関西ダンマサークルの報告2010.10


関西ダンマサークルの報告をさせていただきます。

◆10月24日(日)/マーヤーデーヴィー精舎
 9:00 ~11:45 自主冥想 
11:45~12:00 お釈迦さまへお食事のお布施orお供え
12:00~13:00 昼休み
13:00~13:55 火災訓練、会議 
14:00~17:00 勉強会(参加者14名)

今回は あなたの命が、もしあと一日だったら~仏教の「不死なる道」~の
前半を聴きました。

<内容のまとめ>

この世で唯一確かな現象は「死」です。人はそれを認めないで、死を避けるように必死に努力して、なんとか生きています。

死を避けようとするのが「無知」。それが土台になって「欲」「怒り」あらゆる煩悩が生まれます。
食べ物やお金など自分の命が繋がる物があると思うと、それに対して欲が生まれ、ライバル、自分が生きていられなくなるものには腹が立つのです。

「死ぬはずはない」と思っていると、肉体の維持管理に必死になる、財産名誉のためになんでもやる
自分を守るために人に迷惑をかける、老に病に怯える、物、人に執着する、肉体と肉体の周りの物(眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるものなど)にしか興味がなくなる。それで人間は生きる幸福を失うのです。

こころが煩悩で燃えると、こころに管理されている体も燻されて、寿命より短くしか生きていられなくなります。俗世間の知識で道徳的な思考だけお釈迦様は認めています。

死を認めれば、一切の争いは終わります。憎しみ合うこともありません。
壊れないと思うと乱暴に扱います。だから世の中は良くならないのです。

死は確実で避けられないと知ると、その瞬間で幸せになります。
「生きていること自体が不思議だよ」と楽しくなるのです。

「死ぬ」と知っているという人がいますが、それは嘘です。自分や親しい人の死は認めていません。癌を宣告されるとショックを受けるし、親しい人が亡くなると嘆き悲しみます。死を認めると誰が死んでも冷静なのです。

事実を認められないのは、精神的な強さがないからです。

死は確定していますが、時間は不確定です。次の瞬間から死ねるのです。
ほんのちょっとした事ではじけるから、どう生きるのかということに興味を持ってほしい。

必要でないものに神経は使わない。無意味な事はしない。

死の随観を実践して、切迫、緊急という気持ちを育てる。
非常に緊急な場合、妄想する暇がなくなります。だからこころにすごい力が出てくるのです。

仏弟子が「死ぬ」のを朝晩観察するために、釈尊が作った詩があります。
それが「箭経」で、この経典を読むことで無知が消え、事実を認める勇気がわいてきます。こころが清らかになります。

仏教の人は「死を認める訓練」をします。

<箭経の概略>

何の徴(しるし)もなく人は死ぬ。生きることは苦。

生まれたら死を免れる方法はない。老いて死ぬ、それが法則。

生まれたものに死の怖れ常にあり。

人の命は簡単に壊れる。

誰にも誰かを助けることは出来ない。

死にかけている。悲しいけれど、それを止めることは出来ない。

彼がどこから来たのか、死んでどこに行くか分からないでしょう。
突然来て死ぬ、どうってことないでしょう。

泣いてあなた方は得をするのでしょうか。

泣いて静寂にはならない、尚悲しくなり身はそこなわれる。

泣いても死んだ人の役に立たない。

短い自分の命も無駄に過ごす。

みんな自分の業、行いによって死んでいく。みんな震えながら死んでいく。
世の中をよく見てみなさい。

死なないように、年を取らないようにと期待しても起こることは反対です。
そういう法則を理解しなさい。

百歳まで生きても死ぬ。長生きする人は親族が死ぬのを見なくてはいけない。
長生きをするのも苦しい。

これは聖者の言葉だよ。だから理解しなさい「死ぬという事実(壊れるという法則)」。

家に火がついたら水をかけて消す。このように賢者は悲しみをたちまち消す。

死を認めないという無知が箭(矢)のごとくに刺さって、こころが苦しんでいる。箭を引き抜いてください。

箭を抜いてしまえば、心は一切の苦、悲しみを乗り越える。涅槃を経験できます。

<終わり>

※「箭経」は「日常読誦経典」(日本テーラワーダ仏教協会発行)に掲載されています。

法話の後、法話や他の資料を参考に意見交換をしました。

★次回の関西ダンマサークルは11/28(日)にマーヤーデーヴィー精舎で行います。今回のテキストの続きを聴きます。

お幸せでありますように  YO

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