小部経典1:クッダカパータ

2010.6.6更新
阿羅漢にして 正自覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る


 クッダカパータ聖典(小誦経)


1 三つの帰依所(三帰文)


1.

 〔わたしは〕覚者(ブッダ)なる帰依所に赴きます(自帰依仏)。

 〔わたしは〕法(ダンマ)なる帰依所に赴きます(自帰依法)。

 〔わたしは〕僧団(サンガ)なる帰依所に赴きます(自帰依僧)。


 再度また、〔わたしは〕覚者なる帰依所に赴きます。

 再度また、〔わたしは〕法なる帰依所に赴きます。

 再度また、〔わたしは〕僧団なる帰依所に赴きます。


 三度また、〔わたしは〕覚者なる帰依所に赴きます。

 三度また、〔わたしは〕法なる帰依所に赴きます。

 三度また、〔わたしは〕僧団なる帰依所に赴きます。


 〔以上が〕三つの帰依所となる。


2 十の学びの境処(十戒文)


1. 生き物を殺すことから離れているという学びの境処を、〔わたしは〕受持します(不殺生戒)。


2. 与えられていないものを取ることから離れているという学びの境処を、〔わたしは〕受持します(不偸盗戒)。


3. 梵行(禁欲清浄行)ならざることから離れているという学びの境処を、〔わたしは〕受持します(不邪淫戒)。


4. 虚偽を説くことから離れているという学びの境処を、〔わたしは〕受持します(不妄語戒)。


5. 穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れているという学びの境処を、〔わたしは〕受持します(不飲酒戒)。


6. 非時に食事することから離れているという学びの境処を、〔わたしは〕受持します。


7. 舞踏と詩歌と音楽と演芸を見ることから離れているという学びの境処を、〔わたしは〕受持します。


8. 花飾や香料や塗料を〔身に〕保ち〔身に〕装い〔身に〕飾る境位から離れているという学びの境処を、〔わたしは〕受持します。


9. 高い臥〔具〕や大きな臥〔具〕から離れているという学びの境処を、〔わたしは〕受持します。


10. 金や銀を納受することから離れているという学びの境処を、〔わたしは〕受持します。


 〔以上が〕十の学びの境処となる。


3 三十二の行相(三十二身分)


1. この身体には、〔以下のものが〕存在する。


 〔すなわち〕諸々の髪、諸々の毛、諸々の爪、諸々の歯、皮膚が――

 肉、腱、骨、骨髄、腎臓が――

 心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺臓が――

 腸、腸間膜、胃物、糞、脳味噌が――

 胆汁、痰、膿、血、汗、脂肪が――

 涙、膏“あぶら”、唾液、鼻水、髄液、尿が〔存在する〕。ということで――


 〔以上が〕三十二の行相となる。


4 童子の〔十の〕問い(問沙弥文)


1. 一つというのは、何であるか。一切の有情は、食(栄養)に立脚する者たちである。


2. 二つというのは、何であるか。名前(名)と、形態(色)とである。


3. 三つというのは、何であるか。三つの感受(三受:苦受・楽受・不苦不楽受)である。


4. 四つというのは、何であるか。四つの聖なる真理(四聖諦)である。


5. 五つというのは、何であるか。〔心身を構成する〕五つの執取の範疇(五取蘊)である。


6. 六つというのは、何であるか。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)である。


7. 七つというのは、何であるか。七つの覚りの支分(七覚支)である。


8. 八つというのは、何であるか。聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)である。


9. 九つというのは、何であるか。九つの有情の居住(九有情居)である。


10. 十というのは、何であるか。十の支分を具備した者が、「阿羅漢」と説かれる。ということで――


 〔以上が〕童子の〔十の〕問いとなる。


5 マンガラ・スッタ(吉祥経)


1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティ(舎衛城)に住しておられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の園地(祇園精舎)において。そこで、まさに、或るどこかの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方“かたわら”に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。


2. 〔天神が尋ねた〕「多くの天〔の神々〕たち、および、〔多くの〕人間たちは、諸々の幸福を思い考えてきました。安穏〔の境地〕を〔常に〕望んでいる者たちです。〔彼らのために〕最上の幸福を説いてください」〔と〕。


3. 〔世尊は答えた〕「しかして、愚者たちと慣れ親しまないこと、かつまた、賢者たちと慣れ親しむこと、さらには、供養されるべき者たちへの供養――これが、最上の幸福です。


4. しかして、適切な地に住むこと、さらには、過去(過去世)に作り為された功徳あること、かつまた、自己についての正しい誓願――これが、最上の幸福です。


5. しかして、多聞“たもん”(博識)、かつまた、技能(手の器用さ)、さらには、善く学ばれた律(規律)、かつまた、およそ、言葉であるなら、見事に語られたもの(虚偽のない真実の言葉)――これが、最上の幸福です。


6. 母と父に奉仕すること、子と妻を愛護すること、さらには、諸々の生業“なりわい”が混乱なきこと――これが、最上の幸福です。


7. しかして、布施、かつまた、法(教え)の行ない、さらには、親族たちを愛護すること、罪過なき諸々の行為(業)――これが、最上の幸福です。


8. 悪から離れること、〔悪から〕去ること、さらには、〔人を〕酔わせる飲み物(酒)からの自制、かつまた、諸々の法(事物)にたいし〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)――これが、最上の幸福です。


9. しかして、尊重、かつまた、謙譲、さらには、知足、知恩たること、〔しかるべき〕時に法(教え)を聞くこと――これが、最上の幸福です。


10. しかして、忍耐、素直であること、さらには、沙門たちと相見“まみ”えること、〔しかるべき〕時に法(教え)を論じること――これが、最上の幸福です。


11. しかして、苦行、かつまた、梵行(禁欲清浄行)、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を見ること、さらには、涅槃〔の境処〕を実証すること――これが、最上の幸福です。


12. 世の諸々の法(事物)に触れたとして、彼の心が、動かず、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、平安であるなら――これが、最上の幸福です。


13. これらのようなことを為して、一切所において敗者とならず、一切所において安穏〔の境地〕へと赴く――それが、彼らにとって、最上の幸福です」〔と〕。ということで――


 〔以上が〕マンガラ・スッタとなる。


6 ラタナ・スッタ(三宝経)


1. 彼ら、ここに集いあつまった精霊たちは――あるいは、地上にあるものたちも――あるいは、彼ら、空中にあるものたちも――まさしく、一切の精霊たちが、意“こころ”楽しく有れ。しかして、また、〔わたしの〕語るところを、謹んで聞け。


2. それゆえに、まさに、一切の精霊たちよ、こころして聞け。人間たる〔世の〕人々に、慈愛を為せ。彼らは、昼も、夜も、〔あなたたちに〕供物を運ぶ者たちである。それゆえに、まさに、彼らを、怠りなく守れ。


3. あるいは、この〔世において〕、あるいは、あの〔世において〕、何であれ、富としてあるもので――あるいは、諸々の天上における、妙“たえ”なる宝としてあるものも――如来と等しいものは、けっして、存在しない。これもまた、覚者(仏:ブッダ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。


4. 〔心が〕定められた方、サキャ〔族〕の牟尼(釈迦牟尼)が到達した、〔まさに〕その、妙なる不死〔の境処〕である、滅尽と離貪――その法(教え)と等しいものは、何であれ、存在しない。これもまた、法(法:ダンマ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。


5. 最勝の覚者(ブッダ)が遍く褒め称えた、〔まさに〕その、清らかなる〔境地〕――それを、〔賢者たちは〕「直後なる〔心の〕統一(無間定:時を要さず即座に結果が出る禅定)」と言う。その〔心の〕統一(定:三昧の境地)と等しいものは、〔どこにも〕見い出されない。これもまた、法(教え)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。


6. 正しくある者たちに賞賛された、彼ら、八者の人たち(八輩:預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道・阿羅漢果)――〔すなわち〕これらの四組(四双:預流道と預流果・一来道と一来果・不還道と不還果・阿羅漢道と阿羅漢果)が有るとして――彼ら、善き至達者(ブッダ)の弟子たちは、施与されるべきである。これらの者たちにたいする諸々の施しは、大いなる果となる。これもまた、僧団(僧:サンガ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。


7. 彼ら、堅固な意“おもい”で〔心が瞑想の対象に〕しっかりと結び付けられ、ゴータマ(ブッダ)の教えにおいて〔心が欲望の対象に〕無欲なる者たち――彼らは、不死〔の境処〕に入って、得るべきものを得た者たちであり、寂滅〔の境地〕を空手“くうしゅ”で得て、受益している者たちである。これもまた、僧団における、妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。


8. インダ(インドラ神)の杭(城門に立てられた標柱)が、地に依拠したものとして存し、四〔方〕の風に不動であるように、その喩えのような者を、〔わたしは〕「正しい人」と説く。彼は、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を的確に見る者である。これもまた、僧団における、妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。


9. 彼ら、深遠なる知慧ある方(ブッダ)によって見事に説示された、〔四つの〕聖なる真理を分明する者たち――たとえ、何であれ、彼らが、多く怠る者たちとして〔世に〕有るとして、彼らは、第八の生存(有)を取らない(最高で七回までの輪廻のうちに解脱する)。これもまた、僧団における、妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。


10. 彼の、〔あるがままの〕見の成就と、まさしく、共に、まさに、三つの法(性質)が、捨棄されたものと成る。〔すなわち〕身体が有るという見解(有身見:心身について「自己である」「自己のものである」と妄想し執着する実体論的見解)、さらには、疑惑〔の思い〕(疑)、あるいは、また、何であれ、〔世に〕存するもので、〔執着の対象になった〕戒や掟(戒禁)である。


11. しかして、四つの悪所(地獄・畜生・餓鬼・阿修羅)から解脱し、かつまた、六つの極罪を為すこと(母を殺すこと・父を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・覚者を傷つけること・僧団を分裂させること・異教の者を師とすること)は有りえない。これもまた、僧団における、妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。


12. たとえ、何であれ、彼が、身体によって、言葉によって、あるいは、また、心によって、悪しき行為(業)を為すとして、彼が、それを隠し立てすることは有りえない。〔涅槃の〕境処を見た者にとって、〔それは〕有りえないことと説かれた。これもまた、僧団における、妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。


13. 〔四つの〕夏〔の月〕の第一の夏の月(春先)に、先端が〔一斉に〕開花した、林の茂みのように、その喩えのような、涅槃に至る優れた法(教え)を、最高の利益のために、〔覚者は、他に先駆けて〕説示した。これもまた、覚者における、妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。


14. 優れた者、優れたものを知る者、優れたものを与える者、優れたものを運び来る者――無上なる方が、優れた法(教え)を説示した。これもまた、覚者における、妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。


15. 古きもの(過去の業)が滅尽し、新たな発生が存在せず、未来の生存にたいし心が離貪した者たち――彼らは、〔再生の〕種子が滅尽した者たち、欲〔の思い〕が成長なき者たち――慧者たちは、この灯明のように、消え行く(涅槃に到達する)。これもまた、僧団における、妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。


16. 彼ら、ここに集いあつまった精霊たちは――あるいは、地上にあるものたちであれ――あるいは、彼ら、空中にあるものたちであれ――〔わたしたちは〕天〔の神々〕と人間たちによって供養された如来を、覚者(ブッダ)を、礼拝する――安穏有れ。


17. 彼ら、ここに集いあつまった精霊たちは――あるいは、地上にあるものたちであれ――あるいは、彼ら、空中にあるものたちであれ――〔わたしたちは〕天〔の神々〕と人間たちによって供養された如来を、法(ダンマ)を、礼拝する――安穏有れ。


18. 彼ら、ここに集いあつまった精霊たちは――あるいは、地上にあるものたちであれ――あるいは、彼ら、空中にあるものたちであれ――〔わたしたちは〕天〔の神々〕と人間たちによって供養された如来を、僧団(サンガ)を、礼拝する――安穏有れ。ということで――


 〔以上が〕ラタナ・スッタとなる。


7 ティロークッタ・スッタ(戸外経)


1. 〔世尊は、マガダ王ビンビサーラに説いた〕「〔亡者たちは〕諸々の壁の外に止住します――さらには、諸々の十字路や丁字路に。〔亡者たちは〕諸々の門の両脇に止住します――自らの家屋にやってきて。


2. たくさんの食べ物や飲み物が、固形の食料や軟らかい食料が、〔覚者に〕奉納されたとき、誰も、彼ら(亡者たち)のことを思い浮かべません。〔それらの〕有情たち(亡者たち)には、〔そのような〕行為の縁(業縁)あるからです。


3. 〔しかしながら〕慈しみの者たちとして〔世に〕有る者たちであるなら、このように、〔過去の〕親族たち(亡者たち)のために施します――清らかで、妙なる、時に適った、飲み物と食事を。


4. 〔すなわち〕『これは、まさに、親族たちのために有れ。親族たちは、安楽の者たちと成れ』〔と〕。そして、彼らが、そこに集いあつまって〔そののち〕、〔そこに〕集いあつまった、〔過去の〕親族たちである亡者(餓鬼)たちは――


5. たくさんの食べ物や飲み物にたいし、恭しく随喜します。〔すなわち〕『わたしたちの親族たちは、長きにわたり生きよ。彼らを因とし、〔わたしたちは、安楽を〕得るのだ。


6. しかして、わたしたちのために、供養は為された。しかして、施者たちは、果なき者たちにあらず』〔と〕。なぜなら、そこに、耕作は存在せず、ここに、牧畜は見い出されず――


7. 商売やそのようなものは存在せず、金による売買は〔存在せず〕、ここから施されたものによって〔身を〕保ち行くからです――命を終えた亡者たちは、そこにおいて。


8. 高きに雨降った水が、低きへと転じ行くように、まさしく、このように、ここから施されたものは、亡者たちのために役立ちます。


9. 諸々の水流が満ち溢れ、海を遍く満たすように、まさしく、このように、ここから施されたものは、亡者たちのために役立ちます。


10. 『〔あの人は〕わたしのために施した。〔あの人は〕わたしのために為した。わたしの親族たちは、朋友であり、かつまた、友として〔世に有った〕』〔と〕、過去に為されたことを思い浮かべながら、亡者たちのために、施物を施すのです。


11. なぜなら、あるいは、泣くことも、あるいは、憂いも、さらには、その他の、嘆き悲しむことも、それは、亡者たちの義(利益)のためにはならないからです。このように、親族たちは止住します(過去の親族たちは、このような者たちとして存している)。


12. そして、まさに、この施物が施され、僧団において善く確立されたなら、長夜にわたり、彼の利益のためになり、即座に役立ちます。


13. そして、〔まさに〕その、親族の法(教え)ですが、これが、〔ここに〕実示されました。さらには、亡者たちのために、巨万の供養が為されました。かつまた、比丘たちのために、力が奉施されました。あなたさまによって、少なからざる功徳が求め作られたのです」〔と〕。ということで――


 〔以上が〕ティロークッタ・スッタとなる。


8 ニディカンダ・スッタ(伏蔵経)


1. 水〔の出る所〕を限度“かぎり”とする〔地中〕深くに、人は、財宝を安置する。「義(利益)のある為すべきことが生起したとき、わたしの義(利益)のためと成るであろう」〔と〕。


2. あるいは、王から悪く言われたなら、〔彼から逃れるために〕。あるいは、盗賊から責め苛まれたなら、〔彼から逃れるために〕。あるいは、借金の解き放ちのために。あるいは、飢饉において、諸々の災害において、〔それらの災難から逃れるために〕。この義(目的)のために、世において、財宝というものが安置される。


3. 水〔の出る所〕を限度とする〔地中〕深くに、それほどに、善く安置されたものとして存しているとして、一切が、まさしく、一切時において、それが、彼のために役立つことはない。


4. あるいは、〔その〕場から、財宝が死滅する(消失する)。あるいは、彼の表象〔作用〕(想)が迷乱する。あるいは、龍たちが取り去る。あるいは、また、それを、夜叉たちが運び去る。


5. あるいは、また、見ていないなら、愛しからざる相続者たちが取り出す。功徳の滅尽が有るとき、この一切が消失する。


6. 誰にとっても、布施によって、戒によって、自制によって、さらには、調御によって、財宝は、善く安置されたものと成る――女のばあいも、あるいは、男のばあいも。


7. しかして、塔廟において、あるいは、僧団において、人において、あるいは、客たちにおいて、母において、さらには、また、父において、しかして、長兄において――


8. この財宝は、善く安置されたものとなり、不可伐のものとなり、従い行くものとなる。〔死に行く者を〕捨棄して、〔諸々の財物としての財宝が〕去り行くべきときに、〔慧者は〕この〔功徳としての財宝〕を取って、〔他世へと〕去り行く。


9. 他者たちと共通ならざるもの、盗賊が運び去ることなきものが、財宝となる。その財宝が、〔人に〕従い行くものであるなら、慧者は、諸々の功徳を作り為すであろう。


10. 天〔の神々〕や人間たちに、一切の欲望〔の対象〕を与えてくれるのが、この財宝である。まさしく、〔欲する〕もの、〔欲する〕ものを、〔彼らが〕望み求めるなら、〔その〕一切が、この〔財宝〕によって得られる。


11. 善き色艶たること、善き音声たること、善き外貌たること、善き形姿たること、主人と〔その〕取り巻き――〔その〕一切が、この〔財宝〕によって得られる。


12. 地域の王権、権力、転輪〔王〕の安楽としての愛しきもの、諸天における天の王権もまた――〔その〕一切が、この〔財宝〕によって得られる。


13. さらには、人間としての得達“しあわせ”、さらには、〔まさに〕その、天の世〔界〕における喜びなるものも、さらには、〔まさに〕その、涅槃の得達なるものも――〔その〕一切が、この〔財宝〕によって得られる。


14. 〔善き〕朋友の成就(善知識の獲得)を縁として、まさしく、根源“あり”のままに、〔瞑想に〕専念している者の、明知と解脱の自在の状態――〔その〕一切が、この〔財宝〕によって得られる。


15. 即妙自在〔の知慧〕(無礙解)、さらには、解脱、さらには、〔まさに〕その、弟子としての最奥義(波羅蜜)なるものも、独覚の覚り(独覚菩提)、覚者の境地(仏地)――〔その〕一切が、この〔財宝〕によって得られる。


16. このように、大いなる義(利益)ある、この〔財宝〕は、すなわち、これ、功徳の成就である。それゆえに、慧者たる賢者たちは、作り為された功徳あることを賞賛する。ということで――


 〔以上が〕ニディカンダ・スッタとなる。


9 メッタ・スッタ(慈悲経)


1. すなわち、〔まさに〕その寂静の境処を知悉して〔そののち〕、〔実践の道という〕義(利益)に巧みな智ある〔出家者〕によって為されるべきは、〔以下のとおりとなる〕。有能で、かつまた、〔心が〕真っすぐで、さらには、極めて正直で、なおかつ、素直で、柔和で、増慢〔の思い〕なき者として、〔世に〕存するように。


2. しかして、〔常に足ることを知る〕満ち足りている者として、かつまた、〔他者を煩わさない〕扶養し易き者として、なおかつ、為すべきこと(義務)少なく、軽素な生活者として、さらには、〔感官の〕機能(根)の寂静なる者として、しかして、賢明で、尊大ならず、〔行乞する〕家々に貪りなき者として、〔世に存するように〕。


3. それ〔を為すこと〕で、他の識者たちが批判するであろうなら、しかして、どんなに小さなことであれ、〔それを〕行じおこなうことがないように。一切の有情(生きとし生けるもの)は、自己〔自ら〕が楽しむ者たちと成れ。まさしく、安楽で、平安の者たちと成れ。


4. 彼らがどのようなものたちであれ、諸々の生き物として生類たちが〔世に〕存するなら、あるいは、動くものたちも、あるいは、動かないものたちも、〔全て〕残りなく、あるいは、長いものたちも、あるいは、彼らが、大きなものたちであるとして、中くらいのものたちであるとして、短いものたちであるとして、微細や粗大のものたちであるとして――


5. あるいは、〔かつて〕見たものたちも、あるいは、彼らが、〔いまだ〕見たことがないものたちであるとして、あるいは、彼らが、遠くに住むとして、遠くないところに〔住むとして〕、あるいは、〔世に存する〕生類たちも、あるいは、〔未来の〕発生を求めるものたちも、一切の有情(生きとし生けるもの)は、自己〔自ら〕が楽しむ者たちと成れ。


6. 他者が他者を欺くことがないように。どこにおいても、それが誰であろうと、軽んじることがないように。怒りから、憤りの想いから、互いに他の苦しみを求めることがないように。


7. 母が自分の子を〔守るように、それも〕命がけで独り子を守るように、また、このように、一切の生類にたいし、無量なる〔慈愛の〕意“こころ”を修めるように。


8. しかして、一切世〔界〕にたいし、無量なる慈愛の意を修めるように。上に、また、下に、さらには、横に、隔てなく、怨みなく、敵なき〔意〕を〔修めるように〕。


9. 立っているとして、歩いているとして、あるいは、坐したとして、臥しているとして、眠気が離れた者として〔世に〕存するかぎりは、この〔行住坐臥の〕気づき(念)を、〔瞬間瞬間に〕確立するように。この〔行住坐臥の気づき〕を、〔賢者たちは〕「この〔世における〕梵住〔の境地〕」と言う。


10. しかして、〔誤った〕見解へと近づき行くことなくして、〔あるがままの〕見を成就した、戒ある者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を取り除いて、もはや、胎内にふたたび至り行くことは、まさに、ない。ということで――


 〔以上が〕メッタ・スッタとなる。


 クッダカパータ聖典は、〔以上で〕終了した。

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