小部経典15-3:パティサンビダーマッガ

2010.6.6更新


2 双連のものの章(倶存品)


2.1 双連のものについての言説


1.


 [1329]【92】このように、わたしは聞いた。或る時のことである。尊者アーナンダは、コーサンビーに住している。ゴーシタの園地において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、比丘たちに語りかけた。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えた。尊者アーナンダは、こう言った。

 [1330]「友よ、まさに、彼が誰であれ、比丘であろうが、比丘尼であろうが、わたしの面前において、阿羅漢の資質を得た者のことを説き示すなら、全てにわたり、四つの道によって〔説き示し〕、あるいは、これら〔の四つの道〕のなかの或る一つによって〔説き示す〕。どのような四つによって、であるのか。

 [1331]友よ、ここに、比丘が、〔心の〕寂止(奢摩他・止)を先行とする〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)を修行する。彼が、〔心の〕寂止を先行とする〔あるがままの〕観察を修行していると、道が生み出される。彼は、その道を、習修し、修行し、多く為す。彼が、その道を、習修し、修行し、多く為していると、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 [1332]友よ、さらには、また、他に、比丘が、〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕寂止を修行する。彼が、〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕寂止を修行していると、道が生み出される。彼は、その道を、習修し、修行し、多く為す。彼が、その道を、習修し、修行し、多く為していると、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 [1333]友よ、さらには、また、他に、比丘が、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。彼が、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行していると、道が生み出される。彼は、その道を、習修し、修行し、多く為す。彼が、その道を、習修し、修行し、【93】多く為していると、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 [1334]友よ、さらには、また、他に、比丘に、法(真理)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有る。友よ、〔執持された意図が〕有る、その時は、すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められるなら、彼に、道が生み出される。彼は、その道を、習修し、修行し、多く為す。彼が、その道を、習修し、修行し、多く為していると、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 [1335]友よ、まさに、彼が誰であれ、比丘であろうが、比丘尼であろうが、わたしの面前において、阿羅漢の資質を得た者のことを説き示すなら、全てにわたり、四つの道によって〔説き示し〕、あるいは、これら〔の四つの道〕のなかの或る一つによって〔説き示す〕」と。


2.1.1 経典についての釈示


2.


 [1336]どのように、〔心の〕寂止を先行とする〔あるがままの〕観察を修行するのか。離欲(出離)を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一となる。そこに生じた諸法(性質)を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。かくのごとく、最初に、〔心の〕寂止があり、最後に、〔あるがままの〕観察がある。それによって説かれる。「〔心の〕寂止を先行とする〔あるがままの〕観察を修行する」と。「修行する」とは、四つの修行がある。そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなき(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)によって、修行となる。それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。

 [1337]「道が生み出される」とは、どのように、道が生み出されるのか。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解“もののみかた”としての道が生み出される。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟としての道が生み出される。遍き収取の義(意味)によって、正しい言葉としての道が生み出される。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい生業“なりわい”としての道が生み出される。浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方としての道が生み出される。励起の義(意味)によって、正しい努力としての道が生み出される。現起の義(意味)によって、正しい気づきとしての道が生み出される。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一としての道が生み出される。このように、道が生み出される。

 [1338]「彼は、その道を、習修し、修行し、多く為す」〔とは〕――「習修し」とは、どのように、習修するのか。〔心を〕傾注している者として習修し、〔あるがままに〕知っている者として習修し、〔あるがままに〕見ている者として習修し、〔あるがままに〕注視している者として習修し、【94】心を確立している者として習修し、信によって信念している者として習修し、精進を励起している者として習修し、気づきを現起させている者として習修し、心を定めている者として習修し、知慧によって覚知している者として習修し、証知されるべきものを証知している者として習修し、遍知されるべきものを遍知している者として習修し、捨棄されるべきものを捨棄している者として習修し、修行されるべきものを修行している者として習修し、実証されるべきものを実証している者として習修する。このように、習修する。

 [1339]「修行し」とは、どのように、修行するのか。〔心を〕傾注している者として修行し、〔あるがままに〕知っている者として修行し、〔あるがままに〕見ている者として修行し、〔あるがままに〕注視している者として修行し、心を確立している者として修行し、信によって信念している者として修行し、精進を励起している者として修行し、気づきを現起させている者として修行し、心を定めている者として修行し、知慧によって覚知している者として修行し、証知されるべきものを証知している者として修行し、遍知されるべきものを遍知している者として修行し、捨棄されるべきものを捨棄している者として修行し、修行されるべきものを修行している者として修行し、実証されるべきものを実証している者として修行する。このように、修行する。

 [1340]「多く為す」とは、どのように、多く為すのか。〔心を〕傾注している者として多く為し、〔あるがままに〕知っている者として多く為し、〔あるがままに〕見ている者として多く為し、〔あるがままに〕注視している者として多く為し、心を確立している者として多く為し、信によって信念している者として多く為し、精進を励起している者として多く為し、気づきを現起させている者として多く為し、心を定めている者として多く為し、知慧によって覚知している者として多く為し、証知されるべきものを証知している者として多く為し、遍知されるべきものを遍知している者として多く為し、捨棄されるべきものを捨棄している者として多く為し、修行されるべきものを修行している者として多く為し、実証されるべきものを実証している者として多く為す。このように、多く為す。

 [1341]「彼が、その道を、習修し、修行し、多く為していると、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る」とは、どのように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成るのか。預流道によって、身体が有るという見解、疑惑〔の思い〕、戒や掟への執着が、これらの三つの束縛するものが捨棄され、見解の悪習、疑惑の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。一来道によって、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕という束縛するものが、これらの二つの束縛するものが捨棄され、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。不還道によって、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの、【95】〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕という束縛するものが、これらの二つの束縛するものが捨棄され、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。阿羅漢道によって、形態(色界)にたいする貪欲〔の思い〕、形態なき(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕、思量、高揚、無明が、これらの五つの束縛するものが捨棄され、思量の悪習、生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、無明の悪習が、これらの三つの悪習が終息と成る。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。


3.


 [1342]加害〔の思い〕なきを所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一となる……略……。光明の表象を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一となる……略……。放棄の随観ある、入息を所以にする……。放棄の随観ある、出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一となる。そこに生じた諸法(性質)を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。かくのごとく、最初に、〔心の〕寂止があり、最後に、〔あるがままの〕観察がある。それによって説かれる。「〔心の〕寂止を先行とする〔あるがままの〕観察を修行する」と。「修行する」とは、四つの修行がある。そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなき(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)によって、修行となる。それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。

 [1343]「道が生み出される」とは、どのように、道が生み出されるのか。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解としての道が生み出される。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟としての道が生み出される……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一としての道が生み出される。このように、道が生み出される。

 [1344]「彼は、その道を、習修し、修行し、多く為す」〔とは〕――「習修し」とは、どのように、習修するのか。〔心を〕傾注している者として習修し……略……。実証されるべきものを実証している者として習修する。このように、習修する。「修行し」とは、どのように、修行するのか。〔心を〕傾注している者として修行し、〔あるがままに〕知っている者として修行し……略……。実証されるべきものを実証している者として修行する。このように、修行する。「多く為す」とは、どのように、多く為すのか。〔心を〕傾注している者として多く為し、〔あるがままに〕知っている者として多く為し……略……。実証されるべきものを実証している者として多く為す。このように、多く為す。

 [1345]「彼が、その道を、習修し、修行し、多く為していると、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る」とは、どのように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成るのか。【96】預流道によって、身体が有るという見解、疑惑〔の思い〕、戒や掟への執着が、これらの三つの束縛するものが捨棄され、見解の悪習、疑惑の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。一来道によって、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕という束縛するものが、これらの二つの束縛するものが捨棄され、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。不還道によって、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕という束縛するものが、これらの二つの束縛するものが捨棄され、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。阿羅漢道によって、形態(色界)にたいする貪欲〔の思い〕、形態なき(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕、思量、高揚、無明が、これらの五つの束縛するものが捨棄され、思量の悪習、生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、無明の悪習が、これらの三つの悪習が終息と成る。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、〔心の〕寂止を先行とする〔あるがままの〕観察を修行する。


4.


 [1346]どのように、〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕寂止を修行するのか。無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。しかして、そこに生じた諸法(性質)の、放棄の対象たることが、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一となる。かくのごとく、最初に、〔あるがままの〕観察があり、最後に、〔心の〕寂止がある。それによって説かれる。「〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕寂止を修行する」と。「修行する」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる……略……。「道が生み出される」とは、どのように、道が生み出されるのか……略……。このように、道が生み出される……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 [1347]形態を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、形態を〔対象とする〕、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、形態を〔対象とする〕、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。しかして、そこに生じた諸法(性質)の、放棄の対象たることが、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一となる。かくのごとく、最初に、〔あるがままの〕観察があり、最後に、〔心の〕寂止がある。それによって説かれる。「〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕寂止を修行する」と。「修行する」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる……略……。「道が生み出される」とは、どのように、道が生み出されるのか……略……。このように、道が生み出される……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 [1348]感受〔作用〕を〔対象とする〕……略……。【97】表象〔作用〕を〔対象とする〕……。諸々の形成〔作用〕を〔対象とする〕……。識別〔作用〕を〔対象とする〕……。眼を〔対象とする〕……略……。老と死を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、老と死を〔対象とする〕、苦痛〔の観点〕からの……略……老と死を〔対象とする〕、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。しかして、そこに生じた諸法(性質)の、放棄の対象たることが、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕統一となる。かくのごとく、最初に、〔あるがままの〕観察があり、最後に、〔心の〕寂止がある。それによって説かれる。「〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕寂止を修行する」と。「修行する」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる……略……。「道が生み出される」とは、どのように、道が生み出されるのか……略……。このように、道が生み出される……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕寂止を修行する。


5.


 [1349]どのように、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。十六の行相によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。(1)対象の義(意味)によって、(2)境涯の義(意味)によって、(3)捨棄の義(意味)によって、(4)遍捨の義(意味)によって、(5)出起の義(意味)によって、(6)還転の義(意味)によって、(7)寂静の義(意味)によって、(8)精妙の義(意味)によって、(9)解脱したものの義(意味)によって、(10)煩悩なきの義(意味)によって、(11)超渡の義(意味)によって、(12)無相の義(意味)によって、(13)無願の義(意味)によって、(14)空性の義(意味)によって、(15)一味の義(意味)によって、(16)超克なきの義(意味)によって、(17)双連の義(意味)によって、である。

 [1350](1)どのように、対象の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、止滅を対象とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を対象とするものと〔成る〕。かくのごとく、対象の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り(作用・働きを同じくする)、双連のものと成り、互いに他を超克することがない(他を遮らずに併存する)。ということで、それによって説かれる。「対象の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。「修行する」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる……略……。「道が生み出される」とは、どのように、道が生み出されるのか……略……。このように、道が生み出される……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、対象の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。

 [1351](2)どのように、境涯の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、境涯の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り、双連のものと成り、互いに他を【98】超克することがない。ということで、それによって説かれる。「境涯の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。

 [1352](3)どのように、捨棄の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。しかして、高揚を共具した諸々の〔心の〕汚れを〔捨棄し〕、さらには、諸々の範疇を捨棄していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。しかして、無明を共具した諸々の〔心の〕汚れを〔捨棄し〕、さらには、諸々の範疇を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、捨棄の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「捨棄の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。

 [1353](4)どのように、遍捨の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。しかして、高揚を共具した諸々の〔心の〕汚れを〔遍捨し〕、さらには、諸々の範疇を遍捨していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。しかして、無明を共具した諸々の〔心の〕汚れを〔遍捨し〕、さらには、諸々の範疇を遍捨していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、遍捨の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「遍捨の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。

 [1354](5)どのように、出起の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。しかして、高揚を共具した諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、さらには、諸々の範疇から出起していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。しかして、無明を共具した諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、さらには、諸々の範疇から出起していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、出起の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「出起の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。

 [1355](6)どのように、還転の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。しかして、高揚を共具した諸々の〔心の〕汚れから〔還転し〕、さらには、諸々の範疇から還転していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。しかして、無明を共具した諸々の〔心の〕汚れから〔還転し〕、さらには、諸々の範疇から還転していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、還転の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「還転の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。

 [1356](7)どのように、寂静の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、寂静と成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を【99】捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、寂静と成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、寂静の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「寂静の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。

 [1357](8)どのように、精妙の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、精妙と成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、精妙と成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、精妙の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「精妙の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。

 [1358](9)どのように、解脱したものの義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、欲望の煩悩から解脱したものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、無明の煩悩から解脱したものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、貪欲の離貪あることから、〔寂止の〕心による解脱があり、無明の離貪あることから、〔観察の〕知慧による解脱があり、解脱したものの義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「解脱したものの義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。

 [1359](10)どのように、煩悩なきの義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、欲望の煩悩としては煩悩なきものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、無明の煩悩としては煩悩なきものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、煩悩なきの義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「煩悩なきの義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。

 [1360](11)どのように、超渡の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。しかして、高揚を共具した諸々の〔心の〕汚れを〔超渡し〕、さらには、諸々の範疇を超渡していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。しかして、無明を共具した諸々の〔心の〕汚れを〔超渡し〕、さらには、諸々の範疇を超渡していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、超渡の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「超渡の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。

 [1361](12)どのように、無相の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして【100】修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、一切の形相(概念把握)から無相のものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、一切の形相から無相のものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、無相の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「無相の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。

 [1362](13)どのように、無願の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、一切の切願から無願のものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、一切の切願から無願のものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、無願の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「無願の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。

 [1363](14)どのように、空性の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と〔心の〕散乱なきとしての〔心の〕統一が、一切の固着(固定観念)から空性のものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、一切の固着から空性のものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、空性の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味なるものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「空性の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する」と。「修行する」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる……略……。「道が生み出される」とは、どのように、道が生み出されるのか……略……。このように、道が生み出される……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、空性の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。これらの十六の行相によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。このように、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。

 [1364]〔以上が〕経典についての釈示となる。


2.1.2 法(真理)にたいする〔心の〕高揚の部についての釈示


6.


 [1365]どのように、法(真理)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、光輝が生起する。【101】〔彼は〕「光輝が、法(真理)である」と、光輝に〔心を〕傾注する。その〔光輝〕から〔生起する、心の〕散乱が、〔心の〕高揚である。その〔心の〕高揚によって執持された意図は、無常〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、苦痛〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、無我〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない。それによって説かれる。「法(真理)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有る、その時は、すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められるなら」と。「道が生み出される」とは、どのように、道が生み出されるのか……略……。このように、道が生み出される……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 [1366]無常〔の観点〕から意を為していると、知恵が生起する……略……喜悦が生起する……略……安息が生起する……略……安楽が生起する……略……信念が生起する……略……励起が生起する……略……現起が生起する……略……放捨が生起する……略……欲念が生起する。〔彼は〕「欲念が、法(真理)である」と、欲念に〔心を〕傾注する。その〔欲念〕から〔生起する、心の〕散乱が、〔心の〕高揚である。その〔心の〕高揚によって執持された意図は、無常〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、苦痛〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、無我〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない。それによって説かれる。「法(真理)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有る、その時は、すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められるなら」と。「道が生み出される」とは、どのように、道が生み出されるのか……略……。このように、道が生み出される……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 [1367]苦痛〔の観点〕から意を為していると……略……。無我〔の観点〕から意“おもい”を為していると、光輝が生起する……略……知恵が生起する……略……喜悦が生起する……略……安息が生起する……略……安楽が生起する……略……信念が生起する……略……励起が生起する……略……現起が生起する……略……放捨が生起する……略……欲念が生起する。〔彼は〕「欲念が、法(真理)である」と、欲念に〔心を〕傾注する。その〔欲念〕から〔生起する、心の〕散乱が、〔心の〕高揚である。その〔心の〕高揚によって執持された意図は、無我〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、無常〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、苦痛〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない。【102】それによって説かれる。「法(真理)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 [1368]形態を、無常〔の観点〕から意を為していると……略……。形態を、苦痛〔の観点〕から意を為していると……。形態を、無我〔の観点〕から意を為していると……。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識別〔作用〕を……。眼を……略……。老と死を、無常〔の観点〕から意を為していると……略……。老と死を、苦痛〔の観点〕から意を為していると……。老と死を、無我〔の観点〕から意を為していると、光輝が生起する……略……知恵が生起する……略……喜悦が生起する……略……安息が生起する……略……安楽が生起する……略……信念が生起する……略……励起が生起する……略……現起が生起する……略……放捨が生起する……略……欲念が生起する。〔彼は〕「欲念が、法(真理)である」と、欲念に〔心を〕傾注する。その〔欲念〕から〔生起する、心の〕散乱が、〔心の〕高揚である。その〔心の〕高揚によって執持された意図は、無我〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、無常〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、苦痛〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない。それによって説かれる。「法(真理)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有る、その時は、すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められるなら」と。「道が生み出される」とは、どのように、道が生み出されるのか……略……。このように、道が生み出される……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、法(真理)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有る。


7.


 [1369]〔しかして、詩偈に言う〕「まさしく、しかして、(1)光輝にたいし、さらには、(2)知恵にたいし、かつまた、(3)喜悦にたいし、〔心が〕動揺し、(4)安息にたいし、まさしく、しかして、(5)安楽にたいし、それら〔の付随する心の汚れ〕によって、心が動く。

 [1370]しかして、(6)信念にたいし、(7)励起にたいし、さらには、(8)現起にたいし、〔心が〕揺れ動き、まさしく、しかして、放捨の傾注する〔作用〕にたいし、さらには、(9)放捨にたいし、(10)欲念にたいし、〔心が動く〕。

 [1371]これらの十の境位があり、彼に、知慧が蓄積されたなら、〔彼は〕法(真理)にたいする〔心の〕高揚に巧みな智ある者と成り、しかして、迷妄へと赴かない。

 [1372](1)まさしく、しかして、〔心が〕散乱し、さらには、〔心が〕汚れ、心の修行が死滅する。【103】(2)〔心が〕散乱し、〔心が〕汚れず、修行が衰退する。

 [1373](3)〔心が〕散乱し、〔心が〕汚れず、修行が衰退しない。(4)しかして、〔心が〕散乱せず、心が汚れず、心の修行が死滅しない」と。


 [1374]これらの四つの境位によって、心の、退縮と散乱と執持された〔意図〕を、十の境位において正知する。ということで――

 [1375]双連のものについての言説は、〔以上で〕終了した。


2.2 真理についての言説


8.


 [1376]【104】過去の因縁となる。「比丘たちよ、四つのものがある。これらの、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなるものである。どのようなものが、四つのものであるのか。比丘たちよ、『これは、苦痛である』と、これが、真実となり、これが、真実を離れざるものとなり、これが、他ならざるものとなる。『これは、苦痛の集起である』と、これが、真実となり、これが、真実を離れざるものとなり、これが、他ならざるものとなる。『これは、苦痛の止滅である』と、これが、真実となり、これが、真実を離れざるものとなり、これが、他ならざるものとなる。『これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道である』と、これが、真実となり、これが、真実を離れざるものとなり、これが、他ならざるものとなる。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなるものがある」〔と〕。


2.2.1 第一の経典についての釈示


9.


 [1377]どのように、苦痛が、真実の義(意味)によって、真理となるのか。四つのものが、苦痛の、苦痛の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。苦痛の、逼悩の義(意味)、形成されたもの(有為)の義(意味)、熱苦の義(意味)、変化の義(意味)である。これらの四つのものが、苦痛の、苦痛の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。このように、苦痛が、真実の義(意味)によって、真理となる。

 [1378]どのように、集起が、真実の義(意味)によって、真理となるのか。四つのものが、集起の、集起の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。集起の、実行(業を作ること)の義(意味)、因縁の義(意味)、束縛の義(意味)、障害の義(意味)である。これらの四つのものが、集起の、四つの苦痛の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。このように、集起が、真実の義(意味)によって、真理となる。

 [1379]どのように、止滅が、真実の義(意味)によって、真理となるのか。四つのものが、止滅の、【105】止滅の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。止滅の、出離(出要)の義(意味)、遠離の義(意味)、形成されたものでないもの(無為)の義(意味)、不死の義(意味)である。これらの四つのものが、止滅の、苦痛の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。このように、止滅が、真実の義(意味)によって、真理となる。

 [1380]どのように、道が、真実の義(意味)によって、真理となるのか。四つのものが、道の、道の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。道の、出脱の義(意味)、因の義(意味)、〔あるがままの〕見の義(意味)、優位主要性の義(意味)である。これらの四つのものが、道の、苦痛の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。このように、道が、真実の義(意味)によって、真理となる。

 [1381]どれだけの行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。四つの行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。真実の義(意味)によって、無我の義(意味)によって、真理の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、である。これらの四つの行相によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 [1382]どのように、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。四つの行相によって、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、苦痛の義(意味)が、真実の義(意味)となる。集起の、集起の義(意味)が、真実の義(意味)となる。止滅の、止滅の義(意味)が、真実の義(意味)となる。道の、道の義(意味)が、真実の義(意味)となる。これらの四つの行相によって、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 [1383]どのように、無我の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。四つの行相によって、無我の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、苦痛の義(意味)が、無我の義(意味)となる。集起の、集起の義(意味)が、無我の義(意味)となる。止滅の、止滅の義(意味)が、無我の義(意味)となる。道の、道の義(意味)が、無我の義(意味)となる。これらの四つの行相によって、無我の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 [1384]どのように、真理の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。四つの行相によって、真理の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、苦痛の義(意味)が、真理の義(意味)となる。集起の、集起の義(意味)が、真理の義(意味)となる。止滅の、止滅の義(意味)が、真理の義(意味)となる。道の、【106】道の義(意味)が、真理の義(意味)となる。これらの四つの行相によって、真理の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 [1385]どのように、理解の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。四つの行相によって、理解の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、苦痛の義(意味)が、理解の義(意味)となる。集起の、集起の義(意味)が、理解の義(意味)となる。止滅の、止滅の義(意味)が、理解の義(意味)となる。道の、道の義(意味)が、理解の義(意味)となる。これらの四つの行相によって、理解の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。


10.


 [1386]どれだけの行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。それが、無常であるなら、それは、苦痛である。それが、苦痛であるなら、それは、無常である。それが、無常でもあり、苦痛でもあるなら、それは、無我である。それが、無常でもあり、苦痛でもあり、無我でもあるなら、それは、真実である。それが、無常でもあり、苦痛でもあり、無我でもあり、真実でもあるなら、それは、真理である。それが、無常でもあり、苦痛でもあり、無我でもあり、真実でもあり、真理でもあるなら、それは、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 [1387]どれだけの行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。九つの行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。真実の義(意味)によって、無我の義(意味)によって、真理の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、証知の義(意味)によって、遍知の義(意味)によって、捨棄の義(意味)によって、修行の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、である。これらの九つの行相によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 [1388]どのように、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。九つの行相によって、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、苦痛の義(意味)が、真実の義(意味)となる。集起の、集起の義(意味)が、真実の義(意味)となる。止滅の、止滅の義(意味)が、真実の義(意味)となる。道の、道の義(意味)が、真実の義(意味)となる。証知の、証知の義(意味)が、真実の義(意味)となる。遍知の、遍知の義(意味)が、真実の義(意味)となる。捨棄の、捨棄の義(意味)が、真実の義(意味)となる。修行の、修行の義(意味)が、真実の義(意味)となる。実証の、実証の義(意味)が、真実の義(意味)となる。これらの九つの行相によって、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 [1389]【107】どのように、無我の義(意味)によって……真理の義(意味)によって……理解の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。九つの行相によって、理解の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、苦痛の義(意味)が、理解の義(意味)となる。集起の、集起の義(意味)が、理解の義(意味)となる。止滅の、止滅の義(意味)が、理解の義(意味)となる。道の、道の義(意味)が、理解の義(意味)となる。証知の、証知の義(意味)が、理解の義(意味)となる。遍知の、遍知の義(意味)が、理解の義(意味)となる。捨棄の、捨棄の義(意味)が、理解の義(意味)となる。修行の、修行の義(意味)が、理解の義(意味)となる。実証の、実証の義(意味)が、理解の義(意味)となる。これらの九つの行相によって、理解の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。


11.


 [1390]どれだけの行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。十二の行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。真実の義(意味)によって、無我の義(意味)によって、真理の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、証知することの義(意味)によって、遍知することの義(意味)によって、法(真理)の義(意味)によって、真実の義(意味)によって、所知の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、接触することの義(意味)によって、知悉の義(意味)によって、である。これらの十二の行相によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 [1391]どのように、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。十六の行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、逼悩の義(意味)が、形成されたものの義(意味)が、熱苦の義(意味)が、変化の義(意味)が、真実の義(意味)となる。集起の、実行の義(意味)が、因縁の義(意味)が、束縛の義(意味)が、障害の義(意味)が、真実の義(意味)となる。止滅の、出離の義(意味)が、遠離の義(意味)が、形成されたものでないものの義(意味)が、不死の義(意味)が、真実の義(意味)となる。道の、出脱の義(意味)が、因の義(意味)が、〔あるがままの〕見の義(意味)が、優位主要性の義(意味)が、真実の義(意味)となる。これらの十六の行相によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 [1392]【108】どのように、無我の義(意味)によって……略……真理の義(意味)によって……理解の義(意味)によって……証知することの義(意味)によって……遍知することの義(意味)によって……法(真理)の義(意味)によって……真実の義(意味)によって……所知の義(意味)によって……実証の義(意味)によって……接触することの義(意味)によって……知悉の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。十六の行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、逼悩の義(意味)が、形成されたものの義(意味)が、熱苦の義(意味)が、変化の義(意味)が、知悉の義(意味)となる。集起の、実行の義(意味)が、因縁の義(意味)が、束縛の義(意味)が、障害の義(意味)が、知悉の義(意味)となる。止滅の、出離の義(意味)が、遠離の義(意味)が、形成されたものでないものの義(意味)が、不死の義(意味)が、知悉の義(意味)となる。道の、出脱の義(意味)が、因の義(意味)が、〔あるがままの〕見の義(意味)が、優位主要性の義(意味)が、知悉の義(意味)となる。これらの十六の行相によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。


12.


 [1393]諸々の真理には、どれだけの特相があるのか。諸々の真理には、二つの特相がある。形成されたものの特相と、形成されたものでないものの特相とである。諸々の真理には、これらの二つの特相がある。

 [1394]諸々の真理には、どれだけの特相があるのか。諸々の真理には、六つの特相がある。諸々の形成されたものとしての真理には、生起が覚知され、衰微が覚知され、諸々の止住しているものの他化が覚知される。形成されたものでないものとしての真理には、生起が覚知されず、衰微が覚知されず、止住しているものの他化が覚知されない。諸々の真理には、これらの六つの特相がある。

 [1395]諸々の真理には、どれだけの特相があるのか。諸々の真理には、十二の特相がある。苦痛という真理には、生起が覚知され、衰微が覚知され、止住しているものの他化が覚知される。集起という真理には、生起が覚知され、衰微が覚知され、止住しているものの他化が覚知される。道という真理には、生起が覚知され、衰微が覚知され、止住しているものの他化が覚知される。止滅という真理には、生起が覚知されず、衰微が覚知されず、止住しているものの他化が覚知されない。諸々の真理には、これらの十二の特相がある。

 [1396]四つの真理には、どれだけの善なるものがあり、どれだけの善ならざるものがあり、どれだけの〔善悪が〕説き示されないものがあるのか。集起という真理は、善ならざるものである。道という真理は、【109】善なるものである。止滅という真理は、〔善悪が〕説き示されないものである。苦痛という真理は、善なるものとして存在するであろうし、善ならざるものとして存在するであろうし、〔善悪が〕説き示されないものとして存在するであろう。

 [1397]存在するであろうか――三つの真理が、一つの真理によって包摂されたものとして、一つの真理が、三つの真理によって包摂されたものとして――基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。「存在するであろうか」とは、しからば、どのように、存在するであろうか。それが、苦痛という真理として、善ならざるものであり、集起という真理として、善ならざるものであるなら、このように、善ならざるものの義(意味)によって、二つの真理が、一つの真理によって包摂されたものとなり、一つの真理が、二つの真理によって包摂されたものとなる。それが、苦痛という真理として、善なるものであり、道という真理として、善なるものであるなら、このように、善なるものの義(意味)によって、二つの真理が、一つの真理によって包摂されたものとなり、一つの真理が、二つの真理によって包摂されたものとなる。それが、苦痛という真理として、〔善悪が〕説き示されないものであり、止滅という真理として、〔善悪が〕説き示されないものであるなら、このように、〔善悪が〕説き示されないものの義(意味)によって、二つの真理が、一つの真理によって包摂されたものとなり、一つの真理が、二つの真理によって包摂されたものとなる。このように、存在するであろう――三つの真理が、一つの真理によって包摂されたものとして、一つの真理が、三つの真理によって包摂されたものとして――基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。ということで――


2.2.2 第二の経典となる聖典


13.


 [1398]「比丘たちよ、正覚より以前において、わたしが、〔いまだ〕正覚せず、まさしく、菩薩として、〔世に〕存していると、この〔思い〕が有った。『いったい、まさに、何が、形態の、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。何が、感受〔作用〕の、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。何が、表象〔作用〕の、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。何が、諸々の形成〔作用〕の、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。何が、識別〔作用〕の、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしには、この〔思い〕が有った。『まさに、それが、形態を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これが、形態の、悦楽である。それが、形態であり、無常であるなら、それは、苦痛であり、変化の法(性質)であり、これが、形態の、危険である。それが、形態において、欲〔の思い〕と貪欲〔の思い〕(欲貪)の除去であり、欲〔の思い〕と貪欲〔の思い〕の捨棄であるなら、これが、形態の、出離である。それが、感受〔作用〕を縁として……略……。それが、表象〔作用〕を縁として……。それが、諸々の形成〔作用〕を縁として……。それが、識別〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これが、識別〔作用〕の、悦楽である。それが、識別〔作用〕であり、無常であるなら、それは、苦痛であり、変化の法(性質)であり、これが、識別〔作用〕の、危険である。それが、識別〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪欲〔の思い〕の除去であり、欲〔の思い〕と貪欲〔の思い〕の捨棄であるなら、これが、識別〔作用〕の、出離である』〔と〕。

 [1399]比丘たちよ、しかして、何はともあれ、わたしが、このように、これらの五つの執取の範疇(五取蘊)の、しかして、悦楽を、悦楽〔の観点〕から、さらには、危険を、【110】危険〔の観点〕から、かつまた、出離を、出離〔の観点〕から、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまでは、わたしは、天〔界〕を含む世〔界〕において、魔〔界〕を含み梵〔界〕を含む〔世界〕において、沙門や婆羅門を含む人々において、天〔の神〕や人間を含む〔人々〕において、『無上なる正自覚を正覚した者である』と、まさしく、公言しなかった。比丘たちよ、しかるに、まさに、わたしが、このように、これらの五つの執取の範疇の、しかして、悦楽を、悦楽〔の観点〕から、さらには、危険を、危険〔の観点〕から、かつまた、出離を、出離〔の観点〕から、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、しかして、わたしは、天〔界〕を含む世〔界〕において、魔〔界〕を含み梵〔界〕を含む〔世界〕において、沙門や婆羅門を含む人々において、天〔の神〕や人間を含む〔人々〕において、『無上なる正自覚を正覚した者である』と公言したのである。しかして、また、知恵が〔生起し〕、わたしに、〔あるがままの〕見が生起した。『わたしの解脱は、不動である。これは、最後の生である。今や、さらなる生存(再生)は存在しない』」と。


2.2.3 第二の経典についての釈示


14.


 [1400]「それが、形態を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これが、形態の、悦楽である」とは、捨棄の理解であり、集起という真理である。「それが、形態であり、無常であるなら、それは、苦痛であり、変化の法(性質)であり、これが、形態の、危険である」とは、遍知の理解であり、苦痛という真理である。「それが、形態において、欲〔の思い〕と貪欲〔の思い〕の除去であり、欲〔の思い〕と貪欲〔の思い〕の捨棄であるなら、これが、形態の、出離である」とは、実証の理解であり、止滅という真理である。それが、これらの三つの境位における、見解、思惟、言葉、生業、生き方、努力、気づき、〔心の〕統一であるなら、修行の理解であり、道という真理である。

 [1401]「それが、感受〔作用〕を縁として……略……。それが、表象〔作用〕を縁として……。それが、諸々の形成〔作用〕を縁として……。それが、識別〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これが、識別〔作用〕の、悦楽である」とは、捨棄の理解であり、集起という真理である。「それが、識別〔作用〕であり、無常であるなら、それは、苦痛であり、変化の法(性質)であり、これが、識別〔作用〕の、危険である」とは、遍知の理解であり、苦痛という真理である。「それが、識別〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪欲〔の思い〕の除去であり、欲〔の思い〕と貪欲〔の思い〕の捨棄であるなら、これが、識別〔作用〕の、出離である」とは、実証の理解であり、止滅という真理である。それが、これらの三つの境位における、見解、思惟、言葉、生業、生き方、努力、気づき、〔心の〕統一であるなら、修行の理解であり、道という真理である。


15.


 [1402]「真理である」とは、どれだけの行相によって、【111】真理となるのか。探求の義(意味)によって、遍き収取(理解・把握)の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、である。どのように、探求の義(意味)によって、真理となるのか。「老と死は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「老と死は、生を因縁とし、生を集起とし、生を出生とし、生を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。しかして、老と死を覚知し、かつまた、老と死の集起を覚知し、なおかつ、老と死の止滅を覚知し、さらには、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 [1403]「生は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「生は、生存を因縁とし、生存を集起とし、生存を出生とし、生存を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。しかして、生を覚知し、かつまた、生の集起を覚知し、なおかつ、生の止滅を覚知し、さらには、生の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 [1404]「生存は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「生存は、執取を因縁とし、執取を集起とし、執取を出生とし、執取を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。しかして、生存を覚知し、かつまた、生存の集起を覚知し、なおかつ、生存の止滅を覚知し、さらには、生存の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 [1405]「執取は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「執取は、渇愛を因縁とし、渇愛を集起とし、渇愛を出生とし、渇愛を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。しかして、執取を覚知し、かつまた、執取の集起を覚知し、なおかつ、執取の止滅を覚知し、さらには、執取の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 [1406]「渇愛は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「渇愛は、感受を因縁とし、感受を集起とし、感受を出生とし、感受を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。しかして、渇愛を覚知し、かつまた、渇愛の集起を覚知し、なおかつ、渇愛の止滅を覚知し、さらには、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 [1407]【112】「感受は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「感受は、接触を因縁とし、接触を集起とし、接触を出生とし、接触を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。しかして、感受を覚知し、かつまた、感受の集起を覚知し、なおかつ、感受の止滅を覚知し、さらには、感受の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 [1408]「接触は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「接触は、六つの〔認識の〕場所を因縁とし、六つの〔認識の〕場所を集起とし、六つの〔認識の〕場所を出生とし、六つの〔認識の〕場所を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。しかして、接触を覚知し、かつまた、接触の集起を覚知し、なおかつ、接触の止滅を覚知し、さらには、接触の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 [1409]「六つの〔認識の〕場所は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「六つの〔認識の〕場所は、名前と形態を因縁とし、名前と形態を集起とし、名前と形態を出生とし、名前と形態を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。しかして、六つの〔認識の〕場所を覚知し、かつまた、六つの〔認識の〕場所の集起を覚知し、なおかつ、六つの〔認識の〕場所の止滅を覚知し、さらには、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 [1410]「名前と形態は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「名前と形態は、識別〔作用〕を因縁とし、識別〔作用〕を集起とし、識別〔作用〕を出生とし、識別〔作用〕を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。しかして、名前と形態を覚知し、かつまた、名前と形態の集起を覚知し、なおかつ、名前と形態の止滅を覚知し、さらには、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 [1411]「識別〔作用〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「識別〔作用〕は、諸々の形成〔作用〕を因縁とし、諸々の形成〔作用〕を集起とし、諸々の形成〔作用〕を出生とし、諸々の形成〔作用〕を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。しかして、識別〔作用〕を覚知し、かつまた、識別〔作用〕の集起を覚知し、なおかつ、識別〔作用〕の止滅を覚知し、さらには、識別〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 [1412]【113】「諸々の形成〔作用〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「諸々の形成〔作用〕は、無明を因縁とし、無明を集起とし、無明を出生とし、無明を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。しかして、諸々の形成〔作用〕を覚知し、かつまた、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、なおかつ、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、さらには、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。


16.


 [1413]老と死は、苦痛という真理であり、生は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。生は、苦痛という真理であり、生存は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。生存は、苦痛という真理であり、執取は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。執取は、苦痛という真理であり、渇愛は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。渇愛は、苦痛という真理であり、感受は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。感受は、苦痛という真理であり、接触は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。接触は、苦痛という真理であり、六つの〔認識の〕場所は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。六つの〔認識の〕場所は、苦痛という真理であり、名前と形態は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。名前と形態は、苦痛という真理であり、識別〔作用〕は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。識別〔作用〕は、苦痛という真理であり、諸々の形成〔作用〕は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。諸々の形成〔作用〕は、苦痛という真理であり、無明は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。

 [1414]老と死は、苦痛という真理として存在するであろうし、集起という真理として存在するであろうし、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。生は、苦痛という真理として存在するであろうし、集起という真理として存在するであろうし……略……。【114】生存は、苦痛という真理として存在するであろうし、集起という真理として存在するであろうし、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。ということで――

 [1415]真理についての言説は、〔以上で〕終了した。

 〔以上が第一の〕読誦分となる。


2.3 覚支についての言説


17.


 [1416]【115】サーヴァッティの因縁となる。「比丘たちよ、七つのものがある。これらの覚りの支分(覚支)である。どのようなものが、七つのものであるのか。気づきという正覚の支分(念覚支)、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)、精進という正覚の支分(精進覚支)、喜悦という正覚の支分(喜覚支)、安息という正覚の支分(軽安覚支)、〔心の〕統一という正覚の支分(定覚支)、放捨という正覚の支分(捨覚支)である。比丘たちよ、まさに、これらの七つの覚りの支分がある」〔と〕。

 [1417]「〔七つの〕覚りの支分」とは、どのような義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となるのか。〔それらは〕覚り(菩提)のために等しく転起する、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。(1)覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。随覚する、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。覚醒する、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。正覚する、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔以上が第一の四なるものとなる。〕

 [1418](2)覚ることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。随覚することの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。覚醒することの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。正覚することの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。〔以上が第二の四なるものとなる。〕

 [1419](3)覚らせる、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。随覚させる、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。覚醒させる、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。正覚させる、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔以上が第三の四なるものとなる。〕

 [1420](4)覚らせることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。随覚させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。覚醒させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。正覚させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。〔以上が第四の四なるものとなる。〕

 [1421](5)覚り(菩提)の項目の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。随覚の項目の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。覚醒の項目の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。正覚の項目の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。〔以上が〕第五の四なるものとなる。

 [1422]覚慧を得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。覚慧を獲得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。覚慧を成長させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。覚慧を増進させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。覚慧を得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。覚慧を得達させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。〔以上が〕六つのものとなる。


2.3.1 根元と根元とするもの等の十なるもの


18.


 [1423](1)根元の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の性行“おこない”の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。【116】根元の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙(無礙解)の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙を得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙における、自在の状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙における、自在の状態を得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1424](2)因の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の融通無礙を得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の融通無礙における、自在の状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の融通無礙における、自在の状態を得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1425](3)縁の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の融通無礙を得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の融通無礙における、自在の状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の融通無礙における、自在の状態を得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1426](4)清浄の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の融通無礙を得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の融通無礙における、自在の状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の融通無礙における、自在の状態を得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1427](5)罪過なきの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきの性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきの遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきの付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきの円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきの完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきの融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきの融通無礙を得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきの融通無礙における、自在の状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきの融通無礙における、自在の状態を得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1428](6)離欲の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の完熟の義(意味)によって、【117】〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の融通無礙を得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の融通無礙における、自在の状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の融通無礙における、自在の状態を得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1429](7)解脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の融通無礙を得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の融通無礙における、自在の状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の融通無礙における、自在の状態を得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1430](8)煩悩なきの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきの性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきの遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきの付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきの円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきの完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきの融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきの融通無礙を得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきの融通無礙における、自在の状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきの融通無礙における、自在の状態を得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1431](9)遠離の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の融通無礙を得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の融通無礙における、自在の状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の融通無礙における、自在の状態を得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1432](10)放棄の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の融通無礙を得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の融通無礙における、自在の状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の融通無礙における、自在の状態を得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。


19.


 [1433]根元の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。因の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきの義(意味)を【118】覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1434]根元の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。因の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきの性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきの性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1435]根元の遍き収取の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。放棄の遍き収取の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の付属の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。放棄の付属の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の円満成就の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。放棄の円満成就の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の完熟の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。放棄の完熟の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。放棄の融通無礙の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙を得させることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。放棄の融通無礙を得させることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙における、自在の状態の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。放棄の融通無礙における、自在の状態の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1436]遍き収取の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。付属の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。円満成就の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一境の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。励起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕拡散なきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕混濁なきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕動揺なきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なる現起を所以に、心が安立したことの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。対象の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。境涯の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。捨棄の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遍捨の義(意味)を【119】覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。出起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。還転の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。寂静の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。精妙の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。超渡の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。無相の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。無願の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。空性の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一味の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。双連の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。出脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。因の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔あるがままの〕見の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。優位主要性の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1437]〔心の〕寂止の、〔心の〕散乱なきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔あるがままの〕観察の、随観の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察の、一味の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。双連〔の法〕(心の寂止とあるがままの観察)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1438]学び(戒律)の、受持の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。対象の、境涯の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。畏縮した心の、励起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。高揚した心の、制御の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔萎縮した心と高揚した心の〕両者の清浄の、客観の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。殊勝〔の境地〕への到達の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。より上なる理解の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。真理の知悉の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。止滅〔の入定〕における確立させるものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1439]信の機能の、信念の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。知慧の機能の、〔あるがままの〕見の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。信の力の、不信にたいする、不動の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。知慧の力の、無明にたいする、不動の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。気づきという正覚の支分の、現起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。放捨(客観的認識)という正覚の支分の、審慮(客観的観察)の義(意味)を【120】覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。正しい見解の、〔あるがままの〕見の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。正しい〔心の〕統一の、〔心の〕散乱なきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる

 [1440]〔五つの〕機能(五根)の、優位主要性の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔五つの〕力(五力)の、不動の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。出脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔八つの聖なる〕道(八正道・八聖道)の、因の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔四つの〕気づきの確立(四念住・四念処)の、現起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔四つの〕正しい精励(四正勤)の、精励の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔四つの〕神通の足場(四神足)の、実現の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔四つの〕真理(四諦)の、真実の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔四つの〕専念〔努力〕(四加行)の、静息の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔四つの聖者の〕果の、実証の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1441]思考(尋)の、〔心を〕固定することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。想念(伺)の、細かい想念の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。喜悦(喜)の、充満の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。安楽(楽)の、潤沢の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、一境の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1442]傾注することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。識別することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。覚知することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。表象することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕専一の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。証知の、所知の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遍知の、推量の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。捨棄の、遍捨の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。修行の、一味の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。実証の、接触(体得)することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心身を構成する五つの〕範疇(五蘊)の、範疇(蘊)の義(意味)を覚る、ということで、【121】〔七つの〕覚りの支分となる。〔十八の〕界域(十八界)の、界域(界)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔十二の認識の〕場所(十二処)の、〔認識の〕場所(処)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。諸々の形成されたもの(諸行)の、形成されたもの(有為)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。形成されたものでないもの(涅槃)の、形成されたものでないもの(無為)の(意味)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1443]心の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の直後なるの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、出起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、還転の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、因の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、縁の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、基盤の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、境地の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、対象の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、境涯の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、境遇(趣)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、導引の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、出脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、出離の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1444]一なることにおける、傾注することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、識別することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、覚知することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、表象することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、〔心の〕専一の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、跳入することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、清信することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、確立することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、解脱することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。【122】一なることにおける、「これは、寂静である」と見ることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、乗物(手段)として作り為されたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、地所(基盤)として作り為されたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、奮起されたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、蓄積されたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、善く正しく勉励されたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、遍き収取の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、付属の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、円満成就の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、結集の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、確立の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、習修の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、修行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、多くの行為(多作・多修)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、善く引き起こされたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、善く解脱したものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、覚ることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、随覚することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、覚醒することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、正覚することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、覚らせることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、随覚させることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、覚醒させることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、正覚させることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、覚りの項目の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、随覚の項目の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、覚醒の項目の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、正覚の項目の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、照らすことの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、輝照することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、随照することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、明照することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、正照することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1445]輝かすことの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遍照することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。【123】諸々の〔心の〕汚れを熱苦させることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。垢なきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。離垢の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。無垢の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。平等(平静)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。行知の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。離貪の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。離貪の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。止滅の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。止滅の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1446]欲〔の思い〕(意欲)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、根元の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、足場の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、精励の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、実現の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、信念の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、励起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、現起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、〔心の〕散乱なきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、〔あるがままの〕見の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1447]精進の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。心の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。考察の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、根元の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、足場の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、精励の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、実現の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、信念の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、励起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、現起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、〔心の〕散乱なきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、〔あるがままの〕見の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1448]苦痛の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。苦痛の、逼悩の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。苦痛の、形成されたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。苦痛の、熱苦の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。苦痛の、【124】変化の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。集起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。集起の、実行(業を作ること)の義(意味)を……因縁の義(意味)を……束縛の義(意味)を……障害の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。止滅の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。止滅の、出離の義(意味)を……遠離の義(意味)を……形成されたものでないものの義(意味)を……不死の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。道の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。道の、出脱の義(意味)を……因の義(意味)を……〔あるがままの〕見の義(意味)を……優位主要性の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1449]真実の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。無我の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。真理の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。理解の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。証知することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遍知することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。法(性質)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。界域の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。所知の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。実証の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。接触することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。知悉の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1450]離欲を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。加害〔の思い〕なきを覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。光明の表象を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕散乱なきを覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことを覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。知恵を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。歓喜を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。第一の瞑想を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。阿羅漢道を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。阿羅漢果への入定を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1451]信念の義(意味)によって、信の機能を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、知慧の機能の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。不信にたいする、不動の義(意味)によって、信の力を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。無明にたいする、不動の義(意味)によって、知慧の力を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。現起の義(意味)によって、気づきという正覚の支分を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。審慮の義(意味)によって、放捨という正覚の支分を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1452]〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。優位主要性の義(意味)によって、〔五つの〕機能を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。出脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。因の義(意味)によって、〔八つの聖なる〕道を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立を【125】覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕寂止を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一味の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の寂止とあるがままの観察)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。統御の義(意味)によって、戒の清浄を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解き放ちの義(意味)によって、解脱を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。理解の義(意味)によって、明知を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遍捨の義(意味)によって、解脱を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。静息の義(意味)によって、生起なきについての知恵を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 [1453]欲〔の思い〕(意欲)を、根元の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。意を為すこと(作意)を、等しく現起するものの義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。接触を、結集の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。感受を、集結の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕統一を、面前の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。気づきを、優位主要性の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。知慧を、それをより上とするの義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱を、真髄の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。不死への沈潜たる涅槃を、結末の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。


20.


 [1454]サーヴァッティの因縁となる。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに語りかけた。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えた。尊者サーリプッタは、こう言った。

 [1455]「友よ、七つのものがある。これらの覚りの支分である。どのようなものが、七つのものであるのか。気づきという正覚の支分、法(真理)の判別という正覚の支分……略……放捨という正覚の支分である。友よ、まさに、これらの七つの覚りの支分がある。友よ、まさに、わたしは、これらの七つの覚りの支分のなかの、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、早刻時に住することを望むなら、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、早刻時に住し、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、日中時に〔住することを〕望むなら……略……【126】夕刻時に住することを〔望むなら〕、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、夕刻時に住する。友よ、もし、『気づきという正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら、『無量である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら、『善く正しく勉励された』と、わたしに、〔思いが〕有るなら、しかして、止住しているその〔覚りの支分〕を、『止住する』と覚知する。それが、もし、また、わたしにとって、死滅するなら、『この縁あることから、わたしにとって、死滅する』と覚知する。〔友よ、もし、〕『法(真理)の判別という正覚の支分である』……略……。友よ、もし、『放捨という正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら、『無量である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら、『善く正しく勉励された』と、わたしに、〔思いが〕有るなら、しかして、止住しているその〔覚りの支分〕を、『止住する』と覚知する。それが、もし、また、わたしにとって、死滅するなら、『この縁あることから、わたしにとって、死滅する』と覚知する。

 [1456]友よ、それは、たとえば、また、あるいは、王に、あるいは、王の大臣に、種々に染められた諸々の衣装で満ちている衣装箱が存するとして、彼が、まさしく、その〔一組の衣装〕その〔一〕組の衣装を、早刻時に着ることを望むであろうなら、まさしく、その〔一組の衣装〕その〔一〕組の衣装を、早刻時に着るであろうし、まさしく、その〔一組の衣装〕その〔一〕組の衣装を、日中時に〔着ることを〕望むであろうなら……略……夕刻時に着ることを〔望むであろうなら〕、まさしく、その〔一組の衣装〕その〔一〕組の衣装を、夕刻時に着るであろうように、友よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、これらの七つの覚りの支分のなかの、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、早刻時に住することを望むなら、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、早刻時に住し、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、日中時に〔住することを〕望むなら……略……夕刻時に住することを〔望むなら〕、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、夕刻時に住する。友よ、もし、『気づきという正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら、『無量である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら、『善く正しく勉励された』と、わたしに、〔思いが〕有るなら、しかして、止住しているその〔覚りの支分〕を、『止住する』と覚知する。それが、もし、また、わたしにとって、死滅するなら、『この縁あることから、わたしにとって、死滅する』と覚知する。〔友よ、もし、〕『法(真理)の判別という正覚の支分である』……略……。友よ、もし、『放捨という正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら、『無量である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら、『善く正しく勉励された』と、わたしに、〔思いが〕有るなら、しかして、止住しているその〔覚りの支分〕を、『止住する』と覚知する。それが、もし、また、わたしにとって、死滅するなら、『この縁あることから、わたしにとって、死滅する』と覚知する」〔と〕。


2.3.2 経典についての釈示


21.


 [1457]どのように、「もし、『気づきという正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分があるのか。止滅〔の入定〕が現起するまで、それまでは、「もし、『気づきという正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、炎があるまで、それまでは、色があり、色があるまで、それまでは、炎があるように、まさしく、このように、止滅〔の入定〕が現起するまで、それまでは、「もし、『気づきという正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。

 [1458]【127】どのように、「もし、『無量である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分があるのか。量(量ること)に結縛された諸々の〔心の〕汚れは、しかして、〔その〕全てが、妄執であり、さらには、それらの形成〔作用〕は、さらなる〔迷いの〕生存あるものである。止滅〔の入定〕は、無量である。不動の義(意味)によって、形成されたものでないものの義(意味)によって、止滅〔の入定〕が現起するまで、それまでは、「もし、『無量である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。

 [1459]どのように、「もし、『善く正しく勉励された』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分があるのか。〔心の〕平等(平静)ならざる諸々の〔心の〕汚れは、しかして、〔その〕全てが、妄執であり、さらには、それらの形成〔作用〕は、さらなる〔迷いの〕生存あるものである。止滅〔の入定〕は、平等の法(性質)である。寂静の義(意味)によって、精妙の義(意味)によって、止滅〔の入定〕が現起するまで、それまでは、「もし、『善く正しく勉励された』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。

 [1460]どのように、しかして、止住しているその〔覚りの支分〕を、「止住する」と覚知し、それが、もし、また、わたしにとって、死滅するなら、「この縁あることから、わたしにとって、死滅する」と覚知するのか。どれだけの行相によって、気づきという正覚の支分が止住するのか。どれだけの行相によって、気づきという正覚の支分が死滅するのか。八つの行相によって、気づきという正覚の支分が止住する。八つの行相によって、気づきという正覚の支分が死滅する。

 [1461]どのような八つの行相によって、気づきという正覚の支分が止住するのか。生起なきに〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が止住する。生起に〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が止住する。転起されたものでないものに〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が止住する。転起されたものに〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が止住する。形相ならざるもの(無相)に〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が止住する。形相に〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が止住する。止滅〔の入定〕に〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が止住する。諸々の形成〔作用〕に〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が止住する。これらの八つの行相によって、気づきという正覚の支分が止住する。

 [1462]どのような八つの行相によって、気づきという正覚の支分が死滅するのか。生起に〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が死滅する。生起なきに〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が死滅する。転起されたものに〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が死滅する。転起されたものでないものに〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が死滅する。形相に〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が死滅する。形相ならざるものに〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が死滅する。諸々の形成〔作用〕に〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が死滅する。止滅〔の入定〕に〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が死滅する。これらの八つの行相によって、気づきという正覚の支分が死滅する。【128】このように、しかして、止住しているその〔覚りの支分〕を、「止住する」と覚知し、それが、もし、また、死滅するなら、「この縁あることから、わたしにとって、死滅する」と覚知する……略……。

 [1463]どのように、「もし、『放捨という正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分があるのか。止滅〔の入定〕が現起するまで、それまでは、「もし、『放捨という正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、炎があるまで、それまでは、色があり、色があるまで、それまでは、炎があるように、まさしく、このように、止滅〔の入定〕が現起するまで、それまでは、「もし、『放捨という正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。

 [1464]どのように、「もし、『無量である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分があるのか。量(量ること)に結縛された諸々の〔心の〕汚れは、しかして、〔その〕全てが、妄執であり、さらには、それらの形成〔作用〕は、さらなる〔迷いの〕生存あるものである。止滅〔の入定〕は、無量である。不動の義(意味)によって、形成されたものでないものの義(意味)によって、止滅〔の入定〕が現起するまで、それまでは、「もし、『無量である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。

 [1465]どのように、「もし、『善く正しく勉励された』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分があるのか。〔心の〕平等(平静)ならざる諸々の〔心の〕汚れは、しかして、〔その〕全てが、妄執であり、さらには、それらの形成〔作用〕は、さらなる〔迷いの〕生存あるものである。止滅〔の入定〕は、平等の法(性質)である。寂静の義(意味)によって、精妙の義(意味)によって、止滅〔の入定〕が現起するまで、それまでは、「もし、『善く正しく勉励された』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。

 [1466]どのように、しかして、止住しているその〔覚りの支分〕を、「止住する」と覚知し、それが、もし、また、わたしにとって、死滅するなら、「この縁あることから、わたしにとって、死滅する」と覚知するのか。どれだけの行相によって、放捨という正覚の支分が止住するのか。どれだけの行相によって、放捨という正覚の支分が死滅するのか。八つの行相によって、放捨という正覚の支分が止住する。八つの行相によって、放捨という正覚の支分が死滅する。

 [1467]どのような八つの行相によって、放捨という正覚の支分が止住するのか。生起なきに〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が止住する。生起に〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が止住する。転起されたものでないものに〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が止住する。転起されたものに〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が止住する。形相ならざるもの(無相)に〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が止住する。形相に〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が止住する。止滅〔の入定〕に〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が止住する。諸々の形成〔作用〕に〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が止住する。これらの八つの行相によって、放捨という正覚の支分が止住する。

 [1468]どのような八つの行相によって、放捨という正覚の支分が死滅するのか。生起に〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が死滅する。生起なきに〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が死滅する。転起されたものに〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が死滅する。転起されたものでないものに〔心を〕傾注しなかったことから、【129】放捨という正覚の支分が死滅する。形相に〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が死滅する。形相ならざるものに〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が死滅する。諸々の形成〔作用〕に〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が死滅する。止滅〔の入定〕に〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が死滅する。これらの八つの行相によって、放捨という正覚の支分が死滅する。このように、しかして、止住しているその〔覚りの支分〕を、「止住する」と覚知し、それが、もし、また、死滅するなら、「この縁あることから、わたしにとって、死滅する」と覚知する。

 [1469]覚りの支分についての言説は、〔以上で〕終了した。


2.4 慈愛についての言説


22.


 [1470]【130】サーヴァッティの因縁となる。「比丘たちよ、慈愛(慈)という〔寂止の〕心による解脱が、習修され、修行され、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、十一のものが、福利として待ち望まれるべきである(期待できる)。どのようなものが、十一のものであるのか。(1)安楽に眠る。(2)安楽に目覚める。(3)悪夢を見ない。(4)人間たちにとって愛しき者と成る。(5)人間ならざるもの(非人・悪霊)たちにとって愛しき者と成る。(6)天神たちが守る。(7)彼に、あるいは、火が、あるいは、毒が、あるいは、刃が、至り行かない。(8)すみやかに心が定められる。(9)顔色が清まる。(10)迷乱なき者として命を終える。(11)より上なるもの(知慧による解脱)に理解なくありつつも、梵世に近づき行く者と成る。比丘たちよ、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、習修され、修行され、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、これらの十一のものが、福利として待ち望まれるべきである」〔と〕。

 [1471]限界なき充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が存在する。限界ある充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が存在する。方角の充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が存在する。どれだけの行相によって、限界なき充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が〔存在する〕のか。どれだけの行相によって、限界ある充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が〔存在する〕のか。どれだけの行相によって、方角の充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が〔存在する〕のか。五つの行相によって、限界なき充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が〔存在する〕。七つの行相によって、限界ある充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が〔存在する〕。十の行相によって、方角の充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が〔存在する〕。

 [1472]どのような五つの行相によって、限界なき充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が〔存在する〕のか。「(1)一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして、加害〔の思い〕なき者たちとして、煩悶〔の思い〕なき者たちとして、安楽〔の思い〕ある者たちとして、自己を持ち運べ(自己を愛護せよ)。(2)一切の生き物は……略……。(3)一切の生類は……略……。(4)一切の人は……略……。(5)一切の自己状態(個我的あり方)に属するところの者は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして、加害〔の思い〕なき者たちとして、【131】煩悶〔の思い〕なき者たちとして、安楽〔の思い〕ある者たちとして、自己を持ち運べ」と、これらの五つの行相によって、限界なき充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が〔存在する〕。

 [1473]どのような七つの行相によって、限界ある充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が〔存在する〕のか。「(1)一切の女は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして、加害〔の思い〕なき者たちとして、煩悶〔の思い〕なき者たちとして、安楽〔の思い〕ある者たちとして、自己を持ち運べ(愛護せよ)。(2)一切の男は……略……。(3)一切の聖者は……略……。(4)一切の聖者ならざる者は……略……。(5)一切の天〔の神々〕は……略……。(6)一切の人間は……略……。(7)一切の堕所にある者は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして、加害〔の思い〕なき者たちとして、煩悶〔の思い〕なき者たちとして、安楽〔の思い〕ある者たちとして、自己を持ち運べ」と、これらの七つの行相によって、限界ある充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が〔存在する〕。

 [1474]どのような十の行相によって、方角の充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が〔存在する〕のか。「(1)東の方角にある一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして、加害〔の思い〕なき者たちとして、煩悶〔の思い〕なき者たちとして、安楽〔の思い〕ある者たちとして、自己を持ち運べ(愛護せよ)。(2)西の方角にある一切の有情は……略……。(3)北の方角にある一切の有情は……略……。(4)南の方角にある一切の有情は……略……。(5)東維にある一切の有情は……略……。(6)西維にある一切の有情は……略……。(7)北維にある一切の有情は……略……。(8)南維にある一切の有情は……略……。(9)下の方角にある一切の有情は……略……。(10)上の方角にある一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして、加害〔の思い〕なき者たちとして、煩悶〔の思い〕なき者たちとして、安楽〔の思い〕ある者たちとして、自己を持ち運べ。東の方角にある一切の生き物は……略……生類は……人は……自己状態(個我的あり方)に属するところの者は……一切の女は……一切の男は……一切の聖者は……一切の聖者ならざる者は……一切の天〔の神々〕は……一切の人間は……一切の堕所にある者は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして、加害〔の思い〕なき者たちとして、煩悶〔の思い〕なき者たちとして、安楽〔の思い〕ある者たちとして、自己を持ち運べ。西の方角にある一切の堕所にある者は……略……。北の方角にある一切の堕所にある者は……。南の方角にある一切の堕所にある者は……。東維にある一切の堕所にある者は……。西維にある一切の堕所にある者は……。北維にある一切の堕所にある者は……。南維にある一切の堕所にある者は……。下の方角にある一切の堕所にある者は……。上の方角にある一切の堕所にある者は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして、加害〔の思い〕なき者たちとして、煩悶〔の思い〕なき者たちとして、安楽〔の思い〕ある者たちとして、自己を持ち運べ」と、これらの十の行相によって、方角の充満としての慈愛という〔寂止の〕心による解脱が〔存在する〕。


2.4.1 機能の部


23.


 [1475]一切の有情たちの、(1)逼悩を、逼悩なきによって避けて、(2)害障を、害障なきによって避けて、(3)熱苦を、熱苦なきによって避けて、(4)完全に取り払うこと(奪取・枯渇)を、完全に取り払うことなきによって避けて、(5)害することを、害することなきによって避けて、「一切の有情は、(6)怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。怨恨〔の思い〕ある者たちとして〔有っては〕ならない。(7)安楽ある者たちとして有れ。苦痛ある者たちとして〔有っては〕ならない。(8)自己〔自ら〕が安楽なる者たちとして有れ。自己〔自ら〕が苦痛なる者たちとして〔有っては〕ならない」と、これらの八つの行相によって、一切の有情たちを慈愛する、ということで、慈愛となる。その法(性質)を思い考える、ということで、心(思)となる。【132】一切の加害〔の思い〕という妄執から解脱する、ということで、解脱となる。慈愛と、心と、解脱とがあり、ということで、慈愛という〔寂止の〕心による解脱となる。

 [1476]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、信によって信念し、信の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1477]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、精進を励起し、精進の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1478]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、気づきを現起させ、気づきの機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1479]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、心を定め、〔心の〕統一の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1480]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、知慧によって覚知し、知慧の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1481]これらの五つの機能が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、習修される。これらの五つの機能が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、修行と成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、修行される。これらの五つの機能が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、多く為されたものと成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、多く為される。これらの五つの機能が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、十分に作り為すことと成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、善く十分に作り為されたものと成る。これらの五つの機能が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、必需のものと成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、善く必需されたものと成る。

 [1482]これらの五つの機能が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、付属のものと成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、善く付属されたものと成る。これらの五つの機能が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、習修と成り、修行と成り、多く為されたものと成り、十分に作り為すことと成り、必需のものと成り、付属のものと成り、円満成就のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成り、跳入することと成り、清信することと成り、確立することと成り、解脱することと成り、「これは、寂静である」と見ることと成り、乗物として作り為されたものと【133】成り、地所として作り為されたものと成り、奮起されたものと成り、蓄積されたものと成り、善く正しく勉励されたものと成り、善く修行されたものと成り、善く確立されたものと成り、善く引き起こされたものと成り、善く解脱したものと成り、〔あるがままに〕発現させ、照らし、輝かす。


2.4.2 力の部


24.


 [1483]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、不信にたいし、〔心が〕動かず、信の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1484]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、怠慢にたいし、〔心が〕動かず、精進の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1485]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、放逸にたいし、〔心が〕動かず、気づきの力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1486]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、〔心の〕高揚にたいし、〔心が〕動かず、〔心の〕統一の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1487]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、無明にたいし、〔心が〕動かず、知慧の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1488]これらの五つの力が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、習修される。これらの五つの力が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、修行と成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、修行される。これらの五つの力が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、多く為されたものと成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、多く為される。これらの五つの力が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、十分に作り為すことと成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、善く十分に作り為されたものと成る。これらの五つの力が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、必需のものと成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、善く必需されたものと成る。これらの五つの力が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、付属のものと成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、善く付属されたものと成る。これらの五つの力が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、習修と成り、修行と成り、多く為されたものと成り、十分に作り為すことと成り、必需のものと成り、付属のものと成り、円満成就のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成り、跳入することと成り、清信することと成り、確立することと成り、解脱することと【134】成り、「これは、寂静である」と見ることと成り、乗物として作り為されたものと成り、地所として作り為されたものと成り、奮起されたものと成り、蓄積されたものと成り、善く正しく勉励されたものと成り、善く修行されたものと成り、善く確立されたものと成り、善く引き起こされたものと成り、善く解脱したものと成り、〔あるがままに〕発現させ、照らし、輝かす。


2.4.3 覚りの支分の部


25.


 [1489]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、気づきを現起させ、気づきという正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1490]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、知慧によって考究し、法(真理)の判別という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1491]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、精進を励起し、精進という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1492]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、苦悶を静息させ、喜悦という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1493]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、邪気を静息させ、安息という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1494]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、心を定め、〔心の〕統一という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1495]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、知恵によって諸々の〔心の〕汚れを審慮し、放捨という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1496]これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、習修される。これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、修行と成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、修行される。これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、多く為されたものと成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、多く為される。これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、十分に作り為すことと成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、善く十分に作り為されたものと成る。これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、必需のものと成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、善く必需されたものと成る。これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、付属のものと成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、善く付属されたものと成る。これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、習修と成り、修行と成り、多く為されたものと成り、十分に作り為すことと成り、必需のものと成り、付属のものと成り、円満成就のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成り、跳入することと成り、清信することと成り、確立することと成り、【135】解脱することと成り、「これは、寂静である」と見ることと成り、乗物として作り為されたものと成り、地所として作り為されたものと成り、奮起されたものと成り、蓄積されたものと成り、善く正しく勉励されたものと成り、善く修行されたものと成り、善く確立されたものと成り、善く引き起こされたものと成り、善く解脱したものと成り、〔あるがままに〕発現させ、照らし、輝かす。


2.4.4 道の支分の部


26.


 [1497]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく見、正しい見解が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1498]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく〔心を〕固定し、正しい思惟が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1499]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく遍く収取し、正しい言葉が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1500]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく等しく現起させ、正しい生業が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1501]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく浄化させ、正しい生き方が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1502]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく励起し、正しい努力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1503]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく現起させ、正しい気づきが、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1504]「一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく〔心を〕定め、正しい〔心の〕統一が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1505]これらの八つの道の支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、習修と【136】成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、習修される。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、修行と成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、修行される。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、多く為されたものと成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、多く為される。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、十分に作り為すことと成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、善く十分に作り為されたものと成る。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、必需のものと成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、善く必需されたものと成る。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、付属のものと成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、善く付属されたものと成る。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、習修と成り、修行と成り、多く為されたものと成り、十分に作り為すことと成り、必需のものと成り、付属のものと成り、円満成就のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成り、跳入することと成り、清信することと成り、確立することと成り、解脱することと成り、「これは、寂静である」と見ることと成り、乗物として作り為されたものと成り、地所として作り為されたものと成り、奮起されたものと成り、蓄積されたものと成り、善く正しく勉励されたものと成り、善く修行されたものと成り、善く確立されたものと成り、善く引き起こされたものと成り、善く解脱したものと成り、〔あるがままに〕発現させ、照らし、輝かす。


27.


 [1506]一切の生き物の……略……。一切の生類の……略……。一切の人の……略……。一切の自己状態(個我的あり方)に属するところの者の……略……。一切の女の……略……。一切の男の……略……。一切の聖者の……略……。一切の聖者ならざる者の……略……。一切の天〔の神々〕の……略……。一切の人間の……略……。一切の堕所にある者の、(1)逼悩を、逼悩なきによって避けて、(2)害障を、害障なきによって避けて、(3)熱苦を、熱苦なきによって避けて、(4)完全に取り払うこと(奪取・枯渇)を、完全に取り払うことなきによって避けて、(5)害することを、害することなきによって避けて、「一切の堕所にある者は、(6)怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。怨恨〔の思い〕ある者たちとして〔有っては〕ならない。(7)安楽ある者たちとして有れ。苦痛ある者たちとして〔有っては〕ならない。(8)自己〔自ら〕が安楽なる者たちとして有れ。自己〔自ら〕が苦痛なる者たちとして〔有っては〕ならない」と、これらの八つの行相によって、一切の有情たちを慈愛する、ということで、慈愛となる。その法(性質)を思い考える、ということで、心(思)となる。一切の加害〔の思い〕という妄執から解脱する、ということで、解脱となる。慈愛と、心と、解脱とがあり、ということで、慈愛という〔寂止の〕心による解脱となる。

 [1507]「一切の堕所にある者は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、信によって信念し、信の機能が、【137】完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……略……〔あるがままに〕発現させ、照らし、輝かす。

 [1508]東の方角にある一切の有情の……略……。西の方角にある一切の有情の……。北の方角にある一切の有情の……。南の方角にある一切の有情の……。東維にある一切の有情の……。西維にある一切の有情の……。北維にある一切の有情の……。南維にある一切の有情の……。下の方角にある一切の有情の……。上の方角にある一切の有情の、(1)逼悩を、逼悩なきによって避けて、(2)害障を、害障なきによって避けて、(3)熱苦を、熱苦なきによって避けて、(4)完全に取り払うことを、完全に取り払うことなきによって避けて、(5)害することを、害することなきによって避けて、「上の方角にある一切の有情は、(6)怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。怨恨〔の思い〕ある者たちとして〔有っては〕ならない。(7)安楽ある者たちとして有れ。苦痛ある者たちとして〔有っては〕ならない。(8)自己〔自ら〕が安楽なる者たちとして有れ。自己〔自ら〕が苦痛なる者たちとして〔有っては〕ならない」と、これらの八つの行相によって、一切の有情たちを慈愛する、ということで、慈愛となる。その法(性質)を思い考える、ということで、心(思)となる。一切の加害〔の思い〕という妄執から解脱する、ということで、解脱となる。慈愛と、心と、解脱とがあり、ということで、慈愛という〔寂止の〕心による解脱となる。

 [1509]「上の方角にある一切の有情は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、信によって信念し、信の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……略……〔あるがままに〕発現させ、照らし、輝かす。

 [1510]東の方角にある一切の生き物の……略……生類の……人の……自己状態(個我的あり方)に属するところの者の……一切の女の……一切の男の……一切の聖者の……一切の聖者ならざる者の……一切の天〔の神々〕の……一切の人間の……一切の堕所にある者の……。西の方角にある一切の堕所にある者の……。北の方角にある一切の堕所にある者の……。南の方角にある一切の堕所にある者の……。東維にある一切の堕所にある者の……。西維にある一切の堕所にある者の……。北維にある一切の堕所にある者の……。南維にある一切の堕所にある者の……。下の方角にある一切の堕所にある者の……。上の方角にある一切の堕所にある者の、(1)逼悩を、逼悩なきによって避けて、(2)害障を、害障なきによって避けて、(3)熱苦を、熱苦なきによって避けて、(4)完全に取り払うことを、完全に取り払うことなきによって避けて、(5)害することを、害することなきによって避けて、「上の方角にある一切の堕所にある者は、(6)怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。怨恨〔の思い〕ある者たちとして〔有っては〕ならない。(7)安楽ある者たちとして有れ。苦痛ある者たちとして〔有っては〕ならない。(8)自己〔自ら〕が安楽なる者たちとして有れ。自己〔自ら〕が苦痛なる者たちとして〔有っては〕ならない」と、これらの八つの行相によって、一切の有情たちを慈愛する、ということで、慈愛となる。その法(性質)を思い考える、ということで、心(思)となる。一切の加害〔の思い〕という妄執から解脱する、ということで、解脱となる。慈愛と、心と、解脱とがあり、ということで、慈愛という〔寂止の〕心による解脱となる。

 [1511]「上の方角にある一切の堕所にある者は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、信によって信念し、信の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1512]「上の方角にある一切の堕所にある者は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、精進を励起し、精進の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1513]……気づきを現起させ、気づきの機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……心を定め、〔心の〕統一の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……知慧によって覚知し、知慧の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1514]これらの五つの機能が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、習修される……略……〔あるがままに〕発現させ、照らし、輝かす。

 [1515]「上の方角にある一切の堕所にある者は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、不信にたいし、〔心が〕動かず、信の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……略……怠慢にたいし、〔心が〕動かず、精進の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……放逸にたいし、〔心が〕動かず、気づきの力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……〔心の〕高揚にたいし、〔心が〕動かず、〔心の〕統一の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……無明にたいし、〔心が〕動かず、知慧の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1516]これらの五つの力が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、習修される……略……〔あるがままに〕発現させ、照らし、輝かす。

 [1517]【138】「上の方角にある一切の堕所にある者は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、気づきを現起させ、気づきという正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1518]……知慧によって考究し、法(真理)の判別という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……精進を励起し、精進という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……苦悶を静息させ、喜悦という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……邪気を静息させ、安息という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……心を定め、〔心の〕統一という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……知恵によって諸々の〔心の〕汚れを審慮し、放捨という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1519]これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、習修される……略……〔あるがままに〕発現させ、照らし、輝かす。

 [1520]「上の方角にある一切の堕所にある者は、怨恨〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安なる者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく見、正しい見解が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……正しく〔心を〕固定し、正しい思惟が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……正しく遍く収取し、正しい言葉が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……正しく等しく現起させ、正しい生業が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……正しく浄化させ、正しい生き方が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……正しく励起し、正しい努力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……正しく現起させ、正しい気づきが、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕……正しく〔心を〕定め、正しい〔心の〕統一が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔寂止の〕心による解脱と〔成る〕。

 [1521]これらの八つの道の支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、習修される……略……。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、付属のものと成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔寂止の〕心による解脱が、善く付属されたものと成る。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔寂止の〕心による解脱にとっての、習修と成り、修行と成り、多く為されたものと成り、十分に作り為すことと成り、必需のものと成り、付属のものと成り、【139】円満成就のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成り、跳入することと成り、清信することと成り、確立することと成り、解脱することと成り、「これは、寂静である」と見ることと成り、乗物として作り為されたものと成り、地所として作り為されたものと成り、奮起されたものと成り、蓄積されたものと成り、善く正しく勉励されたものと成り、善く修行されたものと成り、善く確立されたものと成り、善く引き起こされたものと成り、善く解脱したものと成り、〔あるがままに〕発現させ、照らし、輝かす。ということで――

 [1522]慈愛についての言説は、〔以上で〕終了した。


2.5 離貪についての言説


28.


 [1523]【140】離貪が、道となる。解脱が、果となる。どのように、離貪が、道となるのか。預流道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、誤った見解から離貪し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔離貪し〕、かつまた、諸々の範疇から離貪し、さらには、外なる一切の形相から離貪する。離貪は、離貪を対象とするものであり、離貪を境涯(作用範囲)とするものであり、離貪において生まれ来たものであり、離貪において止住したものであり、離貪において確立したものである。

 [1524]「離貪」とは、二つの離貪がある。しかして、涅槃は、離貪である。さらには、それらが、涅槃を対象として生じた諸法(性質)であるなら、〔その〕全てが、離貪と成る、ということで、〔それらも〕離貪である。共に生じた〔他の〕七つの支分(正しい見解以外の七つの道の支分)が、離貪に至る、ということで、離貪が、道となる。この道によって、覚者たちと、弟子たちとが、至らざる地(涅槃)に至る、ということで、八つの支分ある道となる。多々の沙門や婆羅門たちに、他の異論ある者たちに、諸々の道があるとはいえ、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道が、しかして、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、筆頭であり、かつまた、最上であり、さらには、最も優れたものである、ということで、諸々の道のなかでは、八つの支分あるものが、最勝となる。

 [1525]〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、誤った思惟から離貪し……。遍き収取の義(意味)によって、正しい言葉が、誤った言葉から離貪し……。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい生業が、誤った生業から離貪し……。浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、誤った生き方から離貪し……。励起の義(意味)によって、正しい努力が、誤った努力から離貪し……。現起の義(意味)によって、正しい気づきが、誤った気づきから離貪し……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、誤った〔心の〕統一から離貪し、【141】しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔離貪し〕、かつまた、諸々の範疇から離貪し、さらには、外なる一切の形相から離貪する。離貪は、離貪を対象とするものであり、離貪を境涯(作用範囲)とするものであり、離貪において生まれ来たものであり、離貪において止住したものであり、離貪において確立したものである。

 [1526]「離貪」とは、二つの離貪がある。しかして、涅槃は、離貪である。さらには、それらが、涅槃を対象として生じた諸法(性質)であるなら、〔その〕全てが、離貪と成る、ということで、〔それらも〕離貪である。共に生じた〔他の〕七つの支分(正しい心の統一以外の七つの道の支分)が、離貪に至る、ということで、離貪が、道となる。この道によって、覚者たちと、弟子たちとが、至らざる地(涅槃)に至る、ということで、八つの支分ある道となる。多々の沙門や婆羅門たちに、他の異論ある者たちに、諸々の道があるとはいえ、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道が、しかして、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、筆頭であり、かつまた、最上であり、さらには、最も優れたものである、ということで、諸々の道のなかでは、八つの支分あるものが、最勝となる。

 [1527]一来道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものから〔離貪し〕、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕という束縛するものから〔離貪し〕、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から〔離貪し〕、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕の悪習から離貪し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔離貪し〕、かつまた、諸々の範疇から離貪し、さらには、外なる一切の形相から離貪する。離貪は、離貪を対象とするものであり、離貪を境涯とするものであり、離貪において生まれ来たものであり、離貪において止住したものであり、離貪において確立したものである。

 [1528]「離貪」とは、二つの離貪がある。しかして、涅槃は、離貪である。さらには、それらが、涅槃を対象として生じた諸法(性質)であるなら、〔その〕全てが、離貪と成る、ということで、〔それらも〕離貪である。共に生じた〔他の〕七つの支分(正しい心の統一以外の七つの道の支分)が、離貪に至る、ということで、離貪が、道となる。この道によって、覚者たちと、弟子たちとが、至らざる地(涅槃)に至る、ということで、八つの支分ある道となる。多々の沙門や婆羅門たちに、他の異論ある者たちに、諸々の道があるとはいえ、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道が、しかして、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、筆頭であり、かつまた、最上であり、さらには、最も優れたものである、ということで、諸々の道のなかでは、八つの支分あるものが、最勝となる。

 [1529]不還道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものから〔離貪し〕、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕という束縛するものから〔離貪し〕、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から〔離貪し〕、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕の悪習から離貪し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔離貪し〕、かつまた、諸々の範疇から離貪し、さらには、外なる一切の形相から離貪する。離貪は、離貪を対象とし【142】……略……諸々の道のなかでは、八つの支分あるものが、最勝となる。

 [1530]阿羅漢道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、形態(色界)にたいする貪欲〔の思い〕から〔離貪し〕、形態なき(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕から〔離貪し〕、思量から〔離貪し〕、高揚から〔離貪し〕、無明から〔離貪し〕、思量の悪習から〔離貪し〕、生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から〔離貪し〕、無明の悪習から離貪し、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔離貪し〕、かつまた、諸々の範疇から離貪し、さらには、外なる一切の形相から離貪する。離貪は、離貪を対象とするものであり、離貪を境涯とするものであり、離貪において生まれ来たものであり、離貪において止住したものであり、離貪において確立したものである。

 [1531]「離貪」とは、二つの離貪がある。しかして、涅槃は、離貪である。さらには、それらが、涅槃を対象として生じた諸法(性質)であるなら、〔その〕全てが、離貪と成る、ということで、〔それらも〕離貪である。共に生じた〔他の〕七つの支分(正しい心の統一以外の七つの道の支分)が、離貪に至る、ということで、離貪が、道となる。この道によって、覚者たちと、弟子たちとが、至らざる地(涅槃)に至る、ということで、八つの支分ある道となる。多々の沙門や婆羅門たちに、他の異論ある者たちに、諸々の道があるとはいえ、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道が、しかして、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、筆頭であり、かつまた、最上であり、さらには、最も優れたものである、ということで、諸々生じたの道のなかでは、八つの支分あるものが、最勝となる。

 [1532]〔あるがままの〕見としての離貪が、正しい見解となる。〔正しく心を〕固定することとしての離貪が、正しい思惟となる。遍き収取としての離貪が、正しい言葉となる。等しく現起するものとしての離貪が、正しい生業となる。浄化するものとしての離貪が、正しい生き方となる。励起としての離貪が、正しい努力となる。現起としての離貪が、正しい気づきとなる。〔心の〕散乱なきとしての離貪が、正しい〔心の〕統一となる。現起としての離貪が、気づきという正覚の支分となる。考究としての離貪が、法(真理)の判別という正覚の支分となる。励起としての離貪が、精進という正覚の支分となる。充満としての離貪が、喜悦という正覚の支分となる。寂止としての離貪が、安息という正覚の支分となる。〔心の〕散乱なきとしての離貪が、〔心の〕統一という正覚の支分となる。審慮(客観的観察)としての離貪が、放捨(客観的認識)という正覚の支分となる。【143】不信にたいする、不動としての離貪が、信の力となる。怠慢にたいする、不動としての離貪が、精進の力となる。放逸にたいする、不動としての離貪が、気づきの力となる。〔心の〕高揚にたいする、不動としての離貪が、〔心の〕統一の力となる。無明にたいする、不動としての離貪が、知慧の力となる。信念としての離貪が、信の機能となる。励起としての離貪が、精進の機能となる。現起としての離貪が、気づきの機能となる。〔心の〕散乱なきとしての離貪が、〔心の〕統一の機能となる。〔あるがままの〕見としての離貪が、知慧の機能となる。優位主要性の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、離貪となる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、離貪となる。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、離貪となる。因の義(意味)によって、〔八つの聖なる〕道が、離貪となる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、離貪となる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、離貪となる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、離貪となる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、離貪となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕寂止が、離貪となる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、離貪となる。一味の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察が、離貪となる。〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の寂止とあるがままの観察)が、離貪となる。統御の義(意味)によって、戒の清浄が、離貪となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄が、離貪となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、離貪となる。解き放ちの義(意味)によって、解脱が、離貪となる。理解の義(意味)によって、明知が、離貪となる。遍捨の義(意味)によって、解脱が、離貪となる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、離貪となる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、離貪となる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、離貪となる。接触が、結集の義(意味)によって、離貪となる。感受が、集結の義(意味)によって、離貪となる。〔心の〕統一が、面前の義(意味)によって、離貪となる。気づきが、優位主要性の義(意味)によって、離貪となる。知慧が、それをより上とするの義(意味)によって、離貪となる。解脱が、真髄の義(意味)によって、離貪となる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、離貪となる。

 [1533]〔あるがままの〕見としての道が、正しい見解となる。〔正しく心を〕固定することとしての道が、正しい思惟となる……略……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、道となる。このように、離貪が、道となる。


29.


 [1534]どのように、解脱が、果となるのか。預流果の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、誤った見解から解脱したものと成り、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから解脱したものと成り、かつまた、諸々の範疇から解脱したものと成り、さらには、外なる一切の形相から解脱したものと成る。解脱は、解脱を対象とするものであり、解脱を境涯とするものであり、解脱において生まれ来たものであり、解脱において止住したものであり、解脱において確立したものである。「解脱」とは、二つの解脱がある。しかして、涅槃は、解脱である。さらには、それらが、涅槃を対象として生じた諸法(性質)であるなら、〔その〕全てが、解脱したものと成る、ということで、解脱が、果となる。

 [1535]〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、誤った思惟から【144】解脱したものと成り、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから解脱したものと成り、かつまた、諸々の範疇から解脱したものと成り、さらには、外なる一切の形相から解脱したものと成る。解脱は、解脱を対象とするものであり、解脱を境涯とするものであり、解脱において生まれ来たものであり、解脱において止住したものであり、解脱において確立したものである。「解脱」とは、二つの解脱がある。しかして、涅槃は、解脱である。さらには、それらが、涅槃を対象として生じた諸法(性質)であるなら、〔その〕全てが、解脱したものと成る、ということで、解脱が、果となる。

 [1536]遍き収取の義(意味)によって、正しい言葉が、誤った言葉から解脱したものと成り……。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい生業が、誤った生業から解脱したものと成り……。浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、誤った生き方から解脱したものと成り……。励起の義(意味)によって、正しい努力が、誤った努力から解脱したものと成り……。現起の義(意味)によって、正しい気づきが、誤った気づきから解脱したものと成り……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、誤った〔心の〕統一から解脱したものと成り、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから解脱したものと成り、かつまた、諸々の範疇から解脱したものと成り、さらには、外なる一切の形相から解脱したものと成る。解脱は、解脱を対象とするものであり、解脱を境涯とするものであり、解脱において生まれ来たものであり、解脱において止住したものであり、解脱において確立したものである。「解脱」とは、二つの解脱がある。しかして、涅槃は、解脱である。さらには、それらが、涅槃を対象として生じた諸法(性質)であるなら、〔その〕全てが、解脱したものと成る、ということで、解脱が、果となる。

 [1537]一来果の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものから〔解脱したものと成り〕、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕という束縛するものから〔解脱したものと成り〕、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から〔解脱したものと成り〕、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕の悪習から解脱したものと成り、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから解脱したものと成り、かつまた、諸々の範疇から解脱したものと成り、さらには、外なる一切の形相から解脱したものと成る。解脱は、解脱を対象とするものであり、解脱を境涯とするものであり、解脱において生まれ来たものであり、解脱において止住したものであり、解脱において確立したものである。「解脱」とは、二つの解脱がある。しかして、涅槃は、解脱である。さらには、それらが、涅槃を対象として生じた諸法(性質)であるなら、〔その〕全てが、解脱したものと成る、ということで、解脱が、果となる。

 [1538]不還果の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものから〔解脱したものと成り〕、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕という束縛するものから〔解脱したものと成り〕、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から〔解脱したものと成り〕、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕の悪習から解脱したものと成り、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから解脱したものと成り、かつまた、諸々の範疇から解脱したものと成り、さらには、外なる一切の形相から解脱したものと成る。【145】解脱は、解脱を対象とするものであり、解脱を境涯とするものであり、解脱において生まれ来たものであり、解脱において止住したものであり、解脱において確立したものである。「解脱」とは、二つの解脱がある。しかして、涅槃は、解脱である。さらには、それらが、涅槃を対象として生じた諸法(性質)であるなら、〔その〕全てが、解脱したものと成る、ということで、解脱が、果となる。

 [1539]阿羅漢果の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、正しい〔心の〕統一が、形態(色界)にたいする貪欲〔の思い〕から〔解脱したものと成り〕、形態なき(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕から〔解脱したものと成り〕、思量から〔解脱したものと成り〕、高揚から〔解脱したものと成り〕、無明から〔解脱したものと成り〕、思量の悪習から〔解脱したものと成り〕、生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から〔解脱したものと成り〕、無明の悪習から解脱したものと成り、しかして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから解脱したものと成り、かつまた、諸々の範疇から解脱したものと成り、さらには、外なる一切の形相から解脱したものと成る。解脱は、解脱を対象とするものであり、解脱を境涯とするものであり、解脱において生まれ来たものであり、解脱において止住したものであり、解脱において確立したものである。「解脱」とは、二つの解脱がある。しかして、涅槃は、解脱である。さらには、それらが、涅槃を対象として生じた諸法(性質)であるなら、〔その〕全てが、解脱したものと成る、ということで、解脱が、果となる。

 [1540]〔あるがままの〕見としての解脱が、正しい見解となる……略……。〔心の〕散乱なきとしての解脱が、正しい〔心の〕統一となる。現起としての解脱が、気づきという正覚の支分となる……略……。審慮としての解脱が、放捨という正覚の支分となる。不信にたいする、不動としての解脱が、信の力となる……略……。無明にたいする、不動としての解脱が、知慧の力となる。信念としての解脱が、信の機能となる……略……。〔あるがままの〕見としての解脱が、知慧の機能となる。

 [1541]優位主要性の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、解脱となる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、解脱となる。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、解脱となる。因の義(意味)によって、〔八つの聖なる〕道が、解脱となる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、解脱となる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、解脱となる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、解脱となる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、解脱となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕寂止が、【146】解脱となる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、解脱となる。一味の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察が、解脱となる。〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の寂止とあるがままの観察)が、解脱となる。統御の義(意味)によって、戒の清浄が、解脱となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄が、解脱となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、解脱となる。解き放ちの義(意味)によって、解脱が、解脱となる。理解の義(意味)によって、明知が、解脱となる。遍捨の義(意味)によって、解脱が、解脱となる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、解脱となる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、解脱となる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、解脱となる。接触が、結集の義(意味)によって、解脱となる。感受が、集結の義(意味)によって、解脱となる。〔心の〕統一が、面前の義(意味)によって、解脱となる。気づきが、優位主要性の義(意味)によって、解脱となる。知慧が、それをより上とするの義(意味)によって、解脱となる。解脱が、真髄の義(意味)によって、解脱となる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、解脱となる。このように、解脱が、果となる。このように、離貪が、道となる。解脱が、果となる。ということで――

 [1542]離貪についての言説は、〔以上で〕終了した。


2.6 融通無礙についての言説


2.6.1 法(真理)の輪を転起させることの部


30.


 [1543]【147】このように、わたしは聞いた。或る時のことである。世尊は、バーラーナシー(波羅奈)に住している。聖賢たちが落ち合うミガダーヤ(鹿野苑)において。そこで、まさに、世尊は、五群の比丘に語りかけた。

 [1544]「比丘たちよ、二つのものがある。これらの極〔論〕である。出家者によって、習修されるべきものにあらず。どのようなものが、二つのものであるのか。(1)しかして、すなわち、この、諸々の欲望〔の対象〕における欲望の安楽に付着することへの専念(快楽主義)なるもの、下劣にして野卑なるもの、凡夫のものにして聖ならざるもの、義(利益)ならざるものを伴ったものであり、(2)さらには、すなわち、この、自己疲弊への専念(苦行主義)なるもの、苦痛にして聖ならざるもの、義(利益)ならざるものを伴ったものである。比丘たちよ、まさに、これらの両極に近づき行かずして、中なる〔実践の〕道(中道)が、如来によって正覚された、眼を作り為すものが、知恵を作り為すものが、寂止のために〔等しく転起し〕、証知のために〔等しく転起し〕、正覚のために〔等しく転起し〕、涅槃のために等しく転起する。

 [1545]比丘たちよ、しからば、どのようなものが、中なる〔実践の〕道であり、如来によって正覚された、眼“まなこ”を作り為すものであり、知恵を作り為すものであり、寂止のために〔等しく転起し〕、証知のために〔等しく転起し〕、正覚のために〔等しく転起し〕、涅槃のために等しく転起するのか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道である。それは、すなわち、この、正しい見解……略……正しい〔心の〕統一である。比丘たちよ、これが、まさに、その、中なる〔実践の〕道が、如来によって正覚された、眼を作り為すものが、知恵を作り為すものが、寂止のために〔等しく転起し〕、証知のために〔等しく転起し〕、正覚のために〔等しく転起し〕、涅槃のために等しく転起する。

 [1546](1)比丘たちよ、また、まさに、これが、苦痛という聖なる真理である。生もまた、苦痛である。老もまた、苦痛である。病もまた、苦痛である。死もまた、苦痛である。諸々の愛しからざるものとの結合(怨憎会)は、苦痛である。諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦痛である。すなわち、また、〔彼が〕求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦痛である。簡略に〔説くなら〕、〔心身を構成する〕五つの執取の範疇(五取蘊)は、苦痛である。比丘たちよ、また、まさに、これが、苦痛の集起という聖なる真理である。すなわち、この渇愛は、さらなる〔迷いの〕生存あるもの、喜悦と貪欲を共具したもの、そこかしこに喜悦〔の思い〕あるものにして、それは、すなわち、この、欲望〔の対象〕への渇愛(欲愛)、生存への渇愛(有愛)、非生存への渇愛(非有愛)である。【148】比丘たちよ、また、まさに、これが、苦痛の止滅という聖なる真理である。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪による止滅、棄捨、放棄、解放、執着なきである。比丘たちよ、また、まさに、これが、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道である。それは、すなわち、この、正しい見解……略……正しい〔心の〕統一である。

 [1547]比丘たちよ、『これが、苦痛という聖なる真理である』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。比丘たちよ、『また、まさに、〔まさに〕その、この苦痛という聖なる真理が、遍知されるべきである』と、わたしには……略……。比丘たちよ、『……遍知された』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。

 [1548](2)比丘たちよ、『これが、苦痛の集起という聖なる真理である』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。比丘たちよ、『また、まさに、〔まさに〕その、この苦痛の集起という聖なる真理が、捨棄されるべきである』と、わたしには……略……。比丘たちよ、『……捨棄された』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。

 [1549](3)比丘たちよ、『これが、苦痛の止滅という聖なる真理である』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。比丘たちよ、『また、まさに、〔まさに〕その、この苦痛の止滅という聖なる真理が、実証されるべきである』と、わたしには……略……。比丘たちよ、『……実証された』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。

 [1550](4)比丘たちよ、『これが、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。比丘たちよ、『また、まさに、〔まさに〕その、この苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、修行されるべきである』と、わたしには……略……。比丘たちよ、『……修行された』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。

 [1551]比丘たちよ、しかして、何はともあれ、わたしのばあい、これらの四つの聖なる真理について、このように、三つの遍き転起あるものとして、十二の行相あるものとして、事実のとおりの知見(如実知見)が、善く清浄のものと成らなかったあいだは、比丘たちよ、それまでは、わたしは、【149】天〔界〕を含む世〔界〕において、魔〔界〕を含み梵〔界〕を含む〔世界〕において、沙門や婆羅門を含む人々において、天〔の神〕や人間を含む〔人々〕において、『無上なる正自覚を正覚した者である』と、まさしく、公言しなかった。

 [1552]比丘たちよ、しかるに、まさに、わたしのばあい、これらの四つの聖なる真理について、このように、三つの遍き転起あるものとして、十二の行相あるものとして、事実のとおりの知見が、善く清浄のものと成ったことから、比丘たちよ、しかして、わたしは、天〔界〕を含む世〔界〕において、魔〔界〕を含み梵〔界〕を含む〔世界〕において、沙門や婆羅門を含む人々において、天〔の神〕や人間を含む〔人々〕において、『無上なる正自覚を正覚した者である』と公言したのである。しかして、また、知恵が〔生起し〕、わたしに、〔あるがままの〕見が生起した。『わたしの解脱は、不動である。これは、最後の生である。今や、さらなる生存(再生)は存在しない』」と。

 [1553]世尊は、この〔言葉〕を言った。わが意を得た、五群の比丘は、世尊が語ったことを喜んだ。ということで――

 [1554]さらには、また、この説明が語られているとき、尊者コンダンニャに、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起した。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全ては、止滅の法(性質)である」と。

 [1555]さらには、また、世尊によって、法(真理)の輪が転起させられたとき、地上にある天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を挙げた。「バーラーナシーにおいて、聖賢たちが落ち合うミガダーヤにおいて、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた――あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世の誰によってであろうが、反転できない〔法の輪〕が」と。地上にある天〔の神々〕たちの声を聞いて、四大王天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を挙げた……。四大王天〔の神々〕たちの声を聞いて、三十三天〔の神々〕たちは……略……耶摩天〔の神々〕たちは……略……兜率天〔の神々〕たちは……略……化楽天〔の神々〕たちは……略……他化自在天〔の神々〕たちは……略……梵の衆たる天〔の神々〕(梵天衆)たちは、〔歓呼の〕声を挙げた。「バーラーナシーにおいて、聖賢たちが落ち合うミガダーヤにおいて、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた――あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世の誰によってであろうが、反転できない〔法の輪〕が」と。

 [1556]まさに、かくのごとく、その瞬間、その時、その寸時に、梵世(梵天界)に至るまで、〔歓呼の〕声が沸き上がった。かつまた、この十千世界が、動転し、激動し、動揺した。さらには、無量にして巨万の光輝が、世に出現した――天〔の神々〕たちの天なる威を超え行って。ということで――

 [1557]そこで、まさに、世尊は、このウダーナ(感興の言葉)を唱えた。〔すなわち〕「ああ、まさに、コンダンニャは了知した。ああ、まさに、コンダンニャは了知した」と。まさに、かくのごとく、この、尊者コンダンニャの名前は、まさしく、「アンニャーシ・コンダンニャ(了知したコンダンニャ)」と成った。

 [1558](1)「『これが、苦痛という聖なる真理である』と、かつて聞かれたことなき【150】諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した」〔とは〕――

 [1559]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知慧が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「光明が生起した」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって。「知恵が生起し」とは、所知の義(意味)によって。「知慧が生起し」とは、覚知することの義(意味)によって。「明知が生起し」とは、理解の義(意味)によって。「光明が生起した」とは、光輝の義(意味)によって。

 [1560]眼は、法(性質)である。知恵は、法(性質)である。知慧は、法(性質)である。明知は、法(性質)である。光明は、法(性質)である。これらの五つの法(性質)は、法(性質)の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の法(性質)についての知恵が、法(性質)の融通無礙となり」と。

 [1561]〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。所知の義(意味)は、義(意味)である。覚知することの義(意味)は、義(意味)である。理解の義(意味)は、義(意味)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの義(意味)は、義(意味)の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の義(意味)についての知恵が、義(意味)の融通無礙となり」と。

 [1562]五つの法(性質)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。これらの十の言語は、言語の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり」と。

 [1563]五つの法(性質)についての諸々の知恵がある。五つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。これらの二十の知恵は、応答の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる」と。

 [1564]「『また、まさに、〔まさに〕その、この苦痛という聖なる真理が、遍知されるべきである』と……略……。『……遍知された』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した」〔とは〕――

 [1565]【151】「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知慧が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「光明が生起した」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって。「知恵が生起し」とは、所知の義(意味)によって。「知慧が生起し」とは、覚知することの義(意味)によって。「明知が生起し」とは、理解の義(意味)によって。「光明が生起した」とは、光輝の義(意味)によって。

 [1566]眼は、法(性質)である。知恵は、法(性質)である。知慧は、法(性質)である。明知は、法(性質)である。光明は、法(性質)である。これらの五つの法(性質)は、法(性質)の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の法(性質)についての知恵が、法(性質)の融通無礙となり」と。

 [1567]〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。所知の義(意味)は、義(意味)である。覚知することの義(意味)は、義(意味)である。理解の義(意味)は、義(意味)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの義(意味)は、義(意味)の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の義(意味)についての知恵が、義(意味)の融通無礙となり」と。

 [1568]五つの法(性質)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。これらの十の言語は、言語の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり」と。

 [1569]五つの法(性質)についての諸々の知恵がある。五つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。これらの二十の知恵は、応答の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる」と。

 [1570]苦痛という聖なる真理において、十五の法(性質)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 [1571](2)「『これが、苦痛の集起という聖なる真理である』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。「『また、まさに、〔まさに〕その、この苦痛の集起という聖なる真理が、捨棄されるべきである』と……略……。『……捨棄された』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し【152】……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。

 [1572]苦痛の集起という聖なる真理において、十五の法(性質)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 [1573](3)「『これが、苦痛の止滅という聖なる真理である』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。「『また、まさに、〔まさに〕その、この苦痛の止滅という聖なる真理が、実証されるべきである』と……略……。『……実証された』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。

 [1574]苦痛の止滅という聖なる真理において、十五の法(性質)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 [1575](4)「『これが、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。「『また、まさに、〔まさに〕その、この苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、修行されるべきである』と……略……。『……修行された』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。

 [1576]苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理において、十五の法(性質)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 [1577]四つの聖なる真理において、六十の法(性質)があり、六十の義(意味)があり、百二十の言語があり、四十と、さらには、二百の知恵がある。


2.6.2 気づきの確立の部


31.


 [1578]「(1)比丘たちよ、『これが、身体における身体の随観である』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。比丘たちよ、『また、まさに、〔まさに〕その、この身体における身体の随観が、修行されるべきである』と、わたしには……略……。比丘たちよ、『……修行された』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。

 [1579](2)〔比丘たちよ、〕『これが、諸々の感受における……略……。(3)〔比丘たちよ、〕『これが、心における……略……。(4)比丘たちよ、『これが、諸々の法(性質)における法(性質)の随観である』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。比丘たちよ、『また、まさに、〔まさに〕その、この諸々の法(性質)における法(性質)の随観が、修行されるべきである』と、わたしには……略……。比丘たちよ、『……修行された』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔と〕。

 [1580](1)「『これが、身体における身体の随観である』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。【153】「『また、まさに、〔まさに〕その、この身体における身体の随観が、修行されるべきである』と……略……。『……修行された』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した」〔とは〕――

 [1581]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知慧が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「光明が生起した」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって。「知恵が生起し」とは、所知の義(意味)によって。「知慧が生起し」とは、覚知することの義(意味)によって。「明知が生起し」とは、理解の義(意味)によって。「光明が生起した」とは、光輝の義(意味)によって。

 [1582]眼は、法(性質)である。知恵は、法(性質)である。知慧は、法(性質)である。明知は、法(性質)である。光明は、法(性質)である。これらの五つの法(性質)は、法(性質)の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の法(性質)についての知恵が、法(性質)の融通無礙となり」と。

 [1583]〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。所知の義(意味)は、義(意味)である。覚知することの義(意味)は、義(意味)である。理解の義(意味)は、義(意味)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの義(意味)は、義(意味)の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の義(意味)についての知恵が、義(意味)の融通無礙となり」と。

 [1584]五つの法(性質)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。これらの十の言語は、言語の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり」と。

 [1585]五つの法(性質)についての諸々の知恵がある。五つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。これらの二十の知恵は、応答の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる」と。

 [1586]身体における身体の随観という気づきの確立において、十五の法(性質)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 [1587](2)「『これが、諸々の感受における……略……。(3)「『これが、心における……略……。(4)「『これが、諸々の法(性質)における法(性質)の随観である』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。「『また、まさに、〔まさに〕その、この【154】諸々の法(性質)における法(性質)の随観が、修行されるべきである』と……略……。『……修行された』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。

 [1588]諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立において、十五の法(性質)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 [1589]四つの気づきの確立において、六十の法(性質)があり、六十の義(意味)があり、百二十の言語があり、四十と、さらには、二百の知恵がある。


2.6.3 神通の足場の部


32.


 [1590]「(1)比丘たちよ、『これが、欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。比丘たちよ、『また、まさに、〔まさに〕その、この欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、修行されるべきである』と、わたしには……略……。比丘たちよ、『……修行された』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。

 [1591](2)〔比丘たちよ、〕『これが、精進による〔心の〕統一と……略……。(3)〔比丘たちよ、〕『これが、心による〔心の〕統一と……略……。(4)比丘たちよ、『これが、考察による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。比丘たちよ、『また、まさに、〔まさに〕その、この考察による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、修行されるべきである』と、わたしには……略……。比丘たちよ、『……修行された』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔と〕。

 [1592](1)「『これが、欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。「『また、まさに、〔まさに〕その、この欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、修行されるべきである』と……略……。『……修行された』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した」〔とは〕――

 [1593]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知慧が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「光明が生起した」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって。「知恵が生起し」とは、所知の義(意味)によって。「知慧が生起し」とは、覚知することの義(意味)によって。「明知が生起し」とは、理解の義(意味)によって。「光明が生起した」とは、光輝の義(意味)によって。

 [1594]【155】眼は、法(性質)である。知恵は、法(性質)である。知慧は、法(性質)である。明知は、法(性質)である。光明は、法(性質)である。これらの五つの法(性質)は、法(性質)の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の法(性質)についての知恵が、法(性質)の融通無礙となり」と。

 [1595]〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。所知の義(意味)は、義(意味)である。覚知することの義(意味)は、義(意味)である。理解の義(意味)は、義(意味)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの義(意味)は、義(意味)の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の義(意味)についての知恵が、義(意味)の融通無礙となり」と。

 [1596]五つの法(性質)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。これらの十の言語は、言語の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり」と。

 [1597]五つの法(性質)についての諸々の知恵がある。五つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。これらの二十の知恵は、応答の融通無礙にとっての、まさしく、しかして、対象と成り、さらには、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であり、それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる」と。

 [1598]欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場において、十五の法(性質)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 [1599](2)「『これが、精進による〔心の〕統一と……略……。(3)「『これが、心による〔心の〕統一と……略……。(4)「『これが、考察による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。「『また、まさに、〔まさに〕その、この考察による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、修行されるべきである』と……略……。『……修行された』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。

 [1600]考察による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場において、十五の法(性質)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 [1601]四つの神通の足場において、六十の法(性質)があり、六十の義(意味)があり、百二十の言語があり、四十と、さらには、二百の知恵がある。


2.6.4 七者の菩薩の部


33.


 [1602]【156】「(1)比丘たちよ、『集起である。集起である』と、まさに、ヴィパッシン菩薩には、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。比丘たちよ、『止滅である。止滅である』と、まさに、ヴィパッシン菩薩には、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔と〕。ヴィパッシン菩薩には、〔教えの〕説明において、十の法(性質)があり、十の義(意味)があり、二十の言語があり、四十の知恵がある。

 [1603]「(2)比丘たちよ、『集起である。集起である』と、まさに、シキン菩薩には……略……。「(3)……ヴェッサブー菩薩には……略……。「(4)……カクサンダ菩薩には……略……。「(5)……コーナーガマナ菩薩には……略……。「(6)……カッサパ菩薩には、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。比丘たちよ、『止滅である。止滅である』と、まさに、カッサパ菩薩には、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔と〕。カッサパ菩薩には、〔教えの〕説明において、十の法(性質)があり、十の義(意味)があり、二十の言語があり、四十の知恵がある。

 [1604]「(7)比丘たちよ、『集起である。集起である』と、まさに、ゴータマ菩薩には、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。比丘たちよ、『止滅である。止滅である』と、まさに、ゴータマ菩薩には、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔と〕。ゴータマ菩薩には、〔教えの〕説明において、十の法(性質)があり、十の義(意味)があり、二十の言語があり、四十の知恵がある。

 [1605]七者の菩薩には、七つの〔教えの〕説明において、七十の法(性質)があり、七十の義(意味)があり、百四十の言語があり、八十と、さらには、二百の知恵がある。


2.6.5 証知等の部


34.


 [1606](1)あるかぎりの、証知の、証知の義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見い出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、知慧によって〔すでに〕接触されたもの(体得されたもの)となり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない証知の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。証知の、証知の義(意味)において、二十五の法(性質)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 [1607](2)あるかぎりの、遍知の、遍知の義(意味)が……略……。(3)あるかぎりの、捨棄の、捨棄の義(意味)が……略……。(4)あるかぎりの、修行の、修行の義(意味)が……略……。(5)あるかぎりの、実証の、実証の義(意味)が、【157】〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見い出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、知慧によって〔すでに〕接触されたものとなり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない実証の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。実証の、実証の義(意味)において、二十五の法(性質)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 [1608]証知の、証知の義(意味)において、遍知の、遍知の義(意味)において、捨棄の、捨棄の義(意味)において、修行の、修行の義(意味)において、実証の、実証の義(意味)において、百二十五の法(性質)があり、百二十五の義(意味)があり、二百五十の言語があり、五百の知恵がある。


2.6.6 範疇等の部


35.


 [1609](1)あるかぎりの、〔五つの〕範疇の、範疇の義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見い出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、知慧によって〔すでに〕接触されたもの(体得されたもの)となり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない範疇の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。〔五つの〕範疇の、範疇の義(意味)において、二十五の法(性質)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 [1610](2)あるかぎりの、〔十八の〕界域の、界域の義(意味)が……略……。(3)あるかぎりの、〔十二の認識の〕場所の、〔認識の〕場所の義(意味)が……略……。(4)あるかぎりの、諸々の形成されたものの、形成されたものの義(意味)が……略……。(5)あるかぎりの、形成されたものでないものの、形成されたものでないものの義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見い出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、知慧によって〔すでに〕接触されたものとなり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない形成されたものでないものの義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し……略……光明が生起した。形成されたものでないものの、形成されたものでないものの義(意味)において、二十五の法(性質)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 [1611]〔五つの〕範疇の、範疇の義(意味)において、〔十八の〕界域の、界域の義(意味)において、〔十二の認識の〕場所の、〔認識の〕場所の義(意味)において、諸々の形成されたものの、形成されたものの義(意味)において、形成されたものでないものの、形成されたものでないものの義(意味)において、百二十五の法(性質)があり、百二十五の義(意味)があり、二百五十の言語があり、五百の知恵がある。


2.6.7 真理の部


36.


 [1612](1)あるかぎりの、苦痛の、苦痛の義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見い出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、知慧によって〔すでに〕接触されたもの(体得されたもの)となり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない苦痛の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。苦痛の、苦痛の義(意味)において、二十五の法(性質)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 [1613](2)あるかぎりの、集起の、集起の義(意味)が……略……。(3)あるかぎりの、止滅の、止滅の義(意味)が……略……。(4)あるかぎりの、道の、道の義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見い出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、知慧によって〔すでに〕接触されたものとなり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない道の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し……略……光明が生起した。道の、道の義(意味)において、二十五の法(性質)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 [1614]四つの聖なる真理において、百の法(性質)があり、百の義(意味)があり、二百の言語があり、四百の知恵がある。


2.6.8 融通無礙の部


37.


 [1615](1)あるかぎりの、義(意味)の融通無礙の、義(意味)の融通無礙の義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見い出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、知慧によって〔すでに〕接触されたもの(体得されたもの)となり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない義(意味)の融通無礙の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。義(意味)の融通無礙の、義(意味)の融通無礙の義(意味)において、二十五の法(性質)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 [1616](2)あるかぎりの、法(性質)の融通無礙の、法(性質)の融通無礙の義(意味)が……略……。(3)あるかぎりの、言語の融通無礙の、言語の融通無礙の義(意味)が……略……。(4)あるかぎりの、応答の融通無礙の、応答の融通無礙の義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見い出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、知慧によって〔すでに〕接触されたものとなり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない応答の融通無礙の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し……略……【158】光明が生起した。応答の融通無礙の、応答の融通無礙の義(意味)において、二十五の法(性質)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 [1617]四つの融通無礙において、百の法(性質)があり、百の義(意味)があり、二百の言語があり、四百の知恵がある。


2.6.9 六つの覚者の法(性質)の部


38.


 [1618](1)あるかぎりの、機能の上下なる知恵が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見い出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、知慧によって〔すでに〕接触されたもの(体得されたもの)となり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない機能の上下なる知恵は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。機能の上下なる知恵において、二十五の法(性質)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 [1619](2)あるかぎりの、有情たちの志欲と悪習についての知恵が……略……。(3)あるかぎりの、対なる神変についての知恵が……略……。(4)あるかぎりの、大いなる慈悲の入定についての知恵が……略……。(5)あるかぎりの、一切知者たる知恵が……略……。(6)あるかぎりの、妨げなき知恵が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見い出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、知慧によって〔すでに〕接触されたものとなり、知慧によって〔いまだ〕接触されていない妨げなき知恵は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。妨げなき知恵において、二十五の法(性質)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 [1620]六つの覚者の法(性質)において、百五十の法(性質)があり、百五十の義(意味)があり、三百の言語があり、六百の知恵がある。

 [1621]融通無礙という事因において、八百五十の法(性質)があり、八百五十の義(意味)があり、千の言語と、七百の言語とがあり、三千の知恵と、四百の知恵とがある。ということで――

 [1622]融通無礙についての言説は、〔以上で〕終了した。


2.7 法(真理)の輪についての言説


2.7.1 真理の部


39.


 [1623]【159】或る時のことである。世尊は、バーラーナシーに住している……略……。まさに、かくのごとく、この、尊者コンダンニャの名前は、まさしく、「アンニャーシ・コンダンニャ(了知したコンダンニャ)」と成った。

 [1624](1)「『これが、苦痛という聖なる真理である』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した」〔とは〕――

 [1625]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知慧が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「光明が生起した」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって。「知恵が生起し」とは、所知の義(意味)によって。「知慧が生起し」とは、覚知することの義(意味)によって。「明知が生起し」とは、理解の義(意味)によって。「光明が生起した」とは、光輝の義(意味)によって。

 [1626]眼は、法(性質)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。知恵は、法(性質)である。所知の義(意味)は、義(意味)である。知慧は、法(性質)である。覚知することの義(意味)は、義(意味)である。明知は、法(性質)である。理解の義(意味)は、義(意味)である。光明は、法(性質)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの法(性質)と五つの義(意味)は、苦痛を根拠とするものであり、真理を根拠とするものであり、真理を対象とするものであり、真理を境涯(作用範囲)とするものであり、真理によって包摂されたものであり、真理に属するところのものであり、真理において生まれ来たものであり、真理において止住したものであり、真理において確立したものである。


40.


 [1627]「法(真理)の輪」とは、どのような義(意味)によって、法(真理)の輪であるのか。しかして、法(性質)を転起させ、さらには、輪を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。しかして、輪を転起させ、さらには、法(性質)を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)の性行によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において止住した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において確立した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において確立させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において自在を得た者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において自在を得させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。【160】法(性質)において最奥義を得た者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において最奥義を得させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において離怖を得た者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において離怖を得させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を尊敬している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を重きものと為している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を思慕している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を供養している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を敬恭している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を旗とする者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を幟とする者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を優位主要性とする者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。また、まさに、その法(真理)の輪は、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世の誰によってであろうが、反転できない〔法の輪〕である、ということで、法(真理)の輪となる。

 [1628]信の機能は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。精進の機能は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。気づきの機能は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。〔心の〕統一の機能は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。知慧の機能は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。信の力は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。精進の力は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。気づきの力は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。〔心の〕統一の力は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。知慧の力は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。気づきという正覚の支分は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)の判別という正覚の支分は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。精進という正覚の支分は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。喜悦という正覚の支分は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。安息という正覚の支分は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。〔心の〕統一という正覚の支分は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。放捨という正覚の支分は、【161】法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい見解は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい思惟は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい言葉は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい生業は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい生き方は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい努力は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい気づきは、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい〔心の〕統一は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。

 [1629]優位主要性の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。因の義(意味)によって、〔八つの〕道が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕寂止が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。一味の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の寂止とあるがままの観察)が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。統御の義(意味)によって、戒の清浄が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。解き放ちの義(意味)によって、解脱が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。理解の義(意味)によって、明知が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。遍捨の義(意味)によって、解脱が、【162】法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。静息の義(意味)によって、生起なきについての知恵が、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。接触が、結集の義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。感受が、集結の義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。〔心の〕統一が、面前の義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。気づきが、優位主要性の義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。知慧が、それをより上とするの義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。解脱が、真髄の義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。

 [1630]「『また、まさに、〔まさに〕その、この苦痛という聖なる真理が、遍知されるべきである』と……略……。『……遍知された』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕――

 [1631]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか……略……。「光明が生起した」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって……略……。「光明が生起した」とは、光輝の義(意味)によって。眼は、法(性質)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である……略……。光明は、法(性質)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの法(性質)と五つの義(意味)は、苦痛を根拠とするものであり、真理を根拠とするものであり、真理を対象とするものであり、真理を境涯(作用範囲)とするものであり、真理によって包摂されたものであり、真理に属するところのものであり、真理において生まれ来たものであり、真理において止住したものであり、真理において確立したものである。

 [1632]「法(真理)の輪」とは、どのような義(意味)によって、法(真理)の輪であるのか。しかして、法(性質)を転起させ、さらには、輪を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。しかして、輪を転起させ、さらには、法(性質)を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)の性行によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において止住した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において確立した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる……略……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。

 [1633](2)「『これが、苦痛の集起という聖なる真理である』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。「『また、まさに、〔まさに〕その、この苦痛の集起という聖なる真理が、捨棄されるべきである』と……略……。『……捨棄された』と、かつて【163】聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕――

 [1634]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか……略……。「光明が生起した」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって……略……。「光明が生起した」とは、光輝の義(意味)によって。

 [1635]眼は、法(性質)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である……略……。光明は、法(性質)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの法(性質)と五つの義(意味)は、集起を根拠とするものであり、真理を根拠とするものであり……略……。(3)……止滅を根拠とするものであり、真理を根拠とするものであり……略……。(4)……道を根拠とするものであり、真理を根拠とするものであり、真理を対象とするものであり、真理を境涯(作用範囲)とするものであり、真理によって包摂されたものであり、真理に属するところのものであり、真理において生まれ来たものであり、真理において止住したものであり、真理において確立したものである。

 [1636]「法(真理)の輪」とは、どのような義(意味)によって、法(真理)の輪であるのか。しかして、法(性質)を転起させ、さらには、輪を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。しかして、輪を転起させ、さらには、法(性質)を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)の性行によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において止住した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において確立した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる……略……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。


2.7.2 気づきの確立の部


41.


 [1637]「(1)比丘たちよ、『これが、身体における身体の随観である』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。比丘たちよ、『また、まさに、〔まさに〕その、この身体における身体の随観が、修行されるべきである』と、わたしには……略……。比丘たちよ、『……修行された』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。

 [1638](2)〔比丘たちよ、〕『これが、諸々の感受における……略……。(3)〔比丘たちよ、〕『これが、心における……略……。(4)比丘たちよ、『これが、諸々の法(性質)における法(性質)の随観である』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。比丘たちよ、『また、まさに、〔まさに〕その、この諸々の法(性質)における法(性質)の随観が、修行されるべきである』と、わたしには……略……。比丘たちよ、『……修行された』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔と〕。

 [1639](1)「『これが、身体における身体の随観である』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。「『また、まさに、〔まさに〕その、この身体における身体の随観が、修行されるべきである』と……略……。『……修行された』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した」〔とは〕――

 [1640]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか……略……。「光明が生起した」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって……略……。「光明が生起した」とは、光輝の義(意味)によって。

 [1641]眼は、法(性質)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である……略……。光明は、法(性質)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの法(性質)と五つの義(意味)は、身体を根拠とするものであり、気づきの確立を根拠とするものであり……略……。(2)……諸々の感受を根拠とするものであり、気づきの確立を根拠とするものであり……。(3)……心を根拠とするものであり、気づきの確立を根拠とするものであり……。(4)……諸々の法(性質)を根拠とするものであり、気づきの確立を根拠とするものであり、気づきの確立を対象とするものであり、気づきの確立を境涯(作用範囲)とするものであり、気づきの確立によって包摂されたものであり、気づきの確立に属するところのものであり、気づきの確立において生まれ来たものであり、気づきの確立において止住したものであり、気づきの確立において確立したものである。

 [1642]「法(真理)の輪」とは、どのような義(意味)によって、法(真理)の輪であるのか。しかして、法(性質)を転起させ、さらには、輪を〔転起させる〕、ということで、【164】法(真理)の輪となる。しかして、輪を転起させ、さらには、法(性質)を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)の性行によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において止住した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において確立した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる……略……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。


2.7.3 神通の足場の部


42.


 [1643]「(1)比丘たちよ、『これが、欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。比丘たちよ、『また、まさに、〔まさに〕その、この欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、修行されるべきである』と、わたしには……略……。比丘たちよ、『……修行された』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。

 [1644](2)〔比丘たちよ、〕『これが、精進による〔心の〕統一と……略……。(3)〔比丘たちよ、〕『これが、心による〔心の〕統一と……略……。(4)比丘たちよ、『これが、考察による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した。比丘たちよ、『また、まさに、〔まさに〕その、この考察による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、修行されるべきである』と、わたしには……略……。比丘たちよ、『……修行された』と、わたしには、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔と〕。

 [1645](1)「『これが、欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。「『また、まさに、〔まさに〕その、この欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、修行されるべきである』と……略……。『……修行された』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し、知恵が生起し、知慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した」〔とは〕――

 [1646]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知慧が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「光明が生起した」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって。「知恵が生起し」とは、所知の義(意味)によって。「知慧が生起し」とは、覚知することの義(意味)によって。「明知が生起し」とは、理解の義(意味)によって。「光明が生起した」とは、光輝の義(意味)によって。

 [1641]眼は、法(性質)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。知恵は、法(性質)である。所知の義(意味)は、義(意味)である。知慧は、法(性質)である。覚知することの義(意味)は、義(意味)である。明知は、法(性質)である。理解の義(意味)は、義(意味)である。光明は、法(性質)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの法(性質)と五つの義(意味)は、欲〔の思い〕(意欲)を根拠とするものであり、神通の足場を根拠とするものであり、神通の足場を対象とするものであり、神通の足場を境涯(作用範囲)とするものであり、神通の足場によって包摂されたものであり、神通の足場に属するところのものであり、神通の足場において生まれ来たものであり、神通の足場において止住したものであり、神通の足場において確立したものである。

 [1648]「法(真理)の輪」とは、どのような義(意味)によって、法(真理)の輪であるのか。しかして、法(性質)を転起させ、さらには、輪を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。しかして、輪を転起させ、さらには、法(性質)を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)の性行によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において止住した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において確立した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において確立させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において自在を得た者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において自在を得させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において最奥義を得た者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において最奥義を得させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において離怖を得た者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において離怖を得させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を尊敬している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を重きものと為している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を思慕している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を供養している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を敬恭している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を旗とする者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を幟とする者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)を優位主要性とする者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。また、まさに、その法(真理)の輪は、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世の誰によってであろうが、反転できない〔法の輪〕である、ということで、法(真理)の輪となる。

 [1649]信の機能は、法(性質)である。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる……略……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。

 [1650](2)「『これが、精進による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕……略……。「『また、まさに、〔まさに〕その、この精進による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、修行されるべきである』と……略……。『……修行された』と、かつて聞かれたことなき諸法(真理)において、眼が生起し……略……光明が生起した」〔とは〕――

 [1651]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか……略……。「光明が生起した」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって……略……。「光明が生起した」とは、光輝の義(意味)によって。

 [1652]眼は、法(性質)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である……略……。光明は、法(性質)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの法(性質)と五つの義(意味)は、精進を根拠とするものであり、神通の足場を根拠とするものであり……略……。(3)……心を根拠とするものであり、神通の足場を根拠とするものであり……。(4)……考察を根拠とするものであり、神通の足場を根拠とするものであり、神通の足場を対象とするものであり、神通の足場を境涯(作用範囲)とするものであり、神通の足場によって包摂されたものであり、神通の足場に属するところのものであり、神通の足場において生まれ来たものであり、神通の足場において止住したものであり、神通の足場において【165】確立したものである。

 [1653]「法(真理)の輪」とは、どのような義(意味)によって、法(真理)の輪であるのか。しかして、法(性質)を転起させ、さらには、輪を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。しかして、輪を転起させ、さらには、法(性質)を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)の性行によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において止住した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(性質)において確立した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる……略……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、法(性質)となる。その法(性質)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。ということで――

 [1654]法(真理)の輪についての言説は、〔以上で〕終了した。


2.8 世〔俗〕を超えるものについての言説


43.


 [1655]【166】どのような諸法(性質)が、世〔俗〕を超えるものであるのか。四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道、四つの聖者の道、四つの沙門果と、涅槃とである。これらの諸法(性質)が、世〔俗〕を超えるものである。

 [1656]「世〔俗〕を超えるもの」とは、どのような義(意味)によって、世〔俗〕を超えるものであるのか。〔それらは〕世〔俗〕を超える、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から出る、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より出る、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより出る、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を超え行く、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を超越する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を超越したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕としては超過のものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕の極を超える、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から出離する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より出離する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより出離する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から出離したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕としては出離したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより出離したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において止住しない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕について止住しない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において汚れない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕によって汚れない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において等しく汚されざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕によって等しく汚されざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において近しく汚されざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕によって近しく汚されざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において解脱したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕としては解脱したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から解脱したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より解脱したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより解脱したものである、【167】ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において束縛を離れたものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕としては束縛を離れたものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から束縛を離れたものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕について束縛を離れたものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より束縛を離れたものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより束縛を離れたものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から清まる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より清まる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより清まる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から清浄となる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より清浄となる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより清浄となる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から出起する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より出起する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより出起する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から還転する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より還転する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより還転する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において執着しない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において捕捉されない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において結縛されない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を断絶する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を断絶したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を静息させる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を静息したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕にとって道ならざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕にとって境遇ならざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕にとって境域ならざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕にとって共通ならざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を吐き捨てる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を飲み戻さない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を捨棄する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を執取しない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を離れる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕に近づかない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を離煙する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を喫煙しない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を超越して征服して止住する(安立する)、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。

 [1657]世〔俗〕を超えるものについての言説は、〔以上で〕終了した。


2.9 力についての言説


44.


 [1658]【168】サーヴァッティの因縁となる。「比丘たちよ、五つのものがある。これらの力である。どのようなものが、五つのものであるのか。信の力、精進の力、気づきの力、〔心の〕統一の力、知慧の力である。比丘たちよ、まさに、これらの五つの力がある。

 [1659]さらには、また、六十八の力がある。(1)信の力、(2)精進の力、(3)気づきの力、(4)〔心の〕統一の力、(5)知慧の力、(6)恥〔の思い〕(慚)の力、(7)〔良心の〕咎め(愧)の力、(8)審慮の力、(9)修行の力、(10)罪過なきの力、(11)包摂の力、(12)忍耐の力、(13)制定(施設)の力、(14)納得の力、(15)権能の力、(16)〔心の〕確立の力、(17)〔心の〕寂止の力、(18)〔あるがままの〕観察の力、(19・20・21・22・23・24・25・26・27・28)十の学びある者(有学)の力、(29・30・31・32・33・34・35・36・37・38)十の学びなき者(無学)の力、(39・40・41・42・43・44・45・46・47・48)十の煩悩の滅尽者の力、(49・50・51・52・53・54・55・56・57・58)十の神通の力、(59・60・61・62・63・64・65・66・67・68)十の如来の力である。

 [1660](1)どのようなものが、信の力であるのか。不信にたいし、〔心が〕動かない、ということで、信の力となる。共に生じた諸法(性質)の保全の義(意味)によって、信の力となる。諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことの義(意味)によって、信の力となる。理解と最初の浄化するものの義(意味)によって、信の力となる。心の確立の義(意味)によって、信の力となる。心の浄化の義(意味)によって、信の力となる。殊勝〔の境地〕への到達の義(意味)によって、信の力となる。より上なる理解の義(意味)によって、信の力となる。真理の知悉の義(意味)によって、信の力となる。止滅〔の入定〕における確立させるものの義(意味)によって、信の力となる。これが、信の力である。

 [1661](2)どのようなものが、精進の力であるのか。怠慢にたいし、〔心が〕動かない、ということで、精進の力となる。共に生じた諸法(性質)の保全の義(意味)によって、精進の力となる。諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことの義(意味)によって、精進の力となる。理解と最初の浄化するものの義(意味)によって、精進の力となる。心の確立の義(意味)によって、精進の力となる。心の浄化の義(意味)によって、精進の力となる。殊勝〔の境地〕への到達の義(意味)によって、精進の力となる。より上なる理解の義(意味)によって、精進の力となる。真理の知悉の義(意味)によって、精進の力となる。止滅〔の入定〕における確立させるものの義(意味)によって、精進の力となる。これが、精進の力である。

 [1662]【169】(3)どのようなものが、気づきの力であるのか。放逸にたいし、〔心が〕動かない、ということで、気づきの力となる。共に生じた諸法(性質)の保全の義(意味)によって、気づきの力となる……略……。止滅〔の入定〕における確立させるものの義(意味)によって、気づきの力となる。これが、気づきの力である。

 [1663](4)どのようなものが、〔心の〕統一の力であるのか。〔心の〕高揚にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕統一の力となる。共に生じた諸法(性質)の保全の義(意味)によって、〔心の〕統一の力となる……略……。止滅〔の入定〕における確立させるものの義(意味)によって、〔心の〕統一の力となる。これが、〔心の〕統一の力である。

 [1664](5)どのようなものが、知慧の力であるのか。無明にたいし、〔心が〕動かない、ということで、知慧の力となる。共に生じた諸法(性質)の保全の義(意味)によって、知慧の力となる……略……。止滅〔の入定〕における確立させるものの義(意味)によって、知慧の力となる。これが、知慧の力である。

 [1665](6)どのようなものが、恥〔の思い〕の力であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。知恵によって、無明を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。歓喜によって、不満〔の思い〕を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。これが、恥〔の思い〕の力である。

 [1666](7)どのようなものが、〔良心の〕咎めの力であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。知恵によって、無明を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。歓喜によって、不満〔の思い〕を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。これが、〔良心の〕咎めの力である。

 [1667](8)どのようなものが、審慮の力であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を審慮する、ということで、審慮の力となる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕を審慮する、ということで、審慮の力となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を審慮する、ということで、審慮の力となる。〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚を審慮する、ということで、審慮の力となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を審慮する、ということで、審慮の力となる。知恵によって、無明を審慮する、ということで、審慮の力となる。【170】歓喜によって、不満〔の思い〕を審慮する、ということで、審慮の力となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を審慮する、ということで、審慮の力となる……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを審慮する、ということで、審慮の力となる。これが、審慮の力である。

 [1668](9)どのようなものが、修行の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者として、離欲を修行する、ということで、修行の力となる。加害〔の思い〕を捨棄している者として、加害〔の思い〕なきを修行する、ということで、修行の力となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者として、光明の表象を修行する、ということで、修行の力となる。〔心の〕高揚を捨棄している者として、〔心の〕散乱なきを修行する、ということで、修行の力となる。疑惑〔の思い〕を捨棄している者として、法(性質)の〔差異を〕定め置くことを修行する、ということで、修行の力となる。無明を捨棄している者として、知恵を修行する、ということで、修行の力となる。不満〔の思い〕を捨棄している者として、歓喜を修行する、ということで、修行の力となる。〔五つの修行の〕妨害を捨棄している者として、第一の瞑想を修行する、ということで、修行の力となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者として、阿羅漢道を修行する、ということで、修行の力となる。これが、修行の力である。

 [1669](10)どのようなものが、罪過なきの力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたことから、離欲において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきの力となる。加害〔の思い〕が捨棄されたことから、加害〔の思い〕なきにおいて、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきの力となる。〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたことから、光明の表象において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきの力となる。〔心の〕高揚が捨棄されたことから、〔心の〕散乱なきにおいて、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきの力となる。疑惑〔の思い〕が捨棄されたことから、法(性質)の〔差異を〕定め置くことにおいて、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきの力となる。無明が捨棄されたことから、知恵において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきの力となる。不満〔の思い〕が捨棄されたことから、歓喜において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきの力となる。〔五つの修行の〕妨害“さまたげ”が捨棄されたことから、第一の瞑想において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきの力となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、阿羅漢道において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきの力となる。これが、罪過なきの力である。

 [1670](11)どのようなものが、包摂の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者として、離欲を所以に、心を包摂する、ということで、包摂の力となる。加害〔の思い〕を捨棄している者として、加害〔の思い〕なきを所以に、心を包摂する、ということで、包摂の力となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者として、光明の表象を所以に、心を包摂する、ということで、包摂の力となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者として、阿羅漢道を所以に、心を包摂する、ということで、包摂の力となる。これが、包摂の力である。

 [1671]【171】(12)どのようなものが、忍耐の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたことから、離欲を忍耐する(信受する)、ということで、忍耐の力となる。加害〔の思い〕が捨棄されたことから、加害〔の思い〕なきを忍耐する、ということで、忍耐の力となる。〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたことから、光明の表象を忍耐する、ということで、忍耐の力となる。〔心の〕高揚が捨棄されたことから、〔心の〕散乱なきを忍耐する、ということで、忍耐の力となる。疑惑〔の思い〕が捨棄されたことから、法(性質)の〔差異を〕定め置くことを忍耐する、ということで、忍耐の力となる。無明が捨棄されたことから、知恵を忍耐する、ということで、忍耐の力となる。不満〔の思い〕が捨棄されたことから、歓喜を忍耐する、ということで、忍耐の力となる。〔五つの修行の〕妨害が捨棄されたことから、第一の瞑想を忍耐する、ということで、忍耐の力となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、阿羅漢道を忍耐する、ということで、忍耐の力となる。これが、忍耐の力である。

 [1672](13)どのようなものが、制定の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者として、離欲を所以に、心を制定する、ということで、制定の力となる。加害〔の思い〕を捨棄している者として、加害〔の思い〕なきを所以に、心を制定する、ということで、制定の力となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者として、光明の表象を所以に、心を制定する、ということで、制定の力となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者として、阿羅漢道を所以に、心を制定する、ということで、制定の力となる。これが、制定の力である。

 [1673](14)どのようなものが、納得の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者として、離欲を所以に、心を納得する、ということで、納得の力となる。加害〔の思い〕を捨棄している者として、加害〔の思い〕なきを所以に、心を納得する、ということで、納得の力となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者として、光明の表象を所以に、心を納得する、ということで、納得の力となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者として、阿羅漢道を所以に、心を納得する、ということで、納得の力となる。これが、納得の力である。

 [1674](15)どのようなものが、権能の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者として、離欲を所以に、心を自在に転起させる、ということで、権能の力となる。加害〔の思い〕を捨棄している者として、加害〔の思い〕なきを所以に、心を自在に転起させる、ということで、権能の力となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者として、光明の表象を所以に、心を自在に転起させる、ということで、権能の力となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者として、阿羅漢道を所以に、心を自在に転起させる、ということで、権能の力となる。これが、権能の力である。

 [1675](16)どのようなものが、〔心の〕確立の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者として、離欲を所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立の力となる。加害〔の思い〕を捨棄している者として、加害〔の思い〕なきを所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立の力となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者として、光明の表象を所以に、【172】心を確立する、ということで、〔心の〕確立の力となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者として、阿羅漢道を所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立の力となる。これが、〔心の〕確立の力である。

 [1676](17)どのようなものが、〔心の〕寂止の力であるのか。離欲を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕寂止の力である。加害〔の思い〕なきを所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕寂止の力である。光明の表象を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕寂止の力である……略……。放棄の随観ある、入息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕寂止の力である。放棄の随観ある、出息を所以にする、心の一境性と〔心の〕散乱なきが、〔心の〕寂止の力である。これが、〔心の〕寂止の力である。

 [1677]「〔心の〕寂止の力」とは、どのような義(意味)によって、〔心の〕寂止の力であるのか。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。第二の瞑想によって、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。第三の瞑想によって、喜悦にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。第四の瞑想によって、楽と苦にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、形態の表象にたいし、障礙の表象にたいし、種々なることの表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。無所有なる〔認識の〕場所への入定によって識別無辺なる〔認識の〕場所の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によって、無所有なる〔認識の〕場所の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。〔心の〕高揚にたいしても、高揚を共具した〔心の〕汚れにたいしても、範疇にたいしても、〔心が〕動かず、動揺せず、揺れ動かない、ということで、〔心の〕寂止の力となる。これが、〔心の〕寂止の力である。

 [1678](18)どのようなものが、〔あるがままの〕観察の力であるのか。無常の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。苦痛の随観が、〔あるがままの〕観察の力である……略……。放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。形態において、無常の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。形態において、苦痛の随観が、〔あるがままの〕観察の力である……略……。形態において、放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼において……略……。老と死において、無常の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。老と死において、苦痛の随観が、〔あるがままの〕観察の力である……略……。老と死において、放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。「〔あるがままの〕観察の力」とは、どのような義(意味)によって、〔あるがままの〕観察の力となるのか。無常の随観によって、常住の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。苦痛の随観によって、安楽の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。無我の随観によって、自己の表象にたいし、【173】〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。厭離の随観によって、喜悦にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。離貪の随観によって、貪欲にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。止滅の随観によって、集起にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。放棄の随観によって、執取にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。無明にたいしても、無明を共具した〔心の〕汚れにたいしても、範疇にたいしても、〔心が〕動かず、動揺せず、揺れ動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。これが、〔あるがままの〕観察の力である。

 [1679](19・20・21・22・23・24・25・26・27・28・29・30・31・32・33・34・35・36・37・38)どのようなものが、十の学びある者の力であり、十の学びなき者の力であるのか。正しい見解を学ぶ、ということで、学びある者の力となる。そこにおいて、〔すでに〕学んだことから、学びなき者の力となる。正しい思惟を学ぶ、ということで、学びある者の力となる。そこにおいて、〔すでに〕学んだことから、学びなき者の力となる。正しい言葉を……略……。正しい生業を……。正しい生き方を……。正しい努力を……。正しい気づきを……。正しい〔心の〕統一を……。正しい知恵を……略……。正しい解脱を学ぶ、ということで、学びある者の力となる。そこにおいて、〔すでに〕学んだことから、学びなき者の力となる。これらが、十の学びある者の力であり、十の学びなき者の力である。

 [1680](39・40・41・42・43・44・45・46・47・48)どのようなものが、十の煩悩の滅尽者の力であるのか。(39)ここに、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、無常〔の観点〕から、一切の形成〔作用〕が、事実のとおりに、正しい知慧によって、善く見られたものと成る。すなわち、また、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、無常〔の観点〕から、一切の形成〔作用〕が、事実のとおりに、正しい知慧によって、善く見られたものと成るなら、これもまた、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、力と成る。その力を頼りにして、煩悩の滅尽者たる比丘は、諸々の煩悩の滅尽を公言する。「わたしの、諸々の煩悩は滅尽した」と。

 [1681](40)さらには、また、他に、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、火坑の如き諸々の欲望〔の対象〕が、事実のとおりに、正しい知慧によって、善く見られたものと成る。すなわち、また、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、火坑の如き諸々の欲望〔の対象〕が、事実のとおりに、正しい知慧によって、善く見られたものと成るなら、これもまた、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、力と成る。その力を頼りにして、煩悩の滅尽者たる比丘は、諸々の煩悩の滅尽を公言する。「わたしの、諸々の煩悩は滅尽した」と。

 [1682](41)さらには、また、他に、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、心が、遠離へと下向したものと成り、遠離へと傾倒したものと〔成り〕、遠離へと傾斜したものと〔成り〕、遠離を義(目的)とするものと〔成り〕、離欲に喜びあるものと〔成り〕、煩悩が止住するべき諸法(性質)としては、全てにわたり、終息と成ったものと〔成る〕。すなわち、また、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、心が、遠離へと下向したものと成り、遠離へと傾倒したものと〔成り〕、遠離へと傾斜したものと〔成り〕、遠離を義(目的)とするものと〔成り〕、離欲に喜びあるものと〔成り〕、煩悩が止住するべき諸法(性質)としては、全てにわたり、終息と成ったものと〔成る〕なら、これもまた、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、【174】力と成る。その力を頼りにして、煩悩の滅尽者たる比丘は、諸々の煩悩の滅尽を公言する。「わたしの、諸々の煩悩は滅尽した」と。

 [1683](42)さらには、また、他に、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、四つの気づきの確立が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。すなわち、また、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、四つの気づきの確立が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕なら、これもまた、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、力と成る。その力を頼りにして、煩悩の滅尽者たる比丘は、諸々の煩悩の滅尽を公言する。「わたしの、諸々の煩悩は滅尽した」と。

 [1684](43)さらには、また、他に、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、四つの正しい精励が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕……略……。(44)……四つの神通の足場が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕……。(45)……五つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕……。(46)……五つの力が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕……。(47)……七つの覚りの支分が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕……略……。(48)……聖なる八つの支分ある道が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。すなわち、また、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、聖なる八つの支分ある道が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕なら、これもまた、煩悩の滅尽者たる比丘にとって、力と成る。その力を頼りにして、煩悩の滅尽者たる比丘は、諸々の煩悩の滅尽を公言する。「わたしの、諸々の煩悩は滅尽した」と。これらが、十の煩悩の滅尽者の力である。

 [1685](49・50・51・52・53・54・55・56・57・58)どのようなものが、十の神通の力であるのか。確立の神通、変異の神通、意によって作られる神通、知恵の充満の神通、〔心の〕統一の充満の神通、聖者の神通、行為の報い(業報)から生じる神通、功徳者の神通、明呪(呪文)によって作られる神通、実現の義(意味)によって、そこかしこに正しい専念の縁となる神通である。これらが、十の神通の力である。

 [1686](59・60・61・62・63・64・65・66・67・68)どのようなものが、十の如来の力であるのか。(59)ここに、如来は、しかして、境位を、境位〔の観点〕から、さらには、境位ならざるものを、境位ならざるもの〔の観点〕から、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、しかして、境位を、境位〔の観点〕から、さらには、境位ならざるものを、境位ならざるもの〔の観点〕から、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって、如来の力と成る。その力を頼りにして、如来は、〔人のなかの〕雄牛たる〔最上の〕境位を公言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵輪を転起させる。

 [1687](60)さらには、また、他に、如来は、過去と未来と現在の【175】諸々の行為の受持の報いを、拠点(理由)〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の報いを、拠点(理由)〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって、如来の力と成る。その力を頼りにして、如来は、〔人のなかの〕雄牛たる〔最上の〕境位を公言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵輪を転起させる。

 [1688](61)さらには、また、他に、如来は、一切所に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、一切所に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって、如来の力と成る。その力を頼りにして、如来は、〔人のなかの〕雄牛たる〔最上の〕境位を公言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵輪を転起させる。

 [1689](62)さらには、また、他に、如来は、無数なる界域を、種々なる界域を、世〔界〕を、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、無数なる界域を、種々なる界域を、世〔界〕を、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって……略……。

 [1690](63)さらには、また、他に、如来は、有情たちの、種々なる信念あることを、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、有情たちの、種々なる信念あることを、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって……略……。

 [1691](64)さらには、また、他に、如来は、他の有情たちの、他の人たちの、機能の上下あることを、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、他の有情たちの、他の人たちの、機能の上下を、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって……略……。

 [1692](65)さらには、また、他に、如来は、瞑想と解脱と〔心の〕統一と入定の、汚染(雑染)を、浄化を、出起を、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、瞑想と解脱と〔心の〕統一と入定の、汚染を、浄化を、出起を、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって……略……。

 [1693](66)さらには、また、他に、如来は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住“いきざま”を随念する――それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念する。すなわち、また、如来が、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら――それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……これもまた、如来にとって……略……。

 [1694](67)さらには、また、他に、如来は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちを見る――死滅しつつある者たちとして、再生しつつある者たちとして……略……。【176】すなわち、また、如来が、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちを見るなら――死滅しつつある者たちとして、再生しつつある者たちとして……略……これもまた、如来にとって……略……。

 [1695](68)さらには、また、他に、如来は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なき、〔寂止の〕心による解脱を、〔観察の〕知慧による解脱を、まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む。すなわち、また、如来が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なき、〔寂止の〕心による解脱を、〔観察の〕知慧による解脱を、まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、これもまた、如来にとって、如来の力と成る。その力を頼りにして、如来は、〔人のなかの〕雄牛たる〔最上の〕境位を公言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵輪を転起させる。これらが、十の如来の力である。


45.


 [1696]どのような義(意味)によって、信の力であるのか。どのような義(意味)によって、精進の力であるのか。どのような義(意味)によって、気づきの力であるのか。どのような義(意味)によって、〔心の〕統一の力であるのか。どのような義(意味)によって、知慧の力であるのか。どのような義(意味)によって、恥〔の思い〕の力であるのか。どのような義(意味)によって、〔良心の〕咎めの力であるのか。どのような義(意味)によって、審慮の力であるのか……略……。どのような義(意味)によって、如来の力であるのか。

 [1697]不信にたいする、不動の義(意味)によって、信の力となる。怠慢にたいする、不動の義(意味)によって、精進の力となる。放逸にたいする、不動の義(意味)によって、気づきの力となる。〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)によって、〔心の〕統一の力となる。無明にたいする、不動の義(意味)によって、知慧の力となる。諸々の悪しき善ならざる法(性質)を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。諸々の悪しき善ならざる法(性質)を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。知恵によって、諸々の〔心の〕汚れを審慮する、ということで、審慮の力となる。そこに生じた諸法(性質)が、一味なるもの(作用・働きを同じくするもの)と成る、ということで、修行の力となる。そこにおいて、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきの力となる。それによって、心を包摂する、ということで、包摂の力となる。それを、そのために忍耐する、ということで、忍耐の力となる。それによって、心を制定する、ということで、制定の力となる。それによって、心を納得させる、ということで、納得の力となる。それによって、心を自在に転起させる、ということで、権能の力となる。それによって、心を確立する、ということで、確立の力となる。それによって、心が一境となる、ということで、〔心の〕寂止の力となる。そこに生じた諸法(性質)を随観する、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。そこにおいて、〔彼は〕学ぶ、ということで、学びある者の力となる。そこにおいて、〔すでに〕学んだことから、学びなき者の力となる。それによって、諸々の煩悩が滅尽した、ということで、煩悩の滅尽者の力となる。そのために実現する、ということで、神通の力となる。量るべくもなきという義(意味)によって、如来の力となる。ということで――

 [1698]力についての言説は、〔以上で〕終了した。


2.10 空についての言説


46.


 [1699]【177】このように、わたしは聞いた。或る時のことである。世尊は、サーヴァッティ(舎衛城)に住している。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の園地(祇園精舎)において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊のいるところに、そこへと近しく赴いた。近しく赴いて、世尊を敬拝して、一方“かたわら”に坐った。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言った。

 [1700]「尊き方よ、『世〔界〕は、空である。世〔界〕は、空である』と説かれます。尊き方よ、いったい、どの点において、まさに、『世〔界〕は、空である』と説かれるのですか」と。「アーナンダよ、まさに、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては空であるがゆえに、それゆえに、『世〔界〕は、空である』と説かれる。アーナンダよ、しからば、何が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては空であるのか。アーナンダよ、まさに、眼が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては空である。諸々の形態が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては空である。眼の識別〔作用〕が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては空である。眼の接触が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては空である。すなわち、また、この、眼の接触という縁から生起する、感受されたものにして、あるいは、楽なるもの、あるいは、苦なるもの、あるいは、苦でもなく楽でもないものであるが、それもまた、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては空である。

 [1701]耳が……略……空である。諸々の音声が……空である。鼻が……空である。諸々の臭香“におい”……空である。舌が……空である。諸々の味感“あじわい”が……空である。身が……空である。諸々の感触が……空である。意が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては空である。諸々の法(意の対象)が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては空である。意の識別〔作用〕が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては空である。意の接触が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては空である。すなわち、また、この、意の接触という縁から生起する、感受されたものにして、あるいは、楽なるもの、あるいは、苦なるもの、あるいは、苦でもなく楽でもないものであるが、それもまた、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては空である。アーナンダよ、まさに、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては空であるがゆえに、それゆえに、『世〔界〕は、空である』と説かれる」と。


2.10.1 要綱


47.


 [1702](1)空の空、(2)形成〔作用〕の空、(3)変化の空、(4)至高の空、(5)特相の空、(6)鎮静の空、(7)置換の空、(8)断絶の空、(9)静息の空、【178】(10)出離の空、(11)内なる空、(12)外なる空、(13)〔内と外の〕両者なる空、(14)部分を共にするものの空、(15)部分を共にしないものの空、(16)探求の空、(17)遍き収取の空、(18)獲得の空、(19)理解の空、(20)一なることの空、(21)種々なることの空、(22)忍耐の空、(23)確立の空、(24)深解の空、(25)正知の者の、転起されたもの(所与的世界)を完全に取り払うことという、一切の空性にとっての最高の義(勝義)としての空。


2.10.2 釈示


48.


 [1703](1)どのようなものが、空の空であるのか。眼が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては〔空であり〕、あるいは、常住なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常久なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常恒なるものとしては〔空であり〕、あるいは、変化なき法(性質)としては空である。耳が……略……空である。鼻が……空である。舌が……空である。身が……空である。意が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては〔空であり〕、あるいは、常住なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常久なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常恒なるものとしては〔空であり〕、あるいは、変化なき法(性質)としては空である。これが、空の空である。

 [1704](2)どのようなものが、形成〔作用〕の空であるのか。三つの形成〔作用〕がある。功徳の行作、功徳なき行作、不動の行作である。功徳の行作が、しかして、功徳なき行作としては〔空であり〕、さらには、不動の行作としては空である。功徳なき行作が、しかして、功徳の行作としては〔空であり〕、さらには、不動の行作としては空である。不動の行作が、しかして、功徳の行作としては〔空であり〕、さらには、功徳なき行作としては空である。これらの三つの形成〔作用〕がある。

 [1705]他にもまた、三つの形成〔作用〕がある。身体の形成〔作用〕、言葉の形成〔作用〕、心の形成〔作用〕である。身体の形成〔作用〕が、しかして、言葉の形成〔作用〕としては〔空であり〕、さらには、心の形成〔作用〕としては空である。言葉の形成〔作用〕が、しかして、身体の形成〔作用〕としては〔空であり〕、さらには、心の形成〔作用〕としては空である。心の形成〔作用〕が、しかして、身体の形成〔作用〕としては〔空であり〕、さらには、言葉の形成〔作用〕としては空である。これらの三つの形成〔作用〕がある。

 [1706]他にもまた、三つの形成〔作用〕がある。諸々の過去の形成〔作用〕、諸々の未来の形成〔作用〕、諸々の現在の形成〔作用〕である。諸々の過去の形成〔作用〕が、しかして、諸々の未来〔の形成作用〕としては〔空であり〕、さらには、諸々の現在の形成〔作用〕としては空である。諸々の未来の形成〔作用〕が、しかして、諸々の過去〔の形成作用〕としては〔空であり〕、さらには、諸々の現在の形成〔作用〕としては空である。諸々の現在の形成〔作用〕が、しかして、諸々の過去〔の形成作用〕としては〔空であり〕、さらには、諸々の未来の形成〔作用〕としては空である。これらの三つの形成〔作用〕がある。これが、形成〔作用〕の空である。

 [1707](3)どのようなものが、変化の空であるのか。生じた形態が、自ずからの状態(自性:固有の性能)としては空である。離れ去った形態が、まさしく、しかして、変化したものであり、さらには、空である。生じた感受〔作用〕が、自ずからの状態としては空である。離れ去った感受〔作用〕が、まさしく、しかして、変化したものであり、さらには、空である。生じた表象〔作用〕が……。生じた諸々の形成〔作用〕が……。生じた識別〔作用〕が……。生じた眼が……略……。生じた生存が、【179】自ずからの状態としては空である。離れ去った生存が、まさしく、しかして、変化したものであり、さらには、空である。これが、変化の空である。

 [1708](4)どのようなものが、至高の空であるのか。この境処は、至高である。この境処は、最勝である。この境処は、特に最勝である。すなわち、これ、一切の形成〔作用〕の寂止、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。これが、至高の空である。

 [1709](5)どのようなものが、特相の空であるのか。二つの特相がある。愚者の特相と、賢者の特相とである。愚者の特相が、賢者の特相としては空である。賢者の特相が、愚者の特相としては空である。三つの特相がある。生起の特相、衰微の特相、止住しているものの他化の特相である。生起の特相が、しかして、衰微の特相としては〔空であり〕、さらには、止住しているものの他化の特相としては空である。衰微の特相が、しかして、生起の特相としては〔空であり〕、さらには、止住しているものの他化の特相としては空である。止住しているものの他化の特相が、しかして、生起の特相としては〔空であり〕、さらには、衰微の特相としては空である。

 [1710]形態の、生起の特相が、しかして、衰微の特相としては〔空であり〕、さらには、止住しているものの他化の特相としては空である。形態の、衰微の特相が、しかして、生起の特相としては〔空であり〕、さらには、止住しているものの他化の特相としては空である。形態の、止住しているものの他化の特相が、しかして、生起の特相としては〔空であり〕、さらには、衰微の特相としては空である。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識別〔作用〕の……。眼の……。老と死の、生起の特相が、しかして、衰微の特相としては〔空であり〕、さらには、止住しているものの他化の特相としては空である。老と死の、衰微の特相が、しかして、生起の特相としては〔空であり〕、さらには、止住しているものの他化の特相としては空である。老と死の、止住しているものの他化の特相が、しかして、生起の特相としては〔空であり〕、さらには、衰微の特相としては空である。これが、特相の空である。

 [1711](6)どのようなものが、鎮静の空であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、まさしく、しかして、鎮静されたものとなり、さらには、空となる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕が、まさしく、しかして、鎮静されたものとなり、さらには、空となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気が、まさしく、しかして、鎮静されたものとなり、さらには、空となる。〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚が、まさしく、しかして、鎮静されたものとなり、さらには、空となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕が、まさしく、しかして、鎮静されたものとなり、さらには、空となる。知恵によって、無明が、まさしく、しかして、鎮静されたものとなり、さらには、空となる。歓喜によって、不満〔の思い〕が、まさしく、しかして、鎮静されたものとなり、さらには、空となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害が、まさしく、しかして、鎮静されたものとなり、さらには、空となる……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、まさしく、しかして、鎮静されたものとなり、さらには、空となる。これが、鎮静の空である。

 [1712]【180】(7)どのようなものが、置換の空であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、置換の空である。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕が、置換の空である。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気が、置換の空である。〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚が、置換の空である。法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕が、置換の空である。知恵によって、無明が、置換の空である。歓喜によって、不満〔の思い〕が、置換の空である。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害が、置換の空である……略……。還転の随観によって、束縛の固着が、置換の空である。これが、置換の空である。

 [1713](8)どのようなものが、断絶の空であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、まさしく、しかして、断絶されたものとなり、さらには、空となる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕が、まさしく、しかして、断絶されたものとなり、さらには、空となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気が、まさしく、しかして、断絶されたものとなり、さらには、空となる。〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚が、まさしく、しかして、断絶されたものとなり、さらには、空となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕が、まさしく、しかして、断絶されたものとなり、さらには、空となる。知恵によって、無明が、まさしく、しかして、断絶されたものとなり、さらには、空となる。歓喜によって、不満〔の思い〕が、まさしく、しかして、断絶されたものとなり、さらには、空となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害が、まさしく、しかして、断絶されたものとなり、さらには、空となる……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、まさしく、しかして、断絶されたものとなり、さらには、空となる。これが、断絶の空である。

 [1714](9)どのようなものが、静息の空であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、まさしく、しかして、静息されたものとなり、さらには、空となる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕が、まさしく、しかして、静息されたものとなり、さらには、空となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気が、まさしく、しかして、静息されたものとなり、さらには、空となる。〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚が、まさしく、しかして、静息されたものとなり、さらには、空となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕が、まさしく、しかして、静息されたものとなり、さらには、空となる。知恵によって、無明が、まさしく、しかして、静息されたものとなり、さらには、空となる。歓喜によって、不満〔の思い〕が、まさしく、しかして、静息されたものとなり、さらには、空となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害が、まさしく、しかして、静息されたものとなり、さらには、空となる……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、まさしく、しかして、静息されたものとなり、さらには、空となる。これが、静息の空である。

 [1715](10)どのようなものが、出離の空であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、まさしく、しかして、出離したものとなり、さらには、空となる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕が、まさしく、しかして、出離したものとなり、さらには、空となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気が、まさしく、しかして、出離したものとなり、さらには、空となる。〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚が、まさしく、しかして、出離したものとなり、さらには、空となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕が、まさしく、しかして、出離したものとなり、さらには、空となる。知恵によって、無明が、まさしく、しかして、出離したものとなり、さらには、空となる。歓喜によって、不満〔の思い〕が、まさしく、しかして、出離したものとなり、さらには、空となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害が、まさしく、しかして、出離したものとなり、さらには、空となる【181】……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、まさしく、しかして、出離したものとなり、さらには、空となる。これが、出離の空である。

 [1716](11)どのようなものが、内なる空であるのか。内なる眼が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては〔空であり〕、あるいは、常住なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常久なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常恒なるものとしては〔空であり〕、あるいは、変化なき法(性質)としては空である。内なる耳が……略……空である。内なる鼻が……空である。内なる舌が……空である。内なる身が……空である。内なる意が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては〔空であり〕、あるいは、常住なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常久なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常恒なるものとしては〔空であり〕、あるいは、変化なき法(性質)としては空である。これが、内なる空である。

 [1717](12)どのようなものが、外なる空であるのか。外なる諸々の形態が……略……空である……略……。外なる諸々の法(意の対象)が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては〔空であり〕、あるいは、常住なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常久なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常恒なるものとしては〔空であり〕、あるいは、変化なき法としては空である。これが、外なる空である。

 [1718](13)どのようなものが、〔内と外の〕両者なる空であるのか。〔まさに〕その、内なる眼と、〔まさに〕それらの、外なる諸々の形態と、この両者が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては〔空であり〕、あるいは、常住なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常久なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常恒なるものとしては〔空であり〕、あるいは、変化なき法(性質)としては空である。〔まさに〕その、内なる耳と、〔まさに〕それらの、外なる諸々の音声と……略……。〔まさに〕その、内なる鼻と、〔まさに〕それらの、外なる諸々の臭香と……。〔まさに〕その、内なる舌と、〔まさに〕それらの、外なる諸々の味感と……。〔まさに〕その、内なる身と、〔まさに〕それらの、外なる諸々の感触と……。〔まさに〕その、内なる意と、〔まさに〕それらの、外なる諸々の法(意の対象)と、この両者が、あるいは、自己としては〔空であり〕、あるいは、自己の属性としては〔空であり〕、あるいは、常住なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常久なるものとしては〔空であり〕、あるいは、常恒なるものとしては〔空であり〕、あるいは、変化なき法(性質)としては空である。これが、〔内と外の〕両者なる空である。

 [1719](14)どのようなものが、部分を共にするものの空であるのか。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)が、まさしく、しかして、部分を共にするものであり、さらには、空である。六つの外なる〔認識の〕場所(六外処)が、まさしく、しかして、部分を共にするものであり、さらには、空である。六つの識別〔作用〕の体系が、まさしく、しかして、部分を共にするものであり、さらには、空である。六つの接触の体系が、まさしく、しかして、部分を共にするものであり、さらには、空である。六つの感受の体系が、まさしく、しかして、部分を共にするものであり、さらには、空である。六つの表象の体系が、まさしく、しかして、部分を共にするものであり、さらには、空である。六つの思欲の体系が、まさしく、しかして、部分を共にするものであり、さらには、空である。これが、部分を共にするものの空である。

 [1720](15)どのようなものが、部分を共にしないものの空であるのか。六つの内なる〔認識の〕場所が、六つの外なる〔認識の〕場所としては、まさしく、しかして、部分を共にしないものであり、さらには、空である。六つの外なる〔認識の〕場所が、六つの識別〔作用〕の身体としては、まさしく、しかして、部分を共にしないものであり、さらには、空である。六つの識別〔作用〕の身体が、六つの接触の身体としては、まさしく、しかして、部分を共にしないものであり、さらには、空である。六つの【182】接触の身体が、六つの感受の身体としては、まさしく、しかして、部分を共にしないものであり、さらには、空である。六つの感受の身体が、六つの表象の身体としては、まさしく、しかして、部分を共にしないものであり、さらには、空である。六つの表象の身体が、六つの思欲の身体としては、まさしく、しかして、部分を共にしないものであり、さらには、空である。これが、部分を共にしないものの空である。

 [1721](16)どのようなものが、探求の空であるのか。離欲の探求が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕としては空である。加害〔の思い〕なきの探求が、加害〔の思い〕としては空となる。光明の表象の探求が、〔心の〕沈滞と眠気としては空となる。〔心の〕散乱なきの探求が、〔心の〕高揚としては空となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことの探求が、疑惑〔の思い〕としては空となる。知恵の探求が、無明としては空となる。歓喜の探求が、不満〔の思い〕としては空となる。第一の瞑想の探求が、〔五つの修行の〕妨害としては空となる……略……。阿羅漢道の探求が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れとしては空となる。これが、探求の空である。

 [1722](17)どのようなものが、遍き収取(理解・把握)の空であるのか。離欲の遍き収取が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕としては空である。加害〔の思い〕なきの遍き収取が、加害〔の思い〕としては空となる。光明の表象の遍き収取が、〔心の〕沈滞と眠気としては空となる。〔心の〕散乱なきの遍き収取が、〔心の〕高揚としては空となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことの遍き収取が、疑惑〔の思い〕としては空となる。知恵の遍き収取が、無明としては空となる。歓喜の遍き収取が、不満〔の思い〕としては空となる。第一の瞑想の遍き収取が、〔五つの修行の〕妨害としては空となる……略……。阿羅漢道の遍き収取が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れとしては空となる。これが、遍き収取の空である。

 [1723](18)どのようなものが、獲得の空であるのか。離欲の獲得が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕としては空である。加害〔の思い〕なきの獲得が、加害〔の思い〕としては空となる。光明の表象の獲得が、〔心の〕沈滞と眠気としては空となる。〔心の〕散乱なきの獲得が、〔心の〕高揚としては空となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことの獲得が、疑惑〔の思い〕としては空となる。知恵の獲得が、無明としては空となる。歓喜の獲得が、不満〔の思い〕としては空となる。第一の瞑想の獲得が、〔五つの修行の〕妨害としては空となる……略……。阿羅漢道の獲得が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れとしては空となる。これが、獲得の空である。

 [1724](19)どのようなものが、理解の空であるのか。離欲の理解が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕としては空である。加害〔の思い〕なきの理解が、加害〔の思い〕としては空となる。光明の表象の理解が、〔心の〕沈滞と眠気としては空となる。〔心の〕散乱なきの理解が、〔心の〕高揚としては空となる。法(性質)の〔差異を〕定め置くことの理解が、疑惑〔の思い〕としては空となる。知恵の理解が、無明としては空となる。歓喜の理解が、不満〔の思い〕としては空となる。第一の瞑想の理解が、〔五つの修行の〕妨害としては空となる……略……。阿羅漢道の理解が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れとしては空となる。これが、理解の空である。

 [1725]【183】(20・21)どのようなものが、一なることの空であり、種々なることの空であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、種々なるものであり、離欲が、一なるものである。離欲という一なるものを思い考えているなら、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕としては空である。加害〔の思い〕が、種々なるものであり、加害〔の思い〕なきが、一なるものである。加害〔の思い〕なきという一なるものを思い考えているなら、加害〔の思い〕としては空である。〔心の〕沈滞と眠気が、種々なるものであり、光明の表象が、一なるものである。光明の表象という一なるものを思い考えているなら、〔心の〕沈滞と眠気としては空である。〔心の〕高揚が、種々なるものであり、〔心の〕散乱なきが、一なるものである。〔心の〕散乱なきという一なるものを思い考えているなら、〔心の〕高揚としては空である。疑惑〔の思い〕が、種々なるものであり、法(性質)の〔差異を〕定め置くことが、一なるものである。法(性質)の〔差異を〕定め置くことという一なるものを思い考えているなら、疑惑〔の思い〕としては空である。無明が、種々なるものであり、知恵が、一なるものである。知恵という一なるものを思い考えているなら、無明としては空である。不満〔の思い〕が、種々なるものであり、歓喜が、一なるものである。歓喜という一なるものを思い考えているなら、不満〔の思い〕としては空である。〔五つの修行の〕妨害が、種々なるものであり、第一の瞑想が、一なるものである。第一の瞑想という一なるものを思い考えているなら、〔五つの修行の〕妨害としては空である……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、種々なるものであり、阿羅漢道が、一なるものである。阿羅漢道という一なるものを思い考えているなら、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れとしては空である。これが、一なることの空であり、種々なることの空である。

 [1726](22)どのようなものが、忍耐の空であるのか。離欲の忍耐(信受)が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕としては空である。加害〔の思い〕なきの忍耐が、加害〔の思い〕としては空である。光明の表象の忍耐が、〔心の〕沈滞と眠気としては空である。〔心の〕散乱なきの忍耐が、〔心の〕高揚としては空である。法(性質)の〔差異を〕定め置くことの忍耐が、疑惑〔の思い〕としては空である。知恵の忍耐が、無明としては空である。歓喜の忍耐が、不満〔の思い〕としては空である。第一の瞑想の忍耐が、〔五つの修行の〕妨害としては空である……略……。阿羅漢道の忍耐が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れとしては空である。これが、忍耐の空である。

 [1727](23)どのようなものが、確立の空であるのか。離欲の確立が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕としては空である。加害〔の思い〕なきの確立が、加害〔の思い〕としては空である。光明の表象の確立が、〔心の〕沈滞と眠気としては空である。〔心の〕散乱なきの確立が、〔心の〕高揚としては空である。法(性質)の〔差異を〕定め置くことの確立が、疑惑〔の思い〕としては空である。知恵の確立が、無明としては空である。歓喜の確立が、不満〔の思い〕としては空である。第一の瞑想の確立が、〔五つの修行の〕妨害としては空である……略……。阿羅漢道の確立が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れとしては空である。これが、確立の空である。

 [1728](24)どのようなものが、深解の空であるのか。離欲の深解が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕としては空である。加害〔の思い〕なきの深解が、加害〔の思い〕としては空である。光明の表象の深解が、〔心の〕沈滞と眠気としては空である。〔心の〕散乱なきの深解が、〔心の〕高揚としては空である。法(性質)の〔差異を〕定め置くことの深解が、疑惑〔の思い〕としては空である。知恵の深解が、無明としては空である。歓喜の深解が、不満〔の思い〕としては空である。第一の瞑想の深解が、〔五つの修行の〕妨害としては空である……略……。阿羅漢道の深解が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れとしては空である。これが、深解の空である。

 [1729]【184】(25)どのようなものが、正知の者の、転起されたもの(所与的世界)を完全に取り払うことという、一切の空性にとっての最高の義(勝義)としての空であるのか。ここに、正知の者が、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕にとっての転起されたものを完全に取り払い、加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕にとっての転起されたものを完全に取り払い、光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気にとっての転起されたものを完全に取り払い、〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚にとっての転起されたものを完全に取り払い、法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕にとっての転起されたものを完全に取り払い、知恵によって、無明にとっての転起されたものを完全に取り払い、歓喜によって、不満〔の思い〕にとっての転起されたものを完全に取り払い、第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害にとっての転起されたものを完全に取り払い……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れにとっての転起されたものを完全に取り払う。しかして、あるいは、また、正知の者が、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において、完全なる涅槃に到達しつつあると、まさしく、しかして、この、眼として転起されたものを完全に取り払い、さらには、他の、眼として転起されたものは生起せず、まさしく、しかして、この、耳として転起されたものを……略……鼻として転起されたものを……舌として転起されたものを……身として転起されたものを……意として転起されたものを完全に取り払い、さらには、他の、意として転起されたものは生起しない。これが、正知の者の、転起されたものを完全に取り払うことという、一切の空性にとっての最高の義(勝義)としての空である。ということで――

 [1730]空についての言説は、〔以上で〕終了した。

 [1731]双連のものの章が、第二となる。

 [1732]そのための、摂頌となる。


 [1733]〔しかして、詩偈に言う〕「双連のもの、真理と覚りの支分、慈愛、第五に離貪、融通無礙、法(真理)の輪、世〔俗〕を超えるものと力と空、〔それらの十がある〕」と。


 [1734]これは、諸々の部類の保持をもって据え置かれたものであり、同等のものなく、第二のものにして、最も優れたものであり、「優れた章」と〔説かれる〕。


3 知慧の章(慧品)


3.1 大いなる知慧についての言説


1.


 [1735]【185】無常の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。苦痛の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。無我の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか……略……。放棄の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。

 [1736]無常の随観が、修行され、多く為されたなら、疾走〔作用〕(勢速・速行:一連の認識作用の過程において認識対象を味わう作用・働き)の知慧を円満成就する。苦痛の随観が、修行され、多く為されたなら、洞察の知慧を円満成就する。無我の随観が、修行され、多く為されたなら、大いなる知慧を円満成就する。厭離の随観が、修行され、多く為されたなら、鋭敏なる知慧を円満成就する。離貪の随観が、修行され、多く為されたなら、広大なる知慧を円満成就する。止滅の随観が、修行され、多く為されたなら、深遠なる知慧を円満成就する。放棄の随観が、修行され、多く為されたなら、近隣なき知慧を円満成就する。これらの七つ知慧が、修行され、多く為されたなら、賢者たることを円満成就する。これらの八つ知慧が、修行され、多く為されたなら、多々なる知慧を円満成就する。これらの九つ知慧が、修行され、多く為されたなら、敏速なる知慧を円満成就する。

 [1737]敏速なる知慧が、応答の融通無礙となる。その〔知慧〕のために、義(意味)を定め置くことから、義(意味)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、法(性質)を定め置くことから、法(性質)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、言語を定め置くことから、言語の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、応答を定め置くことから、応答の融通無礙が、【186】到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成る〕。その〔知慧〕のために、これらの四つの融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成る〕。

 [1738]形態において、無常の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか……略……。形態において、放棄の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。形態において、無常の随観が、修行され、多く為されたなら、疾走〔作用〕の知慧を円満成就する……略……。形態において、放棄の随観が、修行され、多く為されたなら、近隣なき知慧を円満成就する。これらの七つ知慧が、修行され、多く為されたなら、賢者たることを円満成就する。これらの八つ知慧が、修行され、多く為されたなら、多々なる知慧を円満成就する。これらの九つ知慧が、修行され、多く為されたなら、敏速なる知慧を円満成就する。

 [1739]敏速なる知慧が、応答の融通無礙となる。その〔知慧〕のために、義(意味)を定め置くことから、義(意味)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、法(性質)を定め置くことから、法(性質)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、言語を定め置くことから、言語の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、応答を定め置くことから、応答の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成る〕。その〔知慧〕のために、これらの四つの融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成る〕。

 [1740]感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼〔作用〕において……略……。老と死において、無常の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか……略……。老と死において、放棄の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。老と死において、無常の随観が、修行され、多く為されたなら、疾走〔作用〕の知慧を円満成就する……略……。老と死において、放棄の随観が、修行され、多く為されたなら、近隣なき知慧を円満成就する。これらの七つ知慧が、修行され、多く為されたなら、賢者たることを円満成就する。これらの八つ知慧が、修行され、多く為されたなら、多々なる知慧を円満成就する。これらの九つ知慧が、修行され、多く為されたなら、敏速なる知慧を円満成就する。

 [1741]敏速なる知慧が、応答の融通無礙となる。その〔知慧〕のために、義(意味)を定め置くことから、義(意味)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、【187】法(性質)を定め置くことから、法(性質)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、言語を定め置くことから、言語の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、応答を定め置くことから、応答の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成る〕。その〔知慧〕のために、これらの四つの融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成る〕。


2.


 [1742]形態において、無常の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。過去と未来と現在の形態において、無常の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。形態において、苦痛の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような円満成就するのか。過去と未来と現在の形態において、苦痛の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような円満成就するのか。形態において、無我の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような円満成就するのか。過去と未来と現在の形態において、無我の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような円満成就するのか。形態において、厭離の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。過去と未来と現在の形態において、厭離の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。形態において、離貪の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。過去と未来と現在の形態において、離貪の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。形態において、止滅の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。過去と未来と現在の形態において、止滅の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。形態において、放棄の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。過去と未来と現在の形態において、放棄の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。

 [1743]形態において、無常の随観が、修行され、多く為されたなら、疾走〔作用〕の知慧を円満成就する。過去と未来と現在の形態において、無常の随観が、修行され、多く為されたなら、疾走〔作用〕の知慧を円満成就する。形態において、苦痛の随観が、修行され、多く為されたなら、洞察の知慧を円満成就する。過去と未来と現在の形態において、苦痛の随観が、修行され、多く為されたなら、疾走〔作用〕の知慧を円満成就する。形態において、無我の随観が、修行され、多く為されたなら、大いなる円満成就する。過去と未来と現在の形態において、無我の随観が、修行され、多く為されたなら、疾走〔作用〕の知慧を円満成就する。形態において、厭離の随観が、修行され、多く為されたなら、鋭敏なる知慧を円満成就する。過去と未来と現在の形態において、厭離の随観が、【188】修行され、多く為されたなら、疾走〔作用〕の知慧を円満成就する。形態において、離貪の随観が、修行され、多く為されたなら、広大なる知慧を円満成就する。過去と未来と現在の形態において、離貪の随観が、修行され、多く為されたなら、疾走〔作用〕の知慧を円満成就する。形態において、止滅の随観が、修行され、多く為されたなら、深遠なる知慧を円満成就する。過去と未来と現在の形態において、止滅の随観が、修行され、多く為されたなら、疾走〔作用〕の知慧を円満成就する。形態において、放棄の随観が、修行され、多く為されたなら、近隣なき知慧を円満成就する。過去と未来と現在の形態において、放棄の随観が、修行され、多く為されたなら、疾走〔作用〕の知慧を円満成就する。これらの七つ知慧が、修行され、多く為されたなら、賢者たることを円満成就する。これらの八つ知慧が、修行され、多く為されたなら、多々なる知慧を円満成就する。これらの九つ知慧が、修行され、多く為されたなら、敏速なる知慧を円満成就する。

 [1744]敏速なる知慧が、応答の融通無礙となる。その〔知慧〕のために、義(意味)を定め置くことから、義(意味)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、法(性質)を定め置くことから、法(性質)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、言語を定め置くことから、言語の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、応答を定め置くことから、応答の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成る〕。その〔知慧〕のために、これらの四つの融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成る〕。

 [1745]感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識別〔作用〕において……。眼〔作用〕において……略……。老と死において、無常の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。過去と未来と現在の老と死において、無常の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか……略……。老と死において、放棄の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。過去と未来と現在の老と死において、放棄の随観が、修行され、多く為されたなら、どのような知慧を円満成就するのか。老と死において、無常の随観が、修行され、多く為されたなら、疾走〔作用〕の知慧を円満成就する。過去と未来と現在の老と死において、無常の随観が、修行され、多く為されたなら、疾走〔作用〕の知慧を円満成就する……略……。その〔知慧〕のために、これらの四つの融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成る〕。


3.


 [1746]【189】「比丘たちよ、四つのものがある。これらの諸法(性質)が、修行され、多く為されたなら、預流果の実証のために等しく転起する。どのようなものが、四つのものであるのか。正しい人との親交、正しい法(真理)の聴聞、根源“あり”のままに意“おもい”を為すこと(如理作意)、法(教え)の法(教え)のままの実践である。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、修行され、多く為されたなら、預流果の実証のために等しく転起する。

 [1747]比丘たちよ、四つのものがある。これらの諸法(性質)が、修行され、多く為されたなら、一来果の実証のために等しく転起する……略……不還果の実証のために等しく転起する……略……阿羅漢果の実証のために等しく転起する。どのようなものが、四つのものであるのか。正しい人との親交、正しい法(真理)の聴聞、根源のままに意を為すこと、法(教え)の法(教え)のままの実践である。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、修行され、多く為されたなら、阿羅漢果の実証のために等しく転起する。

 [1748]比丘たちよ、四つのものがある。これらの諸法(性質)が、修行され、多く為されたなら、(1)知慧の獲得のために等しく転起し、(2)知慧の覚慧のために等しく転起し、(3)知慧の広大のために等しく転起し、(4)大いなる知慧たることのために等しく転起し、(5)多々なる知慧たることのために等しく転起し、(6)広大なる知慧たることのために等しく転起し、(7)深遠なる知慧たることのために等しく転起し、(8)近隣なき知慧たることのために等しく転起し、(9)広き知慧たることのために等しく転起し、(10)知慧の多大のために等しく転起し、(11)即座なる知慧たることのために等しく転起し、(12)軽快なる知慧たることのために等しく転起し、(13)俊敏なる知慧たることのために等しく転起し、(14)疾走〔作用〕(勢速・速行:一連の認識作用の過程において認識対象を味わう作用・働き)の知慧たることのために等しく転起し、(15)鋭敏なる知慧たることのために等しく転起し、(16)洞察の知慧たることのために等しく転起する。どのようなものが、四つのものであるのか。正しい人との親交、正しい法(真理)の聴聞、根源のままに意を為すこと、法(教え)の法(教え)のままの実践である。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、修行され、多く為されたなら、知慧の獲得のために等しく転起し、知慧の覚慧のために等しく転起し……略……洞察の知慧たることのために等しく転起する」〔と〕。


3.1.1 十六の知慧についての釈示


4.


 [1749](1)「知慧の獲得のために等しく転起し」とは、どのようなものが、知慧の獲得であるのか。四つの道の知恵の、四つの果の知恵の、四つの融通無礙の知恵の、六つの神知の知恵の、七十三の知恵の、七十七の知恵の、得、獲得、得、得達、接触すること(体得すること)、実証、成就である。〔それらは〕知慧の獲得のために等しく転起する、ということで、これが、知慧の獲得である。

 [1750]【190】(2)「知慧の覚慧のために等しく転起し」とは、どのようなものが、知慧の覚慧であるのか。しかして、七者の学びある者の、さらには、善き凡夫の、知慧が増大し、阿羅漢の知慧が増大する。増大したものの増大あることから、〔それらは〕知慧の覚慧のために等しく転起する、ということで、これが、知慧の覚慧である。

 [1751](3)「知慧の広大のために等しく転起し」とは、どのようなものが、知慧の広大であるのか。しかして、七者の学びある者の、さらには、善き凡夫の、知慧が広大に至り、阿羅漢の知慧が広大に至ったものとなる。〔それらは〕知慧の広大のために等しく転起する、ということで、これが、知慧の広大である。

 [1752](4)「大いなる知慧たることのために等しく転起し」とは、どのようなものが、大いなる知慧であるのか。諸々の大いなる義(意味)を遍く収め取る(完全に理解し把握する)、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる法(性質)を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる言語を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる応答を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる戒の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる〔心の〕統一の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる知慧の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる解脱の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる解脱の知見の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる境位と境位ならざるものを遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる住への入定を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる聖なる真理を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる気づきの確立を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる正しい精励を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる神通の足場を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる機能を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる力を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる覚りの支分を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる聖者の道を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる沙門果を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる神知を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。大いなる最高の義(勝義)たる【191】涅槃〔の界域〕を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。〔それらは〕大いなる知慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、大いなる知慧である。

 [1753](5)「多々なる知慧たることのために等しく転起し」とは、どのようなものが、多々なる知慧であるのか。諸々の多々にして種々なる範疇において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる界域において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる〔認識の〕場所において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる〔物事が〕縁によって生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる空性たる認知されざるものにおいて、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる義(意味)において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる法(性質)において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる言語において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる応答において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる戒の範疇において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる〔心の〕統一の範疇において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる知慧の範疇において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる解脱の範疇において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる解脱の知見の範疇において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる境位と境位ならざるものにおいて、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる住への入定において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる聖なる真理において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる気づきの確立において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる正しい精励において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる神通の足場において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる機能において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる力において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる覚りの支分において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる聖者の道において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる沙門果において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。諸々の多々にして種々なる神知において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。凡夫と共通なる諸法(性質)を超え行って、最高の義(勝義)たる涅槃〔の界域〕において、知恵が転起する、ということで、多々なる知慧となる。〔それらは〕多々なる知慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、多々なる知慧である。

 [1754](6)「広大なる知慧たることのために等しく転起し」とは、どのようなものが、広大なる知慧であるのか。【192】諸々の広大なる義(意味)を遍く収め取る(完全に理解し把握する)、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる法(性質)を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる言語を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる応答を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる戒の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる〔心の〕統一の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる知慧の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる解脱の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる解脱の知見の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる境位と境位ならざるものを遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる住への入定を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる聖なる真理を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる気づきの確立を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる正しい精励を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる神通の足場を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる機能を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる力を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる覚りの支分を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる聖者の道を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる沙門果を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。諸々の大いなる神知を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。大いなる最高の義(勝義)たる涅槃〔の界域〕を遍く収め取る、ということで、大いなる知慧となる。〔それらは〕広大なる知慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、広大なる知慧である。

 [1755](7)「深遠なる知慧たることのために等しく転起し」とは、どのようなものが、深遠なる知慧であるのか。諸々の深遠なる範疇において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる界域において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる〔認識の〕場所において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる〔物事が〕縁によって生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる空性たる認知されざるものにおいて、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる義(意味)において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる法(性質)において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる言語において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる応答において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる戒の範疇において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる〔心の〕統一の範疇において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。【193】諸々の深遠なる知慧の範疇において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる解脱の範疇において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる解脱の知見の範疇において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる境位と境位ならざるものにおいて、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる住への入定において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる聖なる真理において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる気づきの確立において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる正しい精励において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる神通の足場において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる機能において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる力において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる覚りの支分において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる聖者の道において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる沙門果において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。諸々の深遠なる神知において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。深遠なる最高の義(勝義)たる涅槃〔の界域〕において、知恵が転起する、ということで、深遠なる知慧となる。〔それらは〕深遠なる知慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、深遠なる知慧である。

 [1756](8)「近隣なき知慧たることのために等しく転起し」とは、どのようなものが、近隣なき知慧であるのか。その人の、義(意味)を定め置くことから、義(意味)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、法(性質)を定め置くことから、法(性質)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、言語を定め置くことから、言語の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成り〕、応答を定め置くことから、応答の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成る〕なら、彼のばあい、義(意味)においても、法(性質)においても、言語においても、応答においても、他の誰であれ、征服することができない。しかして、彼は、他者たちによって征服できない、ということで、近隣なき知慧ある者となる。

 [1757]善き凡夫の知慧は、第八の者(最下の聖者)の知慧から、遠方にあり、遥か遠方にあり、極めて遠方にあり、現前になく、近隣のものではない。善き凡夫と比較して、第八の者は、近隣なき知慧ある者となる。第八の者の知慧は、預流たる者の知慧から、遠方にあり、遥か遠方にあり、極めて遠方にあり、現前になく、【194】近隣のものではない。第八の者と比較して、預流たる者は、近隣なき知慧ある者となる。預流たる者の知慧は、一来たる者の知慧から、遠方にあり、遥か遠方にあり、極めて遠方にあり、現前になく、近隣のものではない。預流たる者と比較して、一来たる者は、近隣なき知慧ある者となる。一来たる者の知慧は、不還たる者の知慧から、遠方にあり、遥か遠方にあり、極めて遠方にあり、現前になく、近隣のものではない。一来たる者と比較して、不還たる者は、近隣なき知慧ある者となる。不還たる者の知慧は、阿羅漢の知慧から、遠方にあり、遥か遠方にあり、極めて遠方にあり、現前になく、近隣のものではない。不還たる者と比較して、阿羅漢は、近隣なき知慧ある者となる。阿羅漢の知慧は、独正覚者の知慧から、遠方にあり、遥か遠方にあり、極めて遠方にあり、現前になく、近隣のものではない。阿羅漢と比較して、独覚は、近隣なき知慧ある者となる。しかして、独覚と〔比較して〕、さらには、天〔界〕を含む世〔の人々〕と比較して、阿羅漢にして正自覚者たる如来は、至高の者となり、近隣なき知慧ある者となる。


5.


 [1758]知慧の細別に巧みな智ある者となり、細別された知恵ある者となり、融通無礙に到達した者となり、四つの離怖を得た者となり、十の力を保持する者となり、人のなかの雄牛たる者となり、人のなかの獅子たる者となり、人のなかの龍象たる者となり、人のなかの駿馬たる者(善き生まれの者)となり、人のなかの荷牛たる者(忍耐強き者)となり、終極なき知恵ある者となり、終極なき威光ある者となり、終極なき福徳ある者となり、富者となり、大いなる財ある者となり、財者となり、導く者となり、教導する者となり、指導する者となり、知らしめる者となり、納得させる者となり、見させる者となり、清める者となる。まさに、彼は、世尊であり、〔いまだ〕生起していない道を生起させる者であり、〔いまだ〕了解されていない道を了解させる者であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する者であり、道を知る者であり、道の知者であり、道の熟知者であり、さらには、また、道に従い行く者たちである、彼の弟子たちは、今現在、〔世に〕住み、未来において、〔教えを〕具備した者たちとしてある。

 [1759]まさに、彼は、世尊であり、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る、〔世の〕眼として有る者であり、知恵として有る者であり、法(真理)として有る者であり、梵として有る者であり、〔法を〕転じる者であり、〔法を〕転起させる者であり、義(意味)を与え導く者であり、不死〔の境処〕を与える者であり、法(真理)の主であり、如来である。彼にとって、世尊にとって、〔いまだ〕知られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見い出されていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕実証されていないものは〔存在せず〕、知慧によって〔いまだ〕接触されていないものは存在しない。過去と未来と現在を加え含めて、一切の法(性質)が、一切の行相をもって、覚者たる世尊の知恵の門において、視野へと至り来る。それが何であれ、導かれるべきもの(未了義のもの)が、まさに、存在するなら、その一切は、知られるべきものとなる。あるいは、自己の義(意味)が、あるいは、他者の義(意味)が、あるいは、両者の義(意味)が、あるいは、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)の義(意味)が、あるいは、未来の義(意味)が、あるいは、明瞭なる義(意味)が、【195】あるいは、深遠なる義(意味)が、あるいは、秘密にされた義(意味)が、あるいは、隠蔽された義(意味)が、あるいは、導かれるべき義(意味)が、あるいは、導かれた義(意味)が、あるいは、罪過なき義(意味)が、あるいは、〔心の〕汚れなき義(意味)が、あるいは、浄化の義(意味)が、あるいは、最高の義(勝義)としての義(意味)が、その一切が、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 [1760]一切の身体の行為が、覚者たる世尊の知恵に、遍く随転する。一切の言葉の行為が、覚者たる世尊の知恵に、遍く随転する。一切の意の行為が、覚者たる世尊の知恵に、遍く随転する。過去において、覚者たる世尊の知恵は、打破されざるものとしてある。未来において、覚者たる世尊の知恵は、打破されざるものとしてある。現在において、覚者たる世尊の知恵は、打破されざるものとしてある。導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりが、知恵となる。知恵としてあるかぎり、そのかぎりが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを最終極とするものが、知恵となる。知恵を最終極とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を最終極の境位とするのが、それらの法(性質)となる。たとえば、二つの箱の面が、正しく接触したなら、下の箱の面は、上のものを超克することがなく、上の箱の面は、下のものを超克することがなく、互いに他を最終極の境位とするように、まさしく、このように、覚者たる世尊の、導かれるべきものと、知恵とは、互いに他を最終極の境位とするものとなる。導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりが、知恵となる。知恵としてあるかぎり、そのかぎりが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを最終極とするものが、知恵となる。知恵を最終極とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を最終極の境位とするのが、それらの法(性質)となる。一切の諸法(性質)において、覚者たる世尊の知恵は転起する。

 [1761]一切の諸法(性質)は、覚者たる世尊の、〔心を〕傾注することと連結したものとしてあり、望みと連結したものとしてあり、意を為すことと連結したものとしてあり、心の生起と連結したものとしてある。一切の有情において、覚者たる世尊の知恵は転起する。覚者は、一切の有情の、志欲を知り、悪習を知り、所行を知り、信念を知る。少なき塵の者たちとして、大きな塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、可能なると可能ならざる者たちとして、有情たちを覚知する。天〔界〕を含む世〔界〕が、魔〔界〕を含み梵〔界〕を含む〔世界〕が、沙門や婆羅門を含む人々が、天〔の神〕や人間を含む〔人々〕が、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 [1762]たとえば、それらが何であれ、魚や亀たちが、【196】もしくは、巨大魚を加え含めて、大海の内において遍く転起するように、まさしく、このように、天〔界〕を含む世〔界〕が、魔〔界〕を含み梵〔界〕を含む〔世界〕が、沙門や婆羅門を含む人々が、天〔の神〕や人間を含む〔人々〕が、覚者の知恵の内において遍く転起する。たとえば、それらが何であれ、翼あるもの(鳥)たちが、もしくは、ガルラやヴェーナテイヤ(金翅鳥)を加え含めて、虚空の部域(天空)において遍く転起するように、まさしく、このように、すなわち、また、彼らが、知慧としてはサーリプッタと同等の者たちであるとして、彼らもまた、覚者の知恵の部域において遍く転起する。覚者の知恵は、天〔の神々〕や人間たちの知慧を、充満して〔止住し〕、凌駕して止住する。

 [1763]すなわち、また、彼らが、士族の賢者たちが、婆羅門の賢者たちが、家長の賢者たちが、沙門の賢者たちが、精緻の者たちとして、他の異論を為した者たちとして、毛を貫く形質の者たちとして、思うに、知慧を具したことで、諸々の悪しき見解を破り去りつつ〔世を〕歩むとして、彼らは、問いを準備しては準備して、如来のもとへと近しく赴いて、しかして、諸々の秘密にされたものを、さらには、諸々の隠蔽されたものを、問い尋ねる。それらの問いは、世尊によって、言説され、さらには、回答され、〔問い尋ねの〕契機が釈示されたものと成る。しかして、商売人(質問者)たちは、それら〔の問い〕を、世尊のために成就する。しかして、まさに、世尊は、そこにおいて、輝きまさる――すなわち、これ、知慧によって――ということで、至高の者となり、近隣なき知慧ある者となる。〔それらは〕近隣なき知慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、近隣なき知慧である。


6.


 [1764](9)「広き知慧たることのために等しく転起し」とは、どのようなものが、広き知慧であるのか。貪欲(貪)を征服する、ということで、広き知慧となる。〔貪欲が〕征服された、ということで、広き知慧となる。憤怒(瞋)を征服する、ということで、広き知慧となる。〔憤怒が〕征服された、ということで、広き知慧となる。迷妄(痴)を征服する、ということで、広き知慧となる。〔迷妄が〕征服された、ということで、広き知慧となる。忿怒(忿)を……略……。【197】怨恨(恨)を……。隠覆(覆)を……。加虐(悩)を……。嫉妬(嫉)を……。物惜(慳)を……。幻想“ごまかし”(諂)を……。狡猾(誑)を……。強情(傲)を……。激昂(怒)を……。思量(慢)を……。高慢(過慢)を……。驕慢(驕)を……。放逸を……。一切の〔心の〕汚れを……。一切の悪しき行ないを……。一切の行作(現行)を……略……。一切の生存に至る行為を征服する、ということで、広き知慧となる。〔一切の生存に至る行為が〕征服された、ということで、広き知慧となる。貪欲は、敵である。その敵を撃破する知慧である、ということで、広き知慧となる。憤怒は、敵である。その敵を撃破する知慧である、ということで、広き知慧となる。迷妄は、敵である。その敵を撃破する知慧である、ということで、広き知慧となる。忿怒は……略……。怨恨は……。隠覆は……。加虐は……。嫉妬は……。物惜は……。幻想は……。狡猾は……。強情は……。激昂は……。思量は……。高慢は……。驕慢は……。放逸は……。一切の〔心の〕汚れは……。一切の悪しき行ないは……。一切の行作は……略……。一切の生存に至る行為は、敵である。その敵を撃破する知慧である、ということで、広き知慧となる。地は、広きものと説かれる。その地と等しく、幅広く、広大なる、知慧を具備したものである、ということで、広き知慧となる。さらに、また、この〔広きもの〕は、知慧の同義語である。広きものは、思慮であり、遍く導くものである、ということで、広き知慧となる。〔それらは〕広き知慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、広き知慧である。

 [1765](10)「知慧の多大のために等しく転起し」とは、どのようなものが、知慧の多大であるのか。ここに、一部の者が、知慧に尊重ある者と成り、知慧を所行とする者と〔成り〕、知慧に志欲ある者と〔成り〕、知慧を信念した者と〔成り〕、知慧を旗とする者と〔成り〕、知慧を幟とする者と〔成り〕、知慧を優位主要性とする者と〔成り〕、判別多き者と〔成り〕、考究多き者と〔成り〕、察すること多き者と〔成り〕、思察すること多き者と〔成り〕、思察することを法(性質)とする者と〔成り〕、明瞭なる住者と〔成り〕、それを所行とする者と〔成り〕、それに尊重ある者と〔成り〕、それを多きとする者と〔成り〕、それへと下向した者と〔成り〕、それへと傾倒した者と〔成り〕、それへと傾斜した者と〔成り〕、それを信念した者と〔成り〕、それを優位主要性とする者と〔成る〕。衆に尊重ある者が、「衆の多大なる者」と説かれ、衣料に尊重ある者が、「衣料の多大なる者」と説かれ、鉢に尊重ある者が、「鉢の多大なる者」と説かれ、臥坐所に尊重ある者が、「臥坐所の多大なる者」と説かれるように、まさしく、このように、ここに、一部の者は、【198】知慧に尊重ある者と成り、知慧を所行とする者と〔成り〕、知慧に志欲ある者と〔成り〕、知慧を信念した者と〔成り〕、知慧を旗とする者と〔成り〕、知慧を幟とする者と〔成り〕、知慧を優位主要性とする者と〔成り〕、判別多き者と〔成り〕、考究多き者と〔成り〕、察すること多き者と〔成り〕、思察すること多き者と〔成り〕、思察することを法(性質)とする者と〔成り〕、明瞭なる住者と〔成り〕、それを所行とする者と〔成り〕、それに尊重ある者と〔成り〕、それを多きとする者と〔成り〕、それへと下向した者と〔成り〕、それへと傾倒した者と〔成り〕、それへと傾斜した者と〔成り〕、それを信念した者と〔成り〕、それを優位主要性とする者と〔成る〕。〔それらは〕知慧の多大のために等しく転起する、ということで、これが、知慧の多大である。

 [1766](11)「即座なる知慧たることのために等しく転起し」とは、どのようなものが、即座なる知慧であるのか。即座に、即座に、諸戒を円満成就する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、〔感官の〕機能の統御を円満成就する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、食について量を知ることを円満成就する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、〔眠らずに〕起きていることへの専念を円満成就する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、戒の範疇を円満成就する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、〔心の〕統一の範疇を円満成就する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、知慧の範疇を円満成就する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、解脱の範疇を円満成就する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、解脱の知見の範疇を円満成就する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、諸々の境位と境位ならざるものを理解する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、諸々の住への入定を円満成就する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、〔四つの〕聖なる真理を理解する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、〔四つの〕気づきの確立を修行する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、〔四つの〕正しい精励を修行する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、〔四つの〕神通の足場を修行する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、〔五つの〕機能を修行する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、〔五つの〕力を修行する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、〔七つの〕覚りの支分を修行する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、〔四つの〕聖者の道を修行する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、〔四つの〕沙門果を実証する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、〔六つの〕神知を理解する、ということで、即座なる知慧となる。即座に、即座に、最高の義(勝義)たる涅槃〔の界域〕を実証する、ということで、即座なる知慧となる。〔それらは〕即座なる知慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、即座なる知慧である。

 [1767](12)「軽快なる知慧たることのために等しく転起し」とは、どのようなものが、軽快なる知慧であるのか。軽快に、軽快に、諸戒を円満成就する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、〔感官の〕機能の統御を円満成就する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、【199】軽快に、食について量を知ることを円満成就する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、〔眠らずに〕起きていることへの専念を円満成就する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、戒の範疇を……略……〔心の〕統一の範疇を……知慧の範疇を……解脱の範疇を……解脱の知見の範疇を円満成就する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、諸々の境位と境位ならざるものを理解する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、諸々の住への入定を円満成就する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、〔四つの〕聖なる真理を理解する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、〔四つの〕気づきの確立を修行する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、〔四つの〕正しい精励を修行する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、〔四つの〕神通の足場を修行する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、〔五つの〕機能を修行する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、〔五つの〕力を修行する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、〔七つの〕覚りの支分を修行する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、〔四つの〕聖者の道を修行する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、〔四つの〕沙門果を実証する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、〔六つの〕神知を理解する、ということで、軽快なる知慧となる。軽快に、軽快に、最高の義(勝義)たる涅槃〔の界域〕を実証する、ということで、軽快なる知慧となる。〔それらは〕軽快なる知慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、軽快なる知慧である。

 [1768](13)「俊敏なる知慧たることのために等しく転起し」とは、どのようなものが、俊敏(ハーサ)なる知慧であるのか。ここに、一部の者が、笑み(ハーサ)多き者として、感嘆多き者として、満足多き者として、歓喜多き者として、諸戒を円満成就する、ということで、俊敏なる知慧となる。笑み多き者として、感嘆多き者として、満足多き者として、歓喜多き者として、〔感官の〕機能の統御を円満成就する、ということで、俊敏なる知慧となる。笑み多き者として、感嘆多き者として、満足多き者として、歓喜多き者として、食について量を知ることを円満成就する、ということで、俊敏なる知慧となる。笑み多き者として、感嘆多き者として、満足多き者として、歓喜多き者として、〔眠らずに〕起きていることへの専念を円満成就する、ということで、俊敏なる知慧となる。笑み多き者として、感嘆多き者として、満足多き者として、歓喜多き者として、戒の範疇を……略……〔心の〕統一の範疇を……知慧の範疇を……解脱の範疇を……解脱の知見の範疇を円満成就する、ということで……諸々の境位と境位ならざるものを理解する、ということで……諸々の住への入定を円満成就する、ということで……〔四つの〕聖なる真理を理解する、ということで……〔四つの〕気づきの確立を修行する、ということで……〔四つの〕正しい精励を修行する、ということで……〔四つの〕神通の足場を修行する、ということで……〔五つの〕機能を修行する、ということで……〔五つの〕力を修行する、ということで……〔七つの〕覚りの支分を【200】修行する、ということで……〔四つの〕聖者の道を修行する、ということで……略……〔四つの〕沙門果を実証する、ということで、俊敏なる知慧となる。笑み多き者として、感嘆多き者として、満足多き者として、歓喜多き者として、〔六つの〕神知を理解する、ということで、俊敏なる知慧となる。笑み多き者として、感嘆多き者として、満足多き者として、歓喜多き者として、最高の義(勝義)たる涅槃〔の界域〕を実証する、ということで、俊敏なる知慧となる。〔それらは〕俊敏なる知慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、俊敏なる知慧である。


7.


 [1769](14)「疾走〔作用〕(勢速・速行:一連の認識作用の過程において認識対象を味わう作用・働き)の知慧たることのために等しく転起し」とは、どのようなものが、疾走〔作用〕の知慧であるのか。それが何であれ、形態としてあるもので、過去と未来と現在のもの、あるいは、内なるもの、あるいは、外なるもの、あるいは、粗大なるもの、あるいは、微細なるもの、あるいは、下劣なるもの、あるいは、精妙なるもの、あるいは、それが、遠方にあり、現前にあるとして、一切の形態を、無常〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走〔作用〕の知慧となり、苦痛〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走〔作用〕の知慧となり、無我〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走〔作用〕の知慧となる。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるもので……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるもので……。それが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるもので……。それが何であれ、識別〔作用〕としてあるもので、過去と未来と現在のもの、あるいは、内なるもの、あるいは、外なるもの、あるいは、粗大なるもの、あるいは、微細なるもの、あるいは、下劣なるもの、あるいは、精妙なるもの、あるいは、それが、遠方にあり、現前にあるとして、一切の形態を、無常〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走〔作用〕の知慧となり、苦痛〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走〔作用〕の知慧となり、無我〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走〔作用〕の知慧となる。眼を……略……。老と死を、〔すなわち〕過去と未来と現在の〔老と死〕を、無常〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走〔作用〕の知慧となり、苦痛〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走〔作用〕の知慧となり、無我〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走〔作用〕の知慧となる。

 [1770]「形態は、〔すなわち〕過去と未来と現在の〔形態〕は、滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきの義(意味)によって、無我である」と、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して、形態の止滅という涅槃〔の界域〕にたいし、すみやかに疾走する、ということで、疾走〔作用〕の知慧となる。「感受〔作用〕は……略……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識別〔作用〕は……。「眼は……略……。「老と死は、〔すなわち〕過去と未来と現在の〔老と死〕は、滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきの義(意味)によって、無我である」と、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して、形態の止滅という涅槃〔の界域〕にたいし、すみやかに疾走する、ということで、疾走〔作用〕の知慧となる。

 [1771]「形態は、〔すなわち〕過去と未来と現在の〔形態〕は、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して、形態の止滅という涅槃〔の界域〕にたいし、すみやかに疾走する、ということで、疾走〔作用〕の知慧となる。「感受〔作用〕は……略……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識別〔作用〕は……。「眼は……略……。「老と死は、〔すなわち〕過去と未来と現在の〔老と死〕は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して、形態の止滅という涅槃〔の界域〕にたいし、すみやかに疾走する、ということで、疾走〔作用〕の知慧となる。〔それらは〕疾走〔作用〕の知慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、疾走〔作用〕の知慧である。

 [1772](15)「鋭敏なる知慧たることのために等しく転起し」とは、どのようなものが、鋭敏なる知慧であるのか。【201】すみやかに、諸々の〔心の〕汚れを断つ、ということで、鋭敏なる知慧となる。生起した欲望の思考を、甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめる、ということで、鋭敏なる知慧となる。生起した加害の思考を、甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめる、ということで、鋭敏なる知慧となる。生起した悩害の思考を、甘受せず……略……。〔すでに〕生起し〔いまだ〕生起していない諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめる、ということで、鋭敏なる知慧となる。生起した貪欲を、甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめる、ということで、鋭敏なる知慧となる。生起した憤怒を……略……。生起した迷妄を……。生起した忿怒を……。生起した怨恨を……。隠覆を……加虐を……嫉妬を……物惜を……幻想を……狡猾を……強情を……激昂を……思量を……高慢を……驕慢を……放逸を……一切の〔心の〕汚れを……一切の悪しき行ないを……一切の行作を……略……一切の生存に至る行為を、甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめる、ということで、鋭敏なる知慧となる。一なる坐において、四つの聖者の道と、四つの沙門果と、四つの融通無礙、六つの神知が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、知慧によって接触されたものと〔成る〕、ということで、鋭敏なる知慧となる。〔それらは〕鋭敏なる知慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、鋭敏なる知慧である。

 [1773](16)「洞察の知慧たることのために等しく転起する」とは、どのようなものが、洞察の知慧であるのか。ここに、一部の者が、一切の形成〔作用〕において、戦慄多き者と成り、驚懼多き者と〔成り〕、嫌悪多き者と〔成り〕、不満多き者と〔成り〕、喜悦なき多き者と〔成る〕。面を外にし(顔を背け)、一切の形成〔作用〕において、喜ぶことがない。かつて貫かれたことなく、かつて破られたことなき、貪欲の範疇を、貫き(ニッビッジャティ)、破る(パダーレーティ)、ということで、洞察(ニッベーディカ)の知慧となる。かつて貫かれたことなく、かつて破られたことなき、憤怒の範疇を、貫き、破る、ということで、洞察の知慧となる。かつて貫かれたことなく、かつて破られたことなき、【202】迷妄の範疇を、貫き、破る、ということで、洞察の知慧となる。かつて貫かれたことなく、かつて破られたことなき、忿怒を……略……怨恨を……隠覆を……加虐を……嫉妬を……物惜を……幻想を……狡猾を……強情を……激昂を……思量を……高慢を……驕慢を……放逸を……一切の〔心の〕汚れを……一切の悪しき行ないを……一切の行作を……略……一切の生存に至る行為を、貫き、破る、ということで、洞察の知慧となる。〔それらは〕洞察の知慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、洞察の知慧である。

 [1774]これらの十六の知慧がある。これらの十六の知慧を具備した人が、融通無礙を得た者となる。


3.1.2 人の殊勝についての釈示


8.


 [1775]二者の人が、融通無礙を得た者であるとして、一者は、過去との結合(宿縁)を成就した者であり、一者は、過去との結合を成就した者ではない。彼が、過去との結合を成就した者であるなら、彼は、それによって、超過の者と成り、増上の者と成り、殊勝の者と成る。彼の知慧は、細別される(分明される)。

 [1776]二者の人が、融通無礙を得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であるとして、一者は、多聞の者であり、一者は、多聞の者ではない。彼が、多聞の者であるなら、彼は、それによって、超過の者と成り、増上の者と成り、殊勝の者と成る。彼の知慧は、細別される。

 [1777]二者の人が、融通無礙を得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であるとして、一者は、説示多き者であり、一者は、説示多き者ではない。彼が、説示多き者であるなら、彼は、それによって、超過の者と成り、増上の者と成り、殊勝の者と成る。彼の知慧は、細別される。

 [1778]二者の人が、融通無礙を得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であり、二者ともどもに、説示多き者であるとして、一者は、導師に依拠した者であり、一者は、導師に依拠した者ではない。彼が、導師に依拠した者であるなら、彼は、それによって、超過の者と成り、増上の者と成り、殊勝の者と成る。彼の知慧は、細別される。

 [1779]二者の人が、融通無礙を得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であり、二者ともどもに、説示多き者であり、二者ともどもに、導師に依拠した者であるとして、一者は、住多き者であり、一者は、住多き者ではない。彼が、住多き者であるなら、彼は、それによって、超過の者と成り、増上の者と成り、殊勝の者と成る。彼の知慧は、細別される。

 [1780]二者の人が、融通無礙を得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であり、二者ともどもに、説示多き者であり、二者ともどもに、導師に依拠した者であり、二者ともどもに、住多き者であるとして、一者は、注視多き者であり、【203】一者は、注視多き者ではない。彼が、注視多き者であるなら、彼は、それによって、超過の者と成り、増上の者と成り、殊勝の者と成る。彼の知慧は、細別される。

 [1781]二者の人が、融通無礙を得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であり、二者ともどもに、説示多き者であり、二者ともどもに、導師に依拠した者であり、二者ともどもに、住多き者であり、二者ともどもに、注視多き者であるとして、一者は、学びある融通無礙を得た者であり、一者は、学びなき融通無礙を得た者である。彼が、学びなき融通無礙を得た者であるなら、彼は、それによって、超過の者と成り、増上の者と成り、殊勝の者と成る。彼の知慧は、細別される。

 [1782]二者の人が、融通無礙を得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であり、二者ともどもに、説示多き者であり、二者ともどもに、導師に依拠した者であり、二者ともどもに、住多き者であり、二者ともどもに、注視多き者であり、二者ともどもに、学びなき融通無礙を得た者であるとして、一者は、弟子の最奥義を得た者であり、一者は、弟子の最奥義を得た者ではない。彼が、弟子の最奥義を得た者であるなら、彼は、それによって、超過の者と成り、増上の者と成り、殊勝の者と成る。彼の知慧は、細別される。

 [1783]二者の人が、融通無礙を得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であり、二者ともどもに、説示多き者であり、二者ともどもに、導師に依拠した者であり、二者ともどもに、住多き者であり、二者ともどもに、注視多き者であり、二者ともどもに、学びなき融通無礙を得た者であるとして、一者は、弟子の最奥義を得た者であり、一者は、独正覚者である。彼が、独正覚者であるなら、彼は、それによって、超過の者と成り、増上の者と成り、殊勝の者と成る。彼の知慧は、細別される。

 [1784]しかして、独覚と〔比較して〕、さらには、天〔界〕を含む世〔の人々〕と比較して、阿羅漢にして正自覚者たる如来は、至高の者となり、融通無礙を得た者となり、知慧の細別に巧みな智ある者となり、細別された知恵ある者となり、融通無礙に到達した者となり、四つの離怖を得た者となり、十の力を保持する者となり、人のなかの雄牛たる者となり、人のなかの獅子たる者となり……略……すなわち、また、彼らが、士族の賢者たちが、婆羅門の賢者たちが、家長の賢者たちが、沙門の賢者たちが、精緻の者たちとして、他の異論を為した者たちとして、毛を貫く形質の者たちとして、思うに、知慧を具したことで、諸々の悪しき見解を破り去りつつ〔世を〕歩むとして、彼らは、問いを準備しては準備して、如来のもとへと近しく赴いて、しかして、諸々の秘密にされたものを、【204】さらには、諸々の隠蔽されたものを、問い尋ねる。それらの問いは、世尊によって、言説され、さらには、回答され、〔問い尋ねの〕契機が釈示されたものと成る。しかして、商売人(質問者)たちは、それら〔の問い〕を、世尊のために成就する。しかして、まさに、世尊は、そこにおいて、輝きまさる――すなわち、これ、知慧によって――ということで、至高の者となり、融通無礙を得た者となる。ということで――

 [1785]大いなる知慧についての言説は、〔以上で〕終了した。


3.2 神通についての言説


9.


 [1786]【205】何が、神通であるのか。どれだけの、神通があるのか。神通には、どれだけの境地があり、どれだけの足場があり、どれだけの境処があり、どれだけの根元があるのか。「何が、神通であるのか」とは、実現(イッジャナ)の義(意味)によって、神通(イッディ)となる。「どれだけの、神通があるのか」とは、十の神通がある。「神通には、どれだけの境地があり、〔どれだけの足場があり、どれだけの境処があり、どれだけの根元があるのか〕」とは、神通には、四つの境地があり、四つの足場があり、八つの境処があり、十六の根元がある。

 [1787]どのようなものが、十の神通であるのか。(1)確立の神通、(2)変異の神通、(3)意によって作られる神通、(4)知恵の充満の神通、(5)〔心の〕統一の充満の神通、(6)聖者の神通、(7)行為の報い(業報)から生じる神通、(8)功徳者の神通、(9)明呪(呪文)によって作られる神通、(10)そこかしこにおいて正しい専念の縁あることから、実現の義(意味)によって、神通である。

 [1788]神通には、どのような四つの境地があるのか。(1)遠離から生じる境地たる第一の瞑想、(2)喜悦と安楽の境地たる第二の瞑想、(3)放捨と安楽の境地たる第三の瞑想、(4)苦でもなく楽でもない境地たる第四の瞑想である。神通には、これらの四つの境地がある。〔それらは〕神通の得のために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために〔等しく転起し〕、神通の変異たることのために〔等しく転起し〕、神通の発出たることのために〔等しく転起し〕、神通の自在の状態のために〔等しく転起し〕、神通の離怖のために等しく転起する、と〔知られるべきである〕。

 [1789]神通には、どのような四つの足場があるのか。ここに、比丘が、(1)欲〔の思い〕(意欲)による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(2)心による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(3)精進による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(4)考察による〔心の〕統一と〔正しい〕精励としての諸々の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行する。神通には、これらの四つの境地がある。〔それらは〕神通の得のために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために〔等しく転起し〕、神通の変異たることのために〔等しく転起し〕、神通の発出たることのために〔等しく転起し〕、神通の自在の状態のために〔等しく転起し〕、神通の離怖のために等しく転起する、と〔知られるべきである〕。

 [1790]神通には、どのような八つの境処があるのか。もし、【206】比丘が、欲〔の思い〕に依拠して、〔心の〕統一を得、心の一境性を得るなら、(1)欲〔の思い〕は、〔心の〕統一ではなく、(2)〔心の〕統一は、欲〔の思い〕ではない。他なるものとして、欲〔の思い〕があり、他なるものとして、〔心の〕統一がある(両者は別個のものである)。もし、比丘が、精進に依拠して、〔心の〕統一を得、心の一境性を得るなら、(3)精進は、〔心の〕統一ではなく、(4)〔心の〕統一は、精進ではない。他なるものとして、精進があり、他なるものとして、〔心の〕統一がある。もし、比丘が、心に依拠して、〔心の〕統一を得、心の一境性を得るなら、(5)心は、〔心の〕統一ではなく、(6)〔心の〕統一は、心ではない。他なるものとして、心があり、他なるものとして、〔心の〕統一がある。もし、比丘が、考察に依拠して、〔心の〕統一を得、〔彼は〕心の一境性を得るなら、(7)考察は、〔心の〕統一ではなく、(8)〔心の〕統一は、考察ではない。他なるものとして、考察があり、他なるものとして、〔心の〕統一がある。神通には、これらの八つの境処がある。〔それらは〕神通の得のために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために〔等しく転起し〕、神通の変異たることのために〔等しく転起し〕、神通の発出たることのために〔等しく転起し〕、神通の自在の状態のために〔等しく転起し〕、神通の離怖のために等しく転起する、と〔知られるべきである〕。

 [1791]神通には、どのような十六の根元があるのか。(1)下向することなき心は、怠慢にたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(2)上向することなき心は、〔心の〕高揚にたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(3)曲がることなき心は、貪欲〔の思い〕に動かない、ということで、不動となる。(4)傾くことなき心は、加害〔の思い〕にたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(5)依存なき心は、見解にたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(6)結縛なき心は、欲〔の思い〕と貪欲〔の思い〕にたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(7)解脱した心は、欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕にたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(8)束縛を離れた心は、〔心の〕汚れにたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(9)制約を離れることを為した心は、〔心の〕汚れの制約にたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(10)一なることを具した心は、種々なることたる〔心の〕汚れにたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(11)信によって遍く収め取られた心は、不信にたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(12)精進によって遍く収め取られた心は、怠慢にたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(13)気づきによって遍く収め取られた心は、放逸にたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(14)〔心の〕統一によって遍く収め取られた心は、〔心の〕高揚にたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(15)知慧によって遍く収め取られた心は、無明にたいし、動揺しない、ということで、不動となる。(16)光輝を具した心は、無明の暗黒にたいし、動揺しない、ということで、不動となる。神通には、これらの十六の根元がある。〔それらは〕神通の得のために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために〔等しく転起し〕、神通の変異たることのために〔等しく転起し〕、神通の発出たることのために〔等しく転起し〕、神通の自在の状態のために〔等しく転起し〕、神通の離怖のために等しく転起する、と〔知られるべきである〕。


3.2.1 十の神通についての釈示


10.


 [1792]【207】(1)どのようなものが、確立の神通であるのか。〔世尊は説く〕「ここに、比丘が、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を経験する(体現する)。〔すなわち〕一なる者として有ってなお、多種なる者と成る。多種なる者として有ってなお、一なる者と成る。明現状態と〔成る〕。超没状態と〔成る〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴く――それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為す――それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴く――それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてであろうが、結跏で進み行く――それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。これらの月と太陽をもまた、〔すなわち〕このように大いなる神通ある〔月と太陽〕を、〔すなわち〕このように大いなる威力ある〔月と太陽〕を、手でもって撫でまわし、擦“さす”りまわす。梵世(梵天界)に至るまでもまた、身体によって自在〔なる状態〕を転起させる」と。

 [1793]「ここに」とは、この見解の、この忍耐(信受)の、この嗜好(意欲)の、この所取〔の経論〕において、この法(教え)において、この律において、この法(教え)と律において、この〔聖典の〕言葉において、この梵行において、この教師の教えにおいて。それによって説かれる。「ここに」と。「比丘」とは、あるいは、善き凡夫と成り、あるいは、学びある比丘と〔成り〕、あるいは、不動の法(真理)ある阿羅漢と〔成る〕。「無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を経験する(体現する)」とは、種々なる流儀の神通の種類を経験する。「一なる者として有ってなお、多種なる者と成る」とは、〔生来の〕性向によっては一なる者が、多なるものに〔心を〕傾注し、あるいは、百〔の身体〕に、あるいは、千〔の身体〕に、あるいは、百千〔の身体〕に、〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「〔わたしは〕多なる者と成るのだ」と。〔彼は〕多なるものと成る。尊者チューラ・パンタカが、一なる者として有ってなお、多種なる者と成るように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在を得た者として、一なる者として有ってなお、多種なる者と成る。「多種なる者として有ってなお、一なる者と成る」とは、〔生来の〕性向によっては多なる者が、一なるものに〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「〔わたしは〕一なる者と成るのだ」と。〔彼は〕一なるものと成る。尊者チューラ・パンタカが、多種なる者として有ってなお、一なる者と成るように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在を得た者として、多種なる者として有ってなお、一なる者と成る。


11.


 [1794]「明現状態と〔成る〕」とは、何によってであれ、覆われていないものと成り、隠されていないものと〔成り〕、開かれたものと〔成り〕、明白なるものと〔成る〕。「超没状態と〔成る〕」とは、何によってであれ、覆われたものと成り、隠されたものと〔成り〕、塞がれたものと〔成り〕、覆い包まれたものと〔成る〕。【208】「壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴く――それは、たとえば、また、虚空にあるかのように」とは、〔生来の〕性向によって、虚空の遍満への入定の得者と成り、壁を超え、垣を超え、山を超えることに、〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「虚空と成れ」と。〔それは〕虚空と成る。〔彼は〕壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴く。〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、何によってであれ、覆われていないものにおいて、囲まれていないものにおいて、着することなく赴くように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在を得た者として、壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴く――それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。

 [1795]「地のなかであろうが、出没することを為す――それは、たとえば、また、水にあるかのように」とは、〔生来の〕性向によって、水の遍満への入定の得者と成り、地に〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「水と成れ」と。〔地は〕水と成る。彼は、地のなかで出没することを為す。〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、水のなかで出没することを為すように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在を得た者として、地のなかで出没することを為す――それは、たとえば、また、水にあるかのように。

 [1796]「水のうえであろうが、沈むことなく赴く――それは、たとえば、また、地にあるかのように」とは、〔生来の〕性向によって、地の遍満への入定の得者と成り、水に〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「地と成れ」と。〔水は〕地と成る。彼は、水のうえで沈むことなく赴く。〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、地のうえで沈むことなく赴くように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在を得た者として、水のうえで沈むことなく赴く――それは、たとえば、また、地にあるかのように。

 [1797]「虚空においてであろうが、結跏で進み行く――それは、たとえば、また、翼ある鳥のように」とは、〔生来の〕性向によって、地の遍満への入定の得者と成り、虚空に〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「地と成れ」と。〔虚空は〕地と成る。彼は、虚空において、空中において、歩行もまたし、立ちもまたし、坐しもまたし、臥所を営みもまたする。〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、地において、歩行もまたし、立ちもまたし、坐しもまたし、臥所を営みもまたするように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在を得た者として、虚空において、空中において、歩行もまたし、立ちもまたし、坐しもまたし、臥所を営みもまたする――それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。


12.


 [1798]「これらの月と太陽をもまた、〔すなわち〕このように大いなる神通ある〔月と太陽〕を、〔すなわち〕このように大いなる威力ある〔月と太陽〕を、手でもって撫でまわし、擦りまわす」とは、ここに、彼が、神通者として、【209】心の自在を得た者として、あるいは、坐した者として、あるいは、横になった者として、月と太陽に〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「手近に有れ」と。〔月と太陽は〕手近に有る。彼は、あるいは、坐した者として、あるいは、横になった者として、月と太陽を、手でもって撫で、撫でまわし、擦りまわす。〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、まさしく、何であれ、形態を具したものを、手近において、撫で、撫でまわし、擦りまわするように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在を得た者として、あるいは、坐した者として、あるいは、横になった者として、月と太陽を、手でもって撫で、撫でまわし、擦りまわす。

 [1799]「梵世(梵天界)に至るまでもまた、身体によって自在〔なる状態〕を転起させる」とは、それで、もし、彼が、神通者として、心の自在を得た者として、梵世に赴くことを欲する者と成るなら、遠方にあるもまた、現前に〔心を〕確立する。「現前に有れ」と。〔それは〕現前に有る。現前にあるもまた、遠方に〔心を〕確立する。「遠方に有れ」と。〔それは〕遠方に有る。多きものをもまた、少なきものに〔心を〕確立する。「少なきものと成れ」と。〔それは〕少なきものと成る。少なきものをもまた、多きものに〔心を〕確立する。「多きものと成れ」と。〔それは〕多きものと成る。天眼によって、その梵〔天〕の形態を見る。天耳の界域によって、その梵〔天〕の音声を聞く。〔他者の〕心を探知する知恵によって、その梵〔天〕の心を覚知する。それで、もし、彼が、神通者として、心の自在を得た者として、見られつつある身体(可見の身体)で梵世に赴くことを欲する者と成るなら、身体の自在によって心を変化させ、身体の自在によって心を確立する。身体の自在によって心を変化させて、身体の自在によって心を確立して、安楽の表象と軽快の表象とに入って、見られつつある身体で梵世に赴く。それで、もし、彼が、神通者として、心の自在を得た者として、見られることなき身体(不可見の身体)で梵世に赴くことを欲する者と成るなら、心の自在によって身体を変化させ、心の自在によって身体を確立する。心の自在によって身体を変化させて、心の自在によって身体を確立して、安楽の表象と軽快の表象とに入って、見られることなき身体で梵世に赴く。彼は、その梵〔天〕の前に、〔自己の〕形態を化作する――意によって作られるものにして、一切の手足や肢体があり、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。それで、もし、彼が、神通者として、〔人間の界域で〕歩行するなら、化作された〔形態〕もまた、そこ(梵天界)において、歩行する。それで、もし、彼が、神通者として、〔人間の界域で〕立つなら、化作された〔形態〕もまた、そこ(梵天界)において、立つ。それで、もし、彼が、神通者として、〔人間の界域で〕坐すなら、化作された〔形態〕もまた、そこ(梵天界)において、坐す。それで、もし、彼が、神通者として、臥所を営むなら、化作された〔形態〕もまた、【210】そこ(梵天界)において、臥所を営む。それで、もし、彼が、神通者として、煙を出すなら、化作された〔形態〕もまた、そこ(梵天界)において、煙を出す。それで、もし、彼が、神通者として、火を放つむなら、化作された〔形態〕もまた、そこ(梵天界)において、火を放つ。それで、もし、彼が、神通者として、法(教え)を語るなら、化作された〔形態〕もまた、そこ(梵天界)において、法(教え)を語る。それで、もし、彼が、神通者として、問いを問うなら、化作された〔形態〕もまた、そこ(梵天界)において、問いを問う。それで、もし、彼が、神通者として、問いを問われた者として答えるなら、化作された〔形態〕もまた、そこ(梵天界)において、問いを問われた者として答える。それで、もし、彼が、神通者として、その梵〔天〕と共に立ち、語り合い、論談に入るなら、化作された〔形態〕もまた、そこ(梵天界)において、その梵〔天〕と共に立ち、語り合い、論談に入る。なぜなら、彼が、神通者として為す、まさしく、そのこと、そのことは、まさしく、そのこと、そのことを、彼は、化作された〔形態〕として為すからである。ということで、これが、確立の神通である。


13.


 [1800](2)どのようなものが、変異の神通であるのか。阿羅漢にして正自覚者たるシキン世尊の、アビブーという名の弟子は、梵世に止住している者でありながら、千世界に、声をもって教授した。彼は、見られつつある身体(可見の身体)によってもまた、法(教え)を説示し、見られることなき身体(不可見の身体)によってもまた、法(教え)を説示し、下が見られつつある半分の身体によってもまた、〔すなわち〕上が見られることなき半分の身体によってもまた、法(教え)を説示し、上が見られつつある半分の身体によってもまた、〔すなわち〕下が見られることなき半分の身体によってもまた、法(教え)を説示する。彼は、〔生来の〕性向の色艶“すがた”を捨棄して、あるいは、少年の色艶を見示し、あるいは、龍の色艶を見示し、あるいは、金翅鳥の色艶を見示し、あるいは、夜叉の色艶を見示し、あるいは、インダ(インドラ神)の色艶を見示し、あるいは、天〔の神〕の色艶を見示し、あるいは、梵〔天〕の色艶を見示し、あるいは、海の色艶を見示し、あるいは、山の色艶を見示し、あるいは、林の色艶を見示し、あるいは、獅子の色艶を見示し、あるいは、虎の色艶を見示し、あるいは、豹の色艶を見示し、象〔兵〕をもまた見示し、馬〔兵〕をもまた見示し、車〔兵〕をもまた見示し、歩〔兵〕をもまた見示し、様々な種類の軍団の軍勢をもまた見示する。ということで、これが、変異の神通である。


14.


 [1801](3)どのようなものが、意によって作られる神通であるのか。ここに、比丘が、この身体から、他の身体を化作する――形態あるものとして、意によって作られるものにして、【211】一切の手足や肢体があり、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。それは、たとえば、人が、ムンジャ〔草〕から、葦を取り出すなら、彼には、このような〔思いが〕存するであろう。〔すなわち〕「これは、ムンジャ〔草〕である。これは、葦である。他なるものとして、ムンジャ〔草〕があり、他なるものとして、葦がある。まさしく、しかるに、ムンジャ〔草〕から、葦が取り出された」と。あるいは、また、それは、たとえば、人が、剣を、鞘から取り出すなら、彼には、このような〔思いが〕存するであろう。〔すなわち〕「これは、剣である。これは、鞘である。他なるものとして、剣があり、他なるものとして、鞘がある。まさしく、しかるに、鞘から、剣が取り出された」と。あるいは、また、それは、たとえば、人が、蛇を、脱け殻から引き抜くなら、彼には、このような〔思いが〕存するであろう。〔すなわち〕「これは、蛇である。これは、脱け殻である。他なるものとして、蛇があり、他なるものとして、脱け殻がある。まさしく、しかるに、脱け殻から、蛇が引き抜かれた」と。まさしく、このように、比丘が、この身体から、他の身体を化作する――形態あるものとして、意によって作られるものにして、一切の手足や肢体があり、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。これが、意によって作られる神通である。


15.


 [1802](4)どのようなものが、知恵の充満の神通であるのか。無常の随観によって、常住の表象の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、知恵の充満の神通となる。苦痛の随観によって、安楽の表象の……。無我の随観によって、自己の表象の……。厭離の随観によって、喜悦の……。離貪の随観によって、貪欲の……。止滅の随観によって、集起の……。放棄の随観によって、執取の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、知恵の充満の神通となる。尊者バークラのばあいの、知恵の充満の神通である。尊者サンキッチャのばあいの、知恵の充満の神通である。尊者ブータパーラのばあいの、知恵の充満の神通である。これが、知恵の充満の神通である。


16.


 [1803](5)どのようなものが、〔心の〕統一の充満の神通であるのか。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、〔心の〕統一の充満の神通となる。第二の瞑想によって、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、〔心の〕統一の充満の神通となる。第三の瞑想によって、喜悦の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで……略……。第四の瞑想によって、楽と苦の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで……略……。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、形態の表象の、障礙の表象の、種々なることの表象の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで……略……。識別無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで……略……。無所有なる〔認識の〕場所への入定によって、識別無辺なる〔認識の〕場所の表象の、【212】捨棄という義(目的)が実現する、ということで……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によって、無所有なる〔認識の〕場所の表象の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、〔心の〕統一の充満の神通となる。尊者サーリプッタのばあいの、〔心の〕統一の充満の神通である。尊者サンジーヴァのばあいの、尊者カーヌコンダンニャのばあいの、ウッタラー女性在俗信者のばあいの、サーマーヴァティー女性在俗信者のばあいの、〔心の〕統一の充満の神通である。これが、〔心の〕統一の充満の神通である。


17.


 [1804](6)どのようなものが、聖者の神通であるのか。ここに、比丘が、彼が、もし、「嫌悪なるものにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として、〔世に〕住むのだ」と望むなら、そこにおいて、〔彼は〕嫌悪ならざる表象ある者として、〔世に〕住み、彼が、もし、「嫌悪ならざるものにおいて、嫌悪なる表象ある者として、〔世に〕住むのだ」と望むなら、そこにおいて、〔彼は〕嫌悪なる表象ある者として、〔世に〕住み、彼が、もし、「嫌悪なるものにおいても、嫌悪ならざるものにおいても、嫌悪ならざる表象ある者として、〔世に〕住むのだ」と望むなら、そこにおいて、〔彼は〕嫌悪ならざる表象ある者として、〔世に〕住み、彼が、もし、「嫌悪ならざるものにおいても、嫌悪なるものにおいても、嫌悪なる表象ある者として、〔世に〕住むのだ」と望むなら、そこにおいて、〔彼は〕嫌悪なる表象ある者として、〔世に〕住み、彼が、もし、「嫌悪なるものにおいても、嫌悪ならざるものにおいても、その両者を回避して、放捨の者として、気づきと正知の者として、〔世に〕住むのだ」と望むなら、そこにおいて、〔彼は〕放捨の者として、気づきと正知の者として、〔世に〕住む。

 [1805]どのように、嫌悪なるものにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として、〔世に〕住むのか。好ましくない事物にたいし、あるいは、慈愛〔の心〕で充満し、あるいは、〔四つの〕界域(地・水・火・風)〔の観点〕から〔心を〕近しく集中する。このように、嫌悪なるものにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として、〔世に〕住む。

 [1806]どのように、嫌悪ならざるものにおいて、嫌悪なる表象ある者として、〔世に〕住むのか。好ましい事物にたいし、あるいは、不浄〔の表象〕で充満し、あるいは、無常〔の観点〕から〔心を〕近しく集中する。このように、嫌悪ならざるものにおいて、嫌悪なる表象ある者として、〔世に〕住む。

 [1807]どのように、嫌悪なるものにおいても、嫌悪ならざるものにおいても、嫌悪ならざる表象ある者として、〔世に〕住むのか。好ましくない事物にたいしても、好ましい事物にたいしても、あるいは、慈愛〔の心〕で充満し、あるいは、〔四つの〕界域〔の観点〕から〔心を〕近しく集中する。このように、嫌悪なるものにおいても、嫌悪ならざるものにおいても、嫌悪ならざる表象ある者として、〔世に〕住む。

 [1808]どのように、嫌悪ならざるものにおいても、嫌悪なるものにおいても、嫌悪なる表象ある者として、〔世に〕住むのか。好ましい事物にたいしても、好ましくない事物にたいしても、あるいは、不浄〔の表象〕で充満し、あるいは、無常〔の観点〕から〔心を〕近しく集中する。このように、嫌悪ならざるものにおいても、嫌悪なるものにおいても、嫌悪なる表象ある者として、〔世に〕住む。

 [1809]どのように、嫌悪なるものにおいても、嫌悪ならざるものにおいても、その両者を回避して、【213】放捨の者として、気づきと正知の者として、〔世に〕住むのか。ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成ることもなければ、失意の者と〔成ることも〕なく、放捨の者として、気づきと正知の者として、〔世に〕住み、耳によって、音声を聞いて……略……鼻によって、臭香を嗅いで……舌によって、味感を味わって……身によって、感触と接触して……意によって、法(意の対象)を識別して、まさしく、悦意の者と成ることもなければ、失意の者と〔成ることも〕なく、放捨の者として、気づきと正知の者として、〔世に〕住む。このように、嫌悪なるものにおいても、嫌悪ならざるものにおいても、その両者を回避して、放捨の者として、気づきと正知の者として、〔世に〕住む。これが、聖者の神通である。


18.


 [1810](7)どのようなものが、行為の報い(業報)から生じる神通であるのか。一切の鳥たちのばあいの、一切の天〔の神々〕たちのばあいの、一部の人間たちのばあいの、一部の堕所にある者たちのばあいの、〔神通である〕。これが、行為の報いから生じる神通である。

[1811](8)どのようなものが、功徳者の神通であるのか。転輪王が、四支の軍団と共に、もしくは、馬卒や牛卒の人たちを加え含めて、宙を行く、〔神通である〕。ジョーティカ家長のばあいの、功徳者の神通である。ジャティラ家長のばあいの、功徳者の神通である。メンダカ家長のばあいの、功徳者の神通である。ゴーシタ家長のばあいの、功徳者の神通である。五者の大功徳ある者たちのばあいの、功徳者の神通である。これが、功徳者の神通である。

[1812](9)どのようなものが、明呪(呪文)によって作られる神通であるのか。明呪の保持者たちが、明呪を呟いて宙を行き、虚空において、空中において、象〔兵〕をもまた見示し、馬〔兵〕をもまた見示し、車〔兵〕をもまた見示し、歩〔兵〕をもまた見示し、様々な種類の軍団の軍勢をもまた見示する。これが、明呪によって作られる神通である。

[1813](10)どのように、そこかしこにおいて正しい専念の縁あることから、実現の義(意味)によって、神通となるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、そこかしこにおいて正しい専念の縁あることから、実現の義(意味)によって、【214】神通となる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、そこかしこにおいて正しい専念の縁あることから、実現の義(意味)によって、神通となる……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、そこかしこにおいて正しい専念の縁あることから、実現の義(意味)によって、神通となる。このように、そこかしこにおいて正しい専念の縁あることから、実現の義(意味)によって、神通となる。これらが、十の神通である。

 [1814]神通についての言説は、〔以上で〕終了した。


3.3 〔法の〕知悉についての言説


19.


 [1815]【215】「知悉(現観)」とは、何によって、知悉するのか。心によって、知悉する。

 [1816]では、もし、知恵によって、〔彼が〕知悉するなら、まさに、それならば、〔彼は〕知恵なき者として知悉するのか。〔彼は〕知恵なき者として知悉するにあらず。知恵によって、〔彼は〕知悉する。

 [1817]では、もし、知恵によって、〔彼が〕知悉するなら、まさに、それならば、しかして、心なきによって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕心なき者として知悉するのか。〔彼は〕心なき者として知悉するにあらず。しかして、心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉する。

 [1818]では、もし、しかして、心によって、かつまた、知恵によって、〔彼が〕知悉するなら、まさに、それならば、しかして、欲望の行境(欲界)の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。しかして、欲望の行境の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 [1819]まさに、それならば、しかして、形態の行境(色界)の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。しかして、形態の行境の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 [1820]まさに、それならば、しかして、形態なき行境(無色界)の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。しかして、形態なき行境の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 [1821]まさに、それならば、しかして、行為を自らのものとする心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。しかして、行為を自らのものとする心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 [1822]まさに、それならば、しかして、真理に随順する心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。しかして、真理に随順する心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 [1823]まさに、それならば、しかして、過去の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。しかして、過去の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 [1824]まさに、それならば、しかして、未来の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。しかして、未来の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 [1825]まさに、それならば、しかして、現在の世〔俗〕の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。しかして、現在の世〔俗〕の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。世〔俗〕を超える道の瞬間において、しかして、現在の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉する。

 [1826]どのように、世〔俗〕を超える道の瞬間において、しかして、現在の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。世〔俗〕を超える道の瞬間において、生起を優位主要性とする心が、知恵にとっての、因となり、さらには、縁となり、それと結び付いた【216】心が、止滅を境涯とするものとなり、〔あるがままの〕見を優位主要性とする、知恵が、心にとっての、因となり、さらには、縁となり、それと結び付いた知恵が、止滅を境涯とするものとなる。このように、世〔俗〕を超える道の瞬間において、しかして、現在の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉する。


20.


 [1827]いったい、どうして、まさしく、これだけが、知悉となるのか、と〔問うなら〕、まさに、〔そのようなことは〕ない、〔と答える〕。世〔俗〕を超える道の瞬間において、正しい見解が、〔あるがままの〕見の知悉となり、正しい思惟が、〔正しく心を〕固定することの知悉となり、正しい言葉が、遍き収取の知悉となり、正しい生業が、等しく現起するものの知悉となり、正しい生き方が、浄化するものの知悉となり、正しい努力が、励起の知悉となり、正しい気づきが、現起の知悉となり、正しい〔心の〕統一が、〔心の〕散乱なきの知悉となり、気づきという正覚の支分が、現起の知悉となり、法(真理)の判別という正覚の支分が、考究の知悉となり、精進という正覚の支分が、励起の知悉となり、喜悦という正覚の支分が、充満の知悉となり、安息という正覚の支分が、寂止の知悉となり、〔心の〕統一という正覚の支分が、〔心の〕散乱なきの知悉となり、放捨という正覚の支分が、審慮の知悉となり、信の力が、不信にたいする、不動の知悉となり、精進の力が、怠慢にたいする、不動の知悉となり、気づきの力が、放逸にたいする、不動の知悉となり、〔心の〕統一の力が、〔心の〕高揚にたいする、不動の知悉となり、知慧の力が、無明にたいする、不動の知悉となり、信の機能が、信念の知悉となり、精進の機能が、励起の知悉となり、気づきの機能が、現起の知悉となり、〔心の〕統一の機能が、〔心の〕散乱なきの知悉となり、知慧の機能が、〔あるがままの〕見の知悉となり、優位主要性の義(意味)によって、〔五つの〕機能の知悉となり、不動の義(意味)によって、〔五つの〕力の知悉となり、出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分の知悉となり、因の義(意味)によって、〔八つの聖なる〕道の知悉となり、現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立の知悉となり、精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励の知悉となり、実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場の知悉となり、真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理の知悉となり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、〔心の〕寂止の知悉となり、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察の知悉となり、一味の義(意味)によって、〔心の〕寂止と〔あるがままの〕観察の知悉となり、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の寂止とあるがままの観察)の知悉となり、統御の義(意味)によって、戒の清浄の知悉となり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄の知悉となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄の知悉となり、解き放ちの義(意味)によって、解脱の知悉となり、理解の義(意味)によって、明知の知悉となり、遍捨の義(意味)によって、解脱の知悉となり、断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵の知悉となり、欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、知悉となり、意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、知悉となり、接触が、結集の義(意味)によって、知悉となり、感受が、集結の義(意味)によって、知悉となり、〔心の〕統一が、面前の義(意味)によって、【217】知悉となり、気づきが、優位主要性の義(意味)によって、知悉となり、知慧が、それをより上とするの義(意味)によって、知悉となり、解脱が、真髄の義(意味)によって、知悉となり、不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、知悉となる。


21.


 [1828]いったい、どうして、まさしく、これだけが、知悉となるのか、と〔問うなら〕、まさに、〔そのようなことは〕ない、〔と答える〕。預流道の瞬間において、正しい見解が、〔あるがままの〕見の知悉となり……略……不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、知悉となる。

 [1829]いったい、どうして、まさしく、これだけが、知悉となるのか、と〔問うなら〕、まさに、〔そのようなことは〕ない、〔と答える〕。預流果の瞬間において、正しい見解が、〔あるがままの〕見の知悉となり……略……静息の義(意味)によって、生起なきについての知恵の知悉となり、欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、知悉となり……略……不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、知悉となる。

 [1830]いったい、どうして、まさしく、これだけが、知悉となるのか、と〔問うなら〕、まさに、〔そのようなことは〕ない、〔と答える〕。一来道の瞬間において……略……。一来果の瞬間において……。不還道の瞬間において……。不還果の瞬間において……。阿羅漢道の瞬間において……略……。阿羅漢果の瞬間において、正しい見解が、〔あるがままの〕見の知悉となり、正しい思惟が、〔正しく心を〕固定することの知悉となり……略……静息の義(意味)によって、生起なきについての知恵の知悉となり、欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、知悉となり……略……不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、知悉となる。

 [1831]〔まさに〕その、この者が、諸々の〔心の〕汚れを捨棄するとして、〔彼は〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄するのか、〔彼は〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄するのか、〔彼は〕諸々の現在の〔心の〕汚れを捨棄するのか。〔彼は〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄する、ということで、では、もし、〔彼が〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄するなら、まさに、それならば、〔すでに〕滅尽したものを滅尽させ、〔すでに〕止滅したものを止滅させ、〔すでに〕離れ去ったものを離れ去らせ、〔すでに〕滅却に至ったものを滅却に至らせることになる。それが、過去のものであるなら、〔もはや〕存在せず、その〔存在しないもの〕を捨棄することになるのでは、と〔問うなら〕、〔彼は〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄しない、と〔答える〕。〔彼は〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄する、ということで、では、もし、〔彼が〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄するなら、まさに、それならば、〔いまだ〕生じていないものを捨棄し、〔いまだ〕発現していないものを捨棄し、〔いまだ〕生起していないものを捨棄し、〔いまだ〕出現していないものを捨棄することになる。それが、未来のものであるなら、〔いまだ〕存在せず、その〔存在しないもの〕を捨棄することになるのでは、と〔問うなら〕、〔彼は〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄しない、と〔答える〕。〔彼は〕諸々の現在の〔心の〕汚れを捨棄する、ということで、では、もし、〔彼が〕諸々の現在の〔心の〕汚れを捨棄するなら、まさに、それならば、貪りある者が、貪欲を捨棄することになり、怒りある者が、憤怒を捨棄することになり、迷いある者が、迷妄を捨棄することになり、結縛ある者が、思量を捨棄することになり、執着ある者が、見解を捨棄することになり、〔心の〕散乱へと赴いた者が、高揚を捨棄することになり、究極〔の境地〕に至らざる者が、疑惑を捨棄することになり、〔悪習を〕強く具した者が、悪習を捨棄することになり、黒白の〔二つの〕法(性質)が、双連のものとして【218】転起することになり、〔聖者の〕道の修行が、汚染(雑汚)のものと成るのでは、〔と問うなら〕――

 [1832]まさに、〔彼は〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄せず、〔彼は〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄せず、〔彼は〕諸々の現在の〔心の〕汚れを捨棄しない、と〔答える〕。では、もし、〔彼が〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄せず……略……〔彼が〕諸々の現在の〔心の〕汚れを捨棄しないなら、まさに、それならば、〔聖者の〕道の修行が存在しないことになり、〔聖者の〕果の実証が存在しないことになり、〔心の〕汚れの捨棄が存在しないことになり、法(性質)の知悉が存在しないことになるのでは、と〔問うなら〕、〔聖者の〕道の修行は存在し、〔聖者の〕果の実証は存在し、〔心の〕汚れの捨棄は存在し、法(性質)の知悉は存在する、〔と答える〕。どのように、そのようなことになるのか。それは、たとえば、また、〔いまだ〕果が生じていない若木があり、〔まさに〕その、この根を、人が切断するとして、その木の〔いまだ〕生じていない、それらの果であるが、それらは、まさしく、〔いまだ〕生じていないものであり、〔もはや〕生じることはなく、まさしく、〔いまだ〕発現していないものであり、〔もはや〕発現することはなく、まさしく、〔いまだ〕生起していないものであり、〔もはや〕生起することはなく、まさしく、〔いまだ〕出現していないものであり、〔もはや〕出現することはない。まさしく、このように、「諸々の〔心の〕汚れの発現にとって、生起は因であり、生起は縁である」と、生起における危険を見て、心は、生起なきに跳入する。生起なきに心が跳入したことから、生起の縁あるものとして〔いずれ〕発現するであろう、それらの〔心の〕汚れであるが、それらは、まさしく、〔いまだ〕生じていないものであり、〔もはや〕生じることはなく、まさしく、〔いまだ〕発現していないものであり、〔もはや〕発現することはなく、まさしく、〔いまだ〕生起していないものであり、〔もはや〕生起することはなく、まさしく、〔いまだ〕出現していないものであり、〔もはや〕出現することはない。このように、「因の止滅あることから、苦の止滅がある。諸々の〔心の〕汚れの発現にとって、転起されたものは因であり、形相は因であり、実行(業を作ること)は因であり、実行は縁である」と、実行における危険を見て、心は、実行なきに跳入する。実行なきに心が跳入したことから、実行の縁あるものとして〔いずれ〕発現するであろう、それらの〔心の〕汚れであるが、それらは、まさしく、〔いまだ〕生じていないものであり、〔もはや〕生じることはなく、まさしく、〔いまだ〕発現していないものであり、〔もはや〕発現することはなく、まさしく、〔いまだ〕生起していないものであり、〔もはや〕生起することはなく、まさしく、〔いまだ〕出現していないものであり、〔もはや〕出現することはないこのように、因の止滅あることから、苦の止滅がある。このように、〔聖者の〕道の修行は存在し、〔聖者の〕果の実証は存在し、〔心の〕汚れの捨棄は存在し、法(性質)の知悉は存在する。ということで――

 [1833]〔法の〕知悉についての言説は、〔以上で〕終了した。


3.4 遠離についての言説


22.


 [1834]【219】サーヴァッティの因縁となる。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、力をもって為されるべき生業が為されるなら、それらは、〔その〕全てが、地に依拠して、地において確立して〔そののち〕、このように、これらの力をもって為されるべき生業が為されるように、比丘たちよ、まさしく、このように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して〔そののち〕、聖なる八つの支分ある道を修行し、聖なる八つの支分ある道を多く為す。

 [1835]比丘たちよ、しからば、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して〔そののち〕、聖なる八つの支分ある道を修行し、聖なる八つの支分ある道を多く為すのか。比丘たちよ、ここに、比丘が、正しい見解を、遠離に依拠したものとして、離貪に依拠したものとして、止滅に依拠したものとして、放棄へと変化するものとして、修行し、正しい思惟を……略……正しい言葉を……正しい生業を……正しい生き方を……正しい努力を……正しい気づきを……正しい〔心の〕統一を、遠離に依拠したものとして、離貪に依拠したものとして、止滅に依拠したものとして、放棄へと変化するものとして、修行する。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して〔そののち〕、聖なる八つの支分ある道を修行し、聖なる八つの支分ある道を多く為す。


23.


 [1836]比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、種の群落や生類の群落が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するなら、それらは、〔その〕全てが、地に依拠して、地において確立して〔そののち〕、このように、これらの種の群落や生類の群落が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して〔そののち〕、聖なる八つの支分ある道を修行しつつ、聖なる八つの支分ある道を多く為しつつ、諸々の法(教え)において、増大を〔得〕、成長を〔得〕、広大を得る。

 [1837]比丘たちよ、しからば、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して〔そののち〕、【220】聖なる八つの支分ある道を修行しつつ、聖なる八つの支分ある道を多く為しつつ、諸々の法(教え)において、増大を〔得〕、成長を〔得〕、広大を得るのか。比丘たちよ、ここに、比丘が、正しい見解を、遠離に依拠したものとして、離貪に依拠したものとして、止滅に依拠したものとして、放棄へと変化するものとして、修行し、正しい思惟を……略……正しい言葉を……正しい生業を……正しい生き方を……正しい努力を……正しい気づきを……正しい〔心の〕統一を、遠離に依拠したものとして、離貪に依拠したものとして、止滅に依拠したものとして、放棄へと変化するものとして、修行する。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して〔そののち〕、聖なる八つの支分ある道を修行しつつ、聖なる八つの支分ある道を多く為しつつ、諸々の法(教え)において、増大を〔得〕、成長を〔得〕、広大を得る」と。


3.4.1 道の支分についての釈示


24.


 [1838]正しい見解には、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。正しい思惟には……略……。正しい言葉には……。正しい生業には……。正しい生き方には……。正しい努力には……。正しい気づきには……。正しい〔心の〕統一には、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。

 [1839]正しい見解には、どのような五つの遠離があるのか。鎮静の遠離、置換の遠離、断絶の遠離、静息の遠離、出離の遠離である。しかして、第一の瞑想を修行している者には、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の遠離がある。しかして、洞察を部分とする〔心の〕統一を修行している者には、諸々の悪しき見解の、置換の遠離がある。しかして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行している者には、断絶の遠離がある。しかして、果の瞬間において、静息の遠離がある。しかして、止滅の涅槃としての、出離の遠離がある。正しい見解には、これらの五つの遠離がある。これらの五つの遠離について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。

 [1840]正しい見解には、どのような五つの離貪があるのか。鎮静の離貪、置換の離貪、断絶の離貪、静息の離貪、出離の離貪である。しかして、第一の瞑想を修行している者には、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の離貪がある。しかして、洞察を部分とする〔心の〕統一を修行している者には、諸々の悪しき見解の、置換の離貪がある。しかして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行している者には、断絶の離貪がある。しかして、果の瞬間において、静息の離貪がある。しかして、止滅の涅槃としての、出離の離貪がある。正しい見解には、これらの五つの離貪がある。これらの五つの離貪について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。

 [1841]【221】正しい見解には、どのような五つの止滅があるのか。鎮静の止滅、置換の止滅、断絶の止滅、静息の止滅、出離の止滅である。しかして、第一の瞑想を修行している者には、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の止滅がある。しかして、洞察を部分とする〔心の〕統一を修行している者には、諸々の悪しき見解の、置換の止滅がある。しかして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行している者には、断絶の止滅がある。しかして、果の瞬間において、静息の止滅がある。しかして、止滅の涅槃としての、出離の止滅がある。正しい見解には、これらの五つの止滅がある。これらの五つの止滅について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。

 [1842]正しい見解には、どのような五つの放棄があるのか。鎮静の放棄、置換の放棄、断絶の放棄、静息の放棄、出離の放棄である。しかして、第一の瞑想を修行している者には、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の放棄がある。しかして、洞察を部分とする〔心の〕統一を修行している者には、諸々の悪しき見解の、置換の放棄がある。しかして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行している者には、断絶の放棄がある。しかして、果の瞬間において、静息の放棄がある。しかして、止滅の涅槃としての、出離の放棄がある。正しい見解には、これらの五つの放棄がある。これらの五つの放棄について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。正しい見解には、これらの、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。


25.


 [1843]正しい思惟には……略……。正しい言葉には……。正しい生業には……。正しい生き方には……。正しい努力には……。正しい気づきには……。正しい〔心の〕統一には、どのような五つの遠離があるのか。鎮静の遠離、置換の遠離、断絶の遠離、静息の遠離、出離の遠離である。しかして、第一の瞑想を修行している者には、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の遠離がある。しかして、洞察を部分とする〔心の〕統一を修行している者には、諸々の悪しき見解の、置換の遠離がある。しかして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行している者には、断絶の遠離がある。しかして、果の瞬間において、静息の遠離がある。しかして、止滅の涅槃としての、出離の遠離がある。正しい〔心の〕統一には、【222】これらの五つの遠離がある。これらの五つの遠離について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。

 [1844]正しい〔心の〕統一には、どのような五つの離貪があるのか。鎮静の離貪、置換の離貪、断絶の離貪、静息の離貪、出離の離貪である。しかして、第一の瞑想を修行している者には、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の離貪がある。しかして、洞察を部分とする〔心の〕統一を修行している者には、諸々の悪しき見解の、置換の離貪がある。しかして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行している者には、断絶の離貪がある。しかして、果の瞬間において、静息の離貪がある。しかして、止滅の涅槃としての、出離の離貪がある。正しい〔心の〕統一には、これらの五つの離貪がある。これらの五つの離貪について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。

 [1845]正しい〔心の〕統一には、どのような五つの止滅があるのか。鎮静の止滅、置換の止滅、断絶の止滅、静息の止滅、出離の止滅である。しかして、第一の瞑想を修行している者には、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の止滅がある。しかして、洞察を部分とする〔心の〕統一を修行している者には、諸々の悪しき見解の、置換の止滅がある。しかして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行している者には、断絶の止滅がある。しかして、果の瞬間において、静息の止滅がある。しかして、止滅の涅槃としての、出離の止滅がある。正しい〔心の〕統一には、これらの五つの止滅がある。これらの五つの止滅について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。

 [1846]正しい〔心の〕統一には、どのような五つの放棄があるのか。鎮静の放棄、置換の放棄、断絶の放棄、静息の放棄、出離の放棄である。しかして、第一の瞑想を修行している者には、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の放棄がある。しかして、洞察を部分とする〔心の〕統一を修行している者には、諸々の悪しき見解の、置換の放棄がある。しかして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行している者には、断絶の放棄がある。しかして、果の瞬間において、静息の放棄がある。しかして、止滅の涅槃としての、出離の放棄がある。正しい〔心の〕統一には、これらの五つの放棄がある。これらの五つの放棄について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。正しい〔心の〕統一には、これらの、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。


26.


 [1847]「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、力をもって為されるべき生業が為されるなら、それらは、〔その〕全てが、地に依拠して、地において確立して〔そののち〕、このように、これらの力をもって為されるべき生業が為されるように、比丘たちよ、まさしく、このように、比丘は、戒に依拠して、戒において【223】確立して〔そののち〕、七つの覚りの支分を修行し、七つの覚りの支分を多く為す……略……。七つの覚りの支分を修行しつつ、七つの覚りの支分を多く為しつつ、諸々の法(教え)において、増大を〔得〕、成長を〔得〕、広大を得る……略……。五つの力を修行し、五つの力を多く為す……略……。五つの力を修行しつつ、五つの力を多く為しつつ、諸々の法(教え)において、増大を〔得〕、成長を〔得〕、広大を得る……略……。五つの機能を修行し、五つの機能を多く為す……略……。

 [1848]比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、種の群落や生類の群落が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するなら、それらは、〔その〕全てが、地に依拠して、地において確立して〔そののち〕、このように、これらの種の群落や生類の群落が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して〔そののち〕、五つの機能を修行しつつ、五つの機能を多く為しつつ、諸々の法(教え)において、増大を〔得〕、成長を〔得〕、広大を得る。

 [1849]比丘たちよ、しからば、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して〔そののち〕、五つの機能を修行しつつ、五つの機能を多く為しつつ、諸々の法(教え)において、増大を〔得〕、成長を〔得〕、広大を得るのか。比丘たちよ、ここに、比丘が、信の機能を、遠離に依拠したものとして、離貪に依拠したものとして、止滅に依拠したものとして、放棄へと変化するものとして、修行し……略……精進の機能を……略……気づきの機能を……略……〔心の〕統一の機能を……略……知慧の機能を、遠離に依拠したものとして、離貪に依拠したものとして、止滅に依拠したものとして、放棄へと変化するものとして、修行する。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して……略……諸々の法(教え)において、〔増大を得、成長を得、広大を〕得る」と。


3.4.2 機能についての釈示


27.


 [1850]信の機能には、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。精進の機能には……略……。気づきの機能には……略……。〔心の〕統一の機能には……略……。知慧の機能には、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。

 [1851]信の機能には、どのような五つの遠離があるのか。鎮静の遠離、置換の遠離、断絶の遠離、静息の遠離、出離の遠離である。しかして、第一の瞑想を修行している者には、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の遠離がある。しかして、洞察を部分とする〔心の〕統一を修行している者には、諸々の悪しき見解の、置換の遠離がある。しかして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行している者には、断絶の遠離がある。しかして、果の瞬間において、静息の遠離がある。しかして、止滅の涅槃としての、出離の遠離がある。信の機能には、これらの五つの遠離がある。【224】これらの五つの遠離について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、しかして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕……略……。信の機能には、これらの、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。

[1852]精進の機能には……略……。気づきの機能には……略……。〔心の〕統一の機能には……略……。知慧の機能には、どのような五つの遠離があるのか。鎮静の遠離、置換の遠離、断絶の遠離、静息の遠離、出離の遠離である……略……。知慧の機能には、これらの、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。ということで――

 [1853]遠離についての言説は、〔以上で〕終了した。


3.5 性行についての言説


28.


 [1854]【225】「性行」とは、八つの性行がある。振る舞いの道としての性行、〔認識の〕場所としての性行、気づきとしての性行、〔心の〕統一としての性行、知恵としての性行、道としての性行、得としての性行、世の義(利益)としての性行である。

 [1855]「振る舞いの道としての性行」とは、四つの振る舞いの道(行・住・坐・臥)における〔性行である〕。「〔認識の〕場所としての性行」とは、六つの内なると外なる〔認識の〕場所における〔性行である〕。「気づきとしての性行」とは、四つの気づきの確立における〔性行である〕。「〔心の〕統一としての性行」とは、四つの瞑想における〔性行である〕。「知恵としての性行」とは、四つの聖なる真理における〔性行である〕。「道としての性行」とは、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における〔性行である〕。「得としての性行」とは、四つの沙門果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)における〔性行である〕。「世の義(利益)としての性行」とは、阿羅漢にして正自覚者たる如来たちにおける〔性行であり〕、一部の独覚たちにおける〔性行であり〕、一部の弟子たちにおける〔性行である〕。

 [1856]しかして、誓願を成就した者たちには、振る舞いの道としての性行があり、かつまた、〔六つの感官の〕機能において門が守られた者たちには、〔認識の〕場所としての性行があり、かつまた、不放逸に住する者たちには、気づきとしての性行があり、かつまた、向上の心(瞑想)に専念した者たちには、〔心の〕統一としての性行があり、かつまた、覚慧を成就した者たちには、知恵としての性行があり、かつまた、正しく実践した者たちには、道としての性行があり、かつまた、果に到達した者たちには、得としての性行があり、さらには、阿羅漢にして正自覚者たる如来たちには、一部の独覚たちには、一部の弟子たちには、世の義(利益)としての性行がある。これらの八つの性行がある。


29.


 [1857]他にも、また、八つの性行がある。信念している者は、信によって行じおこなう。励起している者は、精進によって行じおこなう。現起させている者は、気づきによって行じおこなう。〔心の〕散乱なきを為している者は、〔心の〕統一によって行じおこなう。覚知している者は、知慧によって行じおこなう。識別している者は、識別〔作用〕の性行によって行じおこなう。このように【226】実践した者に、善なる諸法(性質)が入来させる、ということで、〔認識の〕場所としての性行によって行じおこなう。このように実践した者は、殊勝〔の境地〕に到達する、ということで、殊勝〔の境地〕としての性行によって行じおこなう。これらの八つの性行がある。

 [1858]他にも、また、八つの性行がある。しかして、正しい見解には、〔あるがままの〕見としての性行がある。正しい思惟には、〔正しく心を〕固定することとしての性行がある。正しい言葉には、遍き収取(理解・和合)としての性行がある。正しい生業には、等しく現起するものとしての性行がある。正しい生き方には、浄化するものとしての性行がある。正しい努力には、励起としての性行がある。正しい気づきには、現起としての性行がある。正しい〔心の〕統一には、〔心の〕散乱なきとしての性行がある。これらの八つの性行がある。ということで――

 [1859]性行についての言説は、〔以上で〕終了した。


3.6 神変についての言説


30.


 [1860]【227】「比丘たちよ、三つのものがある。これらの神変である。どのようなものが、三つのものであるのか。神通の神変、指摘の神変、教示の神変である。

 [1861]比丘たちよ、しからば、どのようなものが、神通の神変であるのか。比丘たちよ、ここに、一部の者が、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を経験する(体現する)。〔すなわち〕一なる者として有ってなお、多種なる者と成る。多種なる者として有ってなお、一なる者と成る。明現状態と〔成る〕。超没状態と〔成る〕。壁を超え……略……。梵世(梵天界)に至るまでもまた、身体によって自在〔なる状態〕を転起させる。比丘たちよ、これが、神通の神変と説かれる。

 [1862]比丘たちよ、しからば、どのようなものが、指摘の神変であるのか。比丘たちよ、ここに、一部の者が、形相によって指摘する。『このようにもまた、あなたの意はある。かくもまた、あなたの意はある。かくのごとくもまた、あなたの心はある』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは有る。他なるものにあらず。比丘たちよ、また、ここに、一部の者が、まさに、形相によって指摘することが、まさしく、なく、しかして、また、まさに、あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者たちの、あるいは、天神たちの、声を聞いて指摘する。『このようにもまた、あなたの意はある。かくもまた、あなたの意はある。かくのごとくもまた、あなたの心はある』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは有る。他なるものにあらず。比丘たちよ、また、ここに、一部の者が、まさに、形相によって指摘することが、まさしく、なく、あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者たちの、あるいは、天神たちの、声を聞いて指摘することもまたなく、しかして、また、まさに、思考し想念している者の思考の充満の声を聞いて指摘する。『このようにもまた、あなたの意はある。かくもまた、あなたの意はある。かくのごとくもまた、あなたの心はある』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは有る。他なるものにあらず。比丘たちよ、また、ここに、一部の者が、まさに、形相によって指摘することが、まさしく、なく、あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者たちの、あるいは、天神たちの、声を聞いて指摘することもまたなく、思考し想念している者の思考の充満の声を【228】聞いて指摘することもまたなく、しかして、また、まさに、〔自らの〕心をとおして、思考なく想念なき〔心の〕統一を成就した者の心を探知して、覚知する。『この貴君の、切願するところの諸々の意の形成〔作用〕のとおりに、この心の直後に、〔彼は〕何某という名の思考を思考するであろう』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは有る。他なるものにあらず。比丘たちよ、これが、指摘の神変と説かれる。

 [1863]比丘たちよ、しからば、どのようなものが、教示の神変であるのか。比丘たちよ、ここに、一部の者が、このように教示する。『このように思考せよ。このように思考してはならない。このように意を為せ。このように意を為してはならない。これを捨棄せよ。これを成就して、〔世に〕住め』と。比丘たちよ、これが、教示の神変と説かれる。比丘たちよ、まさに、これらの三つの神変がある」〔と〕。


31.


 [1864]離欲を実現する、ということで、神通となり、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その離欲を具備した者たちであるなら、彼らは、〔その〕全てが、清浄心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その離欲が、このように習修されるべきであり、このように修行されるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとしての気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

[1865]加害〔の思い〕なきを実現する、ということで、神通となり、加害〔の思い〕を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その加害〔の思い〕なきを具備した者たちであるなら、彼らは、〔その〕全てが、清浄心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その加害〔の思い〕なきが、このように習修されるべきであり、このように修行されるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとしての気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

[1866]光明の表象を実現する、ということで、神通となり、〔心の〕沈滞と眠気を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その光明の表象を具備した者たちであるなら、彼らは、〔その〕全てが、清浄心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その光明の表象が、このように習修されるべきであり、このように修行されるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとしての気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

[1867]〔心の〕散乱なきを実現する、ということで、神通となり、〔心の〕高揚を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その〔心の〕散乱なきを具備した者たちであるなら、彼らは、〔その〕全てが、【229】清浄心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その〔心の〕散乱なきが、このように習修されるべきであり、このように修行されるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとしての気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

[1868]法(性質)の〔差異を〕定め置くことを実現する、ということで、神通となり、疑惑〔の思い〕を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その法(性質)の〔差異を〕定め置くことを具備した者たちであるなら、彼らは、〔その〕全てが、清浄心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その法(性質)の〔差異を〕定め置くことが、このように習修されるべきであり、このように修行されるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとしての気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

[1869]知恵を実現する、ということで、神通となり、無明を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その知恵を具備した者たちであるなら、彼らは、〔その〕全てが、清浄心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その知恵が、このように習修されるべきであり、このように修行されるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとしての気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

[1870]歓喜を実現する、ということで、神通となり、不満〔の思い〕を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その歓喜を具備した者たちであるなら、彼らは、〔その〕全てが、清浄心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その歓喜が、このように習修されるべきであり、このように修行されるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとしての気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

[1871]第一の瞑想を実現する、ということで、神通となり、〔五つの修行の〕妨害を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その第一の瞑想を具備した者たちであるなら、彼らは、〔その〕全てが、清浄心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その第一の瞑想が、このように習修されるべきであり、このように修行されるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとしての気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる……略……。

[1872]阿羅漢道を実現する、ということで、神通となり、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その阿羅漢道を具備した者たちであるなら、彼らは、〔その〕全てが、清浄心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その阿羅漢道が、このように習修されるべきであり、このように修行されるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとしての気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。


32.


 [1873]離欲を実現する、ということで、神通となり、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を変形させる、ということで、神変となる。それが、神通でもあり、それが、神変でもあるなら、これが、神通の神変と説かれる。加害〔の思い〕なきを実現する、ということで、神通となり、加害〔の思い〕を変形させる、ということで、神変となる。それが、神通でもあり、それが、神変でもあるなら、これが、神通の神変と説かれる。光明の表象を実現する、ということで、神通となり、〔心の〕沈滞と眠気を変形させる、ということで、神変となる……略……。阿羅漢道を実現する、ということで、神通となり、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを変形させる、ということで、神変となる。それが、神通でもあり、それが、神変でもあるなら、これが、神通の神変と説かれる。ということで――

 [1874]神変についての言説は、〔以上で〕終了した。


3.7 等首者についての言説


33.


 [1875]【230】一切の諸法(性質)の、正しい断絶、および、止滅における、現起なきこととしての知慧が、等首者(等首:煩悩が滅尽して阿羅漢に成ったその瞬間に命を終える者)の義(意味)についての知恵となる。

 [1876]「一切の諸法(性質)」とは、〔心身を構成する〕五つの範疇、十二の〔認識の〕場所、十八の界域、善なる諸法(性質)、善ならざる諸法(性質)、〔善悪が〕説き示されない諸法(性質)、欲望の行境の諸法(性質)、形態の行境の諸法(性質)、形態なき行境の諸法(性質)、属するところなき諸法(性質)である。「正しい断絶」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を正しく断絶し、加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕を正しく断絶し、光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を正しく断絶し、〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚を正しく断絶し、法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を正しく断絶し、知恵によって、無明を正しく断絶し、歓喜によって、不満〔の思い〕を正しく断絶し、第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を正しく断絶し……略……阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを正しく断絶する。

 [1877]「止滅」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を止滅させ、加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕を止滅させ、光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を止滅させ、〔心の〕散乱なきによって、〔心の〕高揚を止滅させ、法(性質)の〔差異を〕定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を止滅させ、知恵によって、無明を止滅させ、歓喜によって、不満〔の思い〕を止滅させ、第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を止滅させ……略……阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを止滅させる。

 [1878]「現起なきこと」とは、離欲を獲得した者のばあい、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は現起せず、加害〔の思い〕なきを獲得した者のばあい、加害〔の思い〕は現起せず、光明の表象を獲得した者のばあい、〔心の〕沈滞と眠気は現起せず、〔心の〕散乱なきを獲得した者のばあい、〔心の〕高揚は現起せず、法(性質)の〔差異を〕定め置くことを獲得した者のばあい、疑惑〔の思い〕は現起せず、知恵を獲得した者のばあい、無明は現起せず、歓喜を獲得した者のばあい、不満〔の思い〕は現起せず、第一の瞑想を【231】獲得した者のばあい、〔五つの修行の〕妨害は現起せず……略……阿羅漢道を獲得した者のばあい、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れは現起しない。

 [1879]「等(平等・平静)」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたことから、離欲が、等であり、加害〔の思い〕が捨棄されたことから、加害〔の思い〕なきが、等であり、〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたことから、光明の表象が、等であり、〔心の〕高揚が捨棄されたことから、〔心の〕散乱なきが、等であり、疑惑〔の思い〕が捨棄されたことから、法(性質)の〔差異を〕定め置くことが、等であり、無明が捨棄されたことから、知恵が、等であり、不満〔の思い〕が捨棄されたことから、歓喜が、等であり、〔五つの修行の〕妨害が捨棄されたことから、第一の瞑想が、等であり……略……〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、阿羅漢道が、等である。

 [1880]「首(筆頭・頭目)」とは、十三の首がある。(1)障害の首としての渇愛と、(2)結縛の首としての意と、(3)執着の首としての見解と、(4)〔心の〕散乱の首としての〔心の〕高揚と、(5)〔心の〕汚染(雑染)の首としての無明と、(6)信念の首としての信と、(7)励起の首としての精進と、(8)現起の首としての気づきと、(9)〔心の〕散乱なきの首としての〔心の〕統一と、(10)〔あるがままの〕見の首としての知慧と、(11)転起されたものの首としての生命の機能と、(12)境涯の首としての解脱と、(13)形成〔作用〕の首としての止滅とである。ということで――

 [1881]等首者についての言説は、〔以上で〕終了した。


3.8 気づきの確立についての言説


34.


 [1882]【232】サーヴァッティの因縁となる。「比丘たちよ、四つのものがある。これらの気づきの確立である。どのようなものが、四つのものであるのか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体において身体の随観ある者として、〔世に〕住む。熱情ある者として、正知と気づきの者として。〔彼は〕世における強欲と失意〔の思い〕を取り除くであろう。諸々の感受において……略……。心において……略……。諸々の法(性質)において法(性質)の随観ある者として、〔世に〕住む。熱情ある者として、正知と気づきの者として。〔彼は〕世における強欲と失意〔の思い〕を取り除くであろう。比丘たちよ、まさに、これらの四つの気づきの確立がある」と。


35.


 [1883]どのように、身体において身体の随観ある者として、〔世に〕住むのか。ここに、一部の者が、地の身体を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。苦痛〔の観点〕から随観し、安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない。厭離し、喜悦しない。離貪し、貪欲しない。止滅させ、集起させない。放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を捨棄し、無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を捨棄し、厭離している者は、喜悦を捨棄し、離貪している者は、貪欲を捨棄し、止滅している者は、集起を捨棄し、放棄している者は、執取を捨棄する。これらの七つの行相によって、身体を随観する。身体は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「身体における身体の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 [1884]「修行」とは、四つの修行がある。そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。

 [1885]ここに、一部の者が、水の身体を……略……。火の身体を……。風の身体を……。髪の身体を……。毛の身体を……。表皮の身体を……。皮の身体を……。肉の身体を……。血液の身体を……。腱の身体を……。骨の身体を……。骨髄の身体を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。苦痛〔の観点〕から随観し、【233】安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない。厭離し、喜悦しない。離貪し、貪欲しない。止滅させ、集起させない。放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を捨棄し、無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を捨棄し、厭離している者は、喜悦を捨棄し、離貪している者は、貪欲を捨棄し、止滅している者は、集起を捨棄し、放棄している者は、執取を捨棄する。これらの七つの行相によって、身体を随観する。身体は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「身体における身体の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 [1886]「修行」とは、四つの修行がある。そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。このように、身体において身体の随観ある者として、〔世に〕住む。

 [1887]どのように、諸々の感受において感受の随観ある者として、〔世に〕住むのか。ここに、一部の者が、楽の感受を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない……略……放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し……略……放棄している者は、執取を捨棄する。これらの七つの行相によって、感受を随観する。感受は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その感受を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の感受における感受の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 [1888]「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる……略……。ここに、一部の者が、苦の感受を……略……。苦でもなく楽でもない感受を……。〔世〕財を有する楽の感受を……。〔世〕財なき楽の感受を……。〔世〕財を有する苦の感受を……。〔世〕財なき苦の感受を……。〔世〕財を有する苦でもなく楽でもない感受を……。〔世〕財なき苦でもなく楽でもない感受を……。眼の接触から生じる感受を……。耳の接触から生じる感受を……。鼻の接触から生じる感受を……。舌の接触から生じる感受を……。身の接触から生じる感受を……。意の接触から生じる感受を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない……略……放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し……略……放棄している者は、執取を捨棄する。これらの七つの行相によって、感受を随観する。感受は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その感受を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の感受における感受の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 [1889]「修行」とは、四つの修行がある……略……。このように、諸々の感受において感受の随観ある者として、〔世に〕住む。

 [1890]どのように、心において心の随観ある者として、〔世に〕住むのか。ここに、一部の者が、貪欲を有する心を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない……略……放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し……略……放棄している者は、執取を【234】捨棄する。これらの七つの行相によって、心を随観する。心は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その心を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「心における心の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 [1891]「修行」とは、四つの修行がある……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。

 [1892]ここに、一部の者が、貪欲を離れた心を……略……。憤怒を有する心を……。憤怒を離れた心を……。迷妄を有する心を……。迷妄を離れた心を……。退縮した心を……。散乱した心を……。莫大なる心を……。莫大ならざる心を……。有上なる心を……。無上なる心を……。定められた心を……。定められていない心を……。解脱した心を……。解脱していない心を……。眼の識別〔作用〕を……。耳の識別〔作用〕を……。鼻の識別〔作用〕を……。舌の識別〔作用〕を……。身の識別〔作用〕を……。意の識別〔作用〕を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない……略……放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し……略……放棄している者は、執取を捨棄する。これらの七つの行相によって、心を随観する。心は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その心を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「心における心の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 [1893]「修行」とは、四つの修行がある……略……。このように、心において心の随観ある者として、〔世に〕住む。

 [1894]どのように、諸々の法(性質)において法(性質)の随観ある者として、〔世に〕住むのか。ここに、一部の者が、身体を除いて、感受を除いて、心を除いて、その残りの諸法(性質)を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。苦痛〔の観点〕から随観し、安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない。厭離し、喜悦しない。離貪し、貪欲しない。止滅させ、集起させない。放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を捨棄し、無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を捨棄し、厭離している者は、喜悦を捨棄し、離貪している者は、貪欲を捨棄し、止滅している者は、集起を捨棄し、放棄している者は、執取を捨棄する。これらの七つの行相によって、法(性質)を随観する。法(性質)は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、しかして、現起であり、さらには、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その法(性質)を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 [1895]【235】「修行」とは、四つの修行がある。そこに生じた諸法(性質)の、〔互いに他を〕超克することなきの義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。それに近づき行く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。このように、諸々の法(性質)において法(性質)の随観ある者として、〔世に〕住む。ということで――

 [1896]気づきの確立についての言説は、〔以上で〕終了した。


3.9 〔あるがままの〕観察についての言説


36.


 [1897]【236】このように、わたしは聞いた。或る時のことである。世尊は、サーヴァッティ(舎衛城)に住している。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の園地(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに語りかけた。「比丘たちよ」と。「尊き方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えた。世尊は、こう言った。

 [1898]「比丘たちよ、まさに、その比丘が、何であれ、形成〔作用〕を、常住〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観しているなら、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を具備した者と成るであろう、という、この状況は見い出されず(ありえない)、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を〔いまだ〕具備していないなら、正しい〔道〕たることの決定に入るであろう、という、この状況は見い出されず、正しい〔道〕たることの決定に入っていないなら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見い出されない。

 [1899]比丘たちよ、まさに、その比丘が、一切の形成〔作用〕を、無常〔の観点〕から〔あるがままに〕等しく随観しているなら、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を具備した者と成るであろう、という、この状況は見い出され、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を〔すでに〕具備したなら、正しい〔道〕たることの決定に入るであろう、という、この状況は見い出され、正しい〔道〕たることの決定に入っているなら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見い出される。

 [1900]比丘たちよ、まさに、その比丘が、何であれ、形成〔作用〕を、安楽〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観しているなら、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を具備した者と成るであろう、という、この状況は見い出されず(ありえない)、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を〔いまだ〕具備していないなら、正しい〔道〕たることの決定に入るであろう、という、この状況は見い出されず、正しい〔道〕たることの決定に入っていないなら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見い出されない。

 [1901]【237】比丘たちよ、まさに、その比丘が、一切の形成〔作用〕を、苦痛〔の観点〕から〔あるがままに〕等しく随観しているなら、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を具備した者と成るであろう、という、この状況は見い出され、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を〔すでに〕具備したなら、正しい〔道〕たることの決定に入るであろう、という、この状況は見い出され、正しい〔道〕たることの決定に入っているなら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見い出される。

 [1902]比丘たちよ、まさに、その比丘が、何であれ、法(性質)を、自己〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観しているなら、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を具備した者と成るであろう、という、この状況は見い出されず(ありえない)、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を〔いまだ〕具備していないなら、正しい〔道〕たることの決定に入るであろう、という、この状況は見い出されず、正しい〔道〕たることの決定に入っていないなら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見い出されない。

 [1903]比丘たちよ、まさに、その比丘が、一切の法(性質)を、無我〔の観点〕から〔あるがままに〕等しく随観しているなら、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を具備した者と成るであろう、という、この状況は見い出され、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を〔すでに〕具備したなら、正しい〔道〕たることの決定に入るであろう、という、この状況は見い出され、正しい〔道〕たることの決定に入っているなら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見い出される。

 [1904]比丘たちよ、まさに、その比丘が、涅槃を、苦痛〔の観点〕から〔偏見のままに〕等しく随観しているなら、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を具備した者と成るであろう、という、この状況は見い出されず(ありえない)、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を〔いまだ〕具備していないなら、正しい〔道〕たることの決定に入るであろう、という、この状況は見い出されず、正しい〔道〕たることの決定に入っていないなら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見い出されない。

 [1905]比丘たちよ、まさに、その比丘が、涅槃を、安楽〔の観点〕から〔あるがままに〕等しく随観しているなら、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を具備した者と成るであろう、という、この状況は見い出され、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を〔すでに〕具備したなら、正しい〔道〕たることの決定に入るであろう、という、この状況は見い出され、正しい〔道〕たることの決定に入っているなら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見い出される。


37.


 [1906]【238】どれだけの行相によって、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得するのか。どれだけの行相によって、正しい〔道〕たることの決定に入るのか。四十の行相によって、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。四十の行相によって、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 [1907]どのような四十の行相によって、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得するのか。どのような四十の行相によって、正しい〔道〕たることの決定に入るのか。〔心身を構成する〕五つの範疇を、(1)無常〔の観点〕から、(2)苦痛〔の観点〕から、(3)病〔の観点〕から、(4)腫物〔の観点〕から、(5)矢〔の観点〕から、(6)悩苦〔の観点〕から、(7)病苦〔の観点〕から、(8)他者〔の観点〕から、(9)崩壊するもの〔の観点〕から、(10)疾患〔の観点〕から、(11)禍〔の観点〕から、(12)恐怖〔の観点〕から、(13)災禍〔の観点〕から、(14)動揺するもの〔の観点〕から、(15)滅壊するもの〔の観点〕から、(16)常久ならざるもの〔の観点〕から、(17)救護所ならざるもの〔の観点〕から、(18)避難所ならざるもの〔の観点〕から、(19)帰依所ならざるもの〔の観点〕から、(20)空虚〔の観点〕から、(21)虚妄〔の観点〕から、(22)空〔の観点〕から、(23)無我〔の観点〕から、(24)危険〔の観点〕から、(25)変化の法(性質)〔の観点〕から、(26)真髄なきもの〔の観点〕から、(27)悩苦の根元〔の観点〕から、(28)殺戮者〔の観点〕から、(29)非生存〔の観点〕から、(30)煩悩を有するもの〔の観点〕から、(31)形成されたもの〔の観点〕から、(32)悪魔の餌〔の観点〕から、(33)生の法(性質)〔の観点〕から、(34)老の法(性質)〔の観点〕から、(35)病の法(性質)〔の観点〕から、(36)死の法(性質)〔の観点〕から、(37)憂いの法(性質)〔の観点〕から、(38)嘆きの法(性質)〔の観点〕から、(39)葛藤の法(性質)〔の観点〕から、(40)〔心の〕汚染(雑染)の法(性質)〔の観点〕から、である。


38.


 [1908](1)〔心身を構成する〕五つの範疇を、無常〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、常住であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(2)〔心身を構成する〕五つの範疇を、苦痛〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、安楽であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(3)〔心身を構成する〕五つの範疇を、病〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、無病であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(4)〔心身を構成する〕五つの範疇を、腫物〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、腫物なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(5)〔心身を構成する〕五つの範疇を、矢〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、抜矢であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 [1909](6)〔心身を構成する〕五つの範疇を、悩苦〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、悩苦なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(7)〔心身を構成する〕五つの範疇を、病苦〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、病苦なきものであり、【239】涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(8)〔心身を構成する〕五つの範疇を、他者〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、他縁なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(9)〔心身を構成する〕五つの範疇を、崩壊するもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、崩壊なき法(性質)であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(10)〔心身を構成する〕五つの範疇を、疾患〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、疾患なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 [1910](11)〔心身を構成する〕五つの範疇を、禍〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、無禍であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(12)〔心身を構成する〕五つの範疇を、恐怖〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、恐怖なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(13)〔心身を構成する〕五つの範疇を、災禍〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、災禍なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(14)〔心身を構成する〕五つの範疇を、動揺するもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、動揺なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(15)〔心身を構成する〕五つの範疇を、滅壊するもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、滅壊なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 [1911](16)〔心身を構成する〕五つの範疇を、常久ならざるもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、常久であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(17)〔心身を構成する〕五つの範疇を、救護所ならざるもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、救護所であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(18)〔心身を構成する〕五つの範疇を、避難所ならざるもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、避難所であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(19)〔心身を構成する〕五つの範疇を、帰依所ならざるもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、帰依所であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(20)〔心身を構成する〕五つの範疇を、空虚〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、【240】〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、空虚ならざるものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 [1912](21)〔心身を構成する〕五つの範疇を、虚妄〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、虚妄ならざるものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(22)〔心身を構成する〕五つの範疇を、空〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、最高の空であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(23)〔心身を構成する〕五つの範疇を、無我〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、最高の義(勝義)であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(24)〔心身を構成する〕五つの範疇を、危険〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、危険なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(25)〔心身を構成する〕五つの範疇を、変化の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、変化なき法(性質)であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 [1913](26)〔心身を構成する〕五つの範疇を、真髄なきもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、真髄であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(27)〔心身を構成する〕五つの範疇を、悩苦の根元〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、悩苦の根元ならざるものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(28)〔心身を構成する〕五つの範疇を、殺戮者〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、殺戮者ならざるものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(29)〔心身を構成する〕五つの範疇を、非生存〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、非生存ならざるものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(30)〔心身を構成する〕五つの範疇を、煩悩を有するもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、煩悩なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 [1914](31)〔心身を構成する〕五つの範疇を、形成されたもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、形成されたものでないものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に【241】入る。(32)〔心身を構成する〕五つの範疇を、悪魔の餌(マーラーミサ)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、〔世〕財なきもの(ニラーミサ)であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(33)〔心身を構成する〕五つの範疇を、生の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、生じたものでないものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(34)〔心身を構成する〕五つの範疇を、老の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、老ならざるものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(35)〔心身を構成する〕五つの範疇を、病の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、病ならざるものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 [1915](36)〔心身を構成する〕五つの範疇を、死の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、不死であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(37)〔心身を構成する〕五つの範疇を、憂いの法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、憂いなきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(38)〔心身を構成する〕五つの範疇を、嘆きの法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、嘆きなきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(39)〔心身を構成する〕五つの範疇を、葛藤の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、葛藤なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(40)〔心身を構成する〕五つの範疇を、〔心の〕汚染の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。「〔心身を構成する〕五つの範疇の止滅は、汚染されたものでないものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。


39.


 [1916](1)無常〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(2)苦痛〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(3)病〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(4)腫物〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(5)矢〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(6)悩苦〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(7)病苦〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(8)他者〔の観点〕から、ということで、無我の随観となる。(9)崩壊するもの〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(10)疾患〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。

 [1917](11)禍〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(12)恐怖〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。【242】(13)災禍〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(14)動揺するもの〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(15)滅壊するもの〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(16)常久ならざるもの〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(17)救護所ならざるもの〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(18)避難所ならざるもの〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(19)帰依所ならざるもの〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(20)空虚〔の観点〕から、ということで、無我の随観となる。

 [1918](21)虚妄〔の観点〕から、ということで、無我の随観となる。(22)空〔の観点〕から、ということで、無我の随観となる。(23)無我〔の観点〕から、ということで、無我の随観となる。(24)危険〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(25)変化の法(性質)〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(26)真髄なきもの〔の観点〕から、ということで、無我の随観となる。(27)悩苦の根元〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(28)殺戮者〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(29)非生存〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(30)煩悩を有するもの〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。

 [1919](31)形成されたもの〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(32)悪魔の餌〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(33)生の法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(34)老の法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(35)病の法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(36)死の法(性質)〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(37)憂いの法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(38)嘆きの法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(39)葛藤の法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(40)〔心の〕汚染の法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。

 [1920]これらの四十の行相によって、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得する。これらの四十の行相によって、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 [1921]これらの四十の行相によって、〔真理に〕随順する忍耐〔の知恵〕を獲得しつつある者には、これらの四十の行相によって、正しい〔道〕たることの決定に入りつつある者には、どれだけの無常の随観があり、どれだけの苦痛の随観があり、どれだけの無我の随観があるのか。


 [1922]〔しかして、詩偈に言う〕「二十五の無我の随観があり、五十の無常の随観があり、まさしく、しかして、百二十五の、それら〔の随観〕が、苦痛において説かれる」と。


 [1923]〔あるがままの〕観察についての言説は、〔以上で〕終了した。


3.10 要綱についての言説


40.


 [1924]【243】欲なきもの、脱、解脱、明知の解脱、向上の戒、向上の心、向上の知慧、安息、知恵、〔あるがままの〕見、清浄、離欲、出離、遠離、放棄、性行、瞑想の解脱、修行、〔心の〕確立、生命。


41.


 [1925]「欲なきもの」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕から欲なきものとなる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕から欲なきものとなる……略……。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害から欲なきものとなる……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れから欲なきものとなる。

 [1926]「脱」「解脱」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕から解き放たれる、ということで、脱となり、解脱となる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕から解き放たれる、ということで、脱となり、解脱となる……略……。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害から解き放たれる、ということで、脱となり、解脱となる……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れから解き放たれる、ということで、脱となり、解脱となる。

 [1927]「明知の解脱」とは、離欲が見い出される(ヴィッジャティ)、ということで、明知(ヴィッジャー)となる。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕から解き放たれる、ということで、解脱となる。見い出されているものは解き放たれる、解き放たれているものは見い出される、ということで、明知の解脱となる。加害〔の思い〕なきが見い出される、ということで、明知となる。加害〔の思い〕から解き放たれる、ということで、解脱となる。見い出されているものは解き放たれる、解き放たれているものは見い出される、ということで、明知の解脱となる……略……。阿羅漢道が見い出される、ということで、明知となる。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れから解き放たれる、ということで、解脱となる。見い出されているものは解き放たれる、解き放たれているものは見い出される、ということで、明知の解脱となる。

 [1928]「向上の戒」「向上の心」「向上の知慧」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒の清浄となり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄となる。それが、そこにおいて、統御の義(意味)であるなら、これが、向上の戒となり、それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なきの義(意味)であるなら、これが、向上の心となり、それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)であるなら、【244】これが、向上の知慧となる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒の清浄となり……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの統御の義(意味)によって、戒の清浄となり、〔心の〕散乱なきの義(意味)によって、心の清浄となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄となる。それが、そこにおいて、統御の義(意味)であるなら、これが、向上の戒となり、それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なきの義(意味)であるなら、これが、向上の心となり、それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)であるなら、これが、向上の知慧となる。

 [1929]「安息」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を静息させる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕を静息させる……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを静息させる。

 [1930]「知恵」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたことから、離欲が、所知の義(意味)によって、知恵となる。加害〔の思い〕が捨棄されたことから、加害〔の思い〕なきが、所知の義(意味)によって、知恵となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、阿羅漢道が、所知の義(意味)によって、知恵となる。

 [1931]「〔あるがままの〕見」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたことから、離欲が〔あるがままに〕見られたことから、〔あるがままの〕見となる。加害〔の思い〕が捨棄されたことから、加害〔の思い〕なきが〔あるがままに〕見られたことから、〔あるがままの〕見となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、阿羅漢道が〔あるがままに〕見られたことから、〔あるがままの〕見となる。

 [1932]「清浄」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者は、離欲によって清浄となる。加害〔の思い〕を捨棄している者は、加害〔の思い〕なきによって清浄となる……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者は、阿羅漢道によって清浄となる。

 [1933]「離欲」とは、〔まさに〕この、諸々の欲望〔の対象〕にとっての出離であり、すなわち、これ、離欲である。〔まさに〕この、諸々の形態にとっての出離であり、すなわち、これ、形態なきである。また、まさに、それが何であれ、成ったもの、形成されたもの、縁によって生起したものであるなら、止滅〔の入定〕が、それにとっての離欲となる。加害〔の思い〕なきが、加害〔の思い〕にとっての離欲となる。光明の表象が、〔心の〕沈滞と眠気にとっての離欲となる……略……。阿羅漢道が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れにとっての離欲となる。

 [1934]「出離」とは、〔まさに〕この、諸々の欲望〔の対象〕にとっての出離であり、すなわち、これ、離欲である。〔まさに〕この、諸々の形態にとっての出離であり、すなわち、これ、形態なきである。また、まさに、それが何であれ、成ったもの、形成されたもの、縁によって生起したものであるなら、止滅〔の入定〕が、それにとっての出離となる。離欲が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕にとっての出離となる。加害〔の思い〕なきが、加害〔の思い〕にとっての出離となる……略……。阿羅漢道が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れにとっての出離となる。

 [1935]「遠離」とは、離欲が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕にとっての遠離となる【245】……略……。阿羅漢道が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れにとっての遠離となる。

 [1936]「放棄」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を放棄する、ということで、放棄となる。加害〔の思い〕なきによって、加害〔の思い〕を放棄する、ということで、放棄となる……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを放棄する、ということで、放棄となる。

 [1937]「性行」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者は、離欲によって行じおこなう。加害〔の思い〕を捨棄している者は、加害〔の思い〕なきによって行じおこなう……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者は、阿羅漢道によって行じおこなう。

 [1938]「瞑想の解脱」とは、離欲を瞑想する(ジャーヤティ)、ということで、瞑想となる。欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕を焼尽する(ジャーペーティ)、ということで、瞑想となる。瞑想している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。瞑想する、ということで、諸法(性質)が。焼尽する、ということで、諸々の〔心の〕汚れを。しかして、諸々の焼尽されたものを〔知り〕、さらには、諸々の焼尽するものを知る、ということで、瞑想の解脱となる。加害〔の思い〕なきを瞑想する、ということで、瞑想となる。加害〔の思い〕を焼尽する、ということで、瞑想となる……略……。光明の表象を瞑想する、ということで、瞑想となる。〔心の〕沈滞と眠気を焼尽する、ということで、瞑想となる……略……。阿羅漢道を瞑想する、ということで、瞑想となる。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを焼尽する、ということで、瞑想となる。瞑想している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。瞑想する、ということで、諸法(性質)が。焼尽する、ということで、諸々の〔心の〕汚れを。しかして、諸々の焼尽されたものを〔知り〕、さらには、諸々の焼尽するものを知る、ということで、瞑想の解脱となる。


42.


 [1939]「修行」「〔心の〕確立」「生命」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者は、離欲を修行する、ということで、修行を成就した者となり、離欲を所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立を成就した者となり、〔まさに〕その、この者は、このように、修行を成就した者となり、〔心の〕確立を成就した者となり、平等(平静)に生き、平等ならずに〔生きることが〕なく、正しく生き、誤って〔生きることが〕なく、清浄に生き、汚れたままに〔生きることが〕ない、ということで、生き方を成就した者となる。〔まさに〕その、この者は、このように、修行を成就した者としてあり、〔心の〕確立を成就した者としてあり、生き方を成就した者としてあり、もしくは、士族の衆にであれ、もしくは、婆羅門の衆にであれ、もしくは、家長の衆にであれ、もしくは、沙門の衆にであれ、まさしく、その〔衆〕その衆へと、〔彼が〕近しく赴くなら、恐れおののきを離れた者として〔近しく赴き〕、愕然と成ることなき者として近しく赴く。それは、何を因としてか。なぜなら、そのように、彼は、修行を成就した者としてあり、〔心の〕確立を成就した者としてあり、生き方を成就した者としてあるからである。

 [1940]加害〔の思い〕を捨棄している者は、加害〔の思い〕なきを修行する、ということで、修行を成就した者となり……略……。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者は、光明の表象を修行する、ということで、修行を成就した者となり……略……。〔心の〕高揚を捨棄している者は、〔心の〕散乱なきを修行する、ということで、修行を成就した者となり……略……。疑惑〔の思い〕を捨棄している者は、法(性質)の〔差異を〕定め置くことを修行する、ということで、修行を成就した者となり……略……。無明を捨棄している者は、明知を修行する、【246】ということで、修行を成就した者となり……略……。不満〔の思い〕を捨棄している者は、歓喜を修行する、ということで、修行を成就した者となり……略……。〔五つの修行の〕妨害を捨棄している者は、第一の瞑想を修行する、ということで、修行を成就した者となり……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者は、阿羅漢道を修行する、ということで、修行を成就した者となり、阿羅漢道を所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立を成就した者となり、〔まさに〕その、この者は、このように、修行を成就した者となり、〔心の〕確立を成就した者となり、平等に生き、平等ならずに〔生きることが〕なく、正しく生き、誤って〔生きることが〕なく、清浄に生き、汚れたままに〔生きることが〕ない、ということで、生き方を成就した者となる。〔まさに〕その、この者は、このように、修行を成就した者としてあり、〔心の〕確立を成就した者としてあり、生き方を成就した者としてあり、もしくは、士族の衆にであれ、もしくは、婆羅門の衆にであれ、もしくは、家長の衆にであれ、もしくは、沙門の衆にであれ、まさしく、その〔衆〕その衆へと、〔彼が〕近しく赴くなら、恐れおののきを離れた者として〔近しく赴き〕、愕然と成ることなき者として近しく赴く。それは、何を因としてか。なぜなら、そのように、彼は、修行を成就した者としてあり、〔心の〕確立を成就した者としてあり、生き方を成就した者としてあるからである。ということで――

 [1941]要綱についての言説は、〔以上で〕終了した。

 [1942]知慧の章が、第三となる。

 [1943]そのための、摂頌となる。


 [1944]〔しかして、詩偈に言う〕「知慧、神通、〔法の〕知悉、遠離、第五に性行、神変、等首者、気づきの確立、〔あるがままの〕観察、さらには、第三に知慧の章における要綱とともに、それらの十がある」と。

 [1945]「名前としては、大なるものの章、双連のものの章、さらには、知慧の章が、この融通無礙(パティサンビダー)の論書において、まさしく、三つの章となる。

 [1946]終極なき方法の諸道において、深遠なる海の如く、さらには、星をちりばめた天空や大いなる天然の池のように、論説者たちには、〔心の〕制止者たちには、広く、〔世を〕照らす知恵がある」と。


 [1947]パティサンビダーマッガ聖典は、〔以上で〕終了した。

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