関西ダンマサークルの報告2011.4


関西ダンマサークルの報告をさせていただきます。

“「心のお喋り」はエンドレス ~ブッダは「沈黙の聖者」です~”

私達はずっと頭の中で終わりなく喋っている 仏教が目指すのは沈黙

何故沈黙を目指すのかというと、頭の中で喋っていると不幸になるからです。
精神的な力が無くなり→体が弱り→脳が弱り→精神的に酷い病気になる。

仕事、大事な事をするとお喋りはコントロールできます。 
      物凄く忙しい人がけっこう元気なのはお喋り時間がないからです。

頭の中で喋るのは感情的な、ネガティブな、自己破壊的な事ばかり。
自分勝手に考えるだけで、情報に感覚器官をあけておかない。 
現実離れ、妄想だけになる。幻覚まで引き起こして、脳が壊れていく。

口、頭で喋っている間体は動いていない。頭で喋るのに忙しくて気づかないけれど
私達はかなりの時間動いていません。思考は有意義ではない。問題は解決したわけではないし体は動かない。経済的なロスです。そこを治せばたちまち幸福になります。

その場合は人が何かする。何かするということはかなりの結果になります、あまり無駄な事はやりたくはない。人は体でやる場合は如何にはやく効率良くしようかとする。
頭では無駄なお喋りに耽ります。

最初人が言葉を作ったのに、言葉が独立して暴走 どうにもならなくなる

言葉は初めからあるのではなく、人が作りました。
生まれてから徐々に言葉を学びます、持って生れません。

最初人が言葉を作ったのに、言葉が独立組織になってしまって、頭の中で常に喋るようになります。言葉の鎖にひっかかって、エゴという柱に溶接されている状態になります。
(溶接:二つの金属の接合部を高熱で溶かして継ぎ合わせること)
言葉が回る場合はエゴを中心にして回ります。





言葉の使い方を学んでみましょう

<体験と言葉>
五感(眼、耳、鼻、舌、身)に情報が触れると、体に何か体験が起こる。これを認識といいます。その経験が人の主観です。(五感は個人に各1セットついているので、自分が経験するものは自分だけの体験であって、それには主観という)

<他人とコミュニケーションする為に 言葉を学ぶ>
私達は感じたことを周りに表現したくなります。
赤ちゃんの言葉はオギャーと泣くか笑うこと。母親には何を言っているのか分からない。赤ちゃんもなんで分かってくれないのかと苦労するorした経験があります。それで母親が言葉を教える。お互いコミュニケーン出来ている気分になる。言葉は気分、理解できた訳じゃない。

<それからリハーサル>
それから他人と喋る前にリハーサルする。
ちいさな子供のリハーサルは、言葉のオウム返し。あっていてもあっていなくても言って周りから訂正してもらって言葉を覚えます。大人も外国語を覚える時はこれ。

本当のリハーサルは「相手とどのように喋ればいいか」と頭の中で行っていて、これが死ぬまで続きます。ちいさな子~中学生までは、言ってはいけないとかリハーサルせずそのまま喋ります。(子供の言葉の方が説得力がある。かえって信頼する)

リハーサルする方がいい、特に教育の場合は。ただ私達は、相手と話す計画がなくても
気持ちがなくても、その人と頭の中でずっと喋っている、これが問題です。

<本番で失敗>
「家に帰る」というシンプルな文章に対しても、人によってイメージは違います。
(普通名詞でよく起こる出来事、固有名詞ではそれほど問題は起こらない)
コミュニケーションは成り立っていない。私達は「分かっています」という
錯覚で生きていますが、リハーサルを無限にしても、完全に相手を理解する事は出来ない。この失敗も心の中のお喋りを強化する。

<頭の中で喋る その認識体験で「自分がいる」という実感が湧く>
①色、声、香、味、触、法の6つの情報が眼、耳、鼻、舌、身、意の感覚器官にふれる

②感覚(ヴェーダナー)が生じる 
   ・感覚は苦(イヤ)、楽(楽しい)、不苦不楽(つまらない)の3種類で、このうちの
どれかを常に感じている。
③感覚に「言葉」というラベルを貼る 
        ・言語上、主語と動詞は必要。「私が見る」「私には見えている」ということになって
         証拠はないのに自分がいると思ってしまう。 
         (「ご飯が美味しいは」言語的に間違い。「これが私に美味しいです」と
          「誰に味わった時に美味しい」と言わないといけない)
        ・言語が勝手に歩きだした時に自我が生まれた。自我があると言いたかったら
         現実は違っても、言葉が先にあったと言わないといけない。
④それにあわせて怒り、欲、無知などの煩悩が生まれて心が汚れる
   ・舞台を観て「私の感覚は良くなかった」ら「舞台は良くなかった」
      音を聞いて楽を感じたら「音楽」、苦を感じたら違う名前「下手ですね」などと言う。
      これがとんでもない罪、我々は人のせいにする。
 ⑤存在に対する執着が生まれる
   ・貪、瞋、痴が生まれたら凄く嫌な状況で、どうにかしていい方向に持って
いかなくてはいけない、これはいかんという気分で、執着という生きる
衝動、欲が生まれる。                            

煩悩のヴィールス 自我の病

人は煩悩というヴィールスを他人にまき散らしたくなる。それで喋らずにいられない
興奮に陥ります。自分の興奮、煩悩をとにかくまき散らす。

人の話はそのまま聞かない。どんな主観、感情、好みを我々に押しつけようとして
いるのか区別、客観的なデータか主観かを区別することが必要です。
怒り憎しみに引きずり込む、その方法が喋ることです。そこでも自我が言ってもいいこと言わないことがいいことを分ける。道徳ではなく自我が分ける。

<後半へ続く>


  Y. O

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