関西ダンマサークルの報告2011.5


関西ダンマサークルの報告をさせていただきます。

◆5月22日(日)/マーヤーデーヴィー精舎
9:00 ~11:30 自主冥想
11:30~12:00 お釈迦様へお食事のお布施
12:00~13:00 昼休み
13:00~13:30 会議
13:30~14:00 自己紹介
14:00~17:00 勉強会 参加者16名

今回は広島ダンマサークルから、SHさま、SMさまがお子さんと一緒に参加されました。FTさま、FJさまの参加もあり、和やかな雰囲気で広島ダンマサークル、丹後ダンマサークル、関西ダンマサークルの交流がはかられました。

勉強会では“「心のお喋り」はエンドレス ~ブッダは「沈黙の聖者」です~”の後半を聴きました。その後のディスカションでは、「相手の話す内容が嫌だと思っても聞かないといけないことがある。どのように対応するといいか」等の疑問について話し合いました。

次回の関西ダンマサークルは6/26(日)にアラナ精舎で開かれます。
テキストは“騙されない生き方 ~嘘に踊らされず、疑心暗鬼にもならない方法~”です。

以下は法話の内容報告です。
不十分な点はあると思いますが、ご参考になれば幸いです。





「心のお喋り」はエンドレス ~ブッダは「沈黙の聖者」です~(後半)

怒り憎しみに引きずり込む、その方法が喋ることです。
何を言うかの判断は自我がしていて、自分のエゴを応援するものを言い、自我が傷つくような事は言いません。「成功したら言う、失敗したら言わない」と人間のやり方というのは汚いのです。

聞いた相手の心は汚れるし、喋った本人の心も同じ煩悩でさらに感染して汚れます。
煩悩は発散して終わりません。使えば使うほど増えます。

私達は他人の気持ちを理解したいし共感もしたいけれど、それは無理です。
心の中で噴火する感情・煩悩を喋っても、言葉は極端に主観だから、同じ噴火が起こるとは限りません。人は勝手に感情を引き起こします。起こす感情は個人の状況(主観、感情、妄想)によって変わります。人が怒って喋ったとしても、自分の精神状態によって、一緒に怒るか、無視するか、笑っているかと態度が変わるのです。

思考妄想するたびに貪瞋痴がたまります。サンカーラという衝動が強くなる、悪業がどんどん増えるのです。幸福に生きる権利を捨てることになります。自己破壊します。

頭の中が舞台です。私達は頭の中で、自分が主役のドラマを演じています。ストーリーは自分の煩悩に合ったものを作ります。例えば、嫉妬が強いなら嫉妬で悩むストーリーを作って演じます。演じると蘇りますから、怨み、憎しみ、嫉妬、邪見等の煩悩が拡大するのです。自主行為で自分が不幸になります。

しかし思考は止まらない、止めることはできないのです。私達は煩悩がなくても、人と喋らないといけないし、自分自身でも頭の中で物事を整理整頓しないといけない。勉強して喋ってみると、理解できるし覚えられる。思考は必要です。お喋りは有効ないいものでもあります。

ですから、言葉の制御(聖正語)、思考の制御(聖正思惟)が断然的に必要です。不幸になる思考を止めて、幸福になる思考をする。言葉は自我で管理せず、幸福で管理する。私も幸福、相手も幸福なら言う。私も不幸、相手も不幸なら言わない。

経典に入っている仏教の沈黙について。
牟尼Muni(仙人・聖者)に沈黙行者という意味があります。インド人は「聖者は喋りません」と思っていたのです。釈尊は黙ることでは牟尼にならないという立場を取られました。

牟尼の行(沈黙行)は3つあります。仏教の沈黙は3つ。体の沈黙、言葉の沈黙、心の沈黙です。
①体の沈黙:殺生しない・盗みはしない・(出家の場合は)性行為から離れる
(在家の場合は)不倫をしない
②言葉の沈黙:嘘を言わない・噂を言わない・粗悪語を使わない・無駄話をしない
③心の沈黙は、解脱に達すること。

心の沈黙は難しいのですが、私達には体の沈黙、言葉の沈黙はできます。喋ってもいいのです。それでブッダに認められる立派な仙人の道を歩んでいる。これで煩悩も無く悟ったら正真正銘の仙人です。逆に言えば解脱に達するまでお喋りはなくなりません。

お釈迦様は比丘達に「集まった時は聖なる沈黙(大勢の比丘がいても、黙って冥想中)を守るか、真理を語るかという2つの1つをするべき」と仰いました。完全沈黙と仰ってはいません。黙ることは仏教的な沈黙ではありません。

聖なる沈黙というのは第2禅定に入ることです。
第2禅定に達したら言葉が止まります。頭の中で喋ることはなくなるのです。
思考が止まると、うちがとても清らかになります。こころは統一します。

モッガッラーナ尊者が悟る前の修業時代、第2禅定に入っても言葉に関わる慨念が湧いてきました。それをみて釈尊が「聖なる沈黙に対して怠ってはならない。聖沈黙に心を統一しなさい。聖沈黙の禅定に入りなさい」と躾なさいました。

一旦禅定を作ったら繰り返しそこに入ってしっかりします。第2禅定に入ったら誰でもある時期思考なしでいられます。しかし10分とか30分とか経つと、ぱっとお喋りが上がってきます。悟りに達したらその問題はないのです。
お釈迦さまが聖なる沈黙ということで厳しく言われたのは、解脱のことなのです。禅定のことではないのです。

この経典では第2禅定に達すると、思考妄想の流れが止まることになるのです。
しかし、これは「言語の止」です。

言葉のラベルを貼る前に、心に概念、認識、知ること(=想・サンニャーsa``q)が起きて
います。しかし表現が出来ないので、言葉というラベルを貼っておきます。言葉は後から来ます。ですから、ラベルの停止で全て停止ではないのです。

第2禅定でお喋りは終わりますが、概念は回転しています。それは捏造と言います。私達は必ずデータを捏造するのです。ですから、捏造する機能が想とも言えます。

ヴィパッサナー冥想では、言葉を使って思考停止の訓練をします。あえて言葉を使うことで、経験と言葉が何の関係もないと発見します。それだけで自我が破れる可能性があります。ヴィパッサナー実践で捏造機能を停止させると、真理が顕わになって、煩悩が消え、解脱に達します。概念の停止が本物の心のストップです。

俗世間では思考しないで行動することは無理なので、常識の範囲で心の中で喋ることが必要です。言葉という経験に貼るラベルを組み合わせて、新たな絵を描いてそれを実行します。ですが私達の頭の中はゴミばかりで、ろくな絵が描けません。
ですから行動もそうなります。まず頭の中で美しい、線の少ない、無駄のない言葉の絵を
描かなくてはいけない。それが出来たら人生は最高です。

言葉の絵を傑作にするには、妄想も無駄な思考も止める訓練をする。
・感情を制御する。慈悲の冥想をする。妄想がなくなる。
・感情を制御する。感情の思考妄想を気づいた瞬間で停止する。
・頭に仕事がない時、慈悲の冥想をする。慈悲喜捨で心を埋め尽くす。
・苦・無常・無我の見方で世を観察する。
・論理的、理性的であること。常に具体性を重んじること。
・実践性に欠けている観念を避ける。 
・有意義という条件を伴わない思考は、有害な妄想だと確認する。私達はどうしても妄想します。有害な妄想は止めて、清らかな思考妄想でいればいい。
・聖正思惟、聖正語を実践。
・喋る場合は最小限にする。
・言葉を選んで喋る。ちょっとリハーサルして、この言葉でよいのかと選んで喋る。
・語る時は相手に語る。自分の感情はどうでもいい。相手が理解する用語で語る。
つぶやき調子はダメです。いつでもアイデアがあって相手に伝えるようにと喋る。
・冥想実践で思考妄想停止の訓練。ヴィパッサナー冥想は欠かせない。

テーマがない心のお喋りは人に最大の不幸を招きます。
だからと言って言葉を止めるわけにもいきません。
仏教はただ行為としての沈黙は認めていない。精神的沈黙を語っています。
聖なる沈黙というのは悟りの事です。

お幸せでありますように Y. O

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