小部経典15-1:パティサンビダーマッガ

2010.9.5更新

阿羅漢にして 正自覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る



 パティサンビダーマッガ聖典(無礙解道)


 [1]【vol.1-1】要綱(論母)


1.


 [2]傾聴することにおける知慧(般若・慧)が、所聞から作られるものについての知恵(智)となる。


2.


 [3]聞いて〔そののち〕、統御(律儀)における知慧が、戒から作られるものについての知恵となる。


3.


 [4]統御して〔そののち〕、〔心を〕定めることにおける知慧が、〔心の〕統一(三昧・定)の修行から作られるものについての知恵となる。


4.


 [5]縁の遍き収取(理解・把握)における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。


5.


 [6]過去と未来と現在の諸法(性質)の、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、触知についての知恵となる。


6.


 [7]現在の諸法(性質)の、変化の随観における知慧が、生成と衰微の随観についての知恵となる。


7.


 [8]対象(所縁)を審慮して〔そののち〕、滅壊の随観における知慧が、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)についての知恵となる。


8.


 [9]恐怖の現起における知慧が、危険(患)についての知恵となる。


9.


 [10]解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨(行捨)についての知恵となる。


10.


 [11]外からの出起と還転における知慧が、〔新たな〕種姓と成る知恵となる。


11.


 [12]〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となる。


12.


 [13]専念〔努力〕の静息としての知慧が、果についての知恵となる。


13.


 [14]〔再生の〕道を断った者の随観における知慧が、解脱の知恵となる。


14.


 [15]そのとき生まれ来た諸法(性質)を見ることにおける知慧が、注視についての知恵となる。


15.


 [16]内なるものの〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、〔認識の〕基盤(認識作用)の種々なることについての知恵となる。


16.


 [17]外なるものの〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、〔認識の〕境涯(認識範囲)の種々なることについての知恵となる。


17.


 [18]性行の〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、性行の種々なることについての知恵となる。


18.


 [19]四つの法(性質)の〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、境地の種々なることについての知恵となる。


19.


 [20]九つの法(性質)の〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、法(性質)の種々なることについての知恵となる。


20.


 [21]証知としての知慧が、所知の義(意味)についての知恵となる。


21.


 [22]遍知としての知慧が、推量の義(意味)についての知恵となる。


22.


 [23]捨棄における知慧が、遍捨の義(意味)についての知恵となる。


23.


 [24]修行としての知慧が、一味についての知恵となる。


24.


 [25]実証としての知慧が、接触についての知恵となる。


25.


 [26]義(意味)の種々なることにおける知慧が、義(意味)の融通無礙(無礙解)についての知恵となる。


26.


 [27]【2】法(性質)の種々なることにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となる。


27.


 [28]言語の種々なることにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となる。


28.


 [29]応答の種々なることにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。


29.


 [30]住の種々なることにおける知慧が、住の義(意味)についての知恵となる。


30.


 [31]入定(等至)の種々なることにおける知慧が、入定の義(意味)についての知恵となる。


31.


 [32]住の入定の種々なることにおける知慧が、住の入定の義(意味)についての知恵となる。


32.


 [33]〔心の〕散乱なき完全なる清浄たることから、煩悩(漏)の断絶における知慧が、直後なる〔心の〕統一(無間定)についての知恵となる。


33.


 [34]〔あるがままの〕見の優位主要性(見を主要のものとすること)あり、かつまた、寂静なる住の到達ある、精妙なるものを信念したこととしての知慧が、相克なき住についての知恵となる。


34.


 [35]二つの力を具備したものたることから、さらには、三つの形成〔作用〕(行)の静息あることから、十六の知恵の性行によって、九つの〔心の〕統一の性行によって、自在なる状態たることとしての知慧が、止滅の入定(滅尽定)についての知恵となる。


35.


 [36]正知の者の、転起されたもの(所与的世界)を完全に取り払うことにおける知慧が、完全なる涅槃についての知恵となる。


36.


 [37]一切の諸法(性質)の、正しい断絶、および、止滅における、現起なきこととしての知慧が、等首者(等首:煩悩が滅尽して阿羅漢に成ったその瞬間に命を終えた者)の義(意味)についての知恵となる。


37.


 [38]多々なるものと種々なることと一なることと威あるものを完全に取り払うことにおける知慧が、謹厳の義(意味)についての知恵となる。


38.


 [39]退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となる。


39.


 [40]種々なる法(性質)を明示することとしての知慧が、義(意味)の見示についての知恵となる。


40.


 [41]一切の諸法(性質)の、一なる包摂たることと種々なることと一なることの理解(通達)における知慧が、見の清浄の知恵となる。


41.


 [42]見い出されたものたることから、知慧が、忍耐の知恵となる。


42.


 [43]接触されたものたることから、知慧が、深解についての知恵となる。


43.


 [44]結集における知慧が、部分の住についての知恵となる。


44.


 [45]主要のものたることから、知慧が、表象(想)の還転についての知恵となる。


45.


 [46]種々なることにおける知慧が、思の還転についての知恵となる。


46.


 [47]確立における知慧が、心の還転についての知恵となる。


47.


 [48]空性における知慧が、知恵の還転についての知恵となる。


48.


 [49]放棄における知慧が、解脱の還転についての知恵となる。


49.


 [50]真実の義(意味)における知慧が、真理(諦)の還転についての知恵となる。


50.


 [51]身体をもまた、心をもまた、一つに定め置くこと〔としての知慧〕が――安楽の表象と、軽快の表象と、〔両者を心に〕確立することを所以に、実現の義(意味)における知慧が――〔種々なる〕神通の種類についての知恵となる。


51.


 [52]思考(尋)の充満を所以に、種々なることと一なることある諸々の音声の形相の、深解における知慧が、耳の界域(耳界)の清浄の知恵となる。


52.


 [53]三つの心の充満あることから、諸々の〔感官の〕機能(根)の清らかさを所以に、種々なることと一なることある識別〔作用〕(識)の性行の深解における知慧が、〔他者の〕心を探知する知恵となる。


53.


 [54]縁によって転起された諸法(性質)の、種々なることと一なることある行為(業)の充満を所以に、深解における知慧が、過去における居住(過去世)の随念の知恵となる。


54.


 [55]光明を所以に、種々なることと一なることある諸々の形態(色)の形相の、〔あるがままの〕見の義(意味)における知慧が、天眼の知恵となる。


55.


 [56]六十四の行相によって、三つの機能の、自在なる状態たることとしての知慧が、諸々の煩悩の滅尽についての知恵となる。


56.


 [57]遍知の義(意味)における知慧が、苦痛についての知恵となる。


57.


 [58]捨棄の義(意味)における知慧が、集起についての知恵となる。


58.


 [59]【3】実証の義(意味)における知慧が、止滅についての知恵となる。


59.


 [60]修行の義(意味)における知慧が、道についての知恵となる。


60.


 [61]苦痛についての知恵がある。


61.


 [62]苦痛の集起についての知恵がある。


62.


 [63]苦痛の止滅についての知恵がある。


63.


 [64]苦痛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵がある。


64.


 [65]義(意味)の融通無礙についての知恵がある。


65.


 [66]法(性質)の融通無礙についての知恵がある。


66.


 [67]言語の融通無礙についての知恵がある。


67.


 [68]応答の融通無礙についての知恵がある。


68.


 [69]機能の上下なることについての知恵がある。


69.


 [70]有情たちの志欲と悪習についての知恵がある。


70.


 [71]対なる神変についての知恵がある。


71.


 [72]大いなる慈悲の入定についての知恵がある。


72.


 [73]一切知者たる知恵がある。


73.


 [74]妨げなき知恵がある。


 [75]これらの七十三の知恵がある。これらの七十三の知恵のなかの、六十七の知恵は、弟子と共通なるものとなり、六つの知恵は、弟子たちとは共通ならざるものとなる。

 [76]要綱は、〔以上で〕終了した。


1 大なるものの章(大品)


1.1 知恵についての言説


1.1.1 所聞から作られる知恵についての釈示


1.


 [77]【4】どのように、傾聴することにおける知慧(般若・慧)が、所聞から作られるものについての知恵(智)となるのか。

 [78](1)「これらの諸法(性質)が、証知されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [79](2)「これらの諸法(性質)が、遍知されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [80](3)「これらの諸法(性質)が、捨棄されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [81](4)「これらの諸法(性質)が、修行されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [82](5)「これらの諸法(性質)が、実証されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [83](6)「これらの諸法(性質)は、退失を部分とするものである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [84](7)「これらの諸法(性質)は、止住を部分とするものである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [85](8)「これらの諸法(性質)は、殊勝を部分とするものである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [86](9)「これらの諸法(性質)は、洞察を部分とするものである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [87](10)「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [88](11)「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [89](12)「一切の諸法(性質)は、無我である(諸法無我)」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [90](13)「これは、苦痛という聖なる真理である」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [91](14)「これは、苦痛の集起という聖なる真理である」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [92](15)「これは、苦痛の止滅という聖なる真理である」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [93](16)「これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である」【5】と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。


2.


 [94](1)どのように、「これらの諸法(性質)が、証知されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。

 [95]一つの法(性質)が、証知されるべきである。〔すなわち〕一切の有情は、食(栄養)に立脚する者たちである。

 [96]二つの法(性質)が、証知されるべきである。 〔すなわち〕二つの界域(二界:有為界・無為界)である。

 [97]三つの法(性質)が、証知されるべきである。〔すなわち〕三つの界域(三界:欲界・色界・無色界)である。

 [98]四つの法(性質)が、証知されるべきである。〔すなわち〕四つの聖なる真理(四聖諦)である。

 [99]五つの法(性質)が、証知されるべきである。〔すなわち〕五つの解脱の〔認識の〕場所(五解脱処:聞法・説法・読誦・考察・瞑想)である。

 [100]六つの法(性質)が、証知されるべきである。〔すなわち〕六つの無上なるもの(見ることの無上・聞くことの無上・得ることの無上・学ぶことの無上・奉仕することの無上・随念することの無上)である。

 [101]七つの法(性質)が、証知されるべきである。〔すなわち〕七つの漏尽者の基盤(学の受持・法の観察・欲求の調伏・坐禅・精進勉励・気づきと正知・見の理解)である。

 [102]八つの法(性質)が、証知されるべきである。〔すなわち〕八つの征服〔の対象〕たる〔認識の〕場所(八勝処:内に形態の表象ある者として外に諸々の形態を微小なるものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象ある者として外に諸々の形態を無量なるものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象なき者として外に諸々の形態を微小なるものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象なき者として外に諸々の形態を無量なるものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象なき者として外に諸々の形態を青のものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象なき者として外に諸々の形態を黄のものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象なき者として外に諸々の形態を赤のものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象なき者として外に諸々の形態を白のものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる)である。

 [103]九つの法(性質)が、証知されるべきである。〔すなわち〕九つの順次の住(第一禅・第二禅・第三禅・第四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)である。

 [104]十の法(性質)が、証知されるべきである。〔すなわち〕十の衰尽の基盤(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定・正智・正解脱の十による邪見と邪解脱の衰尽)である。


3.


 [105]比丘たちよ、一切が、証知されるべきである。比丘たちよ、しからば、どのようなものとして、一切が、証知されるべきであるのか。比丘たちよ、眼が、証知されるべきである。諸々の形態(色)が、証知されるべきである。眼の識別〔作用〕(眼識)が、証知されるべきである。眼の接触(眼触)が、証知されるべきである。すなわち、また、この、眼の接触という縁から生起する、感受されたものにして、あるいは、楽なるもの、あるいは、苦なるもの、あるいは、苦でもなく楽でもないもの(不苦不楽)であるが、それもまた、証知されるべきである。耳が、証知されるべきである。諸々の音声(声)が、証知されるべきである……。鼻が、証知されるべきである。諸々の臭香“におい”(香)が、証知されるべきである……。舌が、証知されるべきである。諸々の味感“あじわい”(味)が、証知されるべきである。身が、証知されるべきである……。諸々の感触(所触)が、証知されるべきである……。意が、証知されるべきである。諸々の法(意の対象)が、証知されるべきである。意の識別〔作用〕(意識)が、証知されるべきである。意の接触(意触)が、証知されるべきである。すなわち、また、この、意の接触という縁から生起する、感受されたものにして、あるいは、楽なるもの、あるいは、苦なるもの、あるいは、苦でもなく楽でもないものであるが、それもまた、証知されるべきである。

 [106]形態(色:物質的身体・肉体)が、証知されるべきである。感受〔作用〕(受)が、証知されるべきである。表象〔作用〕(想)が、証知されるべきである。諸々の形成〔作用〕(行:意志・衝動)が、証知されるべきである。識別〔作用〕(識)が、証知されるべきである。

 [107]眼が、証知されるべきである。耳が、証知されるべきである。鼻が、証知されるべきである。舌が、証知されるべきである。身が、証知されるべきである。意が、証知されるべきである。諸々の形態が、証知されるべきである。諸々の音声が、証知されるべきである。諸々の臭香が、証知されるべきである。諸々の味感が、証知されるべきである。諸々の感触が、証知されるべきである。諸々の法(意の対象)が、証知されるべきである。眼の識別〔作用〕(識)が、証知されるべきである。耳の識別〔作用〕が、証知されるべきである。鼻の識別〔作用〕が、証知されるべきである。舌の識別〔作用〕が、証知されるべきである。身の識別〔作用〕が、証知されるべきである。意の識別〔作用〕が、証知されるべきである。眼の接触(触)が、証知されるべきである。【6】耳の接触が、証知されるべきである。鼻の接触が、証知されるべきである。舌の接触が、証知されるべきである。身の接触が、証知されるべきである。意の接触が、証知されるべきである。眼の接触から生じる感受(受)が、証知されるべきである。耳の接触から生じる感受が、証知されるべきである。鼻の接触から生じる感受が、証知されるべきである。舌の接触から生じる感受が、証知されるべきである。身の接触から生じる感受が、証知されるべきである。意の接触から生じる感受が、証知されるべきである。形態の表象(想)が、証知されるべきである。音声の表象が、証知されるべきである。臭香の表象が、証知されるべきである。味感の表象が、証知されるべきである。感触の表象が、証知されるべきである。法(意の対象)の表象が、証知されるべきである。形態の思欲(思)が、証知されるべきである。音声の思欲が、証知されるべきである。臭香の思欲が、証知されるべきである。味感の思欲が、証知されるべきである。感触の思欲が、証知されるべきである。法(意の対象)の思欲が、証知されるべきである。形態の渇愛(愛)が、証知されるべきである。音声の渇愛が、証知されるべきである。臭香の渇愛が、証知されるべきである。味感の渇愛が、証知されるべきである。感触の渇愛が、証知されるべきである。法(意の対象)の渇愛が、証知されるべきである。形態の思考(尋)が、証知されるべきである。音声の思考が、証知されるべきである。臭香の思考が、証知されるべきである。味感の思考が、証知されるべきである。感触の思考が、証知されるべきである。法(意の対象)の思考が、証知されるべきである。形態の想念(伺)が、証知されるべきである。音声の想念が、証知されるべきである。臭香の想念が、証知されるべきである。味感の想念が、証知されるべきである。感触の想念が、証知されるべきである。法(意の対象)の想念が、証知されるべきである。


4.


 [108]地の界域(界)が、証知されるべきである。水の界域が、証知されるべきである。火の界域が、証知されるべきである。風の界域が、証知されるべきである。虚空の界域が、証知されるべきである。識別〔作用〕の界域が、証知されるべきである。

 [109]地の遍満(遍)が、証知されるべきである。水の遍満が、証知されるべきである。火の遍満が、証知されるべきである。風の遍満が、証知されるべきである。青の遍満が、証知されるべきである。黄の遍満が、証知されるべきである。赤の遍満が、証知されるべきである。白の遍満が、証知されるべきである。虚空の遍満が、証知されるべきである。識別〔作用〕の遍満が、証知されるべきである。

 [110]諸々の髪が、証知されるべきである。諸々の毛が、証知されるべきである。諸々の爪が、証知されるべきである。諸々の歯が、証知されるべきである。皮膚が、証知されるべきである。肉が、証知されるべきである。諸々の腱が、証知されるべきである。諸々の骨が、証知されるべきである。諸々の骨髄が、証知されるべきである。腎臓が、証知されるべきである。心臓が、証知されるべきである。肝臓が、証知されるべきである。肋膜が、証知されるべきである。脾臓が、証知されるべきである。肺臓が、証知されるべきである。【7】腸が、証知されるべきである。腸間膜が、証知されるべきである。胃物が、証知されるべきである。糞が、証知されるべきである。胆汁が、証知されるべきである。痰が、証知されるべきである。膿が、証知されるべきである。血が、証知されるべきである。汗が、証知されるべきである。脂肪が、証知されるべきである。涙が、証知されるべきである。膏“あぶら”が、証知されるべきである。唾液が、証知されるべきである。鼻水が、証知されるべきである。髄液が、証知されるべきである。尿が、証知されるべきである。脳味噌が、証知されるべきである。

 [111]眼の〔認識の〕場所(眼処)が、証知されるべきである。形態の〔認識の〕場所(色処)が、証知されるべきである。耳の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。音声の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。鼻の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。臭香の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。舌の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。味感の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。身の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。感触の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。意の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。法(意の対象)の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。

 [112]眼の界域(眼界)が、証知されるべきである。形態の界域(色界)が、証知されるべきである。眼の識別〔作用〕の界域(眼識界)が、証知されるべきである。耳の界域が、証知されるべきである。音声の界域が、証知されるべきである。耳の識別〔作用〕の界域が、証知されるべきである。鼻の界域が、証知されるべきである。臭香の界域が、証知されるべきである。鼻の識別〔作用〕の界域が、証知されるべきである。舌の界域が、証知されるべきである。味感の界域が、証知されるべきである。舌の識別〔作用〕の界域が、証知されるべきである。身の界域が、証知されるべきである。感触の界域が、証知されるべきである。身の識別〔作用〕の界域が、証知されるべきである。意の界域が、証知されるべきである。法(意の対象)の界域が、証知されるべきである。意の識別〔作用〕の界域が、証知されるべきである。

 [113]眼の機能(眼根)が、証知されるべきである。耳の機能(耳根)が、証知されるべきである。鼻の機能(鼻根)が、証知されるべきである。舌の機能(舌根)が、証知されるべきである。身の機能(身根)が、証知されるべきである。意の機能(意根)が、証知されるべきである。生命の機能(命根)が、証知されるべきである。女の機能(女根)が、証知されるべきである。男の機能(男根)が、証知されるべきである。安楽の機能(楽根)が、証知されるべきである。苦痛の機能(苦根)が、証知されるべきである。悦意の機能(喜根)が、証知されるべきである。失意の機能(憂根)が、証知されるべきである。放捨の機能(捨根)が、証知されるべきである。信の機能(信根)が、証知されるべきである。精進の機能(精進根)が、証知されるべきである。気づきの機能(念根)が、証知されるべきである。〔心の〕統一の機能(定根)が、証知されるべきである。知慧の機能(慧根)が、証知されるべきである。「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能が、証知されるべきである。了知の機能が、証知されるべきである。了知者の機能が、証知されるべきである。


5.


 [114]欲望の界域(欲界)が、証知されるべきである。形態の界域(色界)が、証知されるべきである。形態なき界域(無色界)が、証知されるべきである。欲望の生存(欲有)が、証知されるべきである。形態の生存(色有)が、【8】証知されるべきである。形態なき生存(無色有)が、証知されるべきである。表象の生存が、証知されるべきである。表象なき生存が、証知されるべきである。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存が、証知されるべきである。一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)が、証知されるべきである。四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)が、証知されるべきである。五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)が、証知されるべきである。


6.


 [115]第一の瞑想(初禅・第一禅)が、証知されるべきである。第二の瞑想(第二禅)が、証知されるべきである。第三の瞑想(第三禅)が、証知されるべきである。第四の瞑想(第四禅)が、証知されるべきである。慈愛“おもいやり”(慈)という〔寂止の〕心による解脱が、証知されるべきである。慈悲“いたわり”(悲)という〔寂止の〕心による解脱が、証知されるべきである。歓喜“わかちあい”(喜)という〔寂止の〕心による解脱が、証知されるべきである。放捨“おのずから”(捨)という〔寂止の〕心による解脱が、証知されるべきである。虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)への入定が、証知されるべきである。識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定が、証知されるべきである。無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定が、証知されるべきである。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)への入定が、証知されるべきである。

 [116]無明(無明)が、証知されるべきである。諸々の形成〔作用〕(行)が、証知されるべきである。識別〔作用〕(識)が、証知されるべきである。名前と形態(名色)が、証知されるべきである。六つの〔認識の〕場所(六処)が、証知されるべきである。接触(触)が、証知されるべきである。感受(受)が、証知されるべきである。渇愛(愛)が、証知されるべきである。執取(取)が、証知されるべきである。生存(有)が、証知されるべきである。生(生)が、証知されるべきである。老と死(老死)が、証知されるべきである。


7.


 [117]苦痛(苦)が、証知されるべきである。苦痛の集起(集)が、証知されるべきである。苦痛の止滅(滅)が、証知されるべきである。苦痛の止滅に至る〔実践の〕道(道)が、証知されるべきである。形態が、証知されるべきである。形態の集起が、証知されるべきである。形態の止滅が、証知されるべきである。形態の止滅に至る〔実践の〕道が、証知されるべきである。感受〔作用〕が、証知されるべきである……略……。表象〔作用〕が、証知されるべきである……略……。諸々の形成〔作用〕が、証知されるべきである……略……。識別〔作用〕が、証知されるべきである……略……。眼が、証知されるべきである……略……。老と死が、証知されるべきである。老と死の集起が、証知されるべきである。老と死の止滅が、証知されるべきである。老と死の止滅に至る〔実践の〕道が、証知されるべきである。

 [118]苦痛の、遍知の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の集起の、捨棄の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の止滅の、実証の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の止滅に至る〔実践の〕道の、修行の義(意味)が、証知されるべきである。形態の、遍知の義(意味)が、証知されるべきである。形態の集起の、捨棄の義(意味)が、証知されるべきである。形態の止滅の、実証の義(意味)が、証知されるべきである。形態の止滅に至る〔実践の〕道の、修行の義(意味)が、証知されるべきである。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識別〔作用〕の……。眼の……略……。老と死の、【9】遍知の義(意味)が、証知されるべきである。老と死の集起の、捨棄の義(意味)が、証知されるべきである。老と死の止滅の、実証の義(意味)が、証知されるべきである。老と死の止滅に至る〔実践の〕道の、修行の義(意味)が、証知されるべきである。

 [119]苦痛の、遍知の理解(通達)の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の集起の、捨棄の理解の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の止滅の、実証の理解の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の止滅に至る〔実践の〕道の、修行の理解の義(意味)が、証知されるべきである。形態の、遍知の理解の義(意味)が、証知されるべきである。形態の集起の、捨棄の理解の義(意味)が、証知されるべきである。形態の止滅の、実証の理解の義(意味)が、証知されるべきである。形態の止滅に至る〔実践の〕道の、修行の理解の義(意味)が、証知されるべきである。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識別〔作用〕の……。眼の……略……。老と死の、遍知の理解の義(意味)が、証知されるべきである。老と死の集起の、捨棄の理解の義(意味)が、証知されるべきである。老と死の止滅の、実証の理解の義(意味)が、証知されるべきである。老と死の止滅に至る〔実践の〕道の、修行の理解の義(意味)が、証知されるべきである。


8.


 [120]苦痛が、証知されるべきである。苦痛の集起が、証知されるべきである。苦痛の止滅が、証知されるべきである。苦痛の、集起の止滅が、証知されるべきである。苦痛の、欲〔の思い〕と貪欲〔の思い〕(欲貪)の止滅が、証知されるべきである。苦痛の、悦楽(味・楽味)が、証知されるべきである。苦痛の、危険(患)が、証知されるべきである。苦痛の、出離(出要)が、証知されるべきである。形態が、証知されるべきである。形態の集起が、証知されるべきである。形態の止滅が、証知されるべきである。形態の、集起の止滅が、証知されるべきである。形態の、欲〔の思い〕と貪欲〔の思い〕の止滅が、証知されるべきである。形態の、悦楽が、証知されるべきである。形態の、危険が、証知されるべきである。形態の、出離が、証知されるべきである。感受〔作用〕が、証知されるべきである……略……。表象〔作用〕が、証知されるべきである……。諸々の形成〔作用〕が、証知されるべきである……。識別〔作用〕が、証知されるべきである……。眼が、証知されるべきである……略……。老と死が、証知されるべきである。老と死の集起が、証知されるべきである。老と死の止滅が、証知されるべきである。老と死の、集起の止滅が、証知されるべきである。老と死の、欲〔の思い〕と貪欲〔の思い〕の止滅が、証知されるべきである。老と死の、悦楽が、証知されるべきである。老と死の、危険が、証知されるべきである。老と死の、出離が、証知されるべきである。

 [121]苦痛が、証知されるべきである。苦痛の集起が、証知されるべきである。【10】苦痛の止滅が、証知されるべきである。苦痛の止滅に至る〔実践の〕道が、証知されるべきである。苦痛の、悦楽が、証知されるべきである。苦痛の、危険が、証知されるべきである。苦痛の、出離が、証知されるべきである。形態が、証知されるべきである。形態の集起が、証知されるべきである。形態の止滅が、証知されるべきである。形態の止滅に至る〔実践の〕道が、証知されるべきである。形態の、悦楽が、証知されるべきである。形態の、危険が、証知されるべきである。形態の、出離が、証知されるべきである。感受〔作用〕が、証知されるべきである……略……。表象〔作用〕が、証知されるべきである……。諸々の形成〔作用〕が、証知されるべきである……。識別〔作用〕が、証知されるべきである……。眼が、証知されるべきである……略……。老と死が、証知されるべきである。老と死の集起が、証知されるべきである。老と死の止滅が、証知されるべきである。老と死の止滅に至る〔実践の〕道が、証知されるべきである。老と死の、悦楽が、証知されるべきである。老と死の、危険が、証知されるべきである。老と死の、出離が、証知されるべきである。


9.


 [122]無常の随観が、証知されるべきである。苦痛の随観が、証知されるべきである。無我の随観が、証知されるべきである。厭離の随観が、証知されるべきである。離貪の随観が、証知されるべきである。止滅の随観が、証知されるべきである。放棄の随観が、証知されるべきである。形態において、無常の随観が、証知されるべきである。形態において、苦痛の随観が、証知されるべきである。形態において、無我の随観が、証知されるべきである。形態において、厭離の随観が、証知されるべきである。形態において、離貪の随観が、証知されるべきである。形態において、止滅の随観が、証知されるべきである。形態において、放棄の随観が、証知されるべきである。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼において……略……。老と死において、無常の随観が、証知されるべきである。老と死において、苦痛の随観が、証知されるべきである。老と死において、無我の随観が、証知されるべきである。老と死において、厭離の随観が、証知されるべきである。老と死において、離貪の随観が、証知されるべきである。老と死において、止滅の随観が、証知されるべきである。老と死において、放棄の随観が、証知されるべきである。


10.


 [123]生起が、証知されるべきである。転起されたもの(所与的世界)が、証知されるべきである。形相(相:概念把握)が、証知されるべきである。実行(業を作ること)が、証知されるべきである。結生が、証知されるべきである。境遇(趣:死後に赴く所)が、証知されるべきである。発現が、証知されるべきである。再生が、証知されるべきである。生が、証知されるべきである。老が、証知されるべきである。病が、【11】証知されるべきである。死が、証知されるべきである。憂い(愁)が、証知されるべきである。嘆き(悲)が、証知されるべきである。葛藤(悩)が、証知されるべきである。

 [124]生起なきが、証知されるべきである。転起されたものでないものが、証知されるべきである。形相ならざるもの(無相)が、証知されるべきである。実行ならざるものが、証知されるべきである。結生ならざるものが、証知されるべきである。境遇ならざるものが、証知されるべきである。発現ならざるものが、証知されるべきである。再生ならざるものが、証知されるべきである。生ならざるものが、証知されるべきである。老ならざるものが、証知されるべきである。病ならざるものが、証知されるべきである。死ならざるものが、証知されるべきである。憂いならざるものが、証知されるべきである。嘆きならざるものが、証知されるべきである。葛藤ならざるものが、証知されるべきである。

 [125]生起が、証知されるべきである。生起なきが、証知されるべきである。転起されたものが、証知されるべきである。転起されたものでないものが、証知されるべきである。形相が、証知されるべきである。形相ならざるものが、証知されるべきである。実行が、証知されるべきである。実行ならざるものが、証知されるべきである。結生が、証知されるべきである。結生ならざるものが、証知されるべきである。境遇が、証知されるべきである。境遇ならざるものが、証知されるべきである。発現が、証知されるべきである。発現ならざるものが、証知されるべきである。再生が、証知されるべきである。再生ならざるものが、証知されるべきである。生が、証知されるべきである。生ならざるものが、証知されるべきである。老が、証知されるべきである。老ならざるものが、証知されるべきである。病が、証知されるべきである。病ならざるものが、証知されるべきである。死が、証知されるべきである。死ならざるものが、証知されるべきである。憂いが、証知されるべきである。憂いならざるものが、証知されるべきである。嘆きが、証知されるべきである。嘆きならざるものが、証知されるべきである。葛藤が、証知されるべきである。葛藤ならざるものが、証知されるべきである。

 [126]「生起は、苦痛である」と、証知されるべきである。「転起されたものは、苦痛である」と、証知されるべきである。「形相は、苦痛である」と、証知されるべきである。「実行は、苦痛である」と、証知されるべきである。「結生は、苦痛である」と、証知されるべきである。「境遇は、苦痛である」と、証知されるべきである。「発現は、苦痛である」と、証知されるべきである。「再生は、苦痛である」と、証知されるべきである。「生は、苦痛である」と、証知されるべきである。「老は、苦痛である」と、証知されるべきである。「病は、苦痛である」と、証知されるべきである。「死は、苦痛である」と、証知されるべきである。「憂いは、苦痛である」と、証知されるべきである。「嘆きは、苦痛である」と、証知されるべきである。「葛藤は、苦痛である」と、証知されるべきである。

 [127]「生起なきは、安楽である」と、証知されるべきである。「転起されたものでないものは、安楽である」と、証知されるべきである。「形相ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「実行ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「結生ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「境遇ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「発現ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「再生ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「生ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。【12】「老ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「病ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「死ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「憂いならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「嘆きならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「葛藤ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。

 [128]「生起は、苦痛である。生起なきは、安楽である」と、証知されるべきである。「転起されたものは、苦痛である。転起されたものでないものは、安楽である」と、証知されるべきである。「形相は、苦痛である。形相ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「実行は、苦痛である。実行ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「結生は、苦痛である。結生ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「境遇は、苦痛である。境遇ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「発現は、苦痛である。発現ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「再生は、苦痛である。再生ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「生は、苦痛である。生ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「老は、苦痛である。老ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「病は、苦痛である。病ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「死は、苦痛である。死ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「憂いは、苦痛である。憂いならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「嘆きは、苦痛である。嘆きならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。「葛藤は、苦痛である。葛藤ならざるものは、安楽である」と、証知されるべきである。

 [129]「生起は、恐怖である」と、証知されるべきである。「転起されたものは、恐怖である」と、証知されるべきである。「形相は、恐怖である」と、証知されるべきである。「実行は、恐怖である」と、証知されるべきである。「結生は、恐怖である」と、証知されるべきである。「境遇は、恐怖である」と、証知されるべきである。「発現は、恐怖である」と、証知されるべきである。「再生は、恐怖である」と、証知されるべきである。「生は、恐怖である」と、証知されるべきである。「老は、恐怖である」と、証知されるべきである。「病は、恐怖である」と、証知されるべきである。「死は、恐怖である」と、証知されるべきである。「憂いは、恐怖である」と、証知されるべきである。「嘆きは、恐怖である」と、証知されるべきである。「葛藤は、恐怖である」と、証知されるべきである。

 [130]「生起なきは、平安である」と、証知されるべきである。「転起されたものでないものは、平安である」と、証知されるべきである。「形相ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「実行ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「結生ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「境遇ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「発現ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「再生ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「生ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。【13】「老ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「病ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「死ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「憂いならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「嘆きならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「葛藤ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。

 [131]「生起は、恐怖である。生起なきは、平安である」と、証知されるべきである。「転起されたものは、恐怖である。転起されたものでないものは、平安である」と、証知されるべきである。「形相は、恐怖である。形相ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「実行は、恐怖である。実行ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「結生は、恐怖である。結生ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「境遇は、恐怖である。境遇ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「発現は、恐怖である。発現ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「再生は、恐怖である。再生ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「生は、恐怖である。生ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「老は、恐怖である。老ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「病は、恐怖である。病ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「死は、恐怖である。死ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「憂いは、恐怖である。憂いならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「嘆きは、恐怖である。嘆きならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。「葛藤は、恐怖である。葛藤ならざるものは、平安である」と、証知されるべきである。

 [132]「生起は、〔世〕財を有するものである(欲に染まったものである)」と、証知されるべきである。「転起されたものは、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。「形相は、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。「実行は、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。「結生は、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。「境遇は、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。「発現は、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。「再生は、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。「生は、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。「老は、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。「病は、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。「死は、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。「憂いは、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。「嘆きは、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。「葛藤は、〔世〕財を有するものである」と、証知されるべきである。

 [133]「生起なきは、〔世〕財なきものである(欲に染まることなきものである)」と、証知されるべきである。「転起されたものでないものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「形相ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「実行ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「結生ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「境遇ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「発現ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「再生ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「生ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「老ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「病ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「死ならざるものは、【14】〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「憂いならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「嘆きならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「葛藤ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。

 [134]「生起は、〔世〕財を有するものである。生起なきは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「転起されたものは、〔世〕財を有するものである。転起されたものでないものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「形相は、〔世〕財を有するものである。形相ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「実行は、〔世〕財を有するものである。実行ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「結生は、〔世〕財を有するものである。結生ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「境遇は、〔世〕財を有するものである。境遇ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「発現は、〔世〕財を有するものである。発現ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「再生は、〔世〕財を有するものである。再生ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「生は、〔世〕財を有するものである。生ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「老は、〔世〕財を有するものである。老ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「病は、〔世〕財を有するものである。病ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「死は、〔世〕財を有するものである。死ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「憂いは、〔世〕財を有するものである。憂いならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「嘆きは、〔世〕財を有するものである。嘆きならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。「葛藤は、〔世〕財を有するものである。葛藤ならざるものは、〔世〕財なきものである」と、証知されるべきである。

 [135]「生起は、諸々の形成〔作用〕(行:意志・衝動)である」と、証知されるべきである。「転起されたものは、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「形相は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「実行は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「結生は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「境遇は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「発現は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「再生は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「生は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「老は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「病は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「死は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「憂いは、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「嘆きは、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「葛藤は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。

 [136]「生起なきは、涅槃である」と、証知されるべきである。「転起されたものでないものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「形相ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「実行ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「結生ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「境遇ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「発現ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「再生ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「生ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「老ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「病ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「死ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。【15】「憂いならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「嘆きならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「葛藤ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。

 [137]「生起は、諸々の形成〔作用〕である。生起なきは、涅槃である」と、証知されるべきである。「転起されたものは、諸々の形成〔作用〕である。転起されたものでないものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「形相は、諸々の形成〔作用〕である。形相ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「実行は、諸々の形成〔作用〕である。実行ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「結生は、諸々の形成〔作用〕である。結生ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「境遇は、諸々の形成〔作用〕である。境遇ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「発現は、諸々の形成〔作用〕である。発現ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「再生は、諸々の形成〔作用〕である。再生ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「生は、諸々の形成〔作用〕である。生ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「老は、諸々の形成〔作用〕である。老ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「病は、諸々の形成〔作用〕である。病ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「死は、諸々の形成〔作用〕である。死ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「憂いは、諸々の形成〔作用〕である。憂いならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「嘆きは、諸々の形成〔作用〕である。嘆きならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「葛藤は、諸々の形成〔作用〕である。葛藤ならざるものは、涅槃である」と、証知されるべきである。

 [138]〔以上が〕第一の読誦分となる。


11.


 [139]遍き収取の義(意味)が、証知されるべきである。付属の義(意味)が、証知されるべきである。円満成就の義(意味)が、証知されるべきである。一境の義(意味)が、証知されるべきである。〔心の〕散乱なきの義(意味)が、証知されるべきである。励起の義(意味)が、証知されるべきである。拡散なきの義(意味)が、証知されるべきである。混濁なきの義(意味)が、証知されるべきである。動揺なきの義(意味)が、証知されるべきである。一なることの現起を所以に、心の、止住の義(意味)が、証知されるべきである。対象(認識対象)の義(意味)が、証知されるべきである。境涯(認識範囲)の義(意味)が、証知されるべきである。捨棄の義(意味)が、証知されるべきである。遍捨の義(意味)が、証知されるべきである。出起の義(意味)が、証知されるべきである。還転の義(意味)が、証知されるべきである。寂静の義(意味)が、証知されるべきである。精妙の義(意味)が、証知されるべきである。解脱の義(意味)が、証知されるべきである。煩悩なきの義(意味)が、証知されるべきである。超渡の義(意味)が、証知されるべきである。無相の義(意味)が、証知されるべきである。無願の義(意味)が、証知されるべきである。空性の義(意味)が、証知されるべきである。一味の義(意味)が、証知されるべきである。【16】〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)が、証知されるべきである。双連〔の法〕の義(意味)が、証知されるべきである。出脱の義(意味)が、証知されるべきである。因の義(意味)が、証知されるべきである。〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。優位主要性の義(意味)が、証知されるべきである。


12.


 [140]〔心の〕寂止(奢摩他・止)の、〔心の〕散乱なきの義(意味)が、証知されるべきである。〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)の、随観の義(意味)が、証知されるべきである。〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察(止観)の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)が、証知されるべきである。双連〔の法〕(止と観)の、〔互いに他を〕超克することなき(他を遮らずに併存すること)の義(意味)が、証知されるべきである。

 [141]学び(戒律)の、受持の義(意味)が、証知されるべきである。対象(所縁)の、境涯の義(意味)が、証知されるべきである。畏縮した心の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。高揚した心の、制御の義(意味)が、証知されるべきである。〔萎縮した心と高揚した心の〕両者の清浄の、客観(客観的認識)の義(意味)が、証知されるべきである。殊勝〔の境地〕への到達の義(意味)が、証知されるべきである。より上なる理解(通達)の義(意味)が、証知されるべきである。真理の知悉(現観)の義(意味)が、証知されるべきである。止滅〔の入定〕における確立させるものの義(意味)が、証知されるべきである。

 [142]信の機能(信根)の、信念の義(意味)が、証知されるべきである。精進の機能(精進根)の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。気づきの機能(念根)の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。〔心の〕統一の機能(定根)の、〔心の〕散乱なきの義(意味)が、証知されるべきである。知慧の機能(慧根)の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。

 [143]信の力(信力)の、不信にたいする、不動の義(意味)が、証知されるべきである。精進の力(精進力)の、怠慢にたいする、不動の義(意味)が、証知されるべきである。気づきの力(念力)の、放逸にたいする、不動の義(意味)が、証知されるべきである。〔心の〕統一の力(定力)の、〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)が、証知されるべきである。知慧の力(慧力)の、無明にたいする、不動の義(意味)が、証知されるべきである。

 [144]気づきという正覚の支分(念覚支)の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)の、精査の義(意味)が、証知されるべきである。精進という正覚の支分(精進覚支)の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。喜悦という正覚の支分(喜覚支)の、充満の義(意味)が、証知されるべきである。安息という正覚の支分(軽安覚支)の、寂止の義(意味)が、証知されるべきである。〔心の〕統一という正覚の支分(定覚支)の、〔心の〕散乱なきの義(意味)が、証知されるべきである。放捨(客観的認識)という正覚の支分(捨覚支)の、審慮(客観的観察)の義(意味)が、証知されるべきである。

 [145]正しい見解“もののみかた”(正見)の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。正しい思惟(正思惟)の、〔正しく心を〕固定することの義(意味)が、証知されるべきである。正しい言葉(正語)の、遍き収取(理解・和合)の義(意味)が、証知されるべきである。正しい生業(正業)の、等しく現起するものの義(意味)が、証知されるべきである。正しい生き方(正命)の、浄化するものの義(意味)が、証知されるべきである。【17】正しい努力(正精進)の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。正しい気づき(正念)の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。正しい〔心の〕統一(正定)の、〔心の〕散乱なきの義(意味)が、証知されるべきである。


13.


 [146]〔五つの〕機能(五根)の、優位主要性の義(意味)が、証知されるべきである。〔五つの〕力(五力)の、不動の義(意味)が、証知されるべきである。〔七つの〕覚りの支分(七覚支)の、出脱の義(意味)が、証知されるべきである。〔八つの聖なる〕道(八正道・八聖道)の、因の義(意味)が、証知されるべきである。〔四つの〕気づきの確立(四念住・四念処)の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。〔四つの〕正しい精励(四正勤)の、精励の義(意味)が、証知されるべきである。〔四つの〕神通の足場(四神足)の、実現の義(意味)が、証知されるべきである。〔四つの〕真理(四諦)の、真実の義(意味)が、証知されるべきである。〔四つの〕専念〔努力〕(四加行)の、静息の義(意味)が、証知されるべきである。〔四つの聖者の〕果の、実証の義(意味)が、証知されるべきである。

 [147]思考(尋)の、〔心を〕固定することの義(意味)が、証知されるべきである。想念(伺)の、細かい想念の義(意味)が、証知されるべきである。喜悦(喜)の、充満の義(意味)が、証知されるべきである。安楽(楽)の、潤沢の義(意味)が、証知されるべきである。心の、一境の義(意味)が、証知されるべきである。

 [148]傾注することの義(意味)が、証知されるべきである。識別することの義(意味)が、証知されるべきである。覚知することの義(意味)が、証知されるべきである。表象することの義(意味)が、証知されるべきである。〔心の〕専一の義(意味)が、証知されるべきである。証知の、所知の義(意味)が、証知されるべきである。遍知の、推量の義(意味)が、証知されるべきである。捨棄の、遍捨の義(意味)が、証知されるべきである。修行の、一味の義(意味)が、証知されるべきである。実証の、接触(体得)することの義(意味)が、証知されるべきである。〔心身を構成する五つの〕範疇“あつまり”(五蘊)の、範疇(蘊)の義(意味)が、証知されるべきである。〔十八の〕界域(十八界)の、界域(界)の義(意味)が、証知されるべきである。〔十二の認識の〕場所(十二処)の、〔認識の〕場所(処)の義(意味)が、証知されるべきである。諸々の形成されたもの(諸行)の、形成されたもの(有為)の義(意味)が、証知されるべきである。形成されたものでないもの(涅槃)の、形成されたものでないもの(無為)の(意味)が、証知されるべきである。


14.


 [149]心の義(意味)が、証知されるべきである。心の、直後なるの義(意味)が、証知されるべきである。心の、出起の義(意味)が、証知されるべきである。心の、還転の義(意味)が、証知されるべきである。心の、因の義(意味)が、証知されるべきである。心の、縁の義(意味)が、証知されるべきである。心の、基盤の義(意味)が、証知されるべきである。心の、境地の義(意味)が、証知されるべきである。心の、対象の義(意味)が、証知されるべきである。心の、境涯の義(意味)が、証知されるべきである。心の、性行の義(意味)が、証知されるべきである。心の、境遇(趣)の義(意味)が、証知されるべきである。心の、導引の義(意味)が、証知されるべきである。心の、出脱の義(意味)が、証知されるべきである。心の、出離の義(意味)が、証知されるべきである。


15.


 [150]一なることにおける、傾注することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、識別することの義(意味)が、【18】証知されるべきである。一なることにおける、覚知することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、表象することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、〔心の〕専一の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、跳入することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、清信することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、確立することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、解脱することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、「これは、寂静である」と見ることの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、乗物(手段)として作り為されたものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、地所(基盤)として作り為されたものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、奮起されたものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、蓄積されたものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、善く正しく勉励されたものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、遍き収取の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、付属の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、円満成就の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、結集の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、確立の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、習修の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、修行の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、多くの行為(多作・多修)の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、善く引き起こされたものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、善く解脱したものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、覚ることの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、随覚することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、覚醒することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、正覚することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、覚らせることの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、随覚させることの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、覚醒させることの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、正覚させることの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、覚り(菩提)の項目の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、随覚の項目の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、覚醒の項目の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、正覚の項目の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、照らすことの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、輝照することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、随照することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、明照することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、等照することの義(意味)が、証知されるべきである。


16.


 [151]輝かすことの義(意味)が、証知されるべきである。遍照することの義(意味)が、証知されるべきである。諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)を熱苦させることの義(意味)が、証知されるべきである。垢なきの義(意味)が、証知されるべきである。離垢の義(意味)が、証知されるべきである。無垢の義(意味)が、証知されるべきである。平等(平静)の義(意味)が、証知されるべきである。行知の義(意味)が、証知されるべきである。遠離の義(意味)が、証知されるべきである。遠離の性行の義(意味)が、証知されるべきである。離貪の義(意味)が、証知されるべきである。離貪の性行の義(意味)が、証知されるべきである。止滅の義(意味)が、証知されるべきである。【19】止滅の性行の義(意味)が、証知されるべきである。放棄の義(意味)が、証知されるべきである。放棄の性行の義(意味)が、証知されるべきである。解脱の義(意味)が、証知されるべきである。解脱の性行の義(意味)が、証知されるべきである。

 [152]欲〔の思い〕(意欲)の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、根元の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、足場の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、精励の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、実現の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、信念の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、〔心の〕散乱なきの義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。

 [153]精進の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、根元の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、足場の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、精励の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、実現の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、信念の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、〔心の〕散乱なきの義(意味)が、証知されるべきである。精進の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。

 [154]心の義(意味)が、証知されるべきである。心の、根元の義(意味)が、証知されるべきである。心の、足場の義(意味)が、証知されるべきである。心の、精励の義(意味)が、証知されるべきである。心の、実現の義(意味)が、証知されるべきである。心の、信念の義(意味)が、証知されるべきである。心の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。心の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。心の、〔心の〕散乱なきの義(意味)が、証知されるべきである。心の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。

 [155]考察の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、根元の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、足場の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、精励の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、実現の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、信念の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、〔心の〕散乱なきの義(意味)が、証知されるべきである。考察の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。


17.


 [156]苦痛の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の、逼悩の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の、形成されたものの義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の、熱苦の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の、変化の義(意味)が、証知されるべきである。集起の義(意味)が、証知されるべきである。集起の、実行(業を作ること)の義(意味)が、証知されるべきである。集起の、因縁の義(意味)が、証知されるべきである。集起の、束縛の義(意味)が、証知されるべきである。集起の、障害の義(意味)が、証知されるべきである。止滅の義(意味)が、証知されるべきである。【20】止滅の、出離の義(意味)が、証知されるべきである。止滅の、遠離の義(意味)が、証知されるべきである。止滅の、形成されたものでないものの義(意味)が、証知されるべきである。止滅の、不死の義(意味)が、証知されるべきである。道の義(意味)が、証知されるべきである。道の、出脱の義(意味)が、証知されるべきである。道の、因の義(意味)が、証知されるべきである。道の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。道の、優位主要性の義(意味)が、証知されるべきである。

 [157]真実の義(意味)が、証知されるべきである。無我の義(意味)が、証知されるべきである。真理の義(意味)が、証知されるべきである。理解の義(意味)が、証知されるべきである。証知することの義(意味)が、証知されるべきである。遍知することの義(意味)が、証知されるべきである。法(性質)の義(意味)が、証知されるべきである。界域の義(意味)が、証知されるべきである。所知の義(意味)が、証知されるべきである。実証の義(意味)が、証知されるべきである。接触すること(体得すること)の義(意味)が、証知されるべきである。知悉(現観)の義(意味)が、証知されるべきである。


18.


 [158]離欲(出離)が、証知されるべきである。加害〔の思い〕なきが、証知されるべきである。光明の表象が、証知されるべきである。〔心の〕散乱なきが、証知されるべきである。法(性質)の〔差異を〕定め置くことが、証知されるべきである。知恵が、証知されるべきである。歓喜が、証知されるべきである。

 [159]第一の瞑想(初禅・第一禅)が、証知されるべきである。第二の瞑想(第二禅)が、証知されるべきである。第三の瞑想(第三禅)が、証知されるべきである。第四の瞑想(第四禅)が、証知されるべきである。虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)への入定が、証知されるべきである。識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定が、証知されるべきである。無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定が、証知されるべきである。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)への入定が、証知されるべきである。

 [160]無常の随観が、証知されるべきである。苦痛の随観が、証知されるべきである。無我の随観が、証知されるべきである。厭離の随観が、証知されるべきである。離貪の随観が、証知されるべきである。止滅の随観が、証知されるべきである。放棄の随観が、証知されるべきである。滅尽の随観が、証知されるべきである。衰微の随観が、証知されるべきである。変化の随観が、証知されるべきである。無相の随観が、証知されるべきである。無願の随観が、証知されるべきである。空性の随観が、証知されるべきである。向上の知慧の法(性質)の〔あるがままの〕観察が、証知されるべきである。事実のとおりの知見(如実知見:あるがままに知り見ること)が、証知されるべきである。危険の随観が、証知されるべきである。審慮(客観的観察)の随観が、証知されるべきである。還転の随観が、証知されるべきである。


19.


 [161]預流道が、証知されるべきである。預流果への入定が、証知されるべきである。一来道が、証知されるべきである。一来果への入定が、証知されるべきである。不還道が、証知されるべきである。【21】不還果への入定が、証知されるべきである。阿羅漢道が、証知されるべきである。阿羅漢果への入定が、証知されるべきである。

 [162]信念の義(意味)によって、信の機能が、証知されるべきである。励起の義(意味)によって、精進の機能が、証知されるべきである。現起の義(意味)によって、気づきの機能が、証知されるべきである。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、証知されるべきである。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能の義(意味)が、証知されるべきである。

 [163]不信にたいする、不動の義(意味)によって、信の力が、証知されるべきである。怠慢にたいする、不動の義(意味)によって、精進の力が、証知されるべきである。放逸にたいする、不動の義(意味)によって、気づきの力が、証知されるべきである。〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)によって、〔心の〕統一の力が、証知されるべきである。無明にたいする、不動の義(意味)によって、知慧の力が、証知されるべきである。現起の義(意味)によって、気づきという正覚の支分が、証知されるべきである。精査の義(意味)によって、法(真理)の判別という正覚の支分が、証知されるべきである。励起の義(意味)によって、精進という正覚の支分が、証知されるべきである。充満の義(意味)によって、喜悦という正覚の支分が、証知されるべきである。寂止の義(意味)によって、安息という正覚の支分が、証知されるべきである。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一という正覚の支分が、証知されるべきである。審慮の義(意味)によって、放捨という正覚の支分が、証知されるべきである。

 [164]〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解“もののみかた”が、証知されるべきである。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、証知されるべきである。遍き収取の義(意味)によって、正しい言葉が、証知されるべきである。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい生業が、証知されるべきである。浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、証知されるべきである。励起の義(意味)によって、正しい努力が、証知されるべきである。現起の義(意味)によって、正しい気づきが、証知されるべきである。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、証知されるべきである。

 [165]優位主要性の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、証知されるべきである。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、証知されるべきである。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、証知されるべきである。因の義(意味)によって、〔八つの聖なる〕道が、証知されるべきである。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、証知されるべきである。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、証知されるべきである。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、証知されるべきである。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、証知されるべきである。

 [166]〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕寂止が、証知されるべきである。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、証知されるべきである。一味の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察が、証知されるべきである。〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の寂止とあるがままの観察)が、証知されるべきである。

 [167]統御の義(意味)によって、戒の清浄が、証知されるべきである。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄が、証知されるべきである。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、【22】証知されるべきである。解き放ちの義(意味)によって、解脱が、証知されるべきである。理解の義(意味)によって、明知が、証知されるべきである。遍捨の義(意味)によって、解脱が、証知されるべきである。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、証知されるべきである。静息の義(意味)によって、生起なきについての知恵が、証知されるべきである。


20.


 [168]欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、証知されるべきである。意“おもい”を為すこと(作意)が、等しく現起するものの義(意味)によって、証知されるべきである。接触が、結集の義(意味)によって、証知されるべきである。感受が、集結の義(意味)によって、証知されるべきである。〔心の〕統一が、面前の義(意味)によって、証知されるべきである。気づきが、優位主要性の義(意味)によって、証知されるべきである。知慧が、それをより上とするの義(意味)によって、証知されるべきである。解脱が、真髄の義(意味)によって、証知されるべきである。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、証知されるべきである。

 [169]それらそれらの諸法(性質)が、証知されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、所知のものと成る。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「『これらの諸法(性質)が、証知されるべきである』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。

 [170]〔以上が〕証知されるべきものについての釈示となる。

 〔以上が〕第二の読誦分となる。


21.


 [171](2)どのように、「これらの諸法(性質)が、遍知されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。

 [172]一つの法(性質)が、遍知されるべきである。〔すなわち〕接触(触)は、煩悩を有するもの(有漏)であり、執取されるべきものである。

 [173]二つの法(性質)が、遍知されるべきである。〔すなわち〕名前(名:精神的事象)と、形態(色:物質的事象)とである。

 [174]三つの法(性質)が、遍知されるべきである。〔すなわち〕三つの感受(三受:苦受・楽受・不苦不楽受)である。

 [175]四つの法(性質)が、遍知されるべきである。〔すなわち〕四つの食(四食:口にする食・感覚としての食・意志としての食・認識としての食)である。

 [176]五つの法(性質)が、遍知されるべきである。〔すなわち〕〔心身を構成する〕五つの執取の範疇“あつまり”(五取蘊:色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)である。

 [177]六つの法(性質)が、遍知されるべきである。〔すなわち〕六つの内なる〔認識の〕場所(六内処:眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処)である。

 [178]七つの法(性質)が、遍知されるべきである。〔すなわち〕七つの識別〔作用〕の止住(七識住:種々なる身体あり種々なる表象ある有情・種々なる身体あり一なる表象ある有情・一なる身体あり種々なる表象ある有情・一なる身体あり一なる表象ある有情・空無辺処に属する有情・識無辺処に属する有情・無所有処に属する有情)である。

 [179]八つの法(性質)が、遍知されるべきである。〔すなわち〕八つの世の法(八世間法:利得・利得なき・福徳・福徳なき・安楽・苦痛・非難・賞賛)である。

 [180]九つの法(性質)が、遍知されるべきである。〔すなわち〕九つの有情の居住(九有情居:種々なる身体あり種々なる表象ある有情の居住・種々なる身体あり一なる表象ある有情の居住・一なる身体あり種々なる表象ある有情の居住・一なる身体あり一なる表象ある有情の居住・表象なく感受されたものなき有情の居住・空無辺処に属する有情の居住・識無辺処に属する有情の居住・無所有処に属する有情の居住・非想非非想処に属する有情の居住)である。

 [181]十の法(性質)が、遍知されるべきである。〔すなわち〕十の〔認識の〕場所(十処:眼処・色処・耳処・音処・鼻処・香処・舌処・味処・身処・所触処)である。

 [182]比丘たちよ、一切が、遍知されるべきである。比丘たちよ、しからば、どのようなものとして、一切が、遍知されるべきであるのか。比丘たちよ、眼が、遍知されるべきである。諸々の形態が、遍知されるべきである。眼の識別〔作用〕が、遍知されるべきである。眼の接触が、遍知されるべきである。すなわち、また、この、眼の接触という縁から生起する、感受されたものにして、あるいは、楽なるもの、あるいは、苦なるもの、あるいは、苦でもなく楽でもないものであるが、【23】それもまた、遍知されるべきである。耳が、遍知されるべきである。諸々の音声が、遍知されるべきである……略……。鼻が、遍知されるべきである。諸々の臭香“におい”が、遍知されるべきである……。舌が、遍知されるべきである。諸々の味感“あじわい”が、遍知されるべきである……。身が、遍知されるべきである。諸々の感触が、遍知されるべきである……略……。意が、遍知されるべきである。諸々の法(意の対象)が、遍知されるべきである……。意の識別〔作用〕が、遍知されるべきである。意の接触が、遍知されるべきである。すなわち、また、この、意の接触という縁から生起する、感受されたものにして、あるいは、楽なるもの、あるいは、苦なるもの、あるいは、苦でもなく楽でもないものであるが、それもまた、遍知されるべきである。形態が、遍知されるべきである……。感受〔作用〕が、遍知されるべきである……。表象〔作用〕が、遍知されるべきである……。諸々の形成〔作用〕が、遍知されるべきである……。識別〔作用〕が、遍知されるべきである……。眼が、遍知されるべきである……略……。老と死が、遍知されるべきである……略……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、遍知されるべきである。それらそれらの諸法(性質)の獲得という義(目的)のために努力しているなら、それらそれらの諸法(性質)は、獲得されたものと成る。このように、それらの諸法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。


22.


 [183]離欲の獲得という義(目的)のために努力しているなら、離欲は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。加害〔の思い〕なきの獲得という義(目的)のために努力しているなら、加害〔の思い〕なきは、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。光明の表象の獲得という義(目的)のために努力しているなら、光明の表象は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。〔心の〕散乱なきの獲得という義(目的)のために努力しているなら、〔心の〕散乱なきは、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。法(性質)の〔差異を〕定め置くことの獲得という義(目的)のために努力しているなら、法(性質)の〔差異を〕定め置くことは、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。知恵の獲得という義(目的)のために努力しているなら、知恵は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。歓喜の獲得という義(目的)のために努力しているなら、歓喜は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。

 [184]【24】第一の瞑想の獲得という義(目的)のために努力しているなら、第一の瞑想は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。第二の瞑想の……略……。第三の瞑想の……。第四の瞑想の獲得という義(目的)のために努力しているなら、第四の瞑想は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために努力しているなら、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために努力しているなら、識別無辺なる〔認識の〕場所への入定は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。無所有なる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために努力しているなら、無所有なる〔認識の〕場所への入定は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために努力しているなら、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。

 [185]無常の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、無常の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。苦痛の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、苦痛の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。無我の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、無我の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。厭離の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、厭離の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。離貪の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、離貪の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。止滅の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、止滅の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。放棄の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、【25】放棄の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。滅尽の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、滅尽の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。衰微の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、衰微の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。変化の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、変化の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。無相の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、無相の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。無願の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、無願の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。空性の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、空性の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。

 [186]向上の知慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察の獲得という義(目的)のために努力しているなら、向上の知慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。事実のとおりの知見の獲得という義(目的)のために努力しているなら、事実のとおりの知見は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。危険の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、危険の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。審慮の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、審慮の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。還転の随観の獲得という義(目的)のために努力しているなら、還転の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。

 [187]預流道の獲得という義(目的)のために努力しているなら、預流道は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。【26】一来道の獲得という義(目的)のために努力しているなら、一来道は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。不還道の獲得という義(目的)のために努力しているなら、不還道は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。阿羅漢道の獲得という義(目的)のために努力しているなら、阿羅漢道は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。

 [188]それらそれらの諸法(性質)の獲得という義(目的)のために努力しているなら、それらそれらの諸法(性質)は、獲得されたものと成る。このように、それらの諸法(性質)は、まさしく、しかして、遍知されたものと成り、さらには、推量されたものと〔成る〕。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「『これらの諸法(性質)が、遍知されるべきである』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。

 [189]〔以上が〕遍知されるべきものについての釈示となる。


23.


 [190](3)どのように、「これらの諸法(性質)が、捨棄されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。

 [191]一つの法(性質)が、捨棄されるべきである。〔すなわち〕「〔わたしは〕存在する」という思量(我慢)である。

 [192]二つの法(性質)が、捨棄されるべきである。〔すなわち〕無明と、〔迷いの〕生存への渇愛〔の思い〕(有愛)とである。

 [193]三つの法(性質)が、捨棄されるべきである。〔すなわち〕三つの渇愛(三愛:欲望の対象への渇愛・生存への渇愛・非生存への渇愛)である。

 [194]四つの法(性質)が、捨棄されるべきである。〔すなわち〕四つの激流(四暴流:欲望・生存・見解・無明)である。

 [195]五つの法(性質)が、捨棄されるべきである。〔すなわち〕五つの〔修行の〕妨害“さまたげ”(五蓋:欲の思い・加害の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)である。

 [196]六つの法(性質)が、捨棄されるべきである。〔すなわち〕六つの渇愛の身体(六愛身:形態への渇愛・音声への渇愛・臭香への渇愛・味感への渇愛・感触への渇愛・法への渇愛)である。

 [197]七つの法(性質)が、捨棄されるべきである。〔すなわち〕七つの悪習(七随眠:欲望の対象にたいする貪欲・憤激・見解・疑惑・思量・生存にたいする貪欲・無明)である。

 [198]八つの法(性質)が、捨棄されるべきである。〔すなわち〕八つの誤った〔道〕たること(八邪法:誤った見解・誤った思惟・誤った言葉・誤った生業・誤った生き方・誤った努力・誤った気づき・誤った心の統一)である。

 [199]九つの法(性質)が、捨棄されるべきである。〔すなわち〕九つの渇愛を根元とするもの(九愛根:渇愛を縁として生起する遍き探求・遍き探求を縁として生起する利得・利得を縁として生起する判別・判別を縁として生起する欲と貪欲・欲と貪欲を縁として生起する執着・執着を縁として生起する執持・執持を縁として生起する物惜しみ・物惜しみを縁として生起する守護・守護のために生起する棒を取ること等の不全の諸法)である。

 [200]十の法(性質)が、捨棄されるべきである。〔すなわち〕十の誤った〔道〕たること(十邪法:誤った見解・誤った思惟・誤った言葉・誤った生業・誤った生き方・誤った努力・誤った気づき・誤った心の統一・誤った知恵・誤った解脱)である。


24.


 [201]二つの捨棄がある。(1)断絶の捨棄、(2)静息の捨棄である。しかして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行している者には、断絶の捨棄がある。さらには、果の瞬間において、静息の捨棄がある。

 [202]三つの捨棄がある。(1)〔まさに〕この、諸々の欲望〔の対象〕にとっての出離であり、すなわち、これ、離欲である。(2)〔まさに〕この、諸々の形態(色)にとっての出離であり、すなわち、これ、形態なきもの(無色)である。(3)また、まさに、それが何であれ、成ったもの、形成されたもの(有為)、縁によって生起したもの(縁已生)であるなら、止滅〔の入定〕が、それにとっての出離となる。(1)離欲を獲得した者にとって、諸々の欲望〔の対象〕は、まさしく、しかして、諸々の捨棄されたものと成り、さらには、諸々の遍捨されたものと〔成る〕。(2)形態なきものを獲得した者にとって、諸々の形態は、まさしく、しかして、諸々の捨棄されたものと成り、さらには、諸々の遍捨されたものと〔成る〕。(3)止滅を獲得した者にとって、諸々の形成されたものは、まさしく、しかして、諸々の捨棄されたものと成り、さらには、諸々の遍捨されたものと〔成る〕。

 [203]四つの捨棄がある。(1)苦痛という真理を、遍知の理解として、理解している者は捨棄する。(2)集起という真理を、【27】捨棄の理解として、理解している者は捨棄する。(3)止滅という真理を、実証の理解として、理解している者は捨棄する。(4)道という真理を、修行の理解として、理解している者は捨棄する。

 [204]五つの捨棄がある。(1)鎮静の捨棄、(2)置換の捨棄、(3)断絶の捨棄、(4)静息の捨棄、(5)出離の捨棄である。(1)しかして、第一の瞑想を修行している者には、〔五つの修行の〕妨害“さまたげ”の、鎮静の捨棄がある。(2)しかして、洞察〔の知慧〕を部分とする〔心の〕統一を修行している者には、諸々の悪しき見解の、置換の捨棄がある。(3)しかして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行している者には、断絶の捨棄がある。(4)しかして、果の瞬間において、静息の捨棄がある。(5)しかして、止滅の涅槃としての、出離の捨棄がある。

 [205]比丘たちよ、一切が、捨棄されるべきである。比丘たちよ、しからば、どのようなものとして、一切が、捨棄されるべきであるのか。比丘たちよ、眼が、捨棄されるべきである。諸々の形態が、捨棄されるべきである。眼の識別〔作用〕が、捨棄されるべきである。眼の接触が、捨棄されるべきである。すなわち、また、この、眼の接触という縁から生起する、感受されたものにして、あるいは、楽なるもの、あるいは、苦なるもの、あるいは、苦でもなく楽でもないものであるが、それもまた、捨棄されるべきである。耳が、捨棄されるべきである。諸々の音声が、捨棄されるべきである……略……。鼻が、捨棄されるべきである。諸々の臭香が、捨棄されるべきである……。舌が、捨棄されるべきである。諸々の味感が、捨棄されるべきである……。身が、捨棄されるべきである。諸々の感触が、捨棄されるべきである……。意が、捨棄されるべきである。諸々の法(意の対象)が、捨棄されるべきである……。意の識別〔作用〕が、捨棄されるべきである……。意の接触が、捨棄されるべきである。すなわち、また、この、意の接触という縁から生起する、感受されたものにして、あるいは、楽なるもの、あるいは、苦なるもの、あるいは、苦でもなく楽でもないものであるが、それもまた、捨棄されるべきである。形態を、〔あるがままに〕見ている者は捨棄する。感受〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は捨棄する。表象〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は捨棄する。諸々の形成〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は捨棄する。識別〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は捨棄する。眼を……略……。老と死を……略……。不死への沈潜たる涅槃を、結末の義(意味)によって、〔あるがままに〕見ている者は捨棄する。それらそれらの諸法(性質)が、諸々の捨棄されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、諸々の遍捨されたものと成る。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「『これらの諸法(性質)が、捨棄されるべきである』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。

 〔以上が捨棄されるべきものについての釈示となる。〕

 [206]〔以上が〕第三の読誦分となる。


25.


 [207]【28】(4)どのように、「これらの諸法(性質)が、修行されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。

 [208]一つの法(性質)が、修行されるべきである。〔すなわち〕快楽を共具した身体の在り方についての気づき(身随念)である。

 [209]二つの法(性質)が、修行されるべきである。〔すなわち〕〔心の〕寂止(奢摩他・止)と、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)とである。

 [210]三つの法(性質)が、修行されるべきである。〔すなわち〕三つの〔心の〕統一(三定:有尋有伺・無尋唯伺・無尋無伺)である。

 [211]四つの法(性質)が、修行されるべきである。〔すなわち〕四つの気づきの確立(四念住:身念住・受念住・心念住・法念住)である。

 [212]五つの法(性質)が、修行されるべきである。〔すなわち〕五つの支分ある〔心の〕統一(五支定:喜悦の充満・安楽の充満・心の充満・光明の充満・注視の形相)である。

 [213]六つの法(性質)が、修行されるべきである。〔すなわち〕六つの随念の拠点(六随念処:仏随念・法随念・僧随念・戒随念・施随念・天随念)である。

 [214]七つの法(性質)が、修行されるべきである。〔すなわち〕七つの覚りの支分(七覚支:念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支)である。

 [215]八つの法(性質)が、修行されるべきである。〔すなわち〕聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道:正しい見解・正しい思惟・正しい言葉・正しい生業・正しい生き方・正しい努力・正しい気づき・正しい心の統一)である。

 [216]九つの法(性質)が、修行されるべきである。〔すなわち〕九つの完全なる清浄の精励の支分(九清浄精勤支:戒の清浄・心の清浄・見解の清浄・疑惑の超渡の清浄・道と道ならざるの知見の清浄・実践の道の知見の清浄・知見の清浄・知慧の清浄・解脱の清浄)である。

 [217]十の法(性質)が、修行されるべきである。〔すなわち〕十の遍満の〔認識の〕場所(十遍処:地遍・水遍・火遍・風遍・青遍・黄遍・赤遍・白遍・空遍・識遍)である。


26.


 [218]二つの修行がある。(1)世〔俗〕の修行と、(2)世〔俗〕を超える修行とである。

 [219]三つの修行がある。(1)形態の行境(色界)の善なる諸法(性質)のための修行、(2)形態なき行境(無色界)の善なる諸法(性質)のための修行、(3)属するところなき善なる諸法(性質)のための修行である。(1)形態の行境の善なる諸法(性質)のための修行として、下劣なるものが存在し、中等なるものが存在し、精妙なるものが存在する。(2)形態なき行境の善なる諸法(性質)のための修行として、下劣なるものが存在し、中等なるものが存在し、精妙なるものが存在する。(3)属するところなき善なる諸法(性質)のための修行は、精妙なるもの〔のみ〕となる。


27.


 [220]四つの修行がある。(1)苦痛という真理を、遍知の理解として、理解している者は修行する。(2)集起という真理を、捨棄の理解として、理解している者は修行する。(3)止滅という真理を、実証の理解として、理解している者は修行する。(4)道という真理を、修行の理解として、理解している者は修行する。これらの四つの修行がある。

 [221]他にも、また、四つの修行がある。(1)探求の修行、(2)獲得の修行、(3)一味の修行、(4)習修の修行である。

 [222](1)どのようなものが、探求の修行であるのか。〔心の〕統一に入定している一切の者にとって、そこに生じた諸法(性質)は、一味なるものと成る(作用・働きを同じくする)。これが、探求の修行である。

 [223](2)どのようなものが、獲得の修行であるのか。〔心の〕統一に入定している一切の者にとって、そこに生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない(他を遮らずに併存する)。これが、獲得の修行である。

 [224](3)どのようなものが、一味の修行であるのか。信念の義(意味)によって、信の機能を修行している者のばあい、信の機能を所以に、〔他の〕四つの機能は、一味なるものと成る、ということで、〔他の四つの〕機能の、一味の義(意味)によって、【29】修行となる。励起の義(意味)によって、精進の機能を修行している者のばあい、精進の機能を所以に、〔他の〕四つの機能は、一味なるものと成る、ということで、〔他の四つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。現起の義(意味)によって、気づきの機能を修行している者のばあい、気づきの機能を所以に、〔他の〕四つの機能は、一味なるものと成る、ということで、〔他の四つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能を修行している者のばあい、〔心の〕統一の機能を所以に、〔他の〕四つの機能は、一味なるものと成る、ということで、〔他の四つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能を修行している者のばあい、知慧の機能を所以に、〔他の〕四つの機能は、一味なるものと成る、ということで、〔他の四つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。

 [225]不信にたいする、不動の義(意味)によって、信の力を修行している者のばあい、信の力を所以に、〔他の〕四つの力は、一味なるものと成る、ということで、〔他の四つの〕力の、一味の義(意味)によって、修行となる。怠慢にたいする、不動の義(意味)によって、精進の力を修行している者のばあい、精進の力を所以に、〔他の〕四つの力は、一味なるものと成る、ということで、〔他の四つの〕力の、一味の義(意味)によって、修行となる。放逸にたいする、不動の義(意味)によって、気づきの力を修行している者のばあい、気づきの力を所以に、〔他の〕四つの力は、一味なるものと成る、ということで、〔他の四つの〕力の、一味の義(意味)によって、修行となる。〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)によって、〔心の〕統一の力を修行している者のばあい、〔心の〕統一の力を所以に、〔他の〕四つの力は、一味なるものと成る、ということで、〔他の四つの〕力の、一味の義(意味)によって、修行となる。無明にたいする、不動の義(意味)によって、知慧の力を修行している者のばあい、知慧の力を所以に、〔他の〕四つの力は、一味なるものと成る、ということで、〔他の四つの〕力の、一味の義(意味)によって、修行となる。

 [226]現起の義(意味)によって、気づきという正覚の支分を修行している者のばあい、気づきという正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。精査の義(意味)によって、法(真理)の判別という正覚の支分を修行している者のばあい、法(真理)の判別という正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。励起の義(意味)によって、精進という正覚の支分を修行している者のばあい、精進という正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。充満の義(意味)によって、喜悦という正覚の支分を修行している者のばあい、喜悦という正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。寂止の義(意味)によって、安息という正覚の支分を修行している者のばあい、安息という正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一という正覚の支分を修行している者のばあい、〔心の〕統一という正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味なるものと成る、ということで、【30】〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。審慮の義(意味)によって、放捨という正覚の支分を修行している者のばあい、放捨という正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。

 [227]〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解を修行している者のばあい、正しい見解を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟を修行している者のばあい、正しい思惟を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。遍き収取の義(意味)によって、正しい言葉を修行している者のばあい、正しい言葉を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい生業を修行している者のばあい、正しい生業を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方を修行している者のばあい、正しい生き方を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。励起の義(意味)によって、正しい努力を修行している者のばあい、正しい努力を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。現起の義(意味)によって、正しい気づきを修行している者のばあい、正しい気づきを所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一を修行している者のばあい、正しい〔心の〕統一を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味なるものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。

 [228](4)どのようなものが、習修の修行であるのか。ここに、比丘が、早刻時に習修し、日中時にもまた習修し、夕刻時にもまた習修し、食前にもまた習修し、食後にもまた習修し、初更(宵の内)にもまた習修し、中更(真夜中)にもまた習修し、後更(明け方)にもまた習修し、夜にもまた習修し、昼にもまた習修し、昼夜にもまた習修し、黒〔分〕(月が欠ける期間)にもまた習修し、白〔分〕(月が満ちる期間)にもまた習修し、雨期にもまた習修し、冬にもまた習修し、夏にもまた習修し、初年期(青年期)にもまた習修し、中年期(壮年期)にもまた習修し、後年期(晩年期)にもまた習修しする。これが、習修の修行である。これらの四つの修行がある。


28.


 [229]他にも、また、四つの修行がある。(1)そこに生じた諸法(性質)の、【31】〔互いに他を〕超克することなき(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、修行となる。(2)〔五つの〕機能の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)によって、修行となる。(3)それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。(4)習修の義(意味)によって、修行となる。

 [230](1)どのように、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者のばあい、離欲(出離)を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。加害〔の思い〕(瞋)を捨棄している者のばあい、加害〔の思い〕なきを所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄している者のばあい、光明の表象(光明想)を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。〔心の〕高揚(掉挙)を捨棄している者のばあい、〔心の〕散乱なきを所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。疑惑〔の思い〕(疑)を捨棄している者のばあい、法(性質)の〔差異を〕定め置くことを所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。無明を捨棄している者のばあい、知恵を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。不満〔の思い〕を捨棄している者のばあい、歓喜を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。〔五つの修行の〕妨害(蓋)を捨棄している者のばあい、第一の瞑想を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念(尋伺)を捨棄している者のばあい、第二の瞑想を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。喜悦を捨棄している者のばあい、第三の瞑想を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。楽と苦を捨棄している者のばあい、第四の瞑想を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。

 [231]形態の表象(色想)を、障礙の表象(有対想)を、種々なることの表象を、捨棄している者のばあい、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)への入定を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を【32】超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を捨棄している者のばあい、識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。識別無辺なる〔認識の〕場所の表象を捨棄している者のばあい、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。無所有なる〔認識の〕場所の表象を捨棄している者のばあい、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)への入定を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。

 [232]常住の表象を捨棄している者のばあい、無常の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。安楽の表象を捨棄している者のばあい、苦痛の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。自己の表象を捨棄している者のばあい、無我の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。喜悦を捨棄している者のばあい、厭離の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。貪欲を捨棄している者のばあい、離貪の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。集起を捨棄している者のばあい、止滅の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。執取を捨棄している者のばあい、放棄の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。重厚の表象を捨棄している者のばあい、滅尽の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。実行(業を作ること)を捨棄している者のばあい、衰微の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。常久の表象を捨棄している者のばあい、変化の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。形相(概念把握)を捨棄している者のばあい、無相の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた【33】諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。切願を捨棄している者のばあい、無願の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。固着(固定観念)を捨棄している者のばあい、空性の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。真髄への執取の固着を捨棄している者のばあい、向上の知慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。迷妄の固着を捨棄している者のばあい、事実のとおりの知見(如実知見:あるがままに知り見ること)を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。執着の固着を捨棄している者のばあい、危険の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。審慮なきを捨棄している者のばあい、審慮の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。束縛の固着を捨棄している者のばあい、還転の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。

 [233]〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)を捨棄している者のばあい、預流道を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。粗大なる諸々の〔心の〕汚れを捨棄している者のばあい、一来道を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。微細なるものを共具した諸々の〔心の〕汚れを捨棄している者のばあい、不還道を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者のばあい、阿羅漢道を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。このように、そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。

 [234](2)どのように、〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者のばあい、離欲を所以に、五つの機能は、一味なるものと成る、ということで、〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。加害〔の思い〕を捨棄している者のばあい、加害〔の思い〕なきを所以に、五つの機能は、一味なるものと成る、ということで、〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる……略……。【34】〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者のばあい、阿羅漢道を所以に、五つの機能は、一味なるものと成る、ということで、〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。このように、〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。

 [235](3)どのように、それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者のばあい、離欲を所以に、精進をもたらす、ということで、それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。加害〔の思い〕を捨棄している者のばあい、加害〔の思い〕なきを所以に、精進をもたらす、ということで、それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者のばあい、阿羅漢道を所以に、精進をもたらす、ということで、それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。このように、それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。

 [236](4)どのように、習修の義(意味)によって、修行となるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者は、離欲を習修する、ということで、習修の義(意味)によって、修行となる。加害〔の思い〕を捨棄している者は、加害〔の思い〕なきを習修する、ということで、習修の義(意味)によって、修行となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者は、阿羅漢道を習修する、ということで、習修の義(意味)によって、修行となる。このように、習修の義(意味)によって、修行となる。

 [237]これらの四つの修行がある。形態を、〔あるがままに〕見ている者は修行する。感受〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は修行する。表象〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は修行する。諸々の形成〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は修行する。識別〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は修行する。眼を……略……。老と死を……略……。不死への沈潜たる涅槃を、結末の義(意味)によって、〔あるがままに〕見ている者は修行する。それらそれらの諸法(性質)が、諸々の修行されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、一味なるもの(作用・働きを同じくするもの)と成る。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「『これらの諸法(性質)が、修行されるべきである』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。

 [238]〔以上が〕修行されるべきものについての釈示となる。

 〔以上が〕第四の読誦分となる。


29.


 [239](5)どのように、「これらの諸法(性質)が、実証されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。

 [240]一つの法(性質)が、実証されるべきである。〔すなわち〕不動の心による解脱である。

 [241]二つの法(性質)が、実証されるべきである。〔すなわち〕明知と、解脱とである。

 [242]三つの法(性質)が、実証されるべきである。〔すなわち〕三つの明知(三明:宿命通・天眼通・漏尽通)である。

 [243]四つの法(性質)が、実証されるべきである。〔すなわち〕四つの沙門果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)である。

 [244]五つの法(性質)が、実証されるべきである。〔すなわち〕五つの法(性質)の範疇(五法蘊:戒・定・慧・解脱・解脱知見)である。

 [245]六つの法(性質)が、実証されるべきである。【35】〔すなわち〕六つの神知(六神通:宿命通・天眼通・他心通・天耳通・神足通・漏尽通)である。

 [246]七つの法(性質)が、実証されるべきである。〔すなわち〕七つの煩悩の滅尽者の力(七漏尽力:諸行無常を正しい知慧によって事実のとおりに見る力・諸々の欲望の対象を正しい知慧によって事実のとおりに見る力・煩悩の諸法を終結した力・四念住を修行した力・五根を修行した力・七覚支を修行した力・八正道を修行した力)である。

 [247]八つの法(性質)が、実証されるべきである。〔すなわち〕八つの解脱(八解脱:色界の瞑想者として諸々の形態を見る解脱・内に形態の表象なき者として外に諸々の形態を見る解脱・「浄美である」とだけ信念した者と成る解脱・空無辺処への入定の解脱・識無辺処への入定の解脱・無所有処への入定の解脱・非想非非想処への入定の解脱・想受滅への入定の解脱)である。

 [248]九つの法(性質)が、実証されるべきである。〔すなわち〕九つの順次の止滅(九次第滅:第一禅の入定者のばあいの欲望の対象の表象の止滅・第二禅の入定者のばあいの思考と想念の止滅・第三禅の入定者のばあいの喜悦の止滅・第四禅の入定者のばあいの入息と出息の止滅・空無辺処の入定者のばあいの形態の表象の止滅・識無辺処の入定者のばあいの空無辺処の止滅・無所有処の入定者のばあいの識無辺処の止滅・非想非非想処の入定者のばあいの無所有処の止滅・想受滅の入定者のばあいの表象と感受の止滅)である。

 [249]十の法(性質)が、実証されるべきである。〔すなわち〕十の学ぶことなき者の法(十無学法:無学者のばあいの正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定・正智・正解脱)である。

 [250]比丘たちよ、一切が、実証されるべきである。比丘たちよ、しからば、どのようなものとして、一切が、実証されるべきであるのか。比丘たちよ、眼が、実証されるべきである。諸々の形態が、実証されるべきである。眼の識別〔作用〕が、実証されるべきである。眼の接触が、実証されるべきである。すなわち、また、この、眼の接触という縁から生起する、感受されたものにして、あるいは、楽なるもの、あるいは、苦なるもの、あるいは、苦でもなく楽でもないものであるが、それもまた、実証されるべきである。耳が、実証されるべきである。諸々の音声が、実証されるべきである……略……。鼻が、実証されるべきである。諸々の臭香が、実証されるべきである……。舌が、実証されるべきである。諸々の味感が、実証されるべきである……。身が、実証されるべきである。諸々の感触が、実証されるべきである……。意が、実証されるべきである。諸々の法(意の対象)が、実証されるべきである。意の識別〔作用〕が、実証されるべきである。意の接触が、実証されるべきである。すなわち、また、この、意の接触という縁から生起する、感受されたものにして、あるいは、楽なるもの、あるいは、苦なるもの、あるいは、苦でもなく楽でもないものであるが、それもまた、実証されるべきである。形態を、〔あるがままに〕見ている者は実証する。感受〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は実証する。表象〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は実証する。諸々の形成〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は実証する。識別〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は実証する。眼を……略……。老と死を……略……。不死への沈潜たる涅槃を、結末の義(意味)によって、〔あるがままに〕見ている者は実証する。それらそれらの諸法(性質)が、諸々の実証されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、接触されたもの(体得されたもの)と成る。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「『これらの諸法(性質)が、実証されるべきである』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。

 〔以上が実証されるべきものについての釈示となる。〕


30.


 [251](6・7・8・9)どのように、「これらの諸法(性質)は、退失を部分とするものである。これらの諸法(性質)は、止住を部分とするものである。これらの諸法(性質)は、殊勝を部分とするものである。これらの諸法(性質)は、洞察を部分とするものである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。

 [252]第一の瞑想(初禅・第一禅)を得者に、欲望を共具したものとして、諸々の表象(想)に意“おもい”を為すこと(作意)が慣行となる――退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づき(念)が確立する――止住を部分とする法(性質)である。思考なき(無尋)を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる――殊勝を部分とする法(性質)である。厭離を共具したものとして、離貪を伴った諸々の表象に意を為すことが慣行となる――【36】洞察を部分とする法(性質)である。

 [253]第二の瞑想(第二禅)を得者に、思考(尋)を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる――退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づきが確立する――止住を部分とする法(性質)である。放捨(捨)と安楽(楽)を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる――殊勝を部分とする法(性質)である。厭離を共具したものとして、離貪を伴った諸々の表象に意を為すことが慣行となる――洞察を部分とする法(性質)である。

 [254]第三の瞑想(第三禅)を得者に、喜悦(喜)と安楽を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる――退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づきが確立する――止住を部分とする法(性質)である。苦でもなく楽でもないもの(不苦不楽)を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる――殊勝を部分とする法(性質)である。厭離を共具したものとして、離貪を伴った諸々の表象に意を為すことが慣行となる――洞察を部分とする法(性質)である。

 [255]第四の瞑想(第四禅)を得者に、放捨を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる――退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づきが確立する――止住を部分とする法(性質)である。虚空無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる――殊勝を部分とする法(性質)である。諸々の厭離を共具したものとして、離貪を伴った諸々の表象に意を為すことが慣行となる――洞察を部分とする法(性質)である。

 [256]虚空無辺なる〔認識の〕場所を得者に、形態を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる――退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づきが確立する――止住を部分とする法(性質)である。識別無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる――殊勝を部分とする法(性質)である。諸々の厭離を共具したものとして、離貪を伴った諸々の表象に意を為すことが慣行となる――洞察を部分とする法(性質)である。

 [257]識別無辺なる〔認識の〕場所を得者に、虚空無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる――退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づきが確立する――止住を部分とする法(性質)である。無所有なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる――殊勝を部分とする法(性質)である。諸々の厭離を共具したものとして、離貪を伴った諸々の表象に意を為すことが慣行となる――洞察を部分とする法(性質)である。

 [258]無所有なる〔認識の〕場所を得者に、識別無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる――退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づきが確立する――止住を部分とする法(性質)である。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる――殊勝を部分とする法(性質)である。諸々の厭離を共具したものとして、離貪を伴った諸々の表象に意を為すことが慣行となる――洞察を部分とする【37】法(性質)である。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「『これらの諸法(性質)は、退失を部分とするものである。これらの諸法(性質)は、止住を部分とするものである。これらの諸法(性質)は、殊勝を部分とするものである。これらの諸法(性質)は、洞察を部分とするものである』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。


31.


 [589](10・11・12)どのように、「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」「一切の諸法(性質)は、無我である(諸法無我)」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。「形態は、滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきの義(意味)によって、無我である」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識別〔作用〕は……。「眼は……略……。「老と死は、滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきの義(意味)によって、無我である」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「『一切の形成〔作用〕は、無常である』『一切の形成〔作用〕は、苦痛である』『一切の諸法(性質)は、無我である』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。


32.


 [260](13・14・15・16)どのように、「これは、苦痛という聖なる真理である。これは、苦痛の集起という聖なる真理である。これは、苦痛の止滅という聖なる真理である。これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。


33.


 [261]そこで、どのようなものが、苦痛という聖なる真理であるのか。(1)生もまた、苦痛である。(2)老もまた、苦痛である。(3)死もまた、苦痛である。(4・5・6・7・8)憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)もまた、苦痛である。(9)諸々の愛しからざるものとの結合(怨憎会)は、苦痛である。(10)諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦痛である。(11)すなわち、また、〔彼が〕求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦痛である。(12)簡略に〔説くなら〕、〔心身を構成する〕五つの執取の範疇(五取蘊)は、苦痛である。

 [262](1)そこで、どのようなものが、生であるのか。それが、それらそれらの有情たちの、それぞれの有情の部類における、生、産出、入〔胎〕、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇の出現、諸々の〔認識の〕場所の獲得としてあるなら――これが、生と説かれる。

 [263](2)そこで、どのようなものが、老であるのか。それが、それらそれらの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能の完熟としてあるなら――これが、老と説かれる。

 [264]【38】(3)そこで、どのようなものが、死であるのか。それが、それらそれらの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅たること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命を終えること、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置、生命の機能(命根)の断絶としてあるなら――これが、死と説かれる。

 [265](4)そこで、どのようなものが、憂いであるのか。あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、憂い、憂うこと、憂いあること、内なる憂い、内なる遍き憂い、心の遍き焼尽、失意、憂いの矢――これが、憂いと説かれる。

 [266](5)そこで、どのようなものが、嘆きであるのか。あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあること、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあること――これが、嘆きと説かれる。

 [267](6)そこで、どのようなものが、苦痛であるのか。それが、身体の属性としての不快、身体の属性としての苦痛、身体の接触から生じる不快や苦痛として感受されたもの、身体の接触から生じる不快や苦痛の感受としてあるなら――これが、苦痛と説かれる。

 [268](7)そこで、どのようなものが、失意であるのか。それが、心の属性としての不快、心の属性としての苦痛、心の接触から生じる不快や苦痛として感受されたもの、心の接触から生じる不快や苦痛の感受としてあるなら――これが、失意と説かれる。

 [269](8)そこで、どのようなものが、葛藤であるのか。あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、苦労、葛藤、苦労すること、葛藤すること、苦労あること、葛藤あること――これが、葛藤と説かれる。

 [270](9)そこで、どのようなものが、諸々の愛しからざるものとの結合の苦痛であるのか。ここに、【39】彼にとって、それらのものが、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない、諸々の形態や音声や臭香や味感や感触として有り――あるいは、また、すなわち、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの〔心の〕平安なきを欲する者たちとして有り――それが、それらのものを相手とする、会合、遭遇、結集、混合の状態としてあるなら――これが、諸々の愛しからざるものとの結合と説かれる。

 [271](10)そこで、どのようなものが、諸々の愛しいものとの別離の苦痛であるのか。ここに、彼にとって、それらのものが、諸々の好ましく愛らしく意に適う、諸々の形態や音声や臭香や味感や感触として有り――あるいは、また、すなわち、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの〔心の〕平安を欲する者たちとして、あるいは、母、あるいは、父、あるいは、兄弟、あるいは、姉妹、あるいは、朋友たち、あるいは、僚友たち、あるいは、親族たち、あるいは、血縁たちとして有り――それが、それらのものを相手とする、会合なき、遭遇なき、結集なき、混合なき状態としてあるなら――これが、諸々の愛しいものとの別離と説かれる。

 [272](11)そこで、どのように、すなわち、また、〔彼が〕求めるものを得ないなら、それもまた、苦痛であるのか。生の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起する。〔すなわち〕「ああ、まさに、わたしたちは、生の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存することがないように。しかして、まさに、わたしたちに、生が帰り来ることがないように」と。しかるに、まさに、このことは、求めによって得られるべきことではない。これもまた、すなわち、また、〔彼が〕求めるものを得ないなら、それもまた、苦痛である。老の法(性質)ある有情たちに……略……。病の法(性質)ある有情たちに……。死の法(性質)ある有情たちに……。憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起する。〔すなわち〕「ああ、まさに、わたしたちは、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存することがないように。しかして、まさに、わたしたちに、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が帰り来ることがないように」と。しかるに、まさに、このことは、求めによって得られるべきことではない。これもまた、すなわち、また、〔彼が〕求めるものを得ないなら、それもまた、苦痛である。

 [273](12)そこで、どのようなものが、簡略に〔説くなら〕、〔心身を構成する〕五つの執取の範疇の苦痛であるのか。それは、すなわち、この、形態の執取の範疇(色取蘊)、感受〔作用〕の執取の範疇(受取蘊)、表象〔作用〕の執取の範疇(想取蘊)、形成〔作用〕の執取の範疇(行取蘊)、識別〔作用〕の執取の範疇(識取蘊)である。これらが、簡略に〔説くなら〕、〔心身を構成する〕五つの執取の範疇の苦痛と説かれる。これが、苦痛という聖なる真理と説かれる。


34.


 [274]そこで、どのようなものが、苦痛の集起という聖なる真理であるのか。〔まさに〕その、この渇愛は、さらなる〔迷いの〕生存あるもの、喜悦と貪欲を共具したもの、そこかしこに喜悦〔の思い〕あるものにして、それは、すなわち、この、欲望〔の対象〕への渇愛(欲愛)、生存への渇愛(有愛)、非生存への渇愛(非有愛)である。【40】しかして、まさに、その、この渇愛は、どこにおいて、生起しつつ生起し、どこにおいて、固着しつつ固着するのか。それが、世における、愛しい形態、快楽の形態としてあるなら、ここにおいて、この渇愛は、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。しからば、どのようなものが、世における、愛しい形態、快楽の形態であるのか。眼が、世における、愛しい形態、快楽の形態であり、ここにおいて、この渇愛は、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。耳が、世における……略……。鼻が、世における……。舌が、世における……。身が、世における……。意が、世における、愛しい形態、快楽の形態であり、ここにおいて、この渇愛は、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。諸々の形態が、世における、愛しい形態、快楽の形態であり、ここにおいて、この渇愛は、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。諸々の音声が、世における、愛しい形態、快楽の形態であり……略……。諸々の法(意の対象)が、世における……。眼の識別〔作用〕が、世における……略……。意の識別〔作用〕が、世における……。眼の接触が、世における……略……。意の接触が、世における……。眼の接触から生じる感受が、世における……略……。意の接触から生じる感受が、世における……。形態の表象が、世における……略……。法(意の対象)の表象が、世における……。形態の思欲が、世における……略……。法(意の対象)の思欲が、世における……。形態の渇愛が、世における……略……。法(意の対象)の渇愛が、世における……。形態の思考が、世における……略……。法(意の対象)の思考が、世における……。形態の想念が、世における……略……。法(意の対象)の想念が、世における、愛しい形態、快楽の形態であり、ここにおいて、この渇愛は、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。これが、苦痛の集起という聖なる真理と説かれる。


35.


 [275]そこで、どのようなものが、苦痛の止滅という聖なる真理であるのか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪による止滅、棄捨、放棄、解放、執着なきである。しかして、まさに、その、この渇愛は、どこにおいて、捨棄されつつ捨棄され、どこにおいて、止滅しつつ止滅するのか。それが、世における、愛しい形態、快楽の形態としてあるなら、ここにおいて、この渇愛は、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅する。しからば、どのようなものが、世における、愛しい形態、快楽の形態であるのか。眼が、世における、愛しい形態、快楽の形態であり、ここにおいて、この渇愛は、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅する……略……。法(意の対象)の想念が、世における、愛しい形態、快楽の形態であり、ここにおいて、この渇愛は、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅する。これが、苦痛の止滅という聖なる真理と説かれる。


36.


 [276]そこで、どのようなものが、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理であるのか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)である。それは、すなわち、この、(1)正しい見解(正見)、(2)正しい思惟(正思惟)、(3)正しい言葉(正語)、【41】(4)正しい生業(正業)、(5)正しい生き方(正命)、(6)正しい努力(正精進)、(7)正しい気づき(正念)、(8)正しい〔心の〕統一(正定)である。(1)そこで、どのようなものが、正しい見解であるのか。苦痛についての知恵、苦痛の集起についての知恵、苦痛の止滅についての知恵、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵である。これが、正しい見解と説かれる。

 [277](2)そこで、どのようなものが、正しい思惟であるのか。離欲の思惟、加害〔の思い〕なきの思惟、悩害〔の思い〕なきの思惟、これが、正しい思惟と説かれる。

 [278](3)どのようなものが、正しい言葉であるのか。虚偽を説くことからの離断、中傷の言葉からの離断、粗暴の言葉からの離断、雑駁な虚論からの離断、これが、正しい言葉と説かれる。

 [279](4)そこで、どのようなものが、正しい生業であるのか。生き物を殺すことからの離断、与えられていないものを取ることからの離断、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)からの離断、これが、正しい生業と説かれる。

 [280](5)そこで、どのようなものが、正しい生き方であるのか。ここに、聖なる弟子が、誤った生き方を捨棄して、正しい生き方によって、生を営む。これが、正しい生き方と説かれる。

 [281](6)そこで、どのようなものが、正しい努力であるのか。ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきのために、欲〔の思い〕を生み、努力し、精進に励み、心を励起し、精励する。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために……略……。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の止住のために、忘却なきのために、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、欲〔の思い〕を生み、努力し、精進に励み、心を励起し、精励する。これが、正しい努力と説かれる。

 [282](7)そこで、どのようなものが、正しい気づきであるのか。ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として、〔世に〕住む。熱情ある者となり、正知の者となり、気づきの者となり、世における強欲と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として、〔世に〕住む。熱情ある者となり、正知の者となり、気づきの者となり、世における強欲と失意〔の思い〕を取り除いて。これが、正しい気づきと説かれる。

 [283](8)そこで、どのようなものが、正しい〔心の〕統一であるのか。ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕から、まさしく、離れて、〔さらには〕諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑な〕思考を有し(有尋)、〔微細な〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想を成就して、〔世に〕住む。〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念の寂止あることから、内なる清らかな信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、【42】〔心の〕統一から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想〔の境地〕を成就して、〔世に〕住む。さらには、喜悦の離貪あることから、しかして、放捨の者として、〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として、〔世に住む〕。しかして、〔彼は〕身体による安楽を得知する。すなわち、彼のことを、聖者たちが、「〔彼は〕放捨の者にして気づきある者、安楽の住ある者である」と告げ知らせるところの、第三の瞑想〔の境地〕を成就して、〔世に〕住む。しかして、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想〔の境地〕を成就して、〔世に〕住む。これが、正しい〔心の〕統一と説かれる。これが、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理と説かれる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「『これは、苦痛という聖なる真理である。これは、苦痛の集起という聖なる真理である。これは、苦痛の止滅という聖なる真理である。これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。このように、傾聴することにおける知慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 [284]所聞から作られる知恵についての釈示が、第一となる。

 〔以上が第五の読誦分となる。〕


1.1.2 戒から作られる知恵についての釈示


37.


 [285]どのように、聞いて〔そののち〕、統御(律儀)における知慧が、戒から作られるものについての知恵となるのか。五つの戒がある。(1)最終極ある完全なる清浄としての戒、(2)最終極なき完全なる清浄としての戒、(3)円満成就された完全なる清浄としての戒、(4)執着なき完全なる清浄としての戒、(5)静息にして完全なる清浄としての戒である。ということで――

 [286](1)そこで、どのようなものが、最終極ある完全なる清浄としての戒であるのか。〔いまだ戒を〕成就していない〔出家〕者たちで、最終極ある学びの境処(限定された有制限の戒)ある者たちの〔戒〕、これが、最終極ある完全なる清浄としての戒である。

 [287](2)どのようなものが、最終極なき完全なる清浄としての戒であるのか。〔すでに戒を〕成就した〔出家〕者たちで、最終極なき学びの境処(限定されない無制限の戒)ある者たちの〔戒〕、これが、最終極なき完全なる清浄としての戒である。

 [288](3)どのようなものが、円満成就された完全なる清浄としての戒であるのか。善なる諸法(性質)と結び付いた善き凡夫たちで、学びある者たち〔の学び〕を最終極とする〔学び〕(有学者の三学を制限とする学び)において円満成就を為す者たちとなり、身体についても生命についても期待することなく生命を遍捨した者たちの〔戒〕、これが、円満成就された完全なる清浄としての戒である。

 [289](4)どのようなものが、執着なき完全なる清浄としての戒であるのか。学びある七者たち(七有学:預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道)の〔戒〕、これが、執着なき完全なる清浄としての戒である。

 [290]【43】(5)どのようなものが、静息にして完全なる清浄としての戒であるのか。如来の弟子たる煩悩の滅尽者たちや独覚(縁覚・辟支仏)たちや阿羅漢にして正自覚者たる如来たちの〔戒〕、これが、静息にして完全なる清浄としての戒である。


38.


 [291](1)最終極ある戒が存在する。(2)最終極なき戒が存在する。

 [292](1)そこで、どのようなものが、〔まさに〕その、最終極ある戒であるのか。(1―1)利得を最終極とする戒が存在する。(1―2)名声を最終極とする戒が存在する。(1―3)親族を最終極とする戒が存在する。(1―4)肢体を最終極とする戒が存在する。(1―5)生命を最終極とする戒が存在する。

 [293](1―1)どのようなものが、〔まさに〕その、利得を最終極とする戒であるのか。ここに、一部の者が、利得を因とし、利得という縁から、利得という契機から、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯する。これが、〔まさに〕その、利得を最終極とする戒である。

 [294](1―2)どのようなものが、〔まさに〕その、名声を最終極とする戒であるのか。ここに、一部の者が、名声を因とし、名声という縁から、名声という契機から、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯する。これが、〔まさに〕その、名声を最終極とする戒である。

 [295](1―3)どのようなものが、〔まさに〕その、親族を最終極とする戒であるのか。ここに、一部の者が、親族を因とし、親族という縁から、親族という契機から、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯する。これが、〔まさに〕その、親族を最終極とする戒である。

 [296](1―4)どのようなものが、〔まさに〕その、肢体を最終極とする戒であるのか。ここに、一部の者が、肢体を因とし、肢体という縁から、肢体という契機から、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯する。これが、〔まさに〕その、肢体を最終極とする戒である。

 [297](1―5)どのようなものが、〔まさに〕その、生命を最終極とする戒であるのか。ここに、一部の者が、生命を因とし、生命という縁から、生命という契機から、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯する。これが、〔まさに〕その、生命を最終極とする戒である。このような形態の諸戒は、破断あるものであり、切断あるものであり、斑紋“まだら”あるものであり、雑〔色〕あるものであり、自由なるものではなく、識者によって賞賛されたものではなく、〔執着の思いで〕執着されたものであり、〔心の〕統一が転起させるものではなく、後悔なきの基盤となるものではなく、歓喜の基盤となるものではなく、喜悦の基盤となるものではなく、安息の基盤となるものではなく、安楽の基盤となるものではなく、〔心の〕統一の基盤となるものではなく、事実のとおりの知見の基盤となるものではなく、一方的に、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、転起する。これが、〔まさに〕その、最終極ある戒である。

 [298](2)どのようなものが、〔まさに〕その、最終極なき戒であるのか。【44】(2―1)利得を最終極としない戒が存在する。(2―2)名声を最終極としない戒が存在する。(2―3)親族を最終極としない戒が存在する。(2―4)肢体を最終極としない戒が存在する。(2―5)生命を最終極としない戒が存在する。

 [299](2―1)どのようなものが、〔まさに〕その、利得を最終極としない戒であるのか。ここに、一部の者が、利得を因とし、利得という縁から、利得という契機から、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯するための心さえも、生起させない。彼は、何を違犯するというのだろう。これが、〔まさに〕その、利得を最終極としない戒である。

 [300](2―2)どのようなものが、〔まさに〕その、名声を最終極としない戒であるのか。ここに、一部の者が、名声を因とし、名声という縁から、名声という契機から、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯するための心さえも、生起させない。彼は、何を違犯するというのだろう。これが、〔まさに〕その、名声を最終極としない戒である。

 [301](2―3)どのようなものが、〔まさに〕その、親族を最終極としない戒であるのか。ここに、一部の者が、親族を因とし、親族という縁から、親族という契機から、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯するための心さえも、生起させない。彼は、何を違犯するというのだろう。これが、〔まさに〕その、親族を最終極としない戒である。

 [302](2―4)どのようなものが、〔まさに〕その、肢体を最終極としない戒であるのか。ここに、一部の者が、肢体を因とし、肢体という縁から、肢体という契機から、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯するための心さえも、生起させない。彼は、何を違犯するというのだろう。これが、〔まさに〕その、肢体を最終極としない戒である。

 [303](2―5)どのようなものが、〔まさに〕その、生命を最終極としない戒であるのか。ここに、一部の者が、生命を因とし、生命という縁から、生命という契機から、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯するための心さえも、生起させない。彼は、何を違犯するというのだろう。これが、〔まさに〕その、生命を最終極としない戒である。このような形態の諸戒は、破断ならざるものであり、切断ならざるものであり、斑紋ならざるものであり、雑〔色〕ならざるものであり、自由なるものであり、識者によって賞賛されたものであり、〔執着の思いで〕執着されたものではなく、〔心の〕統一が転起させるものであり、後悔なきの基盤となるものであり、歓喜の基盤となるものであり、喜悦の基盤となるものであり、安息の基盤となるものであり、安楽の基盤となるものであり、〔心の〕統一の基盤となるものであり、事実のとおりの知見の基盤となるものであり、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、転起する。これが、〔まさに〕その、最終極なき戒である。


39.


 [304]何が、戒であるのか。どれだけの、戒があるのか。何から等しく現起するものが、戒であるのか。どれだけの、法(性質)を結集する戒があるのか。

 [305]「何が、戒であるのか」とは、思欲(思:心の思い・意志)が、戒であり、心の属性(心所:心に現起する作用・感情)が、戒であり、〔自己の〕統御(律儀)が、戒であり、〔身体と言葉について〕違犯なきことが、戒である。

 [306]「どれだけの、戒があるか」とは、三つの戒がある。(1)善なる戒、(2)善ならざる戒、(3)〔善悪が〕説き示されない(無記)戒である。

 [307]「何から等しく現起するものが、戒であるのか」とは、(1)善なる心から等しく現起するものが、【45】善なる戒であり、(2)善ならざる心から等しく現起するものが、善ならざる戒であり、(3)〔善悪が〕説き示されない心から等しく現起するものが、〔善悪が〕説き示されない戒である。

 [308]「どれだけの、法(性質)を結集する戒があるか」とは、(1)〔自己の〕統御を結集する戒、(2)〔身体と言葉について〕違犯なきことを結集する戒、(3)そのような状態において生じた思欲を結集する戒である。


40.


 [309]生き物を殺すことの統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきの義(意味)によって、戒である。与えられていないものを取ることの統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきの義(意味)によって、戒である。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきの義(意味)によって、戒である。虚偽を説くことの統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきの義(意味)によって、戒である。中傷の言葉の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきの義(意味)によって、戒である。粗暴の言葉の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきの義(意味)によって、戒である。雑駁な虚論の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきの義(意味)によって、戒である。強欲〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきの義(意味)によって、戒である。加害〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきの義(意味)によって、戒である。誤った見解の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきの義(意味)によって、戒である。

 [310]離欲による、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきの義(意味)によって、戒である。加害〔の思い〕なきによる、加害〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきの義(意味)によって、戒である。光明の表象による、〔心の〕沈滞と眠気の……。〔心の〕散乱なきによる、〔心の〕高揚の……。法(性質)の〔差異を〕定め置くことによる、疑惑〔の思い〕の……。知恵による、無明の……。歓喜による、不満〔の思い〕の……。

 [311]第一の瞑想による、〔五つの修行の〕妨害の……。第二の瞑想による、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念の……。第三の瞑想による、喜悦の……。第四の瞑想による、楽と苦の……。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定による、形態の表象の、障礙の表象の、種々なることの表象の……。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定による、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象の……。無所有なる〔認識の〕場所への入定による、識別無辺なる〔認識の〕場所の表象の……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定による、無所有なる〔認識の〕場所の表象の……。

 [312]無常の随観による、常住の表象の……。苦痛の随観による、安楽の表象の……。無我の随観による、自己の表象の……。厭離の随観による、喜悦の……。離貪の随観による、貪欲の……。止滅の随観による、集起の……。放棄の随観による、執取の……。滅尽の随観による、重厚の表象の……。衰微の随観による、実行(業を作ること)の……。変化の随観による、常久の表象の……。無相の随観による、形相(概念把握)の……。無願の随観による、切願の……。空性の随観による、固着(固定観念)の……。向上の知慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察による、真髄への執取の固着の……。事実のとおりの知見による、迷妄の固着の……。危険の随観による、執着の固着の……。審慮の随観による、審慮なきの……。【46】還転の随観による、束縛の固着の……。

 [313]預流道による、〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の……。一来道による、粗大なる諸々の〔心の〕汚れの……。不還道による、微細なるものを共具した諸々の〔心の〕汚れの……。阿羅漢道による、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきの義(意味)によって、戒である。


41.


 [314]五つの戒がある。生き物を殺すことの、(1)捨棄としての戒、(2)離断としての戒、(3)思欲としての戒、(4)〔自己の〕統御としての戒、(5)〔身体と言葉について〕違犯なきこととしての戒である。このような形態の諸戒は、心の、後悔なきのために等しく転起し、歓喜のために等しく転起し、喜悦のために等しく転起し、安息のために等しく転起し、悦意のために等しく転起し、習修のために等しく転起し、修行のために等しく転起し、多くの行為(多作・多修)のために等しく転起し、十分に作り為すことのために等しく転起し、必需のもののために等しく転起し、付属のもののために等しく転起し、円満成就のもののために等しく転起し、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起する。


42.


 [315]このような形態の諸戒の、(1)統御の完全なる清浄が、向上の戒(増上戒)である。統御の完全なる清浄によって止住した心は、散乱へと赴かない。(2)〔心の〕散乱なき完全なる清浄が、向上の心(増上心:定心)である。統御の完全なる清浄を、正しく見る。〔心の〕散乱なき完全なる清浄を、正しく見る。(3)〔あるがままの〕見の完全なる清浄が、向上の知慧(増上慧)である。(1)それが、そこにおいて、統御の義(意味)あるものであるなら、これは、向上の戒の学びである。(2)それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なきの義(意味)あるものであるなら、これは、向上の心の学びである。(3)それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)あるものであるなら、これは、向上の知慧の学びである。

 [316]これらの三つの学び(三学:戒・定・慧)を、〔心を〕傾注している者として学び、〔あるがままに〕知っている者として学び、〔あるがままに〕見ている者として学び、〔あるがままに〕注視している者として学び、心を確立している者として学び、信によって信念している者として学び、精進を励起している者として学び、気づきを現起させている者として学び、心を定めている者として学び、知慧によって覚知している者として学び、証知されるべきものを証知している者として学び、遍知されるべきものを遍知している者として学び、捨棄されるべきものを捨棄している者として学び、実証されるべきものを実証している者として学び、修行されるべきものを修行している者として学ぶ。

 [317]五つの戒がある。与えられていないものを取ることの……。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないの……。虚偽を説くことの……。中傷の言葉の……。粗暴な言葉の……。雑駁な虚論の……。強欲〔の思い〕の……。加害〔の思い〕の……。誤った見解の……。

 [318]離欲による、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の……。加害〔の思い〕なきによる、加害〔の思い〕の……。光明の表象による、〔心の〕沈滞と眠気の……。〔心の〕散乱なきによる、【47】〔心の〕高揚の……。法(性質)の〔差異を〕定め置くことによる、疑惑〔の思い〕の……。知恵による、無明の……。歓喜による、不満〔の思い〕の……。

 [319]第一の瞑想による、〔五つの修行の〕妨害の……。第二の瞑想による、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念の……。第三の瞑想による、喜悦の……。第四の瞑想による、楽と苦の……。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定による、形態の表象の、障礙の表象の、種々なることの表象の……。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定による、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象の……。無所有なる〔認識の〕場所への入定による、識別無辺なる〔認識の〕場所の表象の……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定による、無所有なる〔認識の〕場所の表象の……。

 [320]無常の随観による、常住の表象の……。苦痛の随観による、安楽の表象の……。無我の随観による、自己の表象の……。厭離の随観による、喜悦の……。離貪の随観による、貪欲の……。止滅の随観による、集起の……。放棄の随観による、執取の……。滅尽の随観による、重厚の表象の……。衰微の随観による、実行(業を作ること)の……。変化の随観による、常久の表象の……。無相の随観による、形相の……。無願の随観による、切願の……。空性の随観による、固着の……。向上の知慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察による、真髄への執取の固着の……。事実のとおりの知見による、迷妄の固着の……。危険の随観による、執着の固着の……。審慮の随観による、審慮なきの……。還転の随観による、束縛の固着の……。

 [321]預流道による、〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の……。一来道による、粗大なる諸々の〔心の〕汚れの……。不還道による、微細なるものを共具した諸々の〔心の〕汚れの……。阿羅漢道による、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの、(1)捨棄としての戒、(2)離断としての戒、(3)思欲としての戒、(4)〔自己の〕統御としての戒、(5)〔身体と言葉について〕違犯なきこととしての戒である。このような形態の諸戒は、心の、後悔なきのために等しく転起し、歓喜のために等しく転起し、喜悦のために等しく転起し、安息のために等しく転起し、悦意のために等しく転起し、習修のために等しく転起し、修行のために等しく転起し、多くの行為のために等しく転起し、十分に作り為すことのために等しく転起し、必需のもののために等しく転起し、付属のもののために等しく転起し、円満成就のもののために等しく転起し、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起する。

 [322]このような形態の諸戒の、(1)統御の完全なる清浄が、向上の戒である。統御の完全なる清浄によって止住した心は、散乱へと赴かない。(2)〔心の〕散乱なき完全なる清浄が、向上の心である。統御の完全なる清浄を、正しく見る。〔心の〕散乱なき完全なる清浄を、正しく見る。(3)〔あるがままの〕見の完全なる清浄が、向上の知慧である。(1)それが、そこにおいて、統御の義(意味)あるものであるなら、【48】これは、向上の戒の学びである。(2)それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なきの義(意味)あるものであるなら、これは、向上の心の学びである。(3)それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)あるものであるなら、これは、向上の知慧の学びである。これらの三つの学びを、〔心を〕傾注している者として学び、〔あるがままに〕知っている者として学び、〔あるがままに〕見ている者として学び、〔あるがままに〕注視している者として学び、心を確立している者として学び、信によって信念している者として学び、精進を励起している者として学び、気づきを現起させている者として学び、心を定めている者として学び、知慧によって覚知している者として学び、証知されるべきものを証知している者として学び、遍知されるべきものを遍知している者として学び、捨棄されるべきものを捨棄している者として学び、実証されるべきものを実証している者として学び、修行されるべきものを修行している者として学ぶ。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「聞いて〔そののち〕、統御における知慧が、戒から作られるものについての知恵となる」〔と〕。


 [323]戒から作られる知恵についての釈示が、第二となる。


1.1.3 〔心の〕統一の修行から作られる知恵についての釈示


43.


 [324]どのように、統御して〔そののち〕、〔心を〕定めることにおける知慧が、〔心の〕統一(三昧・定)の修行から作られるものについての知恵となるのか。

 [325]一つの〔心の〕統一がある。(1)心の一境性である。

 [326]二つの〔心の〕統一がある。(1)世〔俗〕の〔心の〕統一(世間定)、(2)世〔俗〕を超える〔心の〕統一(出世間定)である。

 [327]三つの〔心の〕統一がある。(1)〔粗雑な〕思考を有し〔微細な〕想念を有する〔心の〕統一(有尋有伺定)、(2)〔粗雑な〕思考なく〔微細な〕想念だけの〔心の〕統一(無尋唯伺定)、(3)〔粗雑な〕思考なく〔微細な〕想念なき〔心の〕統一(無尋無伺定)である。

 [328]四つの〔心の〕統一がある。(1)退失を部分とする〔心の〕統一、(2)止住を部分とする〔心の〕統一、(3)殊勝を部分とする〔心の〕統一、(4)洞察を部分とする〔心の〕統一である。

 [329]五つの〔心の〕統一がある。(1)喜悦の充満性、(2)安楽の充満性、(3)心の充満性、(4)光明の充満性、(5)注視の形相である。

 [330]六つの〔心の〕統一がある。(1)覚者(仏:ブッダ)の随念を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一、(2)法(法:ダンマ)の随念を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一、(3)僧団(僧:サンガ)の随念を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一、(4)戒の随念を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一、(5)棄捨の随念を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一、(6)天神たちの随念を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一である。

 [331]七つの〔心の〕統一がある。(1)〔心の〕統一に巧みな智あること、(2)〔心の〕統一の、入定(等至)に巧みな智あること、(3)〔心の〕統一の、止住に巧みな智あること、(4)〔心の〕統一の、出起(出定)に巧みな智あること、【49】(5)〔心の〕統一の、健全性に巧みな智あること、(6)〔心の〕統一の、境涯(作用範囲)に巧みな智あること、(7)〔心の〕統一の、導引に巧みな智あることである。

 [332]八つの〔心の〕統一がある。(1)地の遍満を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一、(2)水の遍満を所以にする……略……(3)火の遍満を所以にする……(4)風の遍満を所以にする……(5)青の遍満を所以にする……(6)黄の遍満を所以にする……(7)赤の遍満を所以にする……(8)白の遍満を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一である。

 [333]九つの〔心の〕統一がある。(1・2・3)形態の行境(色界)の〔心の〕統一として、下劣なるものが存在し、中等なるものが存在し、精妙なるものが存在し、(4・5・6)形態なき行境(無色界)の〔心の〕統一として、下劣なるものが存在し、中等なるものが存在し、精妙なるものが存在し、(7)空性の〔心の〕統一、(8)無相の〔心の〕統一、(9)無願の〔心の〕統一である。

 [334]十の〔心の〕統一がある。(1)膨張した〔死体〕の表象を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一、(2)青黒くなった〔死体〕の表象を所以にする……(3)膿み爛れた〔死体〕の表象を所以にする……(4)切断された〔死体〕の表象を所以にする……(5)喰い残された〔死体〕の表象を所以にする……(6)散乱した〔死体〕の表象を所以にする……(7)打ち殺され散乱した〔死体〕の表象を所以にする……(8)血まみれの〔死体〕の表象を所以にする……(9)蛆虫まみれのもの〔死体〕を所以にする……(10)骨となったものを所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一である。これらの五十五の〔心の〕統一がある。


44.


 [335]さらに、また、〔心の〕統一には、二十五の〔心の〕統一の義(意味)がある。(1)遍き収取の義(意味)によって、〔心の〕統一がある。(2)付属の義(意味)によって、〔心の〕統一がある。(3)円満成就の義(意味)によって、〔心の〕統一がある。(4)一境の義(意味)によって、〔心の〕統一がある。(5)〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一がある。(6)〔心の〕拡散なきの義(意味)によって、〔心の〕統一がある。(7)〔心の〕混濁なきの義(意味)によって、〔心の〕統一がある。(8)〔心の〕動揺なきの義(意味)によって、〔心の〕統一がある。(9)解脱の義(意味)によって、〔心の〕統一がある。(10)一なることの現起を所以に心が止住したことから、〔心の〕統一がある。(11)〔心の〕平等(平静)を求める、ということで、〔心の〕統一がある。(12)〔心の〕平等(平静)ならざるを求めない、ということで、〔心の〕統一がある。(13)〔心の〕平等を求めたことから、〔心の〕統一がある。(14)〔心の〕平等ならざるを求めなかったことから、〔心の〕統一がある。(15)〔心の〕平等を取る、ということで、〔心の〕統一がある。(16)〔心の〕平等ならざるを取らない、ということで、〔心の〕統一がある。(17)〔心の〕平等を取ったことから、〔心の〕統一がある。(18)〔心の〕平等ならざるを取らなかったことから、〔心の〕統一がある。(19)〔心の〕平等を実践する、ということで、〔心の〕統一がある。(20)〔心の〕平等ならざるを実践しない、ということで、〔心の〕統一がある。(21)〔心の〕平等を実践したことから、〔心の〕統一がある。(22)〔心の〕平等ならざるを実践しなかったことから、〔心の〕統一がある。(23)〔心の〕平等を瞑想する(ジャーヤティ)、ということで、〔心の〕統一がある。(24)〔心の〕平等ならざるを焼尽する(ジャーペーティ)、ということで、〔心の〕統一がある。(25)〔心の〕平等を瞑想したことから、〔心の〕統一がある。(26)〔心の〕平等ならざるを焼尽したことから、〔心の〕統一がある。(27)しかして、平等であり、かつまた、利益であり、さらには、安楽である、ということで、〔心の〕統一がある。〔心の〕統一には、これらの二十五の〔心の〕統一の義(意味)がある。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「統御して〔そののち〕、〔心を〕定めることにおける知慧が、〔心の〕統一の修行から作られるものについての知恵となる」〔と〕。


 [336]〔心の〕統一の修行から作られる知恵についての釈示が、第三となる。


1.1.4 法(性質)の止住の知恵についての釈示


45.


 [337]【50】どのように、縁の遍き収取(理解・把握)における知慧が、法(性質)の止住の知恵となるのか。無明は、諸々の形成〔作用〕にとって、(1)しかして、生起〔という法〕の止住あるものであり、(2)しかして、転起されたもの〔という法〕の止住あるものであり、(3)しかして、形相〔という法〕の止住あるものであり、(4)しかして、実行(業を作ること)〔という法〕の止住あるものであり、(5)しかして、束縛〔という法〕の止住あるものであり、(6)しかして、障害〔という法〕の止住あるものであり、(7)しかして、集起〔という法〕の止住あるものであり、(8)しかして、因〔という法〕の止住あるものであり、(9)しかして、縁〔という法〕の止住あるものである。これらの九つの行相によって、無明は、縁であり、諸々の形成〔作用〕は、縁によって生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、無明は、諸々の形成〔作用〕にとって、(1)しかして、生起〔という法〕の止住あるものであり、(2)しかして、転起されたもの〔という法〕の止住あるものであり、(3)しかして、形相〔という法〕の止住あるものであり、(4)しかして、実行(業を作ること)〔という法〕の止住あるものであり、(5)しかして、束縛〔という法〕の止住あるものであり、(6)しかして、障害〔という法〕の止住あるものであり、(7)しかして、集起〔という法〕の止住あるものであり、(8)しかして、因〔という法〕の止住あるものであり、(9)しかして、縁〔という法〕の止住あるものである。これらの九つの行相によって、無明は、縁であり、諸々の形成〔作用〕は、縁によって生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 [338]諸々の形成〔作用〕は、識別〔作用〕にとって……略……。識別〔作用〕は、名前と形態にとって……。名前と形態は、六つの〔認識の〕場所にとって……。六つの〔認識の〕場所は、接触にとって……。接触は、感受にとって……。感受は、渇愛にとって……。渇愛は、執取にとって……。執取は、生存にとって……。生存は、生にとって……。生は、老と死にとって、(1)しかして、生起〔という法〕の止住あるものであり、(2)しかして、転起されたもの〔という法〕の止住あるものであり、(3)しかして、形相〔という法〕の止住あるものであり、(4)しかして、実行(業を作ること)〔という法〕の止住あるものであり、(5)しかして、束縛〔という法〕の止住あるものであり、(6)しかして、障害〔という法〕の止住あるものであり、(7)しかして、集起〔という法〕の止住あるものであり、(8)しかして、因〔という法〕の止住あるものであり、(9)しかして、縁〔という法〕の止住あるものである。これらの九つの行相によって、生は、縁であり、老と死は、縁によって生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、生は、老と死にとって、(1)しかして、生起〔という法〕の止住あるものであり、(2)しかして、転起されたもの〔という法〕の止住あるものであり、(3)しかして、形相〔という法〕の止住あるものであり、(4)しかして、実行(業を作ること)〔という法〕の止住あるものであり、(5)しかして、束縛〔という法〕の止住あるものであり、(6)しかして、障害〔という法〕の止住あるものであり、(7)しかして、集起〔という法〕の止住あるものであり、(8)しかして、因〔という法〕の止住あるものであり、(9)しかして、縁〔という法〕の止住あるものである。これらの九つの行相によって、生は、縁であり、老と死は、縁によって生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。


46.


 [339]無明は、因であり、諸々の形成〔作用〕は、因によって生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、因によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の【51】時においてもまた、無明は、因であり、諸々の形成〔作用〕は、因によって生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、因によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 [340]諸々の形成〔作用〕は、因であり、識別〔作用〕は、因によって生起したものであり……略……。識別〔作用〕は、因であり、名前と形態は、因によって生起したものであり……。名前と形態は、因であり、六つの〔認識の〕場所は、因によって生起したものであり……。六つの〔認識の〕場所は、因であり、接触は、因によって生起したものであり……。接触は、因であり、感受は、因によって生起したものであり……。感受は、因であり、渇愛は、因によって生起したものであり……。渇愛は、因であり、執取は、因によって生起したものであり……。執取は、因であり、生存は、因によって生起したものであり……。生存は、因であり、生は、因によって生起したものであり……。生は、因であり、老と死は、因によって生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、因によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、生は、因であり、老と死は、因によって生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、因によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 [341]無明は、縁としてあり、諸々の形成〔作用〕は、〔他のものを〕縁として生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、〔他のものを〕縁として生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、無明は、縁としてあり、諸々の形成〔作用〕は、〔他のものを〕縁として生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、〔他のものを〕縁として生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 [342]諸々の形成〔作用〕は、縁としてあり、識別〔作用〕は、〔他のものを〕縁として生起したものであり……略……。識別〔作用〕は、縁としてあり、名前と形態は、〔他のものを〕縁として生起したものであり……。名前と形態は、縁としてあり、六つの〔認識の〕場所は、〔他のものを〕縁として生起したものであり……。六つの〔認識の〕場所は、縁としてあり、接触は、〔他のものを〕縁として生起したものであり……。接触は、縁としてあり、感受は、〔他のものを〕縁として生起したものであり……。感受は、縁としてあり、渇愛は、〔他のものを〕縁として生起したものであり……。渇愛は、縁としてあり、執取は、〔他のものを〕縁として生起したものであり……。執取は、縁としてあり、生存は、〔他のものを〕縁として生起したものであり……。生存は、縁としてあり、生は、〔他のものを〕縁として生起したものであり……。生は、縁としてあり、老と死は、〔他のものを〕縁として生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、〔他のものを〕縁として生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、生は、縁としてあり、老と死は、〔他のものを〕縁として生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、〔他のものを〕縁として生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 [343]無明は、縁であり、諸々の形成〔作用〕は、縁によって生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における【52】知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、無明は、縁であり、諸々の形成〔作用〕は、縁によって生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 [344]諸々の形成〔作用〕は、縁であり、識別〔作用〕は、縁によって生起したものであり……略……。識別〔作用〕は、縁であり、名前と形態は、縁によって生起したものであり……。名前と形態は、縁であり、六つの〔認識の〕場所は、縁によって生起したものであり……。六つの〔認識の〕場所は、縁であり、接触は、縁によって生起したものであり……。接触は、縁であり、感受は、縁によって生起したものであり……。感受は、縁であり、渇愛は、縁によって生起したものであり……。渇愛は、縁であり、執取は、縁によって生起したものであり……。執取は、縁であり、生存は、縁によって生起したものであり……。生存は、縁であり、生は、縁によって生起したものであり……。生は、縁であり、老と死は、縁によって生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、生は、縁であり、老と死は、縁によって生起したものであり、これらの諸法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる。


47.


 [345](1)前(過去世)の行為(業)としての生存において、(1―1)迷妄としてある無明、(1―2)実行としてある諸々の形成〔作用〕(行:意志・衝動)、(1―3)欲念としてある渇愛、(1―4)接近としてある執取、(1―5)思欲としてある生存――前(過去世)の行為としての生存における、これらの五つの法(性質)は、ここ(現世)に、結生にとっての、諸縁となる。(2)ここ(現世)に、(2―1)結生としてある識別〔作用〕、(2―2)入〔胎〕としてある名前と形態(名色:心と身体)、(2―3)〔機能の〕清らかさ(感官機能)としてある〔認識の〕場所、(2―4)接触されたものとしてある接触、(2―5)感受されたものとしてある感受――ここ(現世)での再生としての生存における、これらの五つの法(性質)は、先(過去世)に作り為された行為の縁から〔発生する諸果となる〕。(3)諸々の〔認識の〕場所の完熟したものたることから、ここ(現世)に、(3―1)迷妄としてある無明、(3―2)実行としてある諸々の形成〔作用〕、(3―3)欲念としてある渇愛、(3―4)接近としてある執取、(3―5)思欲としてある生存――ここ(現世)での行為としての生存における、これらの五つの法(性質)は、未来(未来世)に、結生にとっての、諸縁となる。(4)未来(未来世)に、(4―1)結生としてある識別〔作用〕、(4―2)入〔胎〕としてある名前と形態、(4―3)〔機能の〕清らかさ(感官機能)としてある〔認識の〕場所、(4―4)接触されたものとしてある接触、(4―5)感受されたものとしてある感受――未来(未来世)での再生としての生存における、これらの五つの法(性質)は、ここ(現世)で作り為された行為の縁から〔発生する諸果となる〕。かくのごとく、これらの、四つの簡略を、三つの時(過去世・現世・未来世)を、三つの連鎖を、二十の行相によって、〔物事が〕縁によって生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)を、知り、見、了知し、理解する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「縁の遍き収取(理解・把握)における知慧が、法(性質)の止住の知恵となる」〔と〕。


 [346]法(性質)の止住の知恵についての釈示が、第四となる。


1.1.5 触知の知恵についての釈示


48.


 [347]【53】どのように、過去と未来と現在の諸法(性質)の、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、触知についての知恵となるのか。

 [348]それが何であれ、形態としてあるもので、過去と未来と現在のもの、あるいは、内なるもの、あるいは、外なるもの、あるいは、粗大なるもの、あるいは、微細なるもの、あるいは、下劣なるもの、あるいは、精妙なるもの、あるいは、それが、遠方にあり、現前にあるとして、一切の形態を、無常〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、苦痛〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、無我〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となる。

 [349]それが何であれ、感受〔作用〕としてあるもので……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるもので……。それが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるもので……。それが何であれ、識別〔作用〕としてあるもので、過去と未来と現在のもの、あるいは、内なるもの、あるいは、外なるもの、あるいは、粗大なるもの、あるいは、微細なるもの、あるいは、下劣なるもの、あるいは、精妙なるもの、あるいは、それが、遠方にあり、現前にあるとして、一切の識別〔作用〕を、無常〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、苦痛〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、無我〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となる。

 [350]眼を……略……。老と死を、〔すなわち〕過去と未来と現在の〔老と死〕を、無常〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、苦痛〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、無我〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となる。

 [351]「形態は、〔すなわち〕過去と未来と現在の〔形態〕は、滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきの義(意味)によって、無我である」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、触知についての知恵となる。「感受〔作用〕は……略……。「表象〔作用〕は……略……。「諸々の形成作用〔作用〕は……略……。「識別〔作用〕は……略……。「眼は……略……。「老と死は、〔すなわち〕過去と未来と現在の〔老と死〕は、滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきの義(意味)によって、無我である」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、触知についての知恵となる。

 [352]「形態は、〔すなわち〕過去と未来と現在の〔形態〕は、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、触知についての知恵となる。「感受〔作用〕は……略……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成作用〔作用〕は……。「識別〔作用〕は……。「眼は……略……。「老と死は、〔すなわち〕過去と未来と現在の〔老と死〕は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、触知についての知恵となる。

 [353]【54】「生という縁から、老と死がある。生が存していないとき、老と死は存することがない」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、触知についての知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、「生という縁から、老と死がある。生が存していないとき、老と死は存することがない」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、触知についての知恵となる。「生存という縁から、生がある。〔生存が〕存していないとき……略……。「執取という縁から、生存がある。〔執取が〕存していないとき……略……。「渇愛という縁から、執取がある。〔渇愛が〕存していないとき……略……。「感受という縁から、渇愛がある。〔感受が〕存していないとき……略……。「接触という縁から、感受がある。〔接触が〕存していないとき……略……。「六つの〔認識の〕場所という縁から、接触がある。〔六つの認識の場所が〕存していないとき……略……。「名前と形態という縁から、六つの〔認識の〕場所がある。〔名前と形態が〕存していないとき……略……。「識別〔作用〕という縁から、名前と形態がある。〔識別作用が〕存していないとき……略……。「諸々の形成〔作用〕という縁から、識別〔作用〕がある。〔諸々の形成作用が〕存していないとき……略……。「無明という縁から、諸々の形成〔作用〕がある。無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕は存することがない」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、触知についての知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、「無明という縁から、諸々の形成〔作用〕がある。無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕は存することがない」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、触知についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「過去と未来と現在の諸法(性質)の、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、触知についての知恵となる」〔と〕。


 [354]触知の知恵についての釈示が、第五となる。


1.1.6 生成と衰微の知恵についての釈示


49.


 [355]どのように、現在の諸法(性質)の、変化の随観における知慧が、生成と衰微の随観についての知恵となるのか。生じた形態が、現在の〔法〕であり、その〔生じた形態〕の、発現の特相が、生成であり、変化の特相が、衰微であり、〔その〕随観が、知恵となる。生じた感受〔作用〕が……。生じた表象〔作用〕が……。生じた諸々の形成〔作用〕が……。生じた識別〔作用〕が……。生じた眼が……略……。生じた生存が、現在の〔法〕であり、その〔生じた生存〕の、発現の特相が、生成であり、変化の特相が、衰微であり、〔その〕随観が、知恵となる。


50.


 [356]〔心身を構成する〕五つの範疇(五蘊)の、生成を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。衰微を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。生成と衰微を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。〔心身を構成する〕五つの範疇の、生成を見ている者は、二十五の特相を見る。衰微を見ている者は、二十五の特相を【55】見る。生成と衰微を見ている者は、五十の特相を見る。

 [357]形態の範疇の、生成を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。衰微を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。生成と衰微を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。感受〔作用〕の範疇の……略……。表象〔作用〕の範疇の……略……。諸々の形成〔作用〕の……略……。識別〔作用〕の範疇の、生成を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。衰微を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。生成と衰微を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。形態の範疇の、生成を見ている者は、五つの特相を見る。衰微を見ている者は、五つの特相を見る。生成と衰微を見ている者は、十の特相を見る。感受〔作用〕の範疇の……略……。表象〔作用〕の範疇の……。諸々の形成〔作用〕の範疇の……。識別〔作用〕の範疇の、生成を見ている者は、五つの特相を見る。衰微を見ている者は、五つの特相を見る。生成と衰微を見ている者は、十の特相を見る。

 [358]形態の範疇の、生成を見ている者は、どのような五つの特相を見るのか。(1)「無明の集起から、形態の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、形態の範疇の、生成を見る。(2)「渇愛の集起から、形態の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、形態の範疇の、生成を見る。(3)「行為の集起から、形態の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、形態の範疇の、生成を見る。(4)「食(栄養)の集起から、形態の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、形態の範疇の、生成を見る。(5)〔彼は〕発現の特相を見ている者としてもまた、形態の範疇の、生成を見る。形態の範疇の、生成を見ている者は、これらの五つの特相を見る。

 [359]衰微を見ている者は、どのような五つの特相を見るのか。(6)「無明の止滅から、形態の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、形態の範疇の、衰微を見る。(7)「渇愛の止滅から、形態の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、形態の範疇の、衰微を見る。(8)「行為の止滅から、形態の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、形態の範疇の、衰微を見る。(9)「食(栄養)の止滅から、形態の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、形態の範疇の、衰微を【56】見る。(10)〔彼は〕変化の特相を見ている者としてもまた、形態の範疇の、衰微を見る。形態の範疇の、衰微を見ている者は、これらの五つの特相を見る。生成と衰微を見ている者は、これらの十の特相を見る。

 [360]感受〔作用〕の範疇の、生成を見ている者は、どのような五つの特相を見るのか。(11)「無明の集起から、感受〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、生成を見る。(12)「渇愛の集起から、感受〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、生成を見る。(13)「行為の集起から、感受〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、生成を見る。(14)「食の集起から、感受〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、生成を見る。(15)〔彼は〕発現の特相を見ている者としてもまた、感受〔作用〕の範疇の、生成を見る。感受〔作用〕の範疇の、生成を見ている者は、これらの五つの特相を見る。

 [361]衰微を見ている者は、どのような五つの特相を見るのか。(16)「無明の止滅から、感受〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、衰微を見る。(17)「渇愛の止滅から、感受〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、衰微を見る。(18)「行為の止滅から、感受〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、衰微を見る。(19)「食の止滅から、感受〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、衰微を見る。(20)〔彼は〕変化の特相を見ている者としてもまた、感受〔作用〕の範疇の、衰微を見る。感受〔作用〕の範疇の、衰微を見ている者は、これらの五つの特相を見る。生成と衰微を見ている者は、これらの十の特相を見る。

 [362]表象〔作用〕の範疇の……略……。諸々の形成〔作用〕の範疇の……略……。識別〔作用〕の範疇の、生成を見ている者は、どのような五つの特相を見るのか。(41)「無明の集起から、識別〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、識別〔作用〕の範疇の、生成を見る。(42)「渇愛の集起から、識別〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、識別〔作用〕の範疇の、生成を見る。(43)「行為の集起から、識別〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、識別〔作用〕の範疇の、生成を見る。(44)「食の集起から、識別〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、識別〔作用〕の範疇の、【57】生成を見る。(45)〔彼は〕発現の特相を見ている者としてもまた、識別〔作用〕の範疇の、生成を見る。識別〔作用〕の範疇の、生成を見ている者は、これらの五つの特相を見る。

 [363]衰微を見ている者は、どのような五つの特相を見るのか。(46)「無明の止滅から、識別〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、識別〔作用〕の範疇の、衰微を見る。(47)「渇愛の止滅から、識別〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、識別〔作用〕の範疇の、衰微を見る。(48)「行為の止滅から、識別〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、識別〔作用〕の範疇の、衰微を見る。(49)「食の止滅から、識別〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、識別〔作用〕の範疇の、衰微を見る。(50)〔彼は〕変化の特相を見ている者としてもまた、識別〔作用〕の範疇の、衰微を見る。識別〔作用〕の範疇の、衰微を見ている者は、これらの五つの特相を見る。生成と衰微を見ている者は、これらの十の特相を見る。

 [364]〔心身を構成する〕五つの範疇の、生成を見ている者は、これらの二十五の特相を見る。衰微を見ている者は、これらの二十五の特相を見る。生成と衰微を見ている者は、これらの五十の特相を見る。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「現在の諸法(性質)の、変化の随観における知慧が、生成と衰微の随観についての知恵となる」〔と〕。形態の範疇は、食の集起であり、感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕の三つの範疇は、接触の集起であり、識別〔作用〕の範疇は、名前と形態の集起である。


 [365]生成と衰微の知恵についての釈示が、第六となる。


1.1.7 滅壊の随観の知恵についての釈示


51.


 [366]どのように、対象(所縁)を審慮して〔そののち〕、滅壊の随観における知慧が、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)についての知恵となるのか。形態を対象とすることから、心は、生起しては破壊される。その対象を審慮して〔そののち〕、その心の、滅壊を随観する。

 [367]「随観する」とは、どのように、随観するのか。無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。苦痛〔の観点〕から随観し、安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から【58】随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない。厭離し、喜悦しない。離貪し、貪欲しない。止滅させ、集起させない。放棄し、執取しない。


52.


 [368]無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を捨棄し、無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を捨棄し、厭離している者は、喜悦を捨棄し、離貪している者は、貪欲を捨棄し、止滅している者は、集起を捨棄し、放棄している者は、執取を捨棄する。

 [369]感受〔作用〕を対象とすることから……略……。表象〔作用〕を対象とすることから……。諸々の形成〔作用〕を対象とすることから……。識別〔作用〕を対象とすることから……。眼を……略……。老と死を対象とすることから、心は、生起しては破壊される。その対象を審慮して〔そののち〕、その心の、滅壊を随観する。「随観する」とは、どのように、随観するのか。無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。苦痛〔の観点〕から随観し、安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない。厭離し、喜悦しない。離貪し、貪欲しない。止滅させ、集起させない。放棄し、執取しない。

 [370]無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を捨棄し、無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を捨棄し、厭離している者は、喜悦を捨棄し、離貪している者は、貪欲を捨棄し、止滅している者は、集起を捨棄し、放棄している者は、執取を捨棄する。


 [371]〔しかして、詩偈に言う〕「まさしく、しかして、事態の転移が、さらには、知慧による還転が、まさしく、かつまた、傾注の力が、審慮の〔あるがままの〕観察である。

 [372]対象に付従することで〔過去と未来の〕両者を一つに定め置くこと、止滅について信念したことが、衰微の特相の〔あるがままの〕観察である。

 [373]しかして、対象を審慮して〔そののち〕、さらには、滅壊を随観する。しかして、空〔の観点〕からの現起が、向上の知慧たる〔あるがままの〕観察である。

 [374]三つの随観(無常の随観・苦痛の随観・無我の随観)に巧みな智ある者は、かつまた、四つの〔あるがままの〕観察(厭離の随観・離貪の随観・止滅の随観・放棄の随観)に〔巧みな智ある者は〕、三つの現起(滅尽の随観・衰微の随観・空性の随観)に巧みな智あることから、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない」と。


 [375]それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「対象を審慮して〔そののち〕、滅壊の随観における知慧が、〔あるがままの〕観察についての知恵となる」〔と〕。

 [376]滅壊の随観の知恵についての釈示が、第七となる。


1.1.8 危険の知慧についての釈示


53.


 [377]【59】どのように、恐怖の現起における知慧が、危険(患)についての知恵となるのか。「生起(再生)は、恐怖である」と、恐怖の現起における知慧が、危険についての知恵となる。「転起されたもの(所与的世界)は、恐怖である」と、恐怖の現起における知慧が、危険についての知恵となる。「形相(概念把握)は、恐怖である」と……略……。「実行(業を作ること)は、恐怖である」と……略……。「結生は、恐怖である」と……。「境遇(趣:死後に赴く所)は、恐怖である」と……。「発現は、恐怖である」と……。「再生は、恐怖である」と……。「生(出生)は、恐怖である」と……。「老は、恐怖である」と……。「病は、恐怖である」と……。「死は、恐怖である」と……。「憂いは、恐怖である」と……。「嘆きは、恐怖である」と……。「葛藤は、恐怖である」と、恐怖の現起における知慧が、危険についての知恵となる。

 [378]「生起なきは、平安である」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起されたものでないものは、平安である」と、寂静の境処についての知恵となる……略……。「葛藤なきは、平安である」と、寂静の境処についての知恵となる。

 [379]「生起は、恐怖である。生起なきは、平安である」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起されたものは、恐怖である。転起されたものでないものは、平安である」と、寂静の境処についての知恵となる……略……。「葛藤は、恐怖である。葛藤なきは、平安である」と、寂静の境処についての知恵となる。

 [380]「生起は、苦痛である」と、恐怖の現起における知慧が、危険についての知恵となる。「転起されたものは、苦痛である」と、恐怖の現起における知慧が、危険についての知恵となる……略……。「葛藤は、苦痛である」と、恐怖の現起における知慧が、危険についての知恵となる。

 [381]「生起なきは、安楽である」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起されたものでないものは、安楽である」と、寂静の境処についての知恵となる……略……。「葛藤なきは、安楽である」と、寂静の境処についての知恵となる。

 [382]「生起は、苦痛である。生起なきは、安楽である」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起されたものは、苦痛である。転起されたものでないものは、安楽である」と、寂静の境処についての知恵となる……略……。「葛藤は、苦痛である。葛藤なきは、安楽である」と、寂静の境処についての知恵となる。

 [383]「生起は、〔世〕財を有するものである」と、恐怖の現起における知慧が、危険についての知恵となる。「転起されたものは、〔世〕財を有するものである」と、恐怖の現起における知慧が、危険についての知恵となる……略……。「葛藤は、〔世〕財を有するものである」と、恐怖の現起における知慧が、危険についての知恵となる。

 [384]「生起なきは、〔世〕財なきものである」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起されたものでないものは、〔世〕財なきものである」と、寂静の境処についての知恵となる……略……。「葛藤なきは、〔世〕財なきものである」と、寂静の境処についての知恵となる。

 [385]「生起は、〔世〕財を有するものである。生起なきは、〔世〕財なきものである」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起されたものは、〔世〕財を有するものである。転起されたものでないものは、〔世〕財なきものである」と、【60】寂静の境処についての知恵となる……略……。「葛藤は、〔世〕財を有するものである。葛藤なきは、〔世〕財なきものである」と、寂静の境処についての知恵となる。

 [386]「生起は、諸々の形成〔作用〕である」と、恐怖の現起における知慧が、危険についての知恵となる。「転起されたものは、諸々の形成〔作用〕である」と、恐怖の現起における知慧が、危険についての知恵となる……略……。「葛藤は、諸々の形成〔作用〕である」と、恐怖の現起における知慧が、危険についての知恵となる。

 [387]「生起なきは、涅槃である」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起されたものでないものは、涅槃である」と、寂静の境処についての知恵となる……略……。「葛藤なきは、涅槃である」と、寂静の境処についての知恵となる。

 [388]「生起は、諸々の形成〔作用〕である。生起なきは、涅槃である」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起されたものは、諸々の形成〔作用〕である。転起されたものでないものは、涅槃である」と、寂静の境処についての知恵となる……略……。「葛藤は、諸々の形成〔作用〕である。葛藤なきは、涅槃である」と、寂静の境処についての知恵となる。


 [389]〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、生起を、さらには、転起されたものを、形相を、実行を、結生を、『苦痛である』と見る。これは、危険についての知恵である。

 [390]生起なきを、転起されたものでないものを、形相ならざるもの(無相)を、実行ならざるものを、結生ならざるものを、しかして、『安楽である』と〔見る〕。これは、寂静の境処についての知恵である。

 [391]この危険についての知恵は、五つの境位において生まれ、五つの境位ある寂静の境処を、十の知恵ある〔寂静の境処〕を、覚知し、〔危険と寂静の境処の〕二つの知恵に巧みな智あることから、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない」と。


 [392]それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「恐怖の現起における知慧が、危険についての知恵となる」〔と〕。

 [393]危険の知恵についての釈示が、第八となる。


1.1.9 諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵についての釈示


54.


 [394]どのように、解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨(行捨)についての知恵となるのか。生起(再生)の解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。転起されたもの(所与的世界)の解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。形相(概念把握)の解き放ちを欲することを……略……。実行(業を作ること)の解き放ちを欲することを……。結生の解き放ちを欲することを……。境遇(死後に赴く所)の解き放ちを欲することを……。発現の解き放ちを欲することを……。再生の解き放ちを欲することを……。生(出生)の解き放ちを欲することを……。老の解き放ちを欲することを……。病の解き放ちを欲することを……。死の解き放ちを欲することを……。憂いの解き放ちを欲することを……。嘆きの解き放ちを欲することを……。葛藤の解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。

 [395]「生起は、苦痛である」と、解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。「転起されたものは、苦痛である」と、解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、【61】確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる……略……。「葛藤は、苦痛である」と、解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。

 [396]「生起は、恐怖である」と、解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。「転起されたものは、恐怖である」と、解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる……略……。「葛藤は、恐怖である」と、解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。

 [397]「生起は、〔世〕財を有するものである」と、解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。「転起されたものは、〔世〕財を有するものである」と、解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる……略……。「葛藤は、〔世〕財を有するものである」と、解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。

 [398]「生起は、諸々の形成〔作用〕である」と、解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。「転起されたものは、諸々の形成〔作用〕である」と、解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる……略……。「葛藤は、諸々の形成〔作用〕である」と、解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。

 [399]生起は、諸々の形成〔作用〕であり、それらの諸々の形成〔作用〕を放捨する、ということで、諸々の形成〔作用〕の放捨となる。しかして、それらが、諸々の形成〔作用〕としてあるなら、さらには、それが、放捨としてあるなら、これらは、両者ともどもに、諸々の形成〔作用〕であり、それらの諸々の形成〔作用〕を放捨する、ということで、諸々の形成〔作用〕の放捨となる。転起されたものは、諸々の形成〔作用〕であり……略……。形相は、諸々の形成〔作用〕であり……。実行は、諸々の形成〔作用〕であり……。結生は、諸々の形成〔作用〕であり……。境遇は、諸々の形成〔作用〕であり……。発現は、諸々の形成〔作用〕であり……。再生は、諸々の形成〔作用〕であり……。生は、諸々の形成〔作用〕であり……。老は、諸々の形成〔作用〕であり……。病は、諸々の形成〔作用〕であり……。死は、諸々の形成〔作用〕であり……。憂いは、諸々の形成〔作用〕であり……。嘆きは、諸々の形成〔作用〕であり……。葛藤は、諸々の形成〔作用〕であり、それらの諸々の形成〔作用〕を放捨する、ということで、諸々の形成〔作用〕の放捨となる。しかして、それらが、諸々の形成〔作用〕としてあるなら、さらには、それが、放捨としてあるなら、これらは、両者ともどもに、諸々の形成〔作用〕であり、それらの諸々の形成〔作用〕を放捨する、ということで、諸々の形成〔作用〕の放捨となる。


55.


 [400]どれだけの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有るのか。八つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有る。凡夫のばあい、どれだけの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有るのか。学びある者(有学)のばあい、どれだけの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有るのか。貪欲を離れた者(阿羅漢)のばあい、どれだけの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有るのか。【62】(1)凡夫のばあい、二つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有る。(2)学びある者のばあい、三つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有る。(3)貪欲を離れた者のばあい、三つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有る。

 [401](1)凡夫のばあい、どのような二つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有るのか。凡夫は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、(1―1)あるいは、歓喜し、(1―2)あるいは、〔あるがままに〕観察する。凡夫のばあい、これらの二つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有る。(2)学びある者のばあい、どのような三つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有るのか。学びある者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、(2―1)あるいは、歓喜し、(2―2)あるいは、〔あるがままに〕観察し、(2―3)あるいは、審慮して〔そののち〕、果の入定に入定する。学びある者のばあい、これらの三つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有る。(3)貪欲を離れた者のばあい、どのような三つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有るのか。貪欲を離れた者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、(3―1)あるいは、〔あるがままに〕観察し、(3―2)あるいは、審慮して〔そののち〕、果の入定に入定し、(3―3)それを放捨して〔そののち〕、あるいは、空性の住によって〔住し〕、あるいは、無相の住によって〔住し〕、あるいは、無願の住によって住する。貪欲を離れた者のばあい、これらの三つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引が有る。


56.


 [402]どのように、凡夫のばあいと、学びある者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、一なることと成るのか。凡夫のばあい、諸々の形成〔作用〕の放捨を歓喜していると、心は汚れ、修行にとっての障害と成り、理解にとっての障りと成り、未来に、結生にとっての縁と成る。学びある者のばあいもまた、諸々の形成〔作用〕の放捨を歓喜していると、心は汚れ、修行にとっての障害と成り、より上なる理解にとっての障りと成り、未来に、結生にとっての縁と成る。このように、歓喜の義(意味)によって、凡夫のばあいと、学びある者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、一なることと成る。

 [403]どのように、凡夫のばあいと、学びある者のばあいと、貪欲を離れた者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、一なることと成るのか。凡夫は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、無常〔の観点〕からもまた、苦痛〔の観点〕からもまた、無我〔の観点〕からもまた、〔あるがままに〕観察する。学びある者もまた、諸々の形成〔作用〕の放捨を、無常〔の観点〕からもまた、苦痛〔の観点〕からもまた、無我〔の観点〕からもまた、〔あるがままに〕観察する。貪欲を離れた者もまた、諸々の形成〔作用〕の放捨を、【63】無常〔の観点〕からもまた、苦痛〔の観点〕からもまた、無我〔の観点〕からもまた、〔あるがままに〕観察する。このように、随観の義(意味)によって、凡夫のばあいと、学びある者のばあいと、貪欲を離れた者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、一なることと成る。

 [404]どのように、凡夫のばあいと、学びある者のばあいと、貪欲を離れた者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、種々なることと成るのか。凡夫のばあい、諸々の形成〔作用〕の放捨は、善なるものと成る。学びある者のばあいもまた、諸々の形成〔作用〕の放捨は、善なるものと成る。貪欲を離れた者のばあい、諸々の形成〔作用〕の放捨は、〔善悪が〕説き示されないもの(無記)と成る。このように、善なるものと〔善悪が〕説き示されないものの義(意味)によって、凡夫のばあいと、学びある者のばあいと、貪欲を離れた者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、種々なることと成る。

 [405]どのように、凡夫のばあいと、学びある者のばあいと、貪欲を離れた者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、種々なることと成るのか。凡夫のばあい、諸々の形成〔作用〕の放捨は、或る時には、善く見い出されたものと成り、或る時には、善く見い出されたものと成らない。学びある者のばあいもまた、諸々の形成〔作用〕の放捨は、或る時には、善く見い出されたものと成り、或る時には、善く見い出されたものと成らない。貪欲を離れた者のばあい、諸々の形成〔作用〕の放捨は、徹底して、善く見い出されたものと成る。このように、しかして、〔すでに〕見い出されたものの義(意味)によって、さらには、〔いまだ〕見い出されていないものの義(意味)によって、凡夫のばあいと、学びある者のばあいと、貪欲を離れた者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、種々なることと成る。

 [406]どのように、凡夫のばあいと、学びある者のばあいと、貪欲を離れた者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、種々なることと成るのか。凡夫は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、〔いまだ〕満足していないことから、〔あるがままに〕観察する。学びある者もまた、諸々の形成〔作用〕の放捨を、〔いまだ〕満足していないことから、〔あるがままに〕観察する。貪欲を離れた者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、〔すでに〕満足したことから、〔あるがままに〕観察する。このように、しかして、〔すでに〕満足したものの義(意味)によって、さらには、〔いまだ〕満足していないものの義(意味)によって、凡夫のばあいと、学びある者のばあいと、貪欲を離れた者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、種々なることと成る。

 [407]どのように、凡夫のばあいと、学びある者のばあいと、貪欲を離れた者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、種々なることと成るのか。凡夫は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)を捨棄するために、預流道の獲得という義(目的)のために、〔あるがままに〕観察する。学びある者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、三つの束縛するものが〔すでに〕捨棄されたことから、より上なる〔道〕の獲得という義(目的)のために、〔あるがままに〕観察する。貪欲を離れた者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れ(煩悩)が〔すでに〕捨棄されたことから、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)の安楽の住という義(目的)のために、〔あるがままに〕観察する。このように、しかして、〔すでに〕捨棄されたものの義(意味)によって、さらには、〔いまだ〕捨棄されていないものの義(意味)によって、凡夫のばあいと、学びある者のばあいと、貪欲を離れた者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、種々なることと成る。

 [408]【64】どのように、学びある者のばあいと、貪欲を離れた者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、種々なることと成るのか。学びある者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、あるいは、歓喜し、あるいは、〔あるがままに〕観察し、あるいは、審慮して〔そののち〕、果の入定に入定する。貪欲を離れた者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、あるいは、〔あるがままに〕観察し、あるいは、審慮して〔そののち〕、果の入定に入定し、それを放捨して〔そののち〕、あるいは、空性の住によって〔住し〕、あるいは、無相の住によって〔住し〕、あるいは、無願の住によって住する。このように、住の入定の義(意味)によって、学びある者のばあいと、貪欲を離れた者のばあいと、諸々の形成〔作用〕の放捨の、心の導引は、種々なることと成る。


57.


 [409]どれだけの諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔心の〕寂止(奢摩他・止)を所以に生起するのか。どれだけの諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)を所以に生起するのか。八つの諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔心の〕寂止を所以に生起する。十の諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔あるがままの〕観察を所以に生起する。

 [410]どのような八つの諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔心の〕寂止を所以に生起するのか。(1)第一の瞑想の獲得という義(目的)のために、〔五つの修行の〕妨害を審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(2)第二の瞑想の獲得という義(目的)のために、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念を審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(3)第三の瞑想の獲得という義(目的)のために、喜悦を審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(4)第四の瞑想の獲得という義(目的)のために、楽と苦を審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために、形態の表象を、障礙の表象を、種々なることの表象を、審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(6)識別無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(7)無所有なる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために、識別無辺なる〔認識の〕場所の表象を審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために、無所有なる〔認識の〕場所の表象を審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。これらの八つの諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔心の〕寂止を所以に生起する。

 [411]どのような十の諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔あるがままの〕観察を所以に生起するのか。【65】(1)預流道の獲得という義(目的)のために、生起(再生)を、転起されたもの(所与的世界)を、形相(概念把握)を、実行(業を作ること)を、結生を、境遇(死後に赴く所)を、発現を、再生を、生(出生)を、老を、病を、死を、憂いを、嘆きを、葛藤を、審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(2)預流果への入定という義(目的)のために、生起を、転起されたものを、形相を、実行を、結生を、審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(3)一来道の獲得という義(目的)のために……略……。(4)一来果への入定という義(目的)のために……。(5)不還道の獲得という義(目的)のために……略……。(6)不還果への入定という義(目的)のために……。(7)阿羅漢道の獲得という義(目的)のために、生起を、転起されたものを、形相を、実行を、結生を、境遇を、発現を、再生を、生を、老を、病を、死を、憂いを、嘆きを、葛藤を、審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(8)阿羅漢果への入定という義(目的)のために……略……。(9)空性の住への入定という義(目的)のために……略……。(10)無相の住への入定という義(目的)のために、生起を、転起されたものを、形相を、実行を、結生を、審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。これらの十の諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔あるがままの〕観察を所以に生起する。


58.


 [412]どれだけの諸々の形成〔作用〕の放捨が、善なるものであるのか。どれだけ〔の諸々の形成作用の放捨〕が、善ならざるものであるのか。どれだけ〔の諸々の形成作用の放捨〕が、〔善悪が〕説き示されないものであるのか。十五の諸々の形成〔作用〕の放捨が、善なるものである。三つ〔の諸々の形成作用の放捨〕(阿羅漢果への入定を目的とするもの・空性の住への入定を目的とするもの・無相の住への入定を目的とするもの)が、〔善悪が〕説き示されないものである。善ならざる諸々の形成〔作用〕の放捨は、存在しない。


 [413]〔しかして、詩偈に言う〕「審慮して〔そののち〕、確立する知慧は、八つのものが、心にとっての境涯(作用範囲)となる。凡夫のばあい、二つ〔の境涯〕が有り、学びある者のばあい、三つの境涯が〔有り〕、しかして、貪欲を離れた者のばあい、三つ〔の境涯〕が〔有り〕、それらによって、心は還転する。

 [414]〔心の〕統一にとっての諸縁となり、十のものが、知恵にとっての諸々の境涯となる。〔すなわち〕十八の諸々の形成〔作用〕の放捨があり、〔それらは〕三つの解脱(空性の解脱・無相の解脱・無願の解脱)にとっての諸縁となる。

 [415]これらの十八の行相ある知慧が、彼に蓄積されたなら、〔十八の〕諸々の形成〔作用〕の放捨について巧みな智ある者となり、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない」と。


 [416]それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「解き放ちを欲することを審慮して〔そののち〕、確立する知慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる」〔と〕。

 [417]諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵についての釈示が、第九となる。


1.1.10 〔新たな〕種姓と成る知恵についての釈示


59.


 [418]【66】どのように、外からの出起と還転における知慧が、〔新たな〕種姓と成る知恵(凡夫を脱却し有学と成る知恵)となるのか。生起を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものを征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。形相を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。実行を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。結生を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。境遇を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。発現を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。再生を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。老を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。病を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。死を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。憂いを征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。嘆きを征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。葛藤を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。外の形成〔作用〕の形相を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生起なきに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものでないものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる……略……。止滅の涅槃に跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。

 [419]生起を征服して、生起なきに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものを征服して、転起されたものでないものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。形相を征服して、形相ならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる……略……。外の形成〔作用〕の形相を征服して、止滅の涅槃に跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。

 [420]生起から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものから出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。形相から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。実行から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。結生から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。境遇から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。発現から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。再生から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。老から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。病から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。死から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。憂いから出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。嘆きから出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。葛藤から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。外の形成〔作用〕の形相から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生起なきに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものでないものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる……略……。止滅の涅槃に跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。

 [421]生起から出起して、生起なきに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものから出起して、転起されたものでないものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。形相から出起して、形相ならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。実行から出起して、【67】実行ならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。結生から出起して、結生ならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。境遇から出起して、境遇ならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。発現から出起して、発現ならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。再生から出起して、再生ならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生から出起して、生ならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。老から出起して、老ならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。病から出起して、病ならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。死から出起して、死ならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。憂いから出起して、憂いならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。嘆きから出起して、嘆きならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。葛藤から出起して、葛藤ならざるものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。外の形成〔作用〕の形相から出起して、止滅の涅槃に跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生起なきに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。

 [422]生起から還転する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものから還転する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる……略……。外の形成〔作用〕の形相から還転する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生起なきに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものでないものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる……略……。止滅の涅槃に跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。

 [423]生起から還転して、生起なきに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものから還転して、転起されたものでないものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる……略……。外の形成〔作用〕の形相から還転して、止滅の涅槃に跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。


60.


 [424]どれだけの〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の諸法(性質)が、〔心の〕寂止を所以に生起するのか。どれだけの〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の諸法(性質)が、〔あるがままの〕観察を所以に生起するのか。八つの〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の諸法(性質)が、〔心の〕寂止を所以に生起する。十の〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の諸法(性質)が、〔あるがままの〕観察を所以に生起する。

 [425]どのような八つの〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の諸法(性質)が、〔心の〕寂止を所以に生起するのか。(1)第一の瞑想の獲得という義(目的)のために、〔五つの修行の〕妨害を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(2)第二の瞑想の獲得という義(目的)のために、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(3)第三の瞑想の獲得という義(目的)のために、喜悦を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(4)第四の瞑想の獲得という義(目的)のために、楽と苦を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために、形態の表象を、障礙の表象を、種々なることの表象を、征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(6)識別無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(7)無所有なる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために、識別無辺なる〔認識の〕場所の表象を【68】征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のために、無所有なる〔認識の〕場所の表象を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。これらの八つの〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の諸法(性質)が、〔心の〕寂止を所以に生起する。

 [426]どのような十の〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の諸法(性質)が、〔あるがままの〕観察を所以に生起するのか。(1)預流道の獲得という義(目的)のために、生起を、転起されたものを、形相を、実行を、結生を、境遇を、発現を、再生を、生を、老を、病を、死を、憂いを、嘆きを、葛藤を、外の形成〔作用〕の形相を、征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(2)預流果への入定という義(目的)のために、生起を、転起されたものを、形相を、実行を、結生を、征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(3)一来道の獲得という義(目的)のために……略……。(4)一来果への入定という義(目的)のために……。(5)不還道の獲得という義(目的)のために……。(6)不還果への入定という義(目的)のために……。(7)阿羅漢道の獲得という義(目的)のために、生起を、転起されたものを、形相を、実行を、結生を、境遇を、発現を、再生を、生を、老を、病を、死を、憂いを、嘆きを、葛藤を、外の形成〔作用〕の形相を、征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(8)阿羅漢果への入定という義(目的)のために……。(9)空性の住への入定という義(目的)のために……。(10)無相の住への入定という義(目的)のために、生起を、転起されたものを、形相を、実行を、結生を、征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。これらの十の〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の諸法(性質)が、〔あるがままの〕観察を所以に生起する。

 [427]どれだけの〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の諸法(性質)が、善なるものであるのか。どれだけ〔の新たな種姓と成る知恵の諸法〕が、善ならざるものであるのか。どれだけ〔の新たな種姓と成る知恵の諸法〕が、〔善悪が〕説き示されないものであるのか。十五の〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の諸法(性質)が、善なるものである。三つ〔の新たな種姓と成る知恵の諸法〕(阿羅漢果への入定を義とするもの・空性の住への入定を義とするもの・無相の住への入定を義とするもの)が、〔善悪が〕説き示されないものである。善ならざる〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の諸法(性質)は、存在しない。


 [428]〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、〔世〕財を有するもの、〔世〕財なきものが、さらには、切願されたもの、切願されざるものが、さらには、束縛されたもの、束縛を離れたものが、さらには、出起したもの、出起せざるものがある。

 [429]八つのものが、〔心の〕統一にとっての諸縁となり、十のものが、知恵にとっての諸々の境涯となる。〔すなわち〕十八の〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の諸法(性質)があり、〔それらは〕三つの解脱(空性の解脱・無相の解脱・無願の解脱)にとっての諸縁となる。

 [430]これらの十八の行相ある知慧が、彼に蓄積されたなら、還転と出起について巧みな智ある者となり、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない」と。


 [431]それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「外からの出起と還転における知慧が、〔新たな〕種姓と成る知恵となる」〔と〕。

 [432]〔新たな〕種姓と成る知恵についての釈示が、第十となる。


1.1.11 道の知恵についての釈示


61.


 [433]【69】どのように、〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となるのか。預流道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、誤った見解から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となる」〔と〕。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、誤った思惟から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 [434]遍き収取(理解・和合)の義(意味)によって、正しい言葉が、誤った言葉から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 [435]等しく現起するものの義(意味)によって、正しい生業が、誤った生業から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 [436]浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、誤った生き方から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 [437]励起の義(意味)によって、正しい努力が、誤った努力から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 [438]現起の義(意味)によって、正しい気づきが、誤った気づきから出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 [439]〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、誤った〔心の〕統一から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 [440]一来道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が【70】……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの(結)から〔出起し〕、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕(瞋恚)という束縛するものから〔出起し〕、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習(随眠)から〔出起し〕、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕の悪習から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 [441]不還道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕の悪習から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 [442]阿羅漢道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、形態(色界)にたいする貪欲〔の思い〕から〔出起し〕、形態なき(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕から〔出起し〕、思量から〔出起し〕、高揚から〔出起し〕、無明から〔出起し〕、思量の悪習から〔出起し〕、生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、無明の悪習から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となる」〔と〕。


62.


 [443]〔しかして、詩偈に言う〕「生じたものによって、生じていないものを焼尽する(ジャーペーティ)。それによって、『瞑想(ジャーナ)』と説かれる。瞑想の解脱について巧みな智あることから、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない。

 [444]もし、〔心を〕定めて〔そののち〕、〔あるがままに〕観察するとおりに、もし、そのとおり、〔あるがままに〕観察しつつ、〔心を〕定めるなら、しかして、そのとき、〔あるがままに〕観察と〔心の〕寂止が有ったのであり、〔両者は〕等分のものとして〔転起し〕、双連のものとして転起する。

 [445]『諸々の形成〔作用〕は、苦痛である。涅槃は、安楽である』と見ることが、〔内と外の〕両者から出起したものとしての知慧が、不死の境処を体得させる。

 [446]解脱の性行を知り、種々なることと一なることについての熟知者は、〔見と修の〕二つの知恵の巧みな智あることから、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない」と。


 [447]それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における知慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 [448]道の知恵についての釈示が、第十一となる。


1.1.12 果の知恵についての釈示


63.


 [449]【71】どのように、専念〔努力〕の静息としての知慧が、果についての知恵となるのか。預流道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、誤った見解から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が静息したことから、正しい見解が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 [450]〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、誤った思惟から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が静息したことから、正しい思惟が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 [451]遍き収取(理解・和合)の義(意味)によって、正しい言葉が、誤った言葉から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が静息したことから、正しい言葉が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 [452]等しく現起するものの義(意味)によって、正しい生業が、誤った生業から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が静息したことから、正しい生業が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 [453]浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、誤った生き方から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が静息したことから、正しい生き方が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 [454]励起の義(意味)によって、正しい努力が、誤った努力から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が静息したことから、正しい努力が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 [455]現起の義(意味)によって、正しい気づきが、誤った気づきから出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が静息したことから、正しい気づきが生起する。これが、道にとっての、果となる。

 [456]〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、誤った〔心の〕統一から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が静息したことから、【72】正しい〔心の〕統一が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 [457]一来道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの(結)から〔出起し〕、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕(瞋恚)という束縛するものから〔出起し〕、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習(随眠)から〔出起し〕、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕の悪習から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が静息したことから、正しい〔心の〕統一が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 [458]不還道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕の悪習から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が静息したことから、正しい〔心の〕統一が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 [459]阿羅漢道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、形態(色界)にたいする貪欲〔の思い〕から〔出起し〕、形態なき(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕から〔出起し〕、思量から〔出起し〕、高揚から〔出起し〕、無明から〔出起し〕、思量の悪習から〔出起し〕、生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、無明の悪習から出起し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、諸々の範疇から出起し、さらには、外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が静息したことから、正しい〔心の〕統一が生起する。これが、道にとっての、果となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「専念〔努力〕の静息としての知慧が、果についての知恵となる」〔と〕。

 [460]果の知恵についての釈示が、第十二となる。


1.1.13 解脱の知恵についての釈示


64.


 [461]どのように、〔再生の〕道を断った者の随観における知慧が、解脱の知恵となるのか。預流道によって、身体が有るという見解(有身見:心身について「自己である」「自己のものである」と妄想し執着する実体論的見解)、疑惑〔の思い〕(疑)、戒や掟への執着(戒禁取)、見解の悪習(見随眠)、疑惑の悪習(疑随眠)が、〔すなわち〕自己の心の、〔これらの五つの〕付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が、正しく断絶されたものと成る。これらの五つの付随する〔心の〕汚れから、〔それらと〕共にある諸々の妄執から、心は解脱したもの成り、善く解脱したものと〔成る〕。【73】その解脱は、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「〔再生の〕道を断った者の随観における知慧が、解脱の知恵となる」〔と〕。

 [462]一来道によって、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕という束縛するもの、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕の悪習が、〔すなわち〕自己の心の、〔これらの四つの〕付随する〔心の〕汚れが、正しく断絶されたものと成る。これらの四つの付随する〔心の〕汚れから、〔それらと〕共にある諸々の妄執から、心は解脱したもの成り、善く解脱したものと〔成る〕。その解脱は、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「〔再生の〕道を断った者の随観における知慧が、解脱の知恵となる」〔と〕。

 [463]不還道によって、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕という束縛するもの、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕の悪習が、〔すなわち〕自己の心の、〔これらの四つの〕付随する〔心の〕汚れが、正しく断絶されたものと成る。これらの四つの付随する〔心の〕汚れから、〔それらと〕共にある諸々の妄執から、心は解脱したもの成り、善く解脱したものと〔成る〕。その解脱は、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「〔再生の〕道を断った者の随観における知慧が、解脱の知恵となる」〔と〕。

 [464]阿羅漢道によって、形態(色界)にたいする貪欲〔の思い〕、形態なき(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕、思量、高揚、無明、思量の悪習、生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、無明の悪習が、〔すなわち〕自己の心の、〔これらの八つの〕付随する〔心の〕汚れが、正しく断絶されたものと成る。これらの八つの付随する〔心の〕汚れから、〔それらと〕共にある諸々の妄執から、心は解脱したもの成り、善く解脱したものと〔成る〕。その解脱は、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「〔再生の〕道を断った者の随観における知慧が、解脱の知恵となる」〔と〕。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「〔再生の〕道を断った者の随観における知慧が、解脱の知恵となる」〔と〕。

 [465]解脱の知恵についての釈示が、第十三となる。


1.1.14 注視の知恵についての釈示


65.


 [466]どのように、そのとき生まれ来た諸法(性質)を見ることにおける知慧が、注視についての知恵となるのか。預流道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、そのとき生まれ来たものとなる。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、そのとき生まれ来たものとなる。遍き収取(理解・和合)の義(意味)によって、正しい言葉が、そのとき生まれ来たものとなる。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい生業が、そのとき生まれ来たものとなる。【74】浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、そのとき生まれ来たものとなる。励起の義(意味)によって、正しい努力が、そのとき生まれ来たものとなる。現起の義(意味)によって、正しい気づきが、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、そのとき生まれ来たものとなる。

 [467]現起の義(意味)によって、気づきという正覚の支分(念覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。精査の義(意味)によって、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。励起の義(意味)によって、精進という正覚の支分(精進覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。充満の義(意味)によって、喜悦という正覚の支分(喜覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。寂止の義(意味)によって、安息という正覚の支分(軽安覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一という正覚の支分(定覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。審慮の義(意味)によって、放捨という正覚の支分(捨覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。

 [468]不信にたいする、不動の義(意味)によって、信の力が、そのとき生まれ来たものとなる。怠慢にたいする、不動の義(意味)によって、精進の力が、そのとき生まれ来たものとなる。放逸にたいする、不動の義(意味)によって、気づきの力が、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)によって、〔心の〕統一の力が、そのとき生まれ来たものとなる。無明にたいする、不動の義(意味)によって、知慧の力が、そのとき生まれ来たものとなる。

 [469]信念の義(意味)によって、信の機能が、そのとき生まれ来たものとなる。励起の義(意味)によって、精進の機能が、そのとき生まれ来たものとなる。現起の義(意味)によって、気づきの機能が、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕統一の機能が、そのとき生まれ来たものとなる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能が、そのとき生まれ来たものとなる。

 [470]優位主要性の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、そのとき生まれ来たものとなる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、そのとき生まれ来たものとなる。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、そのとき生まれ来たものとなる。因の義(意味)によって、〔八つの聖なる〕道が、そのとき生まれ来たものとなる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、そのとき生まれ来たものとなる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、そのとき生まれ来たものとなる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、そのとき生まれ来たものとなる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕寂止が、そのとき生まれ来たものとなる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、そのとき生まれ来たものとなる。一味の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察が、そのとき生まれ来たものとなる。〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の寂止とあるがままの観察)が、そのとき生まれ来たものとなる。統御の義(意味)によって、戒の清浄が、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄が、そのとき生まれ来たものとなる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、そのとき生まれ来たものとなる。解き放ちの義(意味)によって、解脱が、そのとき生まれ来たものとなる。理解の義(意味)によって、明知が、そのとき生まれ来たものとなる。遍捨の義(意味)によって、解脱が、そのとき生まれ来たものとなる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、そのとき生まれ来たものとなる。

 [471]【75】欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。接触が、結集の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。感受が、集結の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕統一が、面前の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。気づきが、優位主要性の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。知慧が、それをより上とするの義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。解脱が、真髄の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。〔入定から〕出起して〔そののち〕、〔あるがままに〕注視する。これらの諸法(性質)が、そのとき生まれ来たものとなる。

 [472]預流果の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、そのとき生まれ来たものとなる。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、そのとき生まれ来たものとなる……略……。静息の義(意味)によって、生起なきについての知恵が、そのとき生まれ来たものとなる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。接触が、結集の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。感受が、集結の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕統一が、面前の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。気づきが、優位主要性の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。知慧が、それをより上とするの義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。解脱が、真髄の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。〔入定から〕出起して〔そののち〕、〔あるがままに〕注視する。これらの諸法(性質)が、そのとき生まれ来たものとなる。

 [473]一来道の瞬間において……略……。一来果の瞬間において……略……。不還道の瞬間において……略……。不還果の瞬間において……略……。阿羅漢道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、そのとき生まれ来たものとなる……略……。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、そのとき生まれ来たものとなる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる……略……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。〔入定から〕出起して〔そののち〕、〔あるがままに〕注視する。これらの諸法(性質)が、そのとき生まれ来たものとなる。

 [474]阿羅漢果の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、そのとき生まれ来たものとなる……略……。静息の義(意味)によって、生起なきについての知恵が、そのとき生まれ来たものとなる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、そのとき【76】生まれ来たものとなる……略……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。〔入定から〕出起して〔そののち〕、〔あるがままに〕注視する。これらの諸法(性質)が、そのとき生まれ来たものとなる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「そのとき生まれ来た諸法(性質)を見ることにおける知慧が、注視についての知恵となる」〔と〕。

 [475]注視の知恵についての釈示が、第十四となる。


1.1.15 〔認識の〕基盤の種々なることの知恵についての釈示


66.


 [476]どのように、内なるものの〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、〔認識の〕基盤(認識作用)の種々なることについての知恵となるのか。どのように、内なる諸法(性質)を定め置くのか。眼を、内なるものと定め置く。耳を、内なるものと定め置く。鼻を、内なるものと定め置く。舌を、内なるものと定め置く。身を、内なるものと定め置く。意を、内なるものと定め置く。

 [477]どのように、眼を、内なるものと定め置くのか。「眼は、無明から発生したものである」と定め置く。「眼は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「眼は、行為から発生したものである」と定め置く。「眼は、食(栄養)から発生したものである」と定め置く。「眼は、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「眼は、生起したものである」と定め置く。「眼は、生まれ来たものである」と定め置く。「眼は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。眼を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「眼は、常久ならざるものであり、常恒ならざるものであり、変化の法(性質)である」と定め置く。「眼は、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。眼を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず、苦痛〔の観点〕から定め置き、安楽〔の観点〕から〔定め置か〕ず、無我〔の観点〕から定め置き、自己〔の観点〕から〔定め置か〕ず、厭離し、喜悦せず、離貪し、【77】貪欲せず、止滅させ、集起させず、放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から定め置いている者は、常住の表象を捨棄する。苦痛〔の観点〕から定め置いている者は、安楽の表象を捨棄する。無我〔の観点〕から定め置いている者は、自己の表象を捨棄する。厭離している者は、喜悦を捨棄する。離貪している者は、貪欲を捨棄する。止滅している者は、集起を捨棄する。放棄している者は、執取を捨棄する。このように、眼を、内なるものと定め置く。

 [478]どのように、耳を、内なるものと定め置くのか。「耳は、無明から発生したものである」と定め置く……略……。このように、耳を、内なるものと定め置く。

 [479]どのように、鼻を、内なるものと定め置くのか。「鼻は、無明から発生したものである」と定め置く……略……。このように、鼻を、内なるものと定め置く。

 [480]どのように、舌を、内なるものと定め置くのか。「舌は、無明から発生したものである」と定め置く。「舌は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「舌は、行為から発生したものである」と定め置く。「舌は、食から発生したものである」と定め置く。「舌は、四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「舌は、生起したものである」と定め置く。「舌は、生まれ来たものである」と定め置く。「舌は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。舌を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「舌は、常久ならざるものであり、常恒ならざるものであり、変化の法(性質)である」と定め置く。「舌は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。舌を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず……略……放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から定め置いている者は、常住の表象を捨棄する……略……。放棄している者は、執取を捨棄する。このように、舌を、内なるものと定め置く。

 [481]どのように、身を、内なるものと定め置くのか。「身は、無明から発生したものである」と定め置く。「身は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「身は、行為から発生したものである」と定め置く。「身は、食から発生したものである」と定め置く。「身は、四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「身は、生起したものである」と定め置く。「身は、生まれ来たものである」と定め置く。「身は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。身を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「身は、常久ならざるものであり、常恒ならざるものであり、変化の法(性質)である」と定め置く。「身は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。身を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず……略……放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から定め置いている者は、常住の表象を捨棄する……略……。放棄している者は、執取を捨棄する。このように、身を、内なるものと定め置く。

 [482]どのように、意を、内なるものと定め置くのか。「意は、無明から発生したものである」と定め置く。「意は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「意は、行為から発生したものである」と定め置く。「意は、食から発生したものである」と定め置く。「意は、四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「意は、生まれ来たものである」と定め置く。「意は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。意を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「意は、常久ならざるものであり、常恒ならざるものであり、変化の法(性質)である」と定め置く。「意は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。意を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず、苦痛〔の観点〕から定め置き、安楽〔の観点〕から〔定め置か〕ず、無我〔の観点〕から定め置き、自己〔の観点〕から〔定め置か〕ず、厭離し、喜悦せず、離貪し、貪欲せず、止滅させ、集起させず、放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から定め置いている者は、常住の表象を捨棄する。苦痛〔の観点〕から定め置いている者は、安楽の表象を捨棄する。無我〔の観点〕から定め置いている者は、自己の表象を捨棄する。厭離している者は、喜悦を捨棄する。離貪している者は、貪欲を捨棄する。止滅している者は、集起を捨棄する。放棄している者は、執取を捨棄する。このように、意を、内なるものと定め置く。このように、内なる諸法(性質)を定め置く。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「内なるものの〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、〔認識の〕基盤(認識作用)の種々なることについての知恵となる」〔と〕。

 [483]〔認識の〕基盤の種々なることの知恵についての釈示が、第十五となる。


1.1.16 〔認識の〕境涯の種々なることの知恵についての釈示


67.


 [484]どのように、外なるものの〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、〔認識の〕境涯(認識範囲)の種々なることについての知恵となるのか。どのように、外なる諸法(性質)を定め置くのか。諸々の形態を、外なるものと定め置く。諸々の音声を、外なるものと定め置く。諸々の臭香を、外なるものと定め置く。諸々の味感を、外なるものと定め置く。諸々の感触を、外なるものと定め置く。諸々の法(意の対象)を、外なるものと定め置く。

 [485]どのように、諸々の形態を、外なるものと定め置くのか。「諸々の形態は、無明から発生したものである」と定め置く。「諸々の形態は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「諸々の形態は、行為から発生したものである」と定め置く。「諸々の形態は、食(栄養)から発生したものである」と定め置く。「諸々の形態は、四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「諸々の形態は、生起したものである」と定め置く。「諸々の形態は、生まれ来たものである」と定め置く。「諸々の形態は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。諸々の形態を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「諸々の形態は、常久ならざるものであり、常恒ならざるものであり、変化の法(性質)である」と【78】定め置く。「諸々の形態は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。諸々の形態を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず、苦痛〔の観点〕から定め置き、安楽〔の観点〕から〔定め置か〕ず、無我〔の観点〕から定め置き、自己〔の観点〕から〔定め置か〕ず、厭離し、喜悦せず、離貪し、貪欲せず、止滅させ、集起させず、放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から定め置いている者は、常住の表象を捨棄する。苦痛〔の観点〕から定め置いている者は、安楽の表象を捨棄する。無我〔の観点〕から定め置いている者は、自己の表象を捨棄する。厭離している者は、喜悦を捨棄する。離貪している者は、貪欲を捨棄する。止滅している者は、集起を捨棄する。放棄している者は、執取を捨棄する。このように、諸々の形態を、外なるものと定め置く。

 [486]どのように、諸々の音声を、外なるものと定め置くのか。「諸々の音声は……略……。四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「諸々の音声は、生起したものである」と定め置く。「諸々の音声は、生まれ来たものである」と定め置く。「諸々の音声は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。諸々の音声を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「諸々の音声は、常久ならざるものであり、常恒ならざるものであり、変化の法(性質)である」と定め置く。「諸々の音声は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。諸々の音声を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず……略……。このように、諸々の音声を、外なるものと定め置く。

 [487]どのように、諸々の臭香を、外なるものと定め置くのか。「諸々の臭香は、無明から発生したものである」と定め置く。「諸々の臭香は、渇愛から発生したものである」と定め置く……略……。このように、諸々の臭香を、外なるものと定め置く。どのように、諸々の味感を、外なるものと定め置くのか。「諸々の味感は、無明から発生したものである」と定め置く。「諸々の味感は、渇愛から発生したものである」と定め置く……略……。このように、諸々の味感を、外なるものと定め置く。

 [488]どのように、諸々の感触を、外なるものと定め置くのか。「諸々の感触は、無明から発生したものである」と定め置く。「諸々の感触は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「諸々の感触は、行為から発生したものである」と定め置く。「諸々の感触は、食から発生したものである」と定め置く。「諸々の感触は、四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「諸々の感触は、生起したものである」と定め置く。「諸々の感触は、生まれ来たものである」と定め置く……略……。このように、諸々の感触を、外なるものと定め置く。

 [489]どのように、諸々の法(意の対象)を、外なるものと定め置くのか。「諸々の法(意の対象)は、無明から発生したものである」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、行為から発生したものである」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、食から発生したものである」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、生起したものである」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、生まれ来たものである」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。諸々の法(意の対象)を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「諸々の法(意の対象)は、常久ならざるものであり、常恒ならざるものであり、変化の法(性質)である」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。諸々の法(意の対象)を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず、苦痛〔の観点〕から定め置き、安楽〔の観点〕から〔定め置か〕ず、無我〔の観点〕から定め置き、自己〔の観点〕から〔定め置か〕ず、厭離し、喜悦せず、離貪し、貪欲せず、止滅させ、集起させず、放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から定め置いている者は、常住の表象を捨棄する。苦痛〔の観点〕から定め置いている者は、安楽の表象を捨棄する。無我〔の観点〕から定め置いている者は、自己の表象を捨棄する。厭離している者は、喜悦を捨棄する。離貪している者は、貪欲を捨棄する。止滅している者は、集起を捨棄する。放棄している者は、執取を捨棄する。このように、諸々の法(意の対象)を、外なるものと定め置く。このように、外なる諸法(性質)を定め置く。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「外なるものの〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、〔認識の〕境涯(認識範囲)の種々なることについての知恵となる」〔と〕。

 [490]〔認識の〕境涯の種々なることの知恵についての釈示が、第十六となる。


1.1.17 性行の種々なることの知恵についての釈示


68.


 [491]【79】どのように、性行の〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、性行の種々なることについての知恵となるのか。「性行」とは、三つの性行がある。(1)識別〔作用〕の性行、(2)無知の性行、(3)知恵の性行である。

 [492](1)どのようなものが、識別〔作用〕の性行であるのか。見るという義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、諸々の形態における、識別〔作用〕の性行である。見るという義(目的)あるものが、眼の識別〔作用〕(眼識)が、諸々の形態における、識別〔作用〕の性行である。〔対象が〕見られたことから、〔心を〕固定することから、報い(異熟)としての意の界域(意界)が、諸々の形態における、識別〔作用〕の性行である。〔心が〕固定されたことから、報いとしての意の識別〔作用〕の界域(意識界)が、諸々の形態における、識別〔作用〕の性行である。

 [493]聞くという義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、諸々の音声における、識別〔作用〕の性行である。聞くという義(目的)あるものが、耳の識別〔作用〕(耳識)が、諸々の音声における、識別〔作用〕の性行である。〔対象が〕聞かれたことから、〔心を〕固定することから、報いとしての意の界域が、諸々の音声における、識別〔作用〕の性行である。〔心が〕固定されたことから、報いとしての意の識別〔作用〕の界域が、諸々の音声における、識別〔作用〕の性行である。

 [494]嗅ぐという義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、諸々の臭香における、識別〔作用〕の性行である。嗅ぐという義(目的)あるものが、鼻の識別〔作用〕(鼻識)が、諸々の臭香における、識別〔作用〕の性行である。〔対象が〕聞かれたことから、〔心を〕固定することから、報いとしての意の界域が、諸々の臭香における、識別〔作用〕の性行である。〔心が〕固定されたことから、報いとしての意の識別〔作用〕の界域が、諸々の臭香における、識別〔作用〕の性行である。

 [495]味わうという義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、諸々の味感における、識別〔作用〕の性行である。味わうという義(目的)あるものが、舌の識別〔作用〕(舌識)が、諸々の味感における、識別〔作用〕の性行である。〔対象が〕聞かれたことから、〔心を〕固定することから、報いとしての意の界域が、諸々の味感における、識別〔作用〕の性行である。〔心が〕固定されたことから、報いとしての意の識別〔作用〕の界域が、諸々の味感における、識別〔作用〕の性行である。

 [496]接触するという義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、諸々の感触における、識別〔作用〕の性行である。接触するという義(目的)あるものが、身の識別〔作用〕(身識)が、諸々の感触における、識別〔作用〕の性行である。〔対象が〕聞かれたことから、〔心を〕固定することから、報いとしての意の界域が、諸々の感触における、識別〔作用〕の性行である。〔心が〕固定されたことから、報いとしての意の識別〔作用〕の界域が、諸々の感触における、識別〔作用〕の性行である。

 [497]識別するという義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、諸々の法(意の対象)における、識別〔作用〕の性行である。識別するという義(目的)あるものが、意の識別〔作用〕(意識)が、諸々の法(意の対象)における、識別〔作用〕の性行である。〔対象が〕識別されたことから、〔心を〕固定することから、報いとしての意の界域が、諸々の法(意の対象)における、識別〔作用〕の性行である。〔心が〕固定されたことから、報いとしての意の識別〔作用〕の界域が、諸々の法(意の対象)における、識別〔作用〕の性行である。


69.


 [498]【80】「識別〔作用〕の性行」とは、どのような義(意味)によって、識別〔作用〕の性行となるのか。貪欲なきもの(無貪)〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。憤怒なきもの(無瞋)〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。迷妄なきもの(無痴)〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。思量なきもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。見解なきもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。高揚なきもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。疑惑なきもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。悪習なきもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。貪欲と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。憤怒と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。迷妄と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。思量と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。見解と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。高揚と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。疑惑と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。悪習と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。諸々の善なる行為と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。諸々の善ならざる行為と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。諸々の罪過を有する行為と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。諸々の罪過なき行為と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。諸々の黒の行為と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。諸々の白の行為と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。諸々の安楽の生成ある行為と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。諸々の苦痛の生成ある行為と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。諸々の安楽の報いある行為と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。諸々の苦痛の報いある行為と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。識別されたものにおいて行じおこなう、ということで、識別〔作用〕の性行となる。識別〔作用〕には、このような形態の性行が有る、ということで、識別〔作用〕の性行となる。〔心の〕汚れなきの義(意味)によって、この心は、〔生来の〕性向として完全なる清浄のものである、ということで、識別〔作用〕の性行となる。これが、識別〔作用〕の性行である。

 [499](2)どのようなものが、無知の性行であるのか。諸々の意に適う形態における、貪欲の、疾走〔作用〕(勢速・速行:一連の認識作用の過程において認識対象を味わう作用・働き)という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、貪欲の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。諸々の意に適わない形態における、憤怒の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、憤怒の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。その両者によって、正しく注視することなき事態における、迷妄の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、迷妄の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。結縛としての思量の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、思量の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。執着されたものとしての見解の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、見解の、【81】疾走〔作用〕が、無知の性行である。〔心の〕散乱へと赴いたものとしての高揚の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、高揚の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。〔いまだ〕究極(究竟)に至らざるものとしての疑惑の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、疑惑の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。強く具したものとしての悪習の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、悪習の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。

 [500]諸々の意に適う音声における……略……。諸々の意に適う臭香における……略……。諸々の意に適う味感における……略……。諸々の意に適う感触における……略……。諸々の意に適う法(意の対象)における、貪欲の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、貪欲の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。諸々の意に適わない法(意の対象)における、憤怒の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、憤怒の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。その両者によって、正しく注視することなき事態における、迷妄の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、迷妄の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。結縛としての思量の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、思量の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。執着されたものとしての見解の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、見解の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。〔心の〕散乱へと赴いたものとしての高揚の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、高揚の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。〔いまだ〕究極に至らざるものとしての疑惑の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、疑惑の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。強く具したものとしての悪習の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、悪習の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。


70.


 [501]「無知の性行」とは、どのような義(意味)によって、無知の性行となるのか。貪欲を有するもの(有貪)〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。憤怒を有するもの(有瞋)〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。迷妄を有するもの(有痴)〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。思量を有するもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。見解を有するもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。高揚を有するもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。疑惑を有するもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。悪習を有するもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。貪欲と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。憤怒と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。迷妄と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。思量と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。見解と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。【82】高揚と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。疑惑と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。悪習と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。諸々の善なる行為と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。諸々の善ならざる行為と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。諸々の罪過を有する行為と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。諸々の罪過なき行為と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。諸々の黒の行為と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。諸々の白の行為と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。諸々の安楽の生成ある行為と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。諸々の苦痛の生成ある行為と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。諸々の安楽の報いある行為と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。諸々の苦痛の報いある行為と結び付いたもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、無知の性行となる。〔いまだ〕知られていないものにおいて行じおこなう、ということで、無知の性行となる。無知には、このような形態の性行が有る、ということで、無知の性行となる。これが、無知の性行である。


71.


 [502](3)どのようなものが、知恵の性行であるのか。無常の随観という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、無常の随観が、知恵の性行である。苦痛の随観という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、苦痛の随観が、知恵の性行である。無我の随観という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、無我の随観が、知恵の性行である。厭離の随観という義(目的)のための……略……。離貪の随観という義(目的)のための……。止滅の随観という義(目的)のための……。放棄の随観という義(目的)のための……。滅尽の随観という義(目的)のための……。衰微の随観という義(目的)のための……。変化の随観という義(目的)のための……。無相の随観という義(目的)のための……。無願の随観という義(目的)のための……。空性の随観という義(目的)のための……。向上の知慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察という義(目的)のための……。事実のとおりの知見という義(目的)のための……。危険の随観という義(目的)のための……。審慮の随観という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き示されないものが、識別〔作用〕の性行であり、審慮の随観が、知恵の性行である。還転の随観が、知恵の性行である。預流道が、知恵の性行である。預流果への入定が、知恵の性行である。一来道が、知恵の性行である。一来果への入定が、知恵の性行である。不還道が、知恵の性行である。不還果への入定が、知恵の性行である。阿羅漢道が、知恵の性行である。阿羅漢果への入定が、知恵の性行である。

 [503]「知恵の性行」とは、どのような義(意味)によって、知恵の性行となるのか。貪欲なきもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、知恵の性行となる。憤怒なきもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、知恵の性行となる……略……。【83】悪習なきもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、知恵の性行となる。貪欲と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、知恵の性行となる。憤怒と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、知恵の性行となる。迷妄と結び付かないもの〔の観点〕から行じおこなう、ということで、知恵の性行となる。思量と結び付かないもの〔の観点〕から……略……。見解と結び付かないもの〔の観点〕から……。高揚と結び付かないもの〔の観点〕から……。疑惑と結び付かないもの〔の観点〕から……。悪習と結び付かないもの〔の観点〕から……。諸々の善なる行為と結び付いたもの〔の観点〕から……。諸々の善ならざる行為と結び付かないもの〔の観点〕から……。諸々の罪過を有する行為と結び付かないもの〔の観点〕から……。諸々の罪過なき行為と結び付いたもの〔の観点〕から……。諸々の黒の行為と結び付かないもの〔の観点〕から……。諸々の白の行為と結び付いたもの〔の観点〕から……。諸々の安楽の生成ある行為と結び付いたもの〔の観点〕から……。諸々の苦痛の生成ある行為と結び付かないもの〔の観点〕から……。諸々の安楽の報いある行為と結び付いたもの〔の観点〕から……。諸々の苦痛の報いある行為と結び付かないもの〔の観点〕から……。〔すでに〕知られたもの(所知のもの)において行じおこなう、ということで、知恵の性行となる。知恵には、このような形態の性行が有る、ということで、知恵の性行となる。これが、知恵の性行である。他なるものとして、識別〔作用〕の性行があり、他なるものとして、無知の性行があり、他なるものとして、知恵の性行がある(三者は別個のものである)、ということで、それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「性行の〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、性行の種々なることについての知恵となる」〔と〕。

 [504]性行の種々なることの知恵についての釈示が、第十七となる。


1.1.18 境地の種々なることの知恵についての釈示


72.


 [505]どのように、四つの法(性質)の〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、境地の種々なることについての知恵となるのか。四つの境地がある。(1)欲望の行境(欲界)の境地、(2)形態の行境(色界)の境地、(3)形態なき行境(無色界)の境地、(4)属するところなき境地である。(1)どのようなものが、欲望の行境の境地であるのか。下は、無間地獄(阿鼻地獄)を最終極と為して、上は、他化自在天の内と為して、すなわち、この中間において、ここにおいて諸々の行境となり、ここにおいて諸々の属するところのものとなる、諸々の範疇と界域と〔認識の〕場所(蘊処界)、形態(色)、感受〔作用〕(受)、表象〔作用〕(想)、諸々の形成〔作用〕(行)、識別〔作用〕(識)なるもの――これが、欲望の行境の境地である。

 [506](2)どのようなものが、形態の行境の境地であるのか。【84】下は、梵世を最終極と為して、上は、色究竟天(有頂天)の内と為して、すなわち、この中間において、ここにおいて諸々の行境となり、ここにおいて諸々の属するところのものとなる、あるいは、〔そこに〕入定した者の、あるいは、〔そこに〕再生した者の、あるいは、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)の安楽の住ある者の、心と心の属性としての諸法(心心所法:心と心に現起する作用・感情)なるもの――これが、形態の行境の境地である。

 [507](3)どのようなものが、形態なき行境の境地であるのか。下は、虚空無辺なる〔認識の〕場所へと近づき行く諸天を最終極と為して、上は、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所へと近づき行く天の内と為して、すなわち、この中間において、ここにおいて諸々の行境となり、ここにおいて諸々の属するところのものとなる、あるいは、〔そこに〕入定した者の、あるいは、〔そこに〕再生した者の、あるいは、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)の安楽の住ある者の、心と心の属性としての諸法(心心所法:心と心に現起する作用・感情)なるもの――これが、形態なき行境の境地である。

 [508](4)どのようなものが、属するところなき境地であるのか。属するところなきものとしてある、〔四つの〕道と、〔四つの〕道の果と、形成されたものでない界域(無為界)とである。これが、属するところなき境地である。これらの四つの境地がある。

 [509]他にも、また、四つの境地がある。四つの気づきの確立(四念住・四念処)、四つの正しい精励(四正勤)、四つの神通の足場(四神足)、四つの瞑想(四禅)、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心)、四つの形態なき〔行境〕への入定(空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処への入定)、四つの融通無礙(四無礙解:義・法・言語・応答の融通無礙)、四つの〔実践の〕道(苦なる実践の道にして遅き証知・苦なる実践の道にして速き証知・楽なる実践の道にして遅き証知・楽なる実践の道にして速き証知)、四つの対象(四所縁:微小にして微小の所縁あるもの・微小にして無量の所縁あるもの・無量にして微小の所縁あるもの・無量にして無量の所縁あるもの)、四つの聖なる伝統(どのような衣料でも満ち足りていること・どのような行乞の食でも満ち足りていること・どのような臥坐所でも満ち足りていること・修行に喜びあること)、四つの愛護の基盤(四摂事:布施・愛語・利行・同事)、四つの輪(適切な地に住むこと・正なる人を依り所とすること・自己について正しい誓願あること・過去に作り為した功徳あること)、四つの法(真理)の境処(無貪・無瞋・正念・正定)である。これらの四つの境地がある。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「四つの法(性質)の〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、境地の種々なることについての知恵となる」〔と〕。

 [510]境地の種々なることの知恵についての釈示が、第十八となる。


1.1.19 法(性質)の種々なることの知恵についての釈示


73.


 [511]どのように、九つの法(性質)の〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、法(性質)の種々なることについての知恵となるのか。どのように、諸法(性質)を定め置くのか。(1)欲望の行境(欲界)の諸法(性質)を、(1―1)善なるもの〔の観点〕から定め置き、(1―2)善ならざるもの〔の観点〕から定め置き、(1―3)〔善悪が〕説き示されないもの(無記)〔の観点〕から定め置く。(2)形態の行境(色界)の諸法(性質)を、(2―1)善なるもの〔の観点〕から定め置き、(2―2)〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置く。(3)形態なき行境(無色界)の諸法(性質)を、(3―1)善なるもの〔の観点〕から定め置き、(3―2)〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置く。(4)属するところなき諸法(性質)を、(4―1)善なるもの〔の観点〕から定め置き、(4―2)〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置く。

 [512]【85】(1)どのように、欲望の行境の諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、善ならざるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置くのか。(1―1)十の善なる行為の道を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、(1―2)十の善ならざる行為の道を、善ならざるもの〔の観点〕から定め置き、(1―3)形態と、報い(異熟)と、〔善悪を伴わない純粋〕作用(唯作)とを、〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置く。このように、欲望の行境の諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、善ならざるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置く。

 [513](2)どのように、形態の行境の諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置くのか。(2―1)ここ(現世)に依って立つ者の、四つの瞑想を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、(2―2)そこ(色界)に再生した者の、四つの瞑想(報いの転起としての四つの瞑想)を、〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置く。このように、形態の行境の諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置く。

 [514](3)どのように、形態なき行境の諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置くのか。(3―1)ここ(現世)に依って立つ者の、四つの形態なき行境への入定を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、(3―2)そこ(無色界)に再生した者の、四つの形態なき行境への入定(報いの転起としての四つの形態なき行境への入定)を、〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置く。このように、形態なき行境の諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置く。

 [515](4)どのように、属するところなき諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置くのか。(4―1)四つの聖者の道を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、(4―2)四つの沙門果と、涅槃とを、〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置く。このように、属するところなき諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き示されないもの〔の観点〕から定め置く。このように、諸法(性質)を定め置く。

 [516]九つの歓喜を根元とする法(性質)がある。無常〔の観点〕から意を為している者には、(1)歓喜が生まれる。歓喜した者には、(2)喜悦が生まれる。喜悦の意ある者の身体は、(3)安息する。安息の身体ある者は、(4)安楽を感受する。安楽ある者の心は、(5)定められる。定められた心あるとき、(6)事実のとおりに覚知し、〔事実のとおりに〕見る。事実のとおりに知っている者は、〔事実のとおりに〕見ている者は、(7)厭離する。厭離している者は、(8)離貪する。離貪あることから、(9)解脱する。苦痛〔の観点〕から意を為している者には、(1)歓喜が生まれる……略……。無我〔の観点〕から意を為している者には、(1)歓喜が生まれる……略……。

 [517]形態を、無常〔の観点〕から意を為している者には、(1)歓喜が生まれる……略……。形態を、苦痛〔の観点〕から意を為している者には、(1)歓喜が生まれる……略……。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識別〔作用〕を……。眼を……略……。老と死を、無常〔の観点〕から意を為している者には、(1)歓喜が生まれる……略……。老と死を、苦痛〔の観点〕から意を為している者には、(1)歓喜が生まれる……略……。老と死を、【86】無我〔の観点〕から意を為している者には、(1)歓喜が生まれる。歓喜した者には、(2)喜悦が生まれる。喜悦の意ある者の身体は、(3)安息する。安息の身体ある者は、(4)安楽を感受する。安楽ある者の心は、(5)定められる。定められた心あるとき、(6)事実のとおりに覚知し、〔事実のとおりに〕見る。事実のとおりに知っている者は、〔事実のとおりに〕見ている者は、(7)厭離する。厭離している者は、(8)離貪する。離貪あることから、(9)解脱する。これらの九つの歓喜を根元とする法(性質)がある。


74.


 [518]九つの根源“あり”のままに意“おもい”を為すこと(如理作意)を根元とする法(性質)がある。無常〔の観点〕から根源のままに意を為している者には、(1)歓喜が生まれる。歓喜した者には、(2)喜悦が生まれる。喜悦の意ある者の身体は、(3)安息する。安息の身体ある者は、(4)安楽を感受する。安楽ある者の心は、(5)定められる。定められた心によって、(6)「これは、苦痛である」と、事実のとおりに覚知し、(7)「これは、苦痛の集起である」と、事実のとおりに覚知し、(8)「これは、苦痛の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、(9)「これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。苦痛〔の観点〕から根源のままに意を為している者には、(1)歓喜が生まれる。歓喜した者には、(2)喜悦が生まれる。喜悦の意ある者の身体は、(3)安息する。安息の身体ある者は、(4)安楽を感受する。安楽ある者の心は、(5)定められる。定められた心によって、(6)「これは、苦痛である」と、事実のとおりに覚知し、(7)「これは、苦痛の集起である」と、事実のとおりに覚知し、(8)「これは、苦痛の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、(9)「これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。無我〔の観点〕から根源のままに意を為している者には、(1)歓喜が生まれる……略……。

 [519]形態を、無常〔の観点〕から根源のままに意を為している者には、(1)歓喜が生まれる……略……。形態を、苦痛〔の観点〕から根源のままに意を為している者には、(1)歓喜が生まれる……略……。形態を、無我〔の観点〕から根源のままに意を為している者には、(1)歓喜が生まれる……略……。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識別〔作用〕を……。眼を……略……。老と死を、無常〔の観点〕から根源のままに意を為している者には、(1)歓喜が生まれる……略……。老と死を、苦痛〔の観点〕から根源のままに意を為している者には、(1)歓喜が生まれる……略……。老と死を、無我〔の観点〕から根源のままに意を為している者には、(1)歓喜が生まれる。歓喜した者には、(2)喜悦が生まれる。喜悦の意ある者の身体は、(3)安息する。安息の身体ある者は、(4)安楽を感受する。安楽ある者の心は、(5)定められる。定められた心によって、(6)「これは、苦痛である」と、事実のとおりに覚知し、(7)「これは、苦痛の集起である」と、事実のとおりに覚知し、(8)「これは、苦痛の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、(9)「これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道である」【87】と、事実のとおりに覚知する。これらの九つの根源のままに意を為すことを根元とする法(性質)がある。

 [520]九つの種々なることがある。(1)界域の種々なることを縁として、(2)接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、(3)感受の種々なることが生起し、感受の種々なることを縁として、(4)表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、(5)思惟(妄想)の種々なることが生起し、思惟の種々なることを縁として、(6)欲〔の思い〕の種々なることが生起し、欲〔の思い〕の種々なることを縁として、(7)苦悶の種々なることが生起し、苦悶の種々なることを縁として、(8)遍き探求の種々なることが生起し、遍き探求の種々なることを縁として、(9)利得の種々なることが生起する。これらの九つの種々なることがある。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「九つの法(性質)の〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、法(性質)の種々なることについての知恵となる」〔と〕。

 [521]法(性質)の種々なることの知恵についての釈示が、第十九となる。


1.1.20-24 知恵の五なるものについての釈示


75.


 [522]どのように、(1)証知としての知慧が、所知の義(意味)についての知恵となり、(2)遍知としての知慧が、推量の義(意味)についての知恵となり、(3)捨棄における知慧が、遍捨の義(意味)についての知恵となり、(4)修行としての知慧が、一味についての知恵となり、(5)実証としての知慧が、接触(体得)についての知恵となるのか。(1)それらそれらの諸法(性質)が、証知されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、所知のものと成る。(2)それらそれらの諸法(性質)が、遍知されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、推量されたものと成る。(3)それらそれらの諸法(性質)が、捨棄されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、遍捨されたものと成る。(4)それらそれらの諸法(性質)が、修行されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、一味なるものと成る。(5)それらそれらの諸法(性質)が、実証されたものと成るなら、それらそれらの諸法(性質)は、接触されたもの(体得されたもの)と成る。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「証知としての知慧が、所知の義(意味)についての知恵となる」「遍知としての知慧が、推量の義(意味)についての知恵となる」「捨棄における知慧が、遍捨の義(意味)についての知恵となる」「修行としての知慧が、一味についての知恵となる」「実証としての知慧が、接触についての知恵となる」〔と〕。

 [523]知恵の五なるものについての釈示が、第二十四となる。


1.1.25-28 融通無礙の知恵についての釈示


76.


 [524]【88】どのように、(1)義(意味)の種々なることにおける知慧が、義(意味)の融通無礙(無礙解)についての知恵となり、(2)法(性質)の種々なることにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となり、(3)言語の種々なることにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、(4)応答の種々なることにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となるのか。(2)信の機能(信根)は、法(性質)である。精進の機能(精進根)は、法(性質)である。気づきの機能(念根)は、法(性質)である。〔心の〕統一の機能(定根)は、法(性質)である。知慧の機能(慧根)は、法(性質)である。他なるものとして、信の機能の法(性質)があり、他なるものとして、精進の機能の法(性質)があり、他なるものとして、気づきの機能の法(性質)があり、他なるものとして、〔心の〕統一の機能の法(性質)があり、他なるものとして、知慧の機能の法(性質)がある(五者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる法(性質)が、知られたもの(所知のもの)となるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる法(性質)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「法(性質)の種々なることにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [525](1)信念の義(意味)は、義(意味)である。励起の義(意味)は、義(意味)である。現起の義(意味)は、義(意味)である。〔心の〕散乱なきの義(意味)は、義(意味)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。他なるものとして、信念の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、励起の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、現起の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、〔心の〕散乱なきの義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、〔あるがままの〕見の義(意味)の義(意味)がある(五者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる義(意味)が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる義(意味)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「義(意味)の種々なることにおける知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [526](3)五つ法(性質)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。他なるものとして、〔五つの〕法(性質)の言語があり、他なるものとして、〔五つの〕義(意味)の言語がある(両者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる言語が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる言語は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「言語の種々なることにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [527](4)五つの法(性質)についての諸々の知恵がある。五つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。他なるものとして、〔五つの〕法(性質)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔五つの〕義(意味)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔十の〕言語についての諸々の知恵がある(三者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる知恵が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる知恵は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「応答の種々なることにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。


77.


 [528](2)信の力(信力)は、法(性質)である。精進の力(精進力)は、法(性質)である。気づきの力(念力)は、法(性質)である。〔心の〕統一の力(定力)は、法(性質)である。知慧の力(慧力)は、法(性質)である。他なるものとして、信の力の法(性質)があり、他なるものとして、精進の力の法(性質)があり、他なるものとして、気づきの力の法(性質)があり、他なるものとして、〔心の〕統一の力の法(性質)があり、他なるものとして、知慧の力の法(性質)がある。その知恵によって、これらの種々なる法(性質)が、知られたもの(所知のもの)となるなら、まさしく、その知恵によって、これらの【89】種々なる法(性質)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「法(性質)の種々なることにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [529](1)不信にたいする、不動の義(意味)は、義(意味)である。怠慢にたいする、不動の義(意味)は、義(意味)である。放逸にたいする、不動の義(意味)は、義(意味)である。〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)は、義(意味)である。無明にたいする、不動の義(意味)は、義(意味)である。他なるものとして、不信にたいする、不動の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、怠慢にたいする、不動の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、放逸にたいする、不動の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、無明にたいする、不動の義(意味)の義(意味)がある。その知恵によって、これらの種々なる義(意味)が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる義(意味)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「義(意味)の種々なることにおける知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [530](3)五つ法(性質)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。他なるものとして、〔五つの〕法(性質)の言語があり、他なるものとして、〔五つの〕義(意味)の言語がある。その知恵によって、これらの種々なる言語が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる言語は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「言語の種々なることにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [531](4)五つの法(性質)についての諸々の知恵がある。五つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。他なるものとして、〔五つの〕法(性質)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔五つの〕義(意味)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔十の〕言語についての諸々の知恵がある。その知恵によって、これらの種々なる知恵が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる知恵は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「応答の種々なることにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [532](2)気づきという正覚の支分(念覚支)は、法(性質)である。法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)は、法(性質)である。精進という正覚の支分(精進覚支)は、法(性質)である。喜悦という正覚の支分(喜覚支)は、法(性質)である。安息という正覚の支分(軽安覚支)は、法(性質)である。〔心の〕統一という正覚の支分(定覚支)は、法(性質)である。放捨という正覚の支分(捨覚支)は、法(性質)である。他なるものとして、気づきという正覚の支分の法(性質)があり、他なるものとして、法(真理)の判別という正覚の支分の法(性質)があり、他なるものとして、精進という正覚の支分の法(性質)があり、他なるものとして、喜悦という正覚の支分の法(性質)があり、他なるものとして、安息という正覚の支分の法(性質)があり、他なるものとして、〔心の〕統一という正覚の支分の法(性質)があり、他なるものとして、放捨という正覚の支分の法(性質)がある。その知恵によって、これらの種々なる法(性質)が、知られたもの(所知のもの)となるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる法(性質)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「法(性質)の種々なることにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [533]【90】(1)現起の義(意味)は、義(意味)である。精査の義(意味)は、義(意味)である。励起の義(意味)は、義(意味)である。充満の義(意味)は、義(意味)である。寂止の義(意味)は、義(意味)である。〔心の〕散乱なきの義(意味)は、義(意味)である。審慮の義(意味)は、義(意味)である。他なるものとして、現起の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、精査の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、励起の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、充満の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、寂止の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、〔心の〕散乱なきの義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、審慮の義(意味)の義(意味)がある。その知恵によって、これらの義(意味)が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの義(意味)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「義(意味)の種々なることにおける知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [534](3)七つ法(性質)を見示するために、文型と言語と話法がある。七つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。他なるものとして、〔七つの〕法(性質)の言語があり、他なるものとして、〔七つの〕義(意味)の言語がある。その知恵によって、これらの種々なる言語が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる言語は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「言語の種々なることにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [535](4)七つの法(性質)についての諸々の知恵がある。七つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十四の言語についての諸々の知恵がある。他なるものとして、〔七つの〕法(性質)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔七つの〕義(意味)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔十四の〕言語についての諸々の知恵がある。その知恵によって、これらの種々なる知恵が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる知恵は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「応答の種々なることにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [536](2)正しい見解(正見)は、法(性質)である。正しい思惟(正思惟)は、法(性質)である。正しい言葉(正語)は、法(性質)である。正しい生業(正業)は、法(性質)である。正しい生き方(正命)は、法(性質)である。正しい努力(正精進)は、法(性質)である。正しい気づき(正念)は、法(性質)である。正しい〔心の〕統一(正定)は、法(性質)である。他なるものとして、正しい見解の法(性質)があり、他なるものとして、正しい思惟の法(性質)があり、他なるものとして、正しい言葉の法(性質)があり、他なるものとして、正しい生業の法(性質)があり、他なるものとして、正しい生き方の法(性質)があり、他なるものとして、正しい努力の法(性質)があり、他なるものとして、正しい気づきの法(性質)があり、他なるものとして、正しい〔心の〕統一の法(性質)がある。その知恵によって、これらの種々なる法(性質)が、知られたもの(所知のもの)となるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる法(性質)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「法(性質)の種々なることにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [537](1)〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。〔正しく心を〕固定することの義(意味)は、義(意味)である。遍き収取(理解・和合)の義(意味)は、義(意味)である。等しく現起するものの義(意味)は、義(意味)である。浄化するものの義(意味)は、義(意味)である。励起の義(意味)は、義(意味)である。現起の義(意味)は、義(意味)である。〔心の〕散乱なきの義(意味)は、義(意味)である。他なるものとして、〔あるがままの〕見の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、〔正しく心を〕固定することの義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、遍き収取の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、等しく現起するものの義(意味)があり、他なるものとして、義(意味)があり、他なるものとして、浄化するものの義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、励起の義(意味)の義(意味)があり、【91】他なるものとして、現起の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、〔心の〕散乱なきの義(意味)の義(意味)がある。その知恵によって、これらの種々なる義(意味)が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる義(意味)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「義(意味)の種々なることにおける知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [538](3)八つ法(性質)を見示するために、文型と言語と話法がある。八つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。他なるものとして、〔八つの〕法(性質)の言語があり、他なるものとして、〔八つの〕義(意味)の言語がある。その知恵によって、これらの種々なる言語が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる言語は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「言語の種々なることにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [539](4)八つの法(性質)についての諸々の知恵がある。八つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十六の言語についての諸々の知恵がある。他なるものとして、〔八つの〕法(性質)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔八つの〕義(意味)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔十六の〕言語についての諸々の知恵がある。その知恵によって、これらの種々なる知恵が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる知恵は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「応答の種々なることにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「義(意味)の種々なることにおける知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となる」「法(性質)の種々なることにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となる」「言語の種々なることにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となる」「応答の種々なることにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 [540]融通無礙の知恵についての釈示が、第二十八となる。


1.1.29-31 三つの知恵についての釈示


78.


 [541]どのように、住の種々なることにおける知慧が、住の義(意味)についての知恵となり、入定(等至)の種々なることにおける知慧が、入定の義(意味)についての知恵となり、住の入定の種々なることにおける知慧が、住の入定の義(意味)についての知恵となるのか。形相(概念把握)を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。無相の住である。切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。無願の住である。固着(固定観念)を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。空性の住である。

 [542]形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無相に〔心を〕傾注して、入定する。無相の入定である。切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、【92】転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無願に〔心を〕傾注して、入定する。無願の入定である。固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、空性に〔心を〕傾注して、入定する。空性の入定である。

 [543]形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無相に〔心を〕傾注して、入定する。無相の住の入定である。切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無願に〔心を〕傾注して、入定する。無願の住の入定である。固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、空性に〔心を〕傾注して、入定する。空性の住の入定である。


79.


 [544]形態の形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。無相の住である。形態の切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。無願の住である。形態の固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。空性の住である。

 [545]形態の形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無相に〔心を〕傾注して、入定する。無相の入定である。形態の切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無願に〔心を〕傾注して、入定する。無願の入定である。形態の固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、空性に〔心を〕傾注して、入定する。空性の入定である。

 [546]形態の形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無相に〔心を〕傾注して、入定する。無相の住の入定である。形態の切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無願に〔心を〕傾注して、入定する。無願の住の入定である。形態の固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、接触しては【93】接触して、衰微を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、空性に〔心を〕傾注して、入定する。空性の住の入定である。

 [547]感受〔作用〕の形相を……略……。表象〔作用〕の形相を……。諸々の形成〔作用〕の形相を……。識別〔作用〕の形相を……。眼の形相を……略……。老と死の形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。無相の住である。老と死の切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。無願の住である。老と死の固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。空性の住である。

 [548]老と死の形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無相に〔心を〕傾注して、入定する。無相の入定である。老と死の切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無願に〔心を〕傾注して、入定する。無願の入定である。老と死の固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、空性に〔心を〕傾注して、入定する。空性の入定である。

 [549]老と死の形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無相に〔心を〕傾注して、入定する。無相の住の入定である。老と死の切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無願に〔心を〕傾注して、入定する。無願の住の入定である。老と死の固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、接触しては接触して、衰微を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、空性に〔心を〕傾注して、入定する。空性の住の入定である。【94】他なるものとして、無相の住があり、他なるものとして、無願の住があり、他なるものとして、空性の住がある。他なるものとして、無相の入定があり、他なるものとして、無願の入定があり、他なるものとして、空性の入定がある。他なるものとして、無相の住の入定があり、他なるものとして、無願の住の入定があり、他なるものとして、空性の住の入定がある。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「住の種々なることにおける知慧が、住の義(意味)についての知恵となる」「入定の種々なることにおける知慧が、入定の義(意味)についての知恵となる」「住の入定の種々なることにおける知慧が、住の入定の義(意味)についての知恵となる」〔と〕。

 [550]三つの知恵についての釈示が、第三十一となる。


1.1.32 直後なる〔心の〕統一の知恵についての釈示


80.


 [551]どのように、〔心の〕散乱なき完全なる清浄たることから、煩悩(漏)の断絶における知慧が、直後なる〔心の〕統一(無間定)についての知恵となるのか。離欲を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一となる。その〔心の〕統一を所以に、知恵が生起する。その知恵によって、諸々の煩悩が滅尽する。かくのごとく、最初に、〔心の〕寂止(止)があり、最後に、知恵がある。その知恵によって、諸々の煩悩の滅尽が有る。それによって説かれる。「〔心の〕散乱なき完全なる清浄たることから、煩悩の断絶における知慧が、直後なる〔心の〕統一についての知恵となる」〔と〕。

 [552]「諸々の煩悩(漏)」とは、どのようなものが、それらの煩悩であるのか。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。

 [553]どこにおいて、これらの煩悩が滅尽するのか。預流道によって、残りなく見解の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき欲望の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき生存の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。一来道によって、粗大なる欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。不還道によって、残りなく欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。阿羅漢道によって、残りなく生存の煩悩が滅尽し、残りなく無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。

 [554]【95】加害〔の思い〕なきを所以にする……略……。光明の表象を所以にする……。〔心の〕散乱なきを所以にする……。法(性質)の〔差異を〕定め置くことを所以にする……。知恵を所以にする……。歓喜を所以にする……。第一の瞑想を所以にする……。第二の瞑想を所以にする……。第三の瞑想を所以にする……。第四の瞑想を所以にする……。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定を所以にする……。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定を所以にする……。無所有なる〔認識の〕場所への入定を所以にする……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定を所以にする……。地の遍満を所以にする……。水の遍満を所以にする……。火の遍満を所以にする……。風の遍満を所以にする……。青の遍満を所以にする……。黄の遍満を所以にする……。赤の遍満を所以にする……。白の遍満を所以にする……。虚空の遍満を所以にする……。識別〔作用〕の遍満を所以にする……。覚者の随念を所以にする……。法(教え)の随念を所以にする……。僧団の随念を所以にする……。戒の随念を所以にする……。棄捨の随念を所以にする……。天神たちの随念を所以にする……。呼吸の気づきを所以にする……。死についての気づきを所以にする……。身体の在り方についての気づきを所以にする……。寂止の随念を所以にする……。膨張した〔死体〕の表象を所以にする……。青黒くなった〔死体〕の表象を所以にする……。膿み爛れた〔死体〕の表象を所以にする……。切断された〔死体〕の表象を所以にする……。喰い残された〔死体〕の表象を所以にする……。散乱した〔死体〕の表象を所以にする……。打ち殺され散乱した〔死体〕の表象を所以にする……。血まみれの〔死体〕の表象を所以にする……。蛆虫まみれのもの〔死体〕を所以にする……。骨となったものを所以にする……。


81.


 [555]長き入息を所以にする……略……。長き出息を所以にする……。短き入息を所以にする……。短き出息を所以にする……。一切の身体の得知ある入息を所以にする……。一切の身体の得知ある出息を所以にする……。身体の形成〔作用〕を安息させている入息を所以にする……。身体の形成〔作用〕を安息させている出息を所以にする……。喜悦の得知ある入息を所以にする……。喜悦の得知ある出息を所以にする……。安楽の得知ある入息を所以にする……。安楽の得知ある出息を所以にする……。心の形成〔作用〕の得知ある入息を所以にする……。心の形成〔作用〕の得知ある出息を所以にする……。心の形成〔作用〕を安息させている入息を所以にする……。心の形成〔作用〕を安息させている出息を所以にする……。心の得知ある入息を所以にする……。心の得知ある出息を所以にする……。心を歓喜させている入息を所以にする……。心を歓喜させている出息を所以にする……。心を定めている……略……。心を解き放っている……。無常の随観ある……。離貪の随観ある……。止滅の随観ある……。放棄の随観ある入息を所以にする……。放棄の随観ある出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一となる。その〔心の〕統一を所以に、知恵が生起する。その知恵によって、諸々の煩悩が滅尽する。かくのごとく、最初に、〔心の〕寂止があり、最後に、知恵がある。その【96】知恵によって、諸々の煩悩の滅尽が有る。それによって説かれる。「〔心の〕散乱なき完全なる清浄たることから、煩悩の断絶における知慧が、直後なる〔心の〕統一についての知恵となる」〔と〕。

 [556]「諸々の煩悩」とは、どのようなものが、それらの煩悩であるのか。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。どこにおいて、これらの煩悩が滅尽するのか。預流道によって、残りなく見解の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき欲望の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき生存の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。一来道によって、粗大なる欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。不還道によって、残りなく欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。阿羅漢道によって、残りなく生存の煩悩が滅尽し、残りなく無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「〔心の〕散乱なき完全なる清浄たることから、煩悩の断絶における知慧が、直後なる〔心の〕統一についての知恵となる」〔と〕。

 [557]直後なる〔心の〕統一の知恵についての釈示が、第三十二となる。


1.1.33 相克なき住の知恵についての釈示


82.


 [558]どのように、〔あるがままの〕見の優位主要性(見を主要のものとすること)あり、かつまた、寂静なる住の到達ある、精妙なるものを信念したこととしての知慧が、相克なき住についての知恵となるのか。

 [559]「〔あるがままの〕見の優位主要性あり」とは、無常の随観が、〔あるがままの〕見の優位主要性であり、苦痛の随観が、〔あるがままの〕見の優位主要性であり、無我の随観が、〔あるがままの〕見の優位主要性であり、形態において、無常の随観が、〔あるがままの〕見の優位主要性であり、形態において、苦痛の随観が、〔あるがままの〕見の優位主要性であり、形態において、無我の随観が、〔あるがままの〕見の優位主要性であり、感受〔作用〕において……略……表象〔作用〕において……諸々の形成〔作用〕において……識別〔作用〕において……眼において……略……。老と死において、無常の随観が、〔あるがままの〕見の優位主要性であり、老と死において、苦痛の随観が、〔あるがままの〕見の優位主要性であり、老と死において、無我の随観が、〔あるがままの〕見の優位主要性である。

 [560]【97】「かつまた、寂静なる住の到達ある」とは、空性の住が、寂静なる住の到達であり、無相の住が、寂静なる住の到達であり、無願の住が、寂静なる住の到達である。

 [561]「精妙なるものを信念したこと」とは、空性について信念したことが、精妙なるものを信念したことであり、無相について信念したことが、精妙なるものを信念したことであり、無願について信念したことが、精妙なるものを信念したことである。

 [562]「相克なき住」とは、第一の瞑想が、相克なき住であり、第二の瞑想が、相克なき住であり、第三の瞑想が、相克なき住であり、第四の瞑想が、相克なき住であり、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定が、相克なき住であり……略……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定が、相克なき住である。

 [563]「相克なき住」とは、どのような義(意味)によって、相克なき住となるのか。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を運び去る、ということで、相克なき住となる。第二の瞑想によって、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念を運び去る、ということで、相克なき住となる。第三の瞑想によって、喜悦を運び去る、ということで、相克なき住となる。第四の瞑想によって、楽と苦を運び去る、ということで、相克なき住となる。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、形態の表象を、障礙の表象を、種々なることの表象を、運び去る、ということで、相克なき住となる。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を運び去る、ということで、相克なき住となる。無所有なる〔認識の〕場所への入定によって、識別無辺なる〔認識の〕場所の表象を運び去る、ということで、相克なき住となる。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によって、無所有なる〔認識の〕場所の表象を運び去る、ということで、相克なき住となる。これが、相克なき住である。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「〔あるがままの〕見の優位主要性あり、かつまた、寂静なる住の到達ある、精妙なるものを信念したこととしての知慧が、相克なき住についての知恵となる」〔と〕。

 [564]相克なき住の知恵についての釈示が、第三十三となる。


1.1.34 止滅の入定の知恵についての釈示


83.


 [565]どのように、二つの力を具備したものたることから、さらには、三つの形成〔作用〕(行)の静息あることから、十六の知恵の性行によって、九つの〔心の〕統一の性行によって、自在なる状態たることとしての知慧が、止滅の入定(滅尽定)についての知恵となるのか。

 [566]「二つの力」とは、二つの力がある。(1)〔心の〕寂止(止)の力、(2)〔あるがままの〕観察(観)の力である。(1)どのようなものが、〔心の〕寂止の力であるのか。離欲を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕寂止の力である。加害〔の思い〕なきを所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕寂止の力である。光明の表象を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、【98】〔心の〕寂止の力である。〔心の〕散乱なきを所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕寂止の力である……略……。放棄の随観ある入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕寂止の力である。放棄の随観ある出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕寂止の力である。

 [567]「〔心の〕寂止の力」とは、どのような義(意味)によって、〔心の〕寂止の力となるのか。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。第二の瞑想によって、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。第三の瞑想によって、喜悦にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。第四の瞑想によって、楽と苦にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、形態の表象にたいし、障礙の表象にたいし、種々なることの表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。無所有なる〔認識の〕場所への入定によって識別無辺なる〔認識の〕場所の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によって、無所有なる〔認識の〕場所の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。〔心の〕高揚にたいしても、高揚を共具した〔心の〕汚れにたいしても、範疇にたいしても、〔心が〕動かず、動揺せず、揺れ動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。これが、〔心の〕寂止の力である。

 [568](2)どのようなものが、〔あるがままの〕観察の力であるのか。無常の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。苦痛の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。無我の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。厭離の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。離貪の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。止滅の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。形態において、無常の随観が、〔あるがままの〕観察の力である……略……。形態において、放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼において……略……。老と死において、無常の随観が、〔あるがままの〕観察の力である……略……。老と死において、放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。

 [569]「〔あるがままの〕観察の力」とは、どのような義(意味)によって、〔あるがままの〕観察の力となるのか。無常の随観によって、常住の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。苦痛の随観によって、安楽の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。無我の随観によって、自己の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。厭離の随観によって、喜悦にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。離貪の随観によって、貪欲にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。止滅の随観によって、【99】集起にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。放棄の随観によって、執取にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。無明にたいしても、無明を共具した〔心の〕汚れにたいしても、範疇にたいしても、〔心が〕動かず、動揺せず、揺れ動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。これが、〔あるがままの〕観察の力である。

 [570]「さらには、三つの形成〔作用〕の静息あることから」とは、どのような三つの形成〔作用〕の静息あることから、であるのか。(1)第二の瞑想に入定した者のばあい、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念という諸々の言葉の形成〔作用〕が、静息したものと成り、(2)第四の瞑想に入定した者のばあい、入息と出息という諸々の身体の形成〔作用〕が、静息したものと成り、(3)表象と感受されたものの止滅(想受滅)に入定した者のばあい、しかして、表象〔作用〕という、さらには、感受〔作用〕という、諸々の心の形成〔作用〕が、静息したものと成る。これらの三つの形成〔作用〕の静息あることから、である。


84.


 [571]「十六の知恵の性行によって」とは、どのような十六の知恵の性行によって、であるのか。(1)無常の随観が、知恵の性行である。(2)苦痛の随観が、知恵の性行である。(3)無我の随観が、知恵の性行である。(4)厭離の随観が、知恵の性行である。(5)離貪の随観が、知恵の性行である。(6)止滅の随観が、知恵の性行である。(7)放棄の随観が、知恵の性行である。(8)還転の随観の随観が、知恵の性行である。(9)預流道が、知恵の性行である。(10)預流果への入定が、知恵の性行である。(11)一来道が、知恵の性行である。(12)一来果への入定が、知恵の性行である。(13)不還道が、知恵の性行である。(14)不還果への入定が、知恵の性行である。(15)阿羅漢道が、知恵の性行である。(16)阿羅漢果への入定が、知恵の性行である。これらの十六の知恵の性行によって、である。


85.


 [572]「九つの〔心の〕統一の性行によって」とは、どのような九つの〔心の〕統一の性行によって、であるのか。(1)第一の瞑想が、〔心の〕統一の性行である。(2)第二の瞑想が、〔心の〕統一の性行である。(3)第三の瞑想が、〔心の〕統一の性行である。(4)第四の瞑想が、〔心の〕統一の性行である。(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定が……略……。(6)識別無辺なる〔認識の〕場所への入定が……。(7)無所有なる〔認識の〕場所への入定が……。(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定が、〔心の〕統一の性行である。(9)第一の瞑想の獲得という義(目的)のための、〔粗雑な〕思考と、〔微細な〕想念と、喜悦と、安楽と、心の一境性と、〔これらの五つの支分を有する、瞑想の境地に近接して行くものが、心の統一の性行である〕……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の獲得という義(目的)のための、〔粗雑な〕思考と、〔微細な〕想念と、喜悦と、安楽と、心の一境性と、〔これらの五つの支分を有する、瞑想の境地に近接して行くものが、心の統一の性行である〕。これらの九つの〔心の〕統一の性行によって、である。

 [573]「自在」とは、五つの自在がある。(1)傾注することの自在、(2)入定することの自在、【100】(3)確立することの自在、(4)出起することの自在、(5)注視することの自在である。(1)第一の瞑想に、求める所で求める時に求める間だけ傾注し、傾注することにおいて、遅くなることが存在しない、ということで、傾注することの自在となる。(2)第一の瞑想に、求める所で求める時に求める間だけ入定し、入定することにおいて、遅くなることが存在しない、ということで、入定することの自在となる。(3)第一の瞑想に、求める所で求める時に求める間だけ確立し、確立することにおいて、遅くなることが存在しない、ということで、確立することの自在となる。(4)第一の瞑想に、求める所で求める時に求める間だけ出起し、出起することにおいて、遅くなることが存在しない、ということで、出起することの自在となる。(5)第一の瞑想に、求める所で求める時に求める間だけ注視し、注視することにおいて、遅くなることが存在しない、ということで、注視することの自在となる。

 [574]第二〔の瞑想〕に……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定に、求める所で求める時に求める間だけ傾注し、傾注することにおいて、遅くなることが存在しない、ということで、傾注することの自在となる。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定に、求める所で求める時に求める間だけ入定し……略……確立し……出起し……注視し、注視することにおいて、遅くなることが存在しない、ということで、注視することの自在となる。これらの五つの自在がある。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「二つの力を具備したものたることから、さらには、三つの形成〔作用〕の静息あることから、十六の知恵の性行によって、九つの〔心の〕統一の性行によって、自在なる状態たることとしての知慧が、止滅の入定についての知恵となる」〔と〕。

 [575]止滅の入定の知恵についての釈示が、第三十四となる。


1.1.35 完全なる涅槃の知恵についての釈示


86.


 [576]どのように、正知の者の、転起されたもの(所与的世界)を完全に取り払うことにおける知慧が、完全なる涅槃についての知恵となるのか。ここに、正知の者が、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕にとっての転起されたものを完全に取り払い、加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕にとっての転起されたものを完全に取り払い、光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気にとっての転起されたものを完全に取り払い、〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚にとっての転起されたものを完全に取り払い、法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕にとっての……略……知恵によって、無明にとっての……歓喜によって、不満〔の思い〕にとっての……第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害にとっての転起されたものを完全に取り払い……略……阿羅漢道によって、【101】〔残りの〕一切の〔心の〕汚れにとっての転起されたものを完全に取り払う。

 [577]しかして、あるいは、また、正知の者が、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において、完全なる涅槃に到達しつつあると、まさしく、しかして、この、眼によって転起されたものを完全に取り払い、さらには、他の、眼によって転起されたものは生起せず、しかして、この、耳によって転起されたものを……略……鼻によって転起されたものを……舌によって転起されたものを……身によって転起されたものを……意によって転起されたものを完全に取り払い、さらには、他の、意によって転起されたものは生起しない。これが、〔すなわち〕正知の者の、転起されたものを完全に取り払うことにおける知慧が、完全なる涅槃についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「正知の者の、転起されたものを完全に取り払うことにおける知慧が、完全なる涅槃についての知恵となる」〔と〕。

 [578]完全なる涅槃の知恵についての釈示が、第三十五となる。


1.1.36 等首者の義(意味)の知恵についての釈示


87.


 [579]どのように、一切の諸法(性質)の、正しい断絶、および、止滅における、現起なきこととしての知慧が、等首者(等首:煩悩が滅尽して阿羅漢に成ったその瞬間に命を終える者)の義(意味)についての知恵となるのか。「一切の諸法(性質)」とは、〔心身を構成する〕五つの範疇(五蘊)、十二の〔認識の〕場所(十二処)、十八の界域(十八界)、善なる諸法(性質)、善ならざる諸法(性質)、〔善悪が〕説き示されない諸法(性質)、欲望の行境の諸法(性質)、形態の行境の諸法(性質)、形態なき行境の諸法(性質)、属するところなき諸法(性質)である。「正しい断絶」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を正しく断絶し、加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕を正しく断絶し、光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を正しく断絶し、〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚を正しく断絶し、法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を正しく断絶し、知恵によって、無明を正しく断絶し、歓喜によって、不満〔の思い〕を正しく断絶し、第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を正しく断絶し……略……阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを正しく断絶する。

 [580]「止滅」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を止滅させ、加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕を止滅させ、光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を止滅させ、〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚を止滅させ、法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を止滅させ、知恵によって、無明を止滅させ、歓喜によって、不満〔の思い〕を止滅させ、第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を止滅させ……略……阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを止滅させる。

 [581]「現起なきこと」とは、離欲を獲得した者のばあい、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は現起せず、加害〔の思い〕なきを獲得した者のばあい、【102】加害〔の思い〕は現起せず、光明の表象を獲得した者のばあい、〔心の〕沈滞と眠気は現起せず、〔心の〕散乱なきを獲得した者のばあい、〔心の〕高揚は現起せず、法(性質)の〔差異を〕定め置くことを獲得した者のばあい、疑惑〔の思い〕は現起せず、知恵を獲得した者のばあい、無明は現起せず、歓喜を獲得した者のばあい、不満〔の思い〕は現起せず、第一の瞑想を獲得した者のばあい、〔五つの修行の〕妨害は現起せず……略……阿羅漢道を獲得した者のばあい、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れは現起しない。

 [582]「等(平等・平静)」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたことから、離欲が、等であり、加害〔の思い〕が捨棄されたことから、加害〔の思い〕なきが、等であり、〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたことから、光明の表象が、等であり、〔心の〕高揚が捨棄されたことから、〔心の〕散乱なきが、等であり、疑惑〔の思い〕が捨棄されたことから、法(性質)の〔差異を〕定め置くことが、等であり、無明が捨棄されたことから、知恵が、等であり、不満〔の思い〕が捨棄されたことから、歓喜が、等であり、〔五つの修行の〕妨害が捨棄されたことから、第一の瞑想が、等であり……略……〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、阿羅漢道が、等である。

 [583]「首(筆頭・頭目)」とは、十三の首がある。(1)障害の首としての渇愛と、(2)結縛の首としての意と、(3)執着の首としての見解と、(4)〔心の〕散乱の首としての〔心の〕高揚と、(5)〔心の〕汚染(雑染)の首としての無明と、(6)信念の首としての信と、(7)励起の首としての精進と、(8)現起の首としての気づきと、(9)〔心の〕散乱なきの首としての〔心の〕統一と、(10)〔あるがままの〕見の首としての知慧と、(11)転起されたものの首としての生命の機能と、(12)境涯の首としての解脱と、(13)形成〔作用〕の首としての止滅とである。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「一切の諸法(性質)の、正しい断絶、および、止滅における、現起なきこととしての知慧が、等首者の義(意味)についての知恵となる」〔と〕。

 [584]等首者の義(意味)の知恵についての釈示が、第三十六となる。


1.1.37 謹厳の義(意味)の知恵についての釈示


88.


 [585]どのように、多々なるものと種々なることと一なることと威あるものを完全に取り払うことにおける知慧が、謹厳の義(意味)についての知恵となるのか。「多々なるもの」とは、貪欲(貪)が、多々なるものであり、憤怒(瞋)が、多々なるものであり、迷妄(痴)が、多々なるものであり、忿怒(忿)が……略……怨恨(恨)が……隠覆(覆)が……加虐(悩)が……嫉妬(嫉)が……物惜(慳)が……幻想(諂)が……狡猾(誑)が……強情(傲)が……激昂(怒)が……思量(慢)が……高慢(過慢)が……驕慢(驕)が……放逸が……一切の〔心の〕汚れ(煩悩)が……一切の悪しき行ないが……一切の行作(現行)が……一切の生存に至る行為が、多々なるものである。

 [586]【103】「種々なることと一なること」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、種々なることであり、離欲が、一なることであり、加害〔の思い〕が、種々なることであり、加害〔の思い〕なきが、一なることであり、〔心の〕沈滞と眠気が、種々なることであり、光明の表象が、一なることであり、〔心の〕高揚が、種々なることであり、〔心の〕散乱なきが、一なることであり、疑惑〔の思い〕が、種々なることであり、法(性質)の〔差異を〕定め置くことが、一なることであり、無明が、種々なることであり、知恵が、一なることであり、不満〔の思い〕が、種々なることであり、歓喜が、一なることであり、〔五つの修行の〕妨害が、種々なることであり、第一の瞑想が、一なることであり……略……〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、種々なることであり、阿羅漢道が、一なることである。

 [587]「威あるもの」とは、五つの威あるものがある。(1)行ないの威あるもの、(2)徳の威あるもの、(3)知慧の威あるもの、(4)功徳の威あるもの、(5)法(真理)の威あるものである。(1)行ないの威あるものによって威あるものとなったことから、劣戒の威あるものを完全に取り払う。(2)徳の威あるものによって威あるものとなったことから、徳なきの威あるものを完全に取り払う。(3)知慧の威あるものによって威あるものとなったことから、劣慧の威あるものを完全に取り払う。(4)功徳の威あるものによって威あるものとなったことから、功徳なきの威あるものを完全に取り払う。(5)法(真理)の威あるものによって威あるものとなったことから、法(真理)なきの威あるものを完全に取り払う。

 [588]「謹厳」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、謹厳ならざるものであり、離欲が、謹厳であり、加害〔の思い〕が、謹厳ならざるものであり、加害〔の思い〕なきが、謹厳であり、〔心の〕沈滞と眠気が、謹厳ならざるものであり、光明の表象が、謹厳であり、〔心の〕高揚が、謹厳ならざるものであり、〔心の〕散乱なきが、謹厳であり、疑惑〔の思い〕が、謹厳ならざるものであり、法(性質)の〔差異を〕定め置くことが、謹厳であり、無明が、謹厳ならざるものであり、知恵が、謹厳であり、不満〔の思い〕が、謹厳ならざるものであり、歓喜が、謹厳であり、〔五つの修行の〕妨害が、謹厳ならざるものであり、第一の瞑想が、謹厳であり……略……〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、謹厳ならざるものであり、阿羅漢道が、謹厳である。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「多々なるものと種々なることと一なることと威あるものを完全に取り払うことにおける知慧が、謹厳の義(意味)についての知恵となる」〔と〕。

 [589]謹厳の義(意味)の知恵についての釈示が、第三十七となる。


1.1.38 精進勉励の知恵についての釈示


89.


 [590]どのように、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となるのか。諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきのために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となる。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となる。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における【104】知慧が、精進勉励についての知恵となる。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の止住のために、忘却なきのために、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となる。

 [591]〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の生起なきのために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となる。〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の捨棄のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となる。〔いまだ〕生起していない離欲の生起のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となる。〔すでに〕生起した離欲の止住のために、忘却なきのために、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となる……略……。

 [592]〔いまだ〕生起していない〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの生起なきのために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となる。〔すでに〕生起した〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの捨棄のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となる。〔いまだ〕生起していない阿羅漢道の生起のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となる。〔すでに〕生起した阿羅漢道の止住のために、忘却なきのために、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における知慧が、精進勉励についての知恵となる」〔と〕。

 [593]精進勉励の知恵についての釈示が、第三十八となる。


1.1.39 義(意味)の見示の知恵についての釈示


90.


 [594]どのように、種々なる法(性質)を明示することとしての知慧が、義(意味)の見示についての知恵となるのか。「種々なる法(性質)」とは、〔心身を構成する〕五つの範疇、十二の〔認識の〕場所、十八の界域、善なる諸法(性質)、善ならざる諸法(性質)、〔善悪が〕説き示されない諸法(性質)、欲望の行境の諸法(性質)、形態の行境の諸法(性質)、形態なき行境の諸法(性質)、属するところなき諸法(性質)である。

 [595]「明示すること」とは、形態を、無常〔の観点〕から明示し、形態を、苦痛〔の観点〕から明示し、形態を、無我〔の観点〕から明示し、感受〔作用〕を……略……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識別〔作用〕を……眼を【105】……略……老と死を、無常〔の観点〕から明示し、老と死を、苦痛〔の観点〕から明示し、老と死を、無我〔の観点〕から明示する。

 [596]「義(意味)の見示」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者は、離欲の義(意味)を見示し、加害〔の思い〕なきを捨棄している者は、加害〔の思い〕なきの義(意味)を見示し、〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者は、光明の表象の義(意味)を見示し、〔心の〕高揚を捨棄している者は、〔心の〕散乱なきの義(意味)を見示し、疑惑〔の思い〕を捨棄している者は、法(性質)の〔差異を〕定め置くことの義(意味)を見示し、無明を捨棄している者は、知恵の義(意味)を見示し、不満〔の思い〕を捨棄している者は、歓喜の義(意味)を見示し、〔五つの修行の〕妨害を捨棄している者は、第一の瞑想の義(意味)を見示し……略……〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者は、阿羅漢道の義(意味)を見示する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「種々なる法(性質)を明示することとしての知慧が、義(意味)の見示についての知恵となる」〔と〕。

 [597]義(意味)の見示の知恵についての釈示が、第三十九となる。


1.1.40 見の清浄の知恵についての釈示


91.


 [598]どのように、一切の諸法(性質)の、一なる包摂たることと種々なることと一なることの理解(通達)における知慧が、見の清浄の知恵となるのか。「一切の諸法(性質)」とは、〔心身を構成する〕五つの範疇……略……属するところなき諸法(性質)である。

 [599]「一なる包摂たること」とは、十二の行相によって、一切の諸法(性質)が、一なる包摂たることとなる。(1)真実の義(意味)によって、(2)無我の義(意味)によって、(3)真理の義(意味)によって、(4)理解の義(意味)によって、(5)証知することの義(意味)によって、(6)遍知することの義(意味)によって、(7)法(性質)の義(意味)によって、(8)界域の義(意味)によって、(9)所知の義(意味)によって、(10)実証の義(意味)によって、(11)接触すること(体得すること)の義(意味)によって、(12)知悉(現観)の義(意味)によって、これらの十二の行相によって、一切の諸法(性質)が、一なる包摂たることとなる。

 [600]「種々なることと一なること」とは、欲望〔の対象〕にたいする貪〔の思い〕が、種々なることであり、離欲が、一なることであり……略……〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、種々なることであり、阿羅漢道が、一なることである。

 [601]「理解」とは、苦痛という真理を、遍知の理解として、理解し、集起という真理を、捨棄の理解として、理解し、止滅という真理を、実証の理解として、理解し、道という真理を、修行の理解として、理解する。

 [602]「見の清浄」とは、預流道の瞬間において、見が清浄となり、預流果の瞬間において、見が清浄となり、一来道の瞬間において、見が清浄となり、一来果の瞬間において、見が清浄となり、不還道の瞬間において、見が清浄となり、不還果の【106】瞬間において、見が清浄となり、阿羅漢道の瞬間において、見が清浄となり、阿羅漢果の瞬間において、見が清浄となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「一切の諸法(性質)の、一なる包摂たることと種々なることと一なることの理解における知慧が、見の清浄の知恵となる」〔と〕。

 [603]見の清浄の知恵についての釈示が、第四十となる。


1.1.41 忍耐の知恵についての釈示


92.


 [604]どのように、見い出されたものたることから、知慧が、忍耐の知恵となるのか。形態が、無常〔の観点〕から見い出されたものとなる。形態が、苦痛〔の観点〕から見い出されたものとなる。形態が、無我〔の観点〕から見い出されたものとなる。そのものそのものが見い出されたものとなるなら、そのものそのものを忍耐する(信受する)、ということで、見い出されたものたることから、知慧が、忍耐の知恵となる。感受〔作用〕が……略……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……。識別〔作用〕が……。眼が……略……。老と死が、無常〔の観点〕から見い出されたものとなる。老と死が、苦痛〔の観点〕から見い出されたものとなる。老と死が、無我〔の観点〕から見い出されたものとなる。そのものそのものが見い出されたものとなるなら、そのものそのものを忍耐する、ということで、見い出されたものたることから、知慧が、忍耐の知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「見い出されたものたることから、知慧が、忍耐の知恵となる」〔と〕。

 [605]忍耐の知恵についての釈示が、第四十一となる。


1.1.42 深解の知恵についての釈示


93.


 [606]どのように、接触されたものたることから、知慧が、深解についての知恵となるのか。形態を、無常〔の観点〕から接触する。形態を、苦痛〔の観点〕から接触する。形態を、無我〔の観点〕から接触する。そのものそのものを接触するなら、そのものそのものを深解する、ということで、接触されたものたることから、知慧が、深解についての知恵となる。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識別〔作用〕を……。眼を……略……。老と死を、無常〔の観点〕から接触する。老と死を、苦痛〔の観点〕から接触する。老と死を、無我〔の観点〕から接触する。そのものそのものを接触するなら、そのものそのものを深解する、ということで、接触されたものたることから、知慧が、深解についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「接触されたものたることから、知慧が、深解についての知恵となる」〔と〕。

 [607]深解の知恵についての釈示が、第四十二となる。


1.1.43 部分の住の知恵についての釈示


94.


 [608]【107】どのように、結集における知慧が、部分の住についての知恵となるのか。誤った見解(邪見)という縁からもまた、知らされたものとなる。誤った見解の寂止という縁からもまた、知らされたものとなる。正しい見解(正見)という縁からもまた、知らされたものとなる。正しい見解の寂止という縁からもまた、知らされたものとなる。誤った思惟(邪思惟)という縁からもまた、知らされたものとなる。誤った思惟の寂止という縁からもまた、知らされたものとなる。正しい思惟(正思惟)という縁からもまた、知らされたものとなる。正しい思惟の寂止という縁からもまた、知らされたものとなる……略……。誤った解脱という縁からもまた、知らされたものとなる。誤った解脱の寂止という縁からもまた、知らされたものとなる。正しい解脱という縁からもまた、知らされたものとなる。正しい解脱の寂止という縁からもまた、知らされたものとなる。欲〔の思い〕という縁からもまた、知らされたものとなる。欲〔の思い〕の寂止という縁からもまた、知らされたものとなる。思考という縁からもまた、知らされたものとなる。思考の寂止という縁からもまた、知らされたものとなる。表象という縁からもまた、知らされたものとなる。表象の寂止という縁からもまた、知らされたものとなる。

 [609]しかして、欲〔の思い〕が、寂止されていないものとして有り、しかして、思考が、寂止されていないものとして有り、しかして、表象が、寂止されていないものとして有り、その縁からもまた、知らされたものとなる。しかして、欲〔の思い〕が、寂止されたものとして有り、しかして、思考が、寂止されていないものとして有り、しかして、表象が、寂止されていないものとして有り、その縁からもまた、知らされたものとなる。しかして、欲〔の思い〕が、寂止されたものとして有り、しかして、思考が、寂止されたものとして有り、しかして、表象が、寂止されていないものとして有り、その縁からもまた、知らされたものとなる。しかして、欲〔の思い〕が、寂止されたものとして有り、しかして、思考が、寂止されたものとして有り、しかして、表象が、寂止されたものとして有り、その縁からもまた、知らされたものとなる。〔いまだ〕得ていないものを得るために、精勤が存在する。その境位もまた、〔それが〕獲得されたとき、その縁からもまた、知らされたものとなる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「結集における知慧が、部分の住についての知恵となる」〔と〕。

 [610]部分の住の知恵についての釈示が、第四十三となる。


1.1.44-49 六つの還転の知恵についての釈示


95.


 [611](1)どのように、主要のものたることから、知慧が、表象(想)の還転についての知恵となるのか。離欲が主要のものたることから、知慧が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕から、〔あるがままの〕表象によって還転する、ということで、主要のものたることから、知慧が、表象の還転についての知恵となる。加害〔の思い〕なきが主要のものたることから、知慧が、加害〔の思い〕から、〔あるがままの〕表象によって還転する、ということで、主要のものたることから、知慧が、表象の還転についての知恵となる。光明の表象が主要のものたることから、【108】知恵が、〔心の〕沈滞と眠気から、〔あるがままの〕表象によって還転する、ということで、主要のものたることから、知慧が、表象の還転についての知恵となる。〔心の〕散乱なきが主要のものたることから、知慧が、〔心の〕高揚から、〔あるがままの〕表象によって還転する、ということで、主要のものたることから、知慧が、表象の還転についての知恵となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことが主要のものたることから、知慧が、疑惑〔の思い〕から、〔あるがままの〕表象によって還転する、ということで、主要のものたることから、知慧が、表象の還転についての知恵となる。知恵が主要のものたることから、知慧が、無明から、〔あるがままの〕表象によって還転する、ということで、主要のものたることから、知慧が、表象の還転についての知恵となる。歓喜が主要のものたることから、知慧が、不満〔の思い〕から、〔あるがままの〕表象によって還転する、ということで、主要のものたることから、知慧が、表象の還転についての知恵となる。第一の瞑想が主要のものたることから、知慧が、〔五つの修行の〕妨害から、〔あるがままの〕表象によって還転する、ということで、主要のものたることから、知慧が、表象の還転についての知恵となる……略……。阿羅漢道が主要のものたることから、知慧が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れから、〔あるがままの〕表象によって還転する、ということで、主要のものたることから、知慧が、表象の還転についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「主要のものたることから、知慧が、表象の還転についての知恵となる」〔と〕。


96.


 [612](2)どのように、種々なることにおける知慧が、思の還転についての知恵となるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、種々なることであり、離欲が、一なることであり、離欲の一なることを思い考えている者のばあい、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕から、心が還転する、ということで、種々なることにおける知慧が、思の還転についての知恵となる。加害〔の思い〕が、種々なることであり、加害〔の思い〕なきが、一なることであり、加害〔の思い〕なきの一なることを思い考えている者のばあい、加害〔の思い〕から、心が還転する、ということで、種々なることにおける知慧が、思の還転についての知恵となる。〔心の〕沈滞と眠気が、種々なることであり、光明の表象が、一なることであり、光明の表象の一なることを思い考えている者のばあい、〔心の〕沈滞と眠気から、心が還転する、ということで、種々なることにおける知慧が、思の還転についての知恵となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、種々なることであり、阿羅漢道が、一なることであり、阿羅漢道の一なることを思い考えている者のばあい、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れから、心が還転する、ということで、種々なることにおける知慧が、思の還転についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「種々なることにおける知慧が、思の還転についての知恵となる」〔と〕。


97.


 [613](3)どのように、確立における知慧が、心の還転についての知恵となるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者は、離欲を所以に、心を確立する、ということで、確立における知慧が、心の還転についての知恵となる。加害〔の思い〕を【109】捨棄している者は、加害〔の思い〕なきを所以に、心を確立する、ということで、確立における知慧が、心の還転についての知恵となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者は、光明の表象を所以に、心を確立する、ということで、確立における知慧が、心の還転についての知恵となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者は、阿羅漢道を所以に、心を確立する、ということで、確立における知慧が、心の還転についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「確立における知慧が、心の還転についての知恵となる」〔と〕。


98.


 [614](4)どのように、空性における知慧が、知恵の還転についての知恵となるのか。「眼は、空である――あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては〔空であり〕、あるいは、常住なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常久なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常恒なるものとしては〔空であり〕、あるいは、不変の法(性質)としては〔空である〕」と、事実のとおりに知っている者のばあい、〔事実のとおりに〕見ている者のばあい、眼の固着から、知恵が還転する、ということで、空性における知慧が、知恵の還転についての知恵となる。「耳は、空である……略……。「鼻は、空である……。「舌は、空である……。「身は、空である……。「意は、空である――あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては〔空であり〕、あるいは、常住なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常久なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常恒なるものとしては〔空であり〕、あるいは、不変の法(性質)としては〔空である〕」と、事実のとおりに知っている者のばあい、〔事実のとおりに〕見ている者のばあい、意の固着から、知恵が還転する、ということで、空性における知慧が、知恵の還転についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「空性における知慧が、知恵の還転についての知恵となる」〔と〕。


99.


 [615](5)どのように、放棄における知慧が、解脱の還転についての知恵となるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を放棄する、ということで、放棄における知慧が、解脱の還転についての知恵となる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕を放棄する、ということで、放棄における知慧が、解脱の還転についての知恵となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を放棄する、ということで、放棄における知慧が、解脱の還転についての知恵となる。〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚を放棄する、ということで、放棄における知慧が、解脱の還転についての知恵となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を放棄する、ということで、放棄における知慧が、解脱の還転についての知恵となる……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを放棄する、ということで、放棄における知慧が、【110】解脱の還転についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「放棄における知慧が、解脱の還転についての知恵となる」〔と〕。


100.


 [616](6)どのように、真実の義(意味)における知慧が、真理(諦)の還転についての知恵となるのか。苦痛の、逼悩の義(意味)を、形成されたものの義(意味)を、熱苦の義(意味)を、変化の義(意味)を、遍知している者は還転する、ということで、真実の義(意味)における知慧が、真理の還転についての知恵となる。集起の、実行(業を作ること)の義(意味)を、因縁の義(意味)を、束縛の義(意味)を、障害の義を、捨棄している者は還転する、ということで、真実の義(意味)における知慧が、真理の還転についての知恵となる。止滅の、出離の義(意味)を、遠離の義(意味)を、形成されたものでないものの義(意味)を、不死の義(意味)を、実証している者は還転する、ということで、真実の義(意味)における知慧が、真理の還転についての知恵となる。道の、出脱の義(意味)を、因の義(意味)を、〔あるがままの〕見の義(意味)を、優位主要性の義(意味)を、修行している者は還転する、ということで、真実の義(意味)における知慧が、真理の還転についての知恵となる。

 [617](1)表象の還転、(2)思の還転、(3)心の還転、(4)知恵の還転、(5)解脱の還転、(6)真理の還転がある。〔あるがままに〕表象している者は還転する、ということで、表象の還転となる。〔あるがままに〕思い考えている者は還転する、ということで、思の還転となる。〔あるがままに〕識別している者は還転する、ということで、心の還転となる。知恵を為している者は還転する、ということで、知恵の還転となる。放棄している者は還転する、ということで、解脱の還転となる。真実の義(意味)において還転する、ということで、真理の還転となる。

 [618]そこに、表象の還転があるなら、そこには、思の還転がある。そこに、思の還転があるなら、そこには、表象の還転がある。そこに、表象の還転と思の還転があるなら、そこには、心の還転がある。そこに、心の還転があるなら、そこには、表象の還転と思の還転がある。そこに、表象の還転と思の還転と心の還転があるなら、そこには、知恵の還転がある。そこに、知恵の還転があるなら、そこには、表象の還転と思の還転と心の還転がある。そこに、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転があるなら、そこには、解脱の還転がある。そこに、解脱の還転があるなら、そこには、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転がある。そこに、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転と解脱の還転があるなら、そこには、真理の還転がある。そこに、真理の還転があるなら、そこには、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転と解脱の還転がある。それは、所知の義(意味)によって、【111】知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「真実の義(意味)における知慧が、真理の還転についての知恵となる」〔と〕。

 [619]六つの還転の知恵についての釈示が、第四十九となる。


1.1.50 〔種々なる〕神通の種類の知恵についての釈示


101.


 [620]どのように、身体をもまた、心をもまた、一つに定め置くこと〔としての知慧〕が――安楽の表象と、軽快の表象と、〔両者を心に〕確立することを所以に、実現の義(意味)における知慧が――〔種々なる〕神通の種類についての知恵となるのか。ここに、比丘が、(1)欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての形成〔作用〕を具備した神通の足場(神足)を修行し、(2)精進による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(3)心による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(4)考察による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行する。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を遍く修行し、遍く調御し、柔和と為し、行為に適するものと〔為す〕。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を遍く修行して、遍く調御して、柔和と為して、行為に適するものと〔為して〕、身体をもまた、心のうちに収め、心をもまた、身体のうちに収め、身体を所以に、心を変化させ、心を所以に、身体を変化させ、身体を所以に、心を確立し、心を所以に、身体を確立し、身体を所以に、心を変化させて、心を所以に、身体を変化させて、身体を所以に、心を確立して、心を所以に、身体を確立して、身体において、安楽の表象と軽快の表象とに入って、〔世に〕住む。彼は、そのように修行された心によって、完全なる清浄にして遍く清められた〔心〕によって、〔種々なる〕神通の種類の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせる。彼は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を経験する(体現する)。


102.


 [621]一なる者として有ってなお、多種なる者と成る。多種なる者として有ってなお、一なる者と成る。明現状態と〔成る〕。超没状態と〔成る〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴く――それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為す――それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴く――それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行く――それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。これらの月と太陽をもまた、〔すなわち〕このように大いなる神通ある〔月と太陽〕を、このように大いなる威力ある〔月と太陽〕を、手でもって撫“な”でまわし、擦“さす”りまわす。梵世(梵天界)に至るまでもまた、身体によって自在〔なる状態〕を転起させる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「身体をもまた、心をもまた、一つに定め置くこと〔としての知慧〕が――安楽の表象と、軽快の表象と、〔両者を心に〕確立することを所以に、実現の義(意味)における知慧が――〔種々なる〕神通の種類についての知恵となる」〔と〕。

 [622]〔種々なる〕神通の種類の知恵についての釈示が、第五十となる。


1.1.51 耳の界域の清浄の知恵についての釈示


103.


 [623]【112】どのように、思考(尋)の充満を所以に、種々なることと一なることある諸々の音声の形相の、深解における知慧が、耳の界域(耳界)の清浄の知恵となるのか。ここに、比丘が、(1)欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と……略……(2)精進による〔心の〕統一と……(3)心による〔心の〕統一と……(4)考察による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行する。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を遍く修行し、遍く調御し、柔和と為し、行為に適するものと〔為す〕。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を遍く修行して、遍く調御して、柔和と為して、行為に適するものと〔為して〕、遠方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、現前にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、粗大なるものもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、微細なるものもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、軟柔なるものや軟柔ならざるものもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、東方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、西方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、北方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、南方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、東維(東南)にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、西維(西北)にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、北維(東北)にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、南維(西南)にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、下方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、上方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為す。彼は、そのように修行された心によって、完全なる清浄にして遍く清められた〔心〕によって、天耳の界域の清浄の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせる。彼は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、天〔の神々〕たちと、人間たちと、両者の音声を聞く――それらが、遠方にあるも、さらには、諸々の現前にあるも。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「思考の充満を所以に、種々なることと一なることある諸々の音声の形相の、深解における知慧が、耳の界域の清浄の知恵となる」〔と〕。

 [624]耳の界域の清浄の知恵についての釈示が、第五十一となる。


1.1.52 〔他者の〕心を探知する知恵についての釈示


104.


 [625]【113】どのように、三つの心の充満あることから、諸々の〔感官の〕機能(根)の清らかさを所以に、種々なることと一なることある識別〔作用〕(識)の性行の深解における知慧が、〔他者の〕心を探知する知恵となるのか。ここに、比丘が、(1)欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(2)精進による〔心の〕統一と……略……(3)心による〔心の〕統一と……略……(4)考察による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行する。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を遍く修行し、遍く調御し、柔和と為し、行為に適するものと〔為す〕。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を遍く修行して、遍く調御して、柔和と為して、行為に適するものと〔為して〕、このように、覚知する。「この形態は、悦意の機能(喜根)から等しく現起するものである」「この〔形態〕は、失意の機能(憂根)から等しく現起するものである」「この〔形態〕は、放捨の機能(捨根)から等しく現起するものである」と。彼は、そのように修行された心によって、完全なる清浄にして遍く清められた〔心〕によって、〔他者の〕心を探知する知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせる。彼は、〔自らの〕心をとおして、他の有情たちや他の人たちの心を探知して、覚知する。あるいは、貪欲を有する心を、「貪欲を有する心である」と覚知する。あるいは、貪欲を離れた心を、「貪欲を離れた心である」と覚知する。あるいは、憤怒を有する心を……略……。あるいは、憤怒を離れた心を……略……。あるいは、迷妄を有する心を……略……。あるいは、迷妄を離れた心を……略……。あるいは、退縮した心を……略……。あるいは、散乱した心を……略……。あるいは、莫大なる心を……略……。あるいは、莫大ならざる心を……略……。あるいは、有上なる心を……略……。あるいは、無上なる心を……略……。あるいは、定められた心を……略……。あるいは、定められていない心を……略……。あるいは、解脱した心を……略……。あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「三つの心(悦意を共具した心・失意を共具した心・放捨を共具した心)の充満あることから、諸々の〔感官の〕機能の清らかさを所以に、種々なることと一なることある識別〔作用〕の性行の深解における知慧が、〔他者の〕心を探知する知恵となる」〔と〕。

 [626]〔他者の〕心を探知する知恵についての釈示が、第五十二となる。


1.1.53 過去における居住の随念の知恵についての釈示


105.


 [627]どのように、縁によって転起された諸法(性質)の、種々なることと一なることある行為(業)の充満を所以に、【114】深解における知慧が、過去における居住(過去世)の随念の知恵となるのか。ここに、比丘が、(1)欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と……略……柔和と為して、行為に適するものと〔為して〕、このように、覚知する。「これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。すなわち、この――無明(無明)という縁から、諸々の形成〔作用〕(諸行)が〔発生する〕。諸々の形成〔作用〕という縁から、識別〔作用〕(識)が〔発生する〕。識別〔作用〕という縁から、名前と形態(名色)が〔発生する〕。名前と形態という縁から、六つの〔認識の〕場所(六処)が〔発生する〕。六つの〔認識の〕場所という縁から、接触(触)が〔発生する〕。接触という縁から、感受(受)が〔発生する〕。感受という縁から、渇愛(愛)が〔発生する〕。渇愛という縁から、執取(取)が〔発生する〕。執取という縁から、生存(有)が〔発生する〕。生存という縁から、生(生)が〔発生する〕。生という縁から、老と死(老死)が〔発生し〕、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生する。このように、この全部の苦痛の範疇(苦蘊)の、集起が有る。

 [628]彼は、そのように修行された心によって、完全なる清浄にして遍く清められた〔心〕によって、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせる。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念する。それは、たとえば、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた。〔すなわち〕このような名の者として、このような姓の者として、このような色艶の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知者として、このような寿命を最終極とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、〔ふたたび〕某所に生起した。そこにおいてもまた、〔このように〕存していた。〔すなわち〕このような名の者として、このような姓の者として、このような色艶の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知者として、このような寿命を最終極とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生した者としてある」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「縁によって転起された諸法(性質)の、種々なることと一なることある行為の充満を所以に、深解における知慧が、過去における居住の随念の知恵となる」〔と〕。

 [629]過去における居住の随念の知恵についての釈示が、第五十三となる。


1.1.54 天眼の知恵についての釈示


106.


 [630]どのように、光明を所以に、種々なることと一なることある諸々の形態(色)の形相の、〔あるがままの〕見の義(意味)における知慧が、天眼の知恵となるのか。ここに、比丘が、(1)欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(2)精進による〔心の〕統一と……略……(3)心による〔心の〕統一と……略……(4)考察による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行する。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を遍く修行し、遍く調御し、柔和と為し、行為に適するものと〔為す〕。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を遍く修行して、遍く調御して、柔和と【115】為して、行為に適するものと〔為して〕、光明の表象に意を為し、昼の表象に〔心を〕確立する。「昼のように、そのように、夜がある。夜のように、そのように、昼がある」〔と〕、かくのごとく、開かれた心によって、覆い包まれていない〔心〕によって、光を有する心を修行する。彼は、そのように修行された心によって、完全なる清浄にして遍く清められた〔心〕によって、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせる。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちを見る。死滅しつつある者たちとして、再生しつつある者たちとして、下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き在り方の者たちとして、悪しき在り方の者たちとして、〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近づき行く者たちとして、有情たちを覚知する。「諸君よ、まさに、これらの有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解の者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちであり、彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪しき境遇(悪趣)に、堕所に、地獄に、再生した者たちである。諸君よ、あるいは、また、これらの有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判することなき者たちであり、正しい見解の者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちであり、彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世〔界〕に、再生した者たちである」と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちを見る。死滅しつつある者たちとして、再生しつつある者たちとして、下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き在り方の者たちとして、悪しき在り方の者たちとして、〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近づき行く者たちとして、有情たちを覚知する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「光明を所以に、種々なることと一なることある諸々の形態の形相の、〔あるがままの〕見の義(意味)における知慧が、天眼の知恵となる」〔と〕。

 [631]天眼の知恵についての釈示が、第五十四となる。


1.1.55 諸々の煩悩の滅尽の知恵についての釈示


107.


 [632]どのように、六十四の行相によって、三つの機能の、自在なる状態たることとしての知慧が、諸々の煩悩の滅尽についての知恵となるのか。どのような三つの機能の、であるのか。(1)「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能の、(2)了知の機能の、(3)了知者の機能の、である。

 [633]「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能は、どれだけの境位へと赴くのか。了知の機能は、どれだけの境位へと赴くのか。了知者の機能は、どれだけの境位へと赴くのか。「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能は、一つの境位へと赴く。(1)預流道である。了知の機能は、六つの境位へと赴く。【116】(2)預流果、(3)一来道、(4)一来果、(5)不還道、(6)不還果、(7)阿羅漢道である。了知者の機能は、一つ境位へと赴く。(8)阿羅漢果である。

 [634](1)預流道の瞬間において、「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能の、(1―1)信の機能は、信念が付属のものと成り、(1―2)精進の機能は、励起が付属のものと成り、(1―3)気づきの機能は、現起が付属のものと成り、(1―4)〔心の〕統一の機能は、〔心の〕散乱なきが付属のものと成り、(1―5)知慧の機能は、見が付属のものと成り、(1―6)意の機能は、識別することが付属のものと成り、(1―7)悦意の機能は、潤沢が付属のものと成り、(1―8)生命の機能は、転起されたものの寂静なることの優位主要性が付属のものと成る。預流道の瞬間において、生じた諸法(性質)は、心から等しく現起する形態(善悪無記の物質)を除いて、まさしく、一切が、善なるものと成り、まさしく、一切が、煩悩なきものと成り、まさしく、一切が、出脱のものと成り、まさしく、一切が、〔煩悩の〕滅減に至るものと成り、まさしく、一切が、世〔俗〕を超えるものと成り、まさしく、一切が、涅槃を対象とするものと成る。預流道の瞬間において、「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能の、これらの八つの機能は、共に生じた付属のものと成り、互いに他と付属のものと成り、依所として付属のものと成り、結び付いたものとして付属のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成る。まさしく、それら〔の八つの機能〕は、その〔「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能〕の、まさしく、しかして、諸々の行相と成り、さらには、諸々の付属のものと〔成る〕。

 [635](2)預流果の瞬間において、了知の機能の、(2―1)信の機能は、信念が付属のものと成り、(2―2)精進の機能は、励起が付属のものと成り、(2―3)気づきの機能は、現起が付属のものと成り、(2―4)〔心の〕統一の機能は、〔心の〕散乱なきが付属のものと成り、(2―5)知慧の機能は、見が付属のものと成り、(2―6)意の機能は、識別することが付属のものと成り、(2―7)悦意の機能は、潤沢が付属のものと成り、(2―8)生命の機能は、転起されたものの寂静なることの優位主要性が付属のものと成る。預流果の瞬間において、生じた諸法(性質)は、まさしく、一切が、〔善悪が〕説き示されないものと成り、心から等しく現起する形態を除いて、まさしく、一切が、煩悩なきものと成り、まさしく、一切が、世〔俗〕を超えるものと成り、まさしく、一切が、涅槃を対象とするものと成る。預流果の瞬間において、了知の機能の、これらの八つの機能は、共に生じた付属のものと成り、互いに他と付属のものと成り、依所として付属のものと成り、結び付いたものとして付属のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成る。まさしく、それら〔の八つの機能〕は、その〔了知の機能〕の、まさしく、しかして、諸々の行相と成り、さらには、諸々の付属のものと〔成る〕。

 [636]【117】(3)一来道の瞬間において……略……。(4)一来果の瞬間において……略……。(5)不還道の瞬間において……略……。(6)不還果の瞬間において……略……。(7)阿羅漢道の瞬間において、了知の機能の、(7―1)信の機能は、信念が付属のものと成り……略……(7―8)生命の機能は、転起されたものの寂静なることの優位主要性が付属のものと成る。阿羅漢道の瞬間において、生じた諸法(性質)は、心から等しく現起する形態を除いて、まさしく、一切が、善なるものと成り、まさしく、一切が、煩悩なきものと成り、まさしく、一切が、出脱のものと成り、まさしく、一切が、〔煩悩の〕滅減に至るものと成り、まさしく、一切が、世〔俗〕を超えるものと成り、まさしく、一切が、涅槃を対象とするものと成る。阿羅漢道の瞬間において、了知の機能の、これらの八つの機能は、共に生じた付属のものと成り、互いに他と付属のものと成り、依所として付属のものと成り、結び付いたものとして付属のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成る。まさしく、それら〔の八つの機能〕は、その〔了知の機能〕の、まさしく、しかして、諸々の行相と成り、さらには、諸々の付属のものと〔成る〕。

 [637](8)阿羅漢果の瞬間において、了知者の機能の、(8―1)信の機能は、信念が付属のものと成り、(8―2)精進の機能は、励起が付属のものと成り、(8―3)気づきの機能は、現起が付属のものと成り、(8―4)〔心の〕統一の機能は、〔心の〕散乱なきが付属のものと成り、(8―5)知慧の機能は、見が付属のものと成り、(8―6)意の機能は、識別することが付属のものと成り、(8―7)悦意の機能は、潤沢が付属のものと成り、(8―8)生命の機能は、転起されたものの寂静なることの優位主要性が付属のものと成る。阿羅漢果の瞬間において、生じた諸法(性質)は、まさしく、一切が、〔善悪が〕説き示されないものと成り、心から等しく現起する形態を除いて、まさしく、一切が、煩悩なきものと成り、まさしく、一切が、世〔俗〕を超えるものと成り、まさしく、一切が、涅槃を対象とするものと成る。阿羅漢果の瞬間において、了知者の機能の、これらの八つの機能は、共に生じた付属のものと成り、互いに他と付属のものと成り、依所として付属のものと成り、結び付いたものとして付属のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成る。まさしく、それら〔の八つの機能〕は、その〔了知者の機能〕の、まさしく、しかして、諸々の行相と成り、さらには、諸々の付属のものと〔成る〕。かくのごとく、これらは、八つ八つのものとして、六十四〔の機能〕と成る。

 [638]「諸々の煩悩(漏)」とは、どのようなものが、それらの煩悩であるのか。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。どこにおいて、これらの煩悩が滅尽するのか。預流道によって、残りなく見解の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき【118】欲望の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき生存の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。一来道によって、粗大なる欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。不還道によって、残りなく欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。阿羅漢道によって、残りなく生存の煩悩が滅尽し、残りなく無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「六十四の行相によって、三つの機能の、自在なる状態たることとしての知慧が、諸々の煩悩の滅尽についての知恵となる」〔と〕。

 [639]諸々の煩悩の滅尽の知恵についての釈示が、第五十五となる。


1.1.56-63 真理の知恵の二つの四なるものについての釈示


108.


 [640]どのように、遍知の義(意味)における知慧が、苦痛についての知恵となり、捨棄の義(意味)における知慧が、集起についての知恵となり、実証の義(意味)における知慧が、止滅についての知恵となり、修行の義(意味)における知慧が、道についての知恵となるのか。苦痛の、逼悩の義(意味)が、形成されたものの義(意味)が、熱苦の義(意味)が、変化の義(意味)が、遍知の義(意味)となる。集起の、実行の義(意味)が、因縁の義(意味)が、束縛の義(意味)が、障害の義(意味)が、捨棄の義(意味)となる。止滅の、出離の義(意味)が、遠離の義(意味)が、形成されたものでないものの義(意味)が、不死の義(意味)が、実証の義(意味)となる。道の、出脱の義(意味)が、因の義(意味)が、〔あるがままの〕見の義(意味)が、優位主要性の義(意味)が、修行の義(意味)となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「遍知の義(意味)における知慧が、苦痛についての知恵となる」「捨棄の義(意味)における知慧が、集起についての知恵となる」「実証の義(意味)における知慧が、止滅についての知恵となる」〔と〕。


109.


 [641]どのように、苦痛についての知恵があり、苦痛の集起についての知恵があり、苦痛の止滅についての知恵があり、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵があるのか。【119】道を保有する者の知恵は、これは、苦痛においてもまた、知恵となり、これは、苦痛の集起においてもまた、知恵となり、これは、苦痛の止滅においてもまた、知恵となり、これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道においてもまた、知恵となる。

 [642]そこで、どのようなものが、苦痛についての知恵であるのか。苦痛を対象として生起する、〔まさに〕その、知慧、覚知、判別、精査、法(真理)の判別、省察、近察、精察、賢性、巧智、精緻、分明、思弁、近しき注視、英知、思慮、遍き導き、〔あるがままの〕観察、正知、〔導きの〕鞭、知慧、知慧の機能、知慧の力、知慧の刃、知慧の高楼、知慧の光明、知慧の光輝、知慧の灯火、知慧の宝、迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解なるもの――これが、苦痛についての知恵と説かれる。苦痛の集起を対象として……略……。苦痛の止滅を対象として……略……。苦痛の止滅に至る〔実践の〕道を対象として生起する、〔まさに〕その、知慧、覚知……略……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解なるもの――これが、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵と説かれる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「苦痛についての知恵がある」「苦痛の集起についての知恵がある」「苦痛の止滅についての知恵がある」「苦痛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵がある」〔と〕。

 [643]真理の知恵の二つの四なるものについての釈示が、第六十三となる。


1.1.64-67 清浄なるものとしての融通無礙の知恵についての釈示


110.


 [644]どのように、義(意味)の融通無礙についての知恵があり、法(性質)の融通無礙についての知恵があり、言語の融通無礙についての知恵があり、応答の融通無礙についての知恵があるのか。諸々の義(意味)についての知恵が、義(意味)の融通無礙となり、諸々の法(性質)についての知恵が、法(性質)の融通無礙となり、諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり、諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる。義(意味)の種々なることにおける知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(性質)の種々なることにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となり、言語の種々なることにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答の種々なることにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。義(意味)の〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(性質)の〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となり、言語の〔差異を〕定め置くことにおける【120】知慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答の〔差異を〕定め置くことにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。

 [645]義(意味)を省察することにおける知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(性質)を省察することにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となり、言語を省察することにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答を省察することにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。義(意味)を近察することにおける知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(性質)を近察することにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となり、言語を近察することにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答を近察することにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。

 [646]義(意味)の細別における知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(性質)の細別における知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となり、言語の細別における知慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答の細別における知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。義(意味)を増加することにおける知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(性質)を増加することにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となり、言語を増加することにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答を増加することにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。

 [647]義(意味)を照らすことにおける知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(性質)を照らすことにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となり、言語を照らすことにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答を照らすことにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。義(意味)を遍照することにおける知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(性質)を遍照することにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となり、言語を遍照することにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答を遍照することにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。義(意味)を明示することにおける知慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(性質)を明示することにおける知慧が、法(性質)の融通無礙についての知恵となり、言語を明示することにおける知慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答を明示することにおける知慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、知慧となる。それによって説かれる。「義(意味)の融通無礙についての知恵がある」「法(性質)の融通無礙についての知恵がある」「言語の融通無礙についての知恵がある」「応答の融通無礙についての知恵がある」〔と〕。

 [648]清浄なるものとしての融通無礙の知恵についての釈示が、第六十七となる。


1.1.68 機能の上下なることの知恵についての釈示


111.


 [649]【121】どのようなものが、如来の、機能の上下なることについての知恵であるのか。ここに、如来が、有情たちを見る――少なき塵の者たちとして、大きな塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、また、一部の者たちを、他世の罪過と恐怖を見る者たちとして、また、一部の者たちを、他世の罪過と恐怖を見ない者たちとして。

 [650]「少なき塵の者たちとして、大きな塵の者たちとして」とは、信ある人が、少なき塵の者となり、信なき人が、大きな塵の者となる。精進に励む人が、少なき塵の者となり、怠惰の人が、大きな塵の者となる。気づきを現起させた人が、少なき塵の者となり、気づきを忘却した人が、大きな塵の者となる。〔心が〕定められた人が、少なき塵の者となり、〔心が〕定められていない人が、大きな塵の者となる。知慧ある人が、少なき塵の者となり、知慧浅き人が、大きな塵の者となる。

 [651]「鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして」とは、信ある人が、鋭敏なる機能の者となり、信なき人が、柔弱なる機能の者となる。精進に励む人が、鋭敏なる機能の者となり、怠惰の人が、柔弱なる機能の者となる。気づきを現起させた人が、鋭敏なる機能の者となり、気づきを忘却した人が、柔弱なる機能の者となる。〔心が〕定められた人が、鋭敏なる機能の者となり、〔心が〕定められていない人が、柔弱なる機能の者となる。知慧ある人が、鋭敏なる機能の者となり、知慧浅き人が、柔弱なる機能の者となる。

 [652]「善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして」とは、信ある人が、善き行相の者となり、信なき人が、悪しき行相の者となる。精進に励む人が、善き行相の者となり、怠惰の人が、悪しき行相の者となる。気づきを現起させた人が、善き行相の者となり、気づきを忘却した人が、悪しき行相の者となる。〔心が〕定められた人が、善き行相の者となり、〔心が〕定められていない人が、悪しき行相の者となる。知慧ある人が、善き行相の者となり、知慧浅き人が、悪しき行相の者となる。

 [653]「識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして」とは、信ある人が、識知させるに易き者となり、信なき人が、識知させるに難き者となる。精進に励む人が、識知させるに易き者となり、怠惰の人が、識知させるに難き者となる。気づきを現起させた人が、識知させるに易き者となり、気づきを忘却した人が、識知させるに難き者となる。〔心が〕定められた人が、【122】識知させるに易き者となり、〔心が〕定められていない人が、識知させるに難き者となる。知慧ある人が、識知させるに易き者となり、知慧浅き人が、識知させるに難き者となる。

 [654]「また、一部の者たちを、他世の罪過と恐怖を見る者たちとして、また、一部の者たちを、他世の罪過と恐怖を見ない者たちとして」とは、信ある人が、他世の罪過と恐怖を見る者となり、信なき人が、他世の罪過と恐怖を見ない者となる。精進に励む人が、他世の罪過と恐怖を見る者となり、怠惰の人が、他世の罪過と恐怖を見ない者となる。気づきを現起させた人が、他世の罪過と恐怖を見る者となり、気づきを忘却した人が、他世の罪過と恐怖を見ない者となる。〔心が〕定められた人が、他世の罪過と恐怖を見る者となり、〔心が〕定められていない人が、他世の罪過と恐怖を見ない者となる。知慧ある人が、他世の罪過と恐怖を見る者となり、知慧浅き人が、他世の罪過と恐怖を見ない者となる。


112.


 [655]「世」とは、範疇の世〔界〕、界域の世〔界〕、〔認識の〕場所の世〔界〕、衰滅の生存の世〔界〕、衰滅の発生の世〔界〕、得達の生存の世〔界〕、得達の発生の世〔界〕である。

 [656]一つの世〔界〕がある。〔すなわち〕一切の有情は、食(栄養)に立脚する者たちである。

 [657]二つの世〔界〕がある。〔すなわち〕名前(名)と、形態(色)とである。

 [658]三つの世〔界〕がある。〔すなわち〕三つの感受(三受)である。

 [659]四つの世〔界〕がある。〔すなわち〕四つの食(四食)である。

 [670]五つの世〔界〕がある。〔すなわち〕〔心身を構成する〕五つの執取の範疇(五取蘊)である。

 [661]六つの世〔界〕がある。〔すなわち〕六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)である。

 [662]七つの世〔界〕がある。〔すなわち〕七つの識別〔作用〕の止住(七識住)である。

 [663]八つの世〔界〕がある。〔すなわち〕八つの世の法(八世間法)である。

 [664]九つの世〔界〕がある。〔すなわち〕九つの有情の居住(九有情居)である。

 [665]十の世〔界〕がある。〔すなわち〕十の〔認識の〕場所(十処)である。

 [666]十二の世〔界〕がある。〔すなわち〕十二の〔認識の〕場所(十二処)である。

 [667]十八の世〔界〕がある。〔すなわち〕十八の界域(十八界)である。

 [668]「罪過」とは、一切の〔心の〕汚れ(煩悩)が、諸々の罪過となり、一切の悪しき行ないが、諸々の罪過となり、一切の行作(現行)が、諸々の罪過となり、一切の生存に至る行為が、諸々の罪過となる。かくのごとく、しかして、この世〔界〕について、さらには、この罪過について、強烈なる恐怖の表象が、現起されたものと成る――それは、たとえば、また、剣を引き抜いた殺戮者にたいしてのように。これらの五十の行相によって、これらの知慧の機能を、知り、見、了知し、理解する。これが、如来の、機能の上下なることについての知恵である。

 [669]機能の上下なることの知恵についての釈示が、第六十八となる。


1.1.69 志欲と悪習の知恵についての釈示


113.


 [670]【123】どのようなものが、如来の、有情たちの志欲と悪習についての知恵であるのか。ここに、如来が、有情たちの、志欲を知り、悪習を知り、所行を知り、信念を知り、無能なると有能なる有情たちを覚知する。どのようなものが、有情たちの志欲であるのか。あるいは、「世〔界〕は、常恒である」と、あるいは、「世〔界〕は、常恒ならざるものである」と、「世〔界〕は、終極がある」と、あるいは、「世〔界〕は、終極がない」と、あるいは、「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)」と、あるいは、「他のものとして生命があり、他のものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)」と、あるいは、「如来は、死後に有る」と、あるいは、「如来は、死後に有ることがない」と、あるいは、「如来は、死後に、有ることもあれば、有ることがないこともある」と、あるいは、「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない」と、かくのごとく、あるいは、生存の見解(有見:実体論)に依拠した者たちとして、有情たちは〔世に〕有り、あるいは、非生存の見解(非有見:虚無論)に依拠した者たちとして、〔有情たちは世に有る〕。

 [671]あるいは、また、これらの両極に近づき行くことなくして、これの縁たること(此縁性:縁の特異性)と縁によって生起した諸法(縁已生法:縁によって生み出された物事)について、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕が、獲得されたものと成り、あるいは、事実のとおりの知恵が、〔獲得されたものと成る〕。まさしく、欲望〔の対象〕に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、欲望〔の対象〕に尊重ある者であり、欲望〔の対象〕に志欲ある者であり、欲望〔の対象〕を信念した者である」と。まさしく、欲望〔の対象〕に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、離欲に尊重ある者であり、離欲に志欲ある者であり、離欲を信念した者である」と。まさしく、離欲に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、離欲に尊重ある者であり、離欲に志欲ある者であり、離欲を信念した者である」と。まさしく、離欲に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、欲望〔の対象〕に尊重ある者であり、欲望〔の対象〕に志欲ある者であり、欲望〔の対象〕を信念した者である」と。まさしく、加害〔の思い〕に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、加害〔の思い〕に尊重ある者であり、加害〔の思い〕に志欲ある者であり、加害〔の思い〕を信念した者である」と。まさしく、加害〔の思い〕に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、加害〔の思い〕なきに尊重ある者であり、加害〔の思い〕なきに志欲ある者であり、加害〔の思い〕なきを信念した者である」と。まさしく、加害〔の思い〕なきに慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、加害〔の思い〕なきに尊重ある者であり、加害〔の思い〕なきに志欲ある者であり、加害〔の思い〕なきを信念した者である」と。まさしく、加害〔の思い〕なきに慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、加害〔の思い〕に尊重ある者であり、加害〔の思い〕に志欲ある者であり、加害〔の思い〕を信念した者である」と。まさしく、〔心の〕沈滞と眠気に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、〔心の〕沈滞と眠気に尊重ある者であり、〔心の〕沈滞と眠気に志欲ある者であり、〔心の〕沈滞と眠気を信念した者である」と。まさしく、〔心の〕沈滞と眠気に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、光明の表象に尊重ある者であり、光明の表象に志欲ある者であり、光明の表象を信念した者である」と。まさしく、光明の表象に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、光明の表象に尊重ある者であり、光明の表象に志欲ある者であり、光明の表象を信念した者である」と。まさしく、光明の表象に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、〔心の〕沈滞と眠気に尊重ある者であり、〔心の〕沈滞と眠気に志欲ある者であり、〔心の〕沈滞と眠気を信念した者である」と。これが、有情たちの志欲である。


114.


 [672]また、どのようなものが、有情たちの悪習であるのか。七つの悪習がある。(1)欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、(2)憤激〔の思い〕の悪習、(3)思量の悪習、(4)見解の悪習、(5)疑惑の悪習、(6)生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、(7)無明の悪習である。それが、世における、愛しい形態、快楽の形態としてあるなら、ここにおいて、有情たちの欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習は、悪しき習いとなる。それが、世における、愛しからざる形態、【124】快楽ならざる形態としてあるなら、ここにおいて、有情たちの憤激〔の思い〕の悪習は、悪しき習いとなる。かくのごとく、これらの二つの法(性質)において、無明は、従起したものとしてあり、それと一なる境位のものとして、思量と、見解と、疑惑とが、見られるべきである。これが、有情たちの悪習である。

 [673]また、どのようなものが、有情たちの所行であるのか。あるいは、〔限定された〕小なる境地のものとしての、あるいは、〔限定されない〕大なる境地のものとしての、功徳の行作、功徳なき行作、不動の行作である。これが、有情たちの所行である。


115.


 [674]また、どのようなものが、有情たちの信念であるのか。下劣なる信念の有情たちが存在し、精妙なる信念の有情たちが存在する。下劣なる信念の有情たちは、下劣なる信念の有情たちに、慣れ親しみ、親しくし、奉侍し、精妙なる信念の有情たちは、精妙なる信念の有情たちに、慣れ親しみ、親しくし、奉侍する。過去の時においてもまた、下劣なる信念の有情たちは、下劣なる信念の有情たちに、慣れ親しみ、親しくし、奉侍し、精妙なる信念の有情たちは、精妙なる信念の有情たちに、慣れ親しみ、親しくし、奉侍した。未来の時においてもまた、下劣なる信念の有情たちは、下劣なる信念の有情たちに、慣れ親しみ、親しくし、奉侍し、精妙なる信念の有情たちは、精妙なる信念の有情たちに、慣れ親しみ、親しくし、奉侍することになる。これが、有情たちの信念である。

 [675]どのような有情たちが、無能であるのか。すなわち、それらの有情たちが、行為の妨害を具備した者たちであり、〔心の〕汚れの妨害を具備した者たちであり、報いの妨害を具備した者たちであり、信なき者たちであり、欲〔の思い〕(意欲)なき者たちであり、知慧浅き者たちであり、善なる諸法(性質)における正しい〔道〕たることの決定に入ることが無能なる者たちであるなら、それらの有情たちとしてある、これらの者たちが、無能である。

 [676]どのような有情たちが、有能であるのか。すなわち、それらの有情たちが、行為の妨害を具備した者たちではなく、〔心の〕汚れの妨害を具備した者たちではなく、報いの妨害を具備した者たちではなく、信ある者たちであり、欲〔の思い〕(意欲)ある者たちであり、知慧ある者たちであり、善なる諸法(性質)における正しい〔道〕たることの決定に入ることが有能なる者たちであるなら、それらの有情たちとしてある、これらの者たちが、有能である。これが、如来の、有情たちの志欲と悪習についての知恵である。

 [677]志欲と悪習の知恵についての釈示が、第六十九となる。


1.1.70 対なる神変の知恵についての釈示


116.


 [678]【125】どのようなものが、如来の、対“つい”なる神変についての知恵であるのか。ここに、如来が、弟子たちとは共通ならざる、対なる神変を為す。上の身体からは、火の集塊“かたまり”が転起し、下の身体からは、水の奔流が転起する。下の身体からは、火の集塊が転起し、上の身体からは、水の奔流が転起する。前の身体からは、火の集塊が転起し、後の身体からは、水の奔流が転起する。後の身体からは、火の集塊が転起し、前の身体からは、水の奔流が転起する。右の眼からは、火の集塊が転起し、左の眼からは、水の奔流が転起する。左の眼からは、火の集塊が転起し、右の眼からは、水の奔流が転起する。右の耳孔からは、火の集塊が転起し、左の耳孔からは、水の奔流が転起する。左の耳孔からは、火の集塊が転起し、右の耳孔からは、水の奔流が転起する。右の鼻孔からは、火の集塊が転起し、左の鼻孔からは、水の奔流が転起する。左の鼻孔からは、火の集塊が転起し、右の鼻孔からは、水の奔流が転起する。右の肩先からは、火の集塊が転起し、左の肩先からは、水の奔流が転起する。左の肩先からは、火の集塊が転起し、右の肩先からは、水の奔流が転起する。右の手からは、火の集塊が転起し、左の手からは、水の奔流が転起する。左の手からは、火の集塊が転起し、右の手からは、水の奔流が転起する。右の脇からは、火の集塊が転起し、左の脇からは、水の奔流が転起する。左の脇からは、火の集塊が転起し、右の脇からは、水の奔流が転起する。右の足からは、火の集塊が転起し、左の足からは、水の奔流が転起する。左の足からは、火の集塊が転起し、右の足からは、水の奔流が転起する。指と指からは、火の集塊が転起し、指の間からは、水の奔流が転起する。指と指からは、火の集塊が転起し、指の間からは、水の奔流が転起する。一つ一つの毛から、火の集塊が転起し、一つ一つの毛から、水の奔流が転起する。毛穴から毛穴から、【126】火の集塊が転起し、毛穴から毛穴から、水の奔流が転起する。

 [679]六つの色の――青の、黄の、赤の、白の、緋の、極光の――世尊が歩行すると、化作されたもの(化仏)は、あるいは、立ち、あるいは、坐り、あるいは、臥所を営み(臥し)、世尊が立つと、化作されたものは、あるいは、歩行し、あるいは、坐り、あるいは、臥所を営み、世尊が坐すと、化作されたものは、あるいは、歩行し、あるいは、立ち、あるいは、臥所を営み、世尊が臥所を営むと、化作されたものは、あるいは、歩行し、あるいは、立ち、あるいは、坐り、化作されたものが歩行すると、世尊は、あるいは、立ち、あるいは、坐り、あるいは、臥所を営み、化作されたものが立つと、世尊は、あるいは、歩行し、あるいは、坐り、あるいは、臥所を営み、化作されたものが坐すと、世尊は、あるいは、歩行し、あるいは、立ち、あるいは、臥所を営み、化作されたものが臥所を営むと、世尊は、あるいは、歩行し、あるいは、立ち、あるいは、坐る。これが、如来の、対なる神変についての知恵である。

 [680]対なる神変の知恵についての釈示が、第七十となる。


1.1.71 大いなる慈悲の知恵についての釈示


117.


 [681]どのようなものが、如来の、大いなる慈悲の入定についての知恵であるのか。多くの行相によって〔あるがままに〕見ている、覚者たちには、世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「燃え盛っているのが、世の共住(社会生活)である」と〔あるがままに〕見ている、覚者たちには、世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「沸騰しているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている、覚者たちには、世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「奔走しているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている、覚者たちには、世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「邪道を行くのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている、覚者たちには、世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「〔他に〕導かれるのが、世〔界〕であり、常久ならざるものである」と〔あるがままに〕見ている、覚者たちには、世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「救護なきが、世〔界〕であり、主権なきものである」と〔あるがままに〕見ている、覚者たちには、世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「自らのものなきが、世〔界〕であり、一切を捨棄して去り行くべきものである」と〔あるがままに〕見ている、覚者たちには、世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「不足あるのが、【127】世〔界〕であり、満足なき渇愛の奴隷である」と〔あるがままに〕見ている、覚者たちには、世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「救護所ならざるのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「避難所ならざるのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「帰依所ならざるのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「帰依所と成ることなきが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。

 [682]「高揚しているのが、世〔界〕であり、寂止ならざるものである」と〔あるがままに〕見ている……略……。「矢を有するのが、世の共住(社会生活)であり、多々の矢によって貫かれたものである。彼のために諸々の矢を引き抜く者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。「無明の暗黒の妨害“さまたげ”あるのが、世の共住であり、盲者と成ったもの、〔心の〕汚れの檻に入れられたものである。彼のために、光明を見示する者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。「無明を具したのが、世の共住であり、盲者と成ったもの、覆い包まれたもの、絡んだ紐に類するもの、縺れた〔糸〕玉に類するもの、ムンジャ〔草〕やパッバジャ〔草〕と成ったものにして、悪所を、悪しき境遇(悪趣)を、堕所を、輪廻を、超克することがない」と〔あるがままに〕見ている……略……。「無明の毒の汚点によって汚染されているのが、世の共住であり、〔心の〕汚れの泥と成ったものである」と〔あるがままに〕見ている……略……。「貪欲と憤怒と迷妄の結束によって結び束ねられているのが、世の共住である。彼のために諸々の結束を解きほぐす者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。

 [683]「渇愛の結索との対面あるのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「渇愛の網によって覆われているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「渇愛の流れによって運ばれるのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「渇愛という束縛するものによって束縛されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「渇愛の悪習によって添着されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「渇愛の熱苦によって熱せられているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「渇愛の苦悶によって【128】遍く焼かれているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。

 [684]「見解の結索との対面あるのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「見解の網によって覆われているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「見解の流れによって運ばれるのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「見解という束縛するものによって束縛されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「見解の悪習によって添着されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「見解の熱苦によって熱せられているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「見解の苦悶によって遍く焼かれているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。

 [685]「生に従い行くのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「老によって添着されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「病によって征服されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「死によって侵されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「苦痛のうちに確立しているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。

 [686]「渇愛によって繋がれているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「老の垣によって取り巻かれているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「死魔の罠によって取り巻かれているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる結縛によって結縛されているのが、世の共住である――貪欲の結縛によって、憤怒の結縛によって、迷妄の結縛によって、思量の結縛によって、見解の結縛によって、〔心の〕汚れの結縛によって、悪しき行ないの結縛によって。彼のために結縛を解き放つ者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる障害によって障害されているのが、世の共住である。彼のために障害を断ち切る者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる深淵に落ちたのが、世の共住である。彼のために深淵から引き上げる者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる砂漠を行くのが、世の共住である。彼のために砂漠を超え渡す者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる輪廻を行くのが、世の共住である。彼のために輪廻から解き放つ者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる難所において遍く転起するのが、世の共住である。彼のために難所から引き上げる者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる泥沼にはまったのが、【129】世の共住である。彼のために泥沼から引き上げる者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。

 [687]「〔苦痛によって〕侵されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「燃え盛っているのが、世の共住である――貪欲の火によって、憤怒の火によって、迷妄の火によって、生によって、老によって、死によって、諸々の憂いによって、諸々の嘆きによって、諸々の苦痛によって、諸々の失意によって、諸々の葛藤によって。彼のために〔燃え盛っているものを〕寂滅させる者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。「分断されたものであるのが、世の共住であり、打ちのめされ、常に救護なきものであり、棒(刑罰・暴力)を得たものであり、盗賊である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「罪過の結縛によって結縛されたのが、世の共住であり、刑場として現起したものである。彼のために結縛を解き放つ者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。「孤独であるのが、世の共住であり、最高の慈悲〔の対象〕たるを得たものである。彼のために救護する者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。「苦痛によって制圧されているのが、世の共住であり、長夜にわたり責め苛まれている」と〔あるがままに〕見ている……略……。「拘束されているのが、世の共住であり、常に渇いている」と〔あるがままに〕見ている……略……。

 [688]「盲者であるのが、世の共住であり、眼なきものである」と〔あるがままに〕見ている……略……。「眼を失ったのが、世の共住であり、完全なる導き手なきものである」と〔あるがままに〕見ている……略……。「邪道への跳入が、世の共住であり、曲がりなき〔道〕に反するものである。彼のために聖なる道へと導き入れる者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる激流への跳入が、世の共住である。彼のために激流から引き上げる者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている……略……。


118.


 [689]「二つの悪しき見解(常見・断見)によって遍く取り囲まれているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「三つの悪しき行ない(身・口・意による悪行)によって、邪“よこしま”に実践しているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「四つの束縛(欲望・生存・見解・無明)によって束縛されているのが、世の共住であり、四つの束縛によって結び付けられたものである」と〔あるがままに〕見ている……略……。「四つの拘束(四繋・四縛:強欲・加害の思い・戒や掟への執着・「これは真理である」という固着)によって拘束されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「四つの執取(欲望の対象への執取・見解への執取・戒や掟への執取・自己の論への執取)によって執取するのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「五つの境遇(地獄・畜生の胎・餓鬼の境域・人間・天)に入っているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)によって染まるのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・加害の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)によって【130】覆われているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「六つの論争の根元(忿怒と怨恨・隠覆と加虐・嫉妬と物惜・狡猾と幻想・悪しき欲求と誤った見解・自らの見解への執着と保持するものの収取と放棄するに難きこと)によって論争するのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「六つの渇愛の身体(色・声・香・味・触・法への渇愛)によって染まるのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「六つの悪しき見解(わたしには自己があるという見解・わたしには自己がないという見解・自己によってのみ自己を表象するという見解・自己によってのみ無我を表象するという見解・無我によってのみ自己を表象するという見解・わたしの自己は常住で常久で常恒で変化なき法であり常恒にそのまま止住するという見解)によって遍く取り囲まれているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「七つの悪習(欲望の対象にたいする貪欲・憤激・見解・疑惑・思量・生存にたいする貪欲・無明)によって添着されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。七つの束縛するもの(悪習・憤激・見解・疑惑・思量・生存にたいする貪欲・無明)によって束縛されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。七つの思量(慢・過慢・慢過慢・卑下慢・増上慢・我慢・邪慢)によって傲慢になっているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「八つの世の法(利得・利得なき・福徳・福徳なき・安楽・苦痛・非難・賞賛)によって遍く転起するのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「八つの誤った〔道〕たること(誤った見解・誤った思惟・誤った言葉・誤った生業・誤った生き方・誤った努力・誤った気づき・誤った心の統一)によって決定されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「八つの人の汚点(犯した罪を正当化するための八つの詭弁)によって汚すのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「九つの憤懣の基盤(わたしに義なきを行なった・行なう・行なうであろう・わたしの愛しく意に適う者に義なきを行なった・行なう・行なうであろう・わたしの愛しくなく意に適わない者に義を行なった・行なう・行なうであろう)によって憤懣させられているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「九つの種類の思量(わたしは勝る者に勝る・等しい・劣る・等しい者に勝る・等しい・劣る・劣る者に勝る・等しい・劣るという思い)によって傲慢になっているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「九つの渇愛を根元とする法(渇愛を縁として生起する遍き探求・遍き探求を縁として生起する利得・利得を縁として生起する判別・判別を縁として生起する欲と貪欲・欲と貪欲を縁として生起する執着・執着を縁として生起する執持・執持を縁として生起する物惜しみ・物惜しみを縁として生起する守護・守護のために生起する棒を取ること等の不全の諸法)によって染まるのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「十の〔心の〕汚れの基盤(貪欲・憤怒・迷妄・思量・見解・疑惑・心の沈滞・心の高揚・無慚・無愧)によって汚されるのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「十の憤懣の基盤(九つの憤懣の基盤と切株や棘等にたいして生起する理不尽な憤懣)によって憤懣させられているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「十の善ならざる行為の道(与えられていないものを取ること・諸々の欲望の対象にたいする誤った行ない・虚偽を説くこと・中傷の言葉・粗暴な言葉・雑駁な虚論・強欲の思い・加害の思い・誤った見解)を具備しているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「十の束縛するもの(悪習・憤激・見解・疑惑・思量・生存にたいする貪欲・無明・有身見・疑・戒禁取)によって束縛されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「十の誤った〔道〕たること(誤った見解・誤った思惟・誤った言葉・誤った生業・誤った生き方・誤った努力・誤った気づき・誤った心の統一・誤った知恵・誤った解脱)によって決定されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「十の事態としての誤った見解(施されたものは存在しない・祭祀されたものは存在しない・捧げられたものは存在しない・諸々の為した善の行為と為した悪の行為の果たる報いは存在しない・この世は存在しない・他世は存在しない・母は存在しない・父は存在しない・化生の有情たちは存在存在しない・正しい在り方の者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しないという見解)を具備しているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「十の事態としての極〔論〕(世界は常恒である・世界は常恒ではない・世界は終極がある・世界は終極がない・生命と肉体は同じものである・生命と肉体は別のものである・如来は死後に存在する・如来は死後に存在しない・如来は死後に存在することもあれば存在しないこともある・如来は死後に存在するのでもなければ存在しないのでもないという極論)を収め取る見解を具備しているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている……略……。「百八の渇愛の百の虚構(戯論:妄想)によって虚構されているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている、覚者たちには、世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「六十二の悪しき見解(長部経典第一『梵網経』参照)によって遍く取り囲まれているのが、世の共住である」と〔あるがままに〕見ている、覚者たちには、世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。

 [690]「しかして、わたしは、〔すでに〕超え渡った者として〔世に〕存している。しかるに、世〔の人々〕は、〔いまだ〕超え渡っていない者として〔世に存している〕。しかして、わたしは、〔すでに〕解き放たれた者として〔世に〕存している。しかるに、世〔の人々〕は、〔いまだ〕解き放たれていない者として〔世に存している〕。しかして、わたしは、〔すでに〕調御された者として〔世に〕存している。しかるに、世〔の人々〕は、〔いまだ〕調御されていない者として〔世に存している〕。しかして、わたしは、〔すでに〕寂静なる者として〔世に〕存している。【131】しかるに、世〔の人々〕は、〔いまだ〕寂静ならざる者として〔世に存している〕。しかして、わたしは、〔すでに〕安息なる者として〔世に〕存している。しかるに、世〔の人々〕は、〔いまだ〕安息ならざる者として〔世に存している〕。しかして、わたしは、〔すでに〕完全なる涅槃に到達した者として〔世に〕存している。しかるに、世〔の人々〕は、〔いまだ〕完全なる涅槃に到達していない者として〔世に存している〕。まさに、わたしは、〔すでに〕超え渡った者として、〔他者たちを〕超え渡すことが――〔すでに〕解き放たれた者として、〔他者たちを〕解き放つことが――〔すでに〕調御された者として、〔他者たちを〕調御することが――〔すでに〕寂静なる者として、〔他者たちを〕寂静ならしむことが――〔すでに〕安息なる者として、〔他者たちを〕安息ならしむことが――〔すでに〕完全なる涅槃に到達した者として、しかして、他者たちを完全なる涅槃に到達させることが――できる」と〔あるがままに〕見ている、覚者たちには、世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。これが、如来の、大いなる慈悲の入定についての知恵である。

 [691]大いなる慈悲の知恵についての釈示が、第七十一となる。


1.1.72-73 一切知者たる知恵についての釈示


119.


 [692]どのようなものが、如来の、一切知者たる知恵であるのか。一切の形成されたもの(有為)を、形成されたものでないもの(無為)を、残りなく知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。


120.


 [693]過去の一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。未来の一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。現在の一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 [694]まさしく、しかして、眼があり、さらには、諸々の形態があり、このように、その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。まさしく、しかして、耳があり、さらには、諸々の音声があり……略……。まさしく、しかして、鼻があり、さらには、諸々の臭香があり……。まさしく、しかして、舌があり、さらには、諸々の味感があり……。まさしく、しかして、身があり、さらには、諸々の感触があり……。まさしく、しかして、意があり、さらには、諸々の法(意の対象)があり、このように、その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 [695]あるかぎりの、無常の義(意味)を、苦痛の義(意味)を、無我の義(意味)を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、形態の、無常の義(意味)を、【132】苦痛の義(意味)を、無我の義(意味)を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、感受〔作用〕の……略……。あるかぎりの、表象〔作用〕の……略……。あるかぎりの、諸々の形成〔作用〕の……略……。あるかぎりの、識別〔作用〕の……略……。あるかぎりの、眼の……略……。あるかぎりの、老と死の、無常の義(意味)を、苦痛の義(意味)を、無我の義(意味)を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 [696]あるかぎりの、証知の、証知の義(意味)を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、遍知の、遍知の義(意味)を……略……。あるかぎりの、捨棄の、捨棄の義(意味)を……略……。あるかぎりの、修行の、修行の義(意味)を……略……。あるかぎりの、実証の、実証の義(意味)を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 [697]あるかぎりの、〔五つの〕範疇の、範疇の義(意味)を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、〔十八の〕界域の、界域の義(意味)を……略……。あるかぎりの、〔十二の認識の〕場所の、〔認識の〕場所の義(意味)を……略……。あるかぎりの、諸々の形成されたものの、形成されたものの義(意味)を……略……。あるかぎりの、形成されたものでないものの、形成されたものでないものの義(意味)を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 [698]あるかぎりの、諸々の善なる法(性質)を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、諸々の善ならざる法(性質)を……略……。あるかぎりの、諸々の〔善悪が〕説き示されない法(性質)を……略……。あるかぎりの、諸々の欲望の行境の法(性質)を……略……。あるかぎりの、諸々の形態の行境の法(性質)を……略……。あるかぎりの、諸々の形態なき行境の法(性質)を……略……。あるかぎりの、諸々の属するところなき法(性質)を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 [699]あるかぎりの、苦痛の、苦痛の義(意味)を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、集起の、集起の義(意味)を……略……。あるかぎりの、止滅の、止滅の義(意味)を……略……。あるかぎりの、道の、道の義(意味)を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 [700]あるかぎりの、義(意味)の融通無礙の、義(意味)の融通無礙の義(意味)を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、法(性質)の融通無礙の、法(性質)の融通無礙の義(意味)を……略……。あるかぎりの、言語の融通無礙の、言語の融通無礙の義(意味)を……略……。あるかぎりの、【133】応答の融通無礙の、応答の融通無礙の義(意味)を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 [701]あるかぎりの、機能の上下なることについての知恵を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、有情たちの志欲と悪習についての知恵を……略……。あるかぎりの、対なる神変についての知恵を……略……。あるかぎりの、大いなる慈悲への入定についての知恵を――その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 [702]あるかぎりの、天〔界〕を含む世〔界〕の、魔〔界〕を含み梵〔界〕を含む〔世界〕の、沙門や婆羅門を含む人々の、天〔の神〕や人間を含む〔人々〕の、見られたものを、聞かれたものを、思われたものを、識られたものを、得られたものを、遍く探し求められたものを、刻々に行じおこなわれたものを、意によって、その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。


121.


 [703]〔しかして、詩偈に言う〕「彼にとって、この〔世において〕、〔いまだ〕見られていないものは、何であれ、存在しない。しかして、〔いまだ〕識られていないものは〔存在せず〕、知ることができないものは〔存在しない〕。それが、導かれるべきもの(未了義のもの)として存在するなら、〔その〕一切を、〔彼は〕証知した。如来は、それによって、一切に眼ある者と〔説かれる〕」と。


 [704]「一切に眼ある者」とは、どのような義(意味)によって、一切に眼ある者となるのか。十四の覚者の知恵がある。(1)苦痛についての知恵が、覚者の知恵となる。(2)苦痛の集起についての知恵が、覚者の知恵となる。(3)苦痛の止滅についての知恵が、覚者の知恵となる。(4)苦痛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵が、覚者の知恵となる。(5)義(意味)の融通無礙についての知恵が、覚者の知恵となる。(6)法(性質)の融通無礙についての知恵が、覚者の知恵となる。(7)言語の融通無礙についての知恵が、覚者の知恵となる。(8)応答の融通無礙についての知恵が、覚者の知恵となる。(9)機能の上下なることについての知恵が、覚者の知恵となる。(10)有情たちの志欲と悪習についての知恵が、覚者の知恵となる。(11)対なる神変についての知恵が、覚者の知恵となる。(12)大いなる慈悲の入定についての知恵が、覚者の知恵となる。(13)一切知者たる知恵が、覚者の知恵となる。(14)妨げなき知恵が、覚者の知恵となる。これらの十四の覚者の知恵がある。これらの十四の覚者のなかの、八つの知恵は、弟子と共通なるものとなり、六つの知恵は、弟子たちとは共通ならざるものとなる。

 [705]【134】あるかぎりの、苦痛の、苦痛の義(意味)は、一切が、〔すでに〕知られたものとなり、〔いまだ〕知られていない苦痛の義(意味)は存在しない、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、苦痛の、苦痛の義(意味)は、一切が、〔すでに〕知られたものとなり、一切が、〔すでに〕見られたものとなり、一切が、〔すでに〕見い出されたものとなり、一切が、〔すでに〕実証されたものとなり、一切が、知慧によって〔すでに〕接触されたもの(体得されたもの)となり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない苦痛の義(意味)は存在しない、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、集起の、集起の義(意味)は……。あるかぎりの、止滅の、止滅の義(意味)は……。あるかぎりの、道の、道の義(意味)は……略……。あるかぎりの、義(意味)の融通無礙の、義(意味)の融通無礙の義(意味)は……。あるかぎりの、法(性質)の融通無礙の、法(性質)の融通無礙の義(意味)は……。あるかぎりの、言語の融通無礙の、言語の融通無礙の義(意味)は……。あるかぎりの、応答の融通無礙の、応答の融通無礙の義(意味)は、一切が、〔すでに〕知られたものとなり、一切が、〔すでに〕見られたものとなり、一切が、〔すでに〕見い出されたものとなり、一切が、〔すでに〕実証されたものとなり、一切が、知慧によって〔すでに〕接触されたものとなり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない応答の融通無礙の義(意味)は存在しない、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 [706]あるかぎりの、機能の上下なることについての知恵は……。あるかぎりの、有情たちの志欲と悪習についての知恵は……。あるかぎりの、対なる神変についての知恵は……。あるかぎりの、大いなる慈悲の入定についての知恵は、一切が、〔すでに〕知られたものとなり、一切が、〔すでに〕見られたものとなり、一切が、〔すでに〕見い出されたものとなり、一切が、〔すでに〕実証されたものとなり、一切が、知慧によって〔すでに〕接触されたものとなり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない大いなる慈悲の入定についての知恵は存在しない、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 [707]あるかぎりの、天〔界〕を含む世〔界〕の、魔〔界〕を含み梵〔界〕を含む〔世界〕の、沙門や婆羅門を含む人々の、天〔の神〕や人間を含む〔人々〕の、見られたものは、聞かれたものは、思われたものは、識られたものは、得られたものは、遍く探し求められたものは、刻々に行じおこなわれたものは、意によって、一切が、〔すでに〕知られたものとなり、一切が、〔すでに〕見られたものとなり、一切が、〔すでに〕見い出されたものとなり、一切が、〔すでに〕実証されたものとなり、一切が、知慧によって〔すでに〕接触されたものとなり、知慧によって〔いまだ〕接触されていないものは存在しない、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。


 [708]〔しかして、詩偈に言う〕「彼にとって、この〔世において〕、〔いまだ〕見られていないものは、何であれ、存在しない。しかして、〔いまだ〕識られていないものは〔存在せず〕、知ることができないものは〔存在しない〕。それが、導かれるべきもの(未了義のもの)として存在するなら、〔その〕一切を、〔彼は〕証知した。如来は、それによって、一切に眼ある者と〔説かれる〕」と。


 [709]知恵についての言説は、〔以上で〕終了した。

2010.9.5 更新



inserted by FC2 system