小部経典9:テーリーガーター

2010.9.5更新

阿羅漢にして 正自覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る


 テーリーガーター聖典(長老尼偈経)


1 一なるものの集まり


1.1 或るどこかの長老尼の詩偈


1.(1) 長老尼よ、安楽に眠れ――ぼろ布で〔衣“ころも”を〕作って、〔それを〕着た者となり。まさに、おまえの貪り〔の思い〕は、寂静となった――釜のなかの乾いた菜のように。ということで――


 まさに、このように、或るどこかの〔名の〕知れない長老比丘尼は、詩偈を語った、という。


1.2 ムッター長老尼の詩偈


2.(2) ムッター(人名)よ、ラーフ(阿修羅の一類で日蝕や月蝕を引き起こすとされる)の補足から月が〔解き放たれる〕ように、諸々の束縛から解き放たれよ。解脱した心によって、借りなき者となり、〔行乞の〕食を受けよ。ということで――


 まさに、このように、世尊は、この詩偈によって、学びつつあるムッターを、何度となく教え諭す、という。


1.3 プンナー長老尼の詩偈


3.(3) プンナー(人名)よ、諸々の法(教え)によって、十五〔夜〕の月のように、満ち溢れよ。円満成就された知慧(般若・慧)によって、闇の集塊“かたまり”を破れ。ということで――


 まさに、このように、プンナー長老尼は、詩偈を語った、という。


1.4 ティッサー長老尼の詩偈


4.(4) ティッサー(人名)よ、〔三つの〕学び(戒・定・慧の三学)によって、学べ。諸々の束縛が、おまえを超え行くことがあってはならない。一切の束縛について束縛から離れた者となり、煩悩(漏)なき者として、世を歩め。ということで――


 ……ティッサー長老尼は……。


1.5 或るどこかのティッサー長老尼の詩偈


5.(5) ティッサー(人名)よ、諸々の法(教え)に専念せよ。〔いかなる〕時節であろうが、おまえを過ぎ行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。なぜなら、〔いかなる〕時節であろうが〔無駄に〕過ごした者たちは、地獄に引き渡され、憂い悲しむからである。ということで――


 ……或るどこかのティッサー長老尼は……。


1.6 ディーラー長老尼の詩偈


6.(6) ディーラー(人名)よ、止滅〔の境地〕を、表象〔作用〕(想:認識対象を表象し概念化する働き)の寂止という安楽〔の境地〕を、体得せよ。涅槃〔の境処〕を、束縛からの〔心の〕平安という無上なるものを、達成せよ。ということで――


 ……ディーラー長老尼は……。


1.7 ヴィーラー長老尼の詩偈


7.(7) ヴィーラー(人名)よ、勇者たちの諸々の法(教え)によって、〔感官の〕機能(根)が修められた比丘尼となり、軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身“からだ”を保て。ということで――


 ……ヴィーラー長老尼は……。


1.8 ミッター長老尼の詩偈


8.(8) ミッター(人名)よ、信によって出家して、〔善き〕朋友たることに喜びある者と成れ。束縛からの〔心の〕平安を得るために、諸々の善なる法(教え)を修めよ。ということで――


 ……ミッター長老尼は……。


1.9 バドラー長老尼の詩偈


9.(9) バドラー(人名)よ、信によって出家して、幸いなることに喜びある者と成れ。諸々の善なる法(教え)を、束縛からの〔心の〕平安という無上なるものを、修めよ。ということで――


 ……バドラー長老尼は……。


1.10 ウパサマー長老尼の詩偈


10.(10) ウパサマー(人名)よ、〔貪欲の〕激流を、極めて超え難い死魔の領域を、超え渡るのだ。軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身“からだ”を保て。ということで――


 ……ウパサマー長老尼は……。


1.11 ムッター長老尼の詩偈


11.(11) 善く解き放たれた。善きかな、三つの曲がったものからの解き放ちによって、〔わたしは〕解き放たれた者として、〔世に〕存している。しかして、〔わたしは〕臼と杵と夫という曲がったものによる〔束縛から解き放たれた者として〕、生と死から解き放たれた者として、〔世に〕存している。〔迷いの〕生存(有)に導くもの(煩悩)は完破された。ということで――


 ……ムッター長老尼は……。


1.12 ダンマ・ディンナー長老尼の詩偈


12.(12) 終滅(涅槃)にたいする欲〔の思い〕が生じた者(涅槃への意欲を起こした者)として、かつまた、〔その〕意“おもい”に満たされた者として、〔世に〕存するように。諸々の欲望〔の対象〕にたいし、心が縛られない者は、「上流にある者(欲界を離れた者)」と呼ばれる。ということで――


 ……ダンマ・ディンナー長老尼は……。


1.13 ヴィサーカー長老尼の詩偈


13.(13) 覚者(ブッダ)の教えを為せ。それを為して苦しまない〔からである〕。すみやかに、〔両の〕足を洗い清めて、一方に坐せ。ということで――


 ……ヴィサーカー長老尼は……。


1.14 スマナー長老尼の詩偈


14.(14) 〔十八の認識の〕界域(十八界)を「苦しみである」と見て、〔迷いの〕生に、ふたたび帰り来てはならない。〔迷いの〕生存にたいする欲〔の思い〕を離貪させて、〔おまえは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むであろう。ということで――


 ……スマナー長老尼は……。


1.15 ウッタラー長老尼の詩偈


15.(15) 身体“からだ”によって、言葉によって、あるいは、心によって、〔自己が〕統御された者として、〔わたしは〕存した。渇愛を根ごと引き抜いて、〔心が〕冷静“おだやか”と成った〔わたし〕は、涅槃に到達した者として、〔世に〕存している。ということで――


 ……ウッタラー長老尼は……。


1.16 年老いて出家したスマナー長老尼の詩偈


16.(16) 年老いた者よ、おまえは、安楽に臥せ――ぼろ布で〔衣を〕作って、〔それを〕着た者となり。まさに、おまえの貪り〔の思い〕は、寂静となった。〔心が〕冷静と成った〔おまえ〕は、涅槃に到達した者として、〔世に〕存している。ということで――


 ……年老いて出家したスマナー長老尼は……。


1.17 ダンマー長老尼の詩偈


17.(17) 〔行乞の〕施食(托鉢行)を歩んで、力弱き〔わたし〕は、棒(杖)に頼って、四肢が揺れ動きながら、まさしく、そのまま、地に落ちた。身体における、〔この〕危険を見て、しかして、わたしの心は解脱した。ということで――


 ……ダンマー長老尼は……。


1.18 サンガー長老尼の詩偈


18.(18) 家々を捨棄して出家して、子を、家畜を、愛しい者を捨棄して、しかして、貪りを、かつまた、怒りを捨棄して、さらには、無明を離貪させて、渇愛を根ごと引き抜いて、〔わたしは〕寂静なる者となり、涅槃に到達した者として、〔世に〕存している。ということで――


 ……サンガー長老尼は……。


 一なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


2 二なるものの集まり


2.1 アビルーパ・ナンダー長老尼の詩偈


19.(19) ナンダー(人名)よ、病んで、腐った、不浄の積身“からだ”を見よ。〔身体について〕美しくない〔とする想い〕(不浄想)によって、一境に善く定められた心を修めよ。


20.(20) さらには、無相〔の想い〕を修めよ。思量の悪習(随眠)を廃棄せよ。そののち、思量の寂止あることから、〔おまえは〕寂静なる者として、〔世を〕歩むであろう。ということで――


 まさに、このように、アビルーパ・ナンダー長老尼は、諸々の詩偈を語った、という。


2.2 ジェンター長老尼の詩偈


21.(21) すなわち、これらの七つの覚りの支分(七覚支)が、涅槃〔の境処〕を得るための諸々の道であるなら、それらは、覚者(ブッダ)によって説示されたとおりに、〔その〕全てが、わたしによって修められた。


22.(22) まさに、わたしによって、世尊である彼(ブッダ)は見られた。これは、最後の積身“からだ”である(死後、涅槃に行く)。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 まさに、このように、ジェンター長老尼は、諸々の詩偈を語った、という。


2.3 スマンガラの母なる長老尼の詩偈


23.(23) 善く解き放たれた者よ、善く解き放たれた。善きかな、〔わたしは〕杵の〔束縛から〕解き放たれた者として、〔世に〕存している。あるいは、また、わたしの恥〔の思い〕なき〔夫〕は、劣小にして、わたしの鍋は、水蛇〔の臭い〕を放つ。


24.(24) わたしは、しかして、貪りを、さらには、怒りを、「チッチティ、チッチティ」と打ち払う。その〔わたし〕は、木の根元へと近づき行って、〔独り〕瞑想する――「ああ、安楽なのだ」と、安楽なるがゆえに。ということで――


 ……スマンガラの母なる長老尼は……。


2.4 アッダカーシー長老尼の詩偈


25.(25) カーシー地方にあるかぎりの収入――〔娼婦である〕わたしには、それだけ〔の収入〕が有った。町の者は、その〔収入〕に評価を為して、富については、評価しえないものと、わたしを認定した。


26.(26) しかして、わたしは、〔自らの〕形姿(色)について厭離した。かつまた、わたしは、厭離〔の思い〕を離貪した。さらなる生の輪廻を、繰り返し、流転することがあってはならない。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は実証され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……アッダカーシー長老尼は……。


2.5 チッター長老尼の詩偈


27.(27) たとえ、何であれ、痩せ細り、病み、甚だしく力弱き者として、まさに、〔世に〕存するが、棒(杖)に頼って、〔わたしは〕行く。山に登って――


28.(28) 大衣を置き去りにして、さらには、〔行乞の〕鉢を伏せて、巌“いわお”のうえに自己を支えた――闇の集塊“かたまり”を破って。ということで――


 ……チッター長老尼は……。


2.6 メッティカー長老尼の詩偈


29.(29) たとえ、何であれ、苦しみ、力弱く、若さが去った者として、まさに、〔世に〕存するが、棒(杖)に頼って、〔わたしは〕行く。山に登って――


30.(30) 大衣を置き去りにして、さらには、〔行乞の〕鉢を伏せて、かつまた、〔わたしは〕巌のうえに坐した者として存し、しかして、わたしの心は解脱した。三つの明知は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……メッティカー長老尼は……。


2.7 ミッター長老尼の詩偈


31.(31) 半月〔ごと〕の、十四〔日の夜〕と十五〔日の夜〕に、さらには、第八〔日〕のその〔夜〕に、かつまた、半月のうちの特別な〔日〕(七日・九日・十三日・翌一日)にも、八つの支分が見事に備わった〔斎戒〕へと――


32.(32) 〔完全無欠の〕斎戒(布薩)へと、〔わたしは〕近づき行った――天の衆〔と成ること〕を喜ぶ者として。その〔わたし〕は、今日、一食で〔身を保ち〕、剃髪し、大衣を着た者として、〔世に有る〕。心臓(心)のうちなる懊悩を取り除いて、わたしは、〔もはや〕天の衆を望みはしない。ということで――


 ……ミッター長老尼は……。


2.8 アバヤの母なる長老尼の詩偈


33.(33) 〔子が言った〕「母よ、足裏から上に、まさに、頭髪から下に、この身体を、不浄で腐臭あるものと、〔あるがままに〕注視してください」〔と〕。


34.(34) 〔母は答えた〕「このように住している者にとって、一切の貪り〔の思い〕は完破された。苦悶〔の思い〕は断絶され、〔心が〕冷静“おだやか”と成った〔わたし〕は、涅槃に到達した者として、〔世に〕存している」〔と〕。ということで――


 ……アバヤの母なる長老尼は……。


2.9 アバヤー長老尼の詩偈


35.(35) アバヤー(人名)よ、〔この〕身体は、壊れ行くものである――そこにおいて、凡夫たちが、〔あるがままの〕気づきあるなら。〔わたしは〕正知と気づきの者として、この肉身“からだ”を置き去りにするであろう。


36.(36) 多くの苦痛の法(性質)あることから、怠らないこと(不放逸)に喜びあるわたしによって、渇愛の滅尽は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……アバヤー長老尼は……。


2.10 サーマー長老尼の詩偈


37.(37) 四回、五回と、〔わたしは〕精舎から出て行った。心の寂静を得ずして、心において自在なる転起なく。〔まさに〕その、わたしであるが、渇愛が完破されてからのち、第八夜となる。


38.(38) 多くの苦痛の法(性質)あることから、怠らないことに喜びあるわたしによって、渇愛の滅尽は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……サーマー長老尼は……。


 二なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


3 三なるものの集まり


3.1 他のサーマー長老尼の詩偈


39.(39) わたしが出家してからのち、二十五年のあいだ、いついかなる時も、心の静かさが得られたのを、〔わたしは〕証知しない。


40.(40) 心の寂静を得ずして、心において自在なる転起なく。そののち、勝者(ブッダ)の教えを思念して、畏怖〔の念〕(回心の思い)を惹起した。


41.(41) 多くの苦痛の法(性質)あることから、怠らないこと(不放逸)に喜びあるわたしによって、渇愛の滅尽は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。渇愛が干上がってからのち、今日は、わたしにとって、第七夜となる。ということで――


 ……他のサーマー長老尼は……。


3.2 ウッタマー長老尼の詩偈


42.(42) 四回、五回と、〔わたしは〕精舎から出て行った。心の寂静を得ずして、心において自在なる転起なく。


43.(43) 彼女は、わたしにとって、信たる者として有ったが、その比丘尼のところへと、〔わたしは〕近づき行った。彼女は、わたしに、法(真理)を説示した――〔心身を構成する五つの〕範疇(五蘊)と〔十二の認識の〕場所(十二処)と〔十八の認識の〕界域(十八界)〔という諸々の法〕を。


44.(44) 彼女の法(教え)を聞いて、彼女がわたしに教えてくれたとおりに、七日のあいだ、喜と楽〔の境地〕に引き渡された者となり、結跏一つで坐し、第八〔日〕に、〔両の〕足を伸ばした――闇の集塊“かたまり”を破って。ということで――


 ……ウッタマー長老尼は……。


3.3 他のウッタマー長老尼の詩偈


45.(45) すなわち、これらの七つの覚りの支分(七覚支)が、涅槃〔の境処〕を得るための諸々の道であるなら、それらは、覚者(ブッダ)によって説示されたとおりに、〔その〕全てが、わたしによって修められた。


46.(46) 求めていたところの、空性と無相〔の境地〕を得る者として、わたしは、覚者(ブッダ)の正嫡の娘であり、常に、涅槃〔の境処〕に喜びある者である。


47.(47) それらが、諸天のものであれ、さらには、それらが、人間たちのものであれ、一切の欲望〔の対象〕は断絶された。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 ……他のウッタマー長老尼は……。


3.4 ダンティカー長老尼の詩偈


48.(48) ギッジャクータ山(霊鷲山)において、昼住(昼の休息)から出て、川岸で、象が〔水に〕入っては出るのを、〔わたしは〕見た。


49.(49) 男が鉤を取って、「足を差し出せ」と命じる。象は、足を伸ばし、男は、象に登った。


50.(50) 調御されてない〔象〕が調御され、人間たちの支配に赴いたのを見て、そののち、〔わたしは〕心を定め、まさに、そのために、林に赴いた。ということで――


 ……ダンティカー長老尼は……。


3.5 ウッビリー長老尼の詩偈


51.(51) 〔世尊が言った〕「母よ、〔あなたは〕林のなかで、『ジーヴァー(人名)よ』と、泣き叫びます。ウッビリー(人名)よ、自己に到達しなさい。全てで八万四千の、『ジーヴァー』という名を有する者たちが、この火葬場で焼かれました。それらの者たちの誰を、〔あなたは〕憂い悲しむというのですか」〔と〕。


52.(52) 〔ジーヴァーの母は答えた〕「まさに、わたしの、心臓(心)に依拠する、〔凡夫には〕見難き矢を、〔あなたは〕引き抜いてくれました。憂い悲しみに打ち負かされたわたしのために、〔まさに〕その、娘〔の死〕の憂い悲しみを、〔あなたは〕除き去ってくれたのです。


53.(53) 〔まさに〕その、わたしは、今日、矢が引き抜かれた無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者として〔存しています〕。覚者(仏:ブッダ)に、しかして、法(法:ダンマ)に、さらには、僧団(僧:サンガ)に、牟尼を帰依所に、〔わたしは〕近づき行きます(仏法僧の三宝に帰依する)」〔と〕。ということで――


 ……ウッビリー長老尼は……。


3.6 スッカー長老尼の詩偈


54.(54) ラージャガハ(王舎城:地名)では、人間たちが、蜜を飲んだ者たちのように、〔茫然と〕坐っているが、〔彼らの〕為したことが、わたしにとって、何になるというのだろう。彼らが、覚者(ブッダ)の教えを説示しているスッカー(人名)に近侍しないなら。


55.(55) しかしながら、遮るものなく、混ざりものなしの、〔まさに〕その、滋養ある〔覚者の教え〕を、〔わたしは〕思う――〔待ち望んだ〕雷雲〔の水〕を、旅行く者(遊行者)たちが〔飲み干す〕ように――知慧を有する者たちが飲む。


56.(56) スッカーは、諸々の白き法(教え)によって、貪りを離れ、〔心が〕定められた者。軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身“からだ”を保て。ということで――


 ……スッカー長老尼は……。


3.7 セーラー長老尼の詩偈


57.(57) 〔悪魔が言った〕「世に、出離は存在しない。遠離によって、〔おまえは〕何を為すというのだろう。諸々の欲望〔の対象〕による歓楽を享受しなさい。のちに、悩み苦しむ者と成ってはならない」〔と〕。


58.(58) 〔長老尼は答えた〕「諸々の欲望〔の対象〕は、刃と槍の如きもの。〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)にとっての断頭台である。〔まさに〕その、欲望〔の対象〕による歓楽を、おまえは説くが、今や、それは、わたしにとって、不満なるもの。


59.(59) 一切所で、喜び〔の思い〕は打破された。闇の集塊は破られた。パーピマント(悪魔)よ、このように知りなさい。死神よ、おまえは、打ち倒された者として存している」〔と〕。ということで――


 ……セーラー長老尼は……。


3.8 ソーマー長老尼の詩偈


60.(60) 〔悪魔が言った〕「すなわち、〔まさに〕その、聖賢たちによって得られるべきものにして、〔何ものにも〕征服し難き境位であるが、二指の知慧なる女には、それを得ることができない」〔と〕。


61.(61) 〔長老尼は答えた〕「心が善く定められ、知恵(智)が転起しているとき、法(事象)を〔常に〕正しく観察している者にとって、女として〔世に〕有ることが、いったい、何を為すというのだろう(性差は妨げにならない)。


62.(62) 一切所で、喜び〔の思い〕は打破された。闇の集塊は破られた。パーピマント(悪魔)よ、このように知りなさい。死神よ、おまえは、打ち倒された者として存している」〔と〕。ということで――


 ……ソーマー長老尼は……。


 三なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


4 四なるものの集まり


4.1 バッダー・カーピラーニー長老尼の詩偈


63.(63) 覚者(ブッダ)の子にして相続者たるカッサパ(迦葉:人名・ブッダの高弟)は、〔心が〕善く定められた者である。彼は、過去(前世)の居住を知った。さらには、〔死後に赴く〕天上と悪所(地獄)を〔両者ともに〕見る。


64.(64) しかして、生の滅尽を得た者であり、〔あるがままに〕証知して〔知慧が〕完成された牟尼(沈黙の聖者)であり、これらの三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)によって、三つの明知ある婆羅門と成る。


65.(65) まさしく、そのように、バッダー・カーピラーニー(人名)は、三つの明知ある者であり、死を捨棄する者である。軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身を保つ(死後、涅槃に行く)。


66.(66) 世における危険を見て、わたしたちの両者は、出家者となった。かくのごとく、煩悩が滅尽した〔わたしたち〕は、調御者として、〔世に〕存している。〔心が〕冷静と成った〔わたしたち〕は、涅槃に到達した者として、〔世に〕存している。ということで――


 ……バッダー・カーピラーニー長老尼は……。


 四なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


5 五なるものの集まり


5.1 或るどこかの長老尼の詩偈


67.(67) わたしが出家してからのち、二十五年のあいだ、指を弾く間ばかりでさえも、心の寂止に到達しなかった。


68.(68) 心の寂静を得ずして、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕で〔煩悩が〕漏れ出たわたしは、〔両の〕腕を突き上げて、泣き叫びながら、精舎に入った。


69.(69) 彼女は、わたしにとって、信たる者として有ったが、その比丘尼のところへと、〔わたしは〕近づき行った。彼女は、わたしに、法(真理)を説示した――〔心身を構成する五つの〕範疇(五蘊)と〔十二の認識の〕場所(十二処)と〔十八の認識の〕界域(十八界)〔という諸々の法〕を。


70.(70) 彼女の法(教え)を聞いて、〔わたしは〕一方に近坐した。〔わたしは〕過去(前世)の居住を知る(宿命通)。天眼は清められた(天眼通)。


71.(71) さらには、〔他者の〕心を探知する知恵がある(他心通)。耳の界域は清められた(天耳通)。わたしによって、神通もまた、実証された(神足通)。わたしによって、煩悩の滅尽は得られた(漏尽通)。〔これらの〕六つの神知(六神通)は実証され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……或るどこかの長老尼は……。


5.2 ヴィマラー長老尼の詩偈


72.(72) 〔自らの〕容貌と形姿と栄光に〔驕慢し〕、そして、名声に驕慢した〔わたし〕は――しかして、〔自らの〕若さに支えられたわたしは――他者たちを軽んじた。


73.(73) 愚者が言い寄る、この身体を、種々様々に飾り立てて、〔わたしは〕娼家の門に立った――罠を仕掛けて〔獲物を待つ〕猟師のように。


74.(74) 密やかに、〔あるいは〕明らかに、多くの飾りものを見せながら、〔わたしは〕様々な種類の幻想“まやかし”を為した――多くの人を嘲笑しつつ。


75.(75) その〔わたし〕は、今日、〔行乞の〕食を歩んで(托鉢して)、剃髪し、大衣を着た者となり、木の根元に坐している――思考なき〔境地〕(無尋)を得る者として。


76.(76) それらが、諸天のものであれ、さらには、それらが、人間たちのものであれ、一切の束縛は断絶された。一切の煩悩を投棄して、〔心が〕冷静と成った〔わたし〕は、涅槃に到達した者として、〔世に〕存している。ということで――


 ……遊女の過去あるヴィマラー長老尼は……。


5.3 シーハー長老尼の詩偈


77.(77) 根源“あり”のままに意“おもい”を為すこと(如理作意:固定概念なく思い考えること)なきがゆえに、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に苦悩する〔わたし〕は、かつて、〔心が〕高ぶっている者として、心において自在なる転起なき者(心がままならない者)として、〔世に〕有った。


78.(78) 諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)に遍く取り囲まれ、安楽の想い(想:表象・概念)に〔心が〕転じ行く〔わたし〕は、貪欲心の支配に従い行く者であり、心の静かさを得なかった。


79.(79) 痩せ細り、青ざめ、しかして、色艶は衰え、七年のあいだ、わたしは〔道を〕歩んだ(放浪した)。わたしは、昼であろうと、夜であろうと、極めて苦しみ、安楽を知らなかった。


80.(80) そののち、〔わたしは〕縄を掴んで、林の外れに入った。「しかして、ふたたび、下劣なる〔道〕を歩む、というのなら、ここで〔首を〕吊るのが、わたしにとって優れている」〔と〕。


81.(81) 〔わたしは〕堅固な〔死の〕罠を作って、木の枝に縛って、首に〔その〕罠を置いた。しかして、わたしの心は解脱した。ということで――


 ……シーハー長老尼は……。


5.4 スンダリー・ナンダー長老尼の詩偈


82.(82) 〔世尊は言った〕「ナンダー(人名)よ、病んで、腐った、不浄の積身“からだ”を見よ。〔身体について〕美しくない〔とする想い〕(不浄想)によって、一境に善く定められた心を修めよ。


83.(83)この〔死体〕が〔そうである〕ように、そのように、この〔身体〕は〔成るであろう〕。 この〔身体〕が〔そうである〕ように、そのように、この〔死体〕は〔存していた〕。〔この身体は〕腐った悪臭を放ち、愚者たちの喜ぶところである」〔と〕。


84.(84) このように、昼夜に休みなく、この〔身体〕を注視しつつ、そののち、自らの知慧によって、〔身体について〕厭離して、〔そのあるがままを〕見た。


85.(85) 〔まさに〕その、わたしが、〔気づきを〕怠らず、根源“あり”のままに弁別していると、この身体は、内外共に、事実のとおりに見られた。


86.(86) しかして、わたしは、身体について厭離した。かつまた、わたしは、内に離貪した。〔気づきを〕怠らず、束縛を離れた〔わたし〕は、寂静なる者となり、涅槃に到達した者として、〔世に〕存している。ということで――


 ……スンダリー・ナンダー長老尼は……。


5.5 ナンドゥッタラー長老尼の詩偈


87.(87) わたしは、火を、しかして、月を、しかして、太陽を、しかして、天神たちを礼拝した。わたしは、諸々の川の沐浴場に行っては、水へと降り行く。


88.(88) 〔わたしは〕多くの掟を受持する者として、頭の半分を剃り落とした。〔わたしは〕地に臥所を営む。わたしは、夜の食を食べなかった。


89.(89) かつまた、〔わたしは〕諸々の沐浴や塗身によって〔自らを〕飾り装うことを喜び、この身体を大切にしてきた――欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕によって苦悩する者として。


90.(90) そののち、信を得て、〔家から〕家なきへと出家した。事実のとおりに〔この〕身体を見て、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕は完破された。


91.(91) 一切の生存は断絶された。しかして、欲求が、さらには、切望もまた。一切の束縛について束縛を離れた〔わたし〕は、心の寂静を得た。ということで――


 ……ナンドゥッタラー長老尼は……。


5.6 ミッター・カーリー長老尼の詩偈


92.(92) 信によって家から家なきへと出家して〔そののち〕、わたしは、〔他者からの〕利得と尊敬〔の思い〕に思い入れある者として、そこかしこを渡り歩いた。


93.(93) わたしは、最高の義(勝義:涅槃)を遠ざけて、下劣な義(目的)に慣れ親しんだ。諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の支配に赴いて、わたしは、沙門の資質という義(目的)を放り出した。


94.(94) 精舎〔の部屋〕で坐していた、〔まさに〕その、わたしに、畏怖〔の念〕(回心の思い)が有った。「邪道の実践者として、渇愛の支配に帰り来た者として、〔わたしは〕存している」〔と〕。


95.(95) わたしの生命(寿命)は、僅かである。老が、そして、病が、〔わたしを〕踏みにじる。この身体が朽ち果てる前に、わたしに、怠るための時はない。


96.(96) 〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)の生滅を事実のとおりに注視しつつ、心が解脱した者として、〔わたしは〕奮起した。覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……ミッター・カーリー長老尼は……。


5.7 サクラー長老尼の詩偈


97.(97) 家に住んでいるわたしは、比丘の法(教え)を聞いて、〔世俗の〕塵を離れる法(教え)を、不死なる涅槃の境処を、見た。


98.(98) 〔まさに〕その、わたしは、しかして、子と娘を〔捨て放って〕、さらには、財産と穀物を捨て放って、諸々の髪を断ち切らせて、〔家から〕家なきへと出家した。


99.(99) 〔いまだ〕学びつつある者として存しているわたしは、曲がりなき道を修めつつ、しかして、貪りと怒りを〔捨棄し〕、さらには、それと一なる境位の諸々の煩悩を捨棄した。


100.(100) 比丘尼となり、〔戒を〕成就して、過去の生を思念した(前世を想起した)。天眼は清められた。善きかな、〔世俗の〕垢を離れる〔境地〕は修められた。


101.(101) 諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)を、諸々の因から生じた諸々の壊れ崩れるものを、「他者である(自己ではない)」と見て、〔わたしは〕一切の煩悩を捨棄した。〔心が〕冷静と成った〔わたし〕は、涅槃に到達した者として、〔世に〕存している。ということで――


 ……サクラー長老尼は……。


5.8 ソーナー長老尼の詩偈


102.(102) この形態ある積身において、十子を産んで、そののち、わたしは、力衰え、老い朽ちた者となり、〔或る〕比丘尼のところへと近しく赴いた。


103.(103) 彼女は、わたしに、法(真理)を説示した――〔心身を構成する五つの〕範疇(五蘊)と〔十二の認識の〕場所(十二処)と〔十八の認識の〕界域(十八界)〔という諸々の法〕を。彼女の法(教え)を聞いて、〔わたしは〕諸々の髪を断ち切って、出家した。


104.(104) 〔まさに〕その、わたしが、学びつつあると、天眼は清められた。〔わたしは〕知る――かつて、わたしが住した所である、過去(前世)の居住を。


105.(105) しかして、一境に〔心が〕善く定められた〔わたし〕は、無相〔の想い〕を修める。〔わたしは〕無間“むけん”の解脱ある者となり、〔一切を〕執取せずして、涅槃に到達した者として、〔世に〕存した。


106.(106) 〔心身を構成する〕五つの範疇(五蘊:物質的形態・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用)は遍く知られ、根元から断たれたものとして安立“あんりゅう”している(止み静まっている)。卑しむべき老よ、おまえは、厭わしきものとして存せ。今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 ……ソーナー長老尼は……。


5.9 バッダー・クンダラケーサー長老尼の詩偈


107.(107) 〔わたしは〕髪を刈り、泥を〔身に〕付け、一衣の者となり、かつて、〔道を〕歩んだ――罪なきものについて「罪あり」と思い、さらには、罪あるものについて「罪なし」と見る者として。


108.(108) ギッジャクータ山(霊鷲山)において、昼住(昼の休息)から出て、〔世俗の〕垢を離れる覚者(ブッダ)を、比丘の僧団の尊ぶところの方を、〔わたしは〕見た。


109.(109) 膝を付いて、〔両の足を〕敬拝して、〔覚者の〕面前にて、合掌を為した。〔覚者は〕「バッダー(人名)よ、来たれ」と、わたしに言ったが、それは、わたしにとって、〔戒の〕成就として存した。


110.(110) アンガ〔国〕と、マガダ〔国〕、ヴァッジ〔国〕、カーシー〔国〕と、コーサラ〔国〕が、〔わたしの〕歩むところであった。借りなき者として、五十年のあいだ、わたしは、国土において〔行乞の〕食を受けた。


111.(111) まさに、知慧を有する、この在俗信者(優婆塞)は、まさに、多くの功徳を生んだ――一切の拘束から解き放たれたバッダーに衣料を施した、彼〔こそ〕は。ということで――


 ……バッダー・クンダラケーサー長老尼は……。


5.10 パターチャーラー長老尼の詩偈


112.(112) 諸々の鋤“すき”で田畑を耕す者がいれば、諸々の種を大地に蒔く者がいる。若者たちは、子と妻を養いながら、財を見い出す。


113.(113) 戒を成就したわたしが、教師(ブッダ)の教えを為す者が、どうして、涅槃に到達しないというのだろう――〔心が〕高ぶらず、怠惰ならざる者が。


114.(114) 〔両の〕足を洗って、わたしは、諸々の水のうちに為す(汚れを洗い流す)。しかして、足の水が高きから低きへと流れ来るのを見て――


115.(115) そののち、〔わたしは〕心を定めた――善き生まれの賢馬を〔調御する〕ように。そののち、わたしは、灯明を掴んで、精舎に入った。臥所を調べて、寝床に近坐した。


116.(116) そののち、わたしは、針を掴んで、灯芯を引き下ろした。灯明に涅槃(火が消えること)があるように、心には解脱が有った。ということで――


 ……パターチャーラー長老尼は……。


5.11 三十ばかりの長老尼たちの詩偈


117.(117) 〔女たちに、長老尼が言った〕「若者たちは、諸々の杵を掴んで、穀物を打つ。若者たちは、子と妻を養いながら、財を見い出す。


118.(118) 覚者(ブッダ)の教えを為せ。それを為して苦しまない〔からである〕。すみやかに、〔両の〕足を洗い清めて、一方に坐せ。心の止寂(奢摩他・止)に専念する者となり、覚者(ブッダ)の教えを為せ」〔と〕。


119.(119) 彼女の言葉を聞いて、彼女たちは、パターチャーラー(人名)の教えを〔為す者たちとなり〕、〔両の〕足を洗って、一方に近坐した。〔彼女たちは〕心の止寂に専念する者たちとなり、覚者(ブッダ)の教えを為した。


120.(120) 〔その〕夜の初更(宵の内)に、〔彼女たちは〕過去(前世)の生を思念した(想起した)。〔その〕夜の中更(真夜中)に、〔彼女たちは〕天眼を清めた。〔その〕夜の後更(明け方)に、〔彼女たちは〕闇の集塊を破った。


121.(121) 〔彼女たちは〕立ち上がって、〔パターチャーラーの両の〕足を敬拝した。「あなたの教示は為されました。三十三天〔の神々〕たちが、戦場において敗れることなきインダ〔神〕(インドラ神)を〔尊ぶ〕ように、〔あなたを〕尊んで〔世に〕住むでありましょう。〔わたしたちは〕三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)ある者たちとして、煩悩なき者たちとして、〔世に〕存しています」〔と〕。ということで――


 まさに、このように、三十ばかりの長老比丘尼たちは、パターチャーラーの現前において、他者に説き示した、という。


5.12 チャンダー長老尼の詩偈


122.(122) かつて、わたしは、悪しき境遇の者として、かつまた、寡婦として、子なき者として、〔世に〕存した。朋友たちや親族たちとは別れ別れとなり、〔十分な〕食や〔身に付ける〕ぼろ布には到達しなかった。


123.(123) しかして、鉢と棒を掴んで、家から家へと行乞しながら、さらには、寒さに〔悩まされ〕暑さに焼かれながら、わたしは、七年のあいだ、〔世を〕歩んだ。


124.(124) 食べ物と飲み物を得る比丘尼をふたたび見て、〔わたしは〕近しく赴いて言った。「出家を、〔家から〕家なきへと」〔と〕。


125.(125) しかして、彼女は、パターチャーラー(人名)は、慈しみ〔の思い〕によって、わたしを〔僧団において〕出家させた。そののち、わたしを教え諭して、最高の義(勝義:涅槃)へと駆り立てた。


126.(126) 彼女の言葉を聞いて、わたしは、〔その〕教示を為した。貴婦(大姉)の教諭は、無駄ならざるもの。〔わたしは〕三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)ある者として、煩悩なき者として、〔世に〕存している。ということで――


 ……チャンダー長老尼は……。


 五なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


6 六なるものの集まり


6.1 五百ばかりの長老尼の詩偈


127.(127) 〔弟子に、長老尼が言った〕「彼の、やってきた道を、あるいは、去って行った〔道〕を、〔あなたは〕知りません。では、どうして、〔知らざる所から〕やってきた、その有情を、『わたしの子である』と、〔あなたは〕泣き叫ぶのですか。


128.(128) しかしながら、まさに、彼の、やってきた道を、あるいは、去って行った〔道〕を、〔あなたが〕知るなら、彼を憂い悲しむことはありません。なぜなら、このような法(性質)あるのが、生ある者たちであるからです。


129.(129) 〔彼は〕乞われることなく、そこからやってきました。〔彼は〕許されることなく、ここから去って行ったのです。どこかしらからやってきて、たしかに、数日のあいだは住んでいたとして。ここからまた、他〔の道〕によってやってきた者は、そこからまた、他〔の道〕によって去って行きます。


130.(130) 亡者は、人間の形態(色)で輪廻しつつ、去って行くのです。やってきたように、そのように、〔彼は〕去って行ったのです。そこに、何の嘆き悲しみがあるというのでしょう」〔と〕。


131.(131) 〔弟子は答えた〕「まさに、わたしの、心臓(心)に依拠する、〔凡夫には〕見難き矢を、〔あなたは〕引き抜いてくれました。憂い悲しみに打ち負かされたわたしのために、〔まさに〕その〔あなた〕は、子〔の死〕の憂い悲しみを除き去ってくれたのです。


132.(132) 〔まさに〕その、わたしは、今日、矢が引き抜かれた無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者として〔存しています〕。覚者(仏:ブッダ)に、しかして、法(法:ダンマ)に、さらには、僧団(僧:サンガ)に、牟尼を帰依所に、〔わたしは〕近づき行きます(仏法僧の三宝に帰依する)」〔と〕。ということで――


 まさに、このように、五百ばかりの長老比丘尼たちは……略……。


6.2 ヴァーセッティー長老尼の詩偈


133.(133) わたしは、子〔の死〕の憂い悲しみによって、苦悩し、放心の者となり、想いが離れる者として、〔世に有った〕。わたしは、裸で、さらには、髪を振り乱し、そこかしこを渡り歩いた。


134.(134) 道々の塵芥場“ごみすてば”において、墓場において、そして、諸々の道において、飢えと渇きに引き渡された者として、三年のあいだ、〔わたしは〕歩んだ。


135.(135) しかして、〔わたしは〕ミティラ(地名)の城市へと向かう善き至達者(ブッダ)を見た――調御されざる者たちの調御者たる方を――何ものも恐れない正覚者を。


136.(136) 〔わたしは〕自らの心を得て(正気を取り戻して)、〔覚者を〕敬拝して、近坐した。彼は、ゴータマ(ブッダ)は、慈しみ〔の思い〕によって、わたしに、法(教え)を説示した。


137.(137) 彼の法(教え)を聞いて、〔わたしは、家から〕家なきへと出家した。教師(ブッダ)の言葉に〔常に〕専念しながら、〔わたしは〕至福の境処を実証した。


138.(138) 一切の憂いは断絶され、捨棄され、これを終極としている。まさに、諸々の〔迷いの生存の〕根拠は、わたしによって遍く知られた――諸々の憂いには発生(原因・起源)あることから。ということで――


 ……ヴァーセッティー長老尼は……。


6.3 ケーマー長老尼の詩偈


139.(139) 〔悪魔が言った〕「あなたは、青年で、〔善き〕形姿ある者(美人)です。わたしもまた、青年で、若き者です。ケーマー(人名)さん、さあ、五つの支分ある楽器で、〔わたしたちは〕喜び楽しむのです」〔と〕。


140.(140) 〔長老尼は答えた〕「病み、壊れ崩れる、この、腐った身体によって、〔わたしは〕苦悩し、自責する。諸々の欲望〔の対象〕にたいする渇愛〔の思い〕は完破された。


141.(141) 諸々の欲望〔の対象〕は、刃と槍の如きもの。〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)にとっての断頭台である。〔まさに〕その、欲望〔の対象〕による歓楽を、おまえは説くが、今や、それは、わたしにとって、不満なるもの。


142.(142) 一切所で、喜び〔の思い〕は打破された。闇の集塊は破られた。パーピマント(悪魔)よ、このように知りなさい。死神よ、おまえは、打ち倒された者として存している。


143.(143) 諸々の星宿を礼拝している者たちがいれば、林のなかで火(アグニ神)に奉仕している者がいる。愚者たちよ、〔あなたたちは〕事実のとおりに知ることなく、〔それを〕清浄と思いなした。


144.(144) しかして、わたしは、まさに、最上の人たる正覚者(ブッダ)を礼拝している。一切の苦しみから完全に解き放たれた者として、教師の教えを為す者として」〔と〕。ということで――


 ……ケーマー長老尼は……。


6.4 スジャーター長老尼の詩偈


145.(145) 〔見てくれを〕十分に作り為し、美しい衣をまとい、花飾りをつけ、〔身に〕栴檀を振りまいた〔わたし〕は、全ての装飾品で覆われ、侍女の群れに尊ばれていた。


146.(146) しかして、食べ物と飲み物を取って、少なからざる固形の食料や軟らかい食料を〔取って〕、家を出て、庭園へと〔歩を〕運んだ。


147.(147) そこにおいて、喜び楽んで、遊び戯れて、自らの家へと帰りつつ、〔覚者の〕精舎を見るために、サーケータ(地名)にあるアンジャナ林に入った。


148.(148) 世の灯火たる方(ブッダ)を見て、〔覚者を〕敬拝して、近坐した。彼は、眼“まなこ”ある方(ブッダ)は、慈しみ〔の思い〕によって、わたしに、法(教え)を説示した。


149.(149) しかして、わたしは、まさに、偉大なる聖賢の〔言葉を〕聞いて、真理を理解した。まさしく、そこにおいて、〔世俗の〕塵を離れる法(真理)を、不死の境処を、体得した。


150.(150) そののち、正なる法(真理)を識知した〔わたし〕は、〔家から〕家なきへと出家した。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得された。覚者(ブッダ)の教えは、無駄ならざるもの。ということで――


 ……スジャーター長老尼は……。


6.5 アノーパマー長老尼の詩偈


151.(151) わたしは、多くの富と大いなる財ある高貴の家に生まれた。容貌と形姿を成就した者として、マッジャ(人名)の実の娘として。


152.(152) 〔わたしは〕王の子たちに切望され、長者の子たちに貪求された。〔彼らは〕わたしの父に使者を送った。「アノーパマー(人名)を、わたしに与えてください。


153.(153) あなたの娘のアノーパマーが、この方が計量されたかぎりの、それより八倍〔の重さ〕の黄金、および、財宝を、〔あなたに〕与えましょう」〔と〕。


154.(154) 〔まさに〕その、わたしは、正覚者(ブッダ)を見て、世の最尊者たる無上なる方を〔見て〕、彼の〔両の〕足を敬拝して、一方に近坐した。


155.(155) 彼は、ゴータマ(ブッダ)は、慈しみ〔の思い〕によって、わたしに、法(教え)を説示した。坐した〔わたし〕は、その坐において、第三の果(不還果)を体得した。


156.(156) そののち、〔わたしは〕諸々の髪を断ち切って、〔家から〕家なきへと出家した。渇愛が干上がってからのち、今日は、わたしにとって、第七夜となる。ということで――


 ……アノーパマー長老尼は……。


6.6 マハー・パジャーパティー・ゴータミー長老尼の詩偈


157.(157) 覚者(ブッダ)よ、勇者よ、一切の有情のなかの最上者たる方よ、あなたに、礼拝が存せ(わたしは、あなたを礼拝する)。〔まさに〕その〔あなた〕は、わたしを、さらには、他の多くの人を、苦しみから解き放つ。


158.(158) 一切の苦しみは遍く知られ、〔苦しみの〕原因である渇愛〔の思い〕は干上がった。八つの支分ある道(八正道)は、止滅〔の境地〕は、わたしによって体得された。


159.(159) 過去〔の生〕において、〔わたしは〕母として、子として、父として、兄弟として、さらには、祖母として、〔世に〕有った。事実のとおりに知ることなく、〔何も〕見い出すことなく、わたしは輪廻してきた。


160.(160) まさに、わたしによって、世尊である彼(ブッダ)は見られた。これは、最後の積身である。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。


161.(161) 精進に励み、自己を精励し、常に断固たる勤勉〔努力〕ある、和合者たる弟子たちを見るがよい。これは、覚者たちへの敬拝である。


162.(162) まさに、多くの者たちの義(利益)のために、マーヤー(人名:ブッダの母)は、ゴータマ(ブッダ)を生んだ。病と死に刺し貫かれた者たちのために、苦しみの範疇(苦蘊:苦しみとして分類される諸々の事象)を除き去った。ということで――


 ……マハー・パジャーパティー・ゴータミー長老尼は……。


6.7 グッター長老尼の詩偈


163.(163) グッター(人名)よ、それを義(目的)としての出家であるなら、子を、富を、愛しきものを、〔一切を〕捨棄して、まさしく、その〔義〕を増進せしめよ。〔迷える〕心の支配に赴いてはならない。


164.(164) 〔迷える〕心に騙された有情たちは、悪魔の境域に喜びある者たちである。無知なる者たちは、無数なる生の輪廻を流転する。


165.(165) しかして、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を、加害〔の思い〕を、さらには、まさしく、身体が有るという見解(有身見:心身について「自己である」「自己のものである」と妄想し執着する実体論的見解)を、戒や掟に執着することを、かつまた、第五に、疑惑〔の思い〕を――


166.(166) 比丘尼よ、これらの束縛するものを捨棄して、諸々の此岸の域へと至るものを〔捨棄して〕、この〔世〕に、ふたたび至り行くことはないであろう。


167.(167) 貪欲を、思量を、しかして、無明を、さらには、〔心の〕高揚を、〔これらの一切を〕避けて、諸々の束縛するものを断ち切って、〔おまえは〕苦しみの終極を為すであろう。


168.(168) 生の輪廻を投げ捨てて、さらなる〔迷いの〕生存を遍く知って、まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において、無欲の者となり、寂静なる者として、〔世を〕歩むであろう。ということで――


 ……グッター長老尼は……。


6.8 ヴィジャヤー長老尼の詩偈


169.(169) 四回、五回と、〔わたしは〕精舎から出て行った。心の寂静を得ずして、心において自在なる転起なく。


170.(170) わたしは、比丘尼のところへと近しく赴いて、恭しくも遍く問い尋ねた。彼女は、わたしに、法(真理)を説示した。しかして、〔十八の認識の〕界域(十八界)と〔十二の認識の〕場所(十二処)〔という諸々の法〕を――


171.(171) 四つの聖なる真理(四聖諦)を、〔五つの〕機能(五根)、および、〔五つの〕力(五力)を、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)と八つの支分ある〔聖なる〕道(八正道)を――最上の義(目的)を得るために。


172.(172) 彼女の言葉を聞いて、わたしは、〔その〕教示を為す者となり、〔その〕夜の初更(宵の内)に、過去(前世)の生を思念した(想起した)。


173.(173) 〔その〕夜の中更(真夜中)に、天眼を清めた。〔その〕夜の後更(明け方)に、闇の集塊を破った。


174.(174) しかして、そのとき、〔瞑想の境地がもたらす〕喜と楽によって身体を充満して住した。第七〔日〕に、〔両の〕足を伸ばした――闇の集塊を破って。ということで――


 ……ヴィジャヤー長老尼は……。


 六なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


7 七なるものの集まり


7.1 ウッタラー長老尼の詩偈


175.(175) 〔長老尼が言った〕「若者たちは、諸々の杵を掴んで、穀物を打つ。若者たちは、子と妻を養いながら、財を見い出す。


176.(176) 覚者(ブッダ)の教えに勤めよ。それを為して苦しまない〔からである〕。すみやかに、〔両の〕足を洗い清めて、一方に坐せ。


177.(177) 一境に善く定められた心を現起させて、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)を、『他者である』と、さらには、『自己ではない』と、〔あるがままに〕注視せよ」〔と〕。


178.(178) 彼女の言葉を聞いて、わたしは、パターチャーラー(人名)の教示を〔為す者となり〕、〔両の〕足を洗って、一方に近坐した。


179.(179) 〔その〕夜の初更(宵の内)に、〔わたしは〕過去(前世)の生を思念した(想起した)。〔その〕夜の中更(真夜中)に、〔わたしは〕天眼を清めた。


180.(180) 〔その〕夜の後更(明け方)に、〔わたしは〕闇の集塊を破った。しかして、三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)ある者となり、〔わたしは〕立ち上がった。あなたの教示は為された。


181.(181) 三十三天〔の神々〕たちが、戦場において敗れることなき帝釈〔天〕(インドラ神)を〔尊ぶ〕ように、〔あなたを〕尊んで〔世に〕住むであろう。〔わたしは〕三つの明知ある者として、煩悩なき者として、〔世に〕存している。ということで――


 ……ウッタラー長老尼は……。


7.2 チャーラー長老尼の詩偈


182.(182) 気づき(念)を現起させて、〔感官の〕機能(根)を修めた比丘尼として、〔わたしは〕寂静の境処を理解した――形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)の寂止という、安楽〔の境地〕を。


183.(183) 〔悪魔が言った〕「いったい、誰を、〔師と〕定めて、〔あなたは〕剃髪者として存しているのですか。〔あなたは〕沙門尼のように見えます。かつまた、〔あなたは〕異学の者たちを喜びません。迷愚なる〔あなた〕は、どうして、この〔道〕を歩むのですか」〔と〕。


184.(184) 〔長老尼は答えた〕「この〔道〕より外の異学の者たちは、諸々の見解に依存する者たちである。彼らは、法(真理)を識知しない。彼らは、法(真理)の熟知者たちではない。


185.(185) サキャ(釈迦)〔族〕の家に生まれた覚者(ブッダ)が、対する人なき方が、〔世に〕存在する。彼は、わたしに、法(真理)を説示した。諸々の見解を超え行く〔法〕を――


186.(186) 〔すなわち〕苦しみを、苦しみの生起を、しかして、苦しみの超越を、さらには、苦しみの寂止に至る聖なる八つの支分ある道(八正道)を。


187.(187) 彼の言葉を聞いて、わたしは、〔覚者の〕教えに喜びある者として住した。三つの明知は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


188.(188) 一切所で、喜び〔の思い〕は打破された。闇の集塊は破られた。パーピマント(悪魔)よ、このように知りなさい。死神よ、おまえは、打ち倒された者として存している」〔と〕。ということで――


 ……チャーラー長老尼は……。


7.3 ウパチャーラー長老尼の詩偈


189.(189) 気づきある者として、眼“まなこ”ある者として、〔感官の〕機能を修めた比丘尼として、〔わたしは〕寂静の境処を理解した――俗人の慣れ親しむところにあらざる〔境地〕を。


190.(190) 〔悪魔が言った〕「いったい、どうして、〔あなたは〕生を喜ばないのですか。〔世に〕生まれた者は、諸々の欲望〔の対象〕を享受します。諸々の欲望〔の対象〕による歓楽を享受しなさい。のちに、悩み苦しむ者と成ってはなりません」〔と〕。


191.(191) 〔長老尼は答えた〕「生まれた者には、死が有る。〔両の〕手足の切断〔という恐れ〕が〔有る〕。殴打と結縛と〔心の〕汚れ(煩悩)が〔有る〕。生まれた者は、苦を受ける。


192.(192) サキャ〔族〕の家に生まれた正覚者(ブッダ)が、〔一切に〕敗れることなき方が、〔世に〕存在する。彼は、わたしに、法(真理)を説示した。生を超え行く〔法〕を――


193.(193) 〔すなわち〕苦しみを、苦しみの生起を、しかして、苦しみの超越を、さらには、苦しみの寂止に至る聖なる八つの支分ある道を。


194.(194) 彼の言葉を聞いて、わたしは、〔覚者の〕教えに喜びある者として住した。三つの明知は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


195.(195) 一切所で、喜び〔の思い〕は打破された。闇の集塊は破られた。パーピマント(悪魔)よ、このように知りなさい。死神よ、おまえは、打ち倒された者として存している」〔と〕。ということで――


 ……ウパチャーラー長老尼は……。


 七なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


8 八なるものの集まり


8.1 シースーパチャーラー長老尼の詩偈


196.(196) 戒を成就した比丘尼として、諸々の〔感官の〕機能(根)において〔自己が〕善く統御された者として、〔わたしは〕寂静の境処に到達するであろう――混ざりものなしの、滋養あるものに。


197.(197) 〔悪魔が言った〕「しかして、三十三〔天の神々〕たちがいれば、さらには、耶摩〔天の神々〕たちがいます。さらには、また、兜率〔天〕の天神たちがいます。化楽天〔の神々〕たちがいれば、彼ら、自在天〔の神々〕たちがいます。かつて、あなたが住した所です。そこに、心を向けなさい」〔と〕。


198.(198) 〔長老尼は答えた〕「しかして、三十三〔天の神々〕たちがいれば、さらには、耶摩〔天の神々〕たちがいる。さらには、また、兜率〔天〕の天神たちがいる。化楽天〔の神々〕たちがいれば、彼ら、自在天〔の神々〕たちがいる。


199.(199) 〔彼らは〕時々“じじ”に、生存から生存へと〔輪廻し〕、身体が有ること(有身)を偏重する者たちであり、身体が有ることを超克しない者たちであり、生と死〔の輪廻〕のうちを走り行く者たちである。


200.(200) 一切世〔界〕は、燃えている。一切世〔界〕は、遍く燃えている。一切世〔界〕は、燃え盛っている。一切世〔界〕は、揺れ動いている。


201.(201) 凡夫の慣れ親しむところにあらざる、不動にして無比なる法(教え)を、覚者(ブッダ)は説示した。そこにおいて、わたしの意“こころ”は、喜びあるものとなる。


202.(202) 彼の言葉を聞いて、わたしは、〔覚者の〕教えに喜びある者として住した。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


203.(203) 一切所で、喜び〔の思い〕は打破された。闇の集塊は破られた。パーピマント(悪魔)よ、このように知りなさい。死神よ、おまえは、打ち倒された者として存している」〔と〕。ということで――


 ……シースーパチャーラー長老尼は……。


 八なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


9 九なるものの集まり


9.1 ヴァッダの母なる長老尼の詩偈


204.(204) 〔長老尼が言った〕「ヴァッダ(人名)よ、まさに、おまえに、いついかなる時も、世における〔欲の〕林叢“したばえ”(欲の思い)が有ってはならない。子よ、繰り返し、〔世の〕苦しみを分け持つ者と成ってはならない。


205.(205) ヴァッダよ、まさに、疑念を断ち、〔心に〕動揺なき、牟尼たちは――〔心が〕冷静と成り、〔心身の〕調御を得た、煩悩なき者たちは――安楽のうちに住む。


206.(206) ヴァッダよ、おまえは、それらの聖賢たちが歩んだ道を、〔正しい〕見を得るために、苦しみの終極“おわり”を為すために、増進せしめよ」〔と〕。


207.(207) 〔ヴァッダは言った〕「まさしく、〔道の〕熟達者として、わたしの生母として、〔あなたは〕この義(意味)を語ります。母よ、〔わたしは〕思います――たしかに、あなたに、〔欲の〕林叢(欲の思い)は見い出されません」〔と〕。


208.(208) 〔長老尼が言った〕「ヴァッダよ、それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)であるなら、下劣なるものも、高尚なるものや中等なるものも、わたしに、〔欲の〕林叢は、微細でさえも、微量でさえも、見い出されない」〔と〕。


209.(209) 〔ヴァッダは言った〕「〔気づきを〕怠ることなく、〔常に〕瞑想しているわたしの、一切の煩悩は滅尽した。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


210.(210) まさに、わたしの母は、秀でた鞭を振り下ろした。また、慈しみ〔の思い〕あるままに、最高の義(勝義:涅槃)を伴った諸々の詩偈を〔語った〕。


211.(211) 彼女の言葉を聞いて、わたしは、生母の教示したことを〔為す者となり〕、法(真理)にたいする畏怖〔の念〕(回心の思い)を惹起した――束縛からの〔心の〕平安を得るために。


212.(212) 〔まさに〕その、わたしは、〔刻苦の〕精励に自己を精励し(全身全霊を挙げて刻苦精励し)、昼夜に休みなく〔精進した〕。母に叱咤された〔わたし〕は、寂静なる者となり、最上の寂静を体得した」〔と〕。ということで――


 ……ヴァッダの母なる長老尼は……。


 九なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


10 十一なるものの集まり


10.1 キサー・ゴータミー長老尼の詩偈


213.(213) 世〔の人々〕に関して、善き朋友たることは、牟尼(ブッダ)によって褒め称えられた。善き朋友たちと親しくしている者は、たとえ、愚者であるも、賢者として存するであろう。


214.(214) 正しい人たちは、親しくされるべき者たちである。そのように、〔正しい人たちと〕親しくしている者たちの知慧は、〔自ずと〕増え行く。正しい人たちと親しくしている者は、一切の苦しみからさえも、解き放たれるであろう。


215.(215) かつまた、識知するであろう――苦しみを、しかして、苦しみの集起を、止滅〔の境地〕を、さらには、八つの支分ある〔聖なる〕道(八正道)を――聖なる真理を、四つもろともに。


216.(216) 「女として〔世に〕有ることは、苦しみである」〔と〕、調御さるべき人の馭者たる方(ブッダ)によって告げ知らされた。〔他の婦女と〕夫を共にすることもまた、苦しみである。一度〔子を〕出産した一部の者たちもまた、〔苦しみである〕。


217.(217) 繊細な者たちは、〔自らの〕喉さえも掻き、諸々の毒を喰らう。死児が〔身体の〕中に止まっている者たちは、両者(母子)ともども、災厄を経験する。


218.(218) わたしは、身重の身で〔道を〕行きつつ、死んだ夫を見た。道で出産して、自らの家に、まさしく、至り得なかった。


219.(219) 二子は、命を終えた。かつまた、哀れな女の夫は、道で死んだ。母が、そして、父が、兄弟が、しかして、一つの火葬の薪のなかで焼かれる(同時に荼毘された)。


220.(220) 家系が滅尽した哀れな者よ、おまえは、無量の苦しみを経験した。そして、おまえは、涙を流した――しかして、幾多数千の生のあいだ。


221.(221) 〔わたしは〕墓場の中に住した。しかして、また、子たちの肉が喰われた。家の者を失い、全ての者に難じられ、夫が死んだ〔わたし〕は、不死〔の境処〕に到達した。


222.(222) 不死〔の境処〕に至る聖なる八つの支分ある道(八正道)は、わたしによって修められた。涅槃〔の境処〕は実証された。わたしは、法(真理)の鏡を見た。


223.(223) わたしは、〔貪欲の〕矢を折り、〔生の〕重荷を置いた者として、〔世に〕存している。まさに、為すべきことは為された。心が解脱したキサー・ゴータミー長老尼は、この〔言葉〕を語った。ということで――


 ……キサー・ゴータミー長老尼は……。


 十一なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


11 十二なるものの集まり


11.1 ウッパラヴァンナー長老尼の詩偈


224.(224) 母と、娘と、わたしたち両者は、夫を共にする者たちとして存していた。〔まさに〕その、わたしに、身の毛のよだつ、未曾有の、畏怖〔の念〕(回心の思い)が有った。


225.(225) 〔この身体は〕厭わしきものとして存せ。諸々の欲望〔の対象〕(身体)は、不浄で、悪臭があり、多くの荊あるもの。そこにおいて、母と、娘と、わたしたちは、〔同じ男に〕共に養われるべき者たちとして有った。


226.(226) 諸々の欲望〔の対象〕のうちに危険を見て、離欲〔の境地〕を「平安である」と見て、その〔わたし〕は、ラージャガハ(王舎城:地名)において、家から家なきへと出家した。


227.(227) 〔わたしは〕過去(前世)の居住を知る(宿命通)。天眼は清められた(天眼通)。さらには、〔他者の〕心を探知する知恵がある(他心通)。耳の界域は清められた(天耳通)。


228.(228) わたしによって、神通もまた、実証された(神足通)。わたしによって、煩悩の滅尽は得られた(漏尽通)。〔これらの〕六つの神知(六神通)は実証され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


229.(229) わたしは、神通によって、四頭立ての馬車を化作“けさ”して、世の主“あるじ”にして如なる方たる覚者(ブッダ)の〔両の〕足を敬拝して、〔一方に立った〕。


230.(230) 〔悪魔が言った〕「あなたは、先端が見事に花ひらいた木へと近づき行って、独り、サーラ〔樹〕の根元に立ちます。そして、また、あなたには、誰であれ、伴侶は存在しません。愚かな方よ、あなたは、質の悪い者たちを恐れないのですか」〔と〕。


231.(231) 〔長老尼は答えた〕「たとえ、百千の、このような質“たち”の悪い者たちが集いあつまることに成るとして、毛〔の一本〕も動かないであろうし、動揺することもまた、ないであろう。悪魔よ、おまえは独りで、わたしに、何を為すというのだろう。


232.(232) この〔わたし〕は、〔物の〕間に消え入ることもするし、あるいは、おまえの腹に入りもする。眉の間に立ちもするし、立っているわたしを、〔おまえは〕見ない。


233.(233) わたしは、心において自在と成った者である。〔四つの〕神通の足場は善く修められた。六つの神知は実証され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


234.(234) 諸々の欲望〔の対象〕は、刃と槍の如きもの。〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)にとっての断頭台である。〔まさに〕その、欲望〔の対象〕による歓楽を、おまえは説くが、今や、それは、わたしにとって、不満なるもの。


235.(235) 一切所で、喜び〔の思い〕は打破された。闇の集塊は破られた。パーピマント(悪魔)よ、このように知りなさい。死神よ、おまえは、打ち倒された者として存している」〔と〕。ということで――


 ……ウッパラヴァンナー長老尼は……。


 十二なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


12 十六なるものの集まり


12.1 プンナー長老尼の詩偈


236.(236) 〔長老尼が尋ねた〕「水汲み女のわたしは、寒いなか、常に、水に入ってきました――貴婦(大姉)たちの棒(鞭)の恐怖を恐れ、憤怒の言葉の恐怖に苦悩し。


237.(237) 婆羅門よ、あなたは、何を恐れ、常に、水に入ってきたのですか(沐浴をしてきたのか)。〔あなたは〕四肢を震わせながら、激しい寒さを感受しています」〔と〕。


238.(238) 〔婆羅門は答えた〕「尊きプンニカー(人名)よ、〔あなたは〕知りつつ、まさに、わたしのことを遍く問い尋ねます――貴善き行為(業)を為しているかと、貴為した悪を隠しているかと。


239.(239) しかして、その者が、年長であれ、あるいは、青年であれ、悪しき行為を作り為すとして、彼もまた、水で灌頂することによって、悪しき行為から解き放たれます」〔と〕。


240.(240) 〔長老尼が言った〕「いったい、誰が、無知なる者として、このことを、〔真実を〕知らずにいるあなたに、告げ知らせたのでしょう。『水で灌頂することによって、まさに、悪しき行為から解き放たれる』〔と〕。


241.(241) 〔そうであるなら〕蛙や亀たちは、〔その〕全てが、たしかに、天上に至るでありましょう。象たちも、鰐たちも、さらには、その他の、水を歩むものたちも。


242.(242) 屠羊者たち、屠豚者たち、漁夫たち、猟師たち、盗賊たちも、死刑執行者たちも、さらには、その他の、悪しき行為ある者たちも、彼らもまた、水で灌頂することによって、悪しき行為から解き放たれます。


243.(243) それで、もし、これらの川が、あなたの過去に為した悪を運び去ったとして、これら〔の川〕は、あたたの善をもまた、運び去るでありましょう。それによって、あなたは、〔善悪の〕遍く外にある者となります。


244.(244) 婆羅門よ、あなたは、何ものかを恐れ、常に、水に入ってきたのですが、まさしく、その〔恐れるもの〕を、梵(婆羅門)よ、為してはなりません。あなたの皮膚を、寒さが損なうことがあってはなりません」〔と〕。


245.(245) 〔婆羅門は答えた〕「悪しき道を実践してきたわたしを、〔あなたは〕聖なる道へと導き入れてくれました。尊き方よ、この、水による灌頂の衣を、あなたに布施します」〔と〕。


246.(246) 〔長老尼が言った〕「〔その〕衣は、あなたのものとしてこそ、有りなさい。わたしは、衣を求めません。それで、もし、〔あなたが〕苦しみを恐れるなら、それで、もし、あなたにとって、苦しみが、愛しからざるもの(憎むべきもの)であるなら――


247.(247) もしくは、公然であろうと、内密であろうと、〔あなたは〕悪しき行為を為してはなりません。しかして、それで、もし、〔あなたが〕悪しき行為を〔未来において〕為すであろうなら、あるいは、〔いまここに〕為すなら――


248.(248) たとえ、〔空中に〕跳び上がって逃げようとしても、あなたに、苦しみからの解き放ちは存在しません。それで、もし、〔あなたが〕苦しみを恐れるなら、それで、もし、あなたにとって、苦しみが、愛しからざるもの(憎むべきもの)であるなら――


249.(249) 覚者(仏:ブッダ)に、法(法:ダンマ)に、そして、僧団(僧:サンガ)に、そのような帰依所に、〔あなたは〕近づき行きなさい。諸戒を受持しなさい。それは、あなたの義(利益)のためと成るでしょう」〔と〕。


250.(250) 〔婆羅門は言った〕「覚者に、法(教え)に、そして、僧団に、そのような帰依所に、〔わたしは〕近づき行きます。〔わたしは〕諸戒を受持します。それは、わたしの義(利益)のためと成るでしょう。


251.(251) かつて、〔わたしは〕梵の眷属として存していました。今日、真に、婆羅門(人格完成者)として存しています。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)ある者として、〔真の〕知を成就した者として、さらには、聞経者(婆羅門)として、沐浴者(梵行終了者)として、存しています」〔と〕。ということで――


 ……プンナー長老尼は……。


 十六なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


13 二十なるものの集まり


13.1 アンバパーリー長老尼の詩偈


252.(252) わたしの諸々の頭髪は、先端が巻かれ、蜜蜂の色と等しく、黒きものとして有った。〔今や〕それらは、老によって、麻の樹皮に等しい。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


253.(253) わたしの頭髪は、花〔飾り〕で満ち、香り箱のように香りただようものとして〔有った〕。〔今や〕それは、毛の臭いを有し、老い朽ちた。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


254.(254) 美しく植林され、生い茂った森のように、先端が櫛や簪で選り分けられ、美しく輝きあるものとして〔有った〕。〔今や〕それは、老によって、そこかしこに薄くなっている。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


255.(255) 肩まで黒く黄金で装われ、諸々の編髪で〔見てくれを〕十分に作り為され、まさに、美しく輝く。〔今や〕それは、老によって、〔毛の〕抜け落ちた頭に作り為された。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


256.(256) かつて、わたしの〔両の〕眉は、絵師によって見事に作り為された作品のように、まさに、美しく輝く。〔今や〕それらは、老によって、諸々の皺とともに垂れ下がっている。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


257.(257) 〔わたしの両の〕眼は、宝珠のように、光り輝き、極めて好ましく、紺碧で、細長く有った。〔今や〕それらは、老によって、打ち萎れ、美しく輝くことはない。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


258.(258) しかして、優雅で高き〔峰〕に等しい、〔わたしの〕鼻は、若さの盛りに向かい、まさに、美しく輝く。〔今や〕それは、老によって、萎びたようになっている。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


259.(259) わたしの〔両の〕耳朶は、見事に作り為され見事に仕立てられた腕輪のように、まさに、美しく輝く。〔今や〕それらは、老によって、諸々の皺とともに垂れ下がっている。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


260.(260) かつて、わたしの諸々の歯は、芭蕉の芽の色に等しく、まさに、美しく輝く。〔今や〕それらは、老によって、破断し、欠落している。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


261.(261) 森のなかの密林を歩むコーキラ〔鳥〕たちのように、わたしは、甘美な〔歌声〕を吟じた。〔今や〕それは、老によって、そこかしこに嗄“しわがれ”れている。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


262.(262) かつて、わたしの首は、綺麗に磨かれた優雅な法螺貝のように、まさに、美しく輝く。〔今や〕それは、老によって、〔形姿は〕壊され、〔色艶は〕失われた。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


263.(263) かつて、わたしの両の腕は、丸い閂に等しきものの如くで、まさに、美しく輝く。〔今や〕それらは、老によって、パータリー〔樹〕のように、力なくある。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


264.(264) かつて、わたしの〔両の〕手は、優しく柔らかで、黄金で装われ、まさに、美しく輝く。〔今や〕それらは、老によって、〔木の〕根や球根のようである。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


265.(265) かつて、わたしの両の乳房は、豊かで丸く張りがあって盛り上がり、まさに、美しく輝く。〔今や〕それらは、萎れたかのように、水なく、垂れ下がる。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


266.(266) かつて、わたしの身体は、金の延べ板のように綺麗に磨かれ、まさに、美しく輝く。〔今や〕それは、諸々の微細な皺で埋め尽くされている。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


267.(267) かつて、わたしの両の腿は、象の鼻に等しきものの如くで、まさに、美しく輝く。〔今や〕それらは、老によって、竹筒のようである。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


268.(268) かつて、わたしの〔両の〕脛は、優雅な黄金の足環で装われ、まさに、美しく輝く。〔今や〕それらは、老によって、胡麻幹“ごまがら”のようである。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


269.(269) かつて、わたしの両の足は、綿が詰まった〔靴〕に等しきものの如くで、まさに、美しく輝く。〔今や〕それらは、老によって、ひび割れ、皺がある。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。


270.(270) このようなものと成った、この積身“からだ”は、老い朽ち、多くの苦痛の吹きだまりである。それは、塗装が落ちた老朽家屋である。真理を説く方(ブッダ)の言葉は、他ならざるもの(それそのとおりである)。ということで――


 ……アンバパーリー長老尼は……。


13.2 ローヒニー長老尼の詩偈


271.(271) 〔父が尋ねた〕「尊き者よ、〔おまえは〕『沙門たちは〔云々〕』と〔言っては〕眠りについた。〔おまえは〕『沙門たちは〔云々〕』と〔言っては〕目覚める。〔おまえは〕沙門たちのことだけを、〔わたしに〕述べ伝える。〔このままでは〕まちがいなく、〔おまえは〕沙門尼と成るであろう。


272.(272) 〔おまえは〕広大なる食べ物と飲み物とを、沙門たちに献じ捧げる。ローヒニー(人名)よ、今や、〔わたしは〕問い尋ねる。何をもって、沙門たちは、おまえにとって、愛しき者たちなのだ。


273.(273) 〔彼らは、為すべき〕行為(業)を欲せず、怠け者で、他者の施しに依拠して生き、〔何ものかを〕願い求め、美味なるものを欲する者たちである。何をもって、沙門たちは、おまえにとって、愛しき者たちなのだ」〔と〕。


274.(274) 〔娘は答えた〕「父よ、まさに、長きにわたり、〔あなたは〕沙門たちのことを、わたしに遍く問い尋ねます。〔わたしは〕彼らの知慧と戒と勤勉〔努力〕を、あなたに述べ伝えましょう。


275.(275) 〔彼らは、為すべき〕行為を欲し、怠け者ではなく、最勝の行為を為す者たちです。〔彼らは〕貪りと怒りを捨棄します。それによって、沙門たちは、わたしにとって、愛しき者たちなのです。


276.(276) 〔彼らは〕清らかな〔行為〕を為す者たちであり、三つの悪の根元を払い落とします。これらの者たちの、一切の悪は捨棄されました。それによって、沙門たちは、わたしにとって、愛しき者たちなのです。


277.(277) 彼らの身体による行為は、清らかです。言葉による行為も、そのように〔清らか〕です。彼らの意による行為は、清らかです。それによって、沙門たちは、わたしにとって、愛しき者たちなのです。


278.(278) 〔彼らは〕真珠貝のように、内外共に清浄で、〔世俗の〕垢を離れる者たちです。〔彼らは〕諸々の白き法(性質)に満ちています。それによって、沙門たちは、わたしにとって、愛しき者たちなのです。


279.(279) 〔彼らは〕多聞“たもん”の者たちです。法(教え)を保つ者たちです。聖者たちです。法(教え)によって生きる者たちです。義(道理)を、そして、法(教え)を、〔彼らは〕説示します。それによって、沙門たちは、わたしにとって、愛しき者たちなのです。


280.(280) 〔彼らは〕多聞の者たちです。法(教え)を保つ者たちです。聖者たちです。法(教え)によって生きる者たちです。一境心の者たちです。気づきある者たちです。それによって、沙門たちは、わたしにとって、愛しき者たちなのです。


281.(281) 〔彼らは〕遠くに行く者たちです。気づきある者たちです。智慮によって語る者たちです。〔心が〕高ぶらない者たちです。〔彼らは〕苦しみの終極“おわり”を覚知します。それによって、沙門たちは、わたしにとって、愛しき者たちなのです。


282.(282) 〔彼らは〕村を立ち去ってからのち、〔もはや〕何ものも顧みません。まさしく、期待〔の思い〕なき者たちとして行きます。それによって、沙門たちは、わたしにとって、愛しき者たちなのです。


283.(283) 彼らは、自らのものを、倉に貯め置きません。瓶に〔貯め置き〕ません。籠に〔貯め置き〕ません。〔彼らは〕完全に確定されたもの(戒律に違反しないもの)を求める者たちです。それによって、沙門たちは、わたしにとって、愛しき者たちなのです。


284.(284) 彼らは、黄金(貨幣)を掴みません。金を〔掴み〕ません。銀を〔掴み〕ません。現に生まれ来たもの(じかに施されたもの)によって、〔身を〕保ち行きます。それによって、沙門たちは、わたしにとって、愛しき者たちなのです。


285.(285) 〔彼らは〕種々なる家系の者たちであり、かつまた、種々なる地方から出家した者たちですが、互いに他を愛します。それによって、沙門たちは、わたしにとって、愛しき者たちなのです」〔と〕。


286.(286) 〔父が言った〕「尊き者よ、ローヒニーよ、まさに、わたしたちの義(利益)のために〔この〕家に生まれた者として、〔おまえは〕存している。しかして、覚者(仏:ブッダ)にたいし、かつまた、法(法:ダンマ)にたいし、さらには、僧団(僧:サンガ)にたいし、〔おまえには〕信があり、強き尊重〔の思い〕がある。


287.(287) まさに、おまえは、この無上なる功徳の田畑(福田)を覚知する。これらの沙門たちは、わたしたちの施物をもまた納受する。


288.(287・288) まさに、ここに、広大なる祭祀が、わたしたちによって、確立されたものと成るであろう」〔と〕。〔娘は言った〕「それで、もし、〔あなたが〕苦しみを恐れるなら、それで、もし、あなたにとって、苦しみが、愛しからざるもの(憎むべきもの)であるなら――


289.(288) 覚者に、法(教え)に、そして、僧団に、そのような帰依所に、〔あなたは〕近づき行きなさい。諸戒を受持しなさい。それは、あなたの義(利益)のためと成るでしょう」〔と〕。


290.(289) 〔父が言った〕「覚者に、法(教え)に、そして、僧団に、そのような帰依所に、〔わたしは〕近づき行く。〔わたしは〕諸戒を受持する。それは、わたしの義(利益)のためと成るであろう。


291.(290) かつて、〔わたしは〕梵の眷属として存していた。その〔わたし〕は、今や、〔真の〕婆羅門(人格完成者)として存している。しかして、三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)ある聞経者(婆羅門)として存している。さらには、〔真の〕知に至る沐浴者(梵行終了者)として存している」〔と〕。ということで――


 ……ローヒニー長老尼は……。


13.3 チャーパー長老尼の詩偈


292.(291) 〔夫が言った〕「かつて、〔わたしは〕杖を手にする者(修行者)として存していた。その〔わたし〕は、今や、猟師である(猟師の娘を妻にした)。〔欲に染まった〕願望〔の思い〕のために、〔わたしは〕おぞましき泥沼から彼岸に行くことができなかった。


293.(292) 〔妻の〕チャーパー(人名)は、わたしのことを、〔妻である自分に〕深く夢中になっていると思いながら、子をあやしていた。わたしは、チャーパーとの結縛を断ち切って、ふたたび出家するであろう」〔と〕。


294.(293) 〔妻は言った〕「偉大なる勇者よ、わたしのために、怒ることがあってはなりません。偉大なる牟尼よ、わたしのために、怒ることがあってはなりません。なぜなら、怒り〔の思い〕に打ち負かされた者に、清浄は存在しないからです。どうして、苦行がありましょう」〔と〕。


295.(294) 〔夫が言った〕「しかしながら、〔わたしは〕ナーラ(地名)から立ち去るであろう。ここに、ナーラに、誰が住むというのだろう。女たちは、〔その〕形姿によって、法(教え)によって生きる沙門たちを結縛する」〔と〕。


296.(295) 〔妻は言った〕「さあ、カーラ(人名)よ、戻ってきてください。かつてのように、諸々の欲望〔の対象〕を享受してください。わたしも、それらの、わたしの親族として存している者たちも、あなたの自在に為すのです(思いのままになる存在である)」〔と〕。


297.(296) 〔夫が言った〕「チャーパーよ、さてまた、おまえが、わたしに語るとおり、ここに、〔その〕四分の一があるなら、おまえにたいし〔欲に〕染まった男にとって、まさに、それは、巨万のものとして存するであろう」〔と〕。


298.(297) 〔妻は言った〕「カーラよ、山の頂きにあって枝葉ゆたかに花ひらいたタッカーリー〔樹〕のような〔わたし〕を、〔実が〕割けたダーリカー(柘榴)の木のような〔わたし〕を、中洲にあるパータリー〔樹〕のような〔わたし〕を――


299.(298) 手足に黄栴檀を塗り、カーシー〔産〕の最上〔の衣服〕を〔身に〕付け、形姿ある者として存している、〔まさに〕その、わたしを、どうして、〔あなたは〕捨棄して行くのですか。


300.(299) まさしく、捕鳥者が、鳥を結縛することを求めるように、あなたは、魅惑的な形姿で、わたしを捕縛しようとしないのですか。


301.(300) カーラよ、では、この〔子〕は、わたしにとっての、子という果は、あなたが生ませたものです。子ある者として存している、〔まさに〕その、わたしを、どうして、〔あなたは〕捨棄して行くのですか」〔と〕。


302.(301) 〔夫が言った〕「知慧を有する者たちは、子供たちを捨棄する。そののち、親族たちを〔捨棄する〕。そののち、財産を〔捨棄する〕。偉大なる勇者たちは、象が結縛を断ち切って〔行く〕ように、出家する」〔と〕。


303.(302) 〔妻は言った〕「今や、あなたのために、この子を、棒で、あるいは、小刀で、まさしく、地に打ち倒しましょう。子〔の死〕の憂い悲しみから、〔あなたは〕行きません」〔と〕。


304.(303) 〔夫が言った〕「それで、もし、豺狼(ジャッカル)たちに、山犬たちに、〔おまえが〕子を与えるとして、子を為した卑しむべき者よ、わたしを、ふたたび逆戻りさせることはないであろう」〔と〕。


305.(304) 〔観念した妻は言った〕「さあ、今や、まさに、あなたに、幸せ〔有れ〕。カーラよ、〔あなたは〕どこに行くのですか。どの、村や町へ、城市へ、王都やらへと」〔と〕。


306.(305) 〔夫が言った〕「過去に、〔わたしたちは〕衆師たる者たちとして、〔それも〕沙門でないのに沙門と思量する者たちとして、〔世に〕有った。〔わたしたちは〕村から村へと渡り歩いた。城市を、王都やらを。


307.(306) まさに、世尊にして覚者(ブッダ)たるこの方は、ネーランジャラー川に向かい、一切の苦しみを捨棄するために、生ある者たちに、法(教え)を説示する。彼の現前へと、わたしは行くであろう。彼は、わたしの教師と成るであろう」〔と〕。


308.(307) 〔妻は言った〕「今や、〔あなたは〕世の主“あるじ”たる無上なる方(ブッダ)に、〔わたしの〕敬拝〔の思い〕を説くべきです。そして、〔覚者に〕右回り〔の礼〕を為して、〔わたしからの〕施物を献じるべきです」〔と〕。


309.(308) 〔夫が言った〕「さてまた、おまえが、わたしに語るとおり、まさに、このことは、わたしたちによって〔現に〕得られた。今や、〔わたしは〕世の主たる無上なる方(ブッダ)に、おまえの敬拝〔の思い〕を説くであろう。そして、〔覚者に〕右回り〔の礼〕を為して、〔おまえからの〕施物を献じるであろう」〔と〕。


310.(309) しかして、そののち、カーラは、ネーランジャラー川に向かって出発した。彼は、正覚者(ブッダ)が不死の境処を説示しているのを見た。


311.(310) 〔すなわち〕苦しみを、苦しみの生起を、しかして、苦しみの超越を、さらには、苦しみの寂止に至る聖なる八つの支分ある道(八正道)を。


312.(311) 彼(ブッダ)の〔両の〕足を敬拝して、彼に右回り〔の礼〕を為して、〔カーラは〕チャーパーからの〔施物を〕献じて、〔家から〕家なきへと出家した。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……チャーパー長老尼は……。


13.4 スンダリー長老尼の詩偈


313.(312) 〔婆羅門が尋ねた〕「尊き方よ、かつて、あなたは、亡者となった子たちを喰いつつ(子を亡くす身となり)、昼も、夜も、あなたは、極度に悩み苦しみました。


314.(313) 婆羅門尼よ、ヴァーセッティー(人名)よ、その〔あなた〕が、今日、七子全てを喰っていながら(子を亡くしたにもかかわらず)、どのような理由によって、〔かつてのように〕激しく悩み苦しまないのですか」〔と〕。


315.(314) 〔長老尼は答えた〕「婆羅門よ、数百の子たちが、さらには、数百の親族の群れが、多くの者たちが、過去の時において喰われました(命を落とした)――わたしにとって、さらには、あなたにとって。


316.(315) 〔まさに〕その、わたしは、生、および、死からの出離を知って、〔もはや〕憂い悲しまず、泣き叫ばないのです。そして、また、悩み苦しまないのです」〔と〕。


317.(316) 〔婆羅門が尋ねた〕「ヴァーセッティーよ、このような、まさに、未曾有の言葉を、〔あなたは〕語ります。あなたは、誰の法(教え)を了知して、このような言葉を語るのですか」〔と〕。


318.(317) 〔長老尼は答えた〕「婆羅門よ、正覚者(ブッダ)たるこの方は、ミティラー(地名)の城市に向かい、一切の苦しみを捨棄するために、生ある者たちに、法(教え)を説示しました。


319.(318) 婆羅門よ、阿羅漢(人格完成者)たる彼の、依り所なき法(教え)を聞いて、そこにおいて、〔わたしは〕正なる法(真理)の識知者となり、子〔の死〕の憂い悲しみを除き去ったのです」〔と〕。


320.(319) 〔婆羅門が言った〕「〔まさに〕その、わたしもまた、ミティラー(地名)の城市に向かい、行くでありましょう。まさしく、また、わたしをも、世尊である彼は、一切の苦しみから解き放つでありましょう」〔と〕。


321.(320) 婆羅門は、依り所なき解脱者たる覚者(ブッダ)を見た。苦しみの彼岸に至る牟尼は、彼は、その〔婆羅門〕に、法(教え)を説示した。


322.(321) 〔すなわち〕苦しみを、苦しみの生起を、しかして、苦しみの超越を、さらには、苦しみの寂止に至る聖なる八つの支分ある道を。


323.(322) そこにおいて、〔婆羅門は〕正なる法(真理)の識知者となり、出家を選んだ。スジャータ(人名)は、三夜ののちに、三つの明知を体得した。


324.(323) 〔婆羅門が言った〕「来たれ、馭者よ、〔妻のもとに〕行け。この車を〔妻に〕与えよ。無病なる〔妻の〕婆羅門尼に、『今や、婆羅門は出家した。スジャータは、三夜ののちに、三つの明知を体得した』〔と〕説くのだ」〔と〕。


325.(324) しかして、そののち、馭者は、車を取って、さらには、また、千〔金〕を〔取って〕、無病なる〔妻の〕婆羅門尼に、「今や、婆羅門は出家した。スジャータは、三夜ののちに、三つの明知を体得した」〔と〕言った。


326.(325) 〔妻が言った〕「馭者よ、三つの明知ある婆羅門のことを聞いて、しかして、わたしは、この馬車を、さらには、また、千〔金〕を、〔水の〕満ちた鉢を、おまえに与えます」〔と〕。


327.(326) 〔馭者は答えた〕「婆羅門尼よ、馬車は、さらには、また、千〔金〕は、あなたにとってこそ、有れ。わたしもまた、優れた知慧ある方(ブッダ)の現前で、出家するでありましょう」〔と〕。


328.(327) 〔妻が言った〕「象と牛と馬、そして、宝珠と耳飾りを〔捨棄して〕、さらには、この、富み栄える、家の資産を捨棄して、あなたの父は、出家者として〔世にあります〕。スンダリー(人名)よ、諸々の財物を受けなさい。あなたは、家における相続者です」〔と〕。


329.(328) 〔娘のスンダリーは答えた〕「象と牛と馬、そして、宝珠と耳飾りを〔捨棄して〕、さらには、この、喜ばしき、家の資産を捨棄して、子〔の死〕の憂い悲しみに苦悩する、わたしの父は、出家者として〔世にあります〕。兄弟〔の死〕の憂い悲しみに苦悩する、わたしもまた、出家するでありましょう」〔と〕。


330.(329) 〔長老尼は言った〕「スンダリーよ、あなたがそれを望み求めるなら、あなたのその思惟は、〔万事〕うまくゆけ。〔戸口に〕立って受ける〔行乞の〕食、残飯と、糞掃衣(ぼろ布)の衣料と――これら〔の困苦〕を〔常に〕征服している者は、他世において、煩悩なき者となります」〔と〕。


331.(330) 〔長老尼に、スンダリーが言った〕「貴婦(大姉)よ、わたしが、学びつつあると、天眼は清められました。〔わたしは〕知ります――かつて、わたしが住した所である、過去(前世)の居住を。


332.(331) 巧みな智ある方よ、長老尼の僧団にとって美しく輝く方よ、あなたに依拠して、三つの明知は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為されました。


333.(332) 貴婦よ、わたしを許してください。〔わたしは〕サーヴァッティ(地名)に行くことを求めます。〔わたしは〕最勝の覚者(ブッダ)の現前で、獅子吼を吼え叫ぶでありましょう」〔と〕。


334.(333) 〔長老尼は答えた〕「スンダリーよ、教師(ブッダ)に相見“まみ”えよ。金色〔の輝き〕ある方に、黄金の皮膚ある方に、調御されざる者たちの調御者たる方に、何ものも恐れない正覚者に」〔と〕。


335.(334) 〔世尊に、スンダリーが言った〕「スンダリーがやってくるのを御覧ください。解脱し依り所なき者を、貪り〔の思い〕を離れ束縛を離れた者を、為すべきことを為した煩悩なき者を。


336.(335) 〔わたしは〕バーラーナシー(地名)を出て、あなたの現前にやってきた者です。偉大なる勇者よ、弟子のスンダリーは、あなたの〔両の〕足を敬拝します。


337.(336) 〔真の〕婆羅門よ、あなたは、覚者(ブッダ)です。あなたは、教師です。〔わたしは〕あなたの娘として存しています。〔あなたの〕口から生まれた正嫡です。為すべきことを為した煩悩なき者です」〔と〕。


338.(337) 〔世尊は答えた〕「幸いなる者よ、〔まさに〕その、あなたにとって、善き訪問と〔成れ〕。そののち、あなたにとって、悪しき訪問ならざるものと〔成れ〕。まさに、このように、調御者たちはやってきます――教師の〔両の〕足を敬拝する者たちとして、貪り〔の思い〕を離れ、束縛を離れた者たちとして、為すべきことを為した煩悩なき者たちとして」〔と〕。ということで――


 ……スンダリー長老尼は……。


13.5 鍛冶屋の娘のスバー長老尼の詩偈


339.(338) 清浄の衣をまとう、青年のわたしが、かつて聞いたところの、〔覚者の〕法(教え)であるが、〔まさに〕その、わたしが、〔気づきを〕怠らなくあると、〔聖なる〕真理の〔あるがままの〕知悉(現観)が有った(法を確信し理解した)。


340.(339) そののち、わたしは、一切の欲望〔の対象〕にたいする激しい不満〔の思い〕に到達した。〔わたしは〕身体が有ること(有身)のうちに恐怖を見て、離欲〔の境地〕こそを熱望する。


341.(340) わたしは、親族衆を捨棄して、さらには、奴隷や労夫たちを、諸々の富み栄える村や田畑を、諸々の喜ばしきものを、諸々の歓喜したものを――


342.(340・341) 少なからざる自らの所得を捨棄して、〔今や〕わたしは、出家者として〔存している〕。このように、信によって、〔家を〕出て、見事に知らされた正なる法(教え)において。


343.(341) 彼が、金や銀を捨て放って〔そののち〕、ふたたび〔家に〕帰り来るなら、これは、彼にとって、適切なることにあらず。まさに、無所有〔の境地〕を切望するべきである。


344.(342) 銀は、あるいは、金は、覚り(菩提)のためにあらず、寂静〔の境地〕のためにあらず。これは、沙門にとって、適切なるものにあらず。これは、聖なる財にあらず。


345.(343) これは、〔人を〕貪欲ならしむものであり、さらには、驕慢ならしむものであり、迷妄ならしむものであり、〔世俗の〕塵を増大させるものであり、危惧を有するものであり、苦労多きものである。しかして、ここに、常久と止住は存在しない。


346.(344) ここにおいて、〔欲に〕染まり、かつまた、〔気づきを〕怠り、〔怒りや憎しみで〕意が汚染された人たちは、互いに他と反目し、確執を多く作り為す。


347.(345) 殴打、結縛、〔心の〕汚れ(煩悩)、〔体力の〕衰退(老衰)、憂いと嘆き――諸々の欲望〔の対象〕のうちに囚われた者たちには、多くの災厄が見られる。


348.(346) 親族たちよ、あるいは、朋ならざる者たちよ、〔まさに〕その、わたしを、どうして、あなたたちは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに結び付けるのだ。わたしを、出家者と知れ。諸々の欲望〔の対象〕のうちに恐怖を見る者と〔知れ〕。


349.(347) 諸々の煩悩は、黄金(貨幣)や金では、完全に滅尽されない。諸々の欲望〔の対象〕は、朋“とも”ならざる者たちであり、殺戮者たちであり、敵たちであり、矢と結縛である。


350.(348) 親族たちよ、あるいは、朋ならざる者たちよ、〔まさに〕その、わたしを、どうして、あなたたちは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに結び付けるのだ。わたしを、出家者と知れ。剃髪し、大衣を着た者と〔知れ〕。


351.(349) 〔戸口に〕立って受ける〔行乞の〕食、残飯と、糞掃衣(ぼろ布)の衣料と――これは、まさに、わたしにとって、適切なるものであり、家なき者にとっての近しき依所である。


352.(350) それらが、諸天のものであれ、さらには、それらが、人間たちのものであれ、諸々の欲望〔の対象〕は、偉大なる聖賢たちによって吐き捨てられた。彼らは、平安なる境位において解脱した者たちである。彼らは、不動の安楽を得た者たちである。


353.(351) それらのうちに、救いが見い出されないなら、わたしが、諸々の欲望〔の対象〕と集いあつまることがあってはならない。諸々の欲望〔の対象〕は、朋ならざる者たちであり、殺戮者たちであり、火の集塊“かたまり”の如きものであり、苦しみである。


354.(352) これは、障害であり、恐怖である。悩苦を有するものであり、荊“いばら”を有するものである。これは、貪欲であり、さらには、極めて不正なるものであり、〔人を〕迷妄ならしむ門の大いなるものである。


355.(353) 諸々の欲望〔の対象〕は、災禍であり、恐怖の形態あるものであり、蛇の頭の如きものである――それらを、愚者たちが喜び、暗愚と成った〔迷える〕凡夫たちが〔喜ぶ〕として。


356.(354) まさに、欲望の汚泥にはまった人たちは、世における、多くの無知なる者たちである。生、および、死の、完全なる終極を、〔彼らは〕知らない。


357.(355) 人間たちは、悪しき境遇(悪趣)に至る道を、欲望という〔悪しき〕因ある〔道〕を、自己に病をもたらす〔道〕を、まさに、多く実践する。


358.(356) このように、諸々の欲望〔の対象〕は、朋ならざる者を生むものであり、〔人を〕苦しめるものであり、〔心の〕汚染(雑汚)であり、〔虚妄なる〕世財であり、〔迷いの者たちが〕結縛されるべきものであり、死の結縛である。


359.(357) 諸々の欲望〔の対象〕は、〔人を〕狂気ならしむものであり、誘惑するものであり、心の惑乱であり、〔迷える〕有情たちの〔心の〕汚染のために、悪魔によって、すみやかに仕掛けられた〔罠〕である。


360.(358) 諸々の欲望〔の対象〕は、終極なき危険であり、苦痛多きものであり、大いなる毒あるものであり、悦楽少なきものであり、相克を為すものであり、白分(月が満ちる期間)を干上がらせるものである。


361.(359) 〔まさに〕その、わたしが、このような欲望〔の対象〕を因とする災厄を作り為して、その〔不幸〕へと戻り行くことはないであろう――常に、涅槃〔の境処〕に喜びある者として。


362.(360) 諸々の欲望〔の対象〕にたいし相克を為して、〔心が〕冷静“おだやか”な状態を待ち望む者となり、〔気づきを〕怠らず、〔わたしは〕住するであろう――一切の束縛するものの滅尽〔という境地〕において。


363.(361) 憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、平安で、聖なる八つの支分ある、真っすぐな、その道(八正道)に、〔わたしは〕従い行く――その〔道〕によって、偉大なる聖賢たちが、〔彼岸へと〕超え渡ったのだ。


364.(362) この者を見よ――法(正義)に依って立つ者である、鍛冶屋の娘のスバー(人名)を。〔彼女は〕不動の〔境地〕を成就して、木の根元で瞑想する。


365.(363) 今日が第八〔日〕となる出家者であり、信ある者であり、正なる法(真理)によって美しく輝く者である。ウッパラヴァンナー(人名)に教え導かれた者であり、三つの明知ある者であり、死を捨棄する者である。


366.(364) 〔まさに〕その、この比丘尼は、自由の者であり、借りなき者であり、〔感官の〕機能(根)を修めた者であり、一切の束縛について束縛を離れた者であり、為すべきことを為した者であり、煩悩なき者である。


367.(365) 生類の長たる帝釈〔天〕(インドラ神)は、天〔の神々〕の群れとともに、神通によって近しく赴いて、彼女を、鍛冶屋の娘のスバーを、礼拝する。ということで――


 ……鍛冶屋の娘のスバー長老尼は……。


 二十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


14 三十なるものの集まり


14.1 ジーヴァカのアンバ林にあるスバー長老尼の詩偈


368.(366) ジーヴァカ(人名)の喜ばしきアンバ林(マンゴーの果樹園)へと行きつつある比丘尼のスバーを、質“たち”悪き者が妨げた。スバーは、彼に、このことを説いた。


369.(367) 〔長老尼は言った〕「〔あなたが〕わたしを邪魔して立ちはだかる、ということは、あなたにたいして、何か、わたしによる非礼があるのでしょうか。友よ、なぜなら、〔男の〕人が〔女の〕出家者に接触することは、適切ではないからです。


370.(368) それが、わたしにとって重きものである教師の教えにおける、善き至達者(ブッダ)によって説示された学び〔の境処〕(戒律)です。完全なる清浄の境処ある者を、穢れなきわたしを、どうして、〔あなたは〕邪魔して立ちはだかるのですか。


371.(369) 混濁した心の者が、混濁なき者を、〔世俗の〕塵を有する者が、〔世俗の〕塵を離れた穢れなき者を、〔邪魔して立ちはだかります〕。一切所に意が解脱したわたしを、どうして、〔あなたは〕邪魔して立ちはだかるのですか」〔と〕。


372.(370) 〔男が言った〕「さてまた、〔年若き〕青年として、さらには、〔形姿に〕悪しきところなき者として、〔あなたは〕存しています。あなたにとって、出家することが、何を為すというのでしょう。黄褐色の衣料(袈裟)を捨て置きなさい。さあ、花ひらいた林のなかで、〔わたしたちは〕喜び楽しむのです。


373.(371) そして、芽吹いた木々は、花粉とともに、〔蜜のように〕甘美な〔香り〕を、全てにあまねく、香りただよわせます。最初の雨降る季節(初春)は、楽しきものです。さあ、花ひらいた林のなかで、〔わたしたちは〕喜び楽しむのです。


374.(372) そして、頭頂が花ひらいた木々は、風に揺られ、雄叫びをあげるかのようです。〔あなたが〕林のなかに独りで入って行く、というのなら、あなたに、何の喜びが有るというのでしょう。


375.(373) 猛獣の群れが慣れ親しむところへと、発情した象や騒ぎ立てる象がいるところへと、うらさびしい恐怖の大林へと、道連れなしで行くことを、〔あなたは〕求めます。


376.(374) 輝く〔素材〕で作られた人形のように、チッタラタ〔園〕における仙女のように、〔あなたは〕渡り歩きます。喩えるなら、カーシー〔産〕の繊細で、麗美な、諸々の衣によって、〔あなたは〕美しく輝きます。


377.(375) 〔わたしたちが〕森の中に住む、というのなら、わたしは、あなたの支配に従い行く者として存するでありましょう。妖精のつぶらな眼をした方よ、あなたよりも、より愛しき生き物は、わたしには、まさに、存在しません。


378.(376) 〔あなたが〕わたしの言葉を為すことになる、というのなら、〔あなたは〕安楽の者となり、さあ、家に住んでください。〔あなたは〕無風の高楼に住む者となり、女たちは、あなたのために、奉仕を為せ。


379.(377) 諸々のカーシー〔産〕の繊細な〔衣〕を〔身に〕付けてください。そして、花飾や顔料で〔身を〕装ってください。多くの黄金や宝珠や真珠を、様々な種類の装飾品を、あなたのために作ります。


380.(378) 塵〔の汚れ〕がしっかりと洗い清められた覆“おおい”があり、毛布と綿入れを広げ、美しく、新しく、栴檀〔の木〕で装飾され、〔その〕芯の香りがする、高価な臥所に登ってください(寝てください)。


381.(379) さらには、水のなかから伸び出た青蓮が、それが、人間ならざる者(精霊)の慣れ親しむところであるように、梵行者(禁欲清浄行の実践者)よ、このように、〔独りでいる〕あなたは、自らの諸々の肢体において、〔虚しく〕老へと赴くでありましょう」〔と〕。


382.(380) 〔長老尼は答えた〕「死骸(汚物)に満ち、墓場を増大させるものであり、破壊の法(性質)ある、〔この〕死体“からだ”について、ここに、あなたは、何を真髄と思ったのですか――それ(死体)を見て、〔あなたは〕意が離れ、見とれていますが」〔と〕。


383.(381) 〔男が言った〕「さてまた、山の中にいる、雌鹿の〔両の〕眼のような、妖精の〔両の眼の〕ような、あなたの〔両の〕眼を見て、わたしの、欲望の歓楽は、より一層、増大します。


384.(382) あなたの、青蓮の頭頂の如き〔両の眼〕を〔見て〕――垢(汚れ)を離れ黄金にも似た〔その〕顔にある、あなたの〔両の〕眼を見て――わたしの、欲望の対象は、より一層、増大します。


385.(383) 清浄なる見“まなざし”の方よ、長き睫毛の方よ、たとえ、遠くに行ったとしても、〔あなたのことを〕思い浮かべます。妖精のつぶらな眼をした方よ、あなたの眼よりも、より愛しきものは、わたしには、まさに、存在しません」〔と〕。


386.(384) 〔長老尼は答えた〕「道ならざる〔道〕によって行くことを、〔あなたは〕求めます――月を玩具として、〔あなたは〕求めます――メール〔山〕(須弥山)を跳び超すことを、〔あなたは〕求めます――覚者(ブッダ)の子(仏弟子)をつけねらう、〔まさに〕その、あなたは。


387.(385) 今や、わたしにとって、たとえ、そこに、〔それが〕存在するべきであるとして、天〔界〕を含む世〔界〕において、貪り〔の思い〕は、まさに、存在しません。また、それが、どのようなものであるかも、〔わたしは〕知りません。しかして、〔覚者の〕道によって、〔貪りの思いは〕根ごと打ち砕かれたのです。


388.(386) 〔わたしにとって、貪りの思いは〕火坑から放出された〔火炎〕のようであり、〔眼の〕前に置かれた毒鉢のようであり、また、それが、どのようなものであるかも、〔わたしは〕見ません。しかして、〔覚者の〕道によって、〔貪りの思いは〕根ごと打ち砕かれたのです。


389.(387) その者に、〔あるがままに〕注視されざるものが存在するなら、あるいは、教師(ブッダ)が〔いまだ〕近侍されざる者として存在するなら、〔覚者と縁なき〕そのような者を、あなたは、誘惑しなさい。〔あるがままに〕知っているこの〔わたし〕を〔誘惑しても〕、〔まさに〕その〔あなた〕は、〔虚しく〕打ちのめされる〔だけのこと〕。


390.(388) 罵倒されても敬拝されても、さらには、楽しかろうが苦しかろうが、まさに、わたしの気づき(念)は、現起しています。「形成されたもの(有為)は、美しくない(価値がない)」と知って、まさしく、一切所で、〔貪りの思いが〕意を汚すことはありません。


391.(389) 〔まさに〕その、わたしは、善き至達者(ブッダ)の弟子であり、八つの支分ある〔聖なる〕道(八正道)を乗物として行く者です。矢は引き抜かれ、煩悩なき者となり、〔人のいない〕空家に赴き、わたしは、〔覚者の教えを〕喜び楽しみます。


392.(390) 種々様々な〔彩色が施された〕人形を、あるいは、諸々の木の操り人形を、まさに、わたしは見ました。諸々の紐やら諸々の釘やらで結び合わされ、様々な種類に踊らされる〔人形〕です。


393.(391) それが、紐と釘が引き抜かれ、捨て去られたとき、ぼろぼろになり、ばらばらにされたとき、〔ただの〕断片として作り為されたものに〔喜びを〕見い出すべくもなく、それで、どこに、意を確たるものとするのですか。


394.(392) その喩えのように、わたしの諸々の肉身“からだ”なるものは〔存在し〕、それらの法(性質)を除いて、〔何ものも〕転起しません(断片としての肉体が活動しているだけのこと)。諸々の法(性質)を除いて、〔何ものも〕転起せず、それで、どこに、意を確たるものとするのですか。


395.(393) 黄の絵具で塗布され、様々な〔彩色で〕作り為された〔絵〕を、壁に見たように、そこに、あなたの転倒した見があるのです。人間の想い(想:表象・概念)は、義(意味)なきものです。


396.(394) 『至高のものである』と作り為された幻想のような、夢の中での黄金の木のような、〔愚かな〕人たちの中で〔見せる〕影絵のような、暗愚で空虚なものへと、〔あなたは〕近づき行きます。


397.(395) 〔眼は〕空洞“うろ”のなかに置かれた球のようなものです。〔その〕中には、涙を有する泡粒があります。そして、ここに、目脂が生じます。また、眼の種類に様々な種類があるとして、〔ただの〕球体です」〔と〕。


398.(396) 見た目が典雅で、意に執着なき〔比丘尼〕は、〔自らの眼を〕引き抜いて、しかして、〔執着の思いに〕陥らなかった。「さあ、その眼を、あなたのもとへと運び去りなさい」〔と〕、まさしく、ただちに、その男に与えた。


399.(397) しかして、彼の貪り〔の思い〕は、まさしく、ただちに止んだ。しかして、そこにおいて、〔彼は〕彼女に謝罪した。〔男が言った〕「梵行者よ、〔あなたに〕安穏が存しますように。このようなことは、ふたたび、有りますまい。


400.(398) このような人を襲って、燃え盛っている火を抱いて〔傷つく〕ようなもの、毒蛇を掴んで〔傷つく〕ようなもの。どうぞ、また、〔あなたに〕安穏が存しますように。どうか、〔わたしを〕許してください」〔と〕。


401.(399) しかして、〔男から〕解き放たれた、その比丘尼は、そののち、優れた覚者(ブッダ)の現前へと赴いた。優れた功徳ある〔覚者の〕特相を見て、〔彼女の〕眼は、過去“もと”のとおりに存した。ということで――


 ……ジーヴァカのアンバ林にあるスバー長老尼は……。


 三十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


15 四十なるものの集まり


15.1 イシダーシー長老尼の詩偈


402.(400) 花の名をもつ城市、地の精髄たるパータリプッタ(地名)に、サキャ(釈迦)家の家系の、まさに、徳ある二者の比丘尼がいる。


403.(401) そこで、一者は、イシダーシー(人名)、第二の者は、「ボーディー(人名)」と〔呼ばれ〕、かつまた、戒の成就者である。瞑想〔の境地〕を瞑想することに喜びある者たちであり、多聞の者たちであり、〔心の〕汚れを払い落とした者たちである。


404.(402) 彼女たちは、〔行乞の〕食のために〔道を〕歩んで、食の義(目的)を為して(食事を終えて)、鉢を洗い清めた。〔彼女たちは〕静所に楽坐し、これらの言葉を発した。


405.(403) 〔ボーディーが尋ねた〕「貴婦よ、イシダーシーよ、〔あなたは〕清らかな者として存しています。年齢(若さ)もまた、あなたのばあい、まったく衰えていません。何を非と見て、しかして、〔あなたは〕離欲に専念する者として存しているのですか」〔と〕。


406.(404) このように、〔まさに〕その、静所で〔離欲に〕専念している、法(教え)の説示に巧みな智ある者、イシダーシーは、〔この〕言葉を説いた。〔イシダーシーは答えた〕「ボーディーよ、聞いてください――〔わたしが〕出家者として〔世に〕存しているとおりに〔その経緯を〕。


407.(405) 戒の統御者たる、わたしの父は、優れた都ウッジェーニー(地名)における長者であり、〔わたしは〕彼の独り娘として存し、愛しき者として、かつまた、意に適う者として、しかして、〔父に〕可愛がられました。


408.(406) しかして、わたしのために、サーケータ(地名)から、最上の家系の仲人たちがやってきました。〔その〕長者は、多大なる宝ある者で、父は、わたしを、彼の嫁(長者の子の妻)として与えました。


409.(407) 姑、および、舅に、夕に、朝に、挨拶するために近づき行って、教示された者として存するとおりに、頭をもって〔礼を〕為し、〔二人の両の〕足を敬拝します。


410.(408) その者たちが、わたしの夫の姉妹たちであるとして、あるいは、兄弟の従者でも、その者を、たとえ、一度でも見ては、怯える〔思い〕で坐を与えます。


411.(409) しかして、それが、そこに貯蔵されているものであるなら、食べ物と、飲み物と、固形の食料とで、彼が、それに適切な者であるなら、〔彼を〕喜ばせ、〔施物を〕運びもすれば、与えもします。


412.(410) 〔しかるべき〕時に起きて、〔夫のいる〕家屋へと近づき行きます。敷居のところで〔両の〕手と足を洗い清め、合掌し、夫のところへと近づきます。


413.(411) 櫛を、髪留めを、しかして、塗薬を、さらには、鏡を掴んで、奉仕を為す者(侍女)であるかのように、まさしく、自ら、夫を飾り立てます。


414.(412) まさしく、自ら、飯を炊きます。まさしく、自ら、器を洗います。母が独り子に〔為す〕ように、そのように、夫に奉仕します。


415.(413) このように、〔精一杯の〕献身を為したわたしを――懸命の為し手であり、思量を打ち倒した〔わたし〕を――〔しかるべき時に〕起き、怠け者でなく、戒ある〔わたし〕を――夫は憎悪するのです。


416.(414) 彼は、〔彼の〕母と父とに語ります。『許してください。わたしは、去り行くでありましょう。わたしは、イシダーシーと共に住むことはありません――一つ家のなかで共に住むことは』〔と〕。


417.(415) 〔彼の父が尋ねました〕『子よ、このように言ってはならない。イシダーシーは、賢く、明敏な者だ。〔しかるべき時に〕起き、怠け者ではない。子よ、何が、おまえに、気に入らないのだ』〔と〕。


418.(416) 〔夫は答えました〕『さてまた、何であれ、〔妻が〕わたしを害することはありません。しかしながら、わたしは、イシダーシーと共に住むことはありません。わたしにとっては、嫌なだけの者ですし、わたしには、〔もう〕十分です。許してください。わたしは、去り行くでありましょう』〔と〕。


419.(417) 彼の言葉を聞いて、姑、および、舅は、わたしに尋ねました。『おまえが何に反することをしたのか、〔わたしたちを〕信頼し、事実のとおりに語りなさい』〔と〕。


420.(418) 〔わたしは答えました〕『わたしは、また、何にであれ、反しませんでした。〔夫を〕害することもまたなく、悪しき言葉も語りません。およそ、夫がわたしを憎悪することになる、どのようなことを、為すことができましょう』〔と〕。


421.(419) 彼らは、父の家へと向かい、わたしを連れ行きました――意が離れ(放心し)、苦しみに征服された者たちとなり。〔彼らは言いました〕『子を守りつつも、〔人間の〕形姿あるラッキー(神名:幸福の女神・イシダーシのこと)を勝者として〔わたしたちは〕存しています(わたしたちは、あなたの美しい娘に打ち負かされた)』〔と〕。


422.(420) しかして、父は、わたしを、第二の家系の富者の家に与えました――〔第一の〕長者がわたしを見い出したその〔持参金〕の、それより半分の持参金でもって。


423.(421) 〔わたしは〕彼の家にもまた、ひと月のあいだ住みました。しかして、彼もまた、わたしを追い返したのです――侍女のように奉仕する、汚れなき戒の成就者を。


424.(422) さてまた、行乞のために〔世を〕渡り歩いている者で、〔心身が〕調御された調御者に、わたしの父は語ります。『〔あなたは〕わたしの婿として有りなさい。ぼろ布と鉢とを捨て置きなさい』〔と〕。


425.(423) 彼もまた、半月のあいだ住んで、しかして、父に語ります。『わたしに、ぼろ布を与えてください。鉢と椀とを〔与えてください〕。また、ふたたび、行乞しながら〔世を〕歩むでありましょう』〔と〕。


426.(424) しかして、父と母は、さらには、わたしの親族の衆や集まりは、〔その〕全てが、彼に語ります。『あなたのために、ここに、何を為さないというのでしょう。すみやかに語ってください。あなたのために、それを為しましょう』〔と〕。


427.(425) このように語られ、〔彼は〕語ります。『わたしの自己が〔思うとおりに〕できる、というのなら、わたしには、〔それで〕十分です。わたしは、イシダーシーと共に住むことはありません――一つ家のなかで共に住むことは』〔と〕。


428.(426) 彼は捨て去られ、去り行きました。わたしもまた、独りある者となり、〔あれこれと〕考えます。『許しを乞うて、去り行くのだ。あるいは、死ぬために、あるいは、出家するのだ』〔と〕。


429.(427) しかして、托鉢のために〔世を〕歩んでいる、貴婦ジナダッター(人名)が、父の家にやってきたのです。律を保ち、多聞にして、戒の成就者たる方です。


430.(428) 彼女を見て、わたしたちは立ち上がって、〔わたしは〕彼女のために坐を設けました。そして、坐した〔彼女〕の〔両の〕足を敬拝して、食を施しました。


431.(429) しかして、それが、そこに貯蔵されているものであるなら、食べ物と、飲み物と、固形の食料とで、〔彼女を〕満足させて、〔わたしは〕言いました。『貴婦よ、〔わたしは〕出家することを求めます』〔と〕。


432.(430) しかして、父は、わたしに語ります。『子よ、おまえは、まさしく、ここで(この家で)、法(教え)を行じおこないなさい。食べ物と飲み物とで、沙門(修行者)たちを、さらには、再生者(婆羅門)たちを、満足させなさい』〔と〕。


433.(431) しかして、わたしは、泣きながら合掌を手向けて、父に語ります。『まさに、わたしによって、悪しき行為(悪業)が作り為されたのです。〔わたしは〕それを、滅し去るでありましょう』〔と〕。


434.(432) しかして、父は、わたしに語ります。『覚り(菩提)と至高の法(真理)とを得なさい。さらには、最勝の二足者(ブッダ)が実証した、〔まさに〕その、涅槃を得なさい』〔と〕。


435.(433) 母と父を、さらには、親族の衆や集まりを、〔その〕全てを敬拝して、七日のうちに、出家した〔わたし〕は、三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)を体得しました。


436.(434) 〔わたしは〕自己の七生を知ります。これが、その〔わたし〕の、果と報いです。それを、あなたに告げ知らせましょう。それを、一意の者となり、こころして聞いてください。


437.(435) エーラカカッチャ(地名)の城市で、〔過去世の〕わたしは、多大なる財ある金の細工師として〔世に有りました〕。〔まさに〕その、わたしは、若さゆえの驕りで驕慢し、他者の妻と慣れ親しみました。


438.(436) 〔まさに〕その、わたしは、そののち、死んで、長きにわたり、地獄において煮られました。そして、そののち、〔果が〕熟し、〔地獄から〕出て、雌猿の子宮に入りました。


439.(437) 〔雌猿の子宮から出て〕七日のうちに、〔世に〕生まれたわたしを、畜群の主たる大猿は去勢しました。これが、その〔わたし〕の、行為の果です――他者の妻のもとに行って〔罪を犯した〕とおりに、またもや〔輪廻して〕。


440.(438) 〔まさに〕その、わたしは、そののち、死んで、シンダヴァ林で命を終えて、片目でもあれば、足萎えでもある、雌羊の子宮に入りました。


441.(439) わたしは去勢され、十二年のあいだ、少年たちを運び回っては、虫たちに〔悩まされ〕、不具の者として、〔輪廻のうちに〕転起したのです――他者の妻のもとに行って〔罪を犯した〕とおりに、またもや〔輪廻して〕。


442.(440) 〔まさに〕その、わたしは、そののち、死んで、牛商人の雌牛から生まれました。染色した銅のような子牛で、十二月のうちに去勢されました。


443.(441) 成長して〔そののち〕、わたしは、鋤を、さらには、荷車を、〔身に〕付けます。盲者として、不具の者として、〔輪廻のうちに〕転起したのです――他者の妻のもとに行って〔罪を犯した〕とおりに、またもや〔輪廻して〕。


444.(442) 〔まさに〕その、わたしは、そののち、死んで、道端の侍女の家に生まれました。まさしく、女でもなく、男でもなく――他者の妻のもとに行って〔罪を犯した〕とおりに、またもや〔輪廻して〕。


445.(443) 三十年のうちに、死んだ〔わたし〕は、車夫の家に、娘として生まれました――貧しくて、財物少なく、債権人に多くの負債ある〔家〕に。


446.(444) 〔まさに〕その、わたしを、そののち、〔家の負債が〕増長し増大し広大になると、隊商の長が連れ去ります――悲嘆する〔わたし〕を、〔その〕家の家屋から奪い取って。


447.(445) しかして、第十六の年に、若さの盛りを得たわたしを見て、名としてはギリダーサという名の、彼の子は、少女〔のわたし〕を娶りました。


448.(446) 彼にはまた、他の妻があり、戒ある者、徳ある者、さらには、福徳ある者です。夫に執着するわたしは、彼女に、憎悪〔の思い〕を為しました。


449.(447) これが、その〔わたし〕の、行為の果です――すなわち、侍女のように奉仕するわたしを捨て去って、〔彼らが〕去り行くのは。それもまた、わたしによって、〔今や〕終極が為されました」〔と〕。ということで――


 ……イシダーシー長老尼は……。


 四十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


16 大なるものの集まり


16.1 スメーダー長老尼の詩偈


450.(448) マンターヴァティー(地名)の城市において、コンチャ王の第一王妃に、スメーダー(人名)〔という名〕の娘が存した。〔覚者の〕教えを為す者たちによって、清らかな信ある者として〔世に有った〕。


451.(449) 戒ある者であり、様々な言説ある者であり、多聞の者であり、覚者(ブッダ)の教えに教え導かれた者である。〔彼女は〕母と父のもとへと近づき行って、〔このように〕語る。〔スメーダーは言った〕「両者ともに、こころして聞いてください。


452.(450) わたしは、涅槃〔の境処〕に喜びある者です。〔迷いの〕生存に堕ちたものは、もしくは、天のものであるとしてもなお、常恒ではありません。ましてや、また、悦楽少なく、悩苦多き、諸々の虚妄なる欲望〔の対象〕が、何だというのでしょう。


453.(451) それらのうちに愚者たちが耽溺する、諸々の欲望〔の対象〕は、〔真実には〕辛きもので、蛇の毒の如きものです。彼らは、長夜にわたり、地獄に引き渡され、苦しみの者たちとなり、打ちのめされます。


454.(452) 悪しき行為(悪業)ある者たちは、悪しき〔行為〕の増大ある者たちは、常に、堕所(地獄)において憂い悲しみます。身体(身)によっても、言葉(口)によっても、意(意)によっても、〔自己が〕統御されていない愚者たちです。


455.(453) それらの愚者たちは、知慧浅く、〔正しい〕思欲なく、苦しみの集起によって〔道を〕遮られた者たちです。〔覚者が〕説示しているとき、〔あるがままに〕知ることなく、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を覚りません。


456.(454) 母よ、優れた覚者(ブッダ)によって説示された〔四つの聖なる〕真理を、彼らが知ることはなく、彼らのより多くは、〔迷いの〕生存に堕ちたものを喜び、諸天における再生を熱望します。


457.(455) 諸天における再生もまた、〔迷いの〕生存に堕ちた常住ならざるもの(無常)のうちにあり、常恒ではありません。しかしながら、愚者たちは、繰り返し〔世に〕生まれるべくあることを畏怖しません。


458.(456) 〔地獄と餓鬼と畜生と阿修羅という〕四つの堕所、および、〔人間界と天界という〕二つの境遇は、どのようにであれ、得られます。しかしながら、諸々の地獄においては、堕所に堕ちた者たちに、出家〔の道〕は存在しないのです。


459.(457) 十の力ある方(ブッダ)の〔聖なる〕言葉において出家しようとするわたしを、両者ともに、許してください。〔俗事に〕思い入れ少なき者となり、生と死を捨棄するために、〔わたしは〕勤めるでありましょう。


460.(458) 〔迷いの〕生存に堕ちたものにおける喜びが、何だというのでしょう。真髄なきものが、〔悪しき〕賽の目たる〔この〕身体が、〔何だというのでしょう〕。〔迷いの〕生存にたいする渇愛〔の思い〕の止滅あることから、許してください、〔わたしは〕出家するでありましょう。


461.(459) 覚者たちの生起は〔実現しました〕。時節なきは避けられました。〔覚者出現の〕時節は得られました。諸戒を、梵行(禁欲清浄行)を、生あるかぎり、〔わたしは〕汚しますまい」〔と〕。


462.(460) 〔さらに〕スメーダーは、このように語る。〔スメーダーは言った〕「母よ、父よ、〔わたしが〕在家者としてある、そのかぎりは、〔わたしは〕食を摂りますまい(出家が許されるまで食を断つ)。まさしく、死の支配に赴いた者として、〔わたしは〕有るでしょう」〔と〕。


463.(461) 苦しみの者となった母は泣き叫び、かつまた、父は、彼女のために、全くもって打ち砕かれた。高楼(王宮)の床のうえで、地に伏した〔スメーダー〕を説得すべく、〔彼らは〕勤める。


464.(462) 〔母と父が言った〕「子よ、立ち上がりなさい。憂い悲しんだとして、それが、何だというのでしょう。〔他者に〕与えられた者(許嫁)として、〔あなたは〕存しています。ヴァーラナヴァティー(地名)のアニカラッタ王は、形姿麗しき方です。あなたは、その方に与えられたのです。


465.(463) 〔あなたは〕アニカラッタ王の妻、第一王妃と成るのです。子よ、諸戒は、梵行は、出家は、為し難きものです。


466.(464) 王権のうちには、命令、財産、権力、諸々の財物、諸々の安楽があります。〔年若き〕青年として、〔あなたは〕存しています。諸々の欲望〔の対象〕たる財物を享受しなさい。子よ、あなたに、婚礼有れ」〔と〕。


467.(465) しかして、スメーダーは、彼らに語る。〔スメーダーは言った〕「このような諸々のことは、あってはなりません。〔迷いの〕生存に堕ちたものは、真髄なきものです。あるいは、出家が、あるいは、死が、わたしには有るでしょう。まさしく、しかして、婚礼ではなく。


468.(466) 〔人を〕恐怖させ、〔悪しき〕臭いが流れ出る、不浄で、腐った身体のようなものが、何だというのでしょう。不浄物に満ち、一度となく流れ出ている、汚い皮袋が、〔この〕死骸が、〔何だというのでしょう〕。


469.(467) そのようなものが、何だというのでしょう。わたしは、〔あるがままに〕知っています――肉と血で汚れた嫌悪のものを、虫の家にして避難所、鳥の食べるところである、〔この〕死体“からだ”を。何のために、与えられるというのでしょう(身体など意味なきものである)。


470.(468) 〔この〕身体は、長からずして、識別〔作用〕(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)を離れ、墓場に運び去られます――捨て放たれた木片のように、親族たちによって、〔穢れを〕忌避しながら。


471.(469) それを墓場に捨て放って、他〔の生き物〕の食べるところとし、〔穢れを〕忌避しながら、〔親族たちは〕沐浴します。自分(本人)の母と父が〔そうするのです〕。〔他の〕普通の人々が、また、何だというのでしょう。


472.(470) 真髄なき死体に、骨と腱の結索に、唾液や涙や糞尿に遍く満ちた腐った身体に、〔人々は〕執着しています。


473.(471) 彼が、その〔身体〕を分解して、その〔身体〕の内部を外へと為すなら、〔悪しき〕臭いに耐え切れずに、自らの母でさえも、忌避するのです。


474.(472) 〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)と〔十二の認識の〕場所(処)と〔十八の認識の〕界域(界)を、形成されたもの(有為)と、〔迷いの〕生を根元とするものと、苦しみと、根源“あり”のままに弁別している〔わたし〕が、誰との婚礼を求めるというのでしょう。


475.(473) また、たとえ、百年のあいだ、三百の刃が、毎日、毎日、新たに、新たに、身体に落ちてくるとして、しかして、このように、〔生の〕苦しみにとっての滅尽となり、〔その〕殲滅は、より勝“まさ”っています。


476.(474) 〔その〕殲滅に到達できるのです。彼が、このように、教師(ブッダ)の言葉を識知して〔そののち〕。〔すなわち〕『繰り返し〔苦しみに〕打ちのめされている彼らに、〔生死の〕輪廻は長きもの』〔と〕。


477.(475) 天〔の神々〕たち、そして、人間たち、畜生の胎、阿修羅の衆、そして、餓鬼たちにおいて、さらには、諸々の地獄において、無量の殲滅が与えられます。


478.(476) 堕所に堕ち、汚れつつある者には、諸々の地獄において、多くの殲滅があります。たとえ、諸々の天〔界〕においても、涅槃の安楽より他の救いは存在しません。


479.(477) 彼ら、十の力ある方(ブッダ)の〔聖なる〕言葉に専念する者たちは、〔俗事に〕思い入れ少なき者たちであり、生と死を捨棄するために勤めます。彼らは、涅槃を得た者たちです。


480.(478) 父よ、今日こそは、〔家を〕出るでありましょう。真髄なき諸々の財物が、何だというのでしょう。わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕は、厭離されたのです――吐き捨てられたに等しく、地所なく為されたターラ〔樹〕です」〔と〕。


481.(479) さてまた、彼女は、父に、このように語る。いっぽう、アニカラッタ〔王〕は、彼女は彼に与えられたのだが、〔婚礼の〕時がやってきたので、掟を守り、婚礼〔の場〕へと近づきつつあった。


482.(480) しかして、スメーダーは、黒く豊かで柔らかな諸々の髪を、剣で断ち切って、高楼〔の扉〕を締めて、第一の瞑想〔の境地〕(初禅)に入定した。


483.(481) さてまた、彼女は、そこにて〔瞑想の境地の〕入定者となる。いっぽう、アニカラッタ〔王〕は、〔マンターヴァティーの〕城市に到着した。さてまた、スメーダーは、高楼において、「〔一切は〕常住ならざるものである」という想い(無常想)を善く修める。


484.(482) さてまた、彼女は、〔あるがままに〕意を為す。いっぽう、アニカラッタ〔王〕は、急いで〔高楼に〕登った。宝珠と黄金で手足を飾った〔王〕は、合掌を為し、スメーダーに乞う。


485.(483) 〔王が言った〕「王権のうちには、命令、財産、権力、諸々の財物、諸々の安楽があります。〔年若き〕青年として、〔あなたは〕存しています。諸々の欲望〔の対象〕たる財物を享受しなさい。欲望〔の対象〕による安楽は、世において、極めて得難きものです。


486.(484) あなたに、王権は委ねられました。諸々の財物を享受しなさい。〔人々に〕諸々の布施を施しなさい。失意の者と成ってはなりません。あなたの母と父は苦しんでいます」〔と〕。


487.(485) 諸々の欲望〔の対象〕に義(目的)なく、迷妄を離れ去ったスメーダーは、それを、彼に語る。〔スメーダーは言った〕「諸々の欲望〔の対象〕を喜んではなりません。諸々の欲望〔の対象〕のうちに危険を見なさい。


488.(486) 四洲(全大陸)の王、マンダータル(人名)は、欲望〔の対象〕の享受者たちのなかでは至高の者として、〔世に〕存しました。しかしながら、彼の欲求は円満成就することなく、〔彼は〕満足せずに命を終えました。


489.(487) 雨もつ〔天〕が、十方に遍きにわたり、七宝を降らせるとして、しかしながら、諸々の欲望〔の対象〕に、満足は存在しません。〔世の〕人たちは、まさしく、満足せずに死ぬのです。


490.(488) 諸々の欲望〔の対象〕は、剣と槍の如きものです。諸々の欲望〔の対象〕は、蛇の頭の如きものです。松明の如きものです。〔迷いの者を〕焼き尽くします。〔無惨に打ち砕かれる〕骸骨に似たようなものです。


491.(489) 諸々の欲望〔の対象〕は、常住ならず、常久ならず、苦痛多く、大いなる毒です。熱せられた鉄の玉のようなものです。諸々の悩苦の根元です。諸々の苦果あるものです。


492.(490) 諸々の欲望〔の対象〕は、木果の如きものであり、肉片の如きものです。諸々の苦しみです。諸々の欲望〔の対象〕は、夢の如きものであり、〔人を〕騙すべきものであり、借り物の如きものです。


493.(491) 諸々の欲望〔の対象〕は、刃と槍の如きものです。病です。腫物です。悩苦です。煩悶です。火坑に等しきものです。悩苦の根元です。恐怖です。屠殺です。


494.(492) このように、苦痛多き諸々の欲望〔の対象〕は、障“さわ”りあるものと、〔覚者によって〕告げ知らされました。行きなさい。〔迷いの〕生存に堕ちたものにたいする、わたしの、自己の、確信〔の思い〕は、存在しません。


495.(493) わたしの、自己の、頭が焼かれているときに、他者が、何を為すというのでしょう。老と死の結縛のうちにあるなら、その殲滅のために勤めるべきです」〔と〕。


496.(494) わたしは、扉を開けて、母と父を、そして、アニカラッタ〔王〕を、〔彼らが〕地に坐し泣き叫んでいるの見て、この〔言葉〕を言った。


497.(495) 〔スメーダーは言った〕「終極が思い考えられない〔無始なる輪廻〕において、父の死について、兄弟の屠殺について、さらには、自己の屠殺について、繰り返し泣き叫んでいる愚者たちに、しかして、〔生死の〕輪廻は長きもの。


498.(496) 涙と乳と血の輪廻を、『終極が思い考えられないもの(無数のもの)である』と、思い浮かべてください。そして、輪廻している有情たちの、諸々の骨の蓄積を、思い浮かべてください。


499.(497) 涙と乳と血が集められたとき、四海となるのを、思い浮かべてください。一カッパ(劫:時間の単位・無限大の時間)のあいだの、諸々の骨の積量がヴィプラ〔山〕に等しいことを、思い浮かべてください。


500.(498) 終極が思い考えられない〔無始なる輪廻〕のうちに輪廻している者の、〔残骸として〕集められたものは、ジャンブ洲(全インド)の大地となります。棗“なつめ”〔の実〕の核ほどの〔世にある限りの〕諸々の小玉も、まさしく、〔輪廻における〕母の母たち〔の数〕には、〔比べることが〕できません。


501.(499) 〔残りなく〕集められた、草や薪や枝や葉を、『終極が思い考えられないもの(無数のもの)である』と思い浮かべてください。〔それを砕いて作った〕四指〔の長さ〕の諸々の楔“くさび”も、まさしく、〔輪廻における〕父の父たち〔の数〕には、〔比べることが〕できません。


502.(500) 東の海にいる盲目の亀を、そして、西から〔流れてくる〕軛“くぶき”の穴を、かつまた、〔その穴に〕嵌り込んだ、その〔亀〕の頭を、思い浮かべてください。人間〔の身体〕を得ることの喩えです。


503.(501) 泡沫の団塊の如きで、身体という〔悪しき〕賽の目ある、真髄なきものの、〔その儚き〕形態を、思い浮かべてください。〔心身を構成する五つの〕範疇を、常住ならざるものと見てください。悩苦多き諸々の地獄を、思い浮かべてください。


504.(502) そこかしこにおける諸々の生において、墓地を〔自らの死体で〕繰り返し増大させている者たちを、思い浮かべてください。そして、諸々の鰐“わに”の恐怖を、思い浮かべてください。四つの〔聖なる〕真理(四聖諦)を、思い浮かべてください。


505.(503) 不死〔の境処〕が見い出されているときに、五つの辛き飲み物が、あなたにとって、何だというのでしょう。まさに、諸々の欲望〔の対象〕による歓楽は、〔その〕全てが、五つの辛きものより、より辛きものです。


506.(504) 不死〔の境処〕が見い出されているときに、それらの苦悶〔の思い〕となる、諸々の欲望〔の対象〕が、あなたにとって、何だというのでしょう。まさに、諸々の欲望〔の対象〕による歓楽は、〔その〕全てが、燃え盛り、煮えたぎり、揺れ動き、熱せられたものです。


507.(505) 敵なき〔境地〕が存しているときに、それらの敵多きものとなる、諸々の欲望〔の対象〕が、あなたにとって、何だというのでしょう。敵多き諸々の欲望〔の対象〕は、国王や火〔災〕や盗賊や水〔害〕や愛しからざる者たちと共通のものです。


508.(506) 解脱〔の境地〕が見い出されているときに、それらのうちに殴打と結縛がある、諸々の欲望〔の対象〕が、あなたにとって、何だというのでしょう。まさに、諸々の欲望〔の対象〕のうちに、自らの欲望〔の対象〕なき者たちは、諸々の殴打と結縛の苦しみを経験します。


509.(507) 燃えている諸々の草の松明は、掴んでいる者を焼きますが、解き放つ者を、まさしく、〔焼くことが〕ありません。まさに、諸々の松明の如きものである、諸々の欲望〔の対象〕は、彼らを、それらを解き放たない者たちを焼きます。


510.(508) 少なき欲望〔の対象〕の安楽を因として、広大なる安楽を捨棄してはなりません。多毛〔の魚〕が、釣針を飲んで〔苦しむ〕ように、のちに打ちのめされてはなりません。


511.(509) どうぞ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、〔自己を〕調御してください。〔あなたが〕鎖に縛された犬のようなものである、そのかぎりは。飢えたチャンダーラ(旃陀羅:賤民・非人)たちが、犬を〔食べ尽くす〕ように、諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、あなたに為すのです。


512.(510) しかして、無量の苦しみを、さらには、多くの心における失意を、諸々の欲望〔の対象〕に束縛された者として、〔あなたは〕経験するのです。常久ならざる諸々の欲望〔の対象〕を、放棄しなさい。


513.(511) 老ならざるものが見い出されているときに、それらのうちに老がある、諸々の欲望〔の対象〕が、あなたにとって、何だというのでしょう。一切の生は、一切所において、死と病に捕捉されたものです。


514.(512) これは、老ならざるものです。これは、死ならざるものです。これは、老と死なき境処であり、憂いなきものです。敵なきものです。隔てなきものです。失敗なきものです。恐怖なきものです。悩苦なきものです。


515.(513) この不死〔の境処〕は、多くの者たちによって到達されたものです。そして、これは、今日でさえも、得られるべきものです。彼が、根源“あり”のままに専念するなら。しかしながら、勤めずにいる者によって、〔得ることは〕できないのです」〔と〕。


516.(514) スメーダーは、このように語る――形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)に堕ちたもの(迷いの生存)に歓楽を得ない者として。アニカラッタ〔王〕を教え導きながら、スメーダーは、しかして、諸々の髪を、地に投げ捨てた。


517.(515) アニカラッタ〔王〕は、立ち上がって、合掌の者となる。彼は、彼女の父に乞い求める。〔王が言った〕「出家するために、スメーダーを送り出してください。〔彼女は〕解脱と真理を見る者です」〔と〕。


518.(516) 母と父に送り出され、〔スメーダーは〕出家した――〔世俗の〕憂いと恐怖を恐怖する者として。至高の果を学びつつあると、六つの神知(六神通)は実証された。


519.(517) 稀有なるものとして、未曾有のものとして、王女の、その涅槃は存した。最後の時に、過去(前世)の居住と行ないを、そのとおりに説き示した。


520.(518) 〔スメーダーは言った〕「世尊コーナーガマナ(過去仏)が、新しい住居である僧園におられるとき、〔わたしたち〕三人の友は、精舎を布施として施しました。


521.(519) 十回、百回、千回、一万回と、〔わたしたちは〕天〔の神々〕たちのうちに再生しました。人間たちについては、また、何の論がありましょう。


522.(520) 〔わたしたちは〕天〔の神々〕たちのなかでは、大いなる神通ある者たちとして有りました。人間たるについては、また、何の論がありましょう。わたしは、七宝者(転輪聖王)の王妃として、婦女の宝として、〔世に〕存しました」〔と〕。


523.(521) それが、原因である。それが、起源である。それが、根元である。まさしく、それが、教えにおける忍耐である。それが、最初の帰結である。それが、法(教え)に喜びある者にとっての、涅槃である。


524.(522) 彼ら、至上の知慧ある方(ブッダ)の言葉に信を置く者たちは、このように為す。〔迷いの〕生存に堕ちたものについて、〔彼らは〕厭い離れる。厭い離れて、離貪する。ということで――


 まさに、このように、スメーダー長老尼は、諸々の詩偈を語った、という。


 大なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 諸々の長老尼の詩偈は、〔以上で〕完結した。


 〔しかして、詩偈に言う〕「四百の詩偈がある。八十が、さらには、十四がある。百を超えること一の長老尼たちがいる。彼女たちは、〔その〕全てが、煩悩なき者たちである」と。


 テーリーガーター聖典は、〔以上で〕終了した。



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