関西ダンマサークルの報告2010.12


関西ダンマサークルの報告をさせていただきます。

◆12月19日(日)/アラナ精舎

 9:00~11:45 アラナ精舎大掃除 

11:45~12:00 お釈迦さまへお食事のお布施

12:00~13:10 昼休み

KさんとSさんのご厚意により、ご飯とおでん、サラダ、漬け物、味噌汁、
さらに食後のフルーツと、皆で和やかにいただきました。

13:10~13:40 関西運営会議 

13:40~17:00 勉強会(参加者12名)


今回は 幸福の「縁起」論~無知の「無限軌道」の、切断ポイント~

の前半を聴きました。


<今回のお話>

人は、認識、経験するあらゆる現象について、多かれ少なかれ「Why(なぜ?)」という疑問を抱きます。その疑問に対する答えは、古来より「知識、哲学、宗教、科学」という形をとって発展してきました。


しかし、生きるとは何か、なぜ人間は現れたのか、などに対する「Why」には、決定的な回答はありません。そこにあるのは無数の意見の対立のみ。人は、異論、争論の果てに、戦争まで起こすのです。


人々は、「Why」に対して自分に納得のいく答えが出ると、その「Why」を頭から消しますが、この「納得」が問題なのです。自分の好みで適当な答えを作ってしまって都合のいいように「納得」するのです。


「Why」に対するそんな答えばかりを集めた世の中の「知識」は、必然的に常に曖昧で、問題ばかりを作ります。Whyが最終的な回答を示すどころか、新たな「Why」を作ってしまうのです。これが現実の社会の有様です。


すべての現象は縁起により生じる、と発見したのはお釈迦様です。

人々が、あらゆることに「Why」と問い続けるということは、言い換えれば「縁起を探している」ということなのです。


しかし、人々は、基本的に無知であり、観察能力に欠けていて、さらに欲、怠け、怒りなどの感情に支配されているので、「Why」に対して自分の主観で、いいかげんな答えを妄想して納得してしまうのです。


ですから人々が「真理としての縁起」を発見することはありません。間違いなく何かを探してはいる、しかし、何を探しているのかわからない、という人生を送ってしまうのです。それを「無明」といいます。

                                       <続く>


法話の後、法話の内容を基に、資料なども参考にして意見交換をしました。

「Why」に対する「納得」は、感情の領域であり、そのいい加減な「納得」を、我々はテレビや新聞に押しつけられているのではないか、との意見もありました。それらの「納得」はすべて「貪・瞋・痴」に基づいており、その判断は危ういものです。


月例瞑想会でのスマナサーラ長老への質問と回答にも話は及んでいきました。

他の人の質問でも、それを自分自身の問題として捉え、法話の内容とともに日常生活の中で実践しつつ確認していく、という発言もありました。その姿勢は共感を得るものでした。


前回の月例瞑想会の質問では、「寂しさ」についての質問がとてもいいポイントを突いており、長老の熱のこもった法話につながっていきました。ちょうどその質問をされた方が出席しておられたので、少しお話をうかがうこともできました。

そして、「苦」ということは、「不安定」だということ。すべては変化し、それをとどめるすべは何もない。すべては「一瞬の夏」。そんな話題にも移っていきました。


勉強会の後、回向をして終了。


今回は、G.Nが報告させていただきました。長文失礼しました。


★ 次回は新年1/23(日)にマーヤーデーヴィー精舎で行います。ふるってご参加下さい。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

inserted by FC2 system