拠)ある、呼吸についての気づきは、〔その〕全てでさえもが、互いに他と、まさしく、しかして、蓄積されたものと成り、さらには、〔それに〕従い蓄積されたものと〔成る〕。それによって説かれる。「順次に蓄積された」と。


 [910]「とおりに」とは、十のそのとおりの義(意味)がある。自己の調御の義(意味)という、そのとおりの義(意味)、自己の寂止の義(意味)という、そのとおりの義(意味)、自己を完全なる涅槃に到達させることの義(意味)という、そのとおりの義(意味)、証知の義(意味)という、そのとおりの義(意味)、遍知の義(意味)という、そのとおりの義(意味)、捨棄の義(意味)という、そのとおりの義(意味)、修行の義(意味)という、そのとおりの義(意味)、【174】実証の義(意味)という、そのとおりの義(意味)、真理の知悉(現観)の義(意味)という、そのとおりの義(意味)、止滅〔の入定〕における確立させるものの義(意味)という、そのとおりの義(意味)である。


 [911]「覚者」とは、〔まさに〕その、彼、世尊であり、〔他に依らず〕自ら有る方として、無師なる方として、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、自ら、〔四つの〕真理を正覚し、しかして、そこにおいて、一切知者たることを得、さらには、諸々の力において、自在なる状態を〔得た〕。




162.




 [912]「覚者」とは、どのような義(意味)によって、覚者となるのか。諸々の真理を覚った方、ということで、覚者となる。人々を覚らせる方、ということで、覚者となる。一切知者たることによって、覚者となる。一切見者たることによって、覚者となる。他者に導かれないことによって、覚者となる。〔世俗を〕発出することによって、覚者となる。煩悩の滅尽者と名づけられたことによって、覚者となる。汚れなき方と名づけられたことによって、覚者となる。絶対的に貪欲を離れた方、ということで、覚者となる。絶対的に憤怒を離れた方、ということで、覚者となる。絶対的に迷妄を離れた方、ということで、覚者となる。絶対的に〔心の〕汚れなき方、ということで、覚者となる。一道の道を具した方、ということで、覚者となる。独り、無上なる正自覚を正覚した方、ということで、覚者となる。覚慧の打破されざることから、覚慧の獲得あることから、覚者となる。「覚者」とは、この名前は、母によって作り為されたものにあらず、父によって作り為されたものにあらず、兄によって作り為されたものにあらず、姉によって作り為されたものにあらず、朋友や大臣たちによって作り為されたものにあらず、親族や血縁たちによって作り為されたものにあらず、沙門や婆羅門たちによって作り為されたものにあらず、天神たちによって作り為されたものにあらず。これは、解脱を終極とするものにして、覚者たちの、世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たることの知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる概念(施設)にして、すなわち、これが、「覚者」ということになる。「説示された」とは、自己の調御の義(意味)という、そのとおりの義(意味)が、覚者によって説示されたとおりに、自己の寂止の義(意味)という、そのとおりの義(意味)が、覚者によって説示されたとおりに、自己を完全なる涅槃に到達させることの義(意味)という、そのとおりの義(意味)が、覚者によって説示されたとおりに……略……止滅〔の入定〕における確立させるものの義(意味)という、そのとおりの義(意味)が、覚者によって説示されたとおりに。


 [913]「彼」とは、あるいは、在家者と成り、あるいは、出家者と〔成る〕。「世」とは、〔五つの〕範疇の世〔界〕、〔十八の〕界域の世〔界〕、〔十二の認識の〕場所の世〔界〕、衰滅の生存の世〔界〕、衰滅の発生の世〔界〕、得達の生存の世〔界〕、得達の発生の世〔界〕である。一つの世〔界〕がある。〔すなわち〕一切の有情は、食(栄養)に立脚する者たちである……略……。十八の世〔界〕がある。〔すなわち〕十八の界域である。「照らす」とは、自己の調御の義(意味)という、そのとおりの義(意味)を正覚したことから、彼は、この世を、照り輝かし、光り輝かし、照らす。自己の寂止の義(意味)という、そのとおりの義(意味)を正覚したことから、【175】彼は、この世を、照り輝かし、光り輝かし、照らす。自己を完全なる涅槃に到達させることの義(意味)という、そのとおりの義(意味)を正覚したことから、彼は、この世を、照り輝かし、光り輝かし、照らす……略……。止滅〔の入定〕における確立させるものの義(意味)という、そのとおりの義(意味)を正覚したことから、彼は、この世を、照り輝かし、光り輝かし、照らす。


 [914]「雲から解き放たれた月のように」とは、雲からのように、このように、〔心の〕汚れから。月のように、このように、聖なる知恵がある。月の天子のように、このように、比丘がある。月が、雲から解き放たれ、霧から解き放たれ、煙や塵から解き放たれ、ラーフ(阿修羅の一類で日蝕や月蝕を引き起こすとされる)の捕捉から解き放たれたなら、しかして、光り輝き、かつまた、輝き渡り、さらには、遍照するように、まさしく、このように、比丘は、一切の〔心の〕汚れから解き放たれたなら、しかして、光り輝き、かつまた、輝き渡り、さらには、遍照する。それによって説かれる。「雲から解き放たれた月のように」と。これらの十三の浄化するものについての知恵がある。


 [915]浄化するものについての釈示が、第四となる。


 〔以上が第一の〕読誦分となる。




1.3.5 気づきある為し手の知恵についての釈示




163.




 [916](4)どのような三十二の気づきある為し手の知恵があるのか。ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔そこにおいて〕坐し、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、彼は、まさしく、気づきある者として入息し、気づきある者として出息する。(一)(1)あるいは、長く入息しつつ、「〔わたしは〕長く入息する」と覚知し、(2)あるいは、長く出息しつつ、「〔わたしは〕長く出息する」と覚知する。(二)(3)あるいは、短く入息しつつ、「〔わたしは〕短く入息する」と覚知し、(4)あるいは、短く出息しつつ、「〔わたしは〕短く出息する」と覚知する。(三)(5)「〔わたしは〕一切の身体の得知者として、入息するであろう」と学び、(6)「〔わたしは〕一切の身体の得知者として、出息するであろう」と学ぶ。(四)(7)「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕(身行)を安息させつつ、入息するであろう」と学び、(8)「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を安息させつつ、出息するであろう」と学ぶ。(五)(9)「〔わたしは〕喜悦の得知者として……略……。(六)(11)「〔わたしは〕安楽の得知者として……。【176】(七)(13)「〔わたしは〕心の形成〔作用〕(心行)の得知者として……。(八)(15)「〔わたしは〕心の形成〔作用〕を安息させつつ……。(九)(17)「〔わたしは〕心の得知者として……。(十)(19)「〔わたしは〕心を歓喜させつつ……。(十一)(21)「〔わたしは〕心を定めつつ……。(十二)(23)「〔わたしは〕心を解き放ちつつ……。(十三)(25)「〔わたしは〕無常の随観ある者として……。(十四)(27)「〔わたしは〕離貪の随観ある者として……。(十五)(29)「〔わたしは〕止滅の随観ある者として……。(十六)(31)「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するであろう」と学び、(32)「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶ。




164.




 [917]「ここに」とは、この見解の、この忍耐(信受)の、この嗜好(意欲)の、この所取〔の経論〕において、この法(教え)において、この律において、この法(教え)と律において、この〔聖典の〕言葉において、この梵行において、この教師の教えにおいて。それによって説かれる。「ここに」と。「比丘」とは、あるいは、善き凡夫と成り、あるいは、学びある比丘と〔成り〕、あるいは、不動の法(真理)ある阿羅漢と〔成る〕。「林」とは、インダの杭(城市の門柱)から外に出て、この一切が、林である。「木の根元」とは、そこにおいて、比丘のために、坐所が設けられたものとして有るなら、あるいは、寝床が、あるいは、椅子が、あるいは、敷布が、あるいは、藁敷(ござ)が、あるいは、皮の切れ端が、あるいは、草の敷物が、あるいは、葉の敷物が、あるいは、藁の敷物が〔設けられたものとして有るなら〕、そこにおいて、比丘は、あるいは、歩行し、あるいは、立ち、あるいは、坐し、あるいは、臥所を営む。「空」とは、誰であろうが、あるいは、在家者たちが、あるいは、出家者たちが、うろつかないところと成る。「家」とは、精舎、半屋根、講堂、楼房、洞窟である。「〔そこにおいて〕坐し、結跏を組んで」とは、〔そこにおいて〕坐した者と成り、結跏を組んで。「身体を真っすぐに立てて」とは、真っすぐの身体と成り、安立した〔身体〕と〔成り〕、しっかりと立てられた〔身体〕と〔成り〕。「全面に気づきを現起させて」とは、「全」とは、遍き収取の義(意味)である。「面」とは、発出することの義(意味)である。「気づき」とは、現起の義(意味)である。それによって説かれる。「全面に気づきを現起させて」と。




165.




 [918]「まさしく、気づきある者として入息し、気づきある者として出息する」とは、三十二の【177】行相によって、気づきある為し手と成る。(1)長き入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、〔彼は〕気づきある為し手と成る。(2)長き出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、〔彼は〕気づきある為し手と成る。(3)短き入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、〔彼は〕気づきある為し手と成る。(4)短き出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、〔彼は〕気づきある為し手と成る……略……。(31)放棄の随観ある、入息を所以にする……。(32)放棄の随観ある、出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、〔彼は〕気づきある為し手と成る。




1.3.5.1 第一の四なるものについての釈示




166.




 [919](一)どのように、(1)長く入息しつつ、「〔わたしは〕長く入息する」と覚知し、(2)長く出息しつつ、「〔わたしは〕長く出息する」と覚知するのか。(1)〔彼は〕長き入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息する。(2)〔彼は〕長き出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息する。(3)〔彼は〕長き入息と出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息もまたし、出息もまたする。〔彼が〕長き入息と出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息もまたし、出息もまたしていると、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。(4)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる長き入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息する。(5)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる長き出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息する。(6)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる長き入息と出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息もまたし、出息もまたする。欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼が〕より微細なる長き入息と出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息もまたし、出息もまたしていると、歓喜が生起する。(7)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる長き入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息する。(8)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる長き出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息する。(9)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる長き入息と出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息もまたし、出息もまたする。歓喜を所以に、そののち、〔彼が〕より微細なる長き入息と出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息もまたし、出息もまたしていると、長き入息と出息からもまた、心は還転し、放捨〔の心〕が確立する。これらの九つの行相によって、長き入息と出息としての身体があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。身体は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「身体における身体の随観という気づきの確立(身念住・身念処)の修行」と。




167.




 [920]【178】「随観する」とは、どのように、その身体を随観するのか。無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。苦痛〔の観点〕から随観し、安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない。厭離し、喜悦しない。離貪し、貪欲しない。止滅させ、集起させない。放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を捨棄し、無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を捨棄し、厭離している者は、喜悦を捨棄し、離貪している者は、貪欲を捨棄し、止滅している者は、集起を捨棄し、放棄している者は、執取を捨棄する。このように、その身体を随観する。


 [921]「修行」とは、四つの修行がある。そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなき(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)によって、修行となる。それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。長き入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕諸々の感受は、見い出されたものとして生起し、見い出されたものとして現起し、見い出されたものとして滅没に至り、〔彼の〕諸々の表象は、見い出されたものとして生起し、見い出されたものとして現起し、見い出されたものとして滅没に至り、〔彼の〕諸々の思考は、見い出されたものとして生起し、見い出されたものとして現起し、見い出されたものとして滅没に至る。


 [922]どのように、〔彼の〕諸々の感受は、見い出されたものとして生起し、見い出されたものとして現起し、見い出されたものとして滅没に至るのか。どのように、感受の生起は、見い出されたものと成るのか。無明の集起から、感受の集起がある、ということで、縁の集起の義(意味)によって、感受の生起は、見い出されたものと成る。渇愛の集起から、感受の集起がある、ということで……略……。行為の集起から、感受の集起がある、ということで……略……。接触の集起から、感受の集起がある、ということで、縁の集起の義(意味)によって、感受の生起は、見い出されたものと成る。発現の特相を見ているばあいもまた、感受の生起は、見い出されたものと成る。このように、感受の生起は、見い出されたものと成る。


 [923]どのように、感受の現起は、見い出されたものと成るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、滅尽の現起は、見い出されたものと成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、恐怖の現起は、見い出されたものと成る。無我〔の観点〕から意を為していると、空性の現起は、見い出されたものと成る。このように、感受の現起は、見い出されたものと成る。


 [924]どのように、感受の滅至は、見い出されたものと成るのか。無明の止滅から、感受の止滅がある、ということで、縁の止滅の義(意味)によって、感受の滅至は、見い出されたものと成る。渇愛の止滅から、感受の止滅がある、【179】ということで……略……。行為の止滅から、感受の止滅がある、ということで……略……。接触の止滅から、感受の止滅がある、ということで、縁の止滅の義(意味)によって、感受の滅至は、見い出されたものと成る。変化の特相を見ているばあいもまた、感受の滅至は、見い出されたものと成る。このように、感受の滅至は、見い出されたものと成る。このように、〔彼の〕諸々の感受は、見い出されたものとして生起し、見い出されたものとして現起し、見い出されたものとして滅没に至る。


 [925]どのように、〔彼の〕諸々の表象は、見い出されたものとして生起し、見い出されたものとして現起し、見い出されたものとして滅没に至るのか。どのように、表象の生起は、見い出されたものと成るのか。無明の集起から、表象の集起がある、ということで、縁の集起の義(意味)によって、表象の生起は、見い出されたものと成る。渇愛の集起から、表象の集起がある、ということで……略……。行為の集起から、表象の集起がある、ということで……略……。接触の集起から、表象の集起がある、ということで、縁の集起の義(意味)によって、表象の生起は、見い出されたものと成る。発現の特相を見ているばあいもまた、表象の生起は、見い出されたものと成る。このように、表象の生起は、見い出されたものと成る。


 [926]どのように、表象の現起は、見い出されたものと成るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、滅尽の現起は、見い出されたものと成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、恐怖の現起は、見い出されたものと成る。無我〔の観点〕から意を為していると、空性の現起は、見い出されたものと成る。このように、表象の現起は、見い出されたものと成る。


 [927]どのように、表象の滅至は、見い出されたものと成るのか。無明の止滅から、表象の止滅がある、ということで、縁の止滅の義(意味)によって、表象の滅至は、見い出されたものと成る。渇愛の止滅から、表象の止滅がある、ということで……略……。行為の止滅から、表象の止滅がある、ということで……略……。接触の止滅から、表象の止滅がある、ということで、縁の止滅の義(意味)によって、表象の滅至は、見い出されたものと成る。変化の特相を見ているばあいもまた、表象の滅至は、見い出されたものと成る。このように、表象の滅至は、見い出されたものと成る。このように、〔彼の〕諸々の表象は、見い出されたものとして生起し、見い出されたものとして現起し、見い出されたものとして滅没に至る。


 [928]どのように、〔彼の〕諸々の思考は、見い出されたものとして生起し、見い出されたものとして現起し、見い出されたものとして滅没に至るのか。どのように、思考の生起は、見い出されたものと成るのか。無明の集起から、思考の集起がある、ということで、縁の集起の義(意味)によって、思考の生起は、見い出されたものと成る。渇愛の集起から、思考の集起がある、ということで……略……。行為の集起から、思考の集起がある、ということで……略……。接触の集起から、思考の集起がある、ということで、縁の集起の義(意味)によって、思考の生起は、見い出されたものと成る。発現の特相を見ているばあいもまた、思考の生起は、見い出されたものと成る。このように、思考の生起は、見い出されたものと成る。


 [929]どのように、思考の現起は、見い出されたものと成るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、滅尽の現起は、見い出されたものと成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、恐怖の現起は、見い出されたものと成る。無我〔の観点〕から意を為していると、空性の現起は、見い出されたものと成る。このように、思考の現起は、見い出されたものと成る。


 [930]どのように、思考の滅至は、見い出されたものと成るのか。無明の止滅から、思考の止滅がある、ということで、縁の止滅の義(意味)によって、思考の滅至は、見い出されたものと成る。渇愛の止滅から、思考の止滅がある、ということで……略……。行為の止滅から、思考の止滅がある、ということで……略……。接触の止滅から、思考の止滅がある、ということで、縁の止滅の義(意味)によって、思考の滅至は、見い出されたものと成る。変化の特相を見ているばあいもまた、思考の滅至は、見い出されたものと成る。このように、思考の滅至は、見い出されたものと成る。このように、【180】〔彼の〕諸々の思考は、見い出されたものとして生起し、見い出されたものとして現起し、見い出されたものとして滅没に至る。




168.




 [931]長き入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知している者は、〔五つの〕機能(五根)を結集し、しかして、境涯(作用範囲)を覚知し、さらには、平等の義(意味)を理解し……略……諸法(性質)を結集し、しかして、境涯を覚知し、さらには、平等の義(意味)を理解する。


 [932]「〔五つの〕機能(五根)を結集し」とは、どのように、〔五つの〕機能を結集するのか。信念の義(意味)によって、信の機能を結集する。励起の義(意味)によって、精進の機能を結集する。現起の義(意味)によって、気づきの機能を結集する。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能を結集する。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能を結集する。この人は、これらの〔五つの〕機能を、この対象において結集する。それによって説かれる。「〔五つの〕機能を結集し」と。


 [933]「しかして、境涯を覚知し」とは、それが、彼にとって、対象であるなら、それは、彼にとって、境涯であり、それが、彼にとって、境涯であるなら、それは、彼にとって、対象である。「覚知し」とは、人が〔覚知する〕。覚知することが、知慧である。


 [934]「平等」とは、対象の現起が、平等であり、心の散乱なきが、平等であり、心の確立が、平等であり、心の浄化が、平等である。「義(意味)」とは、罪過なきの義(意味)であり、〔心の〕汚れなきの義(意味)であり、浄化の義(意味)であり、最高の義(勝義)である。「理解する」とは、対象の現起の義(意味)を理解し、心の散乱なきの義(意味)を理解し、心の確立の義(意味)を理解し、心の浄化の義(意味)を理解する。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。


 [935]「〔五つの〕力(五力)を結集し」とは、どのように、〔五つの〕力を結集するのか。不信にたいする、不動の義(意味)によって、信の力を結集する。怠慢にたいする、不動の義(意味)によって、精進の力を結集する。放逸にたいする、不動の義(意味)によって、気づきの力を結集する。〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)によって、〔心の〕統一の力を結集する。無明にたいする、不動の義(意味)によって、知慧の力を結集する。この人は、これらの〔五つの〕力を、この対象において結集する。それによって説かれる。「〔五つの〕力を結集し」と。「しかして、境涯を覚知し」とは……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。


 [936]【181】「〔七つの〕覚りの支分(七覚支)を結集し」とは、どのように、〔七つの〕覚りの支分を結集するのか。現起の義(意味)によって、気づきという正覚の支分を結集する。考究の義(意味)によって、法(真理)の判別という正覚の支分を結集する。励起の義(意味)によって、精進という正覚の支分を結集する。充満の義(意味)によって、喜悦という正覚の支分を結集する。寂止の義(意味)によって、安息という正覚の支分を結集する。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一という正覚の支分を結集する。審慮(客観的観察)の義(意味)によって、放捨(客観的認識)という正覚の支分を結集する。この人は、これらの〔七つの〕覚りの支分を、この対象において結集する。それによって説かれる。「〔七つの〕覚りの支分を結集し」と。「しかして、境涯を覚知し」とは……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。


 [937]「〔八つの聖なる〕道(八正道・八聖道)を結集し」とは、どのように、〔八つの聖なる〕道を結集するのか。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解を結集する。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟を結集する。遍き収取の義(意味)によって、正しい言葉を結集する。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい生業“なりわい”を結集する。浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方を結集する。励起の義(意味)によって、正しい努力を結集する。現起の義(意味)によって、正しい気づきを結集する。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一を結集する。この人は、これらの〔八つの聖なる〕道を、この対象において結集する。それによって説かれる。「〔八つの聖なる〕道を結集し」と。「しかして、境涯を覚知し」とは……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。


 [938]「諸法(性質)を結集し」とは、どのように、諸法(性質)を結集するのか。優位主要性の義(意味)によって、〔五つの〕機能を結集する。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力を結集する。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分を結集する。因の義(意味)によって、〔八つの聖なる〕道を結集する。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立を結集する。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励を結集する。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場を結集する。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理を結集する。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕寂止を結集する。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察を結集する。一味の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を結集する。〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の寂止とあるがままの観察)を結集する。統御の義(意味)によって、戒の清浄を結集する。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄を結集する。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄を結集する。解き放ちの義(意味)によって、解脱を【182】結集する。理解の義(意味)によって、明知を結集する。遍捨の義(意味)によって、解脱を結集する。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵を結集する。静息の義(意味)によって、生起なきについての知恵を結集する。欲〔の思い〕(意欲)を、根元の義(意味)によって結集する。意を為すことを、等しく現起するものの義(意味)によって結集する。接触を、結集の義(意味)によって結集する。感受を、集結の義(意味)によって結集する。〔心の〕統一を、面前の義(意味)によって結集する。気づきを、優位主要性の義(意味)によって結集する。知慧を、それをより上とするの義(意味)によって結集する。解脱を、真髄の義(意味)によって結集する。不死への沈潜たる涅槃を、結末の義(意味)によって結集する。この人は、これらの諸法を、この対象において結集する。それによって説かれる。「諸法(性質)を結集し」と。


 [939]「しかして、境涯を覚知し」とは、それが、彼にとって、対象であるなら、それは、彼にとって、境涯であり、それが、彼にとって、境涯であるなら、それは、彼にとって、対象である。「覚知し」とは、人が〔覚知する〕。覚知することが、知慧である。「平等」とは、対象の現起が、平等であり、心の散乱なきが、平等であり、心の確立が、平等であり、心の浄化が、平等である。「義(意味)」とは、罪過なきの義(意味)であり、〔心の〕汚れなきの義(意味)であり、浄化の義(意味)であり、最高の義(勝義)である。「理解する」とは、対象の現起の義(意味)を理解し、心の散乱なきの義(意味)を理解し、心の確立の義(意味)を理解し、心の浄化の義(意味)を理解する。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。




169.




 [940](二)どのように、(3)短く入息しつつ、「〔わたしは〕短く入息する」と覚知し、(4)短く出息しつつ、「〔わたしは〕短く出息する」と覚知するのか。(1)〔彼は〕短き入息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、入息する。(2)〔彼は〕短き出息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、出息する。(3)〔彼は〕短き入息と出息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、入息もまたし、出息もまたする。〔彼が〕短き入息と出息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、入息もまたし、出息もまたしていると、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。(4)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる短き入息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、入息する。(5)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる短き出息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、出息する。(6)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる短き入息と出息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、入息もまたし、出息もまたする。欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼が〕より微細なる短き入息と出息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、入息もまたし、出息もまたしていると、歓喜が生起する。(7)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる短き入息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、入息する。(8)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる短き出息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、出息する。(9)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる短き入息と出息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、入息もまたし、出息もまたする。歓喜を所以に、そののち、〔彼が〕より微細なる短き入息と出息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、入息もまたし、出息もまたしていると、短き入息と出息からもまた、心は還転し、放捨〔の心〕が確立する。これらの九つの行相によって、短き入息と出息としての身体があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。身体は、現起であり、【183】気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「身体における身体の随観という気づきの確立の修行」と。


 [941]「随観する」とは、どのように、その身体を随観するのか……略……。このように、その身体を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。短き入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕諸々の感受は、見い出されたものとして生起し……略……。短き入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。




170.




 [942](三)どのように、(5)「〔わたしは〕一切の身体の得知者として、入息するであろう」と学び、(6)「〔わたしは〕一切の身体の得知者として、出息するであろう」と学ぶのか。「身体」とは、二つの身体がある。名前の身体(名身)と、形態の身体(色身)とである。どのようなものが、名前の身体であるのか。感受、表象、思欲、接触、意を為すこと、名前と、名前の身体と、さらには、それらが、心の形成〔作用〕(心行)と説かれるものであるなら、これが、名前の身体である。どのようなものが、形態の身体であるのか。四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)と、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態と、入息と、出息と、形相と、連結、さらには、それらが、身体の形成〔作用〕(身行)と説かれるものであるなら、これが、形態の身体である。


 [943]どのように、それらの身体は、確知されたものと成るのか。長き入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの身体は、確知されたものと成る。長き出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの身体は、確知されたものと成る。短き入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの身体は、確知されたものと成る。短き出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの身体は、確知されたものと成る。


 [944]〔心を〕傾注していると、それらの身体は、確知されたものと成る。〔あるがままに〕知っていると、それらの身体は、確知されたものと成る。〔あるがままに〕見ていると、それらの身体は、確知されたものと成る。〔あるがままに〕注視していると、それらの身体は、確知されたものと成る。心を確定していると、それらの身体は、確知されたものと成る。信によって信念していると、それらの身体は、確知されたものと成る。精進を励起していると、それらの身体は、確知されたものと成る。気づきを現起させていると、それらの身体は、確知されたものと成る。心を定めていると、それらの身体は、確知されたものと成る。知慧によって覚知していると、それらの身体は、確知されたものと成る。証知されるべきものを証知していると、それらの身体は、確知されたものと成る。遍知されるべきものを遍知していると、それらの身体は、確知されたものと【184】成る。捨棄されるべきものを捨棄していると、それらの身体は、確知されたものと成る。修行されるべきものを修行していると、それらの身体は、確知されたものと成る。実証されるべきものを実証していると、それらの身体は、確知されたものと成る。このように、それらの身体は、確知されたものと成る。一切の身体の得知ある、入息と出息としての身体があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。身体は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「身体における身体の随観という気づきの確立の修行」と。


 [945]「随観する」とは、どのように、その身体を随観するのか……略……。このように、その身体を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。


 [946]一切の身体の得知ある、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄があり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄がある。それが、そこにおいて、統御の義(意味)あるものであるなら、これは、向上の戒の学びである。それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なきの義(意味)あるものであるなら、これは、向上の心(増上心:定心)の学びである。それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)あるものであるなら、これは、向上の知慧の学びである。これらの三つの学び(三学:戒・定・慧)を、〔心を〕傾注している者として学び、〔あるがままに〕知っている者として学び、〔あるがままに〕見ている者として学び、〔あるがままに〕注視している者として学び、心を確立している者として学び、信によって信念している者として学び、精進を励起している者として学び、気づきを現起させている者として学び、心を定めている者として学び、知慧によって覚知している者として学び、証知されるべきものを証知している者として学び、遍知されるべきものを遍知している者として学び、捨棄されるべきものを捨棄している者として学び、修行されるべきものを修行している者として学び、実証されるべきものを実証している者として学ぶ。


 [947]一切の身体の得知ある、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕諸々の感受は、見い出されたものとして生起し……略……。一切の身体の得知ある、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。




171.




 [948](四)どのように、(7)「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕(身行)を安息させつつ、入息するであろう」と学び、(8)「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を安息させつつ、出息するであろう」と学ぶのか。どのようなものが、身体の形成〔作用〕であるのか。長き諸々の入息は、身体の属性であり、これらの諸法(性質)が、身体と連結された、身体の形成〔作用〕である。それらの身体の形成〔作用〕を、安息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。長き諸々の出息は、身体の属性であり、これらの諸法(性質)が、身体と連結された、身体の形成〔作用〕である。それらの身体の形成〔作用〕を、安息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。短き諸々の入息は……略……。短き諸々の出息は……略……。一切の身体の得知ある、諸々の入息は……略……。一切の身体の得知ある、諸々の出息は、身体の属性であり、これらの諸法(性質)が、身体と連結された、身体の形成〔作用〕である。それらの身体の形成〔作用〕を、安息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。


 [949]そのような形態の諸々の身体の形成〔作用〕によって、すなわち、身体が、後屈し、側屈し、全屈し、前屈し、動き、震え、動揺し、【185】振動するなら、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を安息させつつ、入息するであろう」と学び、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を安息させつつ、出息するであろう」と学ぶ。そのような形態の諸々の身体の形成〔作用〕によって、すなわち、身体が、後屈せず、側屈せず、全屈せず、前屈せず、動かず、震えず、動揺せず、振動しないとして、寂静にして微細なる〔身体の形成作用〕を、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を安息させつつ、入息するであろう」と学び、「身体の形成〔作用〕を安息させつつ、出息するであろう」と学ぶ。


 [950]かくのごとく、まさに、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を安息させつつ、入息するであろう」と学び、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を安息させつつ、出息するであろう」と学ぶ。このように存しているなら、しかして、〔入息と出息の〕風(気息)の認知に、〔その〕増加は有ることなく、かつまた、入息と出息に、〔その〕増加は有ることなく、なおかつ、呼吸についての気づきに、〔その〕増加は有ることなく、さらには、呼吸についての気づきという〔心の〕統一に、〔その〕増加は有ることなく、しかして、その〔入定〕その入定(等至:禅定の境地)に、賢者たちは、入定することもまた、出起することもまた、ない。


 [951]かくのごとく、まさに、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を安息させつつ、入息するであろう」と学び、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を安息させつつ、出息するであろう」と学ぶ。このように存しているなら、しかして、〔入息と出息の〕風(気息)の認知に、〔その〕増加が有り、かつまた、入息と出息に、〔その〕増加が有り、なおかつ、呼吸についての気づきに、〔その〕増加が有り、さらには、呼吸についての気づきという〔心の〕統一に、〔その〕増加が有り、しかして、その〔入定〕その入定に、賢者たちは、入定もまたするし、出起もまたする。どのように、そのようなことになるのか。それは、たとえば、また、銅鑼“どら”を打ったとき、最初に、諸々の粗大なる音が転起し、諸々の粗大なる音の形相が、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれたことから、たとえ、粗大なる音が止滅したとして、しかして、のちに、諸々の微細なる音が転起し、諸々の微細なる音の形相が、善く収め取られ、善く意が為され、【186】善く保ち置かれたことから、たとえ、微細なる音が止滅したとして、しかして、のちに、微細なる音の形相を対象とすることからもまた、心が転起するように、まさしく、このように、最初に、諸々の粗大なる入息と出息が転起し、諸々の粗大なる入息と出息の形相が、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれたことから、たとえ、粗大なる入息と出息が止滅したとして、しかして、のちに、諸々の微細なる入息と出息が転起し、諸々の微細なる入息と出息の形相が、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれたことから、たとえ、微細なる入息と出息が止滅したとして、しかして、のちに、微細なる入息と出息の形相を対象とすることからもまた、心は、散乱へと赴くことがない。


 [952]このように存しているなら、しかして、〔入息と出息の〕風(気息)の認知に、〔その〕増加が有り、かつまた、入息と出息に、〔その〕増加が有り、なおかつ、呼吸についての気づきに、〔その〕増加が有り、さらには、呼吸についての気づきという〔心の〕統一に、〔その〕増加が有り、しかして、それゆえに、その入定に、賢者たちは、入定もまたするし、出起もまたする。身体の形成〔作用〕を安息させつつ、入息と出息としての身体があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。身体は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「身体における身体の随観という気づきの確立の修行」と。


 [953]「随観する」とは、どのように、その身体を随観するのか……略……。このように、その身体を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。身体の形成〔作用〕を安息させつつ、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄があり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄がある。それが、そこにおいて、統御の義(意味)あるものであるなら、これは、向上の戒の学びである。それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なきの義(意味)あるものであるなら、これは、向上の心の学びである。それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)あるものであるなら、これは、向上の知慧の学びである。これらの三つの学びを、〔心を〕傾注している者として学び……略……実証されるべきものを実証している者として学ぶ。身体の形成〔作用〕を安息させつつ、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕諸々の感受は、見い出されたものとして生起し……略……。身体の形成〔作用〕を安息させつつ、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。


 [954]〔以上が〕八つの随観の知恵となり、さらには、八つの現起の随念となり、身体における身体の随観のための四つの経典としての基盤となる。


 [955]〔以上が第二の〕読誦分となる。




1.3.5.2 第二の四なるものについての釈示




172.




 [956](五)どのように、(9)「〔わたしは〕喜悦の得知者として、入息するであろう」と学び、(10)「〔わたしは〕喜悦の得知者として、出息するであろう」と学ぶのか。どのようなものが、喜悦であるのか。長き入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、喜悦と歓喜が生起し、それが、喜悦、歓喜、喜ぶこと、歓喜すること、笑い、笑喜、愉悦、〔心が〕躍り上がること、わが意を得たこととして、心にあるなら――長き出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、喜悦と歓喜が生起し……略……短き入息を所以にする……略……短き出息を所以にする……略……一切の身体の得知ある、入息を所以にする……略……一切の身体の得知ある、【187】出息を所以にする……略……身体の形成〔作用〕を安息させつつ、入息を所以にする……略……身体の形成〔作用〕を安息させつつ、出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、喜悦と歓喜が生起し、それが、喜悦、歓喜、喜ぶこと、歓喜すること、笑い、笑喜、愉悦、〔心が〕躍り上がること、わが意を得たこととして、心にあるなら――これが、喜悦である。


 [957]どのように、その喜悦は、確知されたものと成るのか。長き入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、その喜悦は、確知されたものと成る。長き出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、その喜悦は、確知されたものと成る。短き入息を所以にする……略……。短き出息を所以にする……。一切の身体の得知ある、入息を所以にする……。一切の身体の得知ある、出息を所以にする……。身体の形成〔作用〕を安息させつつ、入息を所以にする……略……。身体の形成〔作用〕を安息させつつ、出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、その喜悦は、確知されたものと成る。〔心を〕傾注していると、その喜悦は、確知されたものと成る。〔あるがままに〕知っていると……。〔あるがままに〕見ていると……。〔あるがままに〕注視していると……。心を確立していると……。信によって信念していると……。精進を励起していると……。気づきを現起させていると……。心を定めていると……。知慧によって覚知していると……。証知されるべきものを証知していると……。遍知されるべきものを遍知していると……。捨棄されるべきものを捨棄していると……。修行されるべきものを修行していると……。実証されるべきものを実証していると、その喜悦は、確知されたものと成る。このように、その喜悦は、確知されたものと成る。


 [958]喜悦の得知ある、入息と出息を所以に、感受があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。感受は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その感受を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の感受における感受の随観という気づきの確立(受念住・受念処)の修行」と。


 [959]「随観する」とは、どのように、その感受を随観するのか。無常〔の観点〕から随観し……略……。このように、その感受を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。喜悦の得知ある、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略……。喜悦の得知ある、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると……略……覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。




173.




 [960](六)どのように、(11)「〔わたしは〕安楽の得知者として、入息するであろう」と学び、(12)「〔わたしは〕安楽の得知者として、出息するであろう」と学ぶのか。【188】「安楽」とは、二つの安楽がある。身体の属性としての安楽と、心の属性としての安楽とである。どのようなものが、身体の属性としての安楽であるのか。それが、身体の属性としての快楽、身体の属性としての安楽、身体の接触から生じる快楽と安楽として感受されたもの、身体の接触から生じる快楽と安楽の感受であるなら、これが、身体の属性としての安楽である。どのようなものが、心の属性としての安楽であるのか。それが、心の属性としての快楽、心の属性としての安楽、心の接触から生じる快楽と安楽として感受されたもの、心の接触から生じる快楽と安楽の感受であるなら、これが、心の属性としての安楽である。


 [961]どのように、それらの安楽は、確知されたものと成るのか。長き入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの安楽は、確知されたものと成る。長き出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの安楽は、確知されたものと成る……略……。実証されるべきものを実証していると、それらの安楽は、確知されたものと成る。このように、それらの安楽は、確知されたものと成る。安楽の得知ある、入息と出息を所以に、感受があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。感受は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その感受を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の感受における感受の随観という気づきの確立の修行」と。


 [962]「随観する」とは、どのように、その感受を随観するのか。無常〔の観点〕から随観し……略……。このように、その感受を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。安楽の得知ある、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略……。安楽の得知ある、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると……略……覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。




174.




 [963](七)どのように、(13)「〔わたしは〕心の形成〔作用〕(心行)の得知者として、入息するであろう」と学び、(14)「〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知者として、出息するであろう」と学ぶのか。どのようなものが、心の形成〔作用〕であるのか。長き入息を所以にする、表象〔作用〕と、感受〔作用〕とは、〔両者ともに〕心の属性であり、これらの諸法(性質)が、心と連結された、心の形成〔作用〕である。長き出息を所以にする、表象〔作用〕と、感受〔作用〕とは、〔両者ともに〕心の属性であり、これらの諸法(性質)が、心と連結された、心の形成〔作用〕である……略……。安楽の得知ある、入息を所以にする……。安楽の得知ある、出息を所以にする、表象〔作用〕と、感受〔作用〕とは、〔両者ともに〕心の属性であり、これらの諸法(性質)が、心と連結された、心の形成〔作用〕である。これが、心の形成〔作用〕である。


 [964]どのように、それらの心の形成〔作用〕は、確知されたものと成るのか。長き入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの心の形成〔作用〕は、確知されたものと成る。長き出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの心の形成〔作用〕は、確知されたものと成る……略……。実証されるべきものを実証していると、それらの心の形成〔作用〕は、確知されたものと成る。このように、それらの心の形成〔作用〕は、【189】確知されたものと成る。心の形成〔作用〕の得知ある、入息と出息を所以に、感受があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。感受は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その感受を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の感受における感受の随観という気づきの確立の修行」と。


 [965]「随観する」とは、どのように、その感受を随観するのか。無常〔の観点〕から随観し……略……。このように、その感受を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。心の形成〔作用〕の得知ある、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略……。心の形成〔作用〕の得知ある、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると……略……覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。




175.




 [966](八)どのように、(15)「〔わたしは〕心の形成〔作用〕を安息させつつ、入息するであろう」と学び、(16)「〔わたしは〕心の形成〔作用〕を安息させつつ、出息するであろう」と学ぶのか。どのようなものが、心の形成〔作用〕であるのか。長き入息を所以にする、表象〔作用〕と、感受〔作用〕とは、〔両者ともに〕心の属性であり、これらの諸法(性質)が、心と連結された、心の形成〔作用〕である。それらの心の形成〔作用〕を、安息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。長き出息を所以にする、表象〔作用〕と、感受〔作用〕とは、〔両者ともに〕心の属性であり、これらの諸法(性質)が、心と連結された、心の形成〔作用〕である。それらの心の形成〔作用〕を、安息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。心の形成〔作用〕の得知ある、入息を所以にする……。心の形成〔作用〕の得知ある、出息を所以にする、表象〔作用〕と、感受〔作用〕とは、〔両者ともに〕心の属性であり、これらの諸法(性質)が、心と連結された、心の形成〔作用〕である。それらの心の形成〔作用〕を、安息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。心の形成〔作用〕を安息させつつ、入息と出息を所以に、感受があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。感受は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その感受を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の感受における感受の随観という気づきの確立の修行」と。


 [967]「随観する」とは、どのように、その感受を随観するのか……略……。このように、その感受を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。心の形成〔作用〕を安息させつつ、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略……。心の形成〔作用〕を安息させつつ、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると……略……覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。


 [968]〔以上が〕八つの随観の知恵となり、さらには、八つの現起の随念となり、諸々の感受における感受の随観のための四つの経典としての基盤となる。




1.3.5.3 第三の四なるものについての釈示




176.




 [969](九)どのように、(17)「〔わたしは〕心の得知者として、入息するであろう」と学び、(18)「〔わたしは〕心の得知者として、出息するであろう」と学ぶのか。どのようなものが、その心であるのか。長き入息を所以にする識別〔作用〕は、心であり、それが、心、意(マノー)、意図(マーナサ)、心臓(心)、白きもの(認識の領域)、意(マノー)、意の〔認識の〕場所、意の機能、識別〔作用〕、識別〔作用〕の範疇、それから生じる〔心〕、意の識別〔作用〕の界域であるなら――長き出息を所以にする……略……心の形成〔作用〕を安息させつつ、入息を所以にする……心の形成〔作用〕を安息させつつ、出息を所以にする識別〔作用〕は、心であり、それが、心、意、意図、心臓(心)、白きもの(認識の領域)、【190】意、意の〔認識の〕場所、意の機能、識別〔作用〕、識別〔作用〕の範疇、それから生じる〔心〕、意の識別〔作用〕の界域であるなら――これが、心である。


 [970]どのように、その心は、確知されたものと成るのか。長き入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、その心は、確知されたものと成る。長き出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、その心は、確知されたものと成る……略……。実証されるべきものを実証していると、その心は、確知されたものと成る。このように、その心は、確知されたものと成る。心の得知ある、入息と出息を所以に、識別〔作用〕としての心があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。心は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その心を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「心における心の随観という気づきの確立(心念住・心念処)の修行」と。


 [971]「随観する」とは、どのように、その心を随観するのか……略……。このように、その心を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。心の得知ある、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略……。心の得知ある、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると……略……覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。




177.




 [972](十)どのように、(19)「〔わたしは〕心を歓喜させつつ、入息するであろう」と学び、(20)「〔わたしは〕心を歓喜させつつ、出息するであろう」と学ぶのか。どのようなものが、心にとっての歓喜であるのか。長き入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、心にとっての歓喜が生起し、それが、心にとっての、喜悦、歓喜、喜ぶこと、歓喜すること、笑い、笑喜、愉悦、〔心が〕躍り上がること、わが意を得たこととして、心にあるなら――長き出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、心にとっての歓喜が生起し、それが、心にとっての、喜悦、歓喜、喜ぶこと、歓喜すること、笑い、笑喜、愉悦、〔心が〕躍り上がること、わが意を得たこととして、心にあるなら……略……心の得知ある、入息を所以にする……略……心の得知ある、出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、心にとっての歓喜が生起し、それが、喜悦、歓喜、喜ぶこと、歓喜すること、笑い、笑喜、愉悦、〔心が〕躍り上がること、わが意を得たこととして、心にあるなら――これが、心にとっての歓喜である。心を歓喜させつつ、入息と出息を所以に、識別〔作用〕としての心があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。心は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その心を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「心における心の随観という気づきの確立の修行」と。


 [973]「随観する」とは、どのように、その心を随観するのか……略……。このように、その心を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。心を歓喜させつつ、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略……。心を歓喜させつつ、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると……略……覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。




178.




 [974](十一)どのように、(21)「〔わたしは〕心を定めつつ、入息するであろう」と学び、(22)「〔わたしは〕心を定めつつ、出息するであろう」と学ぶのか。【191】どのようなものが、〔心の〕統一であるのか。長き入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一である。それが、心にとっての、安立、確立、確定、〔心の〕揺震なき、〔心の〕散乱なき、〔心の〕揺震なき意図たること、〔心の〕寂止、〔心の〕統一の機能、〔心の〕統一の力、正しい〔心の〕統一であるなら――長き出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一である……略……心を定めつつ、入息を所以にする……略……心を定めつつ、出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一である。それが、心にとっての、安立、確立、確定、〔心の〕揺震なき、〔心の〕散乱なき、〔心の〕揺震なき意図たること、〔心の〕寂止、〔心の〕統一の機能、〔心の〕統一の力、正しい〔心の〕統一であるなら――これが、〔心の〕統一である。心を定めつつ、入息と出息を所以に、識別〔作用〕としての心があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。心は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その心を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「心における心の随観という気づきの確立の修行」と。


 [975]「随観する」とは、どのように、その心を随観するのか……略……。このように、その心を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。心を定めつつ、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略……。心を定めつつ、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると……略……覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。




179.




 [976](十二)どのように、(23)「〔わたしは〕心を解き放ちつつ、入息するであろう」と学び、(24)「〔わたしは〕心を解き放ちつつ、出息するであろう」と学ぶのか。「貪欲から、〔わたしは〕心を解き放ちつつ、入息するであろう」と〔彼は〕学び、「貪欲から、〔わたしは〕心を解き放ちつつ、出息するであろう」と〔彼は〕学ぶ。「憤怒から、〔わたしは〕心を解き放ちつつ、入息するであろう」と〔彼は〕学び、「憤怒から、〔わたしは〕心を解き放ちつつ、出息するであろう」と〔彼は〕学ぶ。「迷妄から、〔わたしは〕心を解き放ちつつ、入息するであろう」と〔彼は〕学び……略……。「思量から、〔わたしは〕心を解き放ちつつ……。「見解から、〔わたしは〕心を解き放ちつつ……。「疑惑から、〔わたしは〕心を解き放ちつつ……。「沈滞から、〔わたしは〕心を解き放ちつつ……。「高揚から、〔わたしは〕心を解き放ちつつ……。「恥〔の思い〕なき(無慚)から、〔わたしは〕心を解き放ちつつ……。「〔良心の〕咎めなき(無愧)から、〔わたしは〕心を解き放ちつつ、入息するであろう」と〔彼は〕学び、「〔良心の〕咎めなきから、〔わたしは〕心を解き放ちつつ、出息するであろう」と〔彼は〕学ぶ。心を解き放ちつつ、入息と出息を所以に、識別〔作用〕としての心があり、現起としての気づきがあり……略……。


 [977]「随観する」とは、どのように、その心を随観するのか……略……。このように、その心を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。心を解き放ちつつ、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略……。心を解き放ちつつ、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると……略……覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。


 [978]〔以上が〕八つの随観の知恵となり、さらには、八つの現起の随念となり、諸々の感受における感受の随観のための四つの経典としての基盤となる。




1.3.5.4 第四の四なるものについての釈示




180.




 [979](十三)どのように、(25)「〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するであろう」と学び、(26)「〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶのか。「無常」とは、何が、無常であるのか。〔心身を構成する〕五つの範疇(五蘊)が、無常である。どのような義(意味)によって、無常であるのか。生成と衰微の義(意味)によって、無常である。〔心身を構成する〕五つの範疇の、生成を見ている者は、どれだけの特相を見るのか、衰微を見ている者は、どれだけの特相を見るのか、生成と衰微を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。〔心身を構成する〕五つの【192】範疇の、生成を見ている者は、二十五の特相を見、衰微を見ている者は、二十五の特相を見る。〔心身を構成する〕五つの範疇の、生成と衰微を見ている者は、これらの五十の特相を見る。


 [980]「形態において、〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するであろう」と学び、「形態において、〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶ。「感受〔作用〕において……略……。「表象〔作用〕において……。「諸々の形成〔作用〕において……。「識別〔作用〕において……。「眼において……略……。「老と死において、〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するであろう」と学び、「老と死において、〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶ。無常の随観ある、入息と出息を所以に、諸法(性質)があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。諸法(性質)は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、それらの諸法(性質)を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立(法念住・法念処)の修行」と。


 [981]「随観する」とは、どのように、それらの諸法(性質)を随観するのか……略……。このように、それらの諸法(性質)を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。無常の随観ある、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略……。無常の随観ある、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると……略……覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。


 [982](十四)どのように、(27)「〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するであろう」と学び、(28)「〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶのか。形態において、危険(患)を見て、形態の離貪について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成り〕、「形態において、〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するであろう」と学び、「形態において、〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶ。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼において……略……。老と死において、危険を見て、老と死の離貪について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成り〕、「老と死において、〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するであろう」と学び、「老と死において、〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶ。離貪の随観ある、入息と出息を所以に、諸法(性質)があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。諸法(性質)は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、それらの諸法(性質)を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立の修行」と。


 [983]「随観する」とは、どのように、それらの諸法(性質)を随観するのか……略……。このように、それらの諸法(性質)を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。離貪の随観ある、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略……。離貪の随観ある、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると……略……覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。


 [984](十五)どのように、(29)「〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するであろう」と学び、(30)「〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶのか。形態において、危険を見て、形態の止滅について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成り〕、「形態において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するであろう」と学び、「形態において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶ。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼において……略……。老と死において、危険を見て、老と死の止滅について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成り〕、「老と死において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するであろう」と学び、「老と死において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶ。




181.




 [985]どれだけの行相によって、無明において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、無明は止滅するのか。五つの行相によって、無明において、危険と成る。八つの行相によって、無明は止滅する。


 [986]【193】どのような五つの行相によって、無明において、危険と成るのか。無常の義(意味)によって、無明において、危険と成る。苦痛の義(意味)によって、無明において、危険と成る。無我の義(意味)によって、無明において、危険と成る。熱苦の義(意味)によって、無明において、危険と成る。変化の義(意味)によって、無明において、危険と成る。これらの五つの行相によって、無明において、危険と成る。


 [987]どのような八つの行相によって、無明は止滅するのか。因縁の止滅によって、無明は止滅する。集起の止滅によって、無明は止滅する。出生の止滅によって、無明は止滅する。起源の止滅によって、無明は止滅する。因の止滅によって、無明は止滅する。縁の止滅によって、無明は止滅する。知恵の生起によって、無明は止滅する。止滅の現起によって、無明は止滅する。これらの八つの行相によって、無明は止滅する。これらの五つの行相によって、無明において、危険を見て、これらの八つの行相によって、無明の止滅について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成り〕、「無明において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するであろう」と学び、「無明において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶ。


 [988]どれだけの行相によって、諸々の形成〔作用〕において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、諸々の形成〔作用〕は止滅するのか……略……。どれだけの行相によって、識別〔作用〕において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、識別〔作用〕は止滅するのか……。どれだけの行相によって、名前と形態において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、名前と形態は止滅するのか……。どれだけの行相によって、六つの〔認識の〕場所において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、六つの〔認識の〕場所は止滅するのか……。どれだけの行相によって、接触において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、接触は止滅するのか……。どれだけの行相によって、感受において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、感受は止滅するのか……。どれだけの行相によって、渇愛において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、渇愛は止滅するのか……。どれだけの行相によって、執取において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、執取は止滅するのか……。どれだけの行相によって、生存において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、生存は止滅するのか……。どれだけの行相によって、生において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、生は止滅するのか……。どれだけの行相によって、老と死において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、老と死は止滅するのか。五つの行相によって、老と死において、危険と成る。八つの行相によって、老と死は止滅する。


 [989]どのような五つの行相によって、老と死において、危険と成るのか。【194】無常の義(意味)によって、老と死において、危険と成る。苦痛の義(意味)によって……略……。無我の義(意味)によって……略……。熱苦の義(意味)によって……略……。変化の義(意味)によって、老と死において、危険と成る。これらの五つの行相によって、老と死において、危険と成る。


 [990]どのような八つの行相によって、老と死は止滅するのか。因縁の止滅によって、老と死は止滅する。集起の止滅によって……略……。出生の止滅によって……略……。起源の止滅によって……略……。因の止滅によって……略……。縁の止滅によって……略……。知恵の生起によって……略……。止滅の現起によって、老と死は止滅する。これらの八つの行相によって、老と死は止滅する。これらの五つの行相によって、老と死において、危険を見て、これらの八つの行相によって、老と死の止滅について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成り〕、「老と死において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するであろう」と学び、「老と死において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶ。止滅の随観ある、入息と出息を所以に、諸法(性質)があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。諸法(性質)は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、それらの諸法(性質)を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立の修行」と。


 [991]「随観する」とは、どのように、それらの諸法(性質)を随観するのか……略……。このように、それらの諸法(性質)を随観する。「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。止滅の随観ある、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略……。止滅の随観ある、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると……略……覚知している者は、〔五つの〕機能を結集し……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。




182.




 [992](十六)どのように、(31)「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するであろう」と学び、(32)「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶのか。「放棄」とは、二つの放棄がある。遍捨の放棄と、跳入の放棄とである。形態を遍捨する、ということで、遍捨の放棄となる。形態の止滅という涅槃〔の界域〕にたいし、心が跳入する、ということで、跳入の放棄となる。「形態において、〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するであろう」と学び、「形態において、〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶ。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識別〔作用〕を……。眼を……略……。老と死を遍捨する、ということで、遍捨の放棄となる。老と死の止滅という涅槃〔の界域〕にたいし、心が跳入する、ということで、跳入の放棄となる。「老と死において、〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するであろう」と学び、「老と死において、〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するであろう」と学ぶ。放棄の随観ある、入息と出息を所以に、諸法(性質)があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。諸法(性質)は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、それらの諸法(性質)を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立の修行」と。


 [993]「随観する」とは、どのように、それらの諸法を随観するのか。無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない……略……。放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し……略……放棄している者は、執取を捨棄する。このように、それらの諸法を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなき(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、修行となる……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。放棄の随観ある、入息と出息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄があり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄がある。それが、そこにおいて、統御の義(意味)あるものであるなら、これは、向上の戒の学びである。それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なきの義(意味)あるものであるなら、これは、向上の心の学びである。それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)あるものであるなら、これは、向上の知慧の学びである。これらの三つの学びを、〔心を〕傾注している者として学び、〔あるがままに〕知っている者として学び……略……実証されるべきものを実証している者として学ぶ。


 [994]放棄の随観ある、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知していると、〔彼の〕諸々の感受は、見い出されたものとして生起し、見い出されたものとして現起し、見い出されたものとして滅没に至り……略……。放棄の随観ある、入息と出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきを覚知している者は、〔五つの〕機能(五根)を結集し、しかして、境涯(作用範囲)を覚知し、さらには、平等の義(意味)を理解し、〔五つの〕力(五力)を結集し……〔七つの〕覚りの支分(七覚支)を結集し……〔八つの聖なる〕道(八正道・八聖道)を結集し……諸法(性質)を結集し、しかして、境涯を覚知し、さらには、平等の義(意味)を理解する。


 [995]「〔五つの〕機能を結集し」とは、どのように、〔五つの〕機能を結集するのか。信念の義(意味)によって、信の機能を結集する……略……。それによって説かれる。「さらには、平等の義(意味)を理解する」と。


 [996]〔以上が〕八つの随観の知恵となり、さらには、八つの現起の随念となり、諸々の法(性質)における法(性質)の随観のための四つの経典としての基盤となる。これらの三十二の気づきある為し手の知恵がある。


 [997]気づきある為し手の知恵についての釈示が、第五となる。




1.3.6 知恵の集まりの六なるものについての釈示




183.




 [998](5)どのような二十四の〔心の〕統一を所以にする知恵があるのか。長き入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一である。長き出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一である……略……。心を解き放ちつつ、入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一である。心を解き放ちつつ、出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一である。これらの二十四の〔心の〕統一を所以にする知恵がある。


 [999](6)どのような七十二の〔あるがままの〕観察を所以にする知恵があるのか。長き【195】入息を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。長き出息を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる……略……。心を解き放ちつつ、入息を〔対象とする〕……略……。心を解き放ちつつ、出息を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。これらの七十二の〔あるがままの〕観察を所以にする知恵がある。


 [1000](7)どのような八つの厭離の知恵があるのか。無常の随観ある、入息を事実のとおりに知り見る、ということで、厭離の知恵がある。無常の随観ある、出息を事実のとおりに知り見る、ということで、厭離の知恵がある……略……。放棄の随観ある、入息を事実のとおりに知り見る、ということで、厭離の知恵がある。放棄の随観ある、出息を事実のとおりに知り見る、ということで、厭離の知恵がある。これらの八つの厭離の知恵がある。


 [1001](8)どのような八つの厭離に随順するものについての知恵があるのか。無常の随観ある、入息を〔事実のとおりに知り見て〕、恐怖の現起における知慧が、厭離に随順するものについての知恵となる。無常の随観ある、出息を〔事実のとおりに知り見て〕、恐怖の現起における知慧が、厭離に随順するものについての知恵となる……略……。放棄の随観ある、入息を〔事実のとおりに知り見て〕、恐怖の現起における知慧が、厭離に随順するものについての知恵となる。放棄の随観ある、出息を〔事実のとおりに知り見て〕、恐怖の現起における知慧が、厭離に随順するものについての知恵となる。これらの八つの厭離に随順するものについての知恵がある。


 [1002](9)どのような八つの厭離の静息の知恵があるのか。無常の随観ある、入息を審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、厭離の静息の知恵となる。無常の随観ある、出息を審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、厭離の静息の知恵となる……略……。放棄の随観ある、入息を審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、厭離の静息の知恵となる。放棄の随観ある、出息を審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、厭離の静息の知恵となる。これらの八つの厭離の静息の知恵がある。


 [1003](10)どのような二十一の解脱の安楽についての知恵があるのか。預流道によって、身体が有るという見解が捨棄され断絶されたことから、解脱の安楽についての知恵が生起し、疑惑〔の思い〕が捨棄され断絶されたことから、解脱の安楽についての知恵が生起し、戒や掟への執着が……略……見解の悪習が……略……疑惑の悪習が捨棄され断絶されたことから、解脱の安楽についての知恵が生起する。一来道によって、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものが……略……〔粗大なる〕憤激〔の思い〕という束縛するものが……略……粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習が……略……〔粗大なる〕憤激〔の思い〕の悪習が捨棄され断絶されたことから、【196】解脱の安楽についての知恵が生起する。不還道によって、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものが……略……〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕という束縛するものが……略……微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習が……略……〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕の悪習が捨棄され断絶されたことから、解脱の安楽についての知恵が生起する。阿羅漢道によって、形態(色界)にたいする貪欲〔の思い〕が……略……形態なき(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕が……略……思量が……略……高揚が……略……無明が……略……思量の悪習が……略……生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習が……略……無明の悪習が捨棄され断絶されたことから、解脱の安楽についての知恵が生起する。これらの二十一の解脱の安楽についての知恵がある。十六の基盤ある、呼吸についての気づきという〔心の〕統一を修行している者には、これらの二百の〔心の〕統一の知恵が生起する。


 [1004]呼吸についての気づきについての言説は、〔以上で〕終了した。


 〔以上が第三の読誦分となる。〕




1.4 機能についての言説




1.4.1 第一の経典についての釈示




184.




 [1005]【vol.2-1】このように、わたしは聞いた。或る時のことである。世尊は、サーヴァッティ(舎衛城)に住している。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の園地(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに語りかけた。「比丘たちよ」と。「尊き方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えた。世尊は、こう言った。


 [1006]「比丘たちよ、五つのものがある。これらの機能(根)である。どのようなものが、五つのものであるのか。信の機能(信根)、精進の機能(精進根)、気づきの機能(念根)、〔心の〕統一の機能(定根)、知慧の機能(慧根)である。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能がある」〔と〕。




185.




 [1007]これらの五つの機能は、どれだけの行相によって清浄となるのか。これらの五つの機能は、十五の行相によって清浄となる。信なき人たちを遍く避けていると、信ある人たちと慣れ親しみ親しくし奉侍していると、清らかな信あるべき諸々の経典を注視していると、これらの三つの行相によって、信の機能は清浄となる。怠惰の人たちを遍く避けていると、精進に励む人たちと慣れ親しみ親しくし奉侍していると、〔四つの〕正しい精励を注視していると、これらの三つの行相によって、精進の機能は清浄となる。気づきを忘却した人たちを遍く避けていると、気づきを現起させた人たちと慣れ親しみ親しくし奉侍していると、〔四つの〕気づきの確立(四念住・四念処)を注視していると、これらの三つの行相によって、気づきの機能は清浄となる。〔心が〕定められていない人たちを遍く避けていると、〔心が〕定められた人たちと慣れ親しみ親しくし奉侍していると、瞑想の解脱を注視していると、これらの三つの行相によって、〔心の〕統一の機能は清浄となる。知慧浅き人たちを遍く避けていると、知慧ある人たちと慣れ親しみ親しくし奉侍していると、深遠なる知恵の性行を注視していると、【2】これらの三つの行相によって、知慧の機能は清浄となる。かくのごとく、これらの五者の人たちを遍く避けていると、〔これらの〕五者の人たちと慣れ親しみ親しくし奉侍していると、〔これらの〕五つの経典の範疇を注視していると、これらの十五の行相によって、これらの五つの機能は清浄となる。


 [1008]どれだけの行相によって、五つの機能が修行されるのか。どれだけの行相によって、五つの機能の修行と成るのか。十の行相によって、五つの機能が修行される。十の行相によって、五つの機能の修行と成る。不信を捨棄している者は、信の機能を修行する。信の機能を修行している者は、不信を捨棄する。怠慢を捨棄している者は、精進の機能を修行する。精進の機能を修行している者は、怠慢を捨棄する。放逸を捨棄している者は、気づきの機能を修行する。気づきの機能を修行している者は、放逸を捨棄する。〔心の〕高揚を捨棄している者は、〔心の〕統一の機能を修行する。〔心の〕統一の機能を修行している者は、〔心の〕高揚を捨棄する。無明を捨棄している者は、知慧の機能を修行する。知慧の機能を修行している者は、無明を捨棄する。これらの十の行相によって、五つの機能が修行される。これらの十の行相によって、五つの機能の修行と成る。


 [1009]どれだけの行相によって、五つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕のか。十の行相によって、五つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。不信が、捨棄されたことから、善く捨棄されたことから、信の機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。信の機能が、修行されたことから、善く修行されたことから、不信が、捨棄されたものと成り、善く捨棄されたものと〔成る〕。怠慢が、捨棄されたことから、善く捨棄されたことから、精進の機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。精進の機能が、修行されたことから、善く修行されたことから、怠慢が、捨棄されたものと成り、善く捨棄されたものと〔成る〕。放逸が、捨棄されたことから、善く捨棄されたことから、気づきの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。気づきの機能が、修行されたことから、善く修行されたことから、放逸が、捨棄されたものと成り、善く捨棄されたものと〔成る〕。〔心の〕高揚が、捨棄されたことから、善く捨棄されたことから、〔心の〕統一の機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。〔心の〕統一の機能が、修行されたことから、善く修行されたことから、〔心の〕高揚が、捨棄されたものと成り、善く捨棄されたものと〔成る〕。無明が、捨棄されたことから、善く捨棄されたことから、知慧の機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。知慧の機能が、修行されたことから、善く修行されたことから、無明が、捨棄されたものと成り、善く捨棄されたものと〔成る〕。これらの十の行相によって、五つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。




186.




 [1010]どれだけの行相によって、五つの機能が修行されるのか。どれだけの行相によって、五つの機能が、まさしく、しかして、修行されたものと成り、なおかつ、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、静息されたものと〔成り〕、さらには、善く静息されたものと〔成る〕のか。【3】四つの行相によって、五つの機能が修行される。四つの行相によって、五つの機能が、まさしく、しかして、修行されたものと成り、なおかつ、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、静息されたものと〔成り〕、さらには、善く静息されたものと〔成る〕。預流道の瞬間において、五つの機能が修行される。預流果の瞬間において、五つの機能が、まさしく、しかして、修行されたものと成り、なおかつ、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、静息されたものと〔成り〕、さらには、善く静息されたものと〔成る〕。一来道の瞬間において、五つの機能が修行される。一来果の瞬間において、五つの機能が、まさしく、しかして、修行されたものと成り、なおかつ、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、静息されたものと〔成り〕、さらには、善く静息されたものと〔成る〕。不還道の瞬間において、五つの機能が修行される。不還果の瞬間において、五つの機能が、まさしく、しかして、修行されたものと成り、なおかつ、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、静息されたものと〔成り〕、さらには、善く静息されたものと〔成る〕。阿羅漢道の瞬間において、五つの機能が修行される。阿羅漢果の瞬間において、五つの機能が、まさしく、しかして、修行されたものと成り、なおかつ、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、静息されたものと〔成り〕、さらには、善く静息されたものと〔成る〕。かくのごとく、四つの道の清浄があり、四つの果の清浄があり、四つの断絶の清浄があり、四つの静息の清浄がある。これらの四つの行相によって、五つの機能が修行される。これらの四つの行相によって、五つの機能が、まさしく、しかして、修行されたものと成り、なおかつ、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、静息されたものと〔成り〕、さらには、善く静息されたものと〔成る〕。


 [1011]どれだけの人に、機能の修行があるのか。どれだけの人が、機能が修行された者たちであるのか。八者の人に、機能の修行がある。三者の人が、機能が修行された者たちである。どのような八者の人に、機能の修行があるのか。しかして、七者の学びある者に、さらには、善き凡夫に、である。これらの八者の人に、機能の修行がある。どのような三者の人が、機能が修行された者たちであるのか。聴聞によって覚った、如来の弟子たる煩悩の滅尽者として、機能が修行された者、自ら成ったという義(意味)によって、独正覚者として、機能が修行された者、量るべくもなきという義(意味)によって、阿羅漢にして正自覚たる如来として、機能が修行された者である。これらの三者の人が、機能が修行された者たちである。かくのごとく、これらの八者の人に、機能の修行がある。これらの三者の人が、機能が修行された者たちである。


 [1012]経典についての釈示が、第一となる。




1.4.2 第二の経典についての釈示




187.




 [1013]サーヴァッティの因縁となる。「比丘たちよ、五つのものがある。これらの機能である。どのようなものが、五つのものであるのか。信の機能、精進の機能、気づきの機能、〔心の〕統一の機能、【4】知慧の機能である。


 [1014]比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、沙門たちであろうが、婆羅門たちであろうが、これらの五つの機能の、しかして、集起を、かつまた、滅至を、かつまた、悦楽を、かつまた、危険を、さらには、出離(出要)を、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、彼らは、沙門たちであろうが、婆羅門たちであろうが、あるいは、沙門たちのなかで沙門として敬われている者たちと〔成ることはなく〕、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として敬われている者たちと〔成ることは〕なく、さらには、また、これらの者たちは、尊者たちと〔成ることはなく〕、あるいは、沙門の資質の義(意味)を、あるいは、婆羅門の資質の義(意味)を、まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことはない。


 [1015]比丘たちよ、しかして、まさに、彼らが誰であれ、沙門たちであろうが、婆羅門たちであろうが、これらの五つの機能の、しかして、集起を、かつまた、滅至を、かつまた、悦楽を、かつまた、危険を、さらには、出離を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、彼らは、沙門たちであろうが、婆羅門たちであろうが、あるいは、沙門たちのなかで沙門として敬われている者たちと〔成り〕、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として敬われている者たちと〔成り〕、さらには、また、彼らは、尊者たちと〔成り〕、あるいは、沙門の資質の義(意味)を、あるいは、婆羅門の資質の義(意味)を、まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と。




188.




 [1016]どれだけの行相によって、五つの機能の集起と成るのか。どれだけの行相によって、五つの機能の集起を覚知するのか。どれだけの行相によって、五つの機能の滅至と成るのか。どれだけの行相によって、五つの機能の滅至を覚知するのか。どれだけの行相によって、五つの機能の悦楽と成るのか。どれだけの行相によって、五つの機能の悦楽を覚知するのか。どれだけの行相によって、五つの機能の危険と成るのか。どれだけの行相によって、五つの機能の危険を覚知するのか。どれだけの行相によって、五つの機能の出離と成るのか。どれだけの行相によって、五つの機能の出離を覚知するのか。


 [1017]四十の行相によって、五つの機能の集起と成る。四十の行相によって、五つの機能の集起を覚知する。四十の行相によって、五つの機能の滅至と成る。四十の行相によって、五つの機能の滅至を覚知する。二十五の行相によって、五つの機能の悦楽と成る。二十五の行相によって、五つの機能の悦楽を覚知する。二十五の行相によって、五つの機能の危険と成る。二十五の行相によって、五つの機能の危険を覚知する。【5】百八十の行相によって、五つの機能の出離と成る。百八十の行相によって、五つの機能の出離を覚知する。


 [1018]どのような四十の行相によって、五つの機能の集起と成るのか。どのような四十の行相によって、五つの機能の集起を覚知するのか。(1)信念という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの集起が、信の機能の集起と成る。(2)信念を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、信の機能の集起と成る。(3)信念を所以に、意を為すことの集起が、信の機能の集起と成る。(4)信の機能を所以に、一なることの現起が、信の機能の集起と成る。(5)励起という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの集起が、精進の機能の集起と成る。(6)励起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、精進の機能の集起と成る。(7)励起を所以に、意を為すことの集起が、精進の機能の集起と成る。(8)精進の機能を所以に、一なることの現起が、精進の機能の集起と成る。(9)現起という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの集起が、気づきの機能の集起と成る。(10)現起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、気づきの機能の集起と成る。(11)現起を所以に、意を為すことの集起が、気づきの機能の集起と成る。(12)気づきの機能を所以に、一なることの現起が、気づきの機能の集起と成る。(13)〔心の〕散乱なきという義(目的)のために、〔心を〕傾注することの集起が、〔心の〕統一の機能の集起と成る。(14)〔心の〕散乱なきを所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、〔心の〕統一の機能の集起と成る。(15)〔心の〕散乱なきを所以に、意を為すことの集起が、〔心の〕統一の機能の集起と成る。(16)〔心の〕統一の機能を所以に、一なることの現起が、〔心の〕統一の機能の集起と成る。(17)〔あるがままの〕見という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの集起が、知慧の機能の集起と成る。(18)〔あるがままの〕見を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、知慧の機能の集起と成る。(19)〔あるがままの〕見を所以に、意を為すことの集起が、知慧の機能の集起と成る。(20)知慧の機能を所以に、一なることの現起が、知慧の機能の集起と成る。(21)信念という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの集起が、信の機能の集起と成る。(22)励起という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの集起が、精進の機能の集起と成る。(23)現起という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの集起が、【6】気づきの機能の集起と成る。(24)〔心の〕散乱なきという義(目的)のために、〔心を〕傾注することの集起が、〔心の〕統一の機能の集起と成る。(25)〔あるがままの〕見という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの集起が、知慧の機能の集起と成る。(26)信念を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、信の機能の集起と成る。(27)励起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、精進の機能の集起と成る。(28)現起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、気づきの機能の集起と成る。(29)〔心の〕散乱なきを所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、〔心の〕統一の機能の集起と成る。(30)〔あるがままの〕見を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、知慧の機能の集起と成る。(31)信念を所以に、意を為すことの集起が、信の機能の集起と成る。(32)励起を所以に、意を為すことの集起が、精進の機能の集起と成る。(33)現起を所以に、意を為すことの集起が、気づきの機能の集起と成る。(34)〔心の〕散乱なきを所以に、意を為すことの集起が、〔心の〕統一の機能の集起と成る。(35)〔あるがままの〕見を所以に、意を為すことの集起が、知慧の機能の集起と成る。(36)信の機能を所以に、一なることの現起が、信の機能の集起と成る。(37)精進の機能を所以に、一なることの現起が、精進の機能の集起と成る。(38)気づきの機能を所以に、一なることの現起が、気づきの機能の集起と成る。(39)〔心の〕統一の機能を所以に、一なることの現起が、〔心の〕統一の機能の集起と成る。(40)知慧の機能を所以に、一なることの現起が、知慧の機能の集起と成る。


 [1019]これらの四十の行相によって、五つの機能の集起と成る。これらの四十の行相によって、五つの機能の集起を覚知する。


 [1020]どのような四十の行相によって、五つの機能の滅至と成るのか。どのような四十の行相によって、五つの機能の滅至を覚知するのか。(1)信念という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの滅至が、信の機能の滅至と成る。(2)信念を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、信の機能の滅至と成る。(3)信念を所以に、意を為すことの滅至が、信の機能の滅至と成る。(4)信の機能を所以に、一なることの現起が、信の機能の滅至と成る。(5)励起という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの滅至が、精進の機能の【7】滅至と成る。(6)励起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、精進の機能の滅至と成る。(7)励起を所以に、意を為すことの滅至が、精進の機能の滅至と成る。(8)精進の機能を所以に、一なることの現起が、精進の機能の滅至と成る。(9)現起という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの滅至が、気づきの機能の滅至と成る。(10)現起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、気づきの機能の滅至と成る。(11)現起を所以に、意を為すことの滅至が、気づきの機能の滅至と成る。(12)気づきの機能を所以に、一なることの現起が、気づきの機能の滅至と成る。(13)〔心の〕散乱なきという義(目的)のために、〔心を〕傾注することの滅至が、〔心の〕統一の機能の滅至と成る。(14)〔心の〕散乱なきを所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、〔心の〕統一の機能の滅至と成る。(15)〔心の〕散乱なきを所以に、意を為すことの滅至が、〔心の〕統一の機能の滅至と成る。(16)〔心の〕統一の機能を所以に、一なることの現起が、〔心の〕統一の機能の滅至と成る。(17)〔あるがままの〕見という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの滅至が、知慧の機能の滅至と成る。(18)〔あるがままの〕見を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、知慧の機能の滅至と成る。(19)〔あるがままの〕見を所以に、意を為すことの滅至が、知慧の機能の滅至と成る。(20)知慧の機能を所以に、一なることの現起が、知慧の機能の滅至と成る。


 [1021](21)信念という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの滅至が、信の機能の滅至と成る。(22)励起という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの滅至が、精進の機能の滅至と成る。(23)現起という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの滅至が、気づきの機能の滅至と成る。(24)〔心の〕散乱なきという義(目的)のために、〔心を〕傾注することの滅至が、〔心の〕統一の機能の滅至と成る。(25)〔あるがままの〕見という義(目的)のために、〔心を〕傾注することの滅至が、知慧の機能の滅至と成る。(26)信念を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、信の機能の滅至と成る。(27)励起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、精進の機能の滅至と成る。(28)現起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、気づきの機能の滅至と成る。(29)〔心の〕散乱なきを所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、〔心の〕統一の機能の滅至と成る。(30)〔あるがままの〕見を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、知慧の機能の滅至と成る。(31)信念を所以に、意を為すことの滅至が、信の機能の【8】滅至と成る。(32)励起を所以に、意を為すことの滅至が、精進の機能の滅至と成る。(33)現起を所以に、意を為すことの滅至が、気づきの機能の滅至と成る。(34)〔心の〕散乱なきを所以に、意を為すことの滅至が、〔心の〕統一の機能の滅至と成る。(35)〔あるがままの〕見を所以に、意を為すことの滅至が、知慧の機能の滅至と成る。(36)信の機能を所以に、一なることの現起が、信の機能の滅至と成る。(37)精進の機能を所以に、一なることの現起が、精進の機能の滅至と成る。(38)気づきの機能を所以に、一なることの現起が、気づきの機能の滅至と成る。(39)〔心の〕統一の機能を所以に、一なることの現起が、〔心の〕統一の機能の滅至と成る。(40)知慧の機能を所以に、一なることの現起が、知慧の機能の滅至と成る。


 [1022]これらの四十の行相によって、五つの機能の滅至と成る。これらの四十の行相によって、五つの機能の滅至を覚知する。




1.4.2.1.悦楽についての釈示




189.




 [1023]どのような二十五の行相によって、五つの機能の悦楽と成るのか。どのような二十五の行相によって、五つの機能の悦楽を覚知するのか。(1)不信の現起なきが、信の機能の悦楽と成る。(2)不信の苦悶の現起なきが、信の機能の悦楽と成る。(3)信念の性行の離怖が、信の機能の悦楽と成る。(4)さらには、寂静なる住への到達が、信の機能の悦楽と成る。(5)それが、信の機能を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、信の機能の悦楽である。


 [1024](6)怠慢の現起なきが、精進の機能の悦楽と成る。(7)怠慢の苦悶の現起なきが、精進の機能の悦楽と成る。(8)励起の性行の離怖が、精進の機能の悦楽と成る。(9)さらには、寂静なる住への到達が、精進の機能の悦楽と成る。(10)それが、精進の機能を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、精進の機能の悦楽である。


 [1025](11)放逸の現起なきが、気づきの機能の悦楽と成る。(12)放逸の苦悶の現起なきが、気づきの機能の悦楽と成る。(13)現起の性行の離怖が、気づきの機能の悦楽と成る。(14)さらには、寂静なる住への到達が、気づきの機能の悦楽と成る。【9】(15)それが、気づきの機能を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、気づきの機能の悦楽である。


 [1026](16)〔心の〕高揚の現起なきが、〔心の〕統一の機能の悦楽と成る。(17)〔心の〕高揚の苦悶の現起なきが、〔心の〕統一の機能の悦楽と成る。(18)〔心の〕散乱なきの性行の離怖が、〔心の〕統一の機能の悦楽と成る。(19)さらには、寂静なる住への到達が、〔心の〕統一の機能の悦楽と成る。(10)それが、〔心の〕統一の機能を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、〔心の〕統一の機能の悦楽である。


 [1027](21)無明の現起なきが、知慧の機能の悦楽と成る。(22)無明の苦悶の現起なきが、知慧の機能の悦楽と成る。(23)〔あるがままの〕見の性行の離怖が、知慧の機能の悦楽と成る。(24)さらには、寂静なる住への到達が、知慧の機能の悦楽と成る。(25)それが、知慧の機能を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、知慧の機能の悦楽である。


 [1028]これらの二十五の行相によって、五つの機能の悦楽と成る。これらの二十五の行相によって、五つの機能の悦楽を覚知する。




1.4.2.2.危険についての釈示




190.




 [1029]どのような二十五の行相によって、五つの機能の危険と成るのか。どのような二十五の行相によって、五つの機能の危険を覚知するのか。(1)不信の現起が、信の機能の危険と成る。(2)不信の苦悶の現起が、信の機能の危険と成る。(3)無常の義(意味)によって、信の機能の危険と成る。(4)苦痛の義(意味)によって、信の機能の危険と成る。(5)無我の義(意味)によって、信の機能の危険と成る。


 [1030](6)怠慢の現起が、精進の機能の危険と成る。(7)怠慢の苦悶の現起が、精進の機能の危険と成る。(8)無常の義(意味)によって、精進の機能の危険と成る。(9)苦痛の義(意味)によって……略……。(10)無我の義(意味)によって、精進の機能の危険と成る。


 [1031](11)放逸の現起が、気づきの機能の危険と成る。(12)放逸の苦悶の現起が、気づきの機能の危険と成る。(13)無常の義(意味)によって、気づきの機能の危険と成る。(14)苦痛の義(意味)によって……略……。(15)無我の義(意味)によって、気づきの機能の危険と成る。


 [1032](16)〔心の〕高揚の現起が、【10】〔心の〕統一の機能の危険と成る。(17)〔心の〕高揚の苦悶の現起が、〔心の〕統一の機能の危険と成る。(18)無常の義(意味)によって、〔心の〕統一の機能の危険と成る。(19)苦痛の義(意味)によって……略……。(10)無我の義(意味)によって、〔心の〕統一の機能の危険と成る。


 [1033](21)無明の現起が、知慧の機能の危険と成る。(22)無明の苦悶の現起が、知慧の機能の危険と成る。(23)無常の義(意味)によって、知慧の機能の危険と成る。(24)苦痛の義(意味)によって、知慧の機能の危険と成る。(25)無我の義(意味)によって、知慧の機能の危険と成る。


 [1034]これらの二十五の行相によって、五つの機能の危険と成る。これらの二十五の行相によって、五つの機能の危険を覚知する。




1.4.2.3.出離についての釈示




191.




 [1035]どのような百八十の行相によって、五つの機能の出離と成るのか。どのような百八十の行相によって、五つの機能の出離を覚知するのか。


 [1036](1)信念の義(意味)によって、信の機能が、不信から出離したものと成り、不信の苦悶から出離したものと成り、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出離したものとなり〕、かつまた、諸々の範疇から出離したものとなり、さらには、外なる一切の形相から出離したものと成り、そののち、より精妙なる信の機能の獲得あることから、より以前の信の機能から出離したものと成る。


 [1037](2)励起の義(意味)によって、精進の機能が、怠慢から出離したものと成り、怠慢の苦悶から出離したものと成り、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出離したものとなり〕、かつまた、諸々の範疇から出離したものとなり、さらには、外なる一切の形相から出離したものと成り、そののち、より精妙なる精進の機能の獲得あることから、より以前の精進の機能から出離したものと成る。


 [1038](3)現起の義(意味)によって、気づきの機能が、放逸から出離したものと成り、放逸の苦悶から出離したものと成り、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出離したものとなり〕、かつまた、諸々の範疇から出離したものとなり、さらには、外なる一切の形相から出離したものと成り、そののち、より精妙なる気づきの機能の獲得あることから、より以前の気づきの機能から出離したものと成る。


 [1039](4)〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、〔心の〕高揚から出離したものと成り、〔心の〕高揚の苦悶から出離したものと成り、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出離したものとなり〕、かつまた、諸々の範疇から出離したものとなり、さらには、外なる一切の形相から出離したものと成り、そののち、より精妙なる〔心の〕統一の機能の獲得あることから、より以前の〔心の〕統一の機能から出離したものと成る。


 [1040](5)〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、無明から出離したものと成り、無明の苦悶から出離したものと成り、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出離したものとなり〕、かつまた、諸々の範疇から出離したものとなり、さらには、外なる一切の形相から出離したものと成り、そののち、より精妙なる知慧の機能の獲得あることから、より以前の知慧の機能から出離したものと成る。




192.




 [1041](6・7・8・9・10)前段部分における五つの機能から、第一の瞑想を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(11・12・13・14・15)第一の瞑想における五つの機能から、第二の瞑想を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(16・17・18・19・20)第二の瞑想における五つの機能から、第三の瞑想を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(21・22・23・24・25)第三の瞑想における五つの機能から、第四の瞑想を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(26・27・28・29・30)第四の瞑想における五つの機能から、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(31・32・33・34・35)虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定における五つの機能から、識別無辺なる〔認識の〕場所への入定を所以に、【11】五つの機能が、出離したものと成る。(36・37・38・39・40)識別無辺なる〔認識の〕場所への入定における五つの機能から、無所有なる〔認識の〕場所への入定を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(41・42・43・44・45)無所有なる〔認識の〕場所への入定における五つの機能から、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。


 [1042](46・47・48・49・50)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定における五つの機能から、無常の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(51・52・53・54・55)無常の随観における五つの機能から、苦痛の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(56・57・58・59・60)苦痛の随観における五つの機能から、無我の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(61・62・63・64・65)無我の随観における五つの機能から、厭離の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(66・67・68・69・70)厭離の随観における五つの機能から、離貪の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(71・72・73・74・75)離貪の随観における五つの機能から、止滅の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(76・77・78・79・80)止滅の随観における五つの機能から、放棄の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(81・82・83・84・85)放棄の随観における五つの機能から、滅尽の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(86・87・88・89・90)滅尽の随観における五つの機能から、衰微の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(91・92・93・94・95)衰微の随観における五つの機能から、変化の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(96・97・98・99・100)変化の随観における五つの機能から、無相の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(101・102・103・104・105)無相の随観における五つの機能から、無願の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(106・107・108・109・110)無願の随観における五つの機能から、空性の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(111・112・113・114・115)空性の随観における五つの機能から、向上の知慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(116・117・118・119・120)向上の知慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察における五つの機能から、事実のとおりの知見を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(121・122・123・124・125)事実のとおりの知見における五つの機能から、危険の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(126・127・128・129・130)危険の随観における五つの機能から、審慮の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(131・132・133・134・135)審慮の随観における五つの機能から、還転の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。


 [1043](136・137・138・139・140)還転の随観における五つの機能から、預流道を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(141・142・143・144・145)預流道における五つの機能から、預流果への入定を所以に、【12】五つの機能が、出離したものと成る。(146・147・148・149・150)預流果への入定における五つの機能から、一来道を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(151・152・153・154・155)一来道における五つの機能から、一来果への入定を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(156・157・158・159・160)一来果への入定における五つの機能から、不還道を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(161・162・163・164・165)不還道における五つの機能から、不還果への入定を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(166・167・168・169・170)不還果への入定における五つの機能から、阿羅漢道を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(171・172・173・174・175)阿羅漢道への入定における五つの機能から、阿羅漢果を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。


 [1044]離欲において、五つの機能が、欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕から出離したものと成る。加害〔の思い〕なきにおいて、五つの機能が、加害〔の思い〕から出離したものと成る。光明の表象において、五つの機能が、〔心の〕沈滞と眠気から出離したものと成る。〔心の〕散乱なきにおいて、五つの機能が、〔心の〕高揚から出離したものと成る。法(性質)の〔差異を〕定め置くことにおいて、五つの機能が、疑惑〔の思い〕から出離したものと成る。知恵において、五つの機能が、無明から出離したものと成る。歓喜において、五つの機能が、不満〔の思い〕から出離したものと成る。




193.




 [1045]第一の瞑想において、五つの機能が、〔五つの修行の〕妨害から出離したものと成る。第二の瞑想において、五つの機能が、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念から出離したものと成る。第三の瞑想において、五つの機能が、喜悦から出離したものと成る。第四の瞑想において、五つの機能が、楽と苦から出離したものと成る。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定において、五つの機能が、形態の表象(色想)から、障礙の表象(有対想)から、種々なることの表象から、出離したものと成る。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定において、五つの機能が、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象から出離したものと成る。無所有なる〔認識の〕場所への入定において、五つの機能が、識別無辺なる〔認識の〕場所の表象から出離したものと成る。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定において、五つの機能が、無所有なる〔認識の〕場所の表象から出離したものと成る。


 [1046]無常の随観において、五つの機能が、常住の表象から出離したものと成る。苦痛の随観において、五つの機能が、安楽の表象から出離したものと成る。無我の随観において、五つの機能が、自己の表象から出離したものと成る。厭離の随観において、五つの機能が、喜悦から出離したものと成る。離貪の随観において、五つの機能が、貪欲から出離したものと成る。止滅の随観において、五つの機能が、集起から出離したものと成る。放棄の随観において、五つの機能が、執取から出離したものと【13】成る。滅尽の随観において、五つの機能が、重厚の表象から出離したものと成る。衰微の随観において、五つの機能が、実行(業を作ること)から出離したものと成る。変化の随観において、五つの機能が、常久の表象から出離したものと成る。無相の随観において、五つの機能が、形相から出離したものと成る。無願の随観において、五つの機能が、切願から出離したものと成る。空性の随観において、五つの機能が、固着から出離したものと成る。向上の知慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察において、五つの機能が、真髄への執取の固着から出離したものと成る。事実のとおりの知見において、五つの機能が、迷妄の固着から出離したものと成る。危険の随観において、五つの機能が、執着の固着から出離したものと成る。審慮の随観において、五つの機能が、審慮なきから出離したものと成る。還転の随観において、五つの機能が、束縛の固着から出離したものと成る。


 [1047]預流道において、五つの機能が、〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから出離したものと成る。一来道において、五つの機能が、粗大なる諸々の〔心の〕汚れから出離したものと成る。不還道において、五つの機能が、微細なるものを共具した諸々の〔心の〕汚れから出離したものと成る。阿羅漢道において、五つの機能が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れから出離したものと成る。(176・177・178・179・180)まさしく、一切の煩悩の滅尽者たちの、五つの機能が、そこかしこにおいて、まさしく、しかして、出離したものと成り、なおかつ、善く出離したものと〔成り〕、かつまた、静息したものと〔成り〕、さらには、善く静息したものと〔成る〕。


 [1048]これらの百八十の行相によって、五つの機能の出離と成る。これらの百八十の行相によって、五つの機能の出離を覚知する。


 [1049]経典についての釈示が、第二となる。


 〔以上が〕第一の読誦分となる。




1.4.3 第三の経典についての釈示




194.




 [1050]サーヴァッティの因縁となる。「比丘たちよ、五つのものがある。これらの機能である。どのようなものが、五つのものであるのか。信の機能、精進の機能、気づきの機能、〔心の〕統一の機能、知慧の機能である。比丘たちよ、しからば、どこにおいて、信の機能が、見られるべきであるのか。四つの預流の支分(四預流支)において、ここにおいて、信の機能が、見られるべきである。しからば、どこにおいて、精進の機能が、見られるべきであるのか。【14】四つの正しい精励(四正勤)において、ここにおいて、精進の機能が、見られるべきである。しからば、どこにおいて、気づきの機能が、見られるべきであるのか。四つの気づきの確立(四念住・四念処)において、ここにおいて、気づきの機能が、見られるべきである。しからば、どこにおいて、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであるのか。四つの瞑想(四禅)において、ここにおいて、〔心の〕統一の機能が、見られるべきである。しからば、どこにおいて、知慧の機能が、見られるべきであるのか。四つの聖なる真理(四聖諦)において、ここにおいて、知慧の機能が、見られるべきである。


 [1051]四つの預流の支分において、信の機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。四つの正しい精励において、精進の機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。四つの気づきの確立において、気づきの機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。四つの瞑想において、〔心の〕統一の機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。四つの聖なる真理において、知慧の機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。


 [1052]四つの預流の支分において、信の機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。四つの正しい精励において、精進の機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。四つの気づきの確立において、気づきの機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。四つの瞑想において、〔心の〕統一の機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。四つの聖なる真理において、知慧の機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。




1.4.3.1 細別の数についての釈示




195.




 [1053]四つの預流の支分において、信の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)正しい人との親交という預流の支分において、信念の優位主要性の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)正しい法(真理)の聴聞という預流の支分において……略……。(11・12・13・14・15)根源のままに意を為すこと(如理作意)という【15】預流の支分において……略……。(16・17・18・19・20)法(教え)の法(教え)のままの実践という預流の支分において、信念の優位主要性の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきである。四つの預流の支分において、信の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。


 [1054]四つの正しい精励において、精進の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきのために、正しい精励において、励起の優位主要性の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、精進の機能を所以に、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、正しい精励において……略……。(11・12・13・14・15)諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、正しい精励において……略……。(16・17・18・19・20)諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の止住のために、忘却なきのために、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、正しい精励において、励起の優位主要性の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、精進の機能を所以に、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきである。四つの正しい精励において、精進の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。


 [1055]四つの気づきの確立において、気づきの機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)身体における身体の随観という気づきの確立において、現起の優位主要性の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、気づきの機能を所以に、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)諸々の感受における身体の随観という気づきの確立において……略……。(11・12・13・14・15)心における心の随観という気づきの確立において……略……。(16・17・18・19・20)諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立において、現起の優位主要性の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、気づきの機能を【16】所以に、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきである。四つの気づきの確立において、気づきの機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。


 [1056]四つの瞑想において、〔心の〕統一の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)第一の瞑想において、〔心の〕散乱なきの優位主要性の義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔心の〕統一の機能を所以に、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)第二の瞑想において……略……。(11・12・13・14・15)第三の瞑想において……略……。(16・17・18・19・20)第四の瞑想において、〔心の〕散乱なきの優位主要性の義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔心の〕統一の機能を所以に、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきである。四つの瞑想において、〔心の〕統一の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。


 [1057]四つの聖なる真理において、知慧の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)苦痛という聖なる真理において、〔あるがままの〕見の優位主要性の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、知慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)苦痛の集起という聖なる真理において……略……。(11・12・13・14・15)苦痛の止滅という聖なる真理において……略……。(16・17・18・19・20)苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理において、〔あるがままの〕見の優位主要性の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、知慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきである。四つの聖なる真理において、知慧の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。




1.4.3.2 性行の部




196.




 [1058]四つの預流の支分において、信の機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。


 [1059]四つの正しい精励において……略……。四つの気づきの確立において……。四つの瞑想において……。四つの聖なる真理において、知慧の機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。四つの預流の支分において、信の機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。四つの正しい精励において……略……。四つの気づきの確立において……。【17】四つの瞑想において……。四つの聖なる真理において、知慧の機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。


 [1060]四つの預流の支分において、信の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)正しい人との親交という預流の支分において、信念の優位主要性の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能の性行が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能の性行が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)正しい法(真理)の聴聞という預流の支分において……略……。(11・12・13・14・15)根源のままに意を為すことという預流の支分において……略……。(16・17・18・19・20)法(教え)の法(教え)のままの実践という預流の支分において、信念の優位主要性の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能の性行が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能の性行が、見られるべきである。四つの預流の支分において、信の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。


 [1061]四つの正しい精励において、精進の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきのために、正しい精励において、励起の優位主要性の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、精進の機能を所以に、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能の性行が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能の性行が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、正しい精励において……略……。(11・12・13・14・15)諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、正しい精励において……略……。(16・17・18・19・20)諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の止住のために、忘却なきのために、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、正しい精励において、励起の優位主要性の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、精進の機能を所以に、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能の性行が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能の性行が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきである。【18】四つの正しい精励において、精進の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。


 [1062]四つの気づきの確立において、気づきの機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)身体における身体の随観という気づきの確立において、現起の優位主要性の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、気づきの機能を所以に、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能の性行が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能の性行が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)諸々の感受における身体の随観という気づきの確立において……略……。(11・12・13・14・15)心における心の随観という気づきの確立において……略……。(16・17・18・19・20)諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立において、現起の優位主要性の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、気づきの機能を所以に、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能の性行が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能の性行が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきである。四つの気づきの確立において、気づきの機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。


 [1063]四つの瞑想において、〔心の〕統一の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)第一の瞑想において、〔心の〕散乱なきの優位主要性の義(意味)によって、〔心の〕統一の機能の性行が、見られるべきであり、〔心の〕統一の機能を所以に、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能の性行が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)第二の瞑想において……略……。(11・12・13・14・15)第三の瞑想において……略……。(16・17・18・19・20)第四の瞑想において、〔心の〕散乱なきの優位主要性の義(意味)によって、〔心の〕統一の機能の性行が、見られるべきであり、〔心の〕統一の機能を所以に、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能の性行が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきである。四つの瞑想において、〔心の〕統一の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。


 [1064]四つの聖なる真理において、知慧の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)苦痛という聖なる真理において、〔あるがままの〕見の優位主要性の義(意味)によって、知慧の機能の性行が、見られるべきであり、知慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、【19】〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能の性行が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)苦痛の集起という聖なる真理において……略……。(11・12・13・14・15)苦痛の止滅という聖なる真理において……略……。(16・17・18・19・20)苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理において、〔あるがままの〕見の優位主要性の義(意味)によって、知慧の機能の性行が、見られるべきであり、知慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能の性行が、見られるべきである。四つの聖なる真理において、知慧の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。




1.4.3.3 行ないと住についての釈示




197.




 [1065]〔彼の〕行ないと、〔彼の〕住とが、随覚されたものと成り、理解されたものと〔成り〕、行じおこなっているまま〔の彼〕を、住しているまま〔の彼〕を、識者たちが、梵行を共にする者たちが、諸々の深遠なる境位において信頼するであろうなら、たしかに、〔彼は〕尊者であり、あるいは、〔すでに〕得た者であり、あるいは、〔のちに〕得るであろう。


 [1066]「性行」とは、八つの性行がある。振る舞いの道としての性行、〔認識の〕場所としての性行、気づきとしての性行、〔心の〕統一としての性行、知恵としての性行、道としての性行、得としての性行、世の義(利益)としての性行である。「振る舞いの道としての性行」とは、四つの振る舞いの道(行・住・坐・臥)における〔性行である〕。「〔認識の〕場所としての性行」とは、六つの内なると外なる〔認識の〕場所における〔性行である〕。「気づきとしての性行」とは、四つの気づきの確立における〔性行である〕。「〔心の〕統一としての性行」とは、四つの瞑想における〔性行である〕。「知恵としての性行」とは、四つの聖なる真理における〔性行である〕。「道としての性行」とは、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における〔性行である〕。「得としての性行」とは、四つの沙門果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)における〔性行である〕。「世の義(利益)としての性行」とは、阿羅漢にして正自覚者たる如来たちにおける〔性行であり〕、一部の独覚たちにおける〔性行であり〕、一部の弟子たちにおける〔性行である〕。しかして、誓願を成就した者たちには、振る舞いの道としての性行があり、かつまた、〔六つの感官の〕機能において門が守られた者たちには、〔認識の〕場所としての性行があり、かつまた、不放逸に住する者たちには、気づきとしての性行があり、かつまた、向上の心(瞑想)に専念した者たちには、〔心の〕統一としての性行があり、かつまた、覚慧を成就した者たちには、知恵としての性行があり、かつまた、正しく実践した者たちには、道としての性行があり、かつまた、果に到達した者たちには、得としての性行があり、さらには、阿羅漢にして正自覚者たる如来たちには、一部の独覚たちには、一部の弟子たちには、世の義(利益)としての性行がある。これらの八つの性行がある。


 [1067]【20】他にも、また、八つの性行がある。信念している者は、信によって行じおこなう。励起している者は、精進によって行じおこなう。現起させている者は、気づきによって行じおこなう。〔心の〕散乱なきを為している者は、〔心の〕統一によって行じおこなう。覚知している者は、知慧によって行じおこなう。識別している者は、識別〔作用〕の性行によって行じおこなう。このように実践した者に、善なる諸法(性質)が入来させる、ということで、〔認識の〕場所としての性行によって行じおこなう。このように実践した者は、殊勝〔の境地〕に到達する、ということで、殊勝〔の境地〕としての性行によって行じおこなう。これらの八つの性行がある。


 [1068]他にも、また、八つの性行がある。しかして、正しい見解には、〔あるがままの〕見としての性行がある。正しい思惟には、〔正しく心を〕固定することとしての性行がある。正しい言葉には、遍き収取(理解・和合)としての性行がある。正しい生業には、等しく現起するものとしての性行がある。正しい生き方には、浄化するものとしての性行がある。正しい努力には、励起としての性行がある。正しい気づきには、現起としての性行がある。正しい〔心の〕統一には、〔心の〕散乱なきとしての性行がある。これらの八つの性行がある。


 [1069]「住」とは、信念している者は、信によって住する。励起している者は、精進によって住する。現起させている者は、気づきによって住する。〔心の〕散乱なきを為している者は、〔心の〕統一によって住する。覚知している者は、知慧によって住する。


 [1070]「随覚されたもの」とは、信の機能の、信念の義(意味)が、随覚されたものと成る。精進の機能の、励起の義(意味)が、随覚されたものと成る。気づきの機能の、現起の義(意味)が、随覚されたものと成る。〔心の〕統一の機能の、〔心の〕散乱なきの義(意味)が、随覚されたものと成る。知慧の機能の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、随覚されたものと成る。


 [1071]「理解されたもの」とは、信の機能の、信念の義(意味)が、理解されたものと成る。精進の機能の、励起の義(意味)が、理解されたものと成る。気づきの機能の、現起の義(意味)が、理解されたものと成る。〔心の〕統一の機能の、〔心の〕散乱なきの義(意味)が、理解されたものと成る。知慧の機能の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、理解されたものと成る。「行じおこなっているまま〔の彼〕を」とは、このように、信によって行じおこなっている者を。このように、精進によって行じおこなっている者を。このように、気づきによって行じおこなっている者を。このように、〔心の〕統一によって行じおこなっている者を。このように、知慧によって行じおこなっている者を。「住しているまま〔の彼〕を」とは、このように、信によって住している者を。このように、精進によって住している者を。このように、気づきによって住している者を。このように、〔心の〕統一によって住している者を。このように、知慧によって住している者を。【21】「識者たちが」とは、識者たち、分明する者たち、思慮ある者たち、賢者たち、覚慧を成就した者たちが。「梵行を共にする者たちが」とは、行為を一つとし、誦説を一つとし、学びを等しくすること。「諸々の深遠なる境位において」とは、〔四つの〕瞑想と、〔八つの〕解脱と、諸々の〔心の〕統一と、〔八つの〕入定と、〔四つの〕道と、〔四つの〕果と、〔六つの〕神知と、〔四つの〕融通無礙(無礙解)とが、諸々の深遠なる境位と説かれる。「信頼するであろうなら」とは、信を置くであろうなら、信念するであろうなら。「たしかに」とは、これは、一定の言葉であり、これは、疑いなき言葉であり、これは、疑惑なき言葉であり、これは、二様なき言葉であり、これは、二種なき言葉であり、これは、必然の言葉であり、これは、虚構なき言葉であり、これは、確保する言葉であり、「たしかに」ということになる。「尊者」とは、これは、敬愛の言葉であり、これは、尊重の言葉であり、これは、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有するものの同義語であり、「尊者」ということになる。「あるいは、〔すでに〕得た者であり」とは、あるいは、到達した者であり。「あるいは、〔のちに〕得るであろう」とは、あるいは、〔のちに〕到達するであろう。


 [1072]経典についての釈示が、第三となる。




1.4.4 第四の経典についての釈示




198.




 [1073]過去の因縁となる。「比丘たちよ、五つのものがある。これらの機能である。どのようなものが、五つのものであるのか。信の機能、精進の機能、気づきの機能、〔心の〕統一の機能、知慧の機能である。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能がある。これらの五つの機能は、どれだけの行相によって、どのような義(意味)によって、見られるべきであるのか。これらの五つの機能は、六つの行相によって、その〔六つ〕の義(意味)によって、見られるべきである。〔すなわち〕優位主要性の義(意味)によって、最初の浄化するものの義(意味)によって、旺盛なるものの義(意味)によって、確立することの義(意味)によって、完全に取り払うことの義(意味)によって、確立させる者の義(意味)によって、である」〔と〕。




1.4.4.1 優位主要性の義(意味)についての釈示




199.




 [1074]どのように、優位主要性の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきであるのか。不信を捨棄していると、信念の優位主要性の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、【22】見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきである。怠慢を捨棄していると、励起の優位主要性の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、精進の機能を所以に、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきである。放逸を捨棄していると、現起の優位主要性の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、気づきの機能を所以に、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきである。〔心の〕高揚を捨棄していると、〔心の〕散乱なきの優位主要性の義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔心の〕統一の機能を所以に、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきである。無明を捨棄していると、〔あるがままの〕見の優位主要性の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、知慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきである。


 [1075]欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕を捨棄していると、離欲を所以に、信念の優位主要性の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきである。欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕を捨棄していると、離欲を所以に、励起の優位主要性の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、精進の機能を所以に、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきである。欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕を捨棄していると、離欲を所以に、現起の優位主要性の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、気づきの機能を所以に、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきである。欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕を捨棄していると、離欲を所以に、〔心の〕散乱なきの優位主要性の義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔心の〕統一の機能を所以に、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきである。欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕を捨棄していると、離欲を所以に、〔あるがままの〕見の優位主要性の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、知慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきである。


 [1076]加害〔の思い〕を捨棄していると、加害〔の思い〕なきを所以に……略……。【23】〔心の〕沈滞と眠気を捨棄していると、光明の表象を所以に……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄していると、阿羅漢道を所以に、信念の優位主要性の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきである……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄していると、阿羅漢道を所以に、〔あるがままの〕見の優位主要性の義(意味)によって、知慧の機能が、見られるべきであり、知慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、見られるべきである。このように、優位主要性の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきである。




1.4.4.2 最初の浄化するものの義(意味)についての釈示




200.




 [1077]どのように、最初の浄化するものの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきであるのか。信念の義(意味)によって、信の機能があり、不信の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、信の機能にとっての、最初の浄化するものとなる。励起の義(意味)によって、精進の機能があり、怠慢の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、精進の機能にとっての、最初の浄化するものとなる。現起の義(意味)によって、気づきの機能があり、放逸の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、気づきの機能にとっての、最初の浄化するものとなる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能があり、〔心の〕高揚の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、〔心の〕統一の機能にとっての、最初の浄化するものとなる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能があり、無明の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、知慧の機能にとっての、最初の浄化するものとなる。離欲において、五つの機能があり、欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、五つの機能にとっての、最初の浄化するものとなる。加害〔の思い〕なきにおいて、五つの機能があり、加害〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、五つの機能にとっての、最初の浄化するものがある……略……。阿羅漢道において、五つの機能があり、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、五つの機能にとっての、最初の浄化するものとなる。このように、最初の浄化するものの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきである。




1.4.4.3 旺盛なるものの義(意味)についての釈示




201.




 [1078]どのように、旺盛なるものの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきであるのか。信の機能の修行のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。欲〔の思い〕(意欲)を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。欲〔の思い〕(意欲)を所以に、歓喜が生起する。歓喜を所以に、【24】信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。歓喜を所以に、喜悦が生起する。喜悦を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。喜悦を所以に、安息が生起する。安息を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。安息を所以に、安楽が生起する。安楽を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。安楽を所以に、光輝が生起する。光輝を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。光輝を所以に、畏怖〔の思い〕が生起する。畏怖〔の思い〕を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。〔心を〕畏怖させて、心は定まる。〔心の〕統一を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。そのように定められた心は、しっかりと励起する。励起を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。そのように励起された心は、しっかりと放捨する。放捨を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。放捨を所以に、種々なることとしての諸々の〔心の〕汚れから、心は解脱する。解脱を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。解脱したことから、それらの諸法(性質)は、一味なるものと成る。一味の義(意味)によって、修行を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。修行されたことから、そののち、より精妙なるもののうちに還転する。還転を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。還転されたことから、そののち、放棄する。放棄を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。放棄されたことから、そののち、止滅する。止滅を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。


 [1079]止滅を所以に、二つの放棄がある。遍捨の放棄と、跳入の放棄とである。しかして、諸々の〔心の〕汚れを〔遍捨し〕、さらには、諸々の範疇を遍捨する、ということで、遍捨の放棄となる。止滅の涅槃の界域にたいし、心が跳入する、ということで、跳入の放棄となる。止滅を所以に、これらの二つの放棄がある。


 [1080]不信の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……略……。不信の苦悶の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……略……。〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……略……。粗大なる諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……略……。微細なるものを共具した諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。欲〔の思い〕(意欲)を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る……略……。精進の機能の修行のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……略……。怠慢の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……。怠慢の苦悶の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……。〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……。気づきの機能の【25】修行のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……略……。放逸の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……。放逸の苦悶の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……。〔心の〕統一の機能の修行のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……略……。〔心の〕高揚の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……。〔心の〕高揚の苦悶の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……。知慧の機能の修行のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……略……。無明の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……。無明の苦悶の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……略……。〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……。粗大なる諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……。微細なるものを共具した諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。欲〔の思い〕(意欲)を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。欲〔の思い〕(意欲)を所以に、歓喜が生起する。歓喜を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。歓喜を所以に、喜悦が生起する。喜悦を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。喜悦を所以に、安息が生起する。安息を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。安息を所以に、安楽が生起する。安楽を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。安楽を所以に、光輝が生起する。光輝を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。光輝を所以に、畏怖〔の思い〕が生起する。畏怖〔の思い〕を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。〔心を〕畏怖させて、心は定まる。〔心の〕統一を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。そのように定められた心は、しっかりと励起する。励起を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。そのように励起された心は、しっかりと放捨する。放捨を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。放捨を所以に、種々なることとしての諸々の〔心の〕汚れから、心は解脱する。解脱を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。解脱したことから、それらの諸法(性質)は、一味なるものと成る。一味の義(意味)によって、修行を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。修行されたことから、そののち、より精妙なるもののうちに還転する。還転を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。還転されたことから、そののち、放棄する。放棄を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。放棄されたことから、そののち、止滅する。止滅を所以に、知慧を所以に、知慧の機能が、旺盛なるものと成る。


 [1081]止滅を所以に、二つの放棄がある。遍捨の放棄と、跳入の放棄とである。しかして、諸々の〔心の〕汚れを〔遍捨し〕、さらには、諸々の範疇を遍捨する、【26】ということで、遍捨の放棄となる。止滅の涅槃の界域にたいし、心が跳入する、ということで、跳入の放棄となる。止滅を所以に、これらの二つの放棄がある。このように、旺盛なるものの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきである。


 [1082]〔以上が〕第二の読誦分となる。




1.4.4.4 確立することの義(意味)についての釈示




202.




 [1083]どのように、確立することの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきであるのか。信の機能の修行のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。欲〔の思い〕(意欲)を所以に、信を所以に、信の機能が、確立する。欲〔の思い〕(意欲)を所以に、歓喜が生起する。歓喜を所以に、信を所以に、信の機能が、確立する……略……。このように、確立することの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきである。




1.4.4.5 完全に取り払うことの義(意味)についての釈示




 [1084]どのように、完全に取り払うことの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきであるのか。信念の義(意味)によって、信の機能が、不信を完全に取り払い、不信の苦悶を完全に取り払う。励起の義(意味)によって、精進の機能が、怠慢を完全に取り払い、怠慢の苦悶を完全に取り払う。現起の義(意味)によって、気づきの機能が、放逸を完全に取り払い、放逸の苦悶を完全に取り払う。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、〔心の〕高揚を完全に取り払い、〔心の〕高揚の苦悶を完全に取り払う。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、無明を完全に取り払い、無明の苦悶を完全に取り払う。離欲において、五つの機能が、欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕を完全に取り払う。加害〔の思い〕なきにおいて、五つの機能が、加害〔の思い〕を完全に取り払う。光明の表象において、五つの機能が、〔心の〕沈滞と眠気を完全に取り払う。〔心の〕散乱なきにおいて、五つの機能が、〔心の〕高揚を完全に取り払う……略……。阿羅漢道において、五つの機能が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを完全に取り払う。このように、完全に取り払うことの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきである。




1.4.4.6 確立させる者の義(意味)についての釈示




203.




 [1085]どのように、確立させる者の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきであるのか。信ある者は、信の機能を、信念において確立させ、信ある者の信の機能を、信念において確立させる。精進ある者は、精進の機能を、励起において確立させ、精進ある者の精進の機能を、励起において確立させる。気づきある者は、気づきの機能を、現起において確立させ、気づきある者の気づきの機能を、現起において確立させる。〔心が〕定められた者は、〔心の〕統一の機能を、〔心の〕散乱なきにおいて確立させ、〔心が〕定められた者の〔心の〕統一の機能を、〔心の〕散乱なきにおいて確立させる。知慧ある者は、知慧の機能を、〔あるがままの〕見において確立させ、知慧ある者の知慧の機能を、〔あるがままの〕見において確立させる。〔心の〕制止を行境とする者(瞑想修行者)は、五つの機能を、離欲において確立させ、【27】〔心の〕制止を行境とする者の五つの機能を、離欲において確立させる。〔心の〕制止を行境とする者は、五つの機能を、加害〔の思い〕なきにおいて確立させ、〔心の〕制止を行境とする者の五つの機能を、加害〔の思い〕なきにおいて確立させる。〔心の〕制止を行境とする者は、五つの機能を、光明の表象において確立させ、〔心の〕制止を行境とする者の五つの機能を、光明の表象において確立させる。〔心の〕制止を行境とする者は、五つの機能を、〔心の〕散乱なきにおいて確立させ、〔心の〕制止を行境とする者の五つの機能を、〔心の〕散乱なきにおいて確立させる……略……。〔心の〕制止を行境とする者は、五つの機能を、阿羅漢道において確立させ、〔心の〕制止を行境とする者の五つの機能を、阿羅漢道において確立させる。このように、確立させる者の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきである。


 [1086]経典についての釈示が、第四となる。




1.4.5 機能の結集についての釈示




204.




 [1087]凡夫が、〔心の〕統一を修行しているとして、どれだけの行相によって、現起に巧みな智ある者と成るのか。学びある者が、〔心の〕統一を修行しているとして、どれだけの行相によって、現起に巧みな智ある者と成るのか。貪欲を離れた者が、〔心の〕統一を修行しているとして、どれだけの行相によって、現起に巧みな智ある者と成るのか。凡夫が、〔心の〕統一を修行しているとして、七つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成る。学びある者が、〔心の〕統一を修行しているとして、八つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成る。貪欲を離れた者が、〔心の〕統一を修行しているとして、十の行相によって、現起に巧みな智ある者と成る。


 [1088]凡夫が、〔心の〕統一を修行しているとして、どのような七つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成るのか。〔心を〕傾注したことから、(1)対象の現起に巧みな智ある者と成り、(2)〔心の〕寂止の形相の現起に巧みな智ある者と成り、(3)励起の形相の現起に巧みな智ある者と成り、(4)〔心の〕散乱なきの現起に巧みな智ある者と成り、(5)光輝の現起に巧みな智ある者と成り、(6)歓喜することの現起に巧みな智ある者と成り、(7)放捨の現起に巧みな智ある者と成る。凡夫が、〔心の〕統一を修行しているとして、これらの七つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成る。


 [1089]学びある者が、〔心の〕統一を修行しているとして、どのような七つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成るのか。〔心を〕傾注したことから、(1)対象の現起に巧みな智ある者と成り、(2)〔心の〕寂止の形相の現起に巧みな智ある者と成り、(3)励起の形相の現起に巧みな智ある者と成り、(4)〔心の〕散乱なきの現起に巧みな智ある者と成り、(5)光輝の現起に巧みな智ある者と成り、(6)歓喜することの現起に巧みな智ある者と成り、(7)放捨の現起に巧みな智ある者と成り、(8)一なることの現起に巧みな智ある者と成る。学びある者が、〔心の〕統一を修行しているとして、これらの八つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成る。


 [1090]貪欲を離れた者が、〔心の〕統一を修行しているとして、どのような十の行相によって、現起に巧みな智ある者と成るのか。【28】〔心を〕傾注したことから、(1)対象の現起に巧みな智ある者と成り……略……(8)一なることの現起に巧みな智ある者と成り、(9)知恵の現起に巧みな智ある者と成り、(10)解脱の現起に巧みな智ある者と成る。貪欲を離れた者が、〔心の〕統一を修行しているとして、これらの十の行相によって、現起に巧みな智ある者と成る。




205.




 [1091]凡夫が、〔あるがままの〕観察を修行しているとして、どれだけの行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、どれだけの行相によって、現起なきに巧みな智ある者と成るのか。学びある者が、〔あるがままの〕観察を修行しているとして、どれだけの行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、どれだけの行相によって、現起なきに巧みな智ある者と成るのか。貪欲を離れた者が、〔あるがままの〕観察を修行しているとして、どれだけの行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、どれだけの行相によって、現起なきに巧みな智ある者と成るのか。


 [1092]凡夫が、〔あるがままの〕観察を修行しているとして、九つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、九つの行相によって、現起なきに巧みな智ある者と成る。学びある者が、〔あるがままの〕観察を修行しているとして、十の行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、十の行相によって、現起なきに巧みな智ある者と成る。貪欲を離れた者が、〔あるがままの〕観察を修行しているとして、十二の行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、十二の行相によって、現起なきに巧みな智ある者と成る。


 [1093]凡夫が、〔あるがままの〕観察を修行しているとして、どのような九つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、どのような九つの行相によって、現起なきに巧みな智ある者と成るのか。(1)無常〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、常住〔の観点〕から現起なきに巧みな智ある者と成る。(2)苦痛〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、安楽〔の観点〕から現起なきに巧みな智ある者と成る。(3)無我〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、自己〔の観点〕から現起なきに巧みな智ある者と成る。(4)滅尽〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、重厚〔の観点〕から現起なきに巧みな智ある者と成る。(5)衰微〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、実行(業を作ること)の現起なきに巧みな智ある者と成る。(6)変化の現起に巧みな智ある者と成り、常久〔の観点〕から現起なきに巧みな智ある者と成る。(7)無相の現起に巧みな智ある者と成り、形相の現起なきに巧みな智ある者と成る。(8)無願の現起に巧みな智ある者と成り、切願の現起なきに巧みな智ある者と成る。(9)空性の現起に巧みな智ある者と成り、固着の現起なきに巧みな智ある者と成る。凡夫が、〔あるがままの〕観察を修行しているとして、これらの九つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、これらの九つの行相によって、現起なきに巧みな智ある者と成る。




206.




 [1094]学びある者が、〔あるがままの〕観察を修行しているとして、どのような十の行相によって、【29】現起に巧みな智ある者と成り、どのような十の行相によって、現起なきに巧みな智ある者と成るのか。(1)無常〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、常住〔の観点〕から現起なきに巧みな智ある者と成る……略……。(9)空性の現起に巧みな智ある者と成り、固着の現起なきに巧みな智ある者と成る。(10)知恵の現起に巧みな智ある者と成り、無知の現起なきに巧みな智ある者と成る。学びある者が、〔あるがままの〕観察を修行しているとして、これらの十の行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、これらの十の行相によって、現起なきに巧みな智ある者と成る。


 [1095]貪欲を離れた者が、〔あるがままの〕観察を修行しているとして、どのような十二の行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、どのような十二の行相によって、現起なきに巧みな智ある者と成るのか。(1)無常〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、常住〔の観点〕から現起なきに巧みな智ある者と成る……略……。(10)知恵の現起に巧みな智ある者と成り、無知の現起なきに巧みな智ある者と成る。(11)束縛を離れるものの現起に巧みな智ある者と成り、束縛の現起なきに巧みな智ある者と成る。(12)止滅の現起に巧みな智ある者と成り、形成〔作用〕の現起なきに巧みな智ある者と成る。貪欲を離れた者が、〔あるがままの〕観察を修行しているとして、これらの十二の行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、これらの十二の行相によって、現起なきに巧みな智ある者と成る。


 [1096]〔心を〕傾注したことから、対象の現起に巧みな智あるを所以に、〔五つの〕機能を結集し、しかして、境涯を覚知し、さらには、平等の義(意味)を理解し……略……諸法(性質)を結集し、しかして、境涯を覚知し、さらには、平等の義(意味)を理解する。「〔五つの〕機能を結集し」とは、どのように、〔五つの〕機能を結集するのか。信念の義(意味)によって、信の機能を結集する……略……。〔心の〕寂止の形相の現起に巧みな智あるを所以に……。励起の現起に巧みな智あるを所以に……。〔心の〕散乱なきの現起に巧みな智あるを所以に……。光輝の現起に巧みな智あるを所以に……。歓喜することの現起に巧みな智あるを所以に……。放捨の現起に巧みな智あるを所以に……。一なることの現起に巧みな智あるを所以に……。知恵の現起に巧みな智あるを所以に……。解脱の現起に巧みな智あるを所以に……。


 [1097]無常〔の観点〕から現起に巧みな智あるを所以に……。常住〔の観点〕から現起なきに巧みな智あるを所以に……。苦痛〔の観点〕から現起に巧みな智あるを所以に……。安楽〔の観点〕から現起なきに巧みな智あるを所以に……。無我〔の観点〕から現起に巧みな智あるを所以に……。自己〔の観点〕から現起なきに巧みな智あるを所以に……。滅尽〔の観点〕から現起に巧みな智あるを所以に……。重厚〔の観点〕から現起なきに巧みな智あるを所以に……。衰微〔の観点〕から現起に巧みな智あるを所以に……。実行(業を作ること)の現起なきに巧みな智あるを所以に……。変化の現起に巧みな智あるを所以に……。常久〔の観点〕から現起なきに巧みな智あるを所以に……。無相の現起に巧みな智あるを所以に……。形相の現起なきに巧みな智あるを所以に……。無願の現起に巧みな智あるを所以に……。切願の現起なきに巧みな智あるを所以に……。空性の現起に巧みな智あるを所以に……。知恵の現起に巧みな智あるを所以に……。無知の現起なきに巧みな智あるを所以に……。束縛を離れるものの現起に巧みな智あるを所以に……。束縛の現起なきに巧みな智あるを所以に……。止滅の現起に巧みな智あるを所以に……。形成〔作用〕の現起なきに巧みな智あるを所以に、〔五つの〕機能を結集し、しかして、境涯を覚知し、さらには、平等の義(意味)を理解し……略……。




207.




 [1098] 【30】六十四の行相によって、三つの機能の、自在なる状態たることとしての知慧が、諸々の煩悩の滅尽についての知恵となる。どのような三つの機能の、であるのか。(1)「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能の、(2)了知の機能の、(3)了知者の機能の、である。


 [1099]「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能は、どれだけの境位へと赴くのか。了知の機能は、どれだけの境位へと赴くのか。了知者の機能は、どれだけの境位へと赴くのか。「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能は、一つの境位へと赴く。(1)預流道である。了知の機能は、六つの境位へと赴く。(2)預流果、(3)一来道、(4)一来果、(5)不還道、(6)不還果、(7)阿羅漢道である。了知者の機能は、一つ境位へと赴く。(8)阿羅漢果である。


 [1100](1)預流道の瞬間において、「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能の、(1―1)信の機能は、信念が付属のものと成り、(1―2)精進の機能は、励起が付属のものと成り、(1―3)気づきの機能は、現起が付属のものと成り、(1―4)〔心の〕統一の機能は、〔心の〕散乱なきが付属のものと成り、(1―5)知慧の機能は、〔あるがままの〕見が付属のものと成り、(1―6)意の機能は、識別することが付属のものと成り、(1―7)悦意の機能は、潤沢が付属のものと成り、(1―8)生命の機能は、転起されたもの(所与的世界)の寂静なることの優位主要性が付属のものと成る。預流道の瞬間において、生じた諸法(性質)は、心から等しく現起する形態(善悪無記の物質)を除いて、まさしく、一切が、善なるものと成り、まさしく、一切が、煩悩なきものと成り、まさしく、一切が、出脱のものと成り、まさしく、一切が、〔煩悩の〕滅減に至るものと成り、まさしく、一切が、世〔俗〕を超えるものと成り、まさしく、一切が、涅槃を対象とするものと成る。預流道の瞬間において、「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能の、これらの八つの機能は、共に生じた付属のものと成り、互いに他と付属のものと成り、依所として付属のものと成り、結び付いたものとして付属のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成る。まさしく、それら〔の八つの機能〕は、その〔「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能〕の、まさしく、しかして、諸々の行相と成り、さらには、諸々の付属のものと〔成る〕。


 [1101](2)預流果の瞬間において……略……。(8)阿羅漢果の瞬間において、了知者の機能の、(8―1)信の機能は、信念が付属のものと成り……略……(8―8)生命の機能は、転起されたものの寂静なることの優位主要性が付属のものと成る。阿羅漢果の瞬間において、生じた諸法(性質)は、まさしく、一切が、〔善悪が〕説き示されないものと成り、心から等しく現起する形態を除いて、まさしく、一切が、煩悩なきものと成り、まさしく、一切が、世〔俗〕を超えるものと成り、まさしく、一切が、涅槃を対象とするものと成る。阿羅漢果の瞬間において、了知者の機能の、【31】これらの八つの機能は、共に生じた付属のものと成り……。まさしく、それら〔の八つの機能〕は、その〔了知者の機能〕の、まさしく、しかして、諸々の行相と成り、さらには、諸々の付属のものと〔成る〕。かくのごとく、これらは、八つ八つのものとして、六十四〔の機能〕と成る。


 [1102]「諸々の煩悩」とは、どのようなものが、それらの煩悩であるのか。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。どこにおいて、これらの煩悩が滅尽するのか。預流道によって、残りなく見解の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき欲望の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき生存の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。一来道によって、粗大なる欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。不還道によって、残りなく欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。阿羅漢道によって、残りなく生存の煩悩が滅尽し、残りなく無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。




208.




 [1103]〔しかして、詩偈に言う〕「彼にとって、この〔世において〕、〔いまだ〕見られていないものは、何であれ、存在しない。しかして、〔いまだ〕識られていないものは〔存在せず〕、知ることができないものは〔存在しない〕。それが、導かれるべきもの(未了義のもの)として存在するなら、〔その〕一切を、〔彼は〕証知した。如来は、それによって、一切に眼“まなこ”ある者と〔説かれる〕」と。




 [1104]「一切に眼ある者」とは、どのような義(意味)によって、一切に眼ある者となるのか。十四の覚者の知恵がある。(1)苦痛についての知恵が、覚者の知恵となる。(2)苦痛の集起についての知恵が、覚者の知恵となる……略……。(13)一切知者たる知恵が、覚者の知恵となる。(14)妨げなき知恵が、覚者の知恵となる。これらの十四の覚者の知恵がある。これらの十四の覚者の知恵のなかの、八つの知恵は、弟子と共通なるものとなり、六つの知恵は、弟子たちとは共通ならざるものとなる。


 [1105]あるかぎりの、苦痛の、苦痛の義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔いまだ〕知られていない苦痛の義(意味)は存在しない、ということで、一切に眼ある者となる。それが、一切に眼あるものであるなら、それは、知慧の機能である。知慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能があり、励起の義(意味)によって、精進の機能があり、現起の義(意味)によって、気づきの機能があり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能がある。あるかぎりの、苦痛の、苦痛の義(意味)が、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見い出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、【32】知慧によって〔すでに〕接触されたものとなり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない苦痛の義(意味)は存在しない、ということで、一切に眼ある者となる。それが、一切に眼あるものであるなら、それは、知慧の機能である。知慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能があり、励起の義(意味)によって、精進の機能があり、現起の義(意味)によって、気づきの機能があり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能がある。あるかぎりの、集起の、集起の義(意味)が……略……。あるかぎりの、止滅の、止滅の義(意味)が……。あるかぎりの、道の、道の義(意味)が……。あるかぎりの、義(意味)の融通無礙の、義(意味)の融通無礙の義(意味)が……。あるかぎりの、法(性質)の融通無礙の、法(性質)の融通無礙の義(意味)が……。あるかぎりの、言語の融通無礙の、言語の融通無礙の義(意味)が……。あるかぎりの、応答の融通無礙の、応答の融通無礙の義(意味)が……。あるかぎりの、機能の上下なる知恵が……。あるかぎりの、有情たちの志欲と悪習についての知恵が……。あるかぎりの、対なる神変についての知恵が……。あるかぎりの、大いなる慈悲の入定についての知恵が……。あるかぎりの、天〔界〕を含む世〔界〕の、魔〔界〕を含み梵〔界〕を含む〔世界〕の、沙門や婆羅門を含む人々の、天〔の神〕や人間を含む〔人々〕の、見られたものは、聞かれたものは、思われたものは、識られたものは、得られたものは、遍く探し求められたものは、刻々に行じおこなわれたものは、意によって、その〔一切〕が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見い出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、知慧によって〔すでに〕接触されたものとなり、知慧によって〔いまだ〕接触されていないものは存在しない、ということで、一切に眼ある者となる。それが、一切に眼あるものであるなら、それは、知慧の機能である。知慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能があり、励起の義(意味)によって、精進の機能があり、現起の義(意味)によって、気づきの機能があり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能がある。


 [1106]信を置いている者は、励起し、励起している者は、信を置く。信を置いている者は、〔気づきを〕現起させ、〔気づきを〕現起させている者は、信を置く。信を置いている者は、〔心を〕定め、〔心を〕定めている者は、信を置く。信を置いている者は、覚知し、覚知している者は、信を置く。励起している者は、〔気づきを〕現起させ、〔気づきを〕現起させている者は、励起する。励起している者は、〔心を〕定め、〔心を〕定めている者は、励起する。励起している者は、覚知し、覚知している者は、励起する。励起している者は、信を置き、信を置いている者は、励起する。〔気づきを〕現起させている者は、〔心を〕定め、〔心を〕定めている者は、〔気づきを〕現起させる。〔気づきを〕現起させている者は、覚知し、覚知している者は、〔気づきを〕現起させる。〔気づきを〕現起させている者は、信を置き、信を置いている者は、〔気づきを〕現起させる。〔気づきを〕現起させている者は、励起し、励起している者は、〔気づきを〕現起させる。〔心を〕定めている者は、覚知し、覚知している者は、〔心を〕定める。〔心を〕定めている者は、信を置き、信を置いている者は、〔心を〕定める。〔心を〕定めている者は、励起し、励起している者は、〔心を〕定める。〔心を〕定めている者は、〔気づきを〕現起させ、〔気づきを〕現起させている者は、〔心を〕定める。覚知している者は、信を置き、信を置いている者は、覚知する。覚知している者は、励起し、励起している者は、覚知する。覚知している者は、〔気づきを〕現起させ、〔気づきを〕現起させている者は、覚知する。覚知している者は、〔心を〕定め、〔心を〕定めている者は、覚知する。


 [1107]信を置かれたことから、励起されたものとなり、励起されたことから、信を置かれたものとなる。信を置かれたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなり、〔気づきを〕現起させられたことから、信を置かれたものとなる。信を置かれたことから、〔心を〕定められたものとなり、〔心を〕定められたことから、信を置かれたものとなる。信を置かれたことから、覚知されたものとなり、覚知されたことから、信を置かれたものとなる。励起されたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなり、〔気づきを〕現起させられたことから、励起されたものとなる。励起されたことから、〔心を〕定められたものとなり、〔心を〕定められたことから、励起されたものとなる。励起されたことから、覚知されたものとなり、覚知されたことから、励起されたものとなる。励起されたことから、信を置かれたものとなり、【33】信を置かれたことから、励起されたものとなる。〔気づきを〕現起させられたことから、〔心を〕定められたものとなり、〔心を〕定められたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなる。〔気づきを〕現起させられたことから、覚知されたものとなり、覚知されたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなる。〔気づきを〕現起させられたことから、信を置かれたものとなり、信を置かれたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなる。〔気づきを〕現起させられたことから、励起されたものとなり、励起されたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなる。〔心を〕定められたことから、覚知されたものとなり、覚知されたことから、〔心を〕定められたものとなる。〔心を〕定められたことから、信を置かれたものとなり、信を置かれたことから〔心を〕定められたものとなる。〔心を〕定められたことから、励起されたものとなり、励起されたことから、〔心を〕定められたものとなる。〔心を〕定められたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなり、〔気づきを〕現起させられたことから、〔心を〕定められたものとなる。覚知されたことから、信を置かれたものとなり、信を置かれたことから、覚知されたものとなる。覚知されたことから、励起されたものとなり、励起されたことから、覚知されたものとなる。覚知されたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなり、〔気づきを〕現起させられたことから、覚知されたものとなる。覚知されたことから、〔心を〕定められたものとなり、〔心を〕定められたことから、覚知されたものとなる。


 [1108]それが、覚者の眼であるなら、それは、覚者の知恵である。それが、覚者の知恵であるなら、それは、覚者の眼である。その眼によって、如来は、有情たちを見る――少なき塵の者たちとして、大きな塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、また、一部の者たちを、他世の罪過と恐怖を見る者たちとして、また、一部の者たちを、他世の罪過と恐怖を見ない者たちとして。


 [1109]「少なき塵の者たちとして、大きな塵の者たちとして」とは、信ある人が、少なき塵の者となり、信なき人が、大きな塵の者となる。精進に励む人が、少なき塵の者となり、怠惰の人が、大きな塵の者となる。気づきを現起させた人が、少なき塵の者となり、気づきを忘却した人が、大きな塵の者となる。〔心が〕定められた人が、少なき塵の者となり、〔心が〕定められていない人が、大きな塵の者となる。知慧ある人が、少なき塵の者となり、知慧浅き人が、大きな塵の者となる。


 [1110]「鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして」とは、信ある人が、鋭敏なる機能の者となり、信なき人が、柔弱なる機能の者となる……略……。知慧ある人が、鋭敏なる機能の者となり、知慧浅き人が、柔弱なる機能の者となる。「善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして」とは、信ある人が、善き行相の者となり、信なき人が、悪しき行相の者となる……略……。知慧ある人が、善き行相の者となり、知慧浅き人が、悪しき行相の者となる。「識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして」とは、信ある人が、識知させるに易き者となり、信なき人が、識知させるに難き者となる……略……。知慧ある人が、識知させるに易き者となり、知慧浅き人が、識知させるに難き者となる。


 [1111]「また、一部の者たちを、他世の罪過と恐怖を見る者たちとして、また、一部の者たちを、他世の罪過と恐怖を見ない者たちとして」とは、信ある人が、他世の罪過と恐怖を見る者となり、信なき人が、他世の罪過と恐怖を見ない者となる。精進に励む人が、他世の罪過と恐怖を見る者となり、怠惰の人が、他世の罪過と恐怖を見ない者となる……略……。知慧ある人が、他世の罪過と恐怖を見る者となり、知慧浅き人が、他世の罪過と恐怖を見ない者となる。


 [1112]「世」とは、範疇の世〔界〕、界域の世〔界〕、〔認識の〕場所の世〔界〕、衰滅の【34】生存の世〔界〕、衰滅の発生の世〔界〕、得達の生存の世〔界〕、得達の発生の世〔界〕である。


 [1113]一つの世〔界〕がある。〔すなわち〕一切の有情は、食(栄養)に立脚する者たちである。二つの世〔界〕がある。〔すなわち〕名前(名)と、形態(色)とである。三つの世〔界〕がある。〔すなわち〕三つの感受(三受)である。四つの世〔界〕がある。〔すなわち〕四つの食(四食)である。五つの世〔界〕がある。〔すなわち〕〔心身を構成する〕五つの執取の範疇(五取蘊)である。六つの世〔界〕がある。〔すなわち〕六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)である。七つの世〔界〕がある。〔すなわち〕七つの識別〔作用〕の止住(七識住)である。八つの世〔界〕がある。〔すなわち〕八つの世の法(八世間法)である。九つの世〔界〕がある。〔すなわち〕九つの有情の居住(九有情居)である。十の世〔界〕がある。〔すなわち〕十の〔認識の〕場所(十処)である。十二の世〔界〕がある。〔すなわち〕十二の〔認識の〕場所(十二処)である。十八の世〔界〕がある。〔すなわち〕十八の界域(十八界)である。


 [1114]「罪過」とは、一切の〔心の〕汚れが、諸々の罪過となり、一切の悪しき行ないが、諸々の罪過となり、一切の行作(現行)が、諸々の罪過となり、一切の生存に至る行為が、諸々の罪過となる。かくのごとく、しかして、この世〔界〕について、さらには、この罪過について、諸々の強烈なる恐怖の表象が、現起されたものと成る――それは、たとえば、また、剣を引き抜いた殺戮者にたいしてのように。これらの五十の行相によって、これらの五つの機能を、知り、見、了知し、理解する。ということで――


 [1115]機能についての言説は、〔以上で〕終了した。


 〔以上が〕第三の読誦分となる。




1.5 解脱についての言説




1.5.1 概略




209.




 [1116]【35】過去の因縁となる。「比丘たちよ、三つのものがある。これらの解脱である。どのようなものが、三つのものであるのか。空性の解脱、無相の解脱、無願の解脱である。比丘たちよ、まさに、これらの三つの解脱がある」〔と〕。


 [1117]さらに、また、六十八の解脱がある。空性の解脱、無相の解脱、無願の解脱、内からの出起の解脱、外からの出起の解脱、〔内と外の〕両者からの出起の解脱、(1・2・3・4)内からの出起の四つの解脱、(5・6・7・8)外からの出起の四つの解脱、(9・10・11・12)〔内と外の〕両者からの出起の四つの解脱、(13・14・15・16)内からの出起に随順する四つの解脱、(17・18・19・20)外からの出起に随順する四つの解脱、(21・22・23・24)〔内と外の〕両者からの出起に随順する四つの解脱、(25・26・27・28)内からの出起の静息としての四つの解脱、(29・30・31・32)外からの出起の静息としての四つの解脱、(33・34・35・36)〔内と外の〕両者からの出起の静息としての四つの解脱、(37)形態ある者(色界の瞑想者)として、諸々の形態を見る、という解脱、(38)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見る、という解脱、(39)「浄美である」とだけ信念した者と成る、という解脱、(40)虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の解脱、(41)識別無辺なる〔認識の〕場所への入定の解脱、(42)無所有なる〔認識の〕場所への入定の解脱、(43)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の解脱、(44)表象と感受されたものの止滅(想受滅)への入定の解脱、(45)時限の解脱、(46)時限ならざる解脱、(47)暫時の解脱、(48)暫時ならざる解脱、(49)動揺の解脱、(50)動揺ならざる解脱、(51)世〔俗〕の解脱、(52)世〔俗〕を超える解脱、(53)煩悩を有する解脱、(54)煩悩なき解脱、(55)〔世〕財を有する解脱、(56)〔世〕財なき解脱、(57)〔世〕財なき〔解脱〕よりもより〔世〕財なき解脱、(58―1)切願された解脱、(58―2)切願されざる解脱、(59)切願された〔解脱〕の静息としての解脱、(60)束縛された解脱、(61)束縛を離れた解脱、(62)一なることとしての解脱、(63)種々なることとしての解脱、【36】(64)表象の解脱、(65)知恵の解脱、(66)〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱、(67)瞑想の解脱、(68)執取なき心にとっての解脱である。




1.5.2 釈示




210.




 [1118]どのようなものが、空性の解脱であるのか。ここに、比丘が、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく、深慮する。「これは、空である――あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては〔空である〕」と。彼は、そこにおいて、固着を作り為さない、ということで、空性の解脱となる。これが、空性の解脱である。


 [1119]どのようなものが、無相の解脱であるのか。ここに、比丘が、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく、深慮する。「これは、空である――あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては〔空である〕」と。彼は、そこにおいて、形相を作り為さない、ということで、無相の解脱となる。これが、無相の解脱である。


 [1120]どのようなものが、無願の解脱であるのか。ここに、比丘が、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく、深慮する。「これは、空である――あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては〔空である〕」と。彼は、そこにおいて、切願を作り為さない、ということで、無願の解脱となる。これが、無願の解脱である。


 [1121]どのようなものが、内からの出起の解脱であるのか。四つの瞑想である。これが、内からの出起の解脱である。どのようなものが、外からの出起の解脱であるのか。四つの形態なき入定である。これが、外からの出起の解脱である。どのようなものが、〔内と外の〕両者からの出起の解脱であるのか。四つの聖者の道である。これが、〔内と外の〕両者からの出起の解脱である。


 [1122](1・2・3・4)どのようなものが、内からの出起の四つの解脱であるのか。第一の瞑想が、〔五つの修行の〕妨害“さまたげ”から出起する。第二の瞑想が、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念から出起する。第三の瞑想が、喜悦から出起する。第四の瞑想が、楽と苦から出起する。これらが、内からの出起の四つの解脱である。


 [1123](5・6・7・8)どのようなものが、外からの出起の四つの解脱であるのか。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定が、形態の表象から、障礙の表象から、種々なることの表象から、出起する。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定が、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象から出起する。無所有なる〔認識の〕場所への入定が、識別無辺なる〔認識の〕場所の表象から出起する。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定が、無所有なる〔認識の〕場所の表象から出起する。これらが、外からの出起の四つの解脱である。


 [1124](9・10・11・12)どのようなものが、〔内と外の〕両者からの出起の四つの解脱であるのか。預流道が、身体が有るという見解と疑惑〔の思い〕と戒や掟への執着から〔出起し〕、見解の悪習から〔出起し〕、疑惑の悪習から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から【37】出起する。一来道が、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕の悪習から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。不還道が、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕の悪習から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。阿羅漢道が、形態(色界)にたいする貪欲〔の思い〕から〔出起し〕、形態なき(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕から〔出起し〕、思量から〔出起し〕、高揚から〔出起し〕、無明から〔出起し〕、思量の悪習から〔出起し〕、生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、無明の悪習から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。これらが、〔内と外の〕両者からの出起の四つの解脱である。




211.




 [1125](13・14・15・16)どのようなものが、内からの出起に随順する四つの解脱であるのか。第一の瞑想の獲得という義(目的)のために、〔粗雑な〕思考と、〔微細な〕想念と、喜悦と、安楽と、心の一境性とがある。第二の瞑想の獲得という義(目的)のために……略……。第三の瞑想の獲得という義(目的)のために……略……。第四の瞑想の獲得という義(目的)のために、〔粗雑な〕思考と、〔微細な〕想念と、喜悦と、安楽と、心の一境性とがある。これらが、内からの出起に随順する四つの解脱である。


 [1126](17・18・19・20)どのようなものが、外からの出起に随順する四つの解脱であるのか。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために、〔粗雑な〕思考と、〔微細な〕想念と、喜悦と、安楽と、心の一境性とがある。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために……略……。無所有なる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために、〔粗雑な〕思考と、〔微細な〕想念と、喜悦と、安楽と、心の一境性とがある。これらが、外からの出起に随順する四つの解脱である。


 [1127](21・22・23・24)どのようなものが、〔内と外の〕両者からの出起に随順する四つの解脱であるのか。預流道の獲得という義(目的)のために、無常の随観、苦痛の随観、無我の随観がある。一来道の獲得という義(目的)のために……略……。不還道の獲得という義(目的)のために……略……。阿羅漢道の獲得という義(目的)のために、無常の随観、苦痛の随観、無我の随観がある。これらが、〔内と外の〕両者からの出起に随順する四つの解脱である。


 [1128](25・26・27・28)どのようなものが、内からの出起の静息としての四つの解脱であるのか。第一の瞑想には、あるいは、獲得があり、あるいは、報い(異熟)がある。第二の瞑想には……略……。第三の瞑想には……略……。【38】第四の瞑想には、あるいは、獲得があり、あるいは、報いがある。これらが、内からの出起の静息としての四つの解脱である。


 [1129](29・30・31・32)どのようなものが、外からの出起の静息としての四つの解脱であるのか。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定には、あるいは、獲得があり、あるいは、報いがある。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定には……略……。無所有なる〔認識の〕場所への入定には……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定には、あるいは、獲得があり、あるいは、報いがある。これらが、外からの出起の静息としての四つの解脱である。


 [1130](33・34・35・36)どのようなものが、〔内と外の〕両者からの出起の静息としての四つの解脱であるのか。預流道には、預流果がある。一来道には、一来果がある。不還道には、不還果がある。阿羅漢道には、阿羅漢果がある。これらが、〔内と外の〕両者からの出起の静息としての四つの解脱である。




212.




 [1131](37)どのように、形態ある者(色界の瞑想者)として、諸々の形態を見る、ということで、解脱となるのか。ここに、一部の者が、内に、各自それぞれに、青の形相に意を為し、青の表象を獲得する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く確保されたものとして確保する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く確保されたものとして確保して〔そののち〕、外に、青の形相において、心を近しく集中し、青の表象を獲得する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く確保されたものとして確保する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く確保されたものとして確保して〔そののち〕、習修し、修行し、多く為す。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「内も、外も、両者ともに、これは、形態である」と。〔彼は〕形態の表象ある者と成る。ここに、一部の者が、内に、各自それぞれに、黄の形相に……略……赤の形相に……略……白の形相に意を為し、白の表象を獲得する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く確保されたものとして確保する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く確保されたものとして確保して〔そののち〕、外に、白の形相において、心を近しく集中し、白の表象を獲得する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く確保されたものとして確保する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く確保されたものとして確保して〔そののち〕、習修し、修行し、多く為す。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「内も、外も、両者ともに、これは、形態である」と。〔彼は〕形態の表象ある者と成る。このように、形態ある者として、諸々の形態を見る、ということで、解脱となる。


 [1132](38)どのように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見る、ということで、解脱となるのか。ここに、一部の者が、内に、各自それぞれに、【39】青の形相に意を為さず、青の表象を獲得せず、外に、青の形相において、心を近しく集中し、青の表象を獲得する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く確保されたものとして確保する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く確保されたものとして確保して〔そののち〕、習修し、修行し、多く為す。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「内に、形態なく、外に、これは、形態である」と。〔彼は〕形態の表象ある者と成る。一部の者が、内に、各自それぞれに、黄の形相に……略……赤の形相に……略……白の形相に意を為さず、白の表象を獲得せず、外に、白の形相において、心を近しく集中し、白の表象を獲得する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く確保されたものとして確保する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く確保されたものとして確保して〔そののち〕、習修し、修行し、多く為す。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「内に、形態なく、外に、これは、形態である」と。〔彼は〕形態の表象ある者と成る。このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見る、ということで、解脱となる。


 [1133](39)どのように、「浄美である」とだけ信念した者と成る、ということで、解脱となるのか。ここに、比丘が、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一方を充満して、〔世に〕住む。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住む〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住む〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住む〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世〔界〕を、広大にして莫大、無量にして怨恨〔の思い〕なく加害〔の思い〕なき、慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住む。慈愛〔の思い〕が修行されたことから、〔彼にとって〕有情たちは、嫌悪ならざる者たちと成る。慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……。慈悲〔の思い〕が修行されたことから、〔彼にとって〕有情たちは、嫌悪ならざる者たちと成る。歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕が修行されたことから、〔彼にとって〕有情たちは、嫌悪ならざる者たちと成る。放捨〔の思い〕を共具した心で、一方を充満して、〔世に〕住む……略……。放捨〔の思い〕が修行されたことから、〔彼にとって〕有情たちは、嫌悪ならざる者たちと成る。このように、「浄美である」とだけ信念した者と成る、ということで、解脱となる。




213.




 [1134](40)どのようなものが、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の解脱であるのか。ここに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の障礙の表象の滅至あることから、諸々の種々なることの表象に意を為さないことから、「虚空は、終極なきものである」と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して、〔世に〕住む。これが、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の解脱である。


 [1135](41)どのようなものが、識別無辺なる〔認識の〕場所への入定の解脱であるのか。ここに、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、【40】「識別〔作用〕は、終極なきものである」と、識別無辺なる〔認識の〕場所を成就して、〔世に〕住む。これが、識別無辺なる〔認識の〕場所への入定の解脱である。


 [1136](42)どのようなものが、無所有なる〔認識の〕場所への入定の解脱であるのか。ここに、比丘が、全てにわたり、識別無辺なる〔認識の〕場所を超越して、「何であれ、存在しない」と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して、〔世に〕住む。これが、無所有なる〔認識の〕場所への入定の解脱である。


 [1137](43)どのようなものが、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の解脱であるのか。ここに、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して、〔世に〕住む。これが、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の解脱である。


 [1138](44)どのようなものが、表象と感受されたものの止滅(想受滅)への入定の解脱であるのか。ここに、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感受されたものの止滅を成就して、〔世に〕住む。これが、表象と感受されたものの止滅への入定の解脱である。


 [1139](45)どのようなものが、時限の解脱であるのか。四つの瞑想と、四つの形態なき入定とである。これが、時限の解脱である。


 [1140](46)どのようなものが、時限ならざる解脱であるのか。四つの聖者の道と、四つの沙門果と、涅槃とである。これが、時限ならざる解脱である。


 [1141](47)どのようなものが、暫時の解脱であるのか。四つの瞑想と、四つの形態なき入定とである。これが、暫時の解脱である。


 [1142](48)どのようなものが、暫時ならざる解脱であるのか。四つの聖者の道と、四つの沙門果と、涅槃とである。これが、暫時ならざる解脱である。


 [1143](49)どのようなものが、動揺の解脱であるのか。四つの瞑想と、四つの形態なき入定とである。これが、動揺の解脱である。


 [1144](50)どのようなものが、動揺ならざる解脱であるのか。四つの聖者の道と、四つの沙門果と、涅槃とである。これが、動揺ならざる解脱である。


 [1145](51)どのようなものが、世〔俗〕の解脱であるのか。四つの瞑想と、四つの形態なき入定とである。これが、世〔俗〕の解脱である。


 [1146](52)どのようなものが、世〔俗〕を超える解脱であるのか。四つの聖者の道と、四つの沙門果と、涅槃とである。これが、世〔俗〕を超える解脱である。


 [1147](53)どのようなものが、煩悩を有する解脱であるのか。四つの瞑想と、四つの形態なき入定とである。これが、煩悩を有する解脱である。


 [1148](54)どのようなものが、煩悩なき解脱であるのか。四つの聖者の道と、【41】四つの沙門果と、涅槃とである。これが、煩悩なき解脱である。


 [1149](55)どのようなものが、〔世〕財を有する解脱であるのか。形態(色界)と結び付いた解脱である。これが、〔世〕財を有する解脱である


 [1150](56)どのようなものが、〔世〕財なき解脱であるのか。形態なき(無色界)と結び付いた解脱である。これが、〔世〕財なき解脱である


 [1151](57)どのようなものが、〔世〕財なき〔解脱〕よりもより〔世〕財なき解脱であるか。四つの聖者の道と、四つの沙門果と、涅槃とである。これが、〔世〕財なき〔解脱〕よりもより〔世〕財なき解脱である。


 [1512](58―1)どのようなものが、切願された解脱であるのか。四つの瞑想と、四つの形態なき入定とである。これが、切願された解脱である。(58―2)どのようなものが、切願されざる解脱であるのか。四つの聖者の道と、四つの沙門果と、涅槃とである。これが、切願されざる解脱である。


 [1153](59)どのようなものが、切願された〔解脱〕の静息としての解脱であるのか。第一の瞑想には、あるいは、獲得があり、あるいは、報いがある……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定には、あるいは、獲得があり、あるいは、報いがある。これが、切願された〔解脱〕の静息としての解脱である。


 [1154](60)どのようなものが、束縛された解脱であるのか。四つの瞑想と、四つの形態なき入定とである。これが、束縛された解脱である。


 [1155](61)どのようなものが、束縛を離れた解脱であるのか。四つの聖者の道と、四つの沙門果と、涅槃とである。これが、束縛を離れた解脱である。


 [1156](62)どのようなものが、一なることとしての解脱であるのか。四つの聖者の道と、四つの沙門果と、涅槃とである。これが、一なることとしての解脱である。


 [1157](63)どのようなものが、種々なることとしての解脱であるのか。四つの瞑想と、四つの形態なき入定とである。これが、種々なることとしての解脱である。




214.




 [1158](64)どのようなものが、表象の解脱であるのか。存在するであろうか――一つの表象の解脱が、十の表象の解脱と成り、十の表象の解脱が、一つの表象の解脱と成る、〔そのようなものとしての、表象の解脱が〕――基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。


 [1159]「存在するであろうか」とは、しからば、どのように、存在するであろうか。無常の随観の知恵は、常住の表象から解き放たれる、ということで、【42】表象の解脱となる。苦痛の随観の知恵は、安楽の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。無我の随観の知恵は、自己の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。厭離の随観の知恵は、喜悦の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。離貪の随観の知恵は、貪欲の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。止滅の随観の知恵は、集起の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。放棄の随観の知恵は、執取の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。無相の随観の知恵は、形相の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。無願の随観の知恵は、切願の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。空性の随観の知恵は、固着の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。このように、存在するであろう――一つの表象の解脱が、十の表象の解脱と成り、十の表象の解脱が、一つの表象の解脱と成る、〔そのようなものとしての、表象の解脱が〕――基盤を所以に、教相によって。


 [1160]形態において、無常の随観の知恵は、常住の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる……略……。形態において、空性の随観の知恵は、固着の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。このように、存在するであろう――一つの表象の解脱が、十の表象の解脱と成り、十の表象の解脱が、一つの表象の解脱と成る、〔そのようなものとしての、表象の解脱が〕――基盤を所以に、教相によって。


 [1161]感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼において……略……。老と死において、無常の随観の知恵は、常住の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる……略……。老と死において、空性の随観の知恵は、固着の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。このように、存在するであろう――一つの表象の解脱が、十の表象の解脱と成り、十の表象の解脱が、一つの表象の解脱と成る、〔そのようなものとしての、表象の解脱が〕――基盤を所以に、教相によって。これが、表象の解脱である。




215.




 [1162](65)どのようなものが、知恵の解脱であるのか。存在するであろうか――一つの知恵の解脱が、十の知恵の解脱と成り、十の知恵の解脱が、一つの知恵の解脱と成る、〔そのようなものとしての、知恵の解脱が〕――基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。「存在するであろうか」とは、しからば、どのように、存在するであろうか。無常の随観という事実のとおりの知恵は、常住の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。苦痛の随観という事実のとおりの知恵は、安楽の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。無我の随観という事実のとおりの知恵は、自己の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。厭離の随観という事実のとおりの知恵は、喜悦の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。離貪の随観という事実のとおりの【43】知恵は、貪欲の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。止滅の随観という事実のとおりの知恵は、集起の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。放棄の随観という事実のとおりの知恵は、執取の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。無相の随観という事実のとおりの知恵は、形相の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。無願の随観という事実のとおりの知恵は、切願の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。空性の随観という事実のとおりの知恵は、固着の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。このように、存在するであろう――一つの知恵の解脱が、十の知恵の解脱と成り、十の知恵の解脱が、一つの知恵の解脱と成る、〔そのようなものとしての、知恵の解脱が〕――基盤を所以に、教相によって。


 [1163]形態において、無常の随観という事実のとおりの知恵は、常住の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる……略……。形態において、空性の随観という事実のとおりの知恵は、固着の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。このように、存在するであろう――一つの知恵の解脱が、十の知恵の解脱と成り、十の知恵の解脱が、一つの知恵の解脱と成る、〔そのようなものとしての、知恵の解脱が〕――基盤を所以に、教相によって。


 [1164]感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼において……略……。老と死において、無常の随観という事実のとおりの知恵は、常住の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる……略……。老と死において、空性の随観という事実のとおりの知恵は、固着の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。このように、存在するであろう――一つの知恵の解脱が、十の知恵の解脱と成り、十の知恵の解脱が、一つの知恵の解脱と成る、〔そのようなものとしての、知恵の解脱が〕――基盤を所以に、教相によって。これが、知恵の解脱である。




216.




 [1165](66)どのようなものが、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱であるのか。存在するであろうか――一つの〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱が、十の〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱と成り、十の〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱が、一つの〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱と成る、〔そのようなものとしての、欲の炎なく冷静に存する解脱が〕――基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。「存在するであろうか」とは、しからば、どのように、存在するであろうか。無常の随観という無上にして冷静の状態の知恵は、常住の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる。苦痛の随観という無上にして冷静の状態の知恵は、安楽の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる。無我の随観という無上にして冷静の状態の知恵は、自己の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる。厭離の随観という【44】無上にして冷静の状態の知恵は、喜悦の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる。離貪の随観という無上にして冷静の状態の知恵は、貪欲の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる。止滅の随観という無上にして冷静の状態の知恵は、集起の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる。放棄の随観という無上にして冷静の状態の知恵は、執取の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる。無相の随観という無上にして冷静の状態の知恵は、形相の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる。無願の随観という無上にして冷静の状態の知恵は、切願の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる。空性の随観という無上にして冷静の状態の知恵は、固着の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる。このように、存在するであろう――一つの〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱が、十の〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱と成り、十の〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱が、一つの〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱と成る、〔そのようなものとしての、欲の炎なく冷静に存する解脱が〕――基盤を所以に、教相によって。


 [1166]形態において、無常の随観という無上にして冷静の状態の知恵は、常住の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる……略……。形態において、空性の随観という無上にして冷静の状態の知恵は、固着の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる。このように、存在するであろう――一つの〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱が、十の〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱と成り、十の〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱が、一つの〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱と成る、〔そのようなものとしての、欲の炎なく冷静に存する解脱が〕――基盤を所以に、教相によって。


 [1167]感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼において……略……。老と死において、無常の随観という無上にして冷静の状態の知恵は、常住の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる……略……。老と死において、空性の随観という無上にして冷静の状態の知恵は、固着の熱苦の苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱となる。このように、存在するであろう――一つの〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱が、十の〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱と成り、十の〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱が、一つの〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱と成る、〔そのようなものとしての、欲の炎なく冷静に存する解脱が〕――基盤を所以に、教相によって。これが、〔欲の炎なく〕冷静に存する解脱である。




217.




 [1168](67)どのようなものが、瞑想の解脱であるのか。離欲を瞑想する(ジャーヤティ)、ということで、瞑想となる。欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕を焼尽する(ジャーペーティ)、ということで、瞑想となる。瞑想している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。瞑想する、ということで、諸法(性質)が。焼尽する、ということで、諸々の〔心の〕汚れを。しかして、諸々の焼尽されたものを〔知り〕、さらには、諸々の焼尽するものを知る、ということで、瞑想の解脱となる。【45】加害〔の思い〕なきを瞑想する、ということで、瞑想となる。加害〔の思い〕を焼尽する、ということで、瞑想となる。瞑想している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。瞑想する、ということで、諸法(性質)が。焼尽する、ということで、諸々の〔心の〕汚れを。しかして、諸々の焼尽されたものを〔知り〕、さらには、諸々の焼尽するものを知る、ということで、瞑想の解脱となる。光明の表象を瞑想する、ということで、瞑想となる。〔心の〕沈滞と眠気を焼尽する、ということで、瞑想となる……略……。〔心の〕散乱なきを瞑想する、ということで、瞑想となる。〔心の〕高揚を焼尽する、ということで、瞑想となる……。法(性質)の〔差異を〕定め置くことを瞑想する、ということで、瞑想となる。疑惑〔の思い〕焼尽する、ということで、瞑想となる……。知恵を瞑想する、ということで、瞑想となる。無明を焼尽する、ということで、瞑想となる……。歓喜を瞑想する、ということで、瞑想となる。不満〔の思い〕を焼尽する、ということで、瞑想となる……。第一の瞑想を瞑想する、ということで、瞑想となる。〔五つの修行の〕妨害を焼尽する、ということで、瞑想となる……略……。阿羅漢道を瞑想する、ということで、瞑想となる。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを焼尽する、ということで、瞑想となる。瞑想している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。瞑想する、ということで、諸法(性質)が。焼尽する、ということで、諸々の〔心の〕汚れを。しかして、諸々の焼尽されたものを〔知り〕、さらには、諸々の焼尽するものを知る、ということで、瞑想の解脱となる。これが、瞑想の解脱である。




218.




 [1169](68)どのようなものが、執取なき心にとっての解脱であるのか。存在するであろうか――一つの執取なき心にとっての解脱が、十の執取なき心にとっての解脱と成り、十の執取なき心にとっての解脱が、一つの執取なき心にとっての解脱と成る、〔そのようなものとしての、執取なき心にとっての解脱が〕――基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。「存在するであろうか」とは、しからば、どのように、存在するであろうか。無常の随観の知恵は、常住の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。苦痛の随観の知恵は、安楽の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。無我の随観の知恵は、自己の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。厭離の随観の知恵は、喜悦の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。離貪の随観の知恵は、貪欲の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。止滅の随観の知恵は、集起の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。放棄の随観の知恵は、執取の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。無相の随観の知恵は、形相の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。無願の随観の知恵は、【46】切願の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。空性の随観の知恵は、固着の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。このように、存在するであろう――一つの執取なき心にとっての解脱は、十の執取なき心にとっての解脱と成り、十の執取なき心にとっての解脱は、一つの執取なき心にとっての解脱と成る、〔そのようなものとしての、執取なき心にとっての解脱が〕――基盤を所以に、教相によって。


 [1170]形態において、無常の随観の知恵は、常住の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる……略……。形態において、空性の随観の知恵は、固着の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。このように、存在するであろう――一つの執取なき心にとっての解脱が、十の執取なき心にとっての解脱と成り、十の執取なき心にとっての解脱が、一つの執取なき心にとっての解脱と成る、〔そのようなものとしての、執取なき心にとっての解脱が〕――基盤を所以に、教相によって。


 [1171]感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼において……略……。老と死において、無常の知恵は、常住の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる……略……。老と死において、空性の随観の知恵は、固着の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。このように、存在するであろう――一つの執取なき心にとっての解脱が、十の執取なき心にとっての解脱と成り、十の執取なき心にとっての解脱が、一つの執取なき心にとっての解脱と成る、〔そのようなものとしての、執取なき心にとっての解脱が〕――基盤を所以に、教相によって。これが、知恵の解脱である。


 [1172]無常の随観の知恵は、どれだけの執取から解き放たれるのか。苦痛の随観の知恵は、どれだけの執取から解き放たれるのか。無我の随観の知恵は、どれだけの執取から解き放たれるのか。厭離の随観の知恵は……略……。離貪の随観の知恵は……。止滅の随観の知恵は……。放棄の随観の知恵は……。無相の随観の知恵は……。無願の随観の知恵は……。空性の随観の知恵は、どれだけの執取から解き放たれるのか。


 [1173]無常の随観の知恵は、三つの執取から解き放たれる。苦痛の随観の知恵は、一つの執取から解き放たれる。無我の随観の知恵は、三つの執取から解き放たれるのか。厭離の随観の知恵は、一つの執取から解き放たれる。離貪の随観の知恵は、一つの執取から解き放たれる。止滅の随観の知恵は、四つの執取から解き放たれる。放棄の随観の知恵は、四つの執取から解き放たれる。無相の随観の知恵は、三つの執取から解き放たれる。無願の随観の知恵は、一つの執取から解き放たれる。空性の随観の知恵は、三つの執取から解き放たれる。


 [1174]無常の随観の知恵は、どのような三つの執取から解き放たれるのか。見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から、無常の随観の知恵は、これらの三つの執取から解き放たれる。苦痛の随観の知恵は、どのような一つの執取から解き放たれるのか。【47】欲望〔の対象〕への執取から、苦痛の随観の知恵は、この一つの執取から解き放たれる。無我の随観の知恵は、どのような三つの執取から解き放たれるのか。見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から、無我の随観の知恵は、これらの三つの執取から解き放たれる。厭離の随観の知恵は、どのような一つの執取から解き放たれるのか。欲望〔の対象〕への執取から、厭離の随観の知恵は、この一つの執取から解き放たれる。離貪の随観の知恵は、どのような一つの執取から解き放たれるのか。欲望〔の対象〕への執取から、離貪の随観の知恵は、この一つの執取から解き放たれる。止滅の随観の知恵は、どのような四つの執取から解き放たれるのか。欲望〔の対象〕への執取から、見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から、止滅の随観の知恵は、これらの四つの執取から解き放たれる。放棄の随観の知恵は、どのような四つの執取から解き放たれるのか。欲望〔の対象〕への執取から、見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から、放棄の随観の知恵は、これらの四つの執取から解き放たれる。無相の随観の知恵は、どのような三つの執取から解き放たれるのか。見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から、無相の随観の知恵は、これらの三つの執取から解き放たれる。無願の随観の知恵は、どのような一つの執取から解き放たれるのか。欲望〔の対象〕への執取から、無願の随観の知恵は、この一つの執取から解き放たれる。空性の随観の知恵は、どのような三つの執取から解き放たれるのか。見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から、空性の随観の知恵は、これらの三つの執取から解き放たれる。


 [1175]〔まさに〕その、無常の随観の知恵と、〔まさに〕その、無我の随観の知恵と、〔まさに〕その、無相の随観の知恵と、〔まさに〕その、空性の随観の知恵と、これらの四つの知恵は、三つの執取から解き放たれる――〔すなわち〕見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から。〔まさに〕その、苦痛の随観の知恵と、〔まさに〕その、厭離の随観の知恵と、〔まさに〕その、離貪の随観の知恵と、〔まさに〕その、無願の随観の知恵と、【48】これらの四つの知恵は、一つの執取から解き放たれる――〔すなわち〕欲望〔の対象〕への執取から。〔まさに〕その、止滅の随観の知恵と、〔まさに〕その、放棄の随観の知恵と、これらの二つの知恵は、四つの執取から解き放たれる――〔すなわち〕欲望〔の対象〕への執取から、見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から。これが、執取なき心にとっての解脱である。


 [1176]解脱の言説における、〔以上が〕第一の読誦分となる。




219.




 [1177]また、まさに、三つのものが、〔すなわち、無相と無願と空性という〕これらの解脱の門が、世〔界〕からの出脱のために、等しく転起する。一切の形成〔作用〕を、限定と周定〔の観点〕から等しく随観することによって、しかして、無相の界域にたいし、心が跳入することのために、〔無相の解脱の門が、等しく転起する〕。一切の形成〔作用〕にたいし、意を鼓舞することによって、しかして、無願の界域にたいし、心が跳入することのために、〔無願の解脱の門が、等しく転起する〕。一切の諸法(性質)を、他者〔の観点〕から等しく随観することによって、しかして、空性の界域にたいし、心が跳入することのために、〔空性の解脱の門が、等しく転起する〕。これらの三つの解脱の門が、世〔界〕からの出脱のために、等しく転起する。


 [1178]無常〔の観点〕から意を為していると、どのように、諸々の形成〔作用〕が現起するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、どのように、諸々の形成〔作用〕が現起するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、どのように、諸々の形成〔作用〕が現起するのか。無常〔の観点〕から意を為していると、滅尽〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、恐怖〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。無我〔の観点〕から意を為していると、空〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。


 [1179]無常〔の観点〕から意を為していると、何が多き心と成るのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、何が多き心と成るのか。無我〔の観点〕から意を為していると、何が多き心と成るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、信念多き心と【49】成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、安息多き心と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、知多き心と成る。


 [1180]無常〔の観点〕から意を為している、信念多き者は、どのような機能を獲得するのか。苦痛〔の観点〕から意を為している、安息多き者は、どのような機能を獲得するのか。無我〔の観点〕から意を為している、知多き者は、どのような機能を獲得するのか。無常〔の観点〕から意を為している、信念多き者は、信の機能を獲得する。苦痛〔の観点〕から意を為している、安息多き者は、〔心の〕統一の機能を獲得する。無我〔の観点〕から意を為している、知多き者は、知慧の機能を獲得する。


 [1181]無常〔の観点〕から意を為していると、信念多き者には、どのような機能が、優位主要性と成り、修行のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁(倶生縁)と成り、互いに他なる縁(互縁)と成り、依所たる縁(依縁)と成り、結び付いたものとしての縁(相応縁)と成り、一味なるものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、誰が、修行するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、安息多き者には、どのような機能が、優位主要性と成り、修行のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、誰が、修行するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、知多き者には、どのような機能が、優位主要性と成り、修行のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、誰が、修行するのか。無常〔の観点〕から意を為していると、信念多き者には、信の機能が、優位主要性と成り、修行のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、彼が、正しい実践者であるなら、彼は修行し、誤った実践者には、機能の修行は存在しない。苦痛〔の観点〕から意を為していると、安息多き者には、〔心の〕統一の機能が、優位主要性と成り、修行のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と【50】成り、一味なるものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、彼が、正しい実践者であるなら、彼は修行し、誤った実践者には、機能の修行は存在しない。無我〔の観点〕から意を為していると、知多き者には、知慧の機能が、優位主要性と成り、修行のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、彼が、正しい実践者であるなら、彼は修行し、誤った実践者には、機能の修行は存在しない。




220.




 [1182]無常〔の観点〕から意を為していると、信念多き者には、どのような機能が、優位主要性と成り、修行のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解(通達)の時において、どのような機能が、優位主要性と成り、理解のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、どのような義(意味)によって、理解となるのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、安息多き者には、どのような機能が、優位主要性と成り、修行のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、どのような機能が、優位主要性と成り、理解のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、どのような義(意味)によって、理解となるのか。無我〔の観点〕から意を為していると、知多き者には、どのような機能が、優位主要性と成り、修行のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、どのような機能が、優位主要性と成り、理解のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、どのような義(意味)によって、理解となるのか。


 [1183]【51】無常〔の観点〕から意を為していると、信念多き者には、信の機能が、優位主要性と成り、修行のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、知慧の機能が、優位主要性と成り、理解のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、理解となる。このように、理解している者としてもまた、修行し、修行している者としてもまた、理解する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、安息多き者には、〔心の〕統一の機能が、優位主要性と成り、修行のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、知慧の機能が、優位主要性と成り、理解のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、理解となる。このように、理解している者としてもまた、修行し、修行している者としてもまた、理解する。無我〔の観点〕から意を為していると、知多き者には、知慧の機能が、優位主要性と成り、修行のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、知慧の機能が、優位主要性と成り、理解のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、理解となる。このように、理解している者としてもまた、修行し、修行している者としてもまた、理解する。




221.




 [1184]無常〔の観点〕から意を為していると、どのような機能が、旺盛なるものと成り、どのような機能が、旺盛なることから、〔彼は〕信による解脱者と成るのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、どのような機能が、旺盛なるものと成り、どのような機能が、旺盛なることから、〔彼は〕身体による実証者と成るのか。無我〔の観点〕から意を為していると、どのような機能が、旺盛なるものと成り、どのような機能が、旺盛なることから、〔彼は〕見を得た者と成るのか。


 [1185]【52】無常〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕信による解脱者と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、〔心の〕統一の機能が、旺盛なるものと成り、〔心の〕統一の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕身体による実証者と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、知慧の機能が、旺盛なるものと成り、知慧の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕見を得た者と成る。


 [1186]〔常に〕信を置いている解脱者である、ということで、信による解脱者となる。〔すでに〕接触された(体得された)ことから、実証した者である、ということで、身体による実証者となる。〔すでに〕見られたことから、得た者である、ということで、見を得た者となる。〔常に〕信を置きつつ解脱する、ということで、信による解脱者となる。瞑想〔の境地〕の接触を最初に接触し(体得し)、最後に止滅の涅槃を実証する、ということで、身体による実証者となる。「諸々の形成〔作用〕は、苦痛である」「止滅は、安楽である」と、〔すでに〕知られたものと成り、〔すでに〕見られたものと〔成り〕、〔すでに〕見い出されたものと〔成り〕、〔すでに〕実証されたものと〔成り〕、知慧によって〔すでに〕接触されたもの(体得されたもの)と〔成る〕、ということで、見を得た者となる。〔まさに〕その、信による解脱者である、この人と、〔まさに〕その、身体による実証者である、〔この人〕と、〔まさに〕その、見を得た者である、〔この人〕と、これらの三者の人は、存在するであろうか――信による解脱者たちとしてもまた、身体による実証者たちとしてもまた、見を得た者たちとしてもまた――基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。「存在するであろうか」とは、しからば、どのように、存在するであろうか。無常〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕信による解脱者と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕信による解脱者と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕信による解脱者と成る。このように、これらの三者の人は、信の機能を所以に、信による解脱者たちと〔成る〕。


 [1187]苦痛〔の観点〕から意を為していると、〔心の〕統一の機能が、旺盛なるものと成り、〔心の〕統一の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕身体による実証者と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、〔心の〕統一の機能が、旺盛なるものと成り、〔心の〕統一の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕身体による実証者と成る。無常〔の観点〕から意を為していると、〔心の〕統一の機能が、旺盛なるものと成り、〔心の〕統一の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕身体による実証者と成る。このように、これらの三者の人は、〔心の〕統一の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成る〕。


 [1188]無我〔の観点〕から意を為していると、知慧の機能が、旺盛なるものと成り、知慧の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕見を得た者と成る。無常〔の観点〕から【53】意を為していると、知慧の機能が、旺盛なるものと成り、知慧の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕見を得た者と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、知慧の機能が、旺盛なるものと成り、知慧の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕見を得た者と成る。このように、これらの三者の人は、知慧の機能を所以に、見を得た者たちと〔成る〕。


 [1189]〔まさに〕その、信による解脱者である、この人と、〔まさに〕その、身体による実証者である、〔この人〕と、〔まさに〕その、見を得た者である、〔この人〕と、これらの三者の人は、このように、存在するであろう――信による解脱者たちとしてもまた、身体による実証者たちとしてもまた、見を得た者たちとしてもまた――基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。〔まさに〕その、信による解脱者である、この人と、〔まさに〕その、身体による実証者である、〔この人〕と、〔まさに〕その、見を得た者である、〔この人〕と、これらの三者の人は、存在するであろうか……略……まさしく、他なる者として、信による解脱者が、他なる者として、身体による実証者が、他なる者として、見を得た者が。


 [1190]「存在するであろうか」とは、しからば、どのように、存在するであろうか。無常〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕信による解脱者と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、〔心の〕統一の機能が、旺盛なるものと成り、〔心の〕統一の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕身体による実証者と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、知慧の機能が、旺盛なるものと成り、知慧の機能が、旺盛なることから、〔彼は〕見を得た者と成る。〔まさに〕その、信による解脱者である、この人と、〔まさに〕その、身体による実証者である、〔この人〕と、〔まさに〕その、見を得た者である、〔この人〕と、これらの三者の人は、このように、存在するであろう――信による解脱者たちとしてもまた、身体による実証者たちとしてもまた、見を得た者たちとしてもまた――基盤を所以に、教相によって――まさしく、他なる者として、信による解脱者が、他なる者として、身体による実証者が、他なる者として、見を得た者が。


 [1191]無常〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、預流道を獲得する。それによって説かれる。「信に従い行く者」と。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。信の機能を所以に、〔他の〕四つの機能の修行と成る。まさに、彼らが誰であれ、信の機能を所以に、預流道を獲得するなら、彼らは、〔その〕全てが、信に従い行く者たちと〔成る〕。


 [1192]無常〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、預流果が、実証されたものと成る。それによって説かれる。「信による解脱者」と。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。信の機能を所以に、〔他の〕四つの機能が、修行されたものと成り、【54】善く修行されたものと〔成る〕。まさに、彼らが誰であれ、信の機能を所以に、預流果が、実証されたものと〔成る〕なら、彼らは、〔その〕全てが、信による解脱者たちと〔成る〕。


 [1193]無常〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、一来道を獲得する……略……。一来果が、実証されたものと成る……略……。不還道を獲得する……略……。不還果が、実証されたものと成る……略……。阿羅漢道を獲得する……略……。阿羅漢の資質が、実証されたものと成る。それによって説かれる。「信による解脱者」と。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り……略……結び付いたものとしての縁と成る。信の機能を所以に、〔他の〕四つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。まさに、彼らが誰であれ、信の機能を所以に、阿羅漢の資質が実証されたものと〔成る〕なら、彼らは、〔その〕全てが、信による解脱者たちと〔成る〕。


 [1194]苦痛〔の観点〕から意を為していると、〔心の〕統一の機能が、旺盛なるものと成り、〔心の〕統一の機能が、旺盛なることから、預流道を獲得する。それによって説かれる。「身体による実証者」と。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。〔心の〕統一の機能を所以に、〔他の〕四つの機能の修行と成る。まさに、彼らが誰であれ、〔心の〕統一の機能を所以に、預流道を獲得するなら、彼らは、〔その〕全てが、身体による実証者たちと〔成る〕。


 [1195]苦痛〔の観点〕から意を為していると、〔心の〕統一の機能が、旺盛なるものと成り、〔心の〕統一の機能が、旺盛なることから、預流果が、実証されたものと成る……略……。一来道を獲得する……略……。一来果が、実証されたものと成る……略……。不還道を獲得する……略……。不還果が、実証されたものと成る……略……。阿羅漢道を獲得する……略……。阿羅漢の資質が、実証されたものと成る。それによって説かれる。「身体による実証者」と。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。〔心の〕統一の機能を所以に、〔他の〕四つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。まさに、彼らが誰であれ、〔心の〕統一の機能を所以に、阿羅漢の資質が実証されたものと〔成る〕なら、彼らは、〔その〕全てが、身体による実証者たちと〔成る〕。


 [1196]無我〔の観点〕から意を為していると、知慧の機能が、旺盛なるものと成り、知慧の機能が、旺盛なることから、預流道を獲得する。それによって説かれる。「法(真理)に従い行く者」と。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り……略……結び付いたものとしての縁と成る。【55】知慧の機能を所以に、〔他の〕四つの機能の修行と成る。まさに、彼らが誰であれ、知慧の機能を所以に、預流道を獲得するなら、彼らは、〔その〕全てが、法(真理)に従い行く者たちと〔成る〕。


 [1197]無我〔の観点〕から意を為していると、知慧の機能が、旺盛なるものと成り、知慧の機能が、旺盛なることから、預流果が、実証されたものと成る。それによって説かれる。「見を得た者」と。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り……略……結び付いたものとしての縁と成る。知慧の機能を所以に、〔他の〕四つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。まさに、彼らが誰であれ、知慧の機能を所以に、預流果が、実証されたものと〔成る〕なら、彼らは、〔その〕全てが、見を得た者たちと〔成る〕。


 [1198]無我〔の観点〕から意を為していると、知慧の機能が、旺盛なるものと成り、知慧の機能が、旺盛なることから、一来道を獲得する……略……。一来果が、実証されたものと成る……略……。不還道を獲得する……略……。不還果が、実証されたものと成る……略……。阿羅漢道を獲得する……略……。阿羅漢の資質が、実証されたものと成る。それによって説かれる。「見を得た者」と。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。知慧の機能を所以に、〔他の〕四つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。まさに、彼らが誰であれ、知慧の機能を所以に、阿羅漢の資質が実証されたものと〔成る〕なら、彼らは、〔その〕全てが、見を得た者たちと〔成る〕。




222.




 [1199]まさに、彼らが誰であれ、離欲を、あるいは、修行したなら、あるいは、修行するなら、あるいは、修行するであろうなら、あるいは、到達したなら、あるいは、到達するなら、あるいは、到達するであろうなら、あるいは、得たなら、あるいは、得るなら、あるいは、得るであろうなら、あるいは、獲得したなら、あるいは、獲得するなら、あるいは、獲得するであろうなら、あるいは、理解したなら、あるいは、理解するなら、あるいは、理解するであろうなら、あるいは、実証したなら、あるいは、実証するなら、あるいは、実証するであろうなら、あるいは、接触したなら、あるいは、接触するなら、あるいは、接触するであろうなら、あるいは、自在を得たなら、あるいは、得るなら、あるいは、得るであろうなら、〔知慧の〕最奥義(波羅蜜)を得たなら、あるいは、得るなら、あるいは、得るであろうなら、離怖を得たなら、あるいは、得るなら、あるいは、得るであろうなら、彼らは、〔その〕全てが、信の機能を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、〔心の〕統一の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、知慧の機能を所以に、見を得た者たちと〔成る〕。


 [1200]まさに、彼らが誰であれ、加害〔の思い〕なきを……略……光明の表象を……〔心の〕散乱なきを……法(性質)の〔差異を〕定め置くことを……知恵を……歓喜を……第一の瞑想を……第二の瞑想を……第三の瞑想を……第四の瞑想を……虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定を……識別無辺なる〔認識の〕場所への入定を……【56】無所有なる〔認識の〕場所への入定を……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定を……無常の随観を……苦痛の随観を……無我の随観を……厭離の随観を……離貪の随観を……止滅の随観を……放棄の随観を……滅尽の随観を……衰微の随観を……変化の随観を……無相の随観を……無願の随観を……空性の随観を……向上の知慧の法(性質)の〔あるがままの〕観察を……事実のとおりの知見を……危険の随観を……審慮の随観を……還転の随観を……預流道を……一来道を……不還道を……阿羅漢道を……。


 [1201]まさに、彼らが誰であれ、四つの気づきの確立を……四つの正しい精励を……四つの神通の足場を……五つの機能を……五つの力を……七つの覚りの支分を……聖なる八つの支分ある道を……。まさに、彼らが誰であれ、八つの解脱を、あるいは、修行したなら、あるいは、修行するなら、あるいは、修行するであろうなら、あるいは、到達したなら、あるいは、到達するなら、あるいは、到達するであろうなら、あるいは、得たなら、あるいは、得るなら、あるいは、得るであろうなら、あるいは、獲得したなら、あるいは、獲得するなら、あるいは、獲得するであろうなら、あるいは、理解したなら、あるいは、理解するなら、あるいは、理解するであろうなら、あるいは、実証したなら、あるいは、実証するなら、あるいは、実証するであろうなら、あるいは、接触したなら、あるいは、接触するなら、あるいは、接触するであろうなら、あるいは、自在を得たなら、あるいは、得るなら、あるいは、得るであろうなら、〔知慧の〕最奥義を得たなら、あるいは、得るなら、あるいは、得るであろうなら、離怖を得たなら、あるいは、得るなら、あるいは、得るであろうなら、彼らは、〔その〕全てが、信の機能を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、〔心の〕統一の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、知慧の機能を所以に、見を得た者たちと〔成る〕。


 [1202]まさに、彼らが誰であれ、四つの融通無礙を、あるいは、得たなら、あるいは、得るなら、あるいは、得るであろうなら……略……。彼らは、〔その〕全てが、信の機能を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、〔心の〕統一の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、知慧の機能を所以に、見を得た者たちと〔成る〕。


 [1203]まさに、彼らが誰であれ、三つの明知を、あるいは、理解したなら、あるいは、理解するなら、あるいは、理解するであろうなら……略……。彼らは、〔その〕全てが、信の機能を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、〔心の〕統一の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、知慧の機能を所以に、見を得た者たちと〔成る〕。


 [1204]まさに、彼らが誰であれ、三つの学びを、あるいは、学んだなら、あるいは、学ぶなら、あるいは、学ぶであろうなら、あるいは、実証したなら、あるいは、実証するなら、あるいは、実証するであろうなら、あるいは、接触したなら、あるいは、接触するなら、あるいは、接触するであろうなら、あるいは、自在を得たなら、あるいは、得るなら、あるいは、得るであろうなら、〔知慧の〕最奥義を得たなら、あるいは、得るなら、あるいは、得るであろうなら、離怖を得たなら、あるいは、得るなら、あるいは、得るであろうなら、彼らは、〔その〕全てが、信の機能を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、〔心の〕統一の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、知慧の機能を所以に、見を得た者たちと〔成る〕。


 [1205]まさに、彼らが誰であれ、苦痛を遍知するなら、集起を捨棄するなら、止滅を実証するなら、道を修行するなら、彼らは、〔その〕全てが、信の機能を【57】所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、〔心の〕統一の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、知慧の機能を所以に、見を得た者たちと〔成る〕。


 [1206]どれだけの行相によって、真理の理解(通達)と成るのか。どれだけの行相によって、〔四つの〕真理を理解するのか。四つの行相によって、真理の理解と成る。四つの行相によって、〔四つの〕真理を理解する。苦痛という真理を、遍知の理解として、理解する。集起という真理を、捨棄の理解として、理解する。止滅という真理を、実証の理解として、理解する。道という真理を、修行の理解として、理解する。これらの四つの行相によって、真理の理解と成る。これらの四つの行相によって、〔四つの〕真理を理解している者は、信の機能を所以に、信による解脱者と〔成り〕、〔心の〕統一の機能を所以に、身体による実証者と〔成り〕、知慧の機能を所以に、見を得た者と〔成る〕。


 [1207]どれだけの行相によって、真理の理解と成るのか。どれだけの行相によって、〔四つの〕真理を理解するのか。九つの行相によって、真理の理解と成る。九つの行相によって、〔四つの〕真理を理解する。苦痛という真理を、遍知の理解として、理解する。集起という真理を、捨棄の理解として、理解する。止滅という真理を、実証の理解として、理解する。道という真理を、修行の理解として、理解する。しかして、一切の諸法(性質)の、証知の理解がある。かつまた、一切の形成〔作用〕の、遍知の理解がある。かつまた、一切の善ならざるものの、捨棄の理解がある。かつまた、四つの道の、修行の理解がある。さらには、止滅〔の入定〕の、実証の理解がある。これらの九つの行相によって、真理の理解と成る。これらの九つの行相によって、〔四つの〕真理を理解している者は、信の機能を所以に、信による解脱者と〔成り〕、〔心の〕統一の機能を所以に、身体による実証者と〔成り〕、知慧の機能を所以に、見を得た者と〔成る〕。


 [1208]〔以上が〕第二の読誦分となる。




223.




 [1209]【58】無常〔の観点〕から意を為していると、どのように、諸々の形成〔作用〕が現起するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、どのように、諸々の形成〔作用〕が現起するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、どのように、諸々の形成〔作用〕が現起するのか。無常〔の観点〕から意を為していると、滅尽〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、恐怖〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。無我〔の観点〕から意を為していると、空〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。


 [1210]無常〔の観点〕から意を為していると、何が多き心と成るのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、何が多き心と成るのか。無我〔の観点〕から意を為していると、何が多き心と成るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、信念多き心と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、安息多き心と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、知多き心と成る。


 [1211]無常〔の観点〕から意を為している、信念多き者は、どのような解脱を獲得するのか。苦痛〔の観点〕から意を為している、安息多き者は、どのような解脱を獲得するのか。無我〔の観点〕から意を為している、知多き者は、どのような解脱を獲得するのか。無常〔の観点〕から意を為している、信念多き者は、無相の解脱を獲得する。苦痛〔の観点〕から意を為している、安息多き者は、無願の解脱を獲得する。無我〔の観点〕から意を為している、知多き者は、空性の解脱を獲得する。




224.




 [1212]無常〔の観点〕から意を為していると、信念多き者には、どのような解脱が、優位主要性と成り、修行のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁(倶生縁)と成り、互いに他なる縁(互縁)と成り、依所たる縁(依縁)と成り、結び付いたものとしての縁(相応縁)と成り、一味なるものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、誰が、修行するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、安息多き者には、どのような解脱が、優位主要性と成り、修行のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、誰が、修行するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、知多き者には、どのような解脱が、優位主要性と成り、修行のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、【59】依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、誰が、修行するのか。


 [1213]無常〔の観点〕から意を為していると、信念多き者には、無相の解脱が、優位主要性と成り、修行のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、彼が、正しい実践者であるなら、彼は修行し、誤った実践者には、解脱の修行は存在しない。苦痛〔の観点〕から意を為していると、安息多き者には、無願の解脱が、優位主要性と成り、修行のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、彼が、正しい実践者であるなら、彼は修行し、誤った実践者には、解脱の修行は存在しない。無我〔の観点〕から意を為していると、知多き者には、空性の解脱が、優位主要性と成り、修行のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、彼が、正しい実践者であるなら、彼は修行し、誤った実践者には、解脱の修行は存在しない。


 [1214]無常〔の観点〕から意を為していると、信念多き者には、どのような解脱が、優位主要性と成り、修行のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、どのような解脱が、優位主要性と成り、理解のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、どのような義(意味)によって、理解となるのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、安息多き者には、どのような解脱が、優位主要性と成り、修行のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、どのような解脱が、優位主要性と成り、理解のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、どのような義(意味)によって、理解となるのか。【60】無我〔の観点〕から意を為していると、知多き者には、どのような解脱が、優位主要性と成り、修行のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、どのような解脱が、優位主要性と成り、理解のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、どのような義(意味)によって、理解となるのか。




225.




 [1215]無常〔の観点〕から意を為していると、信念多き者には、無相の解脱が、優位主要性と成り、修行のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時においてもまた、無相の解脱が、優位主要性と成り、理解のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、理解となる。このように、理解している者としてもまた、修行し、修行している者としてもまた、理解する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、安息多き者には、無願の解脱が、優位主要性と成り、修行のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時においてもまた、無願の解脱が、優位主要性と成り、理解のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、理解となる。このように、理解している者としてもまた、修行し、修行している者としてもまた、理解する。無我〔の観点〕から意を為していると、知多き者には、空性の解脱が、優位主要性と成り、修行のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時においてもまた、空性の解脱が、優位主要性と成り、理解のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味なるものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、理解となる。このように、理解している者としてもまた、修行し、修行している者としてもまた、理解する。




226.




 [1216]無常〔の観点〕から意を為していると、どのような解脱が、旺盛なるものと成り、どのような解脱が、旺盛なることから、〔彼は〕信による解脱者と【61】成るのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、どのような解脱が、旺盛なるものと成り、どのような解脱が、旺盛なることから、〔彼は〕身体による実証者と成るのか。無我〔の観点〕から意を為していると、どのような解脱が、旺盛なるものと成り、どのような解脱が、旺盛なることから、〔彼は〕見を得た者と成るのか。


 [1217]無常〔の観点〕から意を為していると、無相の解脱が、旺盛なるものと成り、無相の解脱が、旺盛なることから、〔彼は〕信による解脱者と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、無願の解脱が、旺盛なるものと成り、無願の解脱が、旺盛なることから、〔彼は〕身体による実証者と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、空性の解脱が、旺盛なるものと成り、空性の解脱が、旺盛なることから、〔彼は〕見を得た者と成る。


 [1218]〔常に〕信を置いている解脱者である、ということで、信による解脱者となる。〔すでに〕接触された(体得された)ことから、実証した者である、ということで、身体による実証者となる。〔すでに〕見られたことから、得た者である、ということで、見を得た者となる。〔常に〕信を置きつつ解脱する、ということで、信による解脱者となる。瞑想〔の境地〕の接触を最初に接触し(体得し)、最後に止滅の涅槃を実証する、ということで、身体による実証者となる。「諸々の形成〔作用〕は、苦痛である」「止滅は、安楽である」と、〔すでに〕知られたものと成り、〔すでに〕見られたものと〔成り〕、〔すでに〕見い出されたものと〔成り〕、〔すでに〕実証されたものと〔成り〕、知慧によって〔すでに〕接触されたもの(体得されたもの)と〔成る〕、ということで、見を得た者となる……略……。まさに、彼らが誰であれ、離欲を、あるいは、修行したなら、あるいは、修行するなら……略……。彼らは、〔その〕全てが、無相の解脱を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、無願の解脱を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、空性の解脱を所以に、見を得た者たちと〔成る〕。


 [1219]まさに、彼らが誰であれ、加害〔の思い〕なきを……。光明の表象を……。〔心の〕散乱なきを……。まさに、彼らが誰であれ、苦痛を遍知するなら、集起を捨棄するなら、止滅を実証するなら、道を修行するなら、彼らは、〔その〕全てが、無相の解脱を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、無願の解脱を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、空性の解脱を所以に、見を得た者たちと〔成る〕。


 [1220]どれだけの行相によって、真理の理解と成るのか。どれだけの行相によって、〔四つの〕真理を理解するのか。四つの行相によって、真理の理解と成る。四つの行相によって、〔四つの〕真理を理解する。苦痛という真理を、遍知の理解として、理解する。集起という真理を、捨棄の理解として、理解する。止滅という真理を、【62】実証の理解として、理解する。道という真理を、修行の理解として、理解する。これらの四つの行相によって、真理の理解と成る。これらの四つの行相によって、〔四つの〕真理を理解している者は、無相の解脱を所以に、信による解脱者と〔成り〕、無願の解脱を所以に、身体による実証者と〔成り〕、空性の解脱を所以に、見を得た者と〔成る〕。


 [1221]どれだけの行相によって、真理の理解と成るのか。どれだけの行相によって、〔四つの〕真理を理解するのか。九つの行相によって、真理の理解と成る。九つの行相によって、〔四つの〕真理を理解する。苦痛という真理を、遍知の理解として、理解する。集起という真理を、捨棄の理解として、理解する。止滅という真理を、実証の理解として、理解する。道という真理を、修行の理解として、理解する。しかして、一切の諸法(性質)の、証知の理解がある。かつまた、一切の形成〔作用〕の、遍知の理解がある。かつまた、一切の善ならざるものの、捨棄の理解がある。かつまた、四つの道の、修行の理解がある。さらには、止滅〔の入定〕の、実証の理解がある。これらの九つの行相によって、真理の理解と成る。これらの九つの行相によって、〔四つの〕真理を理解している者は、無相の解脱を所以に、信による解脱者と〔成り〕、無願の解脱を所以に、身体による実証者と〔成り〕、空性の解脱を所以に、見を得た者と〔成る〕。




227.




 [1222]無常〔の観点〕から意を為している者は、どのような諸法(性質)を、事実のとおりに知り見るのか。どのように、正しく見ることと成るのか。どのように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、無常〔の観点〕から善く見られたものと成るのか。どこにおいて、疑惑は捨棄されるのか。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、どのような諸法(性質)を、事実のとおりに知り見るのか。どのように、正しく見ることと成るのか。どのように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、苦痛〔の観点〕から善く見られたものと成るのか。どこにおいて、疑惑は捨棄されるのか。無我〔の観点〕から意を為している者は、どのような諸法(性質)を、事実のとおりに知り見るのか。どのように、正しく見ることと成るのか。どのように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、無我〔の観点〕から善く見られたものと成るのか。どこにおいて、疑惑は捨棄されるのか。


 [1223]無常〔の観点〕から意を為している者は、形相(概念把握)を、事実のとおりに知り見る。それによって説かれる。「正しく見ること」〔と〕。このように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、無常〔の観点〕から善く見られたものと成る。ここにおいて、疑惑は捨棄される。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、転起されたもの(所与的世界)を、事実のとおりに知り見る。それによって説かれる。「正しく見ること」〔と〕。このように、それに従うことで、【63】一切の形成〔作用〕が、苦痛〔の観点〕から善く見られたものと成る。ここにおいて、疑惑は捨棄される。無我〔の観点〕から意を為している者は、形相と、転起されたものとを、事実のとおりに知り見る。それによって説かれる。「正しく見ること」〔と〕。このように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、無我〔の観点〕から善く見られたものと成る。ここにおいて、疑惑は捨棄される。


 [1224]〔まさに〕その、事実のとおりの知恵と、〔まさに〕その、正しく見ることと、〔まさに〕その、疑惑の超渡と、これらの〔三つの〕法(性質)は、まさしく、しかして、種々なる義(意味)のものであり、なおかつ、種々なる文型のものであるのか(異義かつ異語であるのか)、それとも、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなるのか(同義かつ異語であるのか)。〔まさに〕その、事実のとおりの知恵と、〔まさに〕その、正しく見ることと、〔まさに〕その、疑惑の超渡と、これらの〔三つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)。


 [1225]無常〔の観点〕から意を為していると、何が、恐怖〔の観点〕から生起するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、何が、恐怖〔の観点〕から生起するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、何が、恐怖〔の観点〕から生起するのか。無常〔の観点〕から意を為していると、形相が、恐怖〔の観点〕から生起する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、転起されたものが、恐怖〔の観点〕から生起する。無我〔の観点〕から意を為していると、形相と、転起されたものとが、恐怖〔の観点〕から生起する。


 [1226]〔まさに〕その、恐怖の現起における知慧と、〔まさに〕その、危険についての知恵と、〔まさに〕その、厭離と、これらの〔三つの〕法(性質)は、まさしく、しかして、種々なる義(意味)のものであり、なおかつ、種々なる文型のものであるのか、それとも、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなるのか。〔まさに〕その、恐怖の現起における知慧と、〔まさに〕その、危険についての知恵と、〔まさに〕その、厭離と、これらの〔三つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)。


 [1227]〔まさに〕その、無我の随観と、〔まさに〕その、空性の随観と、これらの〔二つの〕法(性質)は、まさしく、しかして、種々なる義(意味)のものであり、なおかつ、種々なる文型のものであるのか、それとも、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなるのか。〔まさに〕その、無我の随観と、〔まさに〕その、空性の随観と、これらの〔二つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)。


 [1228]無常〔の観点〕から意を為していると、何を審慮して、知恵が生起するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、何を審慮して、知恵が生起するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、何を審慮して、知恵が生起するのか。無常〔の観点〕から意を為していると、形相を審慮して、知恵が生起する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、転起されたものを審慮して、【64】知恵が生起する。無我〔の観点〕から意を為していると、形相と、転起されたものとを、〔両者を〕審慮して、知恵が生起する。


 [1229]〔まさに〕その、解き放ちを欲することと、〔まさに〕その、審慮の随観と、〔まさに〕その、形成〔作用〕の放捨と、これらの〔三つの〕法(性質)は、まさしく、しかして、種々なる義(意味)のものであり、なおかつ、種々なる文型のものであるのか、それとも、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなるのか。〔まさに〕その、解き放ちを欲することと、〔まさに〕その、審慮の随観と、〔まさに〕その、形成〔作用〕の放捨と、これらの〔三つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)。


 [1230]無常〔の観点〕から意を為していると、何から、心が出起し、どこにおいて、心が跳入するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、何から、心が出起し、どこにおいて、心が跳入するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、何から、心が出起し、どこにおいて、心が跳入するのか。無常〔の観点〕から意を為していると、形相から、心が出起し、無相にたいし、心が跳入する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、転起されたものから、心が出起し、転起されたものでないものにたいし、心が跳入する。無我〔の観点〕から意を為していると、形相と、転起されたものとから、〔両者から〕心が出起し、無相にたいし、転起されたものでないものにたいし、止滅の涅槃の界域にたいし、心が跳入する。


 [1231]〔まさに〕その、外からの出起と還転における知慧と、〔まさに〕それらの、〔新たな〕種姓と成る諸法(性質)と、これらの〔二つの〕法(性質)は、まさしく、しかして、種々なる義(意味)のものであり、なおかつ、種々なる文型のものであるのか、それとも、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなるのか。〔まさに〕その、外からの出起と還転における知慧と、〔まさに〕それらの、〔新たな〕種姓と成る諸法(性質)と、これらの〔二つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)。


 [1232]無常〔の観点〕から意を為している者は、どのような解脱によって、解脱するのか。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、どのような解脱によって、解脱するのか。無我〔の観点〕から意を為している者は、どのような解脱によって、解脱するのか。無常〔の観点〕から意を為している者は、無相の解脱によって、解脱する。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、無願の解脱によって、解脱する。無我〔の観点〕から意を為している者は、空性の解脱によって、解脱する。


 [1233]〔まさに〕その、〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧と、〔まさに〕その、道についての【65】知恵と、これらの〔二つの〕法(性質)は、まさしく、しかして、種々なる義(意味)のものであり、なおかつ、種々なる文型のものであるのか、それとも、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなるのか。〔まさに〕その、〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧と、〔まさに〕その、道についての知恵と、これらの〔二つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)。




228.




 [1234]どれだけの行相によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有るのか。どれだけの行相によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有るのか。四つの行相によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有る。七つの行相によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有る。


 [1235]どのような四つの行相によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有るのか。優位主要性の義(意味)によって、確立の義(意味)によって、導引の義(意味)によって、出脱の義(意味)によって、である。どのように、優位主要性の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、無相の解脱が、優位主要性と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、無願の解脱が、優位主要性と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、空性の解脱が、優位主要性と成る。このように、優位主要性の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有る。


 [1236]どのように、確立の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有るのか。無常〔の観点〕から意を為している者は、無相の解脱を所以に、心を確立する。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、無願の解脱を所以に、心を確立する。無我〔の観点〕から意を為している者は、空性の解脱を所以に、心を確立する。このように、確立の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有る。


 [1237]どのように、導引の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有るのか。無常〔の観点〕から意を為している者は、無相の解脱を所以に、心を導引する。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、無願の解脱を所以に、心を導引する。無我〔の観点〕から意を為している者は、空性の解脱を所以に、心を導引する。このように、導引の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有る。


 [1238]どのように、出脱の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有るのか。無常〔の観点〕から意を為している者は、無相の解脱を所以に、【66】止滅の涅槃へと出脱する。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、無願の解脱を所以に、止滅の涅槃へと出脱する。無我〔の観点〕から意を為している者は、空性の解脱を所以に、止滅の涅槃へと出脱する。このように、出脱の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有る。これらの四つの行相によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有る。


 [1239]どのような七つの行相によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有るのか。結集の義(意味)によって、到達の義(意味)によって、獲得の義(意味)によって、理解(通達)の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、接触(体得)の義(意味)によって、知悉(現観)の義(意味)によって、である。どのように、結集の義(意味)によって、到達の義(意味)によって、獲得の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、接触の義(意味)によって、知悉の義(意味)によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有るのか。無常〔の観点〕から意を為している者は、形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。それから、解き放たれるなら、そこにおいて、切願しない、ということで、無願の解脱となる。そこにおいて、切願しないなら、それによって、空である、ということで、空性の解脱となる。それによって、空であるなら、その形相によって、無相である、ということで、無相の解脱となる。このように、結集の義(意味)によって、到達の義(意味)によって、獲得の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、接触の義(意味)によって、知悉の義(意味)によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有る。


 [1240]苦痛〔の観点〕から意を為している者は、切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。そこにおいて、切願しないなら、それによって、空である、ということで、空性の解脱となる。それによって、空であるなら、その形相によって、無相である、ということで、無相の解脱となる。その形相によって、無相であるなら、そこにおいて、切願しない、ということで、無願の解脱となる。このように、結集の義(意味)によって、到達の義(意味)によって、獲得の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、接触の義(意味)によって、知悉の義(意味)によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有る。


 [1241]【67】無我〔の観点〕から意を為している者は、固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。それによって、空であるなら、その形相によって、無相である、ということで、無相の解脱となる。その形相によって、無相であるなら、そこにおいて、切願しない、ということで、無願の解脱となる。そこにおいて、切願しないなら、それによって、空である、ということで、空性の解脱となる。このように、結集の義(意味)によって、到達の義(意味)によって、獲得の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、接触の義(意味)によって、知悉の義(意味)によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有る。これらの七つの行相によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有る。




229.




 [1242](1)解脱が存在する。(2)門が存在する。(3)解脱の門が存在する。(4)解脱と正反対のものが存在する。(5)解脱に随順するものが存在する。(6)解脱の還転が存在する。(7)解脱の修行が存在する。(8)解脱の静息が存在する。


 [1243](1)どのようなものが、解脱であるのか。(1―1)空性の解脱、(1―2)無相の解脱、(1―3)無願の解脱である。(1―1)どのようなものが、空性の解脱であるのか。無常の随観の知恵は、常住の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。苦痛の随観の知恵は、安楽の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。無我の随観の知恵は、自己の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。厭離の随観の知恵は、喜悦の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。離貪の随観の知恵は、貪欲の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。止滅の随観の知恵は、集起の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。放棄の随観の知恵は、執取の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。無相の随観の知恵は、形相の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。無願の随観の知恵は、切願の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。空性の随観の知恵は、一切の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。


 [1244]形態において、無常の随観の知恵は、常住の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる……略……。形態において、空性の随観の知恵は、一切の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼において……略……。老と死において、無常の随観の知恵は、常住の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる……略……。老と死において、空性の随観の知恵は、一切の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。【68】これが、空性の解脱である。


 [1245](1―2)どのようなものが、無相の解脱であるのか。無常の随観の知恵は、常住の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。苦痛の随観の知恵は、安楽の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。無我の随観の知恵は、自己の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。厭離の随観の知恵は、喜悦の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。離貪の随観の知恵は、貪欲の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。止滅の随観の知恵は、集起の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。放棄の随観の知恵は、執取の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。無相の随観の知恵は、一切の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。無願の随観の知恵は、切願の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。空性の随観の知恵は、固着の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。


 [1246]形態において、無常の随観の知恵は、常住の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる……略……。形態において、無相の随観の知恵は、一切の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。形態において、無願の随観の知恵は、切願の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。形態において、空性の随観の知恵は、固着の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼において……略……。老と死において、無常の随観の知恵は、常住の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる……略……。老と死において、無相の随観の知恵は、一切の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。老と死において、無願の随観の知恵は、切願の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。老と死において、空性の随観の知恵は、固着の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。これが、無相の解脱である。


 [1247](1―3)どのようなものが、無願の解脱であるのか。無常の随観の知恵は、常住の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。苦痛の随観の知恵は、安楽の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。無我の随観の知恵は、自己の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。厭離の随観の知恵は、喜悦の切願から【69】解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。離貪の随観の知恵は、貪欲の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。止滅の随観の知恵は、集起の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。放棄の随観の知恵は、執取の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。無相の随観の知恵は、形相の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。無願の随観の知恵は、一切の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。空性の随観の知恵は、固着の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。


 [1248]形態において、無常の随観の知恵は、常住の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる……略……。形態において、無願の随観の知恵は、一切の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。形態において、空性の随観の知恵は、固着の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼において……略……。老と死において、無常の随観の知恵は、常住の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる……略……。老と死において、無願の随観の知恵は、一切の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。老と死において、空性の随観の知恵は、固着の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。これが、無願の解脱である。


230.




 [1249](2)どのようなものが、門であるのか。それらが、そこに生じた諸々の罪過なく善なる覚り(菩提)の項目としての諸法(性質)であるなら、これが、門である。


 [1250](3)どのようなものが、解脱の門であるのか。それが、それらの諸法(性質)にとっての、対象、止滅、涅槃であるなら、これが、解脱の門である。解脱と、門とは、解脱の門である。これが、解脱の門である。


 [1251](4)どのようなものが、解脱と正反対のものであるのか。三つの善ならざる根元は、解脱と正反対のものである。三つの悪しき行ないは、解脱と正反対のものである。諸々の善ならざる法(性質)は、〔その〕全てでさえもが、解脱と正反対のものである。これが、解脱と正反対のものである。


 [1252]【70】(5)どのようなものが、解脱に随順するものであるのか。三つの善なる根元は、解脱に随順するものである。三つの善き行ないは、解脱に随順するものである。諸々の善なる法(性質)は、〔その〕全てでさえもが、解脱に随順するものである。これが、解脱に随順するものである。


 [1253](6)どのようなものが、解脱の還転であるのか。表象の還転、思の還転、心の還転、知恵の還転、解脱の還転、真理の還転である。〔あるがままに〕表象している者は還転する、ということで、表象の還転となる。〔あるがままに〕思い考えている者は還転する、ということで、思の還転となる。〔あるがままに〕識別している者は還転する、ということで、心の還転となる。知恵を為している者は還転する、ということで、知恵の還転となる。〔あるがままに〕放棄している者は還転する、ということで、解脱の還転となる。真実の義(意味)によって還転する、ということで、真理の還転となる。


 [1254]そこに、表象の還転があるなら、そこには、思の還転がある。そこに、思の還転があるなら、そこには、表象の還転がある。そこに、表象の還転と思の還転があるなら、そこには、心の還転がある。そこに、心の還転があるなら、そこには、表象の還転と思の還転がある。そこに、表象の還転と思の還転と心の還転があるなら、そこには、知恵の還転がある。そこに、知恵の還転があるなら、そこには、表象の還転と思の還転と心の還転がある。そこに、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転があるなら、そこには、解脱の還転がある。そこに、解脱の還転があるなら、そこには、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転がある。そこに、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転と解脱の還転があるなら、そこには、真理の還転がある。そこに、真理の還転があるなら、そこには、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転と解脱の還転がある。これが、解脱の還転である。


 [1255](7)どのようなものが、解脱の修行であるのか。第一の瞑想には、習修、修行、多くの行為(多作・多修)がある。第二の瞑想には、習修、修行、多くの行為がある。第三の瞑想には、習修、修行、多くの行為がある。第四の瞑想には、習修、修行、多くの行為がある。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定には……略……。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定には……。無所有なる〔認識の〕場所への入定には……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定には……。預流道には、習修、修行、多くの行為がある。一来道には、習修、修行、多くの行為がある。不還道には、習修、修行、多くの行為がある。阿羅漢道には、習修、修行、多くの行為がある。【71】これが、解脱の修行である。


 [1256](8)どのようなものが、解脱の静息であるのか。第一の瞑想には、あるいは、獲得があり、あるいは、報い(異熟)がある。第二の瞑想には、あるいは、獲得があり、あるいは、報いがある。第三の瞑想には……略……。第四の瞑想には……。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定には……。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定には……。無所有なる〔認識の〕場所への入定には……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定には、あるいは、獲得があり、あるいは、報いがある。預流道には、預流果がある。一来道には、一来果がある。不還道には、不還果がある。阿羅漢道には、阿羅漢果がある。これが、解脱の静息である。ということで――


 [1257]解脱についての言説は、〔以上で〕終了した。


 〔以上が〕第三の読誦分となる。




1.6 〔死後の〕境遇についての言説




231.




 [1258]【72】(1)〔死後の〕境遇(趣)への得達があるばあい、知恵と結び付いたとき、どれだけの因に縁あることから、再生と成るのか。(2)士族の大家たちのばあい、婆羅門の大家たちのばあい、家長の大家たちのばあい、欲望の行境(欲界)の天〔の神々〕たちのばあい、知恵と結び付いたとき、どれだけの因に縁あることから、再生と成るのか。(3)形態の行境(色界)の天〔の神々〕たちのばあい、どれだけの因に縁あることから、再生と成るのか。(4)形態なき行境(無色界)の天〔の神々〕たちのばあい、どれだけの因に縁あることから、再生と成るのか。


 [1259](1)〔死後の〕境遇への得達があるばあい、知恵と結び付いたとき、八つの因に縁あることから、再生と成る。(2)士族の大家たちのばあい、婆羅門の大家たちのばあい、家長の大家たちのばあい、欲望の行境の天〔の神々〕たちのばあい、知恵と結び付いたとき、八つの因に縁あることから、再生と成る。(3)形態の行境の天〔の神々〕たちのばあい、八つの因に縁あることから、再生と成る。(4)形態なき行境の天〔の神々〕たちのばあい、八つの因に縁あることから、再生と成る。




232.




 [1260](1)〔死後の〕境遇への得達があるばあい、知恵と結び付いたとき、どのような八つの因に縁あることから、再生と成るのか。善なる行為(善業)の、疾走〔作用〕(勢速・速行:一連の認識作用の過程において認識対象を味わう作用・働き)の瞬間において、善なる三つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁(倶生縁)と成る。それによって説かれる。「善なるものを根元とする縁からもまた、諸々の形成〔作用〕(行:意志・衝動)がある」〔と〕。欲念の瞬間において、善ならざる二つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善ならざるものを根元とする縁からもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕。結生の瞬間において、〔善悪が〕説き示されない三つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「名前と形態という縁からもまた、識別〔作用〕があり、識別〔作用〕という縁からもまた、名前と形態がある」〔と〕。


 [1261]結生の瞬間において、〔心身を構成する〕五つの範疇(五蘊)が、共に生じた縁と成り、【73】互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、三つの生命の形成〔作用〕が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、名前と、形態とが、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、形態なき四つの範疇が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、五つの機能が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、三つの因が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、名前と、識別〔作用〕とが、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの二十八の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。〔死後の〕境遇への得達があるばあい、知恵と結び付いたとき、これらの八つの因に縁あることから、再生と成る。


 [1262](2)士族の大家たちのばあい、婆羅門の大家たちのばあい、家長の大家たちのばあい、欲望の行境(欲界)の天〔の神々〕たちのばあい、知恵と結び付いたとき、どのような八つの因に縁あることから、再生と成るのか。善なる行為の、疾走〔作用〕の瞬間において、善なる三つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善なるものを根元とする縁からもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕。欲念の瞬間において、善ならざる二つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善ならざるものを根元とする縁からもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕。結生の瞬間において、〔善悪が〕説き示されない三つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、【74】共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「名前と形態という縁からもまた、識別〔作用〕があり、識別〔作用〕という縁からもまた、名前と形態がある」〔と〕。


 [1263]結生の瞬間において、〔心身を構成する〕五つの範疇が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、四つの大いなる元素が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、三つの生命の形成〔作用〕が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、名前と、形態とが、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、形態なき四つの範疇が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、五つの機能が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、三つの因が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、名前と、識別〔作用〕とが、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの二十八の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。士族の大家たちのばあい、婆羅門の大家たちのばあい、家長の大家たちのばあい、欲望の行境(欲界)の天〔の神々〕たちのばあい、知恵と結び付いたとき、これらの八つの因に縁あることから、再生と成る。


 [1264](3)形態の行境の天〔の神々〕たちのばあい、どのような八つの因に縁あることから、再生と成るのか。善なる行為の、疾走〔作用〕の瞬間において、善なる三つの因が……略……。形態の行境の天〔の神々〕たちのばあい、これらの八つの因に縁あることから、再生と成る。


 [1265](4)形態なき行境の天〔の神々〕たちのばあい、どのような八つの因に【75】縁あることから、再生と成るのか。善なる行為の、疾走〔作用〕の瞬間において、善なる三つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善なるものを根元とする縁からもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕。欲念の瞬間において、善ならざる二つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善ならざるものを根元とする縁からもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕。結生の瞬間において、〔善悪が〕説き示されない三つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「名前という縁からもまた、識別〔作用〕があり、識別〔作用〕という縁からもまた、名前がある」〔と〕。


 [1266]結生の瞬間において、形態なき四つの範疇が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、五つの機能が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、三つの因が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、名前と、識別〔作用〕とが、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。形態なき行境の天〔の神々〕たちのばあい、これらの八つの因に縁あることから、再生と成る。




233.




 [1267](1)〔死後の〕境遇への得達があるばあい、知恵と結び付かないとき、どれだけの因に縁あることから、再生と成るのか。(2)士族の大家たちのばあい、婆羅門の大家たちのばあい、家長の大家たちのばあい、欲望の行境の天〔の神々〕たちのばあい、知恵と結び付かないとき、どれだけの因に縁あることから、再生と成るのか。


 [1268](1)〔死後の〕境遇への得達があるばあい、知恵と結び付かないとき、六つの因に縁あることから、再生と成る。(2)士族の大家たちのばあい、婆羅門の大家たちのばあい、家長の大家たちのばあい、欲望の行境の天〔の神々〕たちのばあい、知恵と結び付かないとき、六つの因に縁あることから、再生と【76】成る。


 [1269](1)〔死後の〕境遇への得達があるばあい、知恵と結び付かないとき、どのような六つの因に縁あることから、再生と成るのか。善なる行為(善業)の、疾走〔作用〕(勢速・速行:一連の認識作用の過程において認識対象を味わう作用・働き)の瞬間において、善なる二つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁(倶生縁)と成る。それによって説かれる。「善なるものを根元とする縁からもまた、諸々の形成〔作用〕(行:意志・衝動)がある」〔と〕。欲念の瞬間において、善ならざる二つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善ならざるものを根元とする縁からもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕。結生の瞬間において、〔善悪が〕説き示されない二つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「名前と形態という縁からもまた、識別〔作用〕があり、識別〔作用〕という縁からもまた、名前と形態がある」〔と〕。


 [1270]結生の瞬間において、〔心身を構成する〕五つの範疇(五蘊)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、三つの生命の形成〔作用〕が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、名前と、形態とが、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、形態なき四つの範疇が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、〔他の〕四つの機能が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、二つの因が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、名前と、識別〔作用〕とが、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁としての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十二の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。【77】結生の瞬間において、これらの二十六の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。〔死後の〕境遇への得達があるばあい、知恵と結び付いたとき、これらの六つの因に縁あることから、再生と成る。


 [1271](2)士族の大家たちのばあい、婆羅門の大家たちのばあい、家長の大家たちのばあい、欲望の行境の天〔の神々〕たちのばあい、知恵と結び付かないとき、どのような六つの因に縁あることから、再生と成るのか。善なる行為の、疾走〔作用〕の瞬間において、善なる二つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善なるものを根元とする縁からもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕……略……。士族の大家たちのばあい、婆羅門の大家たちのばあい、家長の大家たちのばあい、欲望の行境の天〔の神々〕たちのばあい、知恵と結び付かないとき、これらの六つの因に縁あることから、再生と成る。ということで――


 [1272]〔死後の〕境遇についての言説は、〔以上で〕終了した。




1.7 行為についての言説




234.




 [1273]【78】〔過去に〕行為(業)が有り、〔過去に〕行為の報い(異熟)が有った。〔過去に〕行為が有り、〔過去に〕行為の報いが有ることはなかった。〔過去に〕行為が有り、〔現在に〕行為の報いが存在する。〔過去に〕行為が有り、〔現在に〕行為の報いが存在しない。〔過去に〕行為が有り、〔未来に〕行為の報いが有るであろう。〔過去に〕行為が有り、〔未来に〕行為の報いが有ることはないであろう。〔以上が〕過去の行為となる。


 [1274]〔現在に〕行為が存在し、〔現在に〕行為の報いが存在する。〔現在に〕行為が存在し、〔現在に〕行為の報いが存在しない。〔現在に〕行為が存在し、〔未来に〕行為の報いが有るであろう。〔現在に〕行為が存在し、〔未来に〕行為の報いが有ることはないであろう。〔以上が〕現在の行為となる。


 [1275]〔未来に〕行為が有るであろうし、〔未来に〕行為の報いが有るであろう。〔未来に〕行為が有るであろうし、〔未来に〕行為の報いが有ることはないであろう。〔以上が〕未来の行為となる。




235.




 [1276]〔過去に〕善なる行為が有り、〔過去に〕善なる行為の報いが有った。〔過去に〕善なる行為が有り、〔過去に〕善なる行為の報いが有ることはなかった。〔過去に〕善なる行為が有り、〔現在に〕善なる行為の報いが存在する。〔過去に〕善なる行為が有り、〔現在に〕善なる行為の報いが存在しない。〔過去に〕善なる行為が有り、〔未来に〕善なる行為の報いが有るであろう。〔過去に〕善なる行為が有り、〔未来に〕善なる行為の報いが有ることはないであろう。


 [1277]〔現在に〕善なる行為が存在し、〔現在に〕善なる行為の報いが存在する。〔現在に〕善なる行為が存在し、〔現在に〕善なる行為の報いが存在しない。〔現在に〕善なる行為が存在し、〔未来に〕善なる行為の報いが有るであろう。〔現在に〕善なる行為が存在し、〔未来に〕善なる行為の報いが有ることはないであろう。


 [1278]〔未来に〕善なる行為が有るであろうし、〔未来に〕善なる行為の報いが有るであろう。〔未来に〕善なる行為が有るであろうし、〔未来に〕善なる行為の報いが有ることはないであろう。


 [1279]〔過去に〕善ならざる行為が有り、〔過去に〕善ならざる行為の報いが有った。〔過去に〕善ならざる行為が有り、〔過去に〕善ならざる行為の報いが有ることはなかった。〔過去に〕善ならざる行為が有り、〔現在に〕善ならざる行為の報いが存在する。〔過去に〕善ならざる行為が有り、〔現在に〕善ならざる行為の報いが存在しない。〔過去に〕善ならざる行為が有り、〔未来に〕善ならざる行為の報いが有るであろう。〔過去に〕善ならざる行為が有り、〔未来に〕善ならざる行為の報いが有ることはないであろう。


 [1280]〔現在に〕善ならざる行為が存在し、〔現在に〕善ならざる行為の報いが存在する。【79】〔現在に〕善ならざる行為が存在し、〔現在に〕善ならざる行為の報いが存在しない。〔現在に〕善ならざる行為が存在し、〔未来に〕善ならざる行為の報いが有るであろう。〔現在に〕善ならざる行為が存在し、〔未来に〕善ならざる行為の報いが有ることはないであろう。


 [1281]〔未来に〕善ならざる行為が有るであろうし、〔未来に〕善ならざる行為の報いが有るであろう。〔未来に〕善ならざる行為が有るであろうし、〔未来に〕善ならざる行為の報いが有ることはないであろう。


 [1282]〔過去に〕罪過を有する行為が有り……略……。〔過去に〕罪過なき行為が有り……略……。〔過去に〕黒き行為が有り……略……。〔過去に〕白き行為が有り……略……。〔過去に〕安楽を生成する行為が有り……略……。〔過去に〕苦痛を生成する行為が有り……略……。〔過去に〕安楽の報いとなる行為が有り……略……。〔過去に〕苦痛の報いとなる行為が有り、〔過去に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有った。〔過去に〕苦痛の報いとなる行為が有り、〔過去に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有ることはなかった。〔過去に〕苦痛の報いとなる行為が有り、〔現在に〕苦痛の報いとなる行為の報いが存在する。〔過去に〕苦痛の報いとなる行為が有り、〔現在に〕苦痛の報いとなる行為の報いが存在しない。〔過去に〕苦痛の報いとなる行為が有り、〔未来に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有るであろう。〔過去に〕苦痛の報いとなる行為が有り、〔未来に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有ることはないであろう。


 [1283]〔現在に〕苦痛の報いとなる行為が存在し、〔現在に〕苦痛の報いとなる行為の報いが存在する。〔現在に〕苦痛の報いとなる行為が存在し、〔現在に〕苦痛の報いとなる行為の報いが存在しない。〔現在に〕苦痛の報いとなる行為が存在し、〔未来に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有るであろう。〔現在に〕苦痛の報いとなる行為が存在し、〔未来に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有ることはないであろう。


 [1284]〔未来に〕苦痛の報いとなる行為が有るであろうし、〔未来に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有るであろう。〔未来に〕苦痛の報いとなる行為が有るであろうし、〔未来に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有ることはないであろう。ということで――


 [1285]行為についての言説は、〔以上で〕終了した。




1.8 転倒についての言説




236.




 [1286]【80】過去の因縁となる。「比丘たちよ、四つのものがある。これらの、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となるものである。どのようなものが、四つのものであるのか。比丘たちよ、無常において、『常住である』と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となる。比丘たちよ、苦痛において、『安楽である』と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となる。比丘たちよ、無我において、『自己である』と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となる。比丘たちよ、不浄において、『浄美である』と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となる。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となるものがある。


 [1287]比丘たちよ、四つのものがある。これらの、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒とならないものである。どのようなものが、四つのものであるのか。比丘たちよ、無常において、『無常である』と、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒とならない。比丘たちよ、苦痛において、『苦痛である』と、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒とならない。比丘たちよ、無我において、『無我である』と、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒とならない。比丘たちよ、不浄において、『不浄である』と、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒とならない。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒とならないものがある」と。




 [1288]〔しかして、詩偈に言う〕「無常において、常住の表象ある者たち、しかして、苦痛において、安楽の表象ある者たち、さらには、無我において、『自己である』と〔表象ある者たち〕、不浄において、浄美の表象ある者たちは、誤った見解に打破された有情たちであり、散乱した心の者たちであり、表象が離れる者たちである。


 [1289]【81】悪魔の束縛に束縛された者たち、束縛からの〔心の〕平安なき人たち、彼ら、生と死〔の輪廻〕に至る〔迷いの〕有情たちは、輪廻〔の道〕を行く。


 [1290]しかるに、光の作り手たる覚者たちが、世に生起するとき、彼らは、この法(真理)を明示する――〔すなわち〕苦痛の寂止に至る〔道〕を。


 [1291]彼らの〔言葉を〕聞いて、彼ら、知慧を有する者たちは、自らの心を獲得した。無常を、無常〔の観点〕から見た。苦痛を、苦痛〔の観点〕から見た。


 [1292]無我において、『無我である』と〔見た〕。不浄を、不浄〔の観点〕から見た。正しい見解の受持ある者たちは、一切の苦痛を過ぎ行った」と。




 [1293]これらの四つの転倒は、〔正しい〕見解を成就した人のばあい、〔すでに〕捨棄されたものとしてあり、〔いまだ〕捨棄されていないものとしてある、ということで、或るものが、捨棄されたものとしてあり、或るものが、捨棄されていないものとしてある。無常において、「常住である」と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となるものは、〔すでに〕捨棄されたものとしてある。苦痛において、「安楽である」と、表象が生起し、心が生起するが、見解の転倒となるものは、〔すでに〕捨棄されたものとしてある。無我において、「自己である」と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となるものは、〔すでに〕捨棄されたものとしてある。不浄において、「浄美である」と、表象が生起し、心が生起するが、見解の転倒となるものは、〔すでに〕捨棄されたものとしてある。二つの事態(無常・無我)において、六つの転倒が、〔すでに〕捨棄されたものとしてある。二つの事態(苦痛・不浄)において、二つの転倒が、〔すでに〕捨棄されたものとしてあり、四つの転倒が、〔いまだ〕捨棄されていないものとしてある。四つの事態において、八つの転倒が、〔すでに〕捨棄されたものとしてあり、四つの転倒が、〔いまだ〕捨棄されていないものとしてある。ということで――


 [1294]転倒についての言説は、〔以上で〕終了した。




1.9 道についての言説




237.




 [1295]【82】「道」とは、どのような義(意味)によって、道であるのか。預流道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、誤った見解の捨棄のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、理解と最初の浄化するもののために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の確立のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の浄化のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、より上なる理解のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、真理の知悉のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、止滅〔の入定〕において確立させることのために、まさしく、しかして、道となり、因となる。


 [1296]〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、誤った思惟の捨棄のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、理解と最初の浄化するもののために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の確立のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の浄化のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、より上なる理解のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、真理の知悉のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、止滅〔の入定〕において確立させることのために、まさしく、しかして、道となり、因となる。


 [1297]遍き収取(理解・和合)の義(意味)によって、正しい言葉が、誤った言葉の捨棄のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、理解と最初の浄化するもののために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の確立のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の浄化のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、より上なる理解のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、【83】真理の知悉のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、止滅〔の入定〕において確立させることのために、まさしく、しかして、道となり、因となる。


 [1298]等しく現起するものの義(意味)によって、正しい生業“なりわい”が、誤った生業の捨棄のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、理解と最初の浄化するもののために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の確立のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の浄化のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、より上なる理解のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、真理の知悉のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、止滅〔の入定〕において確立させることのために、まさしく、しかして、道となり、因となる。


 [1299]浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、誤った生き方の捨棄のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり……略……。励起の義(意味)によって、正しい努力が、誤った努力の捨棄のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり……略……。現起の義(意味)によって、正しい気づきが、誤った気づきの捨棄のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、誤った〔心の〕統一の捨棄のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、理解と最初の浄化するもののために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の確立のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の浄化のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、より上なる理解のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、真理の知悉のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、止滅〔の入定〕において確立させることのために、まさしく、しかして、道となり、因となる。


 [1300]一来道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものの〔捨棄のために〕、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕という束縛するものの〔捨棄のために〕、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習の〔捨棄のために〕、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕の悪習の捨棄のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、理解と最初の浄化するもののために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の確立のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の浄化のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、より上なる理解のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、真理の知悉のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、止滅〔の入定〕において確立させることのために、まさしく、しかして、道となり、因となる。


 [1301]不還道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、【84】正しい〔心の〕統一が、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものの〔捨棄のために〕、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕という束縛するものの〔捨棄のために〕、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習の〔捨棄のために〕、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕の悪習の捨棄のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、理解と最初の浄化するもののために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の確立のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の浄化のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、より上なる理解のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、真理の知悉のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、止滅〔の入定〕において確立させることのために、まさしく、しかして、道となり、因となる。


 [1302]阿羅漢道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、形態(色界)にたいする貪欲〔の思い〕の〔捨棄のために〕、形態なき(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕の〔捨棄のために〕、思量の〔捨棄のために〕、高揚の〔捨棄のために〕、無明の〔捨棄のために〕、思量の悪習の〔捨棄のために〕、生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習の〔捨棄のために〕、無明の悪習の捨棄のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、理解と最初の浄化するもののために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の確立のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、心の浄化のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、より上なる理解のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、真理の知悉のために、まさしく、しかして、道となり、さらには、因となり、止滅〔の入定〕において確立させることのために、まさしく、しかして、道となり、因となる。


 [1303]〔あるがままの〕見としての道が、正しい見解である。〔正しく心を〕固定することとしての道が、正しい思惟である。遍き収取としての道が、正しい言葉である。等しく現起するものとしての道が、正しい生業である。浄化するものとしての道が、正しい生き方である。励起としての道が、正しい努力である。現起としての道が、正しい気づきである。〔心の〕散乱なきとしての道が、正しい〔心の〕統一である。現起としての道が、気づきという正覚の支分である。考究としての道が、法(真理)の判別という正覚の支分である。励起としての道が、精進という正覚の支分である。充満としての道が、喜悦という正覚の支分である。寂止としての道が、安息という正覚の支分である。〔心の〕散乱なきとしての道が、〔心の〕統一という正覚の支分である。審慮としての道が、放捨という正覚の支分である。


 [1304]不信にたいする、不動としての道が、信の力である。怠慢にたいする、不動としての道が、精進の力である。放逸にたいする、不動としての道が、気づきの力である。〔心の〕高揚にたいする、不動としての道が、〔心の〕統一の力である。無明にたいする、不動としての道が、知慧の力である。信念としての道が、信の機能である。励起としての道が、精進の機能である。現起としての道が、【85】気づきの機能である。〔心の〕散乱なきとしての道が、〔あるがままの〕見としての道が、知慧の機能である。


 [1305]優位主要性の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、道となる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、道となる。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、道となる。因の義(意味)によって、〔八つの〕道の支分が、道となる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、道となる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、道となる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、道となる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、道となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕寂止が、道となる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、道となる。一味の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察が、道となる。〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の寂止とあるがままの観察)が、道となる。統御の義(意味)によって、戒の清浄が、道となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄が、道となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、道となる。解き放ちの義(意味)によって、解脱が、道となる。理解の義(意味)によって、明知が、道となる。遍捨の義(意味)によって、解脱が、道となる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、道となる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、道となる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、道となる。接触が、結集の義(意味)によって、道となる。感受が、集結の義(意味)によって、道となる。〔心の〕統一が、面前の義(意味)によって、道となる。気づきが、優位主要性の義(意味)によって、道となる。知慧が、それをより上とするの義(意味)によって、道となる。解脱が、真髄の義(意味)によって、道となる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、道となる。ということで――


 [1306]道についての言説は、〔以上で〕終了した。




1.10 醍醐味についての言説




238.




 [1307]【86】比丘たちよ、醍醐味がある。この梵行である。教師が面前の者として有るなら、三種の醍醐がある。〔すなわち〕教師が面前の者として有るとき、説示の醍醐があり、納受者の醍醐があり、梵行の醍醐がある。


 [1308]どのようなものが、説示の醍醐であるのか。四つの聖なる真理を、告げ知らせること、説示すること、知らしめること、確立すること、開顕すること、分明すること、明瞭にする行為であり、四つの気づきの確立を……略……四つの正しい精励を……四つの神通の足場を……五つの機能を……五つの力を……七つの覚りの支分を……聖なる八つの支分ある道を、告げ知らせること、説示すること、知らしめること、確立すること、開顕すること、分明すること、明瞭にする行為である。これが、説示の醍醐である。


 [1309]どのようなものが、納受者の醍醐であるのか。比丘たち、比丘尼たち、在俗信者(優婆塞)たち、女性在俗信者(優婆夷)たち、天〔の神々〕たち、人間たち、あるいは、また、彼らが誰であれ、さらに、他の、識知者たちである。これが、納受者の醍醐である。


 [1310]どのようなものが、梵行の醍醐であるのか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道である。それは、すなわち、この、正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい生業、正しい生き方、正しい努力、正しい気づき、正しい〔心の〕統一である。これが、梵行の醍醐である。




239.




 [1311]信念としての醍醐は、信の機能である。不信は、苦味である。不信という苦味を捨てて、信の機能の、【87】信念としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。励起としての醍醐は、精進の機能である。怠慢は、苦味である。怠慢という苦味を捨てて、精進の機能の、励起としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。現起としての醍醐は、気づきの機能である。放逸は、苦味である。放逸という苦味を捨てて、気づきの機能の、現起としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。〔心の〕散乱なきとしての醍醐は、〔心の〕統一の機能である。〔心の〕高揚は、苦味である。〔心の〕高揚という苦味を捨てて、〔心の〕統一の機能の、〔心の〕散乱なきとしての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。〔あるがままの〕見としての醍醐は、知慧の機能である。無明は、苦味である。無明という苦味を捨てて、知慧の機能の、〔あるがままの〕見としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。


 [1312]不信にたいする、不動としての醍醐は、信の力である。不信は、苦味である。不信という苦味を捨てて、信の力の、不信にたいする、不動としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。怠慢にたいする、不動としての醍醐は、精進の力である。怠慢は、苦味である。怠慢という苦味を捨てて、精進の力の、怠慢にたいする、不動としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。放逸にたいする、不動としての醍醐は、気づきの力である。放逸は、苦味である。放逸という苦味を捨てて、気づきの力の、放逸にたいする、不動としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。〔心の〕高揚にたいする、不動としての醍醐は、〔心の〕統一の力である。〔心の〕高揚は、苦味である。〔心の〕高揚という苦味を捨てて、〔心の〕統一の力の、〔心の〕高揚にたいする、不動としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。無明にたいする、不動としての醍醐は、知慧の力である。無明は、苦味である。無明という苦味を捨てて、知慧の力の、無明にたいする、不動としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。


 [1313]現起としての醍醐は、気づきという正覚の支分である。放逸は、苦味である。放逸という苦味を捨てて、気づきという正覚の支分の、現起としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。考究としての醍醐は、法(真理)の判別という正覚の支分である。無明は、苦味である。無明という苦味を捨てて、法(真理)の判別という正覚の支分の、考究としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。励起としての醍醐は、精進という正覚の支分である。怠慢は、苦味である。怠慢という苦味を捨てて、精進という正覚の支分の、励起としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。充満としての醍醐は、喜悦という正覚の支分である。苦悶は、苦味である。苦悶という苦味を捨てて、喜悦という正覚の支分の、充満としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。寂止としての醍醐は、【88】安息という正覚の支分である。邪気は、苦味である。邪気という苦味を捨てて、安息という正覚の支分の、寂止としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。〔心の〕散乱なきとしての醍醐は、〔心の〕統一という正覚の支分である。〔心の〕高揚は、苦味である。〔心の〕高揚という苦味を捨てて、〔心の〕統一という正覚の支分の、〔心の〕散乱なきとしての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。審慮としての醍醐は、放捨という正覚の支分である。審慮なきは、苦味である。審慮なきという苦味を捨てて、放捨という正覚の支分の、審慮としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。


 [1314]〔あるがままの〕見としての醍醐は、正しい見解である。誤った見解は、苦味である。誤った見解という苦味を捨てて、正しい見解の、〔あるがままの〕見としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。〔正しく心を〕固定することとしての醍醐は、正しい思惟である。誤った思惟は、苦味である。誤った思惟という苦味を捨てて、正しい思惟の、〔正しく心を〕固定することとしての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。遍き収取としての醍醐は、正しい言葉である。誤った言葉は、苦味である。誤った言葉という苦味を捨てて、正しい言葉の、遍き収取としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。等しく現起するものとしての醍醐は、正しい生業である。誤った生業は、苦味である。誤った生業という苦味を捨てて、正しい生業の、等しく現起するものとしての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。浄化するものとしての醍醐は、正しい生き方である。誤った生き方は、苦味である。誤った生き方という苦味を捨てて、正しい生き方の、浄化するものとしての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。励起としての醍醐は、正しい努力である。誤った努力は、苦味である。誤った努力という苦味を捨てて、正しい努力の、励起としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。現起としての醍醐は、正しい気づきである。誤った気づきは、苦味である。誤った気づきという苦味を捨てて、正しい気づきの、現起としての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。〔心の〕散乱なきとしての醍醐は、正しい〔心の〕統一である。誤った〔心の〕統一は、苦味である。誤った〔心の〕統一という苦味を捨てて、正しい〔心の〕統一の、〔心の〕散乱なきとしての醍醐を飲む、ということで、醍醐味となる。




240.




 [1315]醍醐が存在し、味が存在し、苦味が存在する。信念としての醍醐は、信の機能である。不信は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。励起としての醍醐は、精進の機能である。怠慢は、苦味である。それが、そこにおいて、【89】義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。現起としての醍醐は、気づきの機能である。放逸は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。〔心の〕散乱なきとしての醍醐は、〔心の〕統一の機能である。〔心の〕高揚は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。〔あるがままの〕見としての醍醐は、知慧の機能である。無明は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。


 [1316]不信にたいする、不動としての醍醐は、信の力である。不信は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。怠慢にたいする、不動としての醍醐は、精進の力である。怠慢は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。放逸にたいする、不動としての醍醐は、気づきの力である。放逸は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。〔心の〕高揚にたいする、不動としての醍醐は、〔心の〕統一の力である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。無明にたいする、不動としての醍醐は、知慧の力である。無明は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。


 [1317]現起としての醍醐は、気づきという正覚の支分である。放逸は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。考究としての醍醐は、法(真理)の判別という正覚の支分である。無明は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。励起としての醍醐は、精進という正覚の支分である。怠慢は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。充満としての醍醐は、喜悦という正覚の支分である。苦悶は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。寂止としての醍醐は、安息という正覚の支分である。邪気は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。〔心の〕散乱なきとしての醍醐は、〔心の〕統一という正覚の支分である。〔心の〕高揚は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。審慮としての醍醐は、放捨という正覚の支分である。審慮なきは、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。


 [1318]〔あるがままの〕見としての醍醐は、正しい見解である。誤った見解は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。〔正しく心を〕固定することとしての醍醐は、正しい思惟である。誤った思惟は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。遍き収取としての醍醐は、正しい言葉である。誤った言葉は、苦味である。それが、そこにおいて、【90】義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。等しく現起するものとしての醍醐は、正しい生業である。誤った生業は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。浄化するものとしての醍醐は、正しい生き方である。誤った生き方は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。励起としての醍醐は、正しい努力である。誤った努力は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。現起としての醍醐は、正しい気づきである。誤った気づきは、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。〔心の〕散乱なきとしての醍醐は、正しい〔心の〕統一である。誤った〔心の〕統一は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(真理)の味であり、解脱の味であるなら、これは、味である。


 [1319]〔あるがままの〕見としての醍醐は、正しい見解である。〔正しく心を〕固定することとしての醍醐は、正しい思惟である。遍き収取としての醍醐は、正しい言葉である。等しく現起するものとしての醍醐は、正しい生業である。浄化するものとしての醍醐は、正しい生き方である。励起としての醍醐は、正しい努力である。現起としての醍醐は、正しい気づきである。〔心の〕散乱なきとしての醍醐は、正しい〔心の〕統一である。


 [1320]現起としての醍醐は、気づきという正覚の支分である。考究としての醍醐は、法(真理)の判別という正覚の支分である。励起としての醍醐は、精進という正覚の支分である。充満としての醍醐は、喜悦という正覚の支分である。寂止としての醍醐は、安息という正覚の支分である。〔心の〕散乱なきとしての醍醐は、〔心の〕統一という正覚の支分である。審慮としての醍醐は、放捨という正覚の支分である。


 [1321]不信にたいする、不動としての醍醐は、信の力である。怠慢にたいする、不動としての醍醐は、精進の力である。放逸にたいする、不動としての醍醐は、気づきの力である。〔心の〕高揚にたいする、不動としての醍醐は、〔心の〕統一の力である。無明にたいする、不動としての醍醐は、知慧の力である。


 [1322]信念としての醍醐は、信の機能である。励起としての醍醐は、精進の機能である。現起としての醍醐は、気づきの機能である。〔心の〕散乱なきとしての醍醐は、〔心の〕統一の機能である。〔あるがままの〕見としての醍醐は、知慧の機能である。


 [1323]優位主要性の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、醍醐となる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、醍醐となる。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、醍醐となる。因の義(意味)によって、〔八つの聖なる〕道が、醍醐となる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、醍醐となる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、醍醐となる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、醍醐となる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、醍醐となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕寂止が、醍醐となる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、醍醐となる。一味の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察が、醍醐となる。〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の寂止とあるがままの観察)が、醍醐となる。統御の義(意味)によって、戒の清浄が、醍醐となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄が、醍醐となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、醍醐となる。【91】解き放ちの義(意味)によって、解脱が、醍醐となる。理解の義(意味)によって、明知が、醍醐となる。遍捨の義(意味)によって、解脱が、醍醐となる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、醍醐となる。静息の義(意味)によって、生起なきについての知恵が、醍醐となる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、醍醐となる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、醍醐となる。接触が、結集の義(意味)によって、醍醐となる。感受が、集結の義(意味)によって、醍醐となる。〔心の〕統一が、面前の義(意味)によって、醍醐となる。気づきが、優位主要性の義(意味)によって、醍醐となる。知慧が、それをより上とするの義(意味)によって、醍醐となる。解脱が、真髄の義(意味)によって、醍醐となる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、醍醐となる。ということで――


 [1324]醍醐についての言説は、〔以上で〕終了した。


 〔以上が〕第四の読誦分となる。


 [1325]大なるものの章が、第一となる。


 [1326]そのための、摂頌となる。




 [1327]〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、知恵と見解、呼吸、機能、第五に解脱、〔死後の〕境遇、行為と転倒、道、醍醐とともに、それらの十がある」と。




 [1328]これは、諸々の部類の保持をもって据え置かれたものであり、同等のものなく、第一のものにして、最も優れたものであり、「優れた章」と〔説かれる〕。


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