インドネシア仏教略史



はじめに

 仏教はゴータマ・シッダールタという名前の王子により始められました。同王子は宮廷での豪奢な生活を捨て、禁欲を実践し、生・老・病・死から生ずる苦しみに対する処方薬を見つけようと苦闘しました。そしてついにブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開いたことにより、それを見出しました。以来、同王子はゴータマ・ブッダとして知られています。ブッダはダンマとして知られるご自身の教えを、6年間の苦行時代を共に過した5人の修行者に説かれました。そしてブッダのダンマはこの5人のみならず多くの人に、ご自身そして弟子たちによって、ブッダの生涯を通じて、そして現在に至るまで、もたらされてきました。

 仏教発祥の地においては、バラモン教(今日ではヒンドゥー教として知られていますが)が早くから盛んで、仏教が生まれたのは後になってからでした。ヒンドゥー教が南方に伝播したので、タイ、カンボジア、マレーシア、インドネシアなどの国々においては、古代バラモン教/ヒンドゥー教の寺院が今日でも見られます。カンボジアのアンコール・ワットはバラモン教の寺院で、四つの頭を持ったブラーフマンの彫像が見られます。後年、仏教がその地で盛んになり、仏教様式の装飾が加えられたために、混ざり合わさった寺院、専門的には融合寺院(バラモン教と仏教の合わさったもの)と呼ばれるものになりました。



初期のインドネシア仏教

 インドネシアではどうだったのでしょうか?

 法顕という中国留学僧の旅行記の中に、インドネシアの初期の宗教についての記述が見られます。法顕は西暦400年頃中国からインドに渡ったのですが、行きは陸路、帰りは海路を取り、インドからマラッカ海峡を経て中国に戻りました。帰国途中にマラッカ海峡を通過する際、船の修理等のためにジャワ島にしばし逗留しました。法顕は当時、同島にはバラモン教が流布しているが、仏教はなかったと記していますが、ほどなくして仏教がジャワ島で栄えたことが、考古学上の発見により分かります。

 紀元前3世紀頃、アショーカ王治世下のインドで意義深い出来事が起きました。彼は王位を得るために、自分の親族も含め大勢の人を殺しました。そのせいで彼はチャンダショーカ(残虐なアショーカ)との異名をとるほどでした。しかし転機が訪れ、王の残忍な性質は穏やかで洗練されたものに変わりました。悪名高き王子としてスタートした人生でしたが、後年は敬虔な仏教徒の王として名を馳せたのです。アショーカ王は治世時、腐敗した仏教を純化するために、第三結集のスポンサーになりました。この集会は成功裡に終わり、ブッダの教えを広めるために九つの方向に布教使節を送ることになりました。それによって、多くの国で仏教が発展することとなったのです。

 布教使節が派遣された方向の一つがスヴァンナブミ(黄金の地)として知られていた所で、ソーナ長老とウッタラ長老が派遣されました。ミャンマーのモン州のタトン市だとされていますが、スヴァンナブミと呼ばれていた所はミャンマーだけではなく、タイ、カンボジア、マレー半島、インドネシアも含まれていたと思われます。「カンボジア」とは金を意味する「カンプ」という語から来ており、「スヴァンナ」は金、「ブミ」は地上または土地を意味します。

 インドネシアのスマトラ島は古代には「スヴァルナドゥヴィパ(サンスクリット語)」として知られていましたが、それはパーリ語の「スヴァンナディパ(「黄金の地」の意)」と同じ意味でした。一方、ジャワ島は元の名を、現在に至るまで留めています。古代には「ヌサンタラ」という名で知られていたインドネシアは、今日のインドネシアと同じぐらいの大きさか、マジャパヒト王国の時代(西暦1100年~1500年)にはマラッカ(シンガポールとマレーシアを含む)を含めた、やや大きいものであったとされています。しかしそれよりももっと古い時代の西暦600年頃、スヴァルナドゥヴィパ(スマトラ)にはシュリヴィジャヤという強力な仏教王国がありました。現在の南スマトラ地方のパレンバンという都市に位置する所でした。

同王国の統治時代、「ナーランダ大学」という有名な大学がありました。この名前はインドのナーランダ大学から由来するものです。もう一人の中国人留学僧、義浄の旅行記によると、王国には1万人近くの僧がいて、その多くが同大学で仏教とサンスクリット語を勉強していたとのことです。義浄はインドのナーランダ大学で仏教を勉強する目的で、まず王国に滞在し、シュリヴィジャヤのナーランダ大学で数年間、仏教とサンスクリット語を学んで基礎を固めました。このように同大学は、インドのナーランダ大学留学の入り口となっていたのです。他にも留学僧がいて、彼らの中にはシュリヴィジャヤのナーランダ大学で学業修了後、インドに渡り、そしてチベットに仏教を広め、密教の指導者となった者もいました。残念なことに、現在ではパレンバン市とジャンビ市に崩れかけたパゴダが残っているのみで、当時のシュリヴィジャヤ・ナーランダ大学の偉大さを示す遺跡は殆どありません。

大国シュリヴジャヤがスマトラ島の仏教布教の中心であったのと同世紀か、やや時代を下って、ジャワ島の中部ジャワ地方にも仏教王国があり、隣国はヒンドゥー教王国で、両国は友好関係にありました。よって現在、中部ジャワ地方には(そして東部地方にも)、三種類のパゴダが見られます。仏教式パゴダ、ヒンドゥー教式パゴダ、仏教式・ヒンドゥー教式融合パゴダで、それらは隣り合って建っていましたが、多くは崩壊しました。

仏教式パゴダの代表的なものが、西暦775から825年にかけて建立され、世界遺産にもなっているボロブドゥール遺跡です。123平方メートルの大きさの石で造られており、一番高い所では40メートルの高さがあります。メインの塔のほかにも、内部にブッダの坐像を持つ72の大きな塔があります。更にこの大きな塔の周りを、500体以上の仏像が囲んでいます。パゴダは三つの部分、下部(カーマブミ)、中央部(ルーパブミ)、上部(アールーパブミ)に分けられます。カーマブミのパゴダの壁面には、カルマヴィバンガ(Karmavibhannga)[1]から取った物語が彫られています。カルマヴィバンガはカンマ(行為)とヴィパカ(結果)についてのお話です。ルーパブミの壁面には、ラリタヴィスタラ(Lalitavistara)[2]とガンダヴユハ(Gandhavyuha、悟りの探求の物語)[3]から取った、仏陀の年代記が彫られています。アールーパブミには壁面もなく、彫刻もほどこされていません。それは「空」を表現しているからです。アールーパブミ自体が大きな塔の敷地になっていて、内部にブッダの坐像があり、メインの塔はパゴダのてっぺんにあります。ボロブドゥールは中部ジャワにおける唯一のパゴダというわけではなく、それ以前にもそれ以後にも、多くの小さいパゴダが至る所にありました。残念ながら、それらの殆どは崩れかけており、国家遺産になっているとは言え、修復は不可能に思われます。

中部ジャワ同様、東ジャワ地方においても、西暦1100年から1500年にかけて、マジャパヒト王国の黄金の統治下で、仏教が隆盛をきわめていました。いたる所に多くのパゴダが建てられましたが、1300年頃になると、イスラーム教がインドネシアに入ってきました。インド商人達によって、スマトラ島西部にもたらされ、すぐにジャワ島に上陸し、東進していきました。ヒンドゥー教王国は既に衰退しており、マジャパヒト王国最後の王はイスラーム勢力によって改宗させられました。仏教は衰退期に入りましたが、何人かの大臣達はそこから逃げ出し、生涯、仏教に帰依しました。ジャワ島最東部に逃げた大臣の一人が、インドネシアの仏教は500年後に眠りから覚めると預言しましたが、1934年にスリランカよりナーラダ大長老という名の僧が布教にやって来て、その預言は真実となりました。



インドネシア仏教の復興

 インドネシアの仏教はマジャパヒト王国が滅亡しても、完全に消滅した訳ではありませんでした。仏教的習慣は人々の生活に根づきましたが、今日その由来は殆ど理解されていません。中国人社会は相当長い間、インドネシアにおいて仏教を保持する役割を果たしてきました。どの中国寺でも仏教、儒教、道教の混淆が見られます。仏教の教えをある程度取り入れている神智学を奉ずる人たちも、仏教保持に貢献してきました。しかしながら、ナーラダ大長老のインドネシア来訪は、インドネシアにおけるテーラワーダ仏教の始まりで、中国人社会、先住民族の社会に広まりました。それは500年間冬眠状態にあった仏教の復興でもあり、インドネシアの仏教発展に新風を吹き込みました。テーラワーダ仏教への理解という光を投じたのです。もっとも中国人社会で主流なのは大乗仏教ですが。

 インドネシアで最初のテーラワーダ仏教の僧が1954年、ミャンマーの故マハーシ・サヤドウの下で得度しました。ヤンゴンでマハーシ・サヤドウの指導によりヴィパッサナー瞑想の修行をし、アシン・ジナラッキタという名前の僧になったのです。インドネシアに帰国した時、僧院がなかったので、中国寺に滞在せざるを得ませんでしたが、ジナラッキタ師の地道な布教活動の成果により、インドネシアの多くの地域で、仏教徒が僧院建設のために布施をするようになりました。マハーシ・サヤドウご自身も1956年、スリランカやタイの僧を伴ってインドネシアにお越しになり、滞在中にインドネシア人比丘、沙弥が何人か誕生しました。

 後年、スリランカからの布教僧のほか、タイのダンマユティカ・ニカーヤ派もテーラワーダ仏教を積極的に布教しました。当時、出家を希望するインドネシア人はタイに行って、比丘になっていたからです。

 インドネシアで最初の僧伽は、アシン・ジナラッキタ師によって創設されたもので、テーラワーダの僧だけではなく、大乗仏教、密教の僧たちも入っていて、今日ではブッダヤーナ派として知られています。一方、1970年代初頭、比丘になるために単独でタイに渡ったインドネシア人が何人かいて、同地で数年間テーラワーダ仏教について学んだ後、帰国しました。そのうちの5人はブッダヤーナ派には所属せず、テーラワーダ仏教のみの布教に力を入れる新しい僧伽を作りました。インドネシア・テーラワーダ僧伽(Sangha Theravada Indonesia、以下STI)と呼ばれる一派で、タイのダンマユティカ・ニカーヤ派の支援を受け、ヴィナヤ(戒律)を厳格に守っています。そのほかにも、インドネシアには大乗仏教、密教、日蓮宗、弥勒宗の僧伽があります。



仏教人口

 インドネシアの2億2千万人の人口の大半はイスラーム教徒です。イギリス、ポルトガル、スペイン、オランダの植民地時代にもたらされたカソリック、プロテスタントは二番目、三番目に多く、仏教徒、ヒンドゥー教徒は少数派です。仏教人口は約2百万人ですが、中央および東ジャワ地方には住民の大半が仏教徒という村もあります。

 テーラワーダ仏教の僧院は約1000あり、そのうちのいくつかはかなり大きく、布教活動の中心になっています。しかしテーラワーダ仏教の僧の数は少なく、増加率も大きくありません。STI、ブッダヤーナ派僧伽にそれぞれ60名ほどのテーラワーダ仏教僧がいて、大乗仏教派、密教派の僧も合わせると、約200名になります。



教育と実践

 仏教は発展しつつあり、仏教系の基金の中には大学レベルにまで到る教育施設を建てたところもあります。仏教の研究に関心があり、教師になりたい在家信者のための、仏教大学もいくつかあります。比丘や沙弥たちはそこには入学せず、別の特別クラスで仏教について勉強します。ミャンマーやスリランカ、タイに渡って勉強を続ける人たちもいます。

 瞑想に関心のある人たちは、瞑想センターや僧院で指導される瞑想プログラムを実践できます。初期の頃はマハーシ・システムのヴィパッサナー瞑想が教えられていましたが、近年ではゴエンカ・システムやパー・アウッ・システムも盛んになっています。

 2009年、マハーシ・システムのヴィパッサナー瞑想が実践できる新しいセンターが開設され、チャンミ・サヤドウやサヤドウ・ウ・ササナ、サヤドウ・ウ・ナンダシッディなどの著名な指導者が、ミャンマーより招聘されています。一年のうちで都合のいい期間を選び、ふさわしい指導者の下で実践ができるようになりました。(詳細はwww.yasati.orgをご覧ください。)



修行プログラム

 インドネシアの仏教社会は、仏教人口を増やし、仏教をさらに発展させるために、資格のある教師を持ち、僧伽の人員を増やすことに関心を向けなければなりません。

 仏教徒には結婚して家庭を持つか、独身でいるかという人生の選択あります。そして独身でいようと決めた者たちは、比丘や比丘尼になるという選択があります。テーラワーダでは比丘尼の伝統は約1000年前に途絶えてしまって、今日、比丘尼はもはや存在しません。しかし、家庭を持たない人生を送ろうと決めた女性はアナガリニ(ミャンマーではティラシンまたはサヤレーと呼ばれています)になることができ、尼僧院で生活し、八戒または十戒を守るのです。一方、男性は僧になり、清浄な人生を送ることができます。

 インドネシアの僧伽は僧伽の人員を増やす、或いは少なくとも現状を維持するために、あらゆる対策を講じなければなりません。しかしながら、二、三年比丘として過してから還俗し、結婚する人たちがいます。仏教徒社会はそのような人たちに対して否定的で、見下しさえもします。また困ったことに、結婚することが人が歩むべきまっとうな道で、結婚しないことは異常なこと、比丘になるなどはもっと悪いこと、というような社会通念があるので、親たちは通常、息子が出家することを許しません。以上のような訳で、現存の僧伽は困難に遭遇しており、人々が良い仏教徒となるように教育する、よりよい手段を模索しています。

 ここではSTIの、比丘または沙弥への興味を喚起するための修行プログラムについて触れておきましょう。STIが行っている、一時出家プログラムは数種類あります。通常は15日間のものです。

· 10代の若者のための一時出家プログラム

· 大学生のための一時出家プログラム

· 一般のための一時出家プログラム

· 1ヶ月間の一時出家プログラム

· 3ヶ月間の一時出家プログラム

 STIでは、比丘志望者はいくつかのステップと試験を経なければなりません。3ヶ月間の一時出家プログラム、健康診断、適性テスト、面接です。これらのステップを踏んだ後、志望者は2年間沙弥として修行し、その間に仏教教育を受けます。一年間は特別クラスで、あとの一年は先輩僧の指導の下、伝道のための訓練を受けるのです。そして2年のプログラムを修了した者が、STIより一人前の僧として認められます。

 ブッダヤーナ派、大乗仏教派、密教派もダンマの伝道に熱心で、それぞれの出家希望者を支援し、タイ、台湾、インドに派遣しています。



要約

 古代のパゴダ、発掘された遺跡では、仏像は常に数体の菩薩像に囲まれています。パゴダの壁にほどこされた彫刻には、大乗仏教経典から採られた仏教の物語が描かれています。以上のことから、初期にインドネシアで発展したのはインドから来た大乗仏教であったことが分かります。

 インドネシアの仏教黄金時代は約千年続き、強力なイスラーム王国の侵入で、東ジャワ地方のマジャパヒト王国が没落したことにより、衰退の憂き目を見ました。しかし仏教に基づく習慣はインドネシアの人々の暮らしに根づき、今日でもそれが残存している共同体があります。

 インドネシアの仏教復興は、スリランカの布教僧ナーラダ大長老によってもたらされ、それがインドネシアでのテーラワーダ仏教の始まりでもありました。そしてその発展の過程において、何人かのインドネシア人比丘が誕生して、僧伽が創設されました。

 仏教はインドネシアで発展途上にあり、仏教人口は増えつつあり、ダンマについての理解、戒を守る生活、慈善、瞑想の実践も高まりつつあります。しかしながら、さらなる仏教発展のためには、資格のある教師、比丘の存在が欠かせません。彼らが信奉者を導き、純粋性を保持し、多くの人に伝道できるのです。



仏法僧への信により、皆さんが直ちに、涅槃という最高の幸福を得られますように。

サードゥ、サードゥ、サードゥ!



--------------------------------------------------------------------------------

[1]『分別善悪応報経』(訳者注)

[2]『方広大荘厳経』(訳者注)

[3]『華厳経入法界品』(訳者注)

inserted by FC2 system