小部経典8:テーラガーター

2010.9.5更新

阿羅漢にして 正自覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る


 テーラガーター聖典(長老偈経)


因縁の詩偈


 〔しかして、詩偈に言う〕「山窟に吼える、牙ある獅子たちの〔声を聞く〕ように、自己を修めた者たちの、義(道理)に関する諸々の詩偈を聞け。

 〔その〕名のままに、〔その〕姓のままに、法(真理)の住者たるままに、〔心に〕信念したままに、知慧を有する者たちが、〔世に〕住んだ――休むことなく〔精進に励みながら〕。

 そこかしこにおいて、〔あるがままに〕観察して〔そののち〕、不死の境処を体得して、〔自己の〕作り為した〔行為〕の終極を〔あるがままに〕注視しつつ、この義(意味)を語った」〔と〕。


1 一なるものの集まり


1.1 第一の章


1.1.1 スブーティ長老の詩偈


1.(1) わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。天よ、安楽“すき”なように雨を降らせよ。わたしの心は善く定められ、解脱し、〔わたしは〕熱情ある者として〔世に〕住む。天よ、雨を降らせよ。ということで――


 まさに、このように、尊者スブーティ長老は、詩偈を語った、という。


1.1.2 マハー・コッティカ長老の詩偈


2.(2) 〔心身が〕寂静で、〔貪欲が〕止息し、智慮によって語り、〔心が〕高ぶらない者――〔彼は〕悪しき諸法(性質)を払い落とす――風が、木の葉を〔吹き払う〕ように。ということで――


 まさに、このように、尊者マハー・コッティカ長老は、詩偈を語った、という。


1.1.3 カンカー・レーヴァタ長老の詩偈


3.(3) 如来(あるがままの行為者)たちの、この知慧(般若・慧)を見よ。深夜に燃え盛る火のように、〔人々に〕光を与え眼“まなこ”を与える者たちとして、〔如来たちは、世に〕有る。彼らは、やってきた者たちの疑いを取り除く。ということで――


 まさに、このように、尊者カンカー・レーヴァタ長老は、詩偈を語った、という。


1.1.4 プンナ長老の詩偈


4.(4) 義(道理)を見る賢者たちと、正しくある者たちとこそ、親交するように。〔気づきを〕怠らない明眼の慧者たちは、大いなる義(道理)に、深遠で見難く精緻で微細なる〔義〕に、正しく到達する。ということで――


 まさに、このように、尊者プンナ・マンターニプッタ長老は、詩偈を語った、という。


1.1.5 ダッバ長老の詩偈


5.(5) 彼は、ダッバ(人名:善良なる者)は、調御し難きを調御によって調御した者、疑いを超えた〔常に〕満ち足りている者――まさに、彼は、恐ろしさを離れ去った〔一切の〕征圧者にして善良なる者(ダッバ)、完全なる涅槃に到達した者であり、自己を確立した者である。ということで――


 まさに、このように、尊者ダッバ長老は、詩偈を語った、という。


1.1.6 シータ・ヴァニヤ長老の詩偈


6.(6) 彼は、比丘は、シータ林(寒林:地名・死体置き場)へと近づき行った――自己が定められ、〔常に〕満ち足りている、独りある者として――〔彼は〕身の毛のよだつ〔恐怖〕を離れ去った〔一切の〕征圧者、身体“からだ”の在り方(時々刻々の身体の状況)についての気づき(念)を〔常に〕守っている〔道心〕堅固の者である。ということで――


 まさに、このように、尊者シータ・ヴァニヤ(シータ林にある者)長老は、詩偈を語った、という。


1.1.7 バッリヤ長老の詩偈


7.(7) 彼は、死魔の王の軍団を除き去った――大激流が、極めて力の弱い葦の橋を〔押し流す〕ように――まさに、彼は、恐ろしさを離れ去った〔一切の〕征圧者にして調御者、完全なる涅槃に到達した者であり、自己を確立した者である。ということで――


 まさに、このように、尊者バッリヤ長老は、詩偈を語った、という。


1.1.8 ヴィーラ長老の詩偈


8.(8) 彼は、ヴィーラ(人名:勇者)は、調御し難きを調御によって調御した者、疑いを超えた〔常に〕満ち足りている者――彼は、身の毛のよだつ〔恐怖〕を離れ去った〔一切の〕征圧者にして勇者(ヴィーラ)、完全なる涅槃に到達した者であり、自己を確立した者である。ということで――


 まさに、このように、尊者ヴィーラ長老は、詩偈を語った、という。


1.1.9 ピリンダヴァッチャ長老の詩偈


9.(9) 善く来てくれた――悪しく来たものにあらず。これは、わたしの悪しき思いなしにあらず。〔人々に〕分け与えられた諸々の法(事象)のなかで、〔まさに〕その、最勝のもの――〔わたしは〕それへと近づき行ったのだ。ということで――


 まさに、このように、尊者ピリンダヴァッチャ長老は、詩偈を語った、という。


1.1.10 プンナマーサ長老の詩偈


10.(10) 〔真の〕知に至り、〔心が〕静まり、自己を制した者として、彼が、この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、〔あるがままに〕熟視しながら、〔世に〕住んだなら――〔彼は〕一切諸法(現象世界)について汚れなき者であり、しかして、世の生滅〔の道理〕を知るであろう。ということで――


 まさに、このように、尊者プンナマーサ長老は、詩偈を語った、という。


 〔以上が〕第一の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「スブーティ、コッティカ長老、〔人々に〕敬われたカンカー・レーヴァタ、マンターニプッタ(プンナ)、および、ダッバ、および、シータ・ヴァニヤ、バッリヤ、ヴィーラ、および、ピリンダヴァッチャ、闇を除去する者プンナマーサ、〔これらの十者の長老たちが有る〕」と。


1.2 第二の章


1.2.1 チューラ・ヴァッチャ長老の詩偈


11.(11) 覚者(ブッダ)によって知らされた法(教え)において、歓喜多き比丘は、寂静の境処に到達するであろう――形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)の寂止という、安楽〔の境地〕に。ということで――


 ……チューラ・ヴァッチャ長老は……。


1.2.2 マハー・ヴァッチャ長老の詩偈


12.(12) 知慧の力あり、戒と掟を具有し、〔心が〕定められ、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)に喜びある、気づき(念)の者は、〔まさに〕その、義(道理)にかなう〔正しい量の〕食を、〔常に〕食しつつ、この〔世において〕、貪り〔の思い〕を離れ、〔死の〕時を待つであろう。ということで――


 ……マハー・ヴァッチャ長老は……。


1.2.3 ヴァナヴァッチャ長老の詩偈


13.(13) 青き雲の色の、好ましく、冷たい水があり、〔常に〕清らかさを保ち、〔心地よい〕インダゴーパカ〔草〕に覆われた、それらの巌“いわお”は、わたしを喜ばせる。ということで――


 ……ヴァナヴァッチャ長老は……。


1.2.4 シヴァカ沙弥の詩偈


14.(14) 師父(和尚)は、わたしに言った。「シーヴァカ(人名)よ、〔わたしたちは〕これから〔林へと〕行くのだ」〔と〕。わたしの身体は、村に住むが、わたしの意“こころ”は、林へと行った。たとえ、〔病に〕臥しているとして、〔わたしもまた、林へと〕行くのだ。〔あるがままを〕識知している者たちに、執着〔の思い〕は存在しない。ということで――


 ……ヴァナヴァッチャ長老のシヴァカ沙弥は……。


1.2.5 クンダダーナ長老の詩偈


15.(15) 五つ〔の束縛〕(修行者を欲界に縛る五つの束縛)を断つように。五つ〔の束縛〕(修行者を色界と無色界に縛る五つの束縛)を捨棄するように。くわえて、また、五つ〔の機能〕(信・精進・気づき・心の統一・知慧)を修めるように。五つの執着(貪欲・憤怒・迷妄・思量・見解)を超え行く比丘は、「激流を超え渡った者」と呼ばれる。ということで――


 ……クンダダーナ長老は……。


1.2.6 ベーラッタシーサ長老の詩偈


16.(16) また、尾を振り回し、たてがみある、善き生まれの賢〔馬〕が、難少なくして行くように、このように、〔世〕財なき安楽が得られたとき、わたしの昼夜は、難少なくして行く。ということで――


 ……ベーラッタシーサ長老は……。


1.2.7 ダーサカ長老の詩偈


17.(17) 惰眠の者として、さらには、大飯食いの者として、〔世に〕有るとき、眠りこけては、ごろ寝をする者となる。餌で養われた大豚のように、愚か者は、繰り返し、〔母〕胎へと近づき行く。ということで――


 ……ダーサカ長老は……。


1.2.8 シンガーラの父なる長老の詩偈


18.(18) ベーサカラー林に、覚者(ブッダ)の相続者たる比丘が有った。〔わたしは〕骨の表象(骨想:身体を骨の連なりと見る観想法)によって、この地の全部を充満した。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕と、わたしが思うなら、それは、ごくすみやかに捨棄される。ということで――


 ……シンガーラの父なる長老は……。


1.2.9 クラ長老の詩偈


19.(19) まさに、治水者たちは、水を誘導し、矢作りたちは、矢を調整し、大工たちは、木を矯正し、善き掟“おこない”の者たちは、自己を調御する。ということで――


 ……クラ長老は……。


1.2.10 アジタ長老の詩偈


20.(20) わたしに、死についての恐怖は存在しない。生についての欲念は存在しない。〔わたしは〕正知と気づきの者として、肉身“からだ”を置き去りにするであろう。ということで――


 ……アジタ長老は……。


 〔以上が〕第二の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「チューラ・ヴァッチャ、マハー・ヴァッチャ、および、ヴァナヴァッチャ、シヴァカ、および、クンダダーナ、ベーラッティ(ベーラッタシーサ)、および、ダーサカ、それから次に、シンガーラの父なる長老、および、クラ、アジタ、〔これらの〕十者〔の長老たち〕が〔有る〕」と。


1.3 第三の章


1.3.1 ニグローダ長老の詩偈


21.(21) わたしは、恐怖〔の対象〕を恐怖しない。わたしたちの教師(ブッダ)は、不死〔の境処〕の熟知者である。恐怖が安住しない所である、〔まさに〕その道によって、比丘たちは行く。ということで――


 ……ニグローダ長老は……。


1.3.2 チッタカ長老の詩偈


22.(22) 青く、見事な首の、冠毛ある孔雀たちが、カーランヴィヤ〔林〕に鳴く。彼らは、涼風に打ち興じ、眠りについた瞑想者を目覚めさせる。ということで――


 ……チッタカ長老は……。


1.3.3 ゴーサーラ長老の詩偈


23.(23) わたしは、まさに、ヴェールグンバ〔の竹林〕で蜜粥を食べて、〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)の生滅を的確に触知しつつ、〔山の〕背へと帰り行くであろう――遠離〔の境地〕を増進しながら。ということで――


 ……ゴーサーラ長老は……。


1.3.4 スガンダ長老の詩偈


24.(24) 〔わたしは〕雨期に定住する出家者(雨期以外は遍歴遊行する出家修行者)である。見よ――法(事象)が見事に法(事象)たることを。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……スガンダ長老は……。


1.3.5 ナンディヤ長老の詩偈


25.(25) 彼の心が、一度ならず、光によって生じ、〔善き〕果へと赴く、そのような比丘を襲って、黒き者(悪魔)よ、〔おまえは〕苦を受ける。ということで――


 ……ナンディヤ長老は……。


1.3.6 アバヤ長老の詩偈


26.(26) 太陽の眷属たる覚者(ブッダ)の、見事に語られた言葉を聞いて、まさに、〔その〕精緻さを理解した――矢で毛の先端を〔射抜く〕ように。ということで――


 ……アバヤ長老は……。


1.3.7 ローマサカンギヤ長老の詩偈


27.(27) ダッパ〔草〕、クサ〔草〕、ポータキラ〔草〕を、ウシーラ〔草〕、ムンジャ〔草〕、パッバジャ〔草〕を、〔わたしは〕胸をもって除け行くであろう――遠離〔の境地〕を増進しながら。ということで――


 ……ローマサカンギヤ長老は……。


1.3.8 ジャンブガーミカプッタ長老の詩偈


28.(28) 衣“ころも”を追い求めてはいないか、どうか――飾ることを喜んではいないか、どうか――戒によって作られる香りを、あなたは香らせているか、どうか――他の人々のことではなく(あなた自身のこととして問え)。ということで――


 ……ジャンブガーミカプッタ長老は……。


1.3.9 ハーリタ長老の詩偈


29.(29) 矢作りが矢を〔真っすぐにする〕ように、自己を直立させつつ、心を真っすぐに作り為して、ハーリタ(人名)よ、無明を破れ。ということで――


 ……ハーリタ長老は……。


1.3.10 ウッティヤ長老の詩偈


30.(30) わたしに、病が生起したとき、わたしに、気づき(念)が生まれ来た。「わたしに、病が生起した。わたしに、怠るための時はない」〔と〕。ということで――


 ……ウッティヤ長老は……。


 〔以上が〕第三の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「ニグローダ、チッタカ長老、ゴーサーラ長老、スガンダ、ナンディヤ、アバヤ長老、ローマサカンギヤ長老、および、ジャンブガーミカプッタ、ハーリタ、ウッティヤ聖賢、〔これらの十者の長老たちが有る〕」と。


1.4 第四の章


1.4.1 ガフヴァラティーリヤ長老の詩偈


31.(31) 林や密林のなかで虻たちや蚊たちに刺されたとして、戦場の先頭にいる象のように、そこにおいて、気づきある者となり、〔苦しみを〕耐え忍ぶがよい。ということで――


 ……ガフヴァラティーリヤ長老は……。


1.4.2 スッピヤ長老の詩偈


32.(32) 〔わたしは〕老い行くものを、老ならざるものと〔換えるであろう〕。〔わたしは〕悩み苦しむものを、寂滅〔の境地〕と、最高の寂静と、束縛からの〔心の〕平安という無上なるものと、換えるであろう。ということで――


 ……スッピヤ長老は……。


1.4.3 ソーパーカ長老の詩偈


33.(33) また、〔母親が〕愛しい独り子にたいし、善き〔母〕として存するように、このように、一切の生き物にたいし、一切所で、善き者として存するように。ということで――


 ……ソーパーカ長老は……。


1.4.4 ポーシヤ長老の詩偈


34.(34) まさしく、常に、これら〔の婦女たち〕は、識知者(修行者)に近づかないのが優れている。〔わたしは〕村から林へと帰って、そののち、〔行乞のために〕家へと〔赴き、一方に〕近坐した。そののち、ポーシヤ(人名)は立ち上がって、〔別れを〕告げずして、立ち去った。ということで――


 ……ポーシヤ長老は……。


1.4.5 サーマンニャカーニ長老の詩偈


35.(35) 安楽を義(目的)とする者は、その〔聖なる八つの支分ある道〕を歩みつつ、安楽を得る。しかして、〔彼は〕栄誉を得、彼の福徳は増大する。彼が、不死〔の境処〕を得るために、曲がりなく、真っすぐな、聖なる八つの支分ある道(八正道)を修めるなら。ということで――


 ……サーマンニャカーニ長老は……。


1.4.6 クマープッタ長老の詩偈


36.(36) 善きかな――〔教えとして〕聞かれたものは。善きかな――〔教えとして〕行じおこなわれたものは。善きかな――常に家なくして住する(生きる)ことは。義(道理)を問い尋ねること、右回り〔の礼〕の行為(業)――これは、無一物の者にとっての、沙門の資質である。ということで――


 ……クマープッタ長老は……。


1.4.7 クマープッタ長老の道友たる長老の詩偈


37.(37) 自制なくして〔世を〕渡り歩く者たちは、種々なる地方に赴き、しかして、〔心の〕統一(定:三昧の境地)を失う。国を歩むことが、いったい、何を、為すというのだろう。それゆえに、〔心の〕激昂を取り除くように。〔誰からも〕偏重されざる者(他者からの敬意に心を動かさない者)として、瞑想するように。ということで――


 ……クマープッタ長老の道友たる長老は……。


1.4.8 ガヴァンパティ長老の詩偈


38.(38) 彼は、神通によって、サラブー〔川〕を塞き止めた――彼は、ガヴァンパティ(人名)は、依存なく、動揺なき者である。彼を、一切の執着を超え行った大いなる牟尼(沈黙の聖者)を、〔迷いの〕生存(有)の彼岸に至る者を、天〔の神々〕たちは礼拝する。ということで――


 ……ガヴァンパティ長老は……。


1.4.9 ティッサ長老の詩偈


39.(39) 刃で刺されたかのように、頭が焼かれているかのように、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を捨棄するために、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するように。ということで――


 ……ティッサ長老は……。


1.4.10 ヴァッダマーナ長老の詩偈


40.(40) 刃で刺されたかのように、頭が焼かれているかのように、〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕を捨棄するために、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するように。ということで――


 ……ヴァッダマーナ長老は……。


 〔以上が〕第四の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「ガフヴァラティーリヤ、スッピヤ、まさしく、しかして、ソーパーカ、ポーシヤ、サーマンニャカーニ、クマープッタ、クマープッタ長老の道友、ガヴァンパティ、ティッサ長老、大いなる福徳あるヴァッダマーナ、〔これらの十者の長老たちが有る〕」と。


1.5 第五の章


1.5.1 シリヴァッダ長老の詩偈


41.(41) 諸々の雷光が、しかして、ヴェーバーラ〔山〕の〔岩の裂け目に〕、さらには、パンダヴァ〔山〕の〔岩の〕裂け目に、〔次々と〕落下する。しかしながら、〔他に〕比類なき如なる方(ブッダ)の子(仏弟子)は、山の〔岩の〕裂け目に赴き、〔独り〕瞑想する。ということで――


 ……シリヴァッダ長老は……。


1.5.2 カディラ・ヴァニヤ長老の詩偈


42.(42) チャーラー(人名)よ、ウパチャーラー(人名)よ、シースーパチャーラー(人名)よ、今や、まさに、気づきある者たちとして、〔世に〕住め。あなたたちのところに至り来た者は、〔髪の〕毛を貫く者のように〔偉大である〕。ということで――


 ……カディラ・ヴァニヤ長老は……。


1.5.3 スマンガラ長老の詩偈


43.(43) 善く解き放たれた者として、善く解き放たれた者として、善きかな、三つの曲がったものから善く解き放たれた者として、〔わたしは〕存している。諸々の鎌は、わたしによって存していた。諸々の鋤“すき”は、わたしによって存していた。諸々の小さい鍬“くわ”は、わたしによって存していた。

 もしくは、また、まさしく、ここに、〔それらがあるとして〕、まさしく、ここに、〔それらがあるとして〕、しかして、あるいは、また、〔それらがないとして〕、もう、十分だ、もう、十分だ。スマンガラ(人名)よ、瞑想せよ。スマンガラよ、瞑想せよ。スマンガラよ、〔気づきを〕怠らない者として、〔世に〕住め。ということで――


 ……スマンガラ長老は……。


1.5.4 サーヌ長老の詩偈


44.(44) 母よ、あるいは、死んだ者のことを、〔世の人々は〕泣き叫び、あるいは、彼が生きているとして、見ることができないなら、〔同じように泣き叫ぶ〕。母よ、生きているわたしを見ていながら、母よ、何ゆえに、わたしのことを泣き叫ぶのか。ということで――


 ……サーヌ長老は……。


1.5.5 ラマニーヤ・ヴィハーリン長老の詩偈


45.(45) また、善き生まれの賢〔馬〕が、倒れて〔すぐに〕立ち上がるように、このように、〔あるがままの〕見を成就した、正自覚者(ブッダ)の弟子を、〔覚者の子と知れ〕。ということで――


 ……ラマニーヤ・ヴィハーリン長老は……。


1.5.6 サミッディ長老の詩偈


46.(46) わたしは、信によって家から家なきへと出家した者である。しかして、わたしの、気づきと知慧は増え行き、心も善く定められた。〔悪魔よ〕欲するままに、諸々の形態(色)を作り為せ。〔おまえが〕わたしを悩ますであろうことは、まさしく、〔有りえ〕ない。ということで――


 ……サミッディ長老は……。


1.5.7 ウッジャヤ長老の詩偈


47.(47) 覚者よ、勇者よ、あなたに、礼拝が存せ(わたしは、あなたを礼拝する)。〔あなたは〕一切所に解脱した者として、〔世に〕存している。〔わたしは〕あなたの指導のもとに〔世に〕住んでいる。〔わたしは〕煩悩(漏)なき者として、〔世に〕住む。ということで――


 ……ウッジャヤ長老は……。


1.5.9 サンジャヤ長老の詩偈


48.(48) わたしが、家から家なきへと出家してからのちは、汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を伴った聖ならざる思惟を、〔わたしは〕証知しない。ということで――


 ……サンジャヤ長老は……。


1.5.9 ラーマネイヤカ長老の詩偈


49.(49) 〔鳥が〕チハチハと鳴いたとして、さらには、諸々のシッピカー〔鳥〕の鳴き声によっても、わたしの、その心は動かない。まさに、わたしには、独りあることを喜ぶ〔心〕がある。ということで――


 ……ラーマネイヤカ長老は……。


1.5.10 ヴィマラ長老の詩偈


50.(50) しかして、大地は〔雨を〕注がれ、風は吹き、雷光は天空を歩む。諸々の思考(尋)は止み静まり、わたしの心は善く定められた。ということで――


 ……ヴィマラ長老は……。


 〔以上が〕第五の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「シリヴァッダ、レーヴァタ(カディラ・ヴァニヤ)長老、スマンガラ、サーヌという呼び名を有する者、および、ラマニーヤ・ヴィハーリン、サミッディ、ウッジャヤとサンジャヤ、および、〔まさに〕その、ラーマネイヤ(ラーマネイヤカ)長老、および、相克の捨棄者たるヴィマラ、〔これらの十者の長老たちが有る〕」と。


1.6 第六の章


1.6.1 ゴーディカ長老の詩偈


51.(51) 見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。そして、わたしの心は善く定められた。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ。ということで――


 ……ゴーディカ長老は……。


1.6.2 スバーフ長老の詩偈


52.(52) 見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。そして、身体において心は善く定められた。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ。ということで――


 ……スバーフ長老は……。


1.6.3 ヴァッリヤ長老の詩偈


53.(53) 見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。そこに、怠りなき者として、〔わたしは〕住む。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ。ということで――


 ……ヴァッリヤ長老は……。


1.6.4 ウッティヤ長老の詩偈


54.(54) 見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。そこに、伴侶なき者として、〔わたしは〕住む。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ。ということで――


 ……ウッティヤ長老は……。


1.6.5 アンジャナ・ヴァニヤ長老の詩偈


55.(55) アンジャナ林に入って、坐床を小屋と為して、三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……アンジャナ・ヴァニヤ長老は……。


1.6.6 クティ・ヴィハーリン長老の詩偈


56.(56) 誰だ――小屋のなかにいるのは。小屋のなかには、比丘がいる。貪りを離れ、心が善く定められた者だ。友よ、このように知りなさい。おまえが作った小屋は、無駄ならざるもの。ということで――


 ……クティ・ヴィハーリン長老は……。


1.6.7 第二のクティ・ヴィハーリン長老の詩偈


57.(57) この小屋は、古きものと成った。〔おまえは〕他の新しい小屋を切望する。小屋にたいする願望〔の思い〕を離貪させよ(身体にたいする欲の思いを離れよ)。比丘よ、さらなる新しい小屋は、苦しみである。ということで――


 ……第二のクティ・ヴィハーリン長老は……。


1.6.8 ラマニーヤ・クティカ長老の詩偈


58.(58) わたしの小屋は、喜ぶべきものである。信によって与えられるべきもの、意“こころ”が喜びとするものである。わたしには、少女たちに義(利益)はない(わたしは、女性を目的とする者ではない)。彼ら(在家者たち)には、義(利益)がある。女たちよ、そこへと行け。ということで――


 ……ラマニーヤ・クティカ長老は……。


1.6.9 コーサラ・ヴィハーリン長老の詩偈


59.(59) わたしは、信によって出家した者である。わたしの小屋は、林のなかに作られた。しかして、〔わたしは〕怠りなき者である。熱情あり、正知あり、気づきある者である。ということで――


 ……コーサラ・ヴィハーリンは……。


1.6.10 シーヴァリ長老の詩偈


60.(60) それを義(目的)として、小屋に入った〔わたしであるが〕、わたしの、それらの〔思慮〕分別は、〔ついに〕実現した。〔わたしは〕明知と解脱〔の境地〕を信受した。〔わたしは〕思量の悪習(随眠)を廃棄した。ということで――


 ……シーヴァリ長老は……。


 〔以上が〕第六の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、ゴーディカ、さらには、スバーフ、ヴァッリヤ、ウッティヤ聖賢、アンジャナ・ヴァニヤ長老、二者のクティ・ヴィハーリン、および、ラマニーヤ・クティカ、コーサラという呼び名ある者とシーヴァリ、〔これらの十者の長老たちが有る〕」と。


1.7 第七の章


1.7.1 ヴァッパ長老の詩偈


61.(61) 〔あるがままに〕見る者は、〔あるがままに〕見る者を見る。かつまた、〔あるがままに〕見ない者を見る。〔あるがままに〕見ない者は、〔あるがままに〕見ない者を〔見ない〕。かつまた、〔あるがままに〕見る者を見ない。ということで――


 ……ヴァッパ長老は……。


1.7.2 ヴァッジプッタ長老の詩偈


62.(62) わたしたちは、独りある者となり、林のなかに住む――林のなかに捨てられた木片のように。〔まさに〕その、わたしを、多くの者たちは羨む――地獄にある者たちが、天上に至る者を〔羨む〕ように。ということで――


 ……ヴァッジプッタ長老は……。


1.7.3 パッカ長老の詩偈


63.(63) 死んだ者たちは、〔あの世に〕堕ちる。堕ちた者たちは、しかして、貪り〔の思い〕ある者たちであり、ふたたび〔この世に〕帰り来た者たちである。為すべきことは為され、喜ぶべきことは喜ばれた。楽しみは、楽しみに従い帰り来た。ということで――


 ……パッカ長老は……。


1.7.4 ヴィマラ・コンダンニャ長老の詩偈


64.(64) 〔アンバの〕木を呼び名とする者(アンバパーリーという名の娼婦)から生起し、白き旗ある者(マガダ国のビンビサーラ王)によって〔世に〕生まれた〔わたし〕は、旗(高慢)を殺す者となり、まさしく、旗(知慧)によって、大いなる旗(悪魔)を倒した。ということで――


 ……ヴィマラ・コンダンニャ長老は……。


1.7.5 ウッケーパカタ・ヴァッチャ長老の詩偈


65.(65) ウッケーパカタ・ヴァッチャ(人名)の、多年にわたる蓄積――それを、在家の者たちに語る。安坐し、秀“ひい”でた歓喜の者として。ということで――


 ……ウッケーパカタ・ヴァッチャ長老は……。


1.7.6 メーギヤ長老の詩偈


66.(66) 一切諸法(現象世界)の彼岸に至る、偉大なる勇者(ブッダ)が、〔法を〕教え示した。彼の法(教え)を聞いて、わたしは、気づきある者となり、〔彼の〕現前に住した。三つの明知は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……メーギヤ長老は……。


1.7.7 エーカダンマ・サヴァニーヤ長老の詩偈


67.(67) わたしの諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)は焼尽し、一切の〔迷いの〕生存は完破された。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 ……エーカダンマ・サヴァニーヤ長老は……。


1.7.8 エークッダーニヤ長老の詩偈


68.(68) 向上の心(瞑想)ある者、〔常に気づきを〕怠らずにいる者、諸々の寂黙の道に学んでいる牟尼、寂静にして常に気づきある者、そのような者に、諸々の憂いは有りえない。ということで――


 ……エークッダーニヤ長老は……。


1.7.9 チャンナ長老の詩偈


69.(69) 一切知者たる優れた知恵(智)ある方(ブッダ)によって説示された、大いなる味わいある、偉大なる方(ブッダ)の法(教え)を聞いて、不死〔の境処〕を得るために、〔わたしは〕道を実践した。彼は、束縛からの〔心の〕平安という道の熟知者である。ということで――


 ……チャンナ長老は……。


1.7.10 プンナ長老の詩偈


70.(70) 戒こそは、この〔世において〕、至高なるものである。また、知慧ある者は、〔世における〕最上者である。しかして、人間たちのなかにおいて、天〔の神々〕たちのなかにおいて、戒と知慧あるがゆえに、〔常に〕勝利する者となる。ということで――


 ……プンナ長老は……。


 〔以上が〕第七の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、ヴァッパ、さらには、ヴァッジプッタ、パッカ、ヴィマラ・コンダンニャ、および、ウッケーパカタ・ヴァッチャ、メーギヤ、エーカダンミカ(エーカダンマ・サヴァニーヤ)、および、エークッダーニヤとチャンナ、大いなる力あるプンナ長老、〔これらの十者の長老たちが有る〕」と。


1.8 第八の章


1.8.1 ヴァッチャパーラ長老の詩偈


71.(71) 極めて微細で精緻なる義(道理)を見る者によるなら、思慧ある智者によるなら、謙譲の生活者によるなら、覚者と親しむことを戒“ならい”とする者によるなら、まさに、彼によるなら、涅槃〔の境処〕は、得難きものではない。ということで――


 ……ヴァッチャパーラ長老は……。


1.8.2 アートゥマ長老の詩偈


72.(72) 若竹が、先端が増大し、小枝が生育したなら、取り出し難く成るように、このように、わたしは、迎え入れた妻のために〔出家し難い〕。許せ――わたしを。今や、〔わたしは〕出家者として存している。ということで――


 ……アートゥマ長老は……。


1.8.3 マーナヴァ長老の詩偈


73.(73) しかして、老いた者を見て、かつまた、病み苦しむ者を〔見て〕、さらには、寿命の消滅へと至った死者を見て、そののち、わたしは、〔家を〕出て、出家した――意が喜びとする諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して。ということで――


 ……マーナヴァ長老は……。


1.8.4 スヤーマナ長老の詩偈


74.(74) 比丘には、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕と、加害〔の思い〕、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)と、〔心の〕高揚、そして、疑惑〔の思い〕は、まさしく、全てにわたり、見い出されない。ということで――


 ……スヤーマナ長老は……。


1.8.5 スサーラダ長老の詩偈


75.(75) 善きかな――〔心が〕善く整えられた者たちと相見“まみ”えることは。疑いは断ち切られ、覚慧は増え行く。〔彼らは〕愚者でさえも、賢者と為す。それゆえに、善きかな――正しくある者たちの集いは。ということで――


 ……スサーラダ長老は……。


1.8.6 ピヤンジャハ長老の詩偈


76.(76) 舞い上がっている者たちのなかでは、平伏するように。平伏している者たちのなかでは、舞い上がるように。〔世俗のうちに〕住していない者たちのなかで、住するように。喜んでいる者たちのなかでは、喜ばないように。ということで――


 ……ピヤンジャハ長老は……。


1.8.7 ハッターローハプッタ長老の詩偈


77.(77) かつて、この心は、〔気ままに〕歩みさすらう者として歩んできた――求める所から、欲する所へと、安楽“すき”なように。わたしは、今日、それ(心)を、根源から制御するであろう――鉤をもつ捕捉者(象使い)が、狂象を〔制御する〕ように。ということで――


 ……ハッターローハプッタ長老は……。


1.8.8 メンダシラ長老の詩偈


78.(78) 無数なる生の輪廻を、〔何も〕見い出すことなく、〔わたしは〕流転してきた。〔まさに〕その、わたしにとって、〔かつて〕苦しみを生じた者にとって、苦しみの範疇(苦蘊:苦しみとして分類される諸々の事象)は、〔義に〕反するもの。ということで――


 ……メンダシラ長老は……。


1.8.9 ラッキタ長老の詩偈


79.(79) わたしの、一切の貪り(貪)は捨棄され、一切の怒り(瞋)は完破された。わたしの、一切の迷い(痴)は離去し、〔心が〕冷静“おだやか”と成った〔わたし〕は、涅槃に到達した者として、〔世に〕存している。ということで――


 ……ラッキタ長老は……。


1.8.10 ウッガ長老の詩偈


80.(80) もしくは、少なかろうが、多かろうが、〔まさに〕その、わたしによって作り為された行為(業)――この一切は、完全に滅尽した。今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 ……ウッガ長老は……。


 〔以上が〕第八の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、〔まさに〕その、ヴァッチャパーラ長老、アートゥマ、マーナヴァ聖賢、スヤーマナ、スサーラダ、しかして、〔まさに〕その、ピヤンジャハ長老、アーロハプッタ(ハッターローハプッタ)、メンダシラ、ラッキタ、ウッガという呼び名を有する者、〔これらの十者の長老たちが有る〕」と。


1.9 第九の章


1.9.1 サミティグッタ長老の詩偈


81.(81) 過去における諸他の生において、わたしによって作り為された、〔まさに〕その、悪しきもの(悪業)――それは、まさしく、この〔世において〕、感受されるべきもの。他〔の生〕の根拠〔となる過去の悪〕は、〔もはや〕見い出されない(悪業は、この世において滅尽した)。ということで――


 ……サミティグッタ長老は……。


1.9.2 カッサパ長老の詩偈


82.(82) 諸々の行乞するに易き〔状況〕があり、諸々の至福があり、かつまた、諸々の恐怖なきところへ、ところへと、子よ、そこへと行きなさい。憂いゆえに打ちひしがれた者と成ってはならない。ということで――


 ……カッサパ長老は……。


1.9.3 シーハ長老の詩偈


83.(83) シーハ(人名)よ、昼夜に休みなく、〔気づきを〕怠らない者として、〔世に〕住め。善なる法(教え)を修めよ。即座に、積身“からだ”を捨棄せよ。ということで――


 ……シーハ長老は……。


1.9.4 ニータ長老の詩偈


84.(84) 全夜を眠って、昼は〔他者との〕社交を喜ぶ者――思慮浅き者は、まさに、いったい、何時、苦しみの終極“おわり”を為すというのだろう。ということで――


 ……ニータ長老は……。


1.9.5 スナーガ長老の詩偈


85.(85) 遠離の味わいを識知して、心の形相の熟知者となり、〔常に〕瞑想している、賢明なる気づきの者は、〔世〕財なき安楽に到達するであろう。ということで――


 ……スナーガ長老は……。


1.9.6 ナーギタ長老の詩偈


86.(86) 「これ(ブッダの教え)より外にある、多々なる他の論者たちの道は、この〔道〕のように、涅槃へと至るものではない」〔と〕、まさに、かくのごとく、〔世の〕教師たる世尊(ブッダ)は、手のひらに見せるかのように、自ら、僧団(サンガ)に教え示す。ということで――


 ……ナーギタ長老は……。


1.9.7 パヴィッタ長老の詩偈


87.(87) 〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)は、事実のとおりに見られた。一切の〔迷いの〕生存は破られた。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 ……パヴィッタ長老は……。


1.9.8 アッジュナ長老の詩偈


88.(88) まさに、〔わたしは〕できた――水のなかから陸のうえへと、自己を引き上げることが。まさしく、大激流に運ばれつつ、わたしは、〔四つの聖なる〕真理(四聖諦)を理解した。ということで――


 ……アッジュナ長老は……。


1.9.9 第一のデーヴァサバ長老の詩偈


89.(89) 諸々の汚泥と泥沼は超えられ、諸々の深淵は遍く避けられた。激流からも拘束からも解き放たれ、一切の思量は除かれた。ということで――


 ……デーヴァサバ長老は……。


1.9.10 サーミダッタ長老の詩偈


90.(90) 〔心身を構成する〕五つの範疇(五蘊:物質的形態・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用)は遍く知られ、根元から断たれたものとして安立“あんりゅう”している。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 ……サーミダッタ長老は……。


 〔以上が〕第九の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、サミティグッタ長老、カッサパ、シーハという呼び名を有する者、ニータ、スナーガ、ナーギタ、パヴィッタ、アッジュナ聖賢、しかして、〔まさに〕その、デーヴァサバ長老、大いなる力あるサーミダッタ、〔これらの十者の長老たちが有る〕」と。


1.10 第十の章


1.10.1 パリプンナカ長老の詩偈


91.(91) 今日、わたしによって食された、〔まさに〕その、甘露の食べ物であるが、そのように、不死にして百味あるものは、〔世に有りえ〕ない。無量の見ある覚者ゴータマ(ブッダ)によって、法(真理)は、〔世に〕説示された。ということで――


 ……パリプンナカ長老は……。


1.10.2 ヴィジャヤ長老の詩偈


92.(92) 彼の、諸々の煩悩が完全に滅尽し、しかして、〔彼が〕食について依存なき者であるなら――彼の、解脱の境涯が空にして、かつまた、相なきものであるなら――彼の境処(境地)は、虚空における鳥たちの〔足跡〕のように、捉えどころがない。ということで――


 ……ヴィジャヤ長老は……。


1.10.3 エーラカ長老の詩偈


93.(93) エーラカ(人名)よ、諸々の欲望〔の対象〕は、苦しみである。エーラカよ、諸々の欲望〔の対象〕は、楽しみではない。エーラカよ、彼が、諸々の欲望〔の対象〕を欲するなら、彼は、苦しみを欲する。エーラカよ、彼が、諸々の欲望〔の対象〕を欲さないなら、彼は、苦しみを欲さない。ということで――


 ……エーラカ長老は……。


1.10.4 メッタジ長老の詩偈


94.(94) サキャ(釈迦)〔族〕の子にして吉祥なる方(ブッダ)に、世尊である彼に、まさに、礼拝〔有れ〕。彼によって、至高なるものを得た方によって、この至高なる法(真理)は、見事に説示された。ということで――


 ……メッタジ長老は……。


1.10.5 チャックパーラ長老の詩偈


95.(95) 難路に陥った者として、眼を失った盲者として、わたしは、〔世に〕存しているが、たとえ、〔地に〕臥すとも、悪しき道友とともに行きはしないであろう。ということで――


 ……チャックパーラ長老は……。


1.10.6 カンダスマナ長老の詩偈


96.(96) 一花を献じて、八千万年のあいだ、諸々の天上において楽しんで、残り〔の功徳〕によって、〔わたしは〕涅槃に到達した者として〔世に〕存している。ということで――


 ……カンダスマナ長老は……。


1.10.7 ティッサ長老の詩偈


97.(97) 〔わたしは〕百パラ(重さの単位)の銅と百ラージカ(重さの単位)の金〔の鉢〕を捨棄して、土の鉢を掴み取った。これは、第二の灌頂(浄めの儀式)である。ということで――


 ……ティッサ長老は……。


1.10.9 アバヤ長老の詩偈


98.(98) 〔欲の思いで〕形態(色:眼の対象)を見て、愛しい相に意“おもい”を為している者の気づき(念)は、忘却されたものとなる。執着の心ある者は、〔形態を〕感受し、しかして、それ(形態)に執着して、〔それに〕止“とど”まり住む。〔迷いの〕生存の根元へと近づき行く彼の、諸々の煩悩は増え行く。ということで――


 ……アバヤ長老は……。


1.10.9 ウッティヤ長老の詩偈


99.(99) 〔欲の思いで〕音声(声:耳の対象)を聞いて、愛しい相に意を為している者の気づきは、忘却されたものとなる。執着の心ある者は、〔音声を〕感受し、しかして、それ(音声)に執着して、〔それに〕止まり住む。〔生死の〕輪廻へと近づき行く彼の、諸々の煩悩は増え行く。ということで――


 ……ウッティヤ長老は……。


1.10.10 第二のデーヴァサバ長老の詩偈


100.(100) 正しい精励(正勤)を成就し、気づきの確立(念処・念住)を境涯とし、解脱の花に覆われた、煩悩なき者は、完全なる涅槃に到達するであろう。ということで――


 ……デーヴァサバ長老は……。


 〔以上が〕第十の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、パリプンナカ、ヴィジャヤ、エーラカ、メッタジ牟尼、チャックパーラ、カンダスマナ、および、ティッサ、そのように、アバヤ、および、大いなる知慧あるウッティヤ、しかして、また、デーヴァサバ長老、〔これらの十者の長老たちが有る〕」と。


1.11 第十一の章


1.11.1 ベーラッターニカ長老の詩偈


101.(101) 在家のあり方を捨棄して〔出家してもなお〕、自己が完成されず、口を鋤とし、飽食で、怠惰なる者――餌で養われた大豚のように、愚か者は、繰り返し、〔母〕胎へと近づき行く。ということで――


 ……ベーラッターニカ長老は……。


1.11.2 セートゥッチャ長老の詩偈


102.(102) 思量によって〔心が〕騙された者たち、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)にたいし〔心が〕汚染されている者たち、利得と利得なき(得失の思い)によって〔心が〕掻き乱された者たちは、〔心の〕統一(定:三昧の境地)に到達しない。ということで――


 ……セートゥッチャ長老は……。


1.11.3 バンドゥラ長老の詩偈


103.(103) わたしは、この〔世俗の味〕に義(目的)ある者ではない(世俗の喜びを求めない)。法(真理)の味によって、〔自ら〕楽しみ、満ち足りている者である。最上にして至高なる味を飲み干して、しかして、毒によって親愛〔の情〕を為すことはないであろう(世俗の喜びに親しまない)。ということで――


 ……バンドゥラ長老は……。


1.11.4 キタカ長老の詩偈


104.(104) しかして、〔瞑想の境地がもたらす〕広大なる喜と楽を体得した、わたしの身体は、まさに、軽やかである。風に揺らぐ綿毛のように、わたしの身体は、浮きただようかのようである。ということで――


 ……キタカ長老は……。


1.11.5 マリタヴァンバ長老の詩偈


105.(105) たとえ、待ち望んでいたとして、〔そこに〕住み止まらないように。たとえ、喜び楽しんでいるとして、〔そこを〕立ち去るように。まさしく、しかるに、明眼の者は、義(道理)ならざるものを伴った住居には住み止まらぬもの。ということで――


 ……マリタヴァンバ長老は……。


1.11.6 スヘーマンタ長老の詩偈


106.(106) 百の徴表を義(目的)とし、百の特相を保つものがあるとして、一部分を見る者は、思慮浅き者であり、しかして、百を見る者は、賢者である。ということで――


 ……スヘーマンタ長老は……。


1.11.7 ダンマサヴァ長老の詩偈


107.(107) 〔考量し〕比較して、〔わたしは〕家から家なきへと出家した。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……ダンマサヴァ長老は……。


1.11.8 ダンマサヴァの父なる長老の詩偈


108.(108) 百と二十の歳を有する者となり、〔わたしは〕家なきへと出家した。三つの明知は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……ダンマサヴァの父なる長老は……。


1.11.9 サンガラッキタ長老の詩偈


109.(109) たしかに、この者は、静所に〔独り〕赴き、〔人々の〕最高の利益に慈しみ〔の思い〕ある方(ブッダ)の教えを考慮することがない。林のなかの、若き生まれの雌鹿のように、まさに、そのように、この者は、〔感官の〕機能(根)の現じ顕われるままに住む(欲に導かれて暮らす)。ということで――


 ……サンガラッキタ長老は……。


1.11.10 ウサバ長老の詩偈


110.(110) 山々の頂きにあるナガ〔樹〕たちは、新たに湧き上がる雨雲に洗われ、極めて立派に成長した。遠離〔の境地〕を欲し、林〔の生活〕を想う者、ウサバ(人名)には、より一層、善きことが生まれる。ということで――


 ……ウサバ長老は……。


 〔以上が〕第十一の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「ベーラッターニカ、セートゥッチャ、バンドゥラ、キタカ聖賢、マリタヴァンバ、スヘーマンタ、ダンマサヴァ、ダンマサヴァの父、および、サンガラッキタ長老、および、大いなる牟尼たるウサバ、〔これらの十者の長老たちが有る〕」と。


1.12 第十二の章


1.12.1 ジェンタ長老の詩偈


111.(111) まさに、出家は難く、家〔の生活〕は耐え難い。法(真理)は深遠で、諸々の財物は到達し難い。〔家の〕生活は、まさに、まさしく、いかなるものをもってしても、むずかしい。〔世の〕無常なることを常に思い考えるのが、ふさわしい。ということで――


 ……ジェンタ長老は……。


1.12.2 ヴァッチャゴッタ長老の詩偈


112.(112) わたしは、三つの明知ある者、大いなる瞑想者、心の止寂(奢摩他・止)の熟知者である。わたしによって、正なる義(目的)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……ヴァッチャゴッタ長老は……。


1.12.3 ヴァナヴァッチャ長老の詩偈


113.(113) 澄んだ水をたたえ、広々とした岩盤があり、黒面の猿や鹿が群れつどい、水と苔に覆われた、それらの巌“いわお”は、わたしを喜ばせる。ということで――


 ……ヴァナヴァッチャ長老は……。


1.12.4 アディムッタ長老の詩偈


114.(114) 〔刻一刻と〕生命が失われつつあるとき、汚れた身体を重んじる者に、肉体の安楽(肉欲)を貪る者に、どうして、沙門たる善性があるというのだろう。ということで――


 ……アディムッタ長老は……。


1.12.5 マハー・ナーマ長老の詩偈


115.(115) 〔まさに〕この〔おまえ〕は、クタジャ〔樹〕やサッラキカ〔樹〕の多くある山によって、〔木々に〕覆い尽くされた名声あるネーサーダカ山によって、置き去りにされている(見下されている)。ということで――


 ……マハー・ナーマ長老は……。


1.12.6 パーラーパリヤ長老の詩偈


116.(116) 六つの接触の場所(六触処:眼・耳・鼻・舌・身・意)を捨棄して、〔感官の〕門が守られた者となり、〔自己が〕善く統御された者となる。悩苦の根元を吐き捨てて、わたしによって、煩悩の滅尽は得られた。ということで――


 ……パーラーパリヤ長老は……。


1.12.7 ヤサ長老の詩偈


117.(117) 美しく化粧し、美しい衣をまとい、全ての装飾品で飾られた〔わたし〕が、三つの明知に到達した。覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……ヤサ長老は……。


1.12.8 キミラ長老の詩偈


118.(118) 衰えは、呪われたものであるかのように降りかかる(避けようとして避けられない)――他者の形姿(色)が、まさしく、そのように、存しているように。〔わたしは、自らの〕自己を、彼のものであるかのように、〔家から〕離れて住むことなく〔世に〕存している他者のものであるかのように、思念する。ということで――


 ……キミラ長老は……。


1.12.9 ヴァッジプッタ長老の詩偈


119.(119) 木の根元の茂みに至りて、心臓(心)に涅槃を置いて、ゴータマ(人名)よ、瞑想せよ。しかして、〔気づきを〕怠ること(放逸)があってはならない。べちゃべちゃと雑談をすることが、おまえのために、何を為すというのだろう。ということで――


 ……ヴァッジプッタ長老は……。


1.12.10 イシダッタ長老の詩偈


120.(120) 〔心身を構成する〕五つの範疇(五蘊:物質的形態・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用)は遍く知られ、根元から断たれたものとして安立している。苦しみの滅尽は獲得され、わたしによって、煩悩の滅尽は得られた。ということで――


 ……イシダッタ長老は……。


 〔以上が〕第十二の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、ジェンタ、さらには、ヴァッチャゴッタ、および、ヴァナという呼び名を有するヴァッチャ、アディムッタ、マハー・ナーマ、パーラーパリヤ、および、また、ヤサ、キミラ、および、ヴァッジプッタ、大いなる福徳あるイシダッタ、〔これらの十者の長老たちが有る〕」と。


 一なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「百を超えること二十の長老たちは、為すべきことを為した煩悩なき者たちである。大いなる聖賢たちによって、まさしく、一なるのもの集まりにおいて、〔諸々の詩偈が〕見事に合誦された」と。


2 二なるものの集まり


2.1 第一の章


2.1.1 ウッタラ長老の詩偈


121.(121) 何であれ、〔迷いの〕生存(有)は、常住のものとして存在しない。あるいは、また、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)は、常恒のものとして〔存在しない〕。しかして、それらの〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)は再生し、他なるものから他なるものへと死滅する。


122.(122) この危険を知って、〔わたしは、迷いの〕生存に義(目的)なき者として〔世に〕存している。一切の欲望〔の対象〕から出離した者として〔世に存している〕。わたしによって、煩悩の滅尽は得られた。ということで――


 まさに、このように、尊者ウッタラ長老は、諸々の詩偈を語った、という。


2.1.2 ピンドーラ・バーラドヴァージャ長老の詩偈


123.(123) この生命は、不運によってあるのではない。食は、心臓(心)にとって、寂静なるものではない(食は、迷える心を動かすものである)。積身“からだ”は、食に依って立つものである(食は、身体を養うためのものである)。かくのごとく見て、〔必要な食を〕乞い求めるために、〔わたしは〕歩む。


124.(124) すなわち、家々における、この敬拝と供養であるが、まさに、それを、〔賢者たちは〕「汚泥である」と知った。微細な矢は抜き難く、〔他者からの〕尊敬は、俗人には捨て難い。ということで――


 まさに、このように、尊者ピンドーラ・バーラドヴァージャ長老は、諸々の詩偈を語った、という。


2.1.3 ヴァッリヤ長老の詩偈


125.(125) 猿(心)は、五つの門ある小屋(身体)に至りて、ムフンムフンと打ち叩きながら、門をとおって歩き回る。


126.(126) 猿よ、止まれ。走ってはならない。かつてのような、その〔あり方〕は、〔今の〕おまえには、まさに、ない。〔おまえは〕知慧によって制御されたものとして存している。まさしく、遠くに行くことはないであろう。ということで――


 ……ヴァッリヤ長老は……。


2.1.4 ガンガーティーリヤ長老の詩偈


127.(127) 三〔枚〕のターラ〔樹〕の葉の、わたしの小屋は、ガンガー〔川〕の岸辺に作られた。わたしの鉢は、まさしく、〔乳を〕注ぐ髑髏である。そして、〔わたしの〕衣料は、糞掃衣(ぼろ布)である。


128.(128) 二年の間、一つの言葉〔だけ〕が、わたしによって語られた。第三年の間に、闇の集塊“かたまり”は破られた。ということで――


 ……ガンガーティーリヤ比丘は……。


2.1.5 アジナ長老の詩偈


129.(129) たとえ、もし、煩悩なく、死を捨棄し、三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)ある者と成るも、無知なる愚者たちは、彼を見下す――「覚知なき者である」と。


130.(130) しかるに、彼が、まさに、この〔世において〕、食べ物と飲み物を得る人(他者の供養を受ける者)と成るなら、たとえ、もし、悪しき法(性質)ある者として有るも、彼は、〔無知なる〕彼らにとって、尊敬される者と成る。ということで――


 ……アジナ長老は……。


2.1.6 メーラジナ長老の詩偈


131.(131) 教師(ブッダ)が語っている法(教え)を、わたしが聞いたとき、〔わたしは〕疑いを証知しない。一切を知り〔一切に〕敗れることなき方(ブッダ)にたいし――


132.(132) 〔道行く者たちの〕先導者にして偉大なる勇者(ブッダ)にたいし、馭者たちのなかの最も優れた方(ブッダ)にたいし、あるいは、〔彼の説く〕道と〔その〕実践について、わたしに、疑いは見い出されない。ということで――


 ……メーラジナ長老は……。


2.1.7 ラーダ長老の詩偈


133.(133) 〔屋根が〕だらしなく覆われた家に、雨が漏れ入るように、このように、修められていない心に、貪り〔の思い〕は漏れ入る。


134.(134) 〔屋根が〕しっかりと覆われた家に、雨が漏れ入らないように、このように、善く修められた心に、貪り〔の思い〕は漏れ入らない。ということで――


 ……ラーダ長老は……。


2.1.8 スラーダ長老の詩偈


135.(135) まさに、わたしの生は滅尽し、勝者(ブッダ)の教えは完成された。「網」と名づけられた〔束縛〕は捨棄され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。


136.(136) 〔まさに〕その義(目的)のために、家から家なきへと出家したところの、一切の束縛するものの滅尽という、その義(目的)は、わたしによって獲得された。ということで――


 ……スラーダ長老は……。


2.1.9 ゴータマ長老の詩偈


137.(137) 牟尼(沈黙の聖者)たちは、安楽に眠る。彼らは、婦女たちに縛られない。まさに、〔不品行から〕常に守られるべき彼女たちのなかにあるなら、真理は、極めて得難い。


138.(138) 欲望よ、〔わたしたちは〕おまえを打ち殺す〔道〕を歩んできた。今や、わたしたちは、おまえにたいし借りなき者たちである。行って憂い悲しまない所――涅槃へと、今や、行くのだ。ということで――


 ……ゴータマ長老は……。


2.1.10 ヴァサバ長老の詩偈


139.(139) 彼は、かつて、自己を傷つけ、のちに、他者たちを傷つける。鳥捕りが囮で〔獲物を捕る〕ように、ひどく傷ついた自己を〔さらに〕傷つける。


140.(140) 〔真の〕婆羅門は、外に色(資格・特色)があるのではない。内に色があるのが、まさに、婆羅門である。スジャーの夫(インドラ神)よ、彼のうちに、諸々の悪しき行為(悪業)があるなら、まさに、彼は、黒き者である。ということで――


 ……ヴァサバ長老は……。


 〔以上が〕第一の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「まさしく、しかして、ウッタラ、ピンドーラ(ピンドーラ・バーラドヴァージャ)、ヴァッリヤ、ティーリヤ聖賢(ガンガーティーリヤ)、および、アジナ、メーラジナ、ラーダ、スラーダ、ゴータマ、ヴァサバとともに、これらの十者の大いなる神通ある長老たちが有る」と。


2.2 第二の章


2.2.1 マハー・チュンダ長老の詩偈


141.(141) 聞こうとすることは、所聞(学識)の増大となり、所聞は、知慧の増大となる。〔彼は〕知慧によって義(道理)を知り、知られた義(道理)は、〔彼に〕安楽をもたらすものとなる。


142.(142) 諸々の辺境の臥坐所に慣れ親しむように。束縛するものからの解脱を行じおこなうように。それで、もし、そこにおいて、喜びに到達できないなら、僧団において、自己が守られた気づきの者として住むがよい。ということで――


 ……マハー・チュンダ長老は……。


2.2.2 ジョーティダーサ長老の詩偈


143.(143) すなわち、まさに、彼ら、粗暴なる行動の人たちは、しかして、種々なる暴力の行為(業)によって、〔世の〕人間たちを破壊するが、彼らもまた、まさしく、そのとおりに、〔他の人々から〕為される。なぜなら、〔為した〕行為は、消え去らないからである。


144.(144) 人が、その行為を為すなら、もしくは、善きものであれ、悪しきものであれ、〔彼が〕作り為す、その〔行為〕、その行為は、まさしく、その〔行為〕、その〔行為〕に、相続者が〔存在する〕(為した行為は、善悪に関わらず、為した者自身が、その報いを受ける)。ということで――


 ……ジョーティダーサ長老は……。


2.2.3 ヘーランニャカーニ長老の詩偈


145.(145) 諸々の昼夜は過ぎ行き、生命は止滅する。死すべき者(人間)たちの寿命は滅尽する――諸々の小川の水のように。


146.(146) しかして、諸々の悪しき行為(悪業)を為しつつ、愚者は、〔そのことを〕覚らない。のちに、彼には、辛きものが有る。なぜなら、彼には、悪しき報いがあるからである。ということで――


 ……ヘーランニャカーニ長老は……。


2.2.4 ソーマミッタ長老の詩偈


147.(147) 小さな木片にすがって、〔結局は〕大海に沈み行くように、このように、怠惰なる者〔との交わり〕を縁として、善によって生きる者もまた、沈み行く。それゆえに、彼を、怠惰で精進に劣る者を、遍く避けるように。


148.(148) 遠離する聖者たちと、自己を精励する瞑想者たちと、常に精進に励む賢者たちと、共に住むように。ということで――


 ……ソーマミッタ長老は……。


2.2.5 サッバミッタ長老の詩偈


149.(149) 人は、人について結縛され、人は、まさしく、人に依存する。人は、人によって傷つけられ、しかして、人は、人を傷つける。


150.(150) あるいは、〔自らが〕生ませた人であれ、彼にとって、人に、まさに、何の義(意味)があるというのだろう。〔彼は〕多くの人を傷つけて、〔結局のところ〕その人を捨てて行くのだ。ということで――


 ……サッバミッタ長老は……。


2.2.6 マハー・カーラ長老の詩偈


151.(151) 〔身体が〕大きく、烏の形姿ある、カーリー婦女は、しかして、腿〔の骨〕を砕いて、さらには、他の腿〔の骨〕を〔砕いて〕、しかして、腕〔の骨〕を砕いて、さらには、他の腕〔の骨〕を〔砕いて〕、しかして、頭〔の骨〕を砕いて、乳酪をもる器のように整えて、この〔カーリー婦女〕は坐している。


152.(152) 彼が、まさに、〔あるがままに〕知ることなく、〔心の〕依り所を作るなら、〔彼は〕愚か者であり、繰り返し、苦しみへと近づき行く。それゆえに、〔あるがままに〕覚知している者となり、〔心の〕依り所を作らないように。わたしが、ふたたび頭を砕かれ、〔地に〕臥すことがあってはならない。ということで――


 ……マハー・カーラ長老は……。


2.2.7 ティッサ長老の詩偈


153.(153) 剃髪し、大衣を着し、食べ物、飲み物、衣、そして、臥〔具〕を得る者は、多くの敵を得る。


154.(154) 「〔他者からの〕諸々の尊敬のうちに、大いなる恐怖がある」〔と〕、この危険を知って、比丘は、利得(行乞の施物)少なく、〔煩悩が〕漏れ出ることなく、気づきある者として、遍歴遊行するように。ということで――


 ……ティッサ長老は……。


2.2.8 キミラ長老の詩偈


155.(155) 東の竹林にいる、釈子(仏弟子)たる道友たちは、諸々の少なからざる財物を捨棄して、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者たちである。


156.(156) 精進に励み、自己を精励し、常に断固たる勤勉〔努力〕ある者たちは、世〔俗〕の喜びを捨棄して、法(真理)の喜びにおいて喜び楽しむ。ということで――


 ……キミラ長老は……。


2.2.9 ナンダ長老の詩偈


157.(157) 〔わたしは〕根源“あり”のままに意“おもい”を為すこと(如理作意:固定概念なく思い考えること)なきがゆえに、〔自己を〕装うことに専念してきた。〔心が〕高ぶり、かつまた、動揺し、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に苦悩する者として、〔わたしは〕存してきた。


158.(158) 〔他を導く〕手段(方便)に巧みな智ある方(ブッダ)によって、太陽の眷属たる覚者(ブッダ)によって、わたしは、根源のままに〔道を〕実践して、〔迷いの〕生存のうちにある心を、〔明るみへと〕引き出した。ということで――


 ……ナンダ長老は……。


2.2.10 シリマント長老の詩偈


159.(159) また、他者たちが彼を賞賛するとして、もし、〔彼の〕自己が定められていないなら、他者たちが賞賛するのは、〔まったくの〕無駄である。なぜなら、自己が定められていないからである。


160.(160) また、他者たちが彼を非難するとして、もし、〔彼の〕自己が善く定められているなら、他者たちが非難するのは、〔まったくの〕無駄である。なぜなら、自己が善く定められているからである。ということで――


 ……シリマント長老は……。


 〔以上が〕第二の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、チュンダ(マハー・チュンダ)、さらには、ジョーティダーサ、および、ヘーランニャカーニ長老、ソーマミッタ、サッバミッタ、カーラ(マハー・カーラ)、および、ティッサ、キミラ、および、ナンダ、まさしく、しかして、シリマント、〔これらの〕十者の大いなる神通ある長老たちが〔有る〕」と。


2.3 第三の章


2.3.1 ウッタラ長老の詩偈


161.(161) わたしによって、〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)は遍く知られた。わたしにとって、渇愛〔の思い〕は善く完破された。わたしにとって、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)は修められた。わたしによって、煩悩の滅尽は得られた。


162.(162) 〔まさに〕その、わたしは、〔心身を構成する五つの〕範疇を遍く知って、〔渇愛の〕網を引き抜いて、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)を修めて、煩悩なき者となり、涅槃に到達するであろう。ということで――


 ……ウッタラ長老は……。


2.3.2 バッダジ長老の詩偈


163.(163) パナーダという名の、その王――彼の祭柱は黄金で、横〔幅〕は十六射程、高さは〔その〕千倍ある〔と、人々は〕言う。


164.(164) 〔高さは〕千射程、百の球があり、旗で飾られ、黄金で作られ、そこにおいて、六千の七倍のガンダッバ(音楽神)たちが舞踏した。ということで――


 ……バッダジ長老は……。


2.3.3 ソービタ長老の詩偈


165.(165) 気づきあり知慧ある比丘として、力をもって精進に励み、わたしは、五つの百カッパ(劫:時間の単位・無限大の時間)を、一夜にして思念した(想起した)。


166.(166) 四つの気づきの確立(四念処・四念住:身体と感受と心と法の四領域において気づきを確立すること)を、七つ〔の覚りの支分〕(七覚支)を、そして、八つ〔の支分ある聖なる道〕(八正道)を、〔常に〕修めている者として、わたしは、五つの百カッパ(無限大の時間)を、一夜にして思念した(想起した)。ということで――


 ……ソービタ長老は……。


2.3.4 ヴァッリヤ長老の詩偈


167.(167) それが、断固たる精進ある者によって為されるべきことであるなら――それが、覚ることを〔常に〕求めている者によって為されるべきことであるなら――〔わたしは、それを〕為すであろうし、怠らないであろう。見よ――精進と勤勉〔努力〕の者を。


168.(168) しかして、あなた(ブッダ)は、不死への沈潜(涅槃)という曲がりなき道を、わたしに告げ知らせてください。わたしは、寂黙〔の知慧〕によって知るでありましょう――ガンガー〔川〕の流れが、海に〔達する〕ように。ということで――


 ……ヴァッリヤ長老は……。


2.3.6 ヴィータソーカ長老の詩偈


169.(169) 「わたしの諸々の髪を、〔今こそ〕剃り落とすであろう」と〔考えた、そのとき〕、理髪師が近しく赴いてきた。そののち、〔わたしは〕鏡を取って、〔自らの〕肉体を〔あるがままに〕注視した。


170.(170) 身体は見えた――虚妄なるものとして。暗黒の闇は離れ去った。一切のぼろ布は断ち切られた。今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 ……ヴィータソーカ長老は……。


2.3.6 プンナマーサ長老の詩偈


171.(171) 五つの〔修行の〕妨害“さまたげ”(五蓋:欲の思い・加害の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)を捨棄して、束縛からの〔心の〕平安を得るために、自己についての〔あるがままの〕知見という、法(真理)の鏡を掴んで――


172.(172) 〔わたしは〕この身体の一切を、内外共に〔あるがままに〕注視した。内も、外も、身体は見えた――虚妄なるものとして。ということで――


 ……プンナマーサ長老は……。


2.3.7 ナンダカ長老の詩偈


173.(173) また、善き生まれの賢〔馬〕が、倒れて〔すぐに〕立ち上がり、より一層、畏怖〔の念〕を得て、卑屈にならず、荷を運ぶように――


174.(174) このように、〔あるがままの〕見を成就した、正自覚者(ブッダ)の弟子を、善き生まれのわたしを、覚者(ブッダ)の子にして正嫡と認めよ。ということで――


 ……ナンダカ長老は……。


2.3.8 バラタ長老の詩偈


175.(175) ナンダカ(人名)よ、来たれ。師父(和尚)の現前へと、〔わたしたちは〕行くのだ。最勝の覚者(ブッダ)の面前において、〔わたしたちは〕獅子吼を吼え叫ぶのだ。


176.(176) そのために、牟尼(ブッダ)が、わたしたちへの慈しみ〔の思い〕によって、わたしたちを出家させた、一切の束縛するものの滅尽という、その義(目的)は、わたしたちによって獲得された。ということで――


 ……バラタ長老は……。


2.3.9 バーラドバージャ長老の詩偈


177.(177) 戦場を征圧した勇者たちは、軍勢を有する悪魔に勝利して、このように、知慧を有する者たちは、山窟にある獅子たちのように吼え叫ぶ。


178.(178) しかして、わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、さらには、法(教え)と僧団は供養された。しかして、わたしは、煩悩なき〔わが〕子を見て、〔心が〕富み、意“こころ”楽しき者となる。ということで――


 ……バーラドバージャ長老は……。


2.3.10 カンハディンナ長老の詩偈


179.(179) 正しい人(比丘)たちは、〔わたしによって〕近侍され、諸々の法(教え)は、〔わたしによって〕一度ならず聞かれた。〔教えを〕聞いて、〔わたしは〕不死への沈潜(涅槃)という曲がりなき〔道〕を実践した。


180.(180) わたしは、〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕を打ち砕いた者として存しているが、わたしに、〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕は、ふたたび見い出されない。わたしに、〔迷いの生存にたいする貪りの思いは〕有ったこともなく、有るであろうこともなく、わたしに、〔迷いの生存にたいする貪りの思いは〕今現在も見い出されない。ということで――


 ……カンハディンナ長老は……。


 〔以上が〕第三の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「ウッタラ、バッダジ長老、ソービタ、ヴァッリヤ聖賢、しかして、〔まさに〕その、ヴィータソーカ長老、および、プンナマーサ、ナンダカ、バラタ、および、バーラドバージャ、大いなる牟尼たるカンハディンナ、〔これらの十者の長老たちが有る〕」と。


2.4 第四の章


2.4.1 ミガシラ長老の詩偈


181.(181) わたしは、正自覚者(ブッダ)の教えにおいて出家してからのち、解脱しつつ〔高みに〕昇り、欲望の界域(欲界)を超え行った。


182.(182) 梵〔天〕(ブラフマー神)が〔わたしを〕見ていると、そののち、わたしの心は解脱した。一切の束縛するものの滅尽あることから、「わたしの解脱は、不動である」と。ということで――


 ……ミガシラ長老は……。


2.4.2 シヴァカ長老の詩偈


183.(183) 諸々の家(輪廻における諸々の生存)は、そこかしこにおいて、繰り返し、常住ならざるものとして〔作り為された〕――家の作り手を求めながら。生〔の輪廻〕は、繰り返し、苦しみである。


184.(184) 家の作り手よ、〔おまえは〕見られたものとして存在している(その正体は、あるがままに見られた)。ふたたび、〔おまえが〕家を作ることはないであろう。おまえの全ての梁“はり”は壊され、また、諸々の棟木は砕かれた。転倒したものとして作り為された心を、まさしく、この〔世において〕、砕破するであろう。ということで――


 ……シヴァカ長老は……。


2.4.3 ウパヴァーナ長老の詩偈


185.(185) 世における阿羅漢(人格完成者)たる善き至達者(ブッダ)が、牟尼が、諸々の風〔の病〕に悩まされている。それで、もし、温かい水が存するなら、婆羅門よ、牟尼に与えよ。


186.(186) 供養されるべき者たちのなかで供養された者、尊敬されるべき者たちのなかで尊敬された者、敬恭されるべき者たちのなかで敬恭された者――彼に、〔温かい水を〕運ぶことを〔わたしは〕求める。ということで――


 ……ウパヴァーナ長老は……。


2.4.4 イシディンナ長老の詩偈


187.(187) 法(教え)を保つ者たる在俗信者(優婆塞)たちが、「諸々の欲望〔の対象〕は、常住ならざるもの(無常)である」と語っているのを、わたしは見た。彼らは、諸々の宝珠や耳飾りにたいする執着〔の思い〕に染まった者たちであり、子たちにたいする、そして、妻たちにたいする、期待〔の思い〕ある者たちである。


188.(188) 執着の者たちは、この〔世において〕、法(真理)を知らないがゆえに、また、たとえ、〔彼らが〕「諸々の欲望〔の対象〕は、常住ならざるもの(無常)である」と言うとして、しかして、彼らに、貪欲を断つための力は存在せず、それゆえに、〔彼らは〕依存ある者たちとなる――〔すなわち〕妻や子に、そして、財に。ということで――


 ……イシディンナ長老は……。


2.4.5 サンブラカッチャーナ長老の詩偈


189.(189) しかして、天が雨を降らせ、さらには、天が〔雷鳴を〕ガラガラと鳴り響かせる。そして、わたしは、独り、恐ろしき洞窟に住む。独り、恐ろしき洞窟に住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、あるいは、恐怖は、あるいは、驚愕は、あるいは、〔身の〕毛のよだつことは、〔もはや〕存在しない。


190.(190) 独り、恐ろしき洞窟に住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、あるいは、恐怖が、あるいは、驚愕が、あるいは、〔身の〕毛のよだつことが、〔もはや〕存在しないなら、これは、わたしにとって、法(真理)たること(あるがままにあること)である。ということで――


 ……サンブラカッチャーナ長老は……。


2.4.6 ニタカ長老の詩偈


191.(191) 誰の心が、巌の如くに安立し、動揺せず、諸々の染まるべきもの(欲望の対象)に染まらず、諸々の怒るべきことに怒らないのだろう。彼の心が、このように修められたなら――彼に、どこから、苦しみが至り行くというのだろう。


192.(192) わたしの心は、巌の如くに安立し、動揺せず、諸々の染まるべきもの(欲望の対象)に染まらず、諸々の怒るべきことに怒らない。わたしの心は、このように修められた。わたしに、どこから、苦しみが至り行くというのだろう。ということで――


 ……ニタカ長老は……。


2.4.7 ソーナ・ポーティリヤ長老の詩偈


193.(193) 星祭りの花飾りある夜は、眠るために、そのためだけに有るのではない。〔あるがままに〕識知している者が〔眠らずに〕起きているためにこそ、この夜は有るのだ。


194.(194) もし、象の背から落ちた〔わたし〕を、象が〔踏み敷いて〕行くなら、戦場で死んだほうが、わたしには、より勝“まさ”っている――すなわち、もし、敗者として生きるであろうなら。ということで――


 ……ソーナ・ポーティリヤ長老は……。


2.4.8 ニサバ長老の詩偈


195.(195) 五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)を捨棄して、〔すなわち〕意が喜びとする諸々の愛しい形態を〔捨棄して〕、信によって家から出て、苦しみの終極“おわり”を為す者と成るように。


196.(196) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、正知と気づきの者として、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。ということで――


 ……ニサバ長老は……。


2.4.9 ウサバ長老の詩偈


197.(197) アンバ〔樹〕(マンゴー)の若芽に似た〔色の〕衣料(袈裟)を肩に掛けて、象の首に坐した〔わたし〕は、〔行乞の〕食のために、村に入った。


198.(198) 象の背から降りて、そのとき、〔わたしは〕畏怖〔の念〕(回心の思い)を得た。〔まさに〕その、倨傲なるわたしは、そのとき、寂静なる者となる。わたしによって、煩悩の滅尽は得られた。ということで――


 ……ウサバ長老は……。


2.4.10 カッパタクラ長老の詩偈


199.(199) 「これは、使い古し〔の衣〕である」と、カッパタクラ(人名)は〔語った〕。澄んだ、溢れるばかりの、不死なる〔甘露の〕鉢には、法(教え)によって作り為された量のものがある。諸々の瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を重ね行くための境処は作り為された。


200.(200) カッパタ(人名)よ、まさに、おまえは、居眠りをしてはならない。〔わたしが〕おまえを耳の近くで打つこと(眠りを覚ますために打擲を加えること)があってはならない。カッパタよ、まさに、おまえは、〔正しい〕量を了知しなかった――僧団の中で居眠りをしつつ。ということで――


 ……カッパタクラ長老は……。


 〔以上が〕第四の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「ミガシラ、および、シヴァカ、および、ウパヴァーナ賢者、および、イシディンナ、カッチャーナ(サンブラカッチャーナ)、および、大いなる自在者たるニタカ、ポーティリヤプッタ(ソーナ・ポーティリヤ)、ニサバ、ウサバ、カッパタクラ、〔これらの十者の長老たちが有る〕」と。


2.5 第五の章


2.5.1 クマーラ・カッサパ長老の詩偈


201.(201) ああ、覚者たちよ、ああ、諸々の法(教え)よ、ああ、わたしたちの教師(ブッダ)の〔円満〕成就たることよ。そこにおいて、〔覚者の〕弟子は、このような法(性質)を実証するであろう。


202.(202) 数えられるべくもない諸々のカッパ(劫:時間の単位・無限大の時間)において、身体を有する〔生存のあり方〕(有身)への諸々の到達が有った(幾多の輪廻を経験し、迷いの生存を繰り返してきた)。それらのなかでは、これは、最後のものである。これは、最後の積身“からだ”である。生と死の輪廻は〔存在しない〕。今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 ……クマーラ・カッサパ長老は……。


2.5.2 ダンマパーラ長老の詩偈


203.(203) 彼が、まさに、青年でありながらも、比丘として、覚者(ブッダ)の教えに専念するなら、まさに、彼は、眠りについた者たちのなかで〔眠らずに〕起きている者、彼の生は、無駄ならざるもの。


204.(204) それゆえに、しかして、〔覚者にたいする〕信に〔専念し〕、さらには、戒に〔専念し〕、〔僧団にたいする〕清らかな信に〔専念し〕、法(真理)の見に専念するがよい――思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら。ということで――


 ……ダンマパーラ長老は……。


2.5.3 ブラフマーリ長老の詩偈


205.(205) 誰の、諸々の〔感官の〕機能(根)が、止寂〔の境地〕(奢摩他・止)に至ったのだろう――馭者によって善く調御された馬たちのように。思量を捨棄した、煩悩なき、そのような者である誰を、天〔の神々〕たちさえも羨む。


206.(206) わたしの、諸々の〔感官の〕機能は、止寂〔の境地〕に至った――馭者によって善く調御された馬たちのように。思量を捨棄した、煩悩なき、そのような者であるわたしを、天〔の神々〕たちさえも羨む。ということで――


 ……ブラフマーリ長老は……。


2.5.4 モーガラージャン長老の詩偈


207.(207) 皮膚が荒れているが、心が幸いなる者、モーガラージャン(人名)よ、〔おまえは〕常に〔心が〕定められた者である。冬の、寒い時の、諸々の夜がある。おまえは、比丘として〔世に〕存するが、〔そのような時は〕どのように為すのであろう。


208.(208) 「マガダ〔国〕の全部が、作物〔の豊饒〕を成就した」と、わたしは聞いた。〔屋根が〕藁で覆われた〔臥所〕ある者として、〔わたしは〕臥すであろう――他の安楽に生きる者たちのように。ということで――


 ……モーガラージャン長老は……。


2.5.5 ヴィサーカ・パンチャーラプッタ長老の詩偈


209.(209) 他者たちを排斥しないように。そして、糾弾しないように。彼岸に至った者を貶めないように。〔彼にたいし、悪しき言葉を〕発しないように。〔心が〕高ぶらず、正しく量られた〔限度〕をもって語る、善き掟の者は、諸々の衆(集会)のなかで、名誉を捨て去った者のことを言及しないように。


210.(210) 極めて微細で精緻なる義(道理)を見る者によるなら、思慧ある智者によるなら、謙譲の生活者によるなら、覚者と親しむことを戒“ならい”とする者によるなら、まさに、彼によるなら、涅槃〔の境処〕は、得難きものではない。ということで――


 ……ヴィサーカ・パンチャーラプッタ長老は……。


2.5.6 チューラカ長老の詩偈


211.(211) 美しい冠毛、美しい尾翼、美しい青首、美しい顔立ち、美しい鳴き声の、孔雀たちが鳴く。そして、また、この大地は、美しい若草が〔繁り〕、美しい水に満ち、天空は、美しい雲が〔流れる〕。


212.(212) 意“こころ”楽しき者には、極めて善き形姿(色)がある。それを瞑想せよ。善きかな、善き覚者(ブッダ)の教えにおける善き勤勉は。純白に白く、精緻で、極めて見難い、最上にして不死なる境処を、それを体得せよ。ということで――


 ……チューラカ長老は……。


2.5.7 アヌーパマ長老の詩偈


213.(213) 〔俗事を〕喜びながらやってきた心は、立てられる杭(欲に染まったあり方)である。杭や木片のあるところに、まさしく、そこへ、そこへと、〔心は〕行く。


214.(214) 心よ、わたしは、おまえを「〔賭博師の悪しき〕賽の目」と説く。心よ、おまえを「〔不忠の〕裏切り者」と説く。おまえのために、得難き教師(ブッダ)は得られた。義(意味)ならざるものへと、わたしを駆り立ててはならない。ということで――


 ……アヌーパマ長老は……。


2.5.8 ヴァッジタ長老の詩偈


215.(215) 〔わたしは〕長時にわたり輪廻しながら、諸々の〔悪しき〕境遇を遍く転じ来た――〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を見ることなく、暗愚と成った〔迷える〕凡夫として。


216.(216) 〔まさに〕その、わたしが、〔気づきを〕怠らずにあると、諸々の輪廻は分断され、一切の〔悪しき〕境遇は断絶された。今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 ……ヴァッジタ長老は……。


2.5.9 サンディタ長老の詩偈


217.(217) 緑に輝き、立派に成長したアッサッタ(菩提樹)の木にて、〔わたしは〕気づきの者となり、覚者の在り方という一なる想い(想:表象・概念)を得た。


218.(218) これより〔遡ること〕、二十一カッパ(無限大の時間)において、そのとき、〔わたしが〕得た、その想い――その想いに由縁し、わたしによって、煩悩の滅尽は得られた。ということで――


 ……サンディタ長老は……。


 〔以上が〕第五の章となる。


 その〔章〕のための、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「クマーラ・カッサパ長老、および、ダンマパーラ、ブラフマーリ、モーガラージャン、および、ヴィサーカ(ヴィサーカ・パンチャーラプッタ)、および、チューラカ、アヌーパマ、ヴァッジタ、〔心の〕汚れの塵を運び去るサンディタ長老、〔これらの九者の長老たちが有る〕」と。


 二なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「二なるものの集まりにおいて、まさしく、九十と、八との、諸々の詩偈があり、語り手たちとして、導きの熟知者たる四十九者の長老たちがいる」と。


3 三なるものの集まり


3.1 第一の章


3.1.1 アンガニカ・バーラドヴァージャ長老の詩偈


219.(219) 根源“あり”のままでない〔虚妄の〕清浄を探し求めながら、林のなかで火(アグニ神)に奉仕してきた。清浄の道を知ることなく、不死〔を得るため〕の苦行を為してきた。


220.(220) その安楽(法の喜び)は、安楽に得られた。見よ――法(事象)が見事に法(事象)たることを。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


221.(221) かつて、〔わたしは〕梵の眷属として存していた。今や、まさに、〔真の〕婆羅門(人格完成者)として存している。しかして、三つの明知ある沐浴者(梵行終了者)として存している。さらには、〔真の〕知に至る聞経者(婆羅門)として存している。ということで――


 ……アンガニカ・バーラドヴァージャ長老は……。


3.1.2 パッチャヤ長老の詩偈


222.(222) わたしは、五日まえに出家した、学びある者(有学)であり、意“こころ”は〔煩悩の滅尽を〕得ていない。わたしが精舎に入ったとき、心には、〔確固たる〕誓願が有った。


223.(223) 「渇愛の矢が打破されないうちは、〔わたしは〕食べないであろう、飲まないであろう、精舎から出ないであろう、また、脇をつけて横たわらないであろう(横になって寝ない)」〔と〕。


224.(224) このように住している、〔まさに〕その、わたしの、精進と勤勉〔努力〕を見よ。三つの明知は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……パッチャヤ長老は……。


3.1.3 バークラ長老の詩偈


225.(225) かつて為すべき諸々のことを、彼が〔為さず〕、のちに為そうと、彼が求めるなら、彼は、安楽の境位から転落し、しかして、のちに悩み苦しむことになる。


226.(226) まさに、それを為すなら、まさに、それを説くように。それを為さないなら、それを説かないように。賢者たちは、為すことなく語っている者を、〔あるがままに〕遍知する。


227.(227) まさに、正自覚者(ブッダ)によって説示された涅槃〔の境処〕は、極めて安楽である。そこにおいて、苦しみが止滅するところ、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、平安〔の境地〕である。ということで――


 ……バークラ長老は……。


3.1.4 ダニヤ長老の詩偈


228.(228) もし、安楽に生きることを求めるなら、沙門の資質について熟視する者となり、僧団のものである衣料や飲食を軽んじないように。


229.(229) もし、安楽に生きることを求めるなら、沙門の資質について熟視する者となり、蛇が鼠の穴に〔住む〕ように、〔辺境の〕臥坐所に慣れ親しむように。


230.(230) もし、安楽に生きることを求めるなら、沙門の資質について熟視する者となり、いかなるものにても〔足ることを知り〕満足するように。しかして、一なる法(真理)を修めるように。ということで――


 ……ダニヤ長老は……。


3.1.5 マータンガプッタ長老の詩偈


231.(231) 「これは、寒すぎる、暑すぎる、〔もはや〕夕方すぎと成った」〔と〕、かくのごとく、若くある者が行為(仕事)を捨て去ったなら、諸々の時節は、〔無駄に〕過ぎ行く。


232.(232) しかしながら、彼が、寒くても、暑くても、〔道端の〕草よりも、より一層に思わないなら(暑さ寒さを気にしないなら)――彼は、人として為すべき諸々のことを為しつつ、安楽から衰退しない。


233.(233) ダッパ〔草〕、クサ〔草〕、ポータキラ〔草〕を、ウシーラ〔草〕、ムンジャ〔草〕、パッバジャ〔草〕を、〔わたしは〕胸をもって除け行くであろう――遠離〔の境地〕を増進しながら。ということで――


 ……マータンガプッタ長老は……。


3.1.6 クッジャソービタ長老の詩偈


234.(234) 彼ら、弁舌鋭く、多聞“たもん”の者たる、パータリプッタ(地名)在住の沙門たち――彼らのうちの或るひとりとして、この長寿者、クッジャソービタ(人名)は、〔七葉窟の〕門に立つ。


235.(235) 彼ら、弁舌鋭く、多聞の者たる、パータリプッタ(地名)在住の沙門たち――彼らのうちの或るひとりとして、この長寿者は、風に揺られ、〔七葉窟の〕門に立つ。


236.(236) 〔煩悩と〕善く戦い、善く祭られたことで、しかして、戦場を征圧することで、まさしく、梵行(禁欲清浄行)を行じおこなってきたことで、この者は、安楽に満ち栄える。ということで――


 ……クッジャソービタ長老は……。


3.1.7 ヴァーラナ長老の詩偈


237.(237) 彼が誰であれ、この〔世において〕、人間たちのなかで、他の生き物たちを害するなら、〔その〕人は、この世から〔転落し〕、さらには、他〔世〕から〔転落し〕、両者から転落する。


238.(238) しかしながら、彼が、慈愛の心によって、一切の生き物を慈しむなら、そのような人は、まさに、彼は、多くの功徳を生む。


239.(239) 見事に語られた〔法〕を学ぶように。しかして、沙門の従事すること(瞑想)を、さらには、静所で独坐することを、かつまた、心の寂止を〔学ぶように〕。ということで――


 ……ヴァーラナ長老は……。


3.1.8 ヴァッシカ長老の詩偈


240.(240) この〔世において〕、信なき親族たちのなかで、たとえ、一者でも、信あり、思慮ある者は、眷属たちの義(利益)のために、法(正義)に依って立つ者と〔成り〕、戒を成就した者と成る。


241.(241) 慈しみ〔の思い〕で批判して、わたしは、親族たちを叱咤した――比丘たちのなかにおいて、親族や眷属たちへの愛〔の思い〕で、〔比丘として〕為すことを為して。


242.(242) 彼らは去り行き、命を終えたが、彼らは、三十三〔天〕の安楽を得た。わたしの兄弟たち、そして、母は、欲のままに欲する者たちとなり、喜び楽しむ。ということで――


 ……ヴァッシカ長老は……。


3.1.9 ヤソージャ長老の詩偈


243.(243) カーラー〔樹〕の結節に似た手足となり、痩せ細り、〔浮き出た〕血管が〔身体中に〕広がったとして、食べ物と飲み物について量を知る人は、意“こころ”が卑屈にならない。


244.(244) 林や密林のなかで虻たちや蚊たちに刺されたとして、戦場の先頭にいる象のように、そこにおいて、気づきある者となり、〔苦しみを〕耐え忍ぶがよい。


245.(245) 梵〔天〕(ブラフマー神)のように、そのように、一者あり――天〔の神〕のように、そのように、二者あり――村のように、そのように、三者あり――それ以上は、喧噪となる。ということで――


 ……ヤソージャ長老は……。


3.1.10 サーティマッティヤ長老の詩偈


246.(246) かつて、あなたには、信が有った。今日、それは、あなたには見い出されない。それが、あなたのものであるなら、これは、まさしく、あなたのものである。わたしには、悪しき行ないは存在しない。


247.(247) まさに、信は、常住ならず、動揺するものである。まさに、それは、わたしによって、このように見られた。たとえ、〔信の思いに〕染まるとして、〔世の人々は〕染まることから離れてしまう。そこにおいて、牟尼(沈黙の聖者)は、何を失うというのだろう(牟尼の信は、確たるものである)。


248.(248) 牟尼の食は、家々において少しずつ煮られる(調理される)。〔行乞の〕食のために、〔わたしは〕歩むであろう。わたしには、〔歩くための〕脛の力が存在する。ということで――


 ……サーティマッティヤ長老は……。


3.1.11 ウパーリ長老の詩偈


249.(249) 信によって〔家を〕出て、新たに出家した新参の者は、休むことなく〔励み〕清浄の生き方ある、善き朋友たちと親しくするがよい。


250.(250) 信によって〔家を〕出て、新たに出家した新参の者は、僧団のうちに住む聡明なる比丘となり、律(規律)を学ぶがよい。


251.(251) 信によって〔家を〕出て、新たに出家した新参の者は、〔何ものも〕偏重しない、諸々の分別と分別ならざることに巧みな智ある者となり、〔世を〕歩むがよい。ということで――


 ……ウパーリ長老は……。


3.1.12 ウッタラパーラ長老の詩偈


252.(252) まさに、賢者にして寂静者たるわたしを、十分に義(利益)のあることを熟慮する者たるわたしを、世における迷妄である五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)が打ち倒した。


253.(253) 悪魔の境域に陥り、堅固な矢に射抜かれたわたしであるが、死魔の王の罠から解き放たれることができた。


254.(254) わたしによって、一切の欲望〔の対象〕は捨棄され、一切の〔迷いの〕生存は破られた。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 ……ウッタラパーラ長老は……。


3.1.13 アビブータ長老の詩偈


255.(255) ここに集いあつまったかぎりの、全ての親族たちよ、聞け。〔わたしは〕あなたたちに、法(教え)を説示するであろう。生〔の輪廻〕は、繰り返し、苦しみである。


256.(256) 励め。勤しめ。覚者(ブッダ)の教えに専念せよ。象が葦の家を〔踏み敷く〕ように、死魔の軍団を打ち払え。


257.(257) 彼が、この法(教え)と律(規律)において、〔気づきを〕怠ることなく住するなら、〔彼は〕生の輪廻を捨棄して、苦しみの終極を為すであろう。ということで――


 ……アビブータ長老は……。


3.1.14 ゴータマ長老の詩偈


258.(258) まさに、〔わたしは〕輪廻しつつ、地獄へと赴いた。繰り返し、餓鬼の世〔界〕へと赴いた。また、苦しみあふれる畜生の胎において、種々様々な類に、まさに、長きにわたり、わたしは住んだ。


259.(259) さらに、また、人間としての生存に満悦し、一回、〔また〕一回と、天上の衆へと赴いた。諸々の形態ある界域(色界)と諸々の形態なき界域(無色界)に、諸々の表象あるにもあらず表象なきにもあらざるところ(非想非非想処)に、止“とど”まり住んだ。


260.(260) 諸々の発生するものは、真髄なきもの、形成されたもの、動揺するもの、常に動くものと、善く知られた(あるがままに見られた)。それを、「自己から発生するもの」と知って、わたしは、気づきの者となり、まさしく、寂静〔の境地〕に正しく到達した。ということで――


 ……ゴータマ長老は……。


3.1.15 ハーリタ長老の詩偈


261.(261) かつて為すべき諸々のことを、彼が〔為さず〕、のちに為そうと、彼が求めるなら、彼は、安楽の境位から転落し、しかして、のちに悩み苦しむことになる。


262.(262) まさに、それを為すなら、まさに、それを説くように。それを為さないなら、それを説かないように。賢者たちは、為すことなく語っている者を、〔あるがままに〕遍知する。


263.(263) まさに、正自覚者(ブッダ)によって説示された涅槃〔の境処〕は、極めて安楽である。そこにおいて、苦しみが止滅するところ、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、平安〔の境地〕である。ということで――


 ……ハーリタ長老は……。


3.1.16 ヴィマラ長老の詩偈


264.(264) 悪しき朋友たちを避けて、最上の人と親しくするように。しかして、不動の安楽を切望している者は、彼(最上の人)の教諭において安立するように。


265.(265) 小さな木片にすがって、〔結局は〕大海に沈み行くように、このように、怠惰なる者〔との交わり〕を縁として、善によって生きる者もまた、沈み行く。それゆえに、彼を、怠惰で精進に劣る者を、遍く避けるように。


266.(266) 遠離する聖者たちと、自己を精励する瞑想者たちと、常に精進に励む賢者たちと、共に住むように。ということで――


 ……ヴィマラ長老は……。


 三なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「アンガニカ・バーラドヴァージャ、パッチャヤ、バークラ聖賢、ダニヤ、マータンガプッタ、ソービタ(クッジャソービタ)、ヴァーラナ聖賢――

 しかして、ヴァッシカ、さらには、ヤソージャ、および、サーティマッティヤとウパーリ、ウッタラパーラ、アビブータ、ゴータマ、および、また、ハーリタ――

 涅槃を為したヴィマラ長老、二なるものの集まりにおいて、四十八の詩偈があり、十六者の栄誉ある長老たちがある」と。


4 四なるものの集まり


4.1 第一の章


4.1.1 ナーガサマーラ長老の詩偈


267.(267) 〔見てくれを〕十分に作り為し、美しい衣をまとい、花飾りをし、栴檀〔の香り〕芳しく、踊り女が、楽器にあわせ、大道の中央で舞う。


268.(268) 〔行乞の〕食のために、〔町に〕入ったわたしは、〔町を〕行きつつ、彼女を見た――〔見てくれを〕十分に作り為し、美しい衣をまとっているが、〔悪意をもって〕仕掛けられた、死魔の罠のような〔彼女〕を。


269.(269) そののち、わたしに、根源のままに意を為すこと(如理作意:固定概念なく思い考えること)が生起した。〔世俗の〕危険は明らかと成り、厭離〔の思い〕は確立した。


270.(270) そののち、わたしの心は解脱した。見よ――法(事象)が見事に法(事象)たることを。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……ナーガサマーラ長老は……。


4.1.2 バグ長老の詩偈


271.(271) わたしは、眠気に襲われ、精舎から出て行った。歩行場へと登りつつ、まさしく、そのまま、地に落ちた。


272.(272) 四肢をさすって、ふたたび、歩行場へと登って、歩行場にて歩行〔瞑想〕をした。〔まさに〕その、わたしは、内に〔心が〕善く定められた者となる。


273.(273) そののち、わたしに、根源のままに意を為すことが生起した。〔世俗の〕危険は明らかと成り、厭離〔の思い〕は確立した。


274.(274) そののち、わたしの心は解脱した。見よ――法(事象)が見事に法(事象)たることを。三つの明知は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……バグ長老は……。


4.1.3 サビヤ長老の詩偈


275.(275) しかしながら、他者たちは、〔わたしたちが滅び行く存在であることを〕識知しない。わたしたちは、ここに、〔自らが滅び行く存在であることを識知して、自らを〕制するのだ。しかして、彼らが、そこに、〔自らが滅び行く存在であることを〕識知するなら、そののち、諸々の確執は静まる。


276.(276) しかして、〔自らが滅び行く存在であることを〕識知せずにいるとき、〔彼らは〕不死の者たちであるかのように振る舞う。しかしながら、彼らが、法(真理)を識知するなら、病いある者たちのなかにいながら、病いなき者たちとなる。


277.(277) それが何であれ、緩慢な行為(業)であるなら、さらには、それが、汚染された掟であり、疑いある梵行(禁欲清浄行)であるなら、それは、大いなる果には成らない。


278.(278) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められないなら、〔彼は〕正なる法(真理)から遠く離れて有る――天空が、地から〔遠く離れて有る〕ように。ということで――


 ……サビヤ長老は……。


4.1.4 ナンダカ長老の詩偈


279.(279) 〔この身体は〕厭わしきものとして存せ。〔汚物に〕満ち、悪臭があり、悪魔の徒党で、〔不浄物が〕漏れ出ている。おまえの身体には、一切時において〔不浄物が〕流れ出る、それらの九つの流れがある。


280.(280) 過去のことを思い考えてはならない。如来たちを侮蔑してはならない。彼らは、たとえ、天上〔界〕においても、〔欲に〕染まらない。人間〔界〕においては、ましてや、さらに、何をかいわん。


281.(281) しかして、まさに、思慮浅く、思慧に劣り、迷妄に包着された、それらの愚者たちであるが、そのような者たちは、悪魔によって放たれた〔欲の〕結縛において、そこに染まる。


282.(282) 彼らの、貪りと、怒りと、無明とが、〔欲に〕染まることから離れたなら、そのような者たちは、〔迷いの〕糸を断った、〔欲の〕結縛なき者たちであり、そこに染まらない。ということで――


 ……ナンダカ長老は……。


4.1.5 ジャンブカ長老の詩偈


283.(283) 五十五年のあいだ、〔わたしは〕塵や埃を〔身に〕保ってきた。月〔に一度〕の食を食する者であり、〔苦行のために〕髪や髭を抜かせてきた。


284.(284) 一足で立ち、坐〔具〕を遍く避けてきた。しかして、諸々の乾燥した糞を喰い、かつまた、〔施食の〕指定を受けなかった。


285.(285) 悪しき境遇(悪趣)に至る、このような〔行為〕を多く為して、大激流に運ばれつつ、〔わたしは〕覚者(ブッダ)という帰依所に至り着いた。


286.(286) 見よ――帰依所に至り行く〔わたしの姿〕を。見よ――法(事象)が見事に法(事象)たることを。三つの明知は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……ジャンブカ長老は……。


4.1.6 セーナカ長老の詩偈


287.(287) ガヤーにおいて――〔それも〕ガヤーのパッグ〔月の祭礼〕において――正覚者(ブッダ)が最上の法(真理)を説示しているのを見たが、それは、わたしにとって、まさに、善き訪問として存するものだった。


288.(288) 大いなる光ある方を、衆徒の師匠を、至高〔の境地〕を得た方を、〔世の〕導き手を、天〔界〕を含む世〔界〕の勝者を、無比の見ある方を、〔わたしは見た〕。


289.(289) 偉大なる龍を、偉大なる勇者を、大いなる光輝ある方を、煩悩なき方を、一切の煩悩が完全に滅尽した方を、〔世の〕教師を、何ものも恐れない方を、〔わたしは見た〕。


290.(290) 長きにわたり〔心が〕汚染された、まさに、わたしを、〔悪しき〕見解の網に結縛されたセーナカ(人名)を、世尊である彼(ブッダ)は、一切の拘束から解き放った。ということで――


 ……セーナカ長老は……。


4.1.7 サンブータ長老の詩偈


291.(291) 彼は、遅くする時に急ぎ、そして、急ぐべきところで遅くする――愚者は、〔物事を〕根源のままに差配しないので、苦を受ける。


292.(292) 彼の、諸々の義(目的)は衰退する――黒分(月が欠ける期間)における月のように。しかして、〔彼は〕福徳なきを得(不評となる)、さらには、朋友たちとは〔交友を〕遮られる。


293.(293) 彼は、遅くする時に遅くし、そして、急ぐべきところで急ぐ――賢者は、〔物事を〕根源“あり”のままに差配するので、楽を得る。


294.(294) 彼の、諸々の義(目的)は円満成就する――白分(月が満ちる期間)における月のように。しかして、〔彼は〕福徳と栄誉を得、朋友たちとは〔交友を〕遮られない。ということで――


 ……サンブータ長老は……。


4.1.8 ラーフラ長老の詩偈


295.(295) すなわち、〔わたしが〕覚者(ブッダ)の子として存していることと、すなわち、諸法(事象)について眼“まなこ”ある者であることと、まさしく、両者を成就した「幸いなるラーフラ(人名:ブッダの実子)」と、〔人々は〕わたしのことを知る。


296.(296) すなわち、わたしによって諸々の煩悩が滅尽されたことと、すなわち、さらなる〔迷いの〕生存が存在しないことと、〔まさしく、両者を成就した〕阿羅漢(人格完成者)として、施与されるべき者として、三つの明知ある者として、不死〔の境処〕を見る者として、〔わたしは〕存している。


297.(297) 欲望の盲者たち、〔愛欲の〕網に覆われた者たち、渇愛の覆“おおい”に覆われた者たち、怠りの眷属(悪魔)によって結縛された者たちは、網の入り口にいる魚たちのようなもの。


298.(298) わたしは、その欲望を廃棄して、悪魔の結縛を断ち切って、渇愛を根ごと引き抜いて、〔心が〕冷静“おだやか”と成った者として、涅槃に到達した者として、〔世に〕存している。ということで――


 ……ラーフラ長老は……。


4.1.9 チャンダナ長老の詩偈


299.(299) 黄金〔の装飾品〕に覆われ、侍女衆に傅“かしず”かれた妻が、子を脇に抱えて、わたしのところに近づいてきた。


300.(300) しかして、彼女を、自らの子の母(妻)がやってくるのを見て――〔見てくれを〕十分に作り為し、美しい衣をまとっているが、〔悪意をもって〕仕掛けられた、死魔の罠のような〔彼女〕を〔見て〕――


301.(301) そののち、わたしに、根源のままに意を為すことが生起した。〔世俗の〕危険は明らかと成り、厭離〔の思い〕は確立した。


302.(302) そののち、わたしの心は解脱した。見よ――法(事象)が見事に法(事象)たることを。三つの明知は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……チャンダナ長老は……。


4.1.10 ダンミカ長老の詩偈


303.(303) 法(正義)は、まさに、法(正義)を行じおこなう者を守る。善く行じおこなわれた法(正義)は、安楽をもたらす。善く行じおこなわれた法(正義)には、この福利がある。〔すなわち〕法(正義)を行じおこなう者は、悪しき境遇(悪趣)に赴かない。


304.(304) まさに、法(正義)、および、法(正義)ならざるものの両者は、報いを等しくするものではない。法(正義)ならざるものは地獄へと導き、法(正義)は善き境遇(善趣)へと至り得させる。


305.(305) 「それゆえに、まさに、諸々の法(正義)にたいし、欲〔の思い〕(意欲)を為すように」〔と〕、かくのごとく、〔常に法を〕喜び楽しんでいる者は、善き至達者たる如なる方(ブッダ)によって〔導かれる〕。法(正義)における安立者たちとして、優れた善き至達者(ブッダ)の弟子たちは〔世に有る〕。慧者たちは導かれる――至高にして優れた帰依所(ブッダ)に至る者たちとして。


306.(306) 腫物の根は破断され、渇愛の網は完破された。彼は、〔生死の〕輪廻が滅尽した者、しかして、〔彼には〕何ものも存在しない――満月〔の夜〕の月明かりのなかの月のように。ということで――


 ……ダンミカ長老は……。


4.1.11 サッパカ長老の詩偈


307.(307) 清らかで白き覆“おおい”(羽毛)の鶴たちが、黒雲の恐怖に怯え、避難所を求め、避難所へと逃げ行くとき、そのとき、アジャカラニー川〔の景色〕は、わたしを喜ばせる。


308.(308) 極めて清浄なる白き鶴たちが、黒雲の恐怖に怯え、〔身を寄せる〕洞窟を見つけられずに、洞窟を遍く探し求めるとき、そのとき、アジャカラニー川〔の景色〕は、わたしを喜ばせる。


309.(309) そこの両〔岸〕にあるジャンブ〔樹〕たちは、そこにおいて、いったい、誰を、喜ばせないというのだろう。わたしの洞窟の後ろにある川岸を、〔それらは〕美しく荘厳する。


310.(310) 蛇の群れからうまく逃れた蛙たちが、ゆっくりと鳴き声を立てる。今日は、諸々の山川からの離住の時にあらず。アジャカラニー〔川〕は、平安で、至福で、極めて喜ばしきもの。ということで――


 ……サッパカ長老は……。


4.1.12 ムディタ長老の詩偈


311.(311) 〔正しい〕生き方を義(目的)として、わたしは出家した。〔戒の〕成就を得て、そののち、信を得た。断固たる精進の者となり、〔覚者の教えにおいて〕勤しんだ。


312.(312) むしろ、この身体は、朽ち果てよ。諸々の肉片は、溶けてなくなれ。わたしの〔両の〕脛は、両膝の関節から落ちてしまえ。


313.(313) 渇愛の矢が打破されないうちは、〔わたしは〕食べないであろう、飲まないであろう、さらには、精舎から出ないであろう、また、脇をつけて横たわらないであろう(横になって寝ない)。


314.(314) このように住している、〔まさに〕その、わたしの、精進と勤勉〔努力〕を見よ。三つの明知は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……ムディタ長老は……。


 四なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「ナーガサマーラ、および、バグ、サビヤ、および、また、ナンダカ、ジャンブカ、セーナカ長老、サンブータ、および、また、ラーフラ――

 チャンダナ長老が有り、これらの十者の覚者の弟子たちが〔有る〕。ダンミカ、サッパカ長老、および、また、ムディタ、それらの三者〔の長老たち〕、しかして、五十と二の詩偈があり、全てもろともに、十三者の長老たちがある」と。


5 五なるものの集まり


5.1 第一の章


5.1.1 ラージャダッタ長老の詩偈


315.(315) 比丘〔たるわたし〕は、墓所に行って、廃棄された女を見た。墓場に捨てられ、諸々の虫で充満し、喰われている〔女〕を〔見た〕。


316.(316) まさに、或る者たちは、〔まさに〕その、死んだ者を、悪しきものと見て、忌避するが、〔わたしのばあいは〕欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕が明らかと成った(死体に欲情した)。流れ出る〔汚物〕のなかにいる盲者のように、〔わたしは〕成った。


317.(317) 飯が炊き上がるよりも早く、〔わたしは〕その状況から去って行った。気づきと正知の者として、わたしは、一方に近坐した。


318.(318) そののち、わたしに、根源のままに意を為すこと(如理作意:固定概念なく思い考えること)が生起した。〔世俗の〕危険は明らかと成り、厭離〔の思い〕は確立した。


319.(319) そののち、わたしの心は解脱した。見よ――法(事象)が見事に法(事象)たることを。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……ラージャダッタ長老は……。


5.1.2 スブータ長老の詩偈


320.(320) 道理ならざることに自己を結び付け、〔それでいて〕為すべきことを求めている人が、もし、〔道を〕歩みながらも、〔目標に〕到達できないなら、それは、わたしにとって、不幸の特相である。


321.(321) 引き抜かれ征圧された過失を、もし、〔その〕一つを投げ捨てるなら(そのまま放置するなら)、〔悪しき〕賽の目であるかのように、〔それは〕存するであろう。もし、一切もろともに投げ捨てるなら、盲者であるかのように、〔彼は〕存するであろう――正と不正に見なきがゆえに。


322.(322) まさに、それを為すなら、まさに、それを説くように。それを為さないなら、それを説かないように。賢者たちは、為すことなく語っている者を、〔あるがままに〕遍知する。


323.(323) また、好ましく、色艶ある花に、香り無きものがあるように、このように、見事に語られた言葉は、為さずにいる者には、果の無きものと成る。


324.(324) また、好ましく、色艶ある花に、香り有るものがあるように、このように、見事に語られた言葉は、為している者には、果の有るものと成る。ということで――


 ……スブータ長老は……。


5.1.3 ギリマーナンダ長老の詩偈


325.(325) 見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。〔心が〕寂止した者として、〔わたしは〕その〔小屋〕に住む。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ。


326.(326) 見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。寂静心の者として、〔わたしは〕その〔小屋〕に住む。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ。


327.(327) 見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。貪り(貪)を離れた者として、〔わたしは〕その〔小屋〕に住む。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ。


328.(328) 見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。怒り(瞋)を離れた者として、〔わたしは〕その〔小屋〕に住む。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ。


329.(329) 見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。迷い(痴)を離れた者として、〔わたしは〕その〔小屋〕に住む。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ。ということで――


 ……ギリマーナンダ長老は……。


5.1.4 スマナ長老の詩偈


330.(330) 師父(和尚)は、不死〔の境処〕(涅槃)を待ち望んでいる〔弟子〕を資助した――諸々の法(教え)において、それを切望しながら。わたしによって、〔弟子として〕為すべき〔務め〕は為された。


331.(331) 「伝え聞きでない〔あるがままの〕法(真理)は、自ら、実証され、獲得された」〔と〕、清浄の知恵ある者として、疑いなき者として、〔わたしは〕あなたの前で説き示した。


332.(332) 〔わたしは〕過去(前世)の居住を知る。天眼は清められた。わたしによって、正なる義(目的)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


333.(333) 〔気づきを〕怠らないわたしの学びは、あなたの教えにおいて、善く聞かれたものとなり、わたしの、一切の煩悩は滅尽し、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。


334.(334) 〔あなたは〕聖なる説き手として、わたしを教示した。〔あなたは〕慈しみ〔の思い〕ある者として、〔わたしを〕資助した。あなたの教諭は、無駄ならざるもの。〔あなたに〕学んだ内弟子として、〔わたしは〕存している。ということで――


 ……スマナ長老は……。


5.1.5 ヴァッダ長老の詩偈


335.(335) まさに、まさに、善きかな――わたしのために、母は、〔教えの〕鞭を示してくれた。彼女の言葉を聞いて、わたしは、生母によって教示された〔わたし〕は、精進に励む者となり、自己を精励する者となる、最上の正覚を得たのだ。


336.(336) 〔わたしは〕阿羅漢として、施与されるべき者として、三つの明知ある者として、不死〔の境処〕を見る者として、〔世に〕存している。〔わたしは〕ナムチ(悪魔)の軍団に勝利して、煩悩なき者として〔世に〕住む。


337.(337) 〔かつて〕わたしに見い出された、それらの煩悩は、内も、外も、全てが、残りなく断ち切られた。しかして、ふたたび、生起することはない。


338.(338) まさに、〔道の〕熟達者である姉(母)は、この義(意味)を語った。「ああ、たしかに、もう、おまえの〔欲の〕林叢“したばえ”は、わたしにさえも、見い出されない」〔と〕。


339.(339) 苦しみは、完全なる終極を為した。これは、最後の積身“からだ”である。生と死の輪廻は〔存在しない〕。今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 ……ヴァッダ長老は……。


5.1.6 ナディー・カッサパ長老の詩偈


340.(340) まさに、わたしの義(利益)のために、覚者は、ネーランジャラー川へと赴いた。彼の法(教え)を聞いて、わたしは、誤った見解(邪見)を避けた。


341.(341) わたしは、高下諸々の祭祀を執り行ない、祭火を捧げてきた――暗愚と成った〔迷える〕凡夫として、「これは、清浄である」と思いながら。


342.(342) 〔誤った〕見解の捕捉に陥り、執着〔の思い〕で迷わされてきた。暗愚と成った無知なる者として、清浄ならざる〔境地〕を清浄と思いなしてきた。


343.(343) わたしによって、誤った見解は捨棄され、一切の〔迷いの〕生存は破られた。〔わたしは〕施与されるべき火(正しい供物)を捧げ、如来を礼拝する。


344.(344) わたしによって、一切の迷妄は捨棄され、〔迷いの〕生存にたいする渇愛〔の思い〕は破られた。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 ……ナディー・カッサパ長老は……。


5.1.7 ガヤー・カッサパ長老の詩偈


345.(345) 早朝に、日中に、夕方に、日に三回、わたしは、ガヤーにおいて――〔それも〕ガヤーのパッグ〔月の祭礼〕において――〔まさに〕その、わたしは、〔沐浴すべく〕水に入った。


346.(346) 「過去における諸他の生において、わたしによって作り為された、〔まさに〕その、悪しきもの(悪業)――それを、今や、ここに、流し去るのだ」〔と〕、このような見解が、かつて、〔わたしに〕有った。


347.(347) 〔覚者の〕見事に語られた言葉である、法(真理)と義(道理)を伴った句を聞いて、〔わたしは〕真実を、あるがままの義(道理)を、根源のままに注視した。


348.(348) 〔わたしは〕一切の悪を洗い清めた無垢なる者として、〔心が〕制された清らかな者として、〔世に〕存している。清浄の者として、清浄なる方(ブッダ)の相続者として、子として、覚者(ブッダ)の正嫡として、〔世に存している〕。


349.(349) 〔わたしは〕八つの支分ある〔聖なる〕流れ(八正道)に入って、一切の悪を流し去った。〔わたしは〕三つの明知に到達した。覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……ガヤー・カッサパ長老は……。


5.1.8 ヴァッカリ長老の詩偈


350.(350) 〔世尊が尋ねた〕「あなたは、風病に罹患した〔身〕でありながら、〔人里離れた〕森林に住んでいます。粗悪な境涯に投げ出された〔身〕でありながら、〔あなたは〕比丘として、どのように為してゆくのですか」〔と〕。


351.(351) 〔長老は答えた〕「〔瞑想の境地がもたらす〕広大なる喜と楽によって〔この〕積身を充満しながら、たとえ、粗悪な〔境涯〕なるも〔それを〕征服しながら、〔人里離れた〕森に住むでありましょう。


352.(352) 〔四つの〕気づきの確立(四念住・四念処)を修めつつ、〔五つの〕機能(五根)、および、〔五つの〕力(五力)を〔修めつつ〕、さらには、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)を修めつつ、〔人里離れた〕森に住むでありましょう。


353.(353) 精進に励み、自己を精励し、常に断固たる勤勉〔努力〕ある、和合者にして益を有する者たち(他の比丘たち)を見て、〔人里離れた〕森に住むでありましょう。


354.(354) 〔心が〕定められた、至高の調御者たる、正覚者(ブッダ)を思念しつつ、昼夜に休みなく、〔人里離れた〕森に住むでありましょう」〔と〕。ということで――


 ……ヴァッカリ長老は……。


5.1.9 ヴィジタセーナ長老の詩偈


355.(355) 心よ、〔わたしは〕おまえを、楔ある門に象を〔繋ぎ止める〕ように、押さえ付けるであろう。肉体から生じる欲望の網よ、おまえを、悪のうちへと駆り立てることはないであろう。


356.(356) 押さえ付けられたおまえは、門を開くことを得ずにいる象のように、〔もはや、悪へと〕赴くことはないであろう。心よ、〔悪しき〕賽の目よ、去れ、しかして、〔おまえは〕悪を喜ぶ者となり、繰り返し、〔悪の道を〕歩むことはないであろう。


357.(357) 鉤をもつ捕捉者(象使い)が、新しい捕捉〔の対象〕である、〔いまだ〕調御されてない象を、力のままに、〔象の〕欲しないところへと〔その向きを〕変えるように、このように、おまえ〔の向き〕を変えるであろう。


358.(358) 優れた馬を調御することに巧みな智ある、最も優れた馭者が、善き生まれ〔の駿馬〕を調御するように、このように、五つの力(五力:信・精進・気づき・心の統一・知慧)における確立者として、おまえを調御するであろう。


359.(359) 気づき(念)によって、おまえを縛り付けるであろう。〔気づきに〕専念する者として、おまえを調御するであろう。心よ、精進という重荷で制御された〔おまえ〕は、これより遠くに行くことはないであろう。ということで――


 ……ヴィジタセーナ長老は……。


5.1.10 ヤサダッタ長老の詩偈


360.(360) 咎め立ての心ある、思慮浅き者は、勝者(ブッダ)の教えを聞き〔ながらも〕、正なる法(真理)から遠く離れて有る――地が、天空から〔遠く離れて有る〕ように。


361.(361) 咎め立ての心ある、思慮浅き者は、勝者(ブッダ)の教えを聞き〔ながらも〕、正なる法(真理)から衰退する――黒分(月が欠ける期間)における月のように。


362.(362) 咎め立ての心ある、思慮浅き者は、勝者(ブッダ)の教えを聞き〔ながらも〕、正なる法(真理)において遍く干上がる――水少なきところの魚のように。


363.(363) 咎め立ての心ある、思慮浅き者は、勝者(ブッダ)の教えを聞き〔ながらも〕、正なる法(真理)において成長することがない――田畑のなかの腐った種のように。


364.(364) しかしながら、彼が、〔足ることを知る〕満ち足りた心で、勝者(ブッダ)の教えを聞くなら、〔彼は〕一切の煩悩を投棄して、不動〔の境地〕を実証して、最高の寂静を得て、煩悩なき者となり、完全なる涅槃に到達する。ということで――


 ……ヤサダッタ長老は……。


5.1.11 ソーナ・クティカンナ長老の詩偈


365.(365) しかして、わたしによって、〔戒の〕成就は得られた。そして、〔わたしは〕煩悩なき解脱者として〔世に〕存している。しかして、わたしによって、世尊である彼(ブッダ)は見られた。そして、〔わたしは〕精舎において〔彼と〕共に住んだ。


366.(366) 世尊は、まさしく、多くの夜を、野外で過ごした。そのとき、精舎〔の住〕に巧みな智ある教師(ブッダ)は、精舎に入った。


367.(367) 大衣を広げて、ゴータマ(ブッダ)は、臥を営んだ――岩窟にある獅子のように、〔あらゆる〕恐れと恐ろしさを捨棄した者として。


368.(368) そののち、正自覚者(ブッダ)の弟子にして、言葉を為すことに巧みな智ある者、ソーナ(人名)は、最勝の覚者(ブッダ)の面前において、正なる法(真理)を語った(経典を読誦した)。


369.(369) 「〔心身を構成する〕五つの範疇(五蘊:物質的形態・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用)を遍く知って、曲がりなき〔道〕を修めて、最高の寂静を得て、煩悩なき者となり、完全なる涅槃に到達するであろう」〔と〕。ということで――


 ……ソーナ・クティカンナ長老は……。


5.1.12 コーシヤ長老の詩偈


370.(370) 彼が、まさに、導師たちの言葉を知る慧者となり、しかして、その〔言葉の〕うちに住み、愛〔の思い〕を生むなら、しかして、彼は、まさに、献信ある賢者と成り、しかして、〔あるがままに〕知って、諸々の法(教え)における殊勝なる者として、〔世に〕存するであろう。


371.(371) 彼を、〔あるがままに〕審慮している〔彼〕を、諸々の巨大なる災害が起きたとして、脅かすことがないなら(彼の世界にたいする気づきが中断されないなら)、しかして、彼は、まさに、強靱なる賢者と成り、しかして、〔あるがままに〕知って、諸々の法(教え)における殊勝なる者として、〔世に〕存するであろう。


372.(372) 彼が、まさに、海のように、安立し、不動で、深遠なる知慧ある者となり、精緻なる義(道理)を見る者としてあるなら、しかして、まさに、不動なる賢者と成り、しかして、〔あるがままに〕知って、諸々の法(教え)における殊勝なる者として、〔世に〕存するであろう。


373.(373) 多聞にして、かつまた、法(教え)を保つ者と成り、法(事象)を法(事象)のままに行じおこなう者と成り、しかして、彼は、まさに、如なる賢者と成り、しかして、〔あるがままに〕知って、諸々の法(教え)における殊勝なる者として、〔世に〕存するであろう。


374.(374) 彼が、しかして、語られたことの義(道理)を知り、さらには、義(道理)を知って、そのとおりに為すなら、彼は、まさに、内に義(道理)ある賢者と成り、しかして、〔あるがままに〕知って、諸々の法(教え)における殊勝なる者として、〔世に〕存するであろう。ということで――


 ……コーシヤ長老は……。


 五なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「ラージャダッタ、および、スブータ、ギリマーナンダとスマナ、および、ヴァッダ、カッサパ長老(ナディー・カッサパ)、ガヤー・カッサパとヴァッカリ――

 ヴィジタ(ヴィジタセーナ)、および、ヤサダッタ、ソーナ(ソーナ・クティカンナ)、コーシヤという呼び名を有する者、しかして、六十五の詩偈があり、さらには、ここに、十二者の長老たちがある」と。


6 六なるものの集まり


6.1 第一の章


6.1.1 ウルヴェーラ・カッサパ長老の詩偈


375.(375) 福徳あるゴータマ(ブッダ)の、諸々の神変を見て、嫉妬と思量〔おもいあがり〕によって騙されていたわたしは、それだけでは、平伏しなかった。


376.(376) わたしの思惟を了知して、〔調御されるべき〕人の馭者たる方(ブッダ)は、〔わたしを〕叱咤した。そののち、わたしに、身の毛のよだつ、未曾有の、畏怖〔の念〕(回心の思い)が存した。


377.(377) かつて、結髪の者として有ったわたしの、その神通は、ほんの小さなもので、わたしは、そのとき、それを捨てて、勝者(ブッダ)の教えにおいて出家した。


378.(378) かつて、祭祀をすることで満足し、欲望の界域(欲界)を偏重していた者が、のちに、貪り(貪)と、怒り(瞋)と、さらに、また、迷い(痴)を完破した。


379.(379) 〔わたしは〕過去(前世)の居住を知る。天眼は清められた。他者の心を知る、神通ある者となり、しかして、〔わたしは〕天耳を得た。


380.(380) しかして、〔まさに〕その義(目的)のために、家から家なきへと出家したところの、一切の束縛するものの滅尽という、その義(目的)は、わたしによって獲得された。ということで――


 ……ウルヴェーラ・カッサパ長老は……。


6.1.2 テーキッチャカーリン長老の詩偈


381.(381) 〔悪魔が言った〕「諸々の米は収穫された。諸々の米は脱穀された。しかるに、〔行乞の〕食を得ない。わたしは、どのように為すというのだろう」〔と〕。


382.(382) 〔長老は答えた〕「清らかな信ある者となり、無量なる覚者(仏:ブッダ)を思念せよ。喜びで肉体は充満し、常に〔心が〕躍り上がる者と成るであろう。


383.(383) 清らかな信ある者となり、無量なる法(法:ダンマ)を思念せよ。喜びで肉体は充満し、常に〔心が〕躍り上がる者と成るであろう。


384.(384) 清らかな信ある者となり、無量なる僧団(僧:サンガ)を思念せよ。喜びで肉体は充満し、常に〔心が〕躍り上がる者と成るであろう」〔と〕。


385.(385) 〔悪魔が言った〕「〔おまえは〕野外に住む。冬の、この夜は寒い。寒さに打ち負かされ、打ちのめされてはならない。おまえは、閂が掛かった精舎に入れ」〔と〕。


386.(386) 〔長老は答えた〕「〔わたしは〕四つの無量〔なる心〕(四無量心)を体得するであろう。そして、それらによって、安楽の者として〔世に〕住むであろう。動揺なき者として〔世に〕住んでいるわたしは、寒さに打ちのめされないであろう」〔と〕。ということで――


 ……テーキッチャカーリン長老は……。


6.1.3 マハー・ナーガ長老の詩偈


387.(387) 彼に、共に梵行(禁欲清浄行)を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められないなら、〔彼は〕正なる法(真理)から衰退する――水少なきところの魚のように。


388.(388) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められないなら、〔彼は〕正なる法(真理)において成長することがない――田畑のなかの腐った種のように。


389.(389) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められないなら、〔彼は〕法(真理)の王(ブッダ)の教えにおいて、涅槃から遠く離れて有る。


390.(390) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められるなら、〔彼は〕正なる法(真理)から衰退することがない――水多きところの魚のように。


391.(391) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められるなら、彼は、正なる法(真理)において成長する――田畑のなかの善き種のように。


392.(392) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められるなら、法(真理)の王(ブッダ)の教えにおいて、涅槃は〔彼の〕現前に有る。ということで――


 ……マハー・ナーガ長老は……。


6.1.4 クッラ長老の詩偈


393.(393) クッラ(人名)は、墓所に行って、廃棄された女を見た。墓場に捨てられ、諸々の虫で充満し、喰われている〔女〕を〔見た〕。


394.(394) クッラよ、見よ――病んで腐った不浄の積身を――〔不浄物が常に〕滲み出し流れ出ている〔この身体〕を――愚者たちの喜ぶところ〔である、この身体〕を。


395.(395) 〔自己についてのあるがままの〕知見を得るために、法(真理)の鏡を掴んで、〔わたしは〕この身体を、内外共に、虚妄なるものと〔あるがままに〕注視した。


396.(396) この〔身体〕が〔そうである〕ように、そのように、この〔死体〕は〔存していた〕。この〔死体〕が〔そうである〕ように、そのように、この〔身体〕は〔成るであろう〕。下において〔そうである〕ように、そのように、上において〔そうであるだろう〕。上において〔そうである〕ように、そのように、下において〔そうであるだろう〕。


397.(397) 昼に〔そうである〕ように、そのように、夜に〔そうであるだろう〕。夜に〔そうである〕ように、そのように、昼に〔そうであるだろう〕。かつて〔そうであった〕ように、そのように、のちに〔そうであるだろう〕。のちに〔そうである〕ように、そのように、かつて〔そうであっただろう〕。


398.(398) 心を一境にし、法(事象)を〔常に〕正しく観察している者にとってのような、そのような歓楽は、五つの支分ある楽器によっては有りえない(世俗の歓楽を超えた歓楽が存在する)。ということで――


 ……クッラ長老は……。


6.1.5 マールキャプッタ長老の詩偈


399.(399) 〔気づきを〕怠るままに歩む人間の、渇愛〔の思い〕は増え行く――蔓草が〔生い茂る〕ように。彼は、あの〔世〕からあの〔世〕へと浮きただよう(輪廻する)――猿が、林のなかで果実を求めるように。


400.(400) 渇愛が、世における執着が、この卑しむべきものが、彼を打ち負かすなら、彼の、諸々の憂いは増え行く――雨を得たビーラナ〔草〕のように。


401.(401) しかしながら、渇愛を、世における超え難きものを、この卑しむべきものを、彼が打ち負かすなら、彼から、諸々の憂いは落ち行く――蓮〔の葉〕から、水の滴“しずく”が〔落ちる〕ように。


402.(402) 〔わたしは〕それを、あなたたちに説くであろう。ここに集いあつまったかぎりの、あなたたち〔全て〕に、幸せ〔有れ〕。

 渇愛の根を掘り崩せ――ウシーラ(ビーラナ草の根、香料として使う)〔の採取〕を義(目的)とする者が、ビーラナ〔草〕を〔掘る〕ように。悪魔が、繰り返し、あなたたちを、まさしく、流れが葦を〔打ちひしぐ〕ように、打ち砕くことがあってはならない。


403.(403) 覚者(ブッダ)の言葉を為せ。まさに、〔いかなる〕時節であろうが、〔無駄に〕過ぎ行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。なぜなら、〔いかなる〕時節であろうが〔無駄に〕過ごした者たちは、地獄に引き渡され、憂い悲しむからである。


404.(404) 怠ること(放逸)は、塵である。塵は、〔気づきを〕怠ることから生み落とされた。〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)によって、明知によって、自己の矢を引き抜くがよい。ということで――


 ……マールキャプッタ長老は……。


6.1.6 サッパダーサ長老の詩偈


405.(405) わたしが出家してからのち、二十五年のあいだ、指を弾く間ばかりでさえも、心の寂静に到達しなかった。


406.(406) 心の一境性を得ずして、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に苦悩する〔わたし〕は、〔両の〕腕を突き上げて、泣き叫びながら、精舎から出て行った。


407.(407) 「あるいは、刃を持ってこようか。わたしの生に、何の義(意味)があるというのだろう。まさに、学びを拒絶している、わたしのような者は、どのように、命を終えるのだろう」〔と〕。


408.(408) そのとき、わたしは、剃刀を取って、寝床に近坐した。自己の血管を断つために、〔首筋へと〕完全に導かれた剃刀が、〔わたしに〕存した。


409.(409) そののち、わたしに、根源“あり”のままに意“おもい”を為すこと(如理作意:固定概念なく思い考えること)が生起した。〔世俗の〕危険は明らかと成り、厭離〔の思い〕は確立した。


410.(410) そののち、わたしの心は解脱した。見よ――法(事象)が見事に法(事象)たることを。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……サッパダーサ長老は……。


6.1.7 カーティヤーナ長老の詩偈


411.(411) カーティヤーナ(人名)よ、奮起せよ。坐せ(瞑想せよ)。眠り多き者と成ってはならない。〔眠らずに〕起きていよ。怠りの眷属である死魔の王が、まさしく、奸計によって、怠け者のおまえに勝利することがあってはならない。


412.(412) それは、たとえば、また、大海の衝撃“うねり”であるかのように、このように、生と老は、おまえを超克する。〔まさに〕その、おまえは、自己の善き洲(依り所)を作り為せ。なぜなら、おまえにとって、他の救いは、まさしく、見い出されないのだから。


413.(413) まさに、教師(ブッダ)は、執着からの、生と老の恐怖からの、過去の、この道を征圧した。夜の前後に、〔気づきを〕怠らず、〔心を一境に〕専念せよ。断固として、〔心の〕制止(瑜伽)を作り為せ。


414.(414) 大衣をまとい剃刀で剃髪し行乞〔の食〕を受ける者となり、以前の、諸々の結縛を解き放て。カーティヤーナよ、しかして、遊興の歓楽に〔専念しては〕ならない。眠ることに専念してはならない。瞑想せよ。


415.(415) カーティヤーナよ、瞑想せよ。勝て。〔おまえは〕束縛からの〔心の〕平安という道における善き熟知者として存している。〔おまえは〕無上なる清浄を得て、完全なる涅槃に到達するであろう――火が、水に〔消え行く〕ように。


416.(416) 灯火の作り手(灯明)の小さき光は、風にたわむ蔓草のようなもの。インダ(インドラ神)と姓を共にする者(カーティヤーナ)よ、また、このように、おまえは、〔何ものをも〕取ることなく、悪魔〔の誘惑〕を振り払え。〔まさに〕その〔おまえ〕は、諸々の感受されたものについて、貪欲を離れた者となり、まさしく、この〔世において〕、〔心が〕冷静と成った者として、〔死の〕時を待て。ということで――


 ……カーティヤーナ長老は……。


6.1.8 ミガジャーラ長老の詩偈


417.(417) 一切の束縛するものを超え行き、一切の〔輪廻の〕転起を滅ぼす〔教え〕は、眼“まなこ”ある覚者(ブッダ)によって、太陽の眷属(ブッダ)によって、見事に説示された。


418.(418) 〔この〕出脱〔の教え〕は、〔涅槃へと〕超え渡すものであり、渇愛の根元を干上がらせるものであり、毒根と刑場を断って、寂滅〔の境地〕を得させてくれる。


419.(419) 無知の根元の破壊のために行為(業)という〔虚妄の〕機関“からくり”(条件づけされ機械化された行為のあり方)を打破するものであり、諸々の識別〔作用〕(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)の執持〔の対象〕(所有物)にたいし知恵の金剛を下すものである。


420.(420) 諸々の感受〔作用〕(受:認識対象を感受し楽苦の価値づけをする働き)を識知させるものであり、執取〔の思い〕を解き放つものであり、火坑のような〔迷いの〕生存を知恵によって随観するものである。


421.(421) 大いなる味わいあるものであり、極めて深遠なるものであり、老と死を防護するものであり、聖なる八つの支分ある道(八正道)であり、苦しみを寂止するものであり、至福なるものである。


422.(422) 行為を「行為である」と知って、さらには、〔行為の〕報い(異熟)を「〔行為の〕報いである」と〔知って〕、縁によって生起した諸々の法(事象)をあるがままに照らし見るものであり、大いなる平安へと至るものであり、寂静なるものであり、究極の幸せである。ということで――


 ……ミガジャーラ長老は……。


6.1.9 ジェンタ・プローヒタプッタ長老の詩偈


423.(423) 出生という驕慢によって、さらには、財物という権力によって、驕慢したわたしは――外貌と容貌と形姿によって、驕慢〔の思い〕で驕慢したわたしは――〔驕慢なるままに〕行じおこなった。


424.(424) 誰であれ、自己と等しい者と〔思わず〕、さらには、〔自己を〕超える者と思わなかった――高慢〔の思い〕に打ち砕かれた愚者として――強情で、〔自己の〕旗を〔高く〕掲げた者として。


425.(425) 母を、さらに、また、父を、諸他の、導師として敬われている者たちをもまた、誰であれ、敬拝しなかった――思量“おもいあがり”と強情の、礼を欠く者として。


426.(436) 至高の導き手にして、馭者たちのなかの〔最も〕優れた最上の方(ブッダ)を見て――太陽のように輝いている、比丘の僧団の尊ぶところの方(ブッダ)を〔見て〕――


427.(427) 思量を〔捨て放って〕、さらには、驕慢を捨て放って、清らかな信ある心で、一切の有情のなかの最上の方(ブッダ)を、頭をもって敬拝した。


428.(428) しかして、高慢と卑慢(増長と蔑視)は捨棄され、善く完破された。「〔わたしは〕存在する」という思量(我慢:自我意識)は断絶され、一切の思量の種類は打ち砕かれた。ということで――


 ……ジェンタ・プローヒタプッタ長老は……。


6.1.10 スマナ長老の詩偈


429.(429) 〔わたしは〕生まれて七年で新たに出家したとき、大いなる神通ある龍のインダ(インドラ神)を、神通によって征服して――


430.(430) 師父(和尚:ブッダ)のために、〔わたしは〕アノータッタ(地名)の大池から水を運び、そののち、教師は、わたしを見て、このことを説いた。


431.(431) 〔世尊は言った〕「サーリプッタ(舎利弗:人名・ブッダの高弟)よ、〔こちらに〕やってくる、この少年を見よ――水瓶を取って、内に〔心が〕善く定められた者を。


432.(432) 清らかな信ある行持“おこない”によって、善き振る舞いの道ある者である。アヌルッダ(人名)の沙弥(見習い徒弟)は、しかして、神通の熟達者である。


433.(433) 善き生まれの者によって善き生まれの者となり、善き者によって善き者として作り為された者である。為すべきことを為したアヌルッダによって、教え導かれ、学んだ者である。


434.(434) 彼は、最高の寂静を得て、不動〔の境地〕を実証して、沙弥である彼、スマナ(人名)は、『〔誰も〕わたしのことを知ってはならない』と求めている」〔と〕。ということで――


 ……スマナ長老は……。


6.1.11 ナータカムニ長老の詩偈


435.(435) 〔世尊が尋ねた〕「あなたは、風病に罹患した〔身〕でありながら、〔人里離れた〕森林に住んでいます。粗悪な境涯に投げ出された〔身〕でありながら、〔あなたは〕比丘として、どのように為してゆくのですか」〔と〕。


436.(436) 〔長老は答えた〕「〔瞑想の境地がもたらす〕広大なる喜と楽によって〔この〕積身を充満して、たとえ、粗悪な〔境涯〕なるも〔それを〕征服しながら、〔人里離れた〕森に住むでありましょう。


437.(437) 七つの覚りの支分(七覚支)を修めつつ、〔五つの〕機能(五根)、および、〔五つの〕力(五力)を〔修めつつ〕、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)の微細さを成就した、煩悩なき者となり、〔人里離れた〕森に住むでありましょう。


438.(438) 諸々の汚れ(煩悩)から解脱した、濁りなき、清浄の心を、〔繰り返し〕何度となく注視しながら、煩悩なき者となり、〔人里離れた〕森に住むでありましょう。


439.(439) 〔かつて〕わたしに見い出された、それらの煩悩は、内も、外も、全てが、残りなく断ち切られました。しかして、ふたたび、生起することはありません。


440.(440) 〔心身を構成する〕五つの範疇(五蘊:物質的形態・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用)は遍く知られ、根元から断たれたものとして安立しています。苦しみの滅尽は獲得され、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しません」〔と〕。ということで――


 ……ナータカムニ長老は……。


6.1.12 ブラフマダッタ長老の詩偈


441.(441) 怒りなき者に、〔自己が〕調御された者に、こころ静かに生きる者に、どうして、怒りがあろう。正しい了知による解脱者にして寂静なる者に、そのような者に、〔どうして、怒りがあろう〕。


442.(442) 彼が、怒った者に怒り返すなら、それにより、まさしく、彼に、より悪しきことがある。怒った者に怒り返さずにいる者は、勝利し難き戦いに勝利する。


443.(443) 他者が激怒したのを知って〔そののち〕、彼が、気づきある者として、〔怒り返さず〕止み静まっているなら、〔彼は〕自己と、他者と、両者の義(利益)を行じおこなう。


444.(444) 自己と、他者と、両者を癒している彼を、彼ら、法(真理)の熟知者ならざる〔世の〕人たちは、「愚者である」と思いなす。


445.(445) それで、もし、あなたに、怒りが生起するなら、鋸の喩えを思い出せ。もし、味にたいする渇愛が生起するなら、子の肉の喩えを思い浮かべよ。


446.(446) それで、もし、おまえの心が、しかして、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、さらには、諸々の〔迷いの〕生存にたいし、走り行くなら、気づき(念)によって、すみやかに制御せよ――穀物を食べる悪しき家畜を〔制御する〕ように。ということで――


 ……ブラフマダッタ長老は……。


6.1.13 シリマンダ長老の詩偈


447.(447) 覆われたものに、雨が漏れ入る。開かれたものに、雨が漏れ入ることはない。それゆえに、覆われたものを開くように。このように、その〔開かれたもの〕に、雨が漏れ入ることはない。


448.(448) 世〔の人々〕は、死によって悩み苦しめられ、老によって取り囲まれ、渇愛の矢によって貫かれ、常に、欲求のために燻られている。


449.(449) 世〔の人々〕は、死によって悩み苦しめられ、さらには、老によって取り巻かれ、救い手なく、常に打ちのめされている――棒(罰)を得た盗賊のように。


450.(450) 死と病と老の三者は、火の集塊のようにやってくる。立ち向かうための力は存在せず、逃げ去るための速さは存在しない。


451.(451) 少なかろうと、あるいは、多かろうと、〔一〕日を、無駄ならざるものと為すように。その〔夜〕その夜を、〔無駄に〕捨棄するなら、彼の生命は、そのぶん、少なくなる。


452.(452) 歩いているとして、あるいは、また、立っているとして、あるいは、坐し臥すとして、最後の夜は、〔確実に〕近づいてくる。おまえに、〔気づきを〕怠るための時はない。ということで――


 ……シリマンダ長老は……。


6.1.14 サッバカーミン長老の詩偈


453.(453) この二足の者(人間)は、不浄で、悪臭があり、〔諸々の香料によって、悪臭から〕守られている。種々なる死骸(汚物)で遍く満ち、そこかしこから、〔汚物が〕流れ出ている。


454.(454) 隠れている鹿を奸計“わな”によって〔捕獲するように〕、魚を釣針によって〔捕獲する〕ように、猿を鳥餅によって〔捕縛する〕ように、〔迷える〕凡夫を、〔五つの欲望の対象が〕捕縛する。


455.(455) 意“こころ”が喜びとする、諸々の形態(色:眼の対象)、諸々の音声(声:耳の対象)、諸々の味感“あじわい”(味:舌の対象)、諸々の臭香“におい”(香:鼻の対象)、そして、諸々の感触(所触:身の対象)――これらの五つの欲望の対象(五妙欲)は、婦女の形姿のうちに見られる。


456.(456) 彼ら、〔欲に〕染まった心の〔迷える〕凡夫たちは、これら〔の婦女たち〕に仕え親しみ、おぞましき墓地を増大させ、さらなる〔迷いの〕生存を蓄積する。


457.(457) しかしながら、彼が、足で蛇の頭を〔避ける〕ように、これら〔の婦女たち〕を遍く避けるなら、〔常に〕気づきある彼は、世における、この執着を超克する。


458.(458) 諸々の欲望〔の対象〕のうちに危険を見て、離欲〔の境地〕を「平安である」と見て、一切の欲望〔の対象〕から出離し、わたしによって、煩悩の滅尽は得られた。ということで――


 ……サッバカーミン長老は……。


 六なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、ウルヴェーラ・カッサパ、さらには、テーキッチャカーリン長老、および、マハー・ナーガ、および、クッラ、マールキャ(マールキャプッタ)、サッパダーサカ(サッパダーサ)、カーティヤーナ、ミガジャーラ、ジェンタ(ジェンタ・プローヒタ)、スマナという呼び名を有する者、ナータカムニ、ブラフマダッタ、シリマンダ、および、サッバカーミン、八十四の詩偈があり、しかして、ここに、十四者の長老たちがある」と。


7 七なるものの集まり


7.1 第一の章


7.1.1 スンダラサムッダ長老の詩偈


459.(459) 〔見てくれを〕十分に作り為し、美しい衣をまとい、花飾りを〔身に〕付け、飾り立てられ、〔両の〕足に〔赤の〕染料を為した娼婦が、〔両の足に〕履物を履いて〔やってきた〕。


460.(460) 〔両の足の〕履物を脱いで、〔わたしの〕前で、合掌を為した彼女は、わたしに、優しく柔らかな〔声〕で、まずは微笑し、〔このように〕語った。


461.(461) 〔娼婦が言った〕「あなたは、若き出家者として存しています。わたしの教えに依って立ちなさい。人間のものとしてある諸々の欲望〔の対象〕を享受しなさい。わたしは、あなたに、富を与えましょう。真に、あなたのために、公言します(誓います)。あるいは、あなたのために、わたしは、〔誓いの〕火をもってきましょう。


462.(462) 〔わたしとあなたの〕両者が、棒(杖)を行き着く所とする、老いた者たちと成るであろうとき、〔わたしとあなたの〕両者もまた、出家しましょう。〔この世とあの世の〕両所において、幸運があります」〔と〕。


463.(463) しかして、合掌を為し、乞うている、その娼婦を見て――〔見てくれを〕十分に作り為し、美しい衣をまとっているが、〔悪意をもって〕仕掛けられた、死魔の罠のような〔彼女〕を〔見て〕――


464.(464) そののち、わたしに、根源のままに意を為すこと(如理作意:固定概念なく思い考えること)が生起した。〔世俗の〕危険は明らかと成り、厭離〔の思い〕は確立した。


465.(465) そののち、わたしの心は解脱した。見よ――法(事象)が見事に法(事象)たることを。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。ということで――


 ……スンダラサムッダ長老は……。


7.1.2 ラクンダカ・バッディヤ長老の詩偈


466.(466) アンバータカの園地の彼方にある、林の茂みのなかで、バッディヤ(人名)は、渇愛を根ごと引き抜いて、そこにおいて、まさしく、幸いなる者となり、〔独り〕瞑想する。


467.(467) 或る者たちは、諸々の小鼓で、諸々の琵琶で、さらには、諸々の銅鼓で、喜び楽しむ。しかしながら、わたしは、木の根元において、覚者(ブッダ)の教えに喜びある者となる。


468.(468) もし、覚者(ブッダ)が、わたしに、優れたものを与えるなら、しかして、その優れたものは、わたしによって得られるであろう。わたしは、一切世〔界〕の、身体の在り方についての気づき(念)を、常に収め取るであろう。


469.(469) 彼ら、形態(外見)によってわたしを量ってきた者たち――さらには、彼ら、音声(評判)によって〔わたしに〕従ってきた者たち――欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の支配に近づき行った、それらの人たちは、わたしのことを知らない。


470.(470) 遍きにわたり妨げある愚者は、しかして、内に知らず、かつまた、外に見ない――彼は、まさに、音声(評判)によって運ばれる。


471.(471) 外の果に見ある者は、しかして、内に知らず、しかるに、外に観察する――彼もまた、音声(評判)によって運ばれる。


472.(472) 妨げなく〔あるがままの〕見ある者は、しかして、内に覚知し、かつまた、外に観察する――彼は、音声(評判)によって運ばれない。ということで――


 ……ラクンダカ・バッディヤ長老は……。


7.1.3 バッダ長老の詩偈


473.(473) わたしは、独り子として存した。母に愛され、父に愛され、多くの掟と性行“おこない”によって、さらには、諸々の祈願によって、〔その結果として〕得られた者である。


474.(474) しかして、彼ら、〔わたしの〕義(利益)を欲し、益を求める、父と、母と、両者は、慈しみ〔の思い〕によって、わたしを、覚者(ブッダ)の近くに置いた。


475.(475) 〔母と父は言った〕「為すべきこと〔を為したこと〕から〔わたしたちに〕得られた、この子は、繊細ですが、安楽のうちに成長しました。〔世の〕主たる方(ブッダ)よ、〔わたしたちは〕この〔子〕を、勝者(ブッダ)の侍者として、あなたに布施します」〔と〕。


476.(476) しかして、教師(ブッダ)は、わたしを受け取って、アーナンダ(阿難:人名・ブッダの侍者)に、このことを説いた。〔世尊は言った〕「この〔子〕を、すみやかに出家させなさい。この〔子〕は、善き生まれの者と成るでしょう」〔と〕。


477.(477) 〔世の〕教師たる勝者は、わたしを出家させて、精舎に入った。そののち、わたしの心は、太陽が沈まないうちに解脱した。


478.(478) そののち、教師は、〔自らの瞑想の境地を〕無視して、坐禅から立ち上がった。「バッダ(人名)よ、来たれ」と、わたしに言ったが、それは、わたしにとって、〔戒の〕成就として存した。


479.(479) 生まれて七年で、わたしのばあい、〔戒の〕成就は得られた。三つの明知は獲得された。ああ、法(事象)が見事に法(事象)たることよ。ということで――


 ……バッダ長老は……。


7.1.4 ソーパーカ長老の詩偈


480.(480) 高楼の影で、無上なる方(ブッダ)が歩行〔瞑想〕をしているのを見て、そこで、彼のもとへと近しく赴いて、〔わたしは〕最上の人(ブッダ)を敬拝した。


481.(481) 衣料を一方の肩に掛けて、〔両の〕手を合わせて、一切の有情のなかの最上者たる〔世俗の〕塵を離れる方(ブッダ)に従い歩行〔瞑想〕をした。


482.(482) そののち、諸々の問いの熟知者たる知者(ブッダ)は、わたしに、諸々の問いを問い尋ねた。わたしは、驚愕もなく、恐怖もなく、教師(ブッダ)に説き示した。


483.(483) 如来(ブッダ)は、諸々の問いが答えられたとき、随喜し、比丘の僧団を顧みて、この義(意味)を語った。


484.(484) 〔世尊は言った〕「アンガ〔国〕には、マガダ〔国〕には、諸々の〔すばらしい〕利得があります。彼らの〔提供する〕、衣料、〔行乞の〕施食と、日用品(薬品)、臥坐〔具〕、〔歓迎の〕立礼と、適正〔なる接待〕を、この者(ソーパーカ長老)が受けるのです。彼らには、諸々の〔すばらしい〕利得があります」と。さらに、〔如来は〕説いた。


485.(485) 〔世尊は言った〕「ソーパーカ(人名)よ、今日以後は、わたしのところに、相見えるために、近しく赴きなさい。ソーパーカよ、まさしく、しかして、これが、あなたにとって、〔戒の〕成就として有れ」〔と〕。


486.(486) 生まれて七年で、わたしは、〔戒の〕成就を得て、最後の肉身“からだ”を保つ(死後、涅槃に行く)。ああ、法(事象)が見事に法(事象)たることよ。ということで――


 ……ソーパーカ長老は……。


7.1.5 サラバンガ長老の詩偈


487.(487) 〔わたしは〕諸々の葦を〔両の〕手で折って、小屋を作って〔そこに〕坐した(住んだ)。それにより、わたしには、〔世間一般の〕慣習(世俗:社会通念)から、「サラバンガ(葦を折る者)」という名前が有った。


488.(488) 今日、諸々の葦を〔両の〕手で折るのは、わたしにとって、適切ではない。福徳あるゴータマ(ブッダ)によって、諸々の学びの境処(戒律)が、わたしたちのために制定された〔からである〕。


489.(489) かつて、サラバンガ(人名)は、全体なるものとして、完全なるものとして、〔世の〕病を見なかった(世界の悩み苦しみに気づかなかった)。〔まさに〕その、この病は、天〔の神〕を超える方(ブッダ)の言葉を為すことで〔あるがままに〕見られた。


490.(490) まさしく、その道によって、〔過去仏の〕ヴィパッシンは、〔涅槃へと〕赴いたのであり――まさしく、その道によって、しかして、〔過去仏の〕シッキン、ヴェッサブーは、さらには、カクサンダとコーナーガマナ、カッサパは、〔涅槃へと赴いたのであり〕――〔まさに〕その、曲がりなき〔道〕によって、ゴータマ(ブッダ)は、〔涅槃へと〕赴いた。


491.(491) 〔これらの〕七者の覚者たちは、渇愛を離れ、執取なく、滅尽〔の境地〕に沈潜した者たちである。彼らによって、この法(教え)は、〔世に〕説示された――彼らのような、法(真理)〔そのもの〕と成った者たちによって。


492.(492) 生あるものたちへの慈しみ〔の思い〕によって、四つの聖なる真理(四聖諦)が〔説示された〕。苦しみが、〔苦しみの〕集起が、〔涅槃に至る〕道が、苦しみの消滅という止滅〔の境地〕が〔説示された〕。


493.(493) その〔真理〕において、〔生死の〕輪廻における終極なき苦しみは退転し、この身体の破壊ののちは、そして、生命の消滅ののちは、他の、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。〔わたしは〕一切所で、〔心が〕善く解脱した者として存している。ということで――


 ……サラバンガ長老は……。


 七なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「スンダラサムッダ長老、ラクンダカ・バッディヤ長老、および、バッダ長老、ソーパーカ長老、大いなる聖賢たるサラバンガ、七なるもの〔の集まり〕において、五者なる長老たちがあり、三十五の詩偈がある」と。


8 八なるものの集まり


8.1 第一の章


8.1.1 マハー・カッチャーヤナ長老の詩偈


494.(494) 〔世俗に関わる〕多くの行為(業)を為さないように。〔世俗に関わる〕人を遍く避けるように。〔俗事に〕努めないように。彼が、〔世俗の〕安楽をもたらす者となり、〔出家の〕義(目的)を遠ざけるなら、彼は、〔俗事に〕思い入れある者であり、味を貪る者である。


495.(495) すなわち、家々における、この敬拝と供養であるが、まさに、それを、〔賢者たちは〕「汚泥である」と知った。微細な矢は抜き難く、〔他者からの〕尊敬は、俗人には捨て難い。


496.(496) 他の人間の悪しき行為を、〔自己の行為と〕比べずして、自己みずから、その〔悪しき行為〕に親しまないように。まさに、人間たちは、行為の眷属である。


497.(497) 〔人は〕他者の言葉ゆえに、盗賊となるのではない。〔人は〕他者の言葉ゆえに、牟尼(沈黙の聖者)となるのではない。しかして、自己が、彼のことを知ったとおり、そのように、天〔の神々〕たちもまた、彼のことを知る。


498.(498) しかしながら、他者たちは、〔わたしたちが滅び行く存在であることを〕識知しない。わたしたちは、ここに、〔自らが滅び行く存在であることを識知して、自らを〕制するのだ。しかして、彼らが、そこに、〔自らが滅び行く存在であることを〕識知するなら、そののち、諸々の確執は静まる。


499.(499) 知慧を有する者は、たとえ、富の完全なる滅尽あるもまた、まさしく、生きて行く。しかして、知慧の利得なきなら、富める者もまた、生きて行けない。


500.(500) 〔人は〕一切を耳で聞く。〔人は〕一切を眼で見る。しかして、見られたものと聞かれたものの一切を廃棄するのは、慧者として、ふさわしくない(一切をあるがままに知り見るべきである)。


501.(501) 〔世の人々にとって〕眼ある者は、盲者のように、耳ある者は、聾者のように、存するであろう。〔世の人々にとって〕知慧ある者は、唖者のように、力ある者は、力弱き者のように、存するであろう。しかして、義(目的)が生起したとき、〔為すべきことを為した彼は〕死者の臥床に臥すであろう。ということで――


 ……マハー・カッチャーヤナ長老は……。


8.1.2 シリミッタ長老の詩偈


502.(502) 忿怒なく、怨恨なく、幻想なく、中傷〔の思い〕を遠ざけた者――まさに、彼は、如なる比丘、このように、死してのち、憂い悲しまない。


503.(503) 忿怒なく、怨恨なく、幻想なく、中傷〔の思い〕を遠ざけた者――常に〔感官の〕門が守られた比丘は、このように、死してのち、憂い悲しまない。


504.(504) 忿怒なく、怨恨なく、幻想なく、中傷〔の思い〕を遠ざけた者――善き戒あるその比丘は、このように、死してのち、憂い悲しまない。


505.(505) 憤怒なく、怨恨なく、幻想なく、中傷〔の思い〕を遠ざけた者――善き朋友たるその比丘は、このように、死してのち、憂い悲しまない。


506.(506) 憤怒なく、怨恨なく、幻想なく、中傷〔の思い〕を遠ざけた者――善き知慧あるその比丘は、このように、死してのち、憂い悲しまない。


507.(507) 彼の、如来にたいする信が、不動で、しっかりと確立しているなら――かつまた、彼の戒が、善きものであり、聖者に欲せられ、賞賛されているなら――


508.(508) 彼に、僧団にたいする清らかな信が存し、さらには、真っすぐと成った〔法の〕見が〔存する〕なら、彼を、〔賢者たちは〕「貧ならざる者」と言う。彼の生は、無駄ならざるもの。


509.(509) それゆえに、しかして、〔覚者にたいする〕信に〔専念し〕、さらには、戒に〔専念し〕、〔僧団にたいする〕清らかな信に〔専念し〕、法(真理)の見に専念するがよい――思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら。ということで――


 ……シリミッタ長老は……。


8.1.3 マハー・パンタカ長老の詩偈


510.(510) 教師(ブッダ)を、何ものも恐れない方(ブッダ)を、最初に見たとき、最上の人を見て、そののち、わたしには、畏怖〔の念〕(回心の思い)が有った。


511.(511) やってきた吉祥を、彼が、〔両の〕手と〔両の〕足で突き放すなら、彼は、このような教師に達しても、〔結局は〕失うことになる。


512.(512) そのとき、わたしは、しかして、子と妻を〔捨て放ち〕、さらには、財産と穀物を捨て放った。〔わたしは〕諸々の髪と髭を断ち切らせて、〔家から〕家なきへと出家した。


513.(513) 〔真の〕学びと正しい生き方(行持規定)を成就した者となり、諸々の〔感官の〕機能(根)において〔自己が〕善く統御された者となり、正覚者(ブッダ)を礼拝しながら、敗れることなき者として、〔わたしは〕住した。


514.(514) そののち、わたしには、誓願が存した。心には、切望が〔存した〕。「渇愛の矢が打破されないうちは、寸時でさえも、坐すことはないであろう」〔と〕。


515.(515) このように住している、〔まさに〕その、わたしの、精進と勤勉〔努力〕を見よ。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


516.(516) 〔わたしは〕過去(前世)の居住を知る。天眼は清められた。〔わたしは〕阿羅漢として、施与されるべき者として、〔世に〕存している。解脱者として、依り所なき者として、〔世に存している〕。


517.(517) そののち、夜の明け方、日の出に向けて、一切の渇愛を干上がらせて、結跏でもって〔覚者に〕近坐した(足を組み瞑想した)。ということで――


 ……マハー・パンタカ長老は……。


 八なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「マハー・カッチャーヤナ長老、シリミッタ、マハー・パンタカ、八なるものの集まりにおいて、これらの者たちがあり、二十四の詩偈がある」と。


9 九なるものの集まり


9.1 第一の章


9.1.1 ブータ長老の詩偈


518.(518) そこにおいて、無知なる凡夫たちが依存してきた、老と死は、苦しみである、と賢者が〔知り〕、苦しみを遍く知って、まさしく、気づきの者として、〔彼が〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕知らない。


519.(519) 苦しみをもたらす執着〔の思い〕を〔捨棄して〕、戯論の結索“しがらみ”(妄想の集起)という苦しみをもたらす渇愛〔の思い〕を捨棄して、まさしく、気づきの者として、〔彼が〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕知らない。


520.(520) 二つの「四つの支分あるもの」(四向四果:正覚に至る四階梯の各々における学びの境地と学び終えた境地)へと至る至福〔の道〕を、一切の〔心の〕汚れ(煩悩)を清める最上の道を、遍く知って、〔あるがままに〕見て、まさしく、気づきの者として、〔彼が〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕知らない。


521.(521) 憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、形成されたもの(有為)でなく、一切の〔心の〕汚れを清め、束縛するものと結縛するものを断ち切る、寂静の境処を、〔彼が〕修めるとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕知らない。


522.(522) 天空に、雨雲の雷鼓、鳴り響き、鳥道に、遍く、流雨、満ち溢れ、しかして、比丘が、まさしく、洞窟に赴き、〔独り〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕知らない。


523.(523) 花々に満ち溢れ、種々様々な灌木の花飾りある、諸々の川の岸辺に坐し、まさしく、意“こころ”楽しき者として、〔独り〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕知らない。


524.(524) 深夜、うらさびしい森のなかで、天が〔雷鳴を〕ガラガラと鳴り響かせ、牙ある〔獅子〕たちが吼え叫び、しかして、比丘が、まさしく、洞窟に赴き、〔独り〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕知らない。


525.(525) 自己の、諸々の思考を破壊して、山の〔岩の〕裂け目に依拠した者が、山間において、まさしく、懊悩を離れ、鬱屈“わだかまり”を離れた者として、〔独り〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕知らない。


526.(526) 安楽の者、〔世俗の〕垢と鬱屈と憂い〔の思い〕を滅ぼす者、〔無明の〕閂なき者、〔欲の〕林叢“したばえ”なき者、〔渇愛の〕矢を抜いた者、まさしく、一切の煩悩の終息を為した者として、〔独り〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕知らない。ということで――


 ……ブータ長老は……。


 九なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「真実の見者たるブータ長老が、独り、歳の角たる者としてあり、九なるものの集まりにおいて、これらの九つの詩偈もまたある」と。


10 十なるものの集まり


10.1 第一の章


10.1.1 カールダーイン長老の詩偈


527.(527) 〔旅立つ世尊に、長老は詩偈を唱えた〕「尊き方よ、今や、木々は赤くなり、果を求め、覆“おおい”(葉)を捨棄して、それらは、火炎のように、〔四辺を〕照らします。偉大なる勇者よ、〔今や〕諸々の味を分け合う時です。


528.(528) 〔花が〕咲き意が喜びとする木々、葉を捨棄して果を願う〔木々〕は、一切の方角に、遍きにわたり、咲き香ります。勇者よ、〔今や〕ここから立ち去る時です。


529.(529) 寒すぎることも、まさしく、ありません。また、暑すぎることもありません。尊き方よ、旅に適した、安楽なる季節です。サーキヤ〔族〕の者たちは、そして、コーリヤ〔族〕の者たちは、ローヒニー〔川〕の西側へと超え渡る、あなた〔の姿〕を見よ。


530.(530) 願望あることから、〔耕作者は〕田畑を耕します。願望あることから、種子は蒔かれます。願望あることから、財を運ぶ商人たちは、海を行きます。〔まさに〕その、願望あることから、〔わたしが〕依って立つ、わたしの、その願望は、栄えあれ。


531.(531) まさしく、しかして、繰り返し、種子を蒔きます。天の王は、繰り返し、雨を降らせます。耕作者たちは、繰り返し、田畑を耕します。穀物は、繰り返し、国土へと近づき行きます(国土に収穫をもたらす)。


532.(532) 〔食を〕乞う者たちは、繰り返し、〔村や町を〕歩みます。〔在家の〕施主たちは、繰り返し、〔食べ物や飲み物を〕施します。〔在家の〕施主たちは、繰り返し、〔食べ物や飲み物を〕施して、繰り返し、天上へ、〔善き〕境位へと、近づき行きます。


533.(533) その家に、広き知慧ある者が生まれるなら、〔生まれた〕勇者は、まさに、七代〔の父母〕を清めます。サッカ(釈迦)〔族〕の者(ブッダの父、浄飯王)よ、わたしは、〔あなたを〕『天のなかの天である』と思います。なぜなら、あなたによって、真の名ある方が、牟尼(ブッダ)が、生まれたからです。


534.(534) 偉大なる聖賢(ブッダ)の父は、スッドーダナという名の者です。また、覚者(ブッダ)の母は、マーヤーという名の者です。彼女は、菩薩(ブッダ)を子宮で守って、〔自らの〕身体の破壊ののち、三十三〔天〕において、喜び楽しみます。


535.(535) 彼女は、ゴータミー(マーヤー)は、命を終え、ここから死に行き、天の諸々の欲望〔の対象〕を保有する者と成ったのです。彼女は、彼ら、天の衆たちに取り囲まれ、五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)によって、喜び楽しみます。


536.(536) 〔わたしは〕覚者の子(仏弟子)として存しています――〔誰も〕成し遂げられないことを成し遂げる方の〔子として〕、比類なきアンギーラサ(古代の神人、ブッダの尊称の一つ)にして如なる方の〔子として〕。サッカ〔族〕の方(ブッダ)よ、あなたは、わたしの父の父として存しています。ゴータマ(ブッダ)よ、法(教え)によって、〔あなたは〕わたしの祖父として存しています」〔と〕。ということで――


 ……カールダーイン長老は……。


10.1.2 エーカ・ヴィハーリヤ長老の詩偈


537.(537) 前に、あるいは、また、後に、〔修行の妨げとなる〕他の者が、もし、見い出されないなら、林のなかで独り住んでいる者にとって、〔その場所は〕あまりに極めて平穏なる〔場所〕と成る。


538.(538) さあ、〔わたしは〕独り、林へと行くのだ――覚者(ブッダ)によって褒め称えられた〔林〕へと――独り住む者にとって、自己を精励する比丘にとって、平穏なる〔場所〕へと。


539.(539) 〔心の〕制止者(瞑想修行者)が喜びと為し〔心が〕喜ぶべき〔森〕へと、発情した象が慣れ親しむところの森へと、〔わたしは〕独り、義(道理)に自在なる者となり、すみやかに入るであろう。


540.(540) 見事に花ひらいたシータ林(寒林:地名・死体置き場)にある、涼やかな山窟で、四肢に〔水を〕注いで〔身を清め〕、〔わたしは〕独りある者となり、歩行〔瞑想〕をするであろう。


541.(541) 〔心が〕喜ぶべき、大いなる林のなかで、伴侶なき独一者となり、何時、わたしは、為すべきことを為した煩悩なき者として、住むのだろう。


542.(542) このように、為すことを欲する、わたしの志は、栄えあれ。わたしこそが、〔その志を〕為し遂げるであろう。他者は、他者のために為す者にあらず(自己のみが、自己のことを為す)。


543.(543) この〔わたし〕は、甲冑を装着し、森へと入るであろう。煩悩の滅尽を得ることなく、その〔森〕から出ることはないであろう。


544.(544) 芳しい香りの、涼やかな風が、吹き渡るとき、〔わたしは〕山の頂きに坐し、無明を破るであろう。


545.(545) 花に覆われた林の、涼やかな洞窟で、まちがいなく、〔ここ〕ギリッバジャ(地名・王舎城の別名)で、解脱の安楽を楽しむ者となり、喜び楽しむであろう。


546.(546) 〔まさに〕その、わたしは、十五〔夜〕の月のように、〔正しい〕思惟を円満成就した者であり、一切の煩悩が完全に滅尽した者であり、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。ということで――


 ……エーカ・ヴィハーリヤ長老は……。


10.1.3 マハー・カッピナ長老の詩偈


547.(547) 彼が、未来の、益ある義(目的)と、益なき〔義〕と、その二つを、前もって見るなら、彼に憎しみある者たちは、あるいは、〔彼の〕益を求める者たちも、〔彼を〕正視しつつ、〔彼の〕欠点を見ない。


548.(548) 彼の、呼吸の気づき(持息念・安般念:入息と出息についての気づきの実践)が円満成就し、善く修められ、覚者(ブッダ)によって説示されたとおり、順次に蓄積されたなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。


549.(549) まさに、わたしの心は、白く〔純粋で〕、無量なるものとなり、善く修められた。〔あるがままに〕洞察され、かつまた、〔しっかりと〕励起された〔わたしの心〕は、一切の方角に光り輝く。


550.(550) 知慧を有する者は、たとえ、富の完全なる滅尽あるもまた、まさしく、生きて行く。しかして、知慧の利得なきなら、富める者もまた、生きて行けない。


551.(551) 知慧は、聞かれたもの〔の正邪〕を判別するものである。知慧は、栄誉と名声を増大するものである。知慧を伴った人は、この〔世において〕、たとえ、諸々の苦しみのなかにあっても、諸々の安楽を見い出す。


552.(552) この法(真理)は、今日〔限り〕のものにあらず、稀有なるものにあらず、また、未曾有のものにあらず。そこに、〔人が〕生まれるなら、〔いずれ〕死ぬことになる。そこに、どのような未曾有のようなものがあるというのだろう。


553.(553) まさに、生まれた者には、生まれてからのち、常に、無間“むけん”の死がある。生まれた者たち、生まれた者たちは、この〔世において〕、〔いずれ〕死ぬ。まさに、このように、生ある者たちの法(真理)はある。


554.(554) それが、〔残された〕他の人たちにとって、生の義(利益)として〔有る〕なら、まさに、これは、死んだ者の義(利益)のために有るのではない。死んだ者について泣き悲しんだとて、福徳にあらず、世理にあらず、沙門や婆羅門たちの褒め称えるところにあらず。


555.(555) それにより、眼と肉体を壊し去る。色艶と力は衰退し、かつまた、思慧も〔衰退する〕。彼の敵たちは、喜びある者たちと成り、彼の益を求める者たちは、楽しみある者たちと成らない。


556.(556) それゆえに、まさに、〔善き〕家に住んでいる、まさしく、しかして、思慮ある者たちを、さらには、多聞の者たちを、求めるがよい。まさに、彼らの、〔迷いの〕生存から離れる知慧によって、〔水の〕満ちた川を舟で超え渡るように、為すべきことを〔為すがよい〕。ということで――


 ……マハー・カッピナ長老は……。


10.1.4 チューラ・パンタカ長老の詩偈


557.(557) わたしのばあい、〔物事の〕赴く所は、〔常に〕遅きものとして存していた(何をやるにも時間がかかった)。かつて、わたしは、〔人々に〕貶められていた。しかして、兄は、わたしを、〔僧園から〕追い出した。「今や、おまえは、家に行け(還俗せよ)」〔と〕。


558.(558) 〔まさに〕その、わたしは、〔僧園から〕追い出され、僧園の門小屋に存しつつ、失意の者となり、そこに立っていた――〔覚者の〕教えに〔いまだ〕期待ある者として。


559.(559) そこに、世尊(ブッダ)がやってきた。わたしの頭を撫で、わたしの腕を掴んで、僧園へと導き入れた。


560.(560) 教師(ブッダ)は、慈しみ〔の思い〕によって、わたしに、足を拭く〔布〕を与えた。「この〔不浄なる布〕を、清浄なるものとして、〔心に〕確立しなさい――一面に善く確立されたものとして」〔と〕。


561.(561) 彼の言葉を聞いて、わたしは、〔覚者の〕教えに喜びある者として住した。最上の義(目的)を得るために、〔心の〕統一(定:三昧の境地)を実践した。


562.(562) 〔わたしは〕過去(前世)の居住を知る。天眼は清められた。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


563.(563) パンタカ(人名)は、千回、自己〔の姿〕を化作“けさ”して(千体の化身を造作した)、美しいアンバ〔樹〕の林に坐した――〔供養の〕時の知らせがあるまで。


564.(564) そののち、教師は、わたしのために、〔供養の〕時を知らせる使者を送った。〔供養の〕時が知らされたとき、〔わたしは〕宙に〔跳び上がって〕、〔世尊のもとへと〕近しく赴いた。


565.(565) 教師の〔両の〕足を敬拝して、わたしは、一方に坐した。〔一方に〕坐したわたしを知って、しかして、教師は、〔わたしを〕迎え取った。


566.(566) 〔世尊は〕一切世〔界〕にとって祭祀〔の対象〕となる方であり、諸々の捧げものを迎え取る方である。人間たちにとって供養の田畑(福田)となる方は、施物を迎え取った。ということで――


 ……チューラ・パンタカ長老は……。


10.1.5 カッパ長老の詩偈


567.(567) 種々雑多な垢(汚物)で満ち溢れ、大量の糞便が発生し、発酵したどぶ池のように、大きな腫物があり、大きな傷(穴)があり――


568.(568) 膿と血で満ち溢れ、糞坑に沈み込み、〔汚〕水が流れ出る、〔この〕身体は、常に、腐った〔水〕が流れている。


569.(569) 六十の筋で結び縛られ、肉の塗装で塗り固められ、皮の鎧で結び付けられた、〔この〕腐った身体は、義(利益)なきものである。


570.(570) 骨の結索で結び束ねられ、腱の糸で結び縛られたものにして、幾多のものの結合の状態あることから、振る舞いの道を〔種々に〕営む(行住坐臥の行為がある)。


571.(571) 常に、死へと過ぎ去り、死魔の王の現前にある――まさしく、この〔世において〕、〔身体を〕捨て放って、欲するままに行く人として。


572.(572) 無明に覆われ、四つの拘束(四繋・四縛:強欲・加害の思い・戒や掟への執着・「これは真理である」という固着)に拘束されたもの――〔それが〕身体である。激流に沈み、悪習(随眠)の網に覆われたもの――〔それが〕身体である。


573.(573) 五つの〔修行の〕妨害“さまたげ”(五蓋:欲の思い・加害の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)に束縛され、思考(尋)に組み敷かれ、渇愛の根に従い行き、迷妄の覆に覆われたもの――〔それが身体である〕。


574.(574) 行為(業)という〔虚妄の〕機関“からくり”(条件づけされ機械化された行為のあり方)に操作されたもの――〔それが身体である〕。このように、この身体は転起する。しかして、〔物事の〕得達は、衰滅という終極あるものであり、種々なる生存は、〔常に〕衰滅する。


575.(575) 彼ら、この身体をわがものと〔錯視〕する、暗愚の凡夫たち――〔彼らは〕おぞましき墓地を増大させ、さらなる〔迷いの〕生存を執取する。


576.(576) 彼ら、この身体を、糞に汚れた蛇であるかのように避ける者たち――〔彼らは〕生存の根元を吐き捨てて、煩悩なき者たちとなり、完全なる涅槃に到達するであろう。ということで――


 ……カッパ長老は……。


10.1.6 ウパセーナ・ヴァンガンタプッタ長老の詩偈


577.(577) 騒音少なく、〔人里から〕遠離した、猛獣の慣れ親しむところである、〔そのような〕臥坐所に、比丘は、慣れ親しむがよい――坐禅を動機とするがゆえに。


578.(578) 塵芥場“ごみすてば”から、墓場から、そして、道々から、〔ぼろ布を〕持ち運んで、そののち、大衣を作って、粗悪な衣料を〔身に〕保つがよい。


579.(579) 謙虚に意を為して、歩々淡々と、家から家へと、〔感官の〕門が守られ、〔自己が〕善く統御された者として、比丘は、〔行乞の〕食のために歩むがよい。


580.(580) あるいは、たとえ、粗悪なものでも、満ち足りているがよい。他に、多くの味を、望まぬがよい。諸々の味について貪りある者の意は、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)において喜ぶことがない。


581.(581) 牟尼(沈黙の聖者)は、まさしく、しかして、求むこと少なき者として、〔常に〕満ち足りている遠離の者として、住するがよい――在家の者たち、および、家なき者たちと、〔その〕両者と交わることなく。


582.(582) まさしく、痴者としてあり、まさしく、唖者としてあるかのように、そのように、自己を見せるがよい。賢者は、僧団の中において、限度を超えて語らぬがよい。


583.(583) 彼は、誰であろうと、批判せぬがよい。害することを避けるがよい。戒め(波羅提木叉:戒律条項)において〔自己が〕統御された者として、さらには、食について量を知る者として、存するがよい。


584.(584) 形相(瞑想対象)を善く収め取った者として、心の生起を熟知する者として、存するがよい。〔心の〕止寂(奢摩他・止)に専念するがよい。しかして、〔正しい〕時に、〔心の〕観察(毘鉢舎那・観)に〔専念するがよい〕。


585.(585) 精進の常恒を成就した者(不退転の修行者)として、〔心の〕制止(瑜伽)に専念する者として、常に、存するがよい。しかして、賢者は、苦しみの終極を得ずして、確信〔の思い〕に至らぬがよい。


586.(586) このように住している〔比丘〕の、清浄〔の境地〕を欲する比丘の、一切の煩悩は滅尽し、しかして、〔彼は〕寂滅〔の境地〕に到達する。ということで――


 ……ウパセーナ・ヴァンガンタプッタ長老は……。


10.1.7 他のゴータマ長老の詩偈


587.(587) 自らの義(目的)を識知するように。〔覚者の〕言葉に注目するように。しかして、ここに、それが、沙門の資質に到達した者にとって、適切なこととして存するなら。


588.(588) しかして、この〔世において〕善き朋友であること、広大なる学び〔の境処〕(戒律)を受持すること、そして、導師たちの〔言葉を〕聞こうとすること――これは、沙門にとって、適切なことである。


589.(589) 覚者たちにたいし尊重〔の思い〕を有すること、法(教え)にたいし事実のとおりに敬恭すること、そして、僧団にたいし心を為すこと――これは、沙門にとって、適切なことである。


590.(590) 〔正しい〕行状と〔正しい〕境涯に専念すること、清らかで非難されない生き方あること、そして、心を確立すること――これは、沙門にとって、適切なことである。


591.(591) 〔善を〕行じおこなうこと、しかして、〔悪を〕避けること、〔正しい〕振る舞いの道あること、清らかな信あること、そして、向上の心(瞑想)に専念すること――これは、沙門にとって、適切なことである。


592.(592) 牟尼が慣れ親しむべき、騒音少なく、辺境の、諸々の林にある臥坐所――これは、沙門にとって、適切なことである。


593.(593) しかして、戒、さらには、多聞、諸々の法(教え)の事実のとおりの精査、諸々の真理の知悉(現観)――これは、沙門にとって、適切なことである。


594.(594) しかして、「〔一切は〕常住ならざるもの(無常)である」と〔知って〕、「〔一切は〕自己ならざるもの(無我)である」という想い(無我想)、および、「〔一切は〕美しくない(価値がない)」という想い(不浄想)、そして、世〔の俗事〕に喜びなきを修めるなら――これは、沙門にとって、適切なことである。


595.(595) しかして、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)、〔四つの〕神通の足場(四神足)、〔五つの〕機能(五根)と〔五つの〕力(五力)、聖なる八つの支分ある道(八正道)を修めるなら――これは、沙門にとって、適切なことである。


596.(596) 牟尼となり、渇愛を捨棄し、諸々の煩悩を根ごと破り去るなら、解脱者となり、〔世に〕住するなら――これは、沙門にとって、適切なことである。ということで――


 ……ゴータマ長老は……。


 十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、カールダーイン長老、および、エーカ・ヴィハーリン(エーカ・ヴィハーリヤ)、カッピナ、チューラ・パンタカ、および、カッパ、および、ウパセーナ(ウパセーナ・ヴァンガンタプッタ)、ゴータマ、十なるものの集まりにおいて、これらの七者の長老たちがあり、しかして、ここに、七十の詩偈がある」と。


11 十一なるものの集まり


11.1 第一の章


11.1.1 サンキッチャ長老の詩偈


597.(597) 親愛なる者よ、あなたにとって、雨期に――ウッジュハーナ〔鳥〕のように――林〔に住むこと〕に、何の義(目的)があるというのだろう。あなたには、諸々の喜ぶべき季節の風がある。まさに、瞑想者たちには、遠離〔の境地〕がある。


598.(598) 雨期に、風が、季節の風が、諸々の雲を除き去るように、遠離と結び付いた、わたしの諸々の想い(想:表象・概念)は、〔貪りの思いを〕押し流す。


599.(599) 墓所を家としてうろつきまわる、卵生にして無白なる〔烏〕は、わたしの、肉身“からだ”にたいする気づき(念)を、離貪に依拠した〔気づき〕を、まさしく、生起させる。


600.(600) しかして、彼を、他者たちが守ることもなく、さらには、彼が、他者たちを守ることもなく、まさに、比丘である彼は、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者となり、安楽に臥す。


601.(601) 澄んだ水をたたえ、広々とした岩盤があり、黒面の猿や鹿が群れつどい、水と苔に覆われた、それらの巌“いわお”は、わたしを喜ばせる。


602.(602) 諸々の林に、諸々の石窟に、さらには、諸々の洞窟に、諸々の辺境の臥坐所に、猛獣の慣れ親しむところに、わたしは住した。


603.(603) 「これらの生あるものたちは、殺害されてしまえ、屠殺されてしまえ、苦しみを得よ」〔という〕、〔心の〕汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を伴った聖ならざる思惟を、〔わたしは、自らのうちに〕識知しない。


604.(604) わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、覚者(ブッダ)の教えは為された。重き荷は安置され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。


605.(605) しかして、〔まさに〕その義(目的)のために、家から家なきへと出家したところの、一切の束縛するものの滅尽という、その義(目的)は、わたしによって獲得された。


606.(606) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。


607.(607) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、正知と気づきの者として、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。ということで――


 ……サンキッチャ長老は……。


 十一なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「サンキッチャ長老が、まさしく、独り、為すべきことを為した者として、煩悩なき者としてあり、十一なるものの集まりにおいて、まさしく、十一の詩偈がある」と。


12 十二なるものの集まり


12.1 第一の章


12.1.1 シーラヴァント長老の詩偈


608.(608) 戒こそを、この〔世において〕、学ぶように――この世において、善く学ばれたものとして。なぜなら、慣れ親しまれた戒は、一切の得達を授けるからである。


609.(609) 賞賛を、さらには、富を得ることを、死してのちの天上における歓喜を、〔これらの〕三つの安楽を望んでいる者は、思慮ある者となり、戒を守るように。


610.(610) まさに、戒ある者は、自制によって、多くの朋友たちに到達する。いっぽうで、戒に劣る者は、悪を行じおこないつつ、朋友たちから離脱する。


611.(611) しかして、名誉ならざることを、さらには、栄誉ならざることを、戒に劣る人は得る。戒ある者は、名誉、栄誉、そして、賞賛を、常に得る。


612.(612) 戒は、諸々の善きことの、最初となるものであり、しかして、立脚するものであり、さらには、母源となるものであり、一切の諸法(教え)の頂点となるものである。それゆえに、戒を清めるように。


613.(613) 戒は、しかして、〔行ないの〕限度となるものであり、〔自己を〕統御するものであり、心の輝きとなるものであり、さらには、一切の覚者たちの沐浴場となるものである。それゆえに、戒を清めるように。


614.(614) 戒は、比類なき力である。戒は、最上の武器である。戒は、最勝の装飾品である。戒は、未曾有の鎧である。


615.(615) 戒は、強力な橋である。戒は、無上の香りである。戒は、それによって、方々に香りただよう、最勝の香料である。


616.(616) 戒は、まさしく、至高の糧食である。戒は、最上の路銀である。戒は、それによって、方々に至り行く、最勝の運び手である。


617.(617) 諸戒において、〔心が〕定められていない愚者は、一切所で失意の者となる。まさしく、この〔世において〕、非難を得る。しかして、死してのち、悪所(地獄)において、失意の者となる。


618.(618) 諸戒において、〔心が〕善く定められた慧者は、一切所で悦意の者となる。まさしく、この〔世において〕、栄誉を得る。しかして、死してのち、天上において、悦意の者となる。


619.(619) 戒こそは、この〔世において〕、至高なるものである。また、知慧ある者は、〔世における〕最上者である。しかして、人間たちのなかにおいて、天〔の神々〕たちのなかにおいて、戒と知慧あるがゆえに、〔常に〕勝利する者となる。ということで――


 ……シーラヴァント長老は……。


12.1.2 スニータ長老の詩偈


620.(620) 卑しき家に生まれたわたしは、貧しく、食に乏しき者として〔世に有った〕。わたしの行為(業)は下劣なものとして存し、〔わたしは〕花を捨てる者(汚物の清掃者)として〔世に〕有った。


621.(621) 人間たちの忌避するところであり、かつまた、貶められ、誹られた。意を低く為して、多くの人を敬拝した。


622.(622) しかして、〔わたしは〕見た――正覚者(ブッダ)を、比丘の僧団の尊ぶところの方を、マガダ〔国〕の最上の都に入り行く偉大なる勇者を。


623.(623) 〔わたしは〕天秤棒を置き去りにして、〔覚者を〕敬拝するために近しく赴いた。まさしく、わたしのために、最上の人(ブッダ)は、慈しみ〔の思い〕によって、〔その場に〕立ち止まった。


624.(624) 教師の〔両の〕足を敬拝して、一方に立ち、そのとき、わたしは、一切の有情のなかの最上者たる方に、出家を懇願した。


625.(625) そののち、一切世〔界〕に慈しみ〔の思い〕ある、慈悲の教師は、「比丘よ、来たれ」と、わたしに言ったが、それは、わたしにとって、〔戒の〕成就として存した。


626.(626) 〔まさに〕その、わたしは、独り、林に住しながら、休むことなく、教師の言葉を為した――勝者(ブッダ)が、わたしに教え諭したとおりに。


627.(627) 〔その〕夜の初更(宵の内)に、〔わたしは〕過去(前世)の生を思念した(想起した)。〔その〕夜の中更(真夜中)に、〔わたしは〕天眼を清めた。〔その〕夜の後更(明け方)に、〔わたしは〕闇の集塊“かたまり”を破った。


628.(628) そののち、夜の明け方、日の出に向けて、インダ〔神〕(インドラ神)、および、梵〔天〕(ブラフマー神)がやってきて合掌し、わたしを礼拝した。


629.(629) 〔天の神々たちは言った〕「善き生まれの人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。敬愛なる方よ、〔まさに〕その、あなたの、諸々の煩悩は滅尽し、〔あなたは〕施与されるべき者として〔世に〕存しています」〔と〕。


630.(630) そののち、教師(ブッダ)は、天〔の神々〕の群れに尊ばれるわたしを見て、笑みを浮かべて、この義(意味)を語った。


631.(631) 〔世尊は言った〕「苦行によって、梵行(禁欲清浄行)によって、自制によって、そして、調御によって――これによって、婆羅門と成ります。これが、最上の婆羅門〔の境地〕です」〔と〕。ということで――


 ……スニータ長老は……。


 十二なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「シーラヴァントと、スニータと、これらの二者の大いなる神通ある長老たちがあり、十二なるものの集まりにおいて、まさしく、二十四の詩偈がある」と。


13 十三なるものの集まり


13.1 第一の章


13.1.1 ソーナ・コーリヴィサ長老の詩偈


632.(632) 彼は、アンガ王の臣下として、国土において高みにのぼった者として有った。〔まさに〕その、ソーナ(人名)は、今日、諸々の法(教え)において高みにのぼった者であり、苦しみの彼岸に至る者である。


633.(633) 五つ〔の束縛〕(修行者を欲界に縛る五つの束縛)を断つように。五つ〔の束縛〕(修行者を色界と無色界に縛る五つの束縛)を捨棄するように。くわえて、また、五つ〔の機能〕(信・精進・気づき・心の統一・知慧)を修めるように。五つの執着(貪欲・憤怒・迷妄・思量・見解)を超え行く比丘は、「激流を超え渡った者」と呼ばれる。


634.(634) 傲慢で〔気づきを〕怠り、外のことに願望ある比丘の、戒、〔心の〕統一(定:三昧の境地)、そして、知慧は、円満成就に至らない。


635.(635) まさに、その為すべきことであるが、〔それは〕捨てられ、いっぽうで、為すべきでないことを為すなら、傲慢で〔気づきを〕怠る彼らの、諸々の煩悩は増え行く。


636.(636) しかしながら、彼らに、善く努め励み、常に、身体の在り方(時々刻々の身体の状況)についての気づき(念)があるなら、彼らは、諸々の為すべきことを常に為す者たちであり、為すべきでないことには親しまない。気づきと正知の者たちの、諸々の煩悩は〔自ずと〕滅却に至る。


637.(637) 真っすぐな道が告げ知らされたなら、行け――退くことがあってはならない。自己によって自己を叱咤し、涅槃へと〔歩を〕運ぶように。


638.(638) 〔わたしが〕精進に励み過ぎたとき、世における無上なる教師にして眼“まなこ”ある方(ブッダ)は、琵琶の喩え(琵琶は、弦を張り過ぎても弛め過ぎても、良い音は出ない)を用いて、わたしに、法(真理)を説示した。彼の言葉を聞いて、わたしは、〔覚者の〕教えに喜びある者として住した。


639.(639) 〔わたしは〕最上の義(目的)を得るために、〔心の〕止寂を実践した。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


640.(640) 離欲〔の境地〕を信念したなら、しかして、心の遠離を〔信念したなら〕、加害〔の思い〕なきを信念したなら、しかして、執取〔の思い〕が滅尽したなら――


641.(641) 渇愛の滅尽を信念したなら、しかして、心の迷妄なきを〔信念したなら〕、〔認識の〕場所(処:認識対象としての色・声・香・味・触・法)の生起を〔あるがままに〕見て、心は、正しく解脱する。


642.(642) 彼には、正しく解脱した寂静心の比丘には、為したことの蓄積(業の蓄積)は存在せず、〔もはや〕為すべきことは見い出されない。


643.(643) 一なる堅き巌が、風に動かないように、このように、諸々の形態(色:眼の対象)、諸々の味感“あじわい”(味:舌の対象)、諸々の音声(声:耳の対象)、諸々の臭香“におい”(香:鼻の対象)、そして、諸々の接触(触:身の対象)は、〔その〕全部が、〔そのような者の心を動かさない〕。


644.(644) 諸々の好ましい法(事象)は、さらには、諸々の好ましくない〔法〕も、そのような者の〔心を〕動かさない。束縛を離れ、〔真実に〕安立した、彼の心は、しかして、〔物事の〕衰微を〔あるがままに〕随観する。ということで――


 ……ソーナ・コーリヴィサ長老は……。


 十三なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「ソーナ・コーリヴィサ長老が、まさしく、独り、大いなる神通ある者としてあり、十三なるものの集まりにおいて、しかして、ここに、十三の詩偈がある」と。


14 十四なるものの集まり


14.1 第一の章


14.1.1 カディラヴァニヤ・レーヴァタ長老の詩偈


645.(645) 家から家なきへと出家した者として、わたしがあるとき、汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を伴った聖ならざる思惟を、〔わたしは、自らのうちに〕識知しない。


646.(646) 「これらの生あるものたちは、殺害されてしまえ、屠殺されてしまえ、苦しみを得よ」〔という〕思惟を、この長らくの間、〔わたしは、自らのうちに〕識知しない。


647.(647) しかして、善く修められた無量なる慈愛〔の心〕を、〔わたしは、自らのうちに〕証知する。覚者(ブッダ)によって説示されたとおり、順次に蓄積された〔慈愛の心〕を。


648.(648) 全ての者の朋友として、全ての者の友として、一切の生類にたいし慈しみ〔の思い〕ある者として、しかして、常に、加害〔の思い〕なきを喜ぶ者として、〔わたしは〕慈愛の心を修める。


649.(649) 不動で動揺なき心を、わたしは喜ぶ。俗人の慣れ親しむところにあらざる、梵住〔の境地〕(慈悲喜捨の四無量心)を、〔わたしは〕修める。


650.(650) 思考なき〔境地〕に入定した、正自覚者(ブッダ)の弟子は、まさしく、ただちに、聖なる沈黙の状態を具した者と成る。


651.(651) また、山の巌が、動揺せず、しっかりと確立しているように、このように、迷妄の滅尽あることから、比丘は、山のように、〔何ものにも〕動じない。


652.(652) 常に清らかさを求めている、穢れなき人には、毛先ばかりの悪でも、まさしく、雲ほどに見えてしまう。


653.(653) 辺境にある、内外共に守られた城市のように、このように、自己を守るがよい。まさに、〔いかなる〕時節であろうが、〔無駄に〕過ぎ行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。


654.(654) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。


655.(655) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、正知と気づきの者として、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。


656.(656) わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、覚者(ブッダ)の教えは為された。重き荷は安置され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。


657.(657) しかして、〔まさに〕その義(目的)のために、家から家なきへと出家したところの、一切の束縛するものの滅尽という、その義(目的)は、わたしによって獲得された。


658.(658) 〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)で、〔道を〕成就するように。これが、わたしの教示である。さあ、わたしは、完全なる涅槃に到達するであろう。〔わたしは〕一切所で、解脱者として存している。ということで――


 ……カディラヴァニヤ・レーヴァタ長老は……。


14.1.2 ゴーダッタ長老の詩偈


659.(659) また、善き生まれの賢〔馬〕が、諸々の荷を結び付けられ、荷に耐えつつ、過度の重荷で乱れながらも、〔装着された〕引き具を過ぎ行くことがないように――


660.(660) このように、彼らが、水に〔満ち溢れた〕海のように、知慧に満ち足りていながらも、他者たちを軽んじることがないなら、〔これは〕生ある者たちにとって、まさしく、聖なる法(真理)である。


661.(661) 〔輪廻の〕時において時の支配を得た者たち、〔迷いの〕生存において生存の支配に赴いた者たち――彼ら、若くある人たちは、苦を受け、この〔世において〕、憂い悲しむ。


662.(662) 楽しみの法(事象)によって傲慢になった者たち、苦しみの法(事象)によって卑屈になった者たち――愚者たちは、〔物事を〕事実のとおりに見ることなく、〔楽しみと苦しみの〕二者によって打ちのめされる。


663.(663) しかしながら、彼らが、苦しみにおいて、そして、楽しみにおいて、〔その〕中間において、貪愛〔の思い〕を超え行ったなら、彼らは、インダ(インドラ神)の杭(城門に立てられた標柱)のように安立した者となる。彼らは、傲慢でも卑屈でもない。


664.(664) まさしく、まさに、利得に〔汚され〕ず、利得なき〔汚され〕ず、名声に〔汚され〕ず、かつまた、栄誉に〔汚され〕ず、彼らは、非難と賞賛に〔汚され〕ず、かつまた、苦しみと楽しみに〔汚され〕ない。


665.(665) 彼らは、蓮〔の葉〕にある水の滴“しずく”のように、一切所に汚されない。一切所に楽しみある勇者たちであり、一切所に敗者ならざる者たちである。


666.(666) 〔まさに〕その、法(正義)による利得なきと、〔まさに〕その、法(正義)にかなわない利得とがあるとして、もし、それが、法(正義)にかなわない利得であるなら、法(正義)にかなう利得なきのほうが、より勝っている。


667.(667) 覚慧少なき者たちの名声と、〔まさに〕その、識者たちの名声なきとがあるとして、まさしく、識者たちの名声なきのほうが、より勝“まさ”っている――覚慧少なき者たちの名声ではなく。


668.(668) 思慮浅き者たちによる賞賛と、〔まさに〕その、識者たちによる非難とがあるとして、もし、それが、愚者からの賞賛であるなら、まさしく、識者たちによる非難のほうが、より勝っている。


669.(669) 欲望〔の対象〕から作られる楽しみと、遠離〔の境地〕の苦しみとがあるとして、もし、それが、欲望〔の対象〕から作られる楽しみであるなら、遠離〔の境地〕の苦しみのほうが、より勝っている。


670.(670) 法(正義)ならざるによる生と、〔まさに〕その、法(正義)による死とがあるとして、もし、その、法(正義)にかなわない〔生〕を生きるなら、法(正義)にかなう死のほうが、より勝っている。


671.(671) 彼ら、欲望〔の対象〕と怒り〔の思い〕を捨棄する者たち、種々なる生存について寂静心ある者たち――〔彼らは〕依存なき者たちとして、世を歩む。彼らに、愛しいものと愛しくないもの(愛憎の対象)は存在しない。


672.(672) 〔七つの〕覚りの支分(七覚支)を修めて、〔五つの〕機能(五根)、および、〔五つの〕力(五力)を〔修めて〕、最高の寂静を得て、煩悩なき者たちは、完全なる涅槃に到達する。ということで――


 ……ゴーダッタ長老は……。


 十四なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「まさしく、しかして、レーヴァタ(カディラヴァニヤ・レーヴァタ)、ゴーダッタ、それらの二者の大いなる神通ある長老たちがあり、十四なるものの集まりにおいて、しかして、ここに、二十八の詩偈がある」と。


15 十六なるものの集まり


15.1 第一の章


15.1.1 アンニャーシ・コンダンニャ長老の詩偈


673.(673) この〔わたし〕は、大いなる味わいある、〔覚者の〕法(教え)を聞いて、より一層、〔心が〕清まる。離貪の法(教え)は、〔一切を〕執取せずして、全てにわたり、〔世に〕説示された。


674.(674) この世には、地の圏域には、多くのものがあり、様々なものがある。〔わたしは〕思う――「〔それらは〕貪欲を伴った美しい妄想を掻き立てる」〔と〕。


675.(675) 風に巻き上げられた塵を、雨雲が静めるように、このように、知慧によって見るとき、諸々の妄想は静まる。


676.(676) 「諸々の形成〔作用〕(形成されたもの・現象世界)は、全てが常住ならざるものである(諸行無常)」と、知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する――これは、清浄への道である。


677.(677) 「諸々の形成〔作用〕(形成されたもの・現象世界)は、全てが苦しみである(一切皆苦)」と、知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する――これは、清浄への道である。


678.(678) 「諸々の法(事象)は、全てが自己ならざるものである(諸法無我)」と、知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する――これは、清浄への道である。


679.(679) 彼は、覚者(ブッダ)に従い覚った者、強烈なる勤勉者――コンダンニャ長老は、生と死を捨棄した者であり、梵行についての全一者である。


680.(680) 激流と罠がある。堅固な杭がある。破砕し難き山嶺がある。杭と縄とを断って、破壊し難き巌を砕いて、〔激流を〕超え、彼岸に至った瞑想者――彼は、悪魔の結縛から解き放たれた者である。


681.(681) 〔心が〕高ぶり、動揺する比丘は、悪しき朋友たちを縁として、〔世俗の〕波に飲まれ、大激流のうちに沈む。


682.(682) 〔心が〕高ぶらず、動揺せず、賢明で、〔感官の〕機能(根)が統御され、善き朋友ある、思慮ある者は、苦しみの終極を為す者として、〔世に〕存するであろう。


683.(683) カーラー〔樹〕の結節に似た手足となり、痩せ細り、〔浮き出た〕血管が〔身体中に〕広がったとして、食べ物と飲み物について量を知る人は、意が卑屈にならない。


684.(684) 林や密林のなかで虻たちや蚊たちに刺されたとして、戦場の先頭にいる象のように、そこにおいて、気づきある者となり、〔苦しみを〕耐え忍ぶがよい。


685.(685) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。


686.(686) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、正知と気づきの者として、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。


687.(687) わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、覚者(ブッダ)の教えは為された。重き荷は安置され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。


688.(688) しかして、〔まさに〕その義(目的)のために、家から家なきへと出家したところの、その義(目的)は、わたしによって獲得された。〔隠遁のため〕林野に住むことが、わたしにとって、何になるというのだろう。ということで――


 ……アンニャーシ・コンダンニャ長老は……。


15.1.2 ウダーイン長老の詩偈


689.(689) 「人間という生類でありながら、正覚者であり、自己が調御され、〔心が〕定められた者――梵の道に振る舞いつつ、心の寂止に喜びある者――


690.(690) 人間たちが礼拝するところの、〔まさに〕その、一切諸法(事象)の彼岸に至る者――彼を、天〔の神々〕たちさえも、礼拝する」〔と〕。かくのごとく、阿羅漢(人格完成者)について、わたしは聞いた。


691.(691) 「一切の束縛するものを超え行き、〔欲の〕林から〔欲の〕林叢“したばえ”なきへと帰り来た者――岩から解き放たれた黄金のように、諸々の欲望〔の対象〕からの離欲に喜びある者を、〔天の神々たちさえも、礼拝する〕」〔と〕。


692.(692) まさに、彼(ブッダ)は、究極の光輝ある象(龍象:ブッダの尊称の一つ)である――ヒマヴァント(ヒマラヤ)が、諸他の巌の連なりを〔圧倒する〕ように。象の名ある、全ての者のなかで、真の名ある、無上なる方である。


693.(693) あなたたちのために、〔わたしは〕象のことを述べ伝えるであろう。まさに、彼は、罪悪を作らない。温和、そして、不害――それらは、象の、両の足である。


694.(694) 気づき(念)と、正知と――それらの性行は、象の、他〔の両の足〕である。偉大なる象は、信を手(鼻)とし、放捨〔の心〕(捨:分け隔てのない心)を白き牙とする。


695.(695) 気づきは、首である。知慧は、頭である。考察は、法(教え)の思弁である。共住は、法(教え)の子宮である。遠離は、彼の尾である。


696.(696) 彼は、瞑想者である。入息〔と出息〕に喜びある者である。内に〔心が〕善く定められた者である。行きつつある〔時の〕象は、〔心が〕定められた者である。立った〔時の〕象は、〔心が〕定められた者である。


697.(697) 臥している〔時の〕象は、〔心が〕定められた者である。坐した〔時の象〕もまた、〔心が〕定められた者である。象は、一切所において〔自己が〕統御された者である。これは、象〔というあり方〕の成就である。


698.(698) 〔彼は〕諸々の罪なきものを〔施物として〕受ける。〔彼は〕諸々の罪を有するものを〔施物として〕受けない。〔適時に〕食糧と衣服を得て、蓄積“たくわえ”を遍く避けている。


699.(699) 微細であれ、粗大であれ、束縛するものを〔断ち切って〕、一切の結縛を断ち切って、まさしく、行くところ、〔行く〕ところで、まさしく、期待なき者として、〔彼は〕行く。


700.(700) また、〔汚〕水に生じた白蓮華が成長し、清らかな香りがあり、意が喜びとするものでありながら、〔汚〕水に汚されないように――


701.(701) まさしく、そのように、しかして、世に生まれた覚者は、世に住み、蓮華のように、世の水に汚されない。


702.(702) 燃え盛る大火は、食(薪)なきものは、〔いずれ〕止み静まる。しかして、〔世に〕諸々の炭火が存しつつあるなかで、〔彼は〕「涅槃に到達した者」と呼ばれる。


703.(703) 義(目的)を識知させるものとして、この喩えは、識者たちによって〔世に〕説示された。大いなる象たちは、象を、象によって説示された〔法〕を、識知するであろう。


704.(704) 貪り(貪)を離れ、怒り(瞋)を離れ、迷い(痴)を離れ、煩悩者となり、象は、肉体を捨棄しつつ、煩悩なき者となり、完全なる涅槃に到達するであろう。ということで――


 ……ウダーイン長老は……。


 十六なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、コンダンニャ(アンニャーシ・コンダンニャ)、さらには、ウダーイン、それらの二者の大いなる神通ある長老たちがあり、十六なるものの集まりにおいて、しかして、ここに、三十と二との詩偈がある」と。


16 二十なるものの集まり


16.1 第一の章


16.1.1 アディムッタ長老の詩偈


705.(705) 〔盗賊が尋ねた〕「あるいは、祭祀を義(目的)として、あるいは、財産を義(目的)として、かつて、わたしたちが殺すところの、それらの者たちであるが、〔彼らは〕動揺し、かつまた、悲嘆し、〔後に〕残すものとして、恐怖〔の思い〕が有る。


706.(706) 〔まさに〕その、おまえに、恐怖する自己は存在しない。〔それどころか〕より一層、色艶は清まる。何ゆえに、このような形態の大いなる恐怖にたいし、〔おまえは〕嘆き悲しまないのか」〔と〕。


707.(707) 〔長老は答えた〕「頭目よ、期待なき者に、心の苦しみは存在しない。まさに、束縛するものが滅尽した者にとって、一切の恐怖は超え行かれた。


708.(708) 〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)が滅尽され、真実のとおりに法(事象)が見られたとき、死についての恐怖は有りえない――重荷を置き去りにするときのように。


709.(709) わたしによって、梵行(禁欲清浄行)は善く歩まれ、そして、また、道は善く修められた。わたしに、死についての恐怖は存在しない――諸々の病の消滅するときのように。


710.(710) わたしによって、梵行は善く歩まれ、そして、また、道は善く修められた。諸々の生存は、悦楽なきものと見られた。毒は、飲んで、捨て放たれた。


711.(711) 彼岸に至り、執取〔の思い〕なく、為すべきことを為した、煩悩なき者は、寿命の滅尽あることから、満ち足りた者と成る――刑場から解き放たれた者のように。


712.(712) 最上の法(真理)たることを得た者は、一切世〔界〕について義(目的)なき者であり、死について憂い悲しまない――燃えている家から解き放たれた者のように。


713.(713) 『それが何であれ、集いあつまったもの(因縁によって形成されたもの)として存在するなら、あるいは、そこにおいて、〔迷いの〕生存が得られるなら、この一切は、主権なきものである(自由にならない他律的な存在である)』〔と〕、かくのごとく、偉大なる聖賢(ブッダ)によって説かれた。


714.(714) 彼が、それを、覚者(ブッダ)によって説示されたとおり、そのとおりに覚知するなら、〔彼は〕何であれ、〔迷いの〕生存を掴まない――熱く熱せられた鉄の玉を〔掴まない〕ように。


715.(715) わたしに、『〔わたしは〕有った』という〔思い〕は有りえない。わたしに、『〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕は有りえない。諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)は、〔いずれ〕消滅するであろう。そこに、何の嘆きがあるというのだろう。


716.(716) 頭目よ、清浄なる法(事象)の生起を、清浄なる形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)の相続を、事実のとおりに見ている者に、恐怖は有りえない。


717.(717) 世〔界〕を、草や薪に等しきものと、知慧によって見るとき、彼は、我執〔の思い〕を見い出すことなく、『わたしには、〔何も〕存在しない』と、憂い悲しまない。


718.(718) 〔わたしは〕肉体を嫌悪する。〔わたしは〕生存に義(目的)なき者として存在する。〔まさに〕その、この身体は、〔いずれ〕朽ち果てるであろう。しかして、他〔の身体〕は有りえないであろう。


719.(719) それが、あなたたちにとって、肉体をもって為すべきことであり、〔あなたたちが〕それを求めるなら、〔あなたたちは〕それを為しなさい。わたしには、それを縁として、そこに、憤怒〔の思い〕は〔有りえず〕、かつまた、愛情〔の思い〕も有りえないであろう」〔と〕。


720.(720) 彼の、身の毛のよだつ、未曾有の、その言葉を聞いて、若き〔盗賊〕たちは、諸々の刃を置いて、このことを説いた。


721.(721) 〔盗賊が尋ねた〕「あなたに、幸せ〔有れ〕。何を為して、あるいは、誰があなたの師匠として、誰の教えを縁として、その〔教え〕を〔為してそののち〕、憂いなき〔境地〕は得られるのですか」〔と〕。


722.(722) 〔長老は答えた〕「一切を知り、一切を見る、〔一切世界の〕勝者(ブッダ)が、わたしの師匠である。偉大なる慈悲ある教師が、一切世〔界〕の医師が、〔わたしの師匠である〕。


723.(723) 彼によって説示された、この法(真理)は、滅尽に至るものであり、無上なるものである。彼の教えを縁として、その〔教え〕を〔為してそののち〕、憂いなき〔境地〕は得られる」〔と〕。


724.(724) 聖賢の見事に語られた〔言葉〕を聞いて、盗賊たちは、しかして、諸々の刃を置いて、さらには、諸々の武器を〔置いて〕、しかして、それゆえに、或る者たちは、〔盗賊の〕行為(業)から離れ、さらには、或る者たちは、出家することを選んだ。


725.(725) 彼らは、善き至達者(ブッダ)の教えにおいて出家して、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)と〔五つの〕力(五力)を修めて、賢者たちとなり、心が躍り上がり、意楽しく、〔感官の〕機能(根)〔の統御〕を為し、形成されたものでないもの(無為)を、〔すなわち〕涅槃の境処を、体得した。ということで――


 ……アディムッタ長老は……。


16.1.2 パーラーパリヤ長老の詩偈


726.(726) 沙門にして比丘たるパーラーパリヤ(人名)に、諸々の思うところが有った――〔人里から〕遠離し、独りある者として、〔静所に〕坐した瞑想者に。


727.(727) 人は、どのような順序、どのような掟、どのような正しい行状“おこない”を〔為し〕、自己の為すべきことを為す者として〔世に〕存し、しかして、何ものをも悩まさずにいられるのだろう。


728.(728) 益あることのために、さらには、益なきことのために、人間たちの諸々の〔感官の〕機能はある。諸々の守られていない〔感官の機能〕は、益なきことのために、しかして、諸々の守られた〔感官の機能〕は、益あることのために。


729.(729) まさしく、諸々の〔感官の〕機能を〔常に〕守護している者は、かつまた、諸々の〔感官の〕機能を〔常に〕保護している者は、自己の為すべきことを為す者として〔世に〕存し、しかして、何ものをも悩まさずにいられるであろう。


730.(730) もし、諸々の形態(色)について、〔そこに向かって〕行きつつある眼の〔感官の〕機能を防護せずにいるなら、〔自らの行為に〕危険を見ない者であり、彼は、まさに、苦しみから解き放たれない。


731.(731) もし、諸々の音声(声)について、〔そこに向かって〕行きつつある耳の〔感官の〕機能を防護せずにいるなら、〔自らの行為に〕危険を見ない者であり、彼は、まさに、苦しみから解き放たれない。


732.(732) もし、諸々の臭香(香)を、出離を見ない者が受用するなら、諸々の香りに耽溺する者であり、彼は、まさに、苦しみから解き放たれない。


733.(733) しかして、酸っぱさと甘さの至高なるものを、苦さの至高なるものを、〔常に〕思念しながら、味感(味)にたいする渇愛〔の思い〕で拘束された者は、〔自己の〕心臓(心)を覚らない。


734.(734) 美しく嫌悪ならざる諸々の感触(所触:感触・感覚)を、〔常に〕思念しながら、〔貪欲の思いに〕染まった者は、貪欲を事因とする様々な種類の苦しみを知ることになる。


735.(735) しかして、彼が、これらの法(意の対象)から、意を守ることができないなら、そののち、彼に、苦しみが従い行く――これらの五つ(色・声・香・味・触)の全てから。


736.(736) 膿と血で満ち溢れ、さらには、多くの死骸(汚物)の〔容器である、この身体は〕、技ある人によって作られた様々な〔彩り〕の麗美な箱のようなもの(中身は汚物で満ちている)。


737.(737) 甘き悦楽あるものは、辛きものである。愛しき者との結縛は、苦しみである。蜜が塗られた剃刀のようなもので、〔それが〕塗られたものであることを、〔愚者は〕覚らない。


738.(738) 婦女の形態に、婦女の味感に、さらには、また、婦女の感触にたいし、婦女の諸々の臭香にたいし、執着〔の思い〕ある者は、様々な種類の苦しみを知ることになる。


739.(739) 婦女の諸々の流れは、〔その〕全てが、五つ〔の感官〕から五つ〔の感官〕において流れ行く。彼が、精進の者となり、それらの防護を為すことができるなら――


740.(740) 彼は、義(道理)ある者である。彼は、法(正義)に依って立つ者である。彼は、能ある者である。彼は、明眼の者である。また、〔常に〕喜びある者として、法(真理)と義(道理)を伴った為すべきことを為すであろう。


741.(741) しかして、〔義と〕結び付いたもの(法の実践)へと沈み行き、義(道理)のない為すべきこと(義務)を避けるであろう。〔気づきを〕怠らない明眼の者は、「それは、〔真に〕為すべきことではない」と思い考えて――


742.(742) しかして、それが、義(道理)と結び付いたものであるなら、さらには、それが、法(真理)に至ったものとしての喜びであるなら、それを受持して、転起させるであろう。なぜなら、まさに、それは、最上の喜びなのだから。


743.(743) 〔人は〕高下諸々の手段で、他者たちを貪り求める。打ち砕いて、打ち倒して、しかして、憂い悲しませて、彼は、無理強いで他者たちを暴虐する。


744.(744) 力ある大工たちが、楔によって楔を打つように、そのように、智者は、まさしく、諸々の〔善なる〕機能(五根・五力)によって諸々の〔感官の〕機能を打つ。


745.(745) 信、精進、そして、〔心の〕統一(定:三昧の境地)、および、気づきと知慧を修めながら、五つ(五根・五力)によって五つ(眼・耳・鼻・舌・身)を打ち砕いて、煩悶なき婆羅門は行く。


746.(746) 彼は、義(道理)ある者である。彼は、法(正義)に依って立つ者である。覚者(ブッダ)の教示の言葉を、〔その〕一切によって一切を為して、その人は、安楽に満ち栄える。ということで――


 ……パーラーパリヤ長老は……。


16.1.3 テーラカーニ長老の詩偈


747.(747) 〔わたしは〕長夜にわたり、法(教え)を弁別している、まさに、熱情ある者であるが、沙門や婆羅門たちに問い尋ねつつも、〔ついに〕心の静かさを得なかった。


748.(748) 「誰が、〔まさに〕その、世において彼岸に至った者なのだろう。誰が、不死への沈潜(涅槃)を得た者なのだろう。最高の義(勝義:涅槃)を識知させてくれる、誰の法(教え)を、〔わたしは〕受け容れるのだろう。


749.(749) 餌を食べつつ釣針の内に掛かった魚のように、〔わたしは〕存した。大いなるインダ(インドラ神)の索縄に結縛された阿修羅のヴェーパチティのように、〔わたしは存した〕。


750.(750) その〔索縄〕を、〔わたしは〕引く。この憂いと嘆きから、〔わたしは〕解き放たれない。誰が、わたしの結縛を解き放ち、世において、正覚〔の境地〕を知らせてくれるのだろう。


751.(751) 『〔世界は〕壊れ崩れるもの』と指し示してくれる、誰を――沙門、あるいは、婆羅門を――老と死を運び去ってくれる、誰の法(教え)を、〔わたしは〕受け容れるのだろう。


752.(752) 疑惑と疑い〔の思い〕に拘束され、激昂〔の思い〕と〔その〕力に束縛され、忿怒〔の思い〕を得て意が強情となり、渇望〔の思い〕で〔自らを〕破り裂く〔愚かさ〕を〔見よ〕。


753.(753) 渇愛の弓によって現起し、かつまた、二つの十五(三十の邪見)に束縛された、〔自らの〕胸のうちからなる愚かさを見よ――〔それが〕止住する、というのなら、〔自らを〕壊して〔悩み苦しむ、その愚かさを〕。


754.(754) 諸々の誤った見解を捨棄することなく、未来についての妄想で〔心が〕過敏になった〔愚かさ〕を〔見よ〕――それに貫かれた〔わたし〕は、風に揺らぐ葉のように、〔心が〕動く。


755.(755) わがもの〔という思い〕は、わたしの内に現起して、すみやかに煮られる(成熟する)。そこに、六つの接触の場所(六触処:眼・耳・鼻・舌・身・意)ある身体が、一切時に流れ行く。


756.(756) 彼が、わたしのために、その矢を引き抜いてくれるとして、〔わたしは〕その医師を見ない。疑惑〔という矢〕を、他の刃によらず、さぐり針によって〔引き抜いてくれる、その医師を〕。


757.(757) 誰が、わたしのために、〔心の〕内部に寄り掛かっている矢を――刃なしで、傷なく、全ての四肢を害さずに、わたしの矢を――引き抜いてくれるのだろう。


758.(758) まさに、彼は、法(教え)の長たる最勝者、〔心の〕毒素と汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を運び去る者である。深みに落ちたわたしのために、陸地を、しかして、〔救いの〕手を、見せてくれるのだろう。


759.(759) わたしは、湖沼のうちに存している――塵や泥を運び去ることができない〔深み〕に沈潜した者として、幻想“ごまかし”と嫉妬と激昂と沈滞と眠気に覆われた〔湖沼〕のうちに。


760.(760) 〔心の〕高揚という〔雷鳴〕鳴り響く雨雲を、束縛するものという雷雲を、諸々の貪欲〔の思い〕に依存した諸々の妄想が、運び手たちとなり、悪しき見解を運び来る。


761.(761) 諸々の〔渇愛の〕流れは、一切所に流れ行く。〔貪欲の〕蔓草は、芽生えては止まり住む。誰が、それらの流れを防護できるのだろう。まさに、誰が、その蔓草を断ち切るのだろう。


762.(762) 幸いなる者よ、諸々の流れの防護となる境を作り為せ。〔激流が〕無理やり木を〔切り倒す〕ように、意によって作られる流れが、おまえを切り倒すことがあってはならない」〔と〕。


763.(763) このように、恐怖〔の思い〕が生じ、此岸から彼岸を求めているわたしにとって、聖賢の僧団に親しまれ、知慧という武器ある、教師(ブッダ)は、救いの者として〔有った〕。


764.(764) 清浄で、善き至達ある梯子を、堅固で、法(真理)の真髄によって作られる〔梯子〕を、〔激流に〕運ばれつつあるわたしに与え、しかして、〔教師は〕「恐れてはならない」と説いた。


765.(765) 〔わたしは〕気づきの確立(念住・念処)という高楼に登って、〔あるがままに〕注視した。すなわち、かつて〔わたしが〕身体が有ること(有身)に喜びある者と思い考えていた、〔まさに〕その人々を。


766.(766) しかして、舟に乗る道を見たとき、〔もはや〕自己を確立せずして、〔わたしは〕最上の沐浴場を見た。


767.(767) 自己から現起し、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)によって増加した矢――これらの転起なきために、〔教師は〕最上の道を説示した。


768.(768) 長夜にわたり悪しき習いとなり、長夜にわたり止まり住んだ、わたしの〔悪しき〕香りを、覚者(ブッダ)は除き去った――〔心の〕毒素と汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を運び去る者として。ということで――


 ……テーラカーニ長老は……。


16.1.4 ラッタパーラ長老の詩偈


769.(769) 見よ――様々に作り為された〔欲の〕幻影を――寄せ集めの、傷ある身体を――病んだ、妄想多きものを。それに、常久と止住は、〔何であれ〕存在しない。


770.(770) 見よ――様々に作り為された〔虚妄の〕形態を、宝珠や耳飾りやらで〔飾り立てられた身体を〕――骨と皮で覆われた〔身体〕を。諸々の衣と共にあって、美しく輝く〔だけのこと〕。


771.(771) 〔赤の〕染料が為された〔両の〕足、〔白の〕塗粉が塗られた顔――愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を求める者には、さにあらず。


772.(772) 八房に為された諸々の髪、〔黒の〕塗薬が塗られた〔両の〕眼――愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を求める者には、さにあらず。


773.(773) 様々な〔彩り〕の新しい塗薬箱のように、〔見てくれを〕十分に作り為した腐敗の身体――愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を求める者には、さにあらず。


774.(774) 猟師は、罠を置いた。鹿は、網に近寄らなかった。「餌を食べて、〔さあ〕行こう」〔と〕。猟師は、泣き叫ぶ。


775.(775) 猟師の罠は、断ち切られた。鹿は、網に近寄らなかった。「餌を食べて、〔さあ〕行こう」〔と〕。猟師は、憂い悲しむ。


776.(776) 〔わたしは〕見る――世において、財を有する人間たちを。迷いの者たちは、富を得ても施さない。貪りの者たちは、財の蓄積を為し、まさしく、より一層、諸々の欲望〔の対象〕を望み求める。


777.(777) 王は、〔他を〕打ち負かして、地を征圧して、海辺に至るまでの大地を占拠しつつも、海の此岸“こなた”では不満の様子で、海の彼岸“かなた”でさえも望むであろう。


778.(778) 王も、他の多くの人間たちも、渇愛を離れず、死へと近づき行く。まさしく、不足の者たちと成って、肉身“からだ”を捨棄する。世において、諸々の欲望〔の対象〕による満足は、まさに、存在しない。


779.(779) 親族たちは、諸々の髪を振り乱して、彼のことを泣き叫ぶ。しかして、「ああ、まさに、不死にあらず」と言う。〔葬送の〕衣“ころも”に包まれた彼を搬出して、〔火葬用に〕積み上げられた〔薪山〕を設置して、そののち、〔死体を〕焼く。


780.(780) 彼は、諸々の串に刺されながら、一衣で焼かれる――諸々の財物を捨棄して〔そののち〕。しかして、親族たちは、朋友たちは、しかして、あるいは、道友たちも、死に行く者の救いには成らない。


781.(781) 相続者たちは、彼の財を運び去る。いっぽう、〔迷いの〕有情は、〔自己の為した〕行為(業)が〔釣り合う〕ところへと行く。死に行く者に、何であれ、財が従い行くことはない。子たちも、妻たちも、財と国も、〔何であれ、従い行くことはない〕。


782.(782) 財によって、長寿を得ることはない。さらには、また、富によって、老を打破することもない。慧者たちは言う。「まさに、この生命(寿命)は、僅かである。常恒ならず、変化の法(性質)である」〔と〕。


783.(783) 富者たちは、貧者たちも、接触すべきもの(死)に接触する。愚者も、慧者も、まさしく、そのように、〔死に〕接触された者として、〔世に有る〕。まさに、愚者は、〔自らの〕愚かさゆえに、まさしく、〔老に〕打倒された者として、〔地に〕臥す。しかしながら、慧者は、接触すべきもの(死)に接触された者として、〔心が〕動かない。


784.(784) それゆえに、まさに、知慧こそは、財よりも、より勝“まさ”っている――それによって、〔人は〕この〔世において〕、完成に到達する〔のだから〕。まさに、自己が完成されていない迷いの者たちは、諸々の種々なる生存において、諸々の悪しき行為(悪業)を為す。


785.(785) 〔迷いの者は〕他〔世〕から他〔世〕へと、輪廻を体験して、しかして、〔母〕胎へ、しかして、他世へと、近づき行く。それ(輪廻的あり方)を盲信している、知慧少なき者は、しかして、〔母〕胎へ、しかして、他世へと、近づき行く。


786.(786) 入り口で捕捉された盗賊が、悪しき法(性質)の者として、自らの行為によって打ちのめされるように、このように、人々は、死してのち、他世において、悪しき法(性質)の者として、自らの行為によって打ちのめされる。


787.(787) まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、〔蜜のように〕甘美で、意が喜びとするものである。種々様々な形態で、〔凡夫の〕心を掻き乱す。〔この〕危険を、諸々の欲望の対象(妙欲)のうちに見て、王よ、それゆえに、出家者として、わたしは存している。


788.(788) 諸々の木の果が落ちるように、若き青年たちも、年長の者たちも、肉体の破壊ある者たちとして、〔命を落とす〕。また、このことを見て、王よ、出家者として、〔わたしは〕存している。雑物“まざりもの”なしの、沙門の資質こそは、より勝っている。


789.(789) わたしは、信によって出家した者、勝者(ブッダ)の教えを具した者である。わたしの出家は、罪過なきもの。〔わたしは〕借りなき者として、〔施しの〕食を受ける。


790.(790) 諸々の欲望〔の対象〕を「燃え盛るものである」と見て、諸々の黄金を「刃である」と〔見て〕、〔母〕胎に入るがゆえに苦しみを〔見て〕、諸々の地獄のうちに大いなる恐怖を〔見て〕――


791.(791) この危険を知って、そのとき、〔わたしは〕畏怖〔の念〕を得た。〔まさに〕その、〔畏怖の念に〕貫かれたわたしは、そのとき、寂静なる者となり、煩悩の滅尽を得達した。


792.(792) わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、覚者(ブッダ)の教えは為された。重き荷は安置され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。


793.(793) 〔まさに〕その義(目的)のために、家から家なきへと出家したところの、一切の束縛するものの滅尽という、その義(目的)は、わたしによって獲得された。ということで――


 ……ラッタパーラ長老は……。


16.1.5 マールキャプッタ長老の詩偈


794.(794) 〔欲の思いで〕形態(色:眼の対象)を見て、愛しい相に意を為している者の気づき(念)は、忘却されたものとなる。執着の心ある者は、〔形態を〕感受し、しかして、それ(形態)に執着して、〔それに〕止まり住む。


795.(795) 諸々の形態から発生する、彼の諸々の感受(受:楽苦の知覚)は、無数のものとなり、増え行く。しかして、諸々の強欲〔の思い〕は〔増え行き〕、さらには、諸々の悩害〔の思い〕は〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。


796.(796) 〔欲の思いで〕音声(声:耳の対象)を聞いて、愛しい相に意を為している者の気づきは、忘却されたものとなる。執着の心ある者は、〔音声を〕感受し、しかして、それ(音声)に執着して、〔それに〕止まり住む。


797.(797) 諸々の音声から発生する、彼の諸々の感受は、無数のものとなり、増え行く。しかして、諸々の強欲〔の思い〕は〔増え行き〕、さらには、諸々の悩害〔の思い〕は〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。


798.(798) 〔欲の思いで〕臭香(香:鼻の対象)を嗅いで、愛しい相に意を為している者の気づきは、忘却されたものとなる。執着の心ある者は、〔臭香を〕感受し、しかして、それ(臭香)に執着して、〔それに〕止まり住む。


799.(799) 諸々の臭香から発生する、彼の諸々の感受は、無数のものとなり、増え行く。しかして、諸々の強欲〔の思い〕は〔増え行き〕、さらには、諸々の悩害〔の思い〕は〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。


800.(800) 〔欲の思いで〕味感(味:舌の対象)を享受して、愛しい相に意を為している者の気づきは、忘却されたものとなる。執着の心ある者は、〔味感を〕感受し、しかして、それ(味感)に執着して、〔それに〕止まり住む。


801.(801) 諸々の味感から発生する、彼の諸々の感受は、無数のものとなり、増え行く。しかして、諸々の強欲〔の思い〕は〔増え行き〕、さらには、諸々の悩害〔の思い〕は〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。


802.(802) 〔欲の思いで〕感触(所触:身の対象)と接触して、愛しい相に意を為している者の気づきは、忘却されたものとなる。執着の心ある者は、〔感触を〕感受し、しかして、それ(感触)に執着して、〔それに〕止まり住む。


803.(803) 諸々の感触から発生する、彼の諸々の感受は、無数のものとなり、増え行く。しかして、諸々の強欲〔の思い〕は〔増え行き〕、さらには、諸々の悩害〔の思い〕は〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。


804.(804) 〔欲の思いで〕法(法:意の対象)を知って、愛しい相に意を為している者の気づきは、忘却されたものとなる。執着の心ある者は、〔法を〕感受し、しかして、それ(法)に執着して、〔それに〕止まり住む。


805.(805) 諸々の法(法:意の対象)から発生する、彼の諸々の感受は、無数のものとなり、増え行く。しかして、諸々の強欲〔の思い〕は〔増え行き〕、さらには、諸々の悩害〔の思い〕は〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。


806.(806) 〔迷いなき〕彼は、諸々の形態(色:眼の対象)のうちにありながら、〔常に〕気づきある者として、形態を見て、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔形態を〕感受し、しかして、それ(形態)に執着して、〔それに〕止まり住まない。


807.(807) 彼が、形態を〔あるがままに〕見ていると、さらには、また、〔楽苦の〕感受を〔あるがままに〕親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、蓄積されないように、このように、彼は、気づきの者として、〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。


808.(808) 〔迷いなき〕彼は、諸々の音声(声:耳の対象)のうちにありながら、〔常に〕気づきある者として、音声を聞いて、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔音声を〕感受し、しかして、それ(音声)に執着して、〔それに〕止まり住まない。


809.(809) 彼が、音声を〔あるがままに〕聞いていると、さらには、また、〔楽苦の〕感受を〔あるがままに〕親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、蓄積されないように、このように、彼は、気づきの者として、〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。


810.(810) 〔迷いなき〕彼は、諸々の臭香(香:鼻の対象)のうちにありながら、〔常に〕気づきある者として、臭香を嗅いで、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔臭香を〕感受し、しかして、それ(臭香)に執着して、〔それに〕止まり住まない。


811.(811) 彼が、臭香を〔あるがままに〕嗅いでいると、さらには、また、〔楽苦の〕感受を〔あるがままに〕親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、蓄積されないように、このように、彼は、気づきの者として、〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。


812.(812) 〔迷いなき〕彼は、諸々の味感(味:舌の対象)のうちにありながら、〔常に〕気づきある者として、味感を享受して、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔味感を〕感受し、しかして、それ(味感)に執着して、〔それに〕止まり住まない。


813.(813) 彼が、味感を〔あるがままに〕味わっていると、さらには、また、〔楽苦の〕感受を〔あるがままに〕親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、蓄積されないように、このように、彼は、気づきの者として、〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。


814.(814) 〔迷いなき〕彼は、諸々の感触(所触:身の対象)のうちにありながら、〔常に〕気づきある者として、感触に接触して、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔感触を〕感受し、しかして、それ(感触)に執着して、〔それに〕止まり住まない。


815.(815) 彼が、感触と〔あるがままに〕接触していると、さらには、また、〔楽苦の〕感受を〔あるがままに〕親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、蓄積されないように、このように、彼は、気づきの者として、〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。


816.(816) 〔迷いなき〕彼は、諸々の法(法:意の対象)のうちにありながら、〔常に〕気づきある者として、法を知って、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔法を〕感受し、しかして、それ(法)に執着して、〔それに〕止まり住まない。


817.(817) 彼が、法(法:意の対象)を〔あるがままに〕識知していると、さらには、また、〔楽苦の〕感受を〔あるがままに〕親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、蓄積されないように、このように、彼は、気づきの者として、〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。ということで――


 ……マールキャプッタ長老は……。


16.1.6 セーラ長老の詩偈


818.(818) 〔セーラ婆羅門が言った〕「世尊よ、〔あなたは〕円満成就した身体をもち、極めて好ましく、善き出生“うまれ”で、見た目が典雅で、黄金の色艶ある者として存しています。〔あなたは〕歯が純白で、精進ある者として存しています。


819.(819) なぜなら、善き出生の人に有る、それらの〔三十二の〕特徴ですが、あなたの身体には、それらの〔三十二の〕偉大なる人士の特相が、〔その〕全てが、〔有る〕からです。


820.(820) 眼が清らかで、美しい顔立ち、偉丈夫で、真っすぐで、輝きある者として、〔あなたは〕沙門の僧団の中で、太陽のように、光り輝きます。


821.(821) 見た目が善く、黄金に似た肌をもつ比丘――このように、最上の容貌をもつ、あなたにとって、沙門として〔世に〕有ることが、何になるというのでしょう。


822.(822) 〔あなたは〕車上の雄牛(戦車隊の統率者)たる転輪王として、四辺を征圧したジャンブ洲(全インド)の権力者として、〔世に〕有るのがふさわしい。


823.(823) 士族たちは、地方の王たちは、あなたに付き従う者たちと成ります。ゴータマ(ブッダ)よ、王のなかの王として、人間〔界〕のインダ(インドラ神)として、王権を為されよ(統治せよ)」〔と〕。


824.(824) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「セーラさん、わたしは、王として、〔世に〕存しています。〔わたしは〕無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転起させます――〔誰も〕反転できない〔法の〕輪を」〔と〕。


825.(825) かくのごとく、セーラ婆羅門が〔尋ねた〕「〔あなたは、自らについて〕『正覚者である』〔と〕公言なさいます。ゴータマ(ブッダ)よ、〔あなたは〕『無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転起させる』と語ります。


826.(826) いったい、誰が、軍団の長ですか。〔誰が〕貴君の弟子として、教師に従い行くのですか。あなたが転起させた、その法(真理)の輪を、誰が、〔後に続いて〕従い転起させるのですか」〔と〕。


827.(827) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「セーラさん、わたしが転起させた〔法の〕輪を、無上なる法(真理)の輪を、如来に〔続いて〕生まれ来たサーリプッタ(舎利弗:人名・ブッダの高弟)が、〔後に続いて〕従い転起させます。


828.(828) わたしによって、証知されるべきものは証知され、そして、修行されるべきものは修行され、捨棄されるべきものは捨棄されました。婆羅門よ、それゆえに、〔わたしは〕覚者として〔世に〕存しているのです。


829.(829) 婆羅門よ、わたしにたいする疑いを取り除きなさい、〔わたしを〕信じなさい。正覚者たちと一度ならず相見えることは、得難きこととして〔世に〕有るのです。


830.(830) 彼ら(正覚者たち)が一度ならず世に出現することは、まさに、得難きことです。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしは、覚者として、〔毒〕矢の治癒者にして無上なる者として、〔世に〕存しています。


831.(831) 〔わたしは〕梵(最高の人格者)として有る者、〔他に〕比類なき者、悪魔の軍団を撃破する者、一切の朋ならざる〔敵〕を自在に為して、何ものも恐れず、〔自ら〕喜び楽しみます」〔と〕。


832.(832) 〔セーラ婆羅門が、自らの弟子たちに言った〕「諸君よ、このことを、眼ある方(ブッダ)が語るとおりに、こころして聞け――〔毒〕矢の治癒者にして偉大なる勇者が、林のなかで獅子が吼えるように〔語る、そのとおりに〕。


833.(833) 梵(最高の人格者)として有る方、〔他に〕比類なき方、悪魔の軍団を撃破する方(ブッダ)を見て、誰が、〔心が〕清まらずにいられよう。黒き生まれの者でさえも、〔心が清まるであろう〕。


834.(834) すなわち、求める者は、わたしに従え。あるいは、すなわち、求めない者は、行け。ここに、わたしは、優れた知慧ある方(ブッダ)の現前で、出家するであろう」〔と〕。


835.(835) 〔弟子たちは答えた〕「もし、この、正自覚者(ブッダ)の教えが、尊き方(セーラ婆羅門)にとって、好ましきものとなるなら、わたしたちもまた、優れた知慧ある方(ブッダ)の現前で、出家するでありましょう」〔と〕。


836.(836) 〔セーラ婆羅門が言った〕「これらの三百の婆羅門たちは、合掌を為し、〔あなたに〕乞います。世尊よ、あなたの現前で、〔わたしたちは〕梵行(禁欲清浄行)を歩むでありましょう」〔と〕。


837.(837) かくのごとく、世尊は〔言った〕「セーラさん、現に見られ時を要さない、〔真の〕梵行は、善く告げ知らされました。そこにおいて、〔気づきを〕怠らずに学んでいる者の出家は、無駄ならざるものです」〔と〕。


838.(838) 〔出家した尊者セーラが言った〕「眼ある方よ、〔まさに〕その、あなたを帰依所として、〔わたしたちは〕やってきたのですが、〔それより〕このかた、〔今日で〕第八〔日〕となります。世尊よ、〔わたしたちは〕存しています――あなたの教えにおいて、七夜をもって調御された者たちとして。


839.(839) あなたは、覚者です。あなたは、教師です。あなたは、悪魔を征服する牟尼です。あなたは、諸々の悪習(随眠)を断ち切って、〔激流を〕超えた者として、この〔世の〕人々を〔彼岸へと〕超え渡します。


840.(840) あなたにとって、諸々の〔心の〕依り所(依存の対象)は超え行かれ、あなたにとって、諸々の煩悩は破り去られました。獅子のように、執取〔の思い〕なく、〔あらゆる〕恐れと恐ろしさを捨棄した方です。


841.(841) これらの三百の比丘たちは、合掌を為し、立っています。勇者よ、〔両の〕足を差し出してください。龍(比丘)たちよ、教師を敬拝せよ」〔と〕。ということで――


 ……セーラ長老は……。


16.1.7 カーリ・ゴーダーの子なるバッディヤ長老の詩偈


842.(842) すなわち、〔まさに〕その、わたしのために、繊細な衣が、象の首に広げられていた。浄肉〔の汁〕を注ぐ米の飯が、〔わたしの〕食するところであった。


843.(843) その〔わたし〕は、今日、幸いなる者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダー(人名)の子であるバッディヤ(人名)は、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


844.(844) 糞掃衣の者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


845.(845) 〔行乞の〕施食の者(托鉢行者)として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


846.(846) 三つの衣料の者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


847.(847) 〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


848.(848) 一坐〔だけの食〕の者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


849.(849) 鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


850.(850) 〔決められた時間〕以後の食を否とする者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


851.(851) 林にある者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


852.(852) 木の根元にある者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


853.(853) 野外にある者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


854.(854) 墓場にある者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


855.(855) 〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


856.(856) 常坐〔にして不臥〕なる者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


857.(857) 求むこと少なき者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


858.(858) 〔常に〕満ち足りている者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


859.(859) 遠離の者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


860.(860) 〔他者と〕交わりなき者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


861.(861) 精進に励む者として、〔不退転の〕常恒なる者として、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。


862.(862) 〔わたしは〕百パラ(重さの単位)の銅と百ラージカ(重さの単位)の金〔の鉢〕を捨棄して、土の鉢を掴み取った。これは、第二の灌頂(浄めの儀式)である。


863.(863) 堅固な見張塔と門小屋がある、高く、円い城壁のなかで、剣を手にする者たちに守られていた〔わたし〕であるが、かつては、〔常に〕恐れわななきながら住していた。


864.(864) その〔わたし〕は、今日、幸いなる者として、恐れわななきなき者として、〔あらゆる〕恐れと恐ろしさを捨棄した者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、林に入って、〔独り〕瞑想する。


865.(865) 戒の範疇(蘊)において〔自己を〕確立して、しかして、気づきと知慧を修めつつ、〔わたしは〕一切の束縛するものの滅尽を、順次に得た。ということで――


 ……カーリ・ゴーダーの子なるバッディヤ長老は……。


16.1.8 アングリマーラ長老の詩偈


866.(866) 〔盗賊アングリマーラが尋ねた〕「沙門(ブッダ)よ、〔あなたは〕行きつつあるのに、〔自らについて〕『〔わたしは〕立つ者として存している』〔と〕説きます。そして、わたしのことを、立つ者であるのに、『〔あなたは〕立たざる者である』と説きます。沙門よ、あなたに、この義(意味)を尋ねます。どのように、あなたは立つ者として、わたしは立たざる者として、存しているのですか」〔と〕。


867.(867) 〔世尊は答えた〕「アングリマーラ(人名)よ、わたしは、一切時において、一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて、〔自ら依って〕立つ者(自己確立者)として〔存しています〕。しかしながら、あなたは、生き物たちにたいし、自制なき者として存しています。それゆえに、わたしは立つ者として、あなたは立たざる者として、存しているのです」〔と〕。


868.(868) 〔盗賊アングリマーラが言った〕「まさに、長きにわたり、わたしの敬するところである偉大なる聖賢が、沙門(ブッダ)が、大いなる林に現われた。〔まさに〕その、わたしは、千なる悪を捨て去るであろう――法(真理)と結び付いた、あなたの詩偈を聞いて」〔と〕。


869.(869) まさしく、かくのごとく〔語り〕、盗賊(アングリマーラ)は、剣を、そして、武器を、暗坑と深淵の奈落に投棄した。盗賊は、善き至達者(ブッダ)の〔両の〕足を敬拝し、まさしく、その場で、出家することを、覚者(ブッダ)に乞うた。


870.(870) しかして、覚者(ブッダ)は、まさに、慈しみ〔の思い〕ある偉大なる聖賢は、〔まさに〕その、天〔界〕を含む世〔界〕の教師たる方は、そのとき、彼(アングリマーラ)に、「比丘よ、来たれ」と言ったが、まさしく、これは、彼にとって、比丘として有ること(比丘の資質を有すること)と成った。


871.(871) しかして、彼が、かつて〔気づきを〕怠っていても、彼が、のちに怠らないなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。


872.(872) 彼の為した悪しき行為(悪業)が、善によって塞がれるなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。


873.(873) 彼が、まさに、青年でありながらも、比丘として、覚者(ブッダ)の教えに専念するなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。


874.(874) わたしの敵たちもまた、法(真理)の言説を聞け。わたしの敵たちもまた、覚者(ブッダ)の教えに専念せよ。わたしの敵たちもまた、それらの人間たちと親しくせよ――すなわち、まさしく、法(真理)を〔あなたたちに〕取らせてくれる、正しくある者たちと。


875.(875) わたしの敵たちよ、まさに、忍耐を説く者たちの〔法を〕、〔誰をも〕遮らないことで賞賛ある者たちの法(教え)を、〔正しい〕時に聞け。しかして、それを順守せよ。


876.(876) まさに、たしかに、彼(ブッダ)は、わたしを〔害さず〕、あるいは、また、他を〔害さず〕、誰であれ、害さないであろう。最高の寂静を得て、動くものと動かないものたち(一切の生類)を守るであろう。


877.(877) まさに、治水者たちは、水を誘導し、矢作りたちは、矢を調整し、大工たちは、木を矯正し、賢者たちは、自己を調御する。


878.(878) 或る者たちは、棒によって、諸々の鉤によって、さらには、諸々の鞭によって、〔他を〕調御する。棒によらず、刃によらず、わたしは、そのような方(ブッダ)によって調御された者として、〔世に〕存している。


879.(879) かつて、〔他を〕害する者として存しつつも、わたしの〔今の〕名は、「アヒンサカ(不害の者)」という。今日、わたしは、真の名ある者(自らの名にふさわしい者)として、〔世に〕存している。それが誰であろうとも、〔わたしは〕害さない。


880.(880) かつて、盗賊として存していたわたしは、「アングリマーラ(指でつくられた輪をかける者)」として〔世に〕聞こえた者だった。大激流に運ばれつつ、〔わたしは〕覚者(ブッダ)という帰依所に至り着いた。


881.(881) かつて、血の手をもつ者として存していた〔わたし〕は、「アングリマーラ(指でつくられた輪をかける者)」として〔世に〕聞こえた者だった。見よ――帰依所に至り行く〔わたしの姿〕を。〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。


882.(882) 悪しき境遇(悪趣)に至る、そのような〔悪しき〕行為(業)を多く為して、行為の報いに触れた〔わたし〕が、〔今は〕借りなき者となり、〔施しの〕食を受ける。


883.(883) 愚者たちは、思慮浅き人たちは、(放逸)怠ることに専念する。しかしながら、思慮ある者は、怠らないこと(不放逸)に〔専念する〕――最勝の財を守るように。


884.(884) 怠ることに専念してはならない。欲望の歓楽や親愛〔の情〕に〔耽溺しては〕ならない。なぜなら、〔気づきを〕怠ることなく、〔常に〕瞑想している者は、最高の安楽を得るからである。


885.(885) 善く来てくれた――去り行くことなく。これは、わたしの悪しき思いなしにあらず。〔人々に〕分け与えられた諸々の法(事象)のなかで、〔まさに〕その、最勝のもの――〔わたしは〕それへと近づき行ったのだ。


886.(886) 善く来てくれた――去り行くことなく。これは、わたしの悪しき思いなしにあらず。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


887.(887) あるいは、林のなかの木の根元に、あるいは、山々の諸々の洞窟に、まさしく、そこかしこにおいて、そのとき、〔わたしは〕怯える意で止まり住んだ。


888.(888) 〔今は〕安楽に臥し、〔安楽に〕立ち、安楽に生を営む。〔わたしは〕悪魔の罠の手中になく、ああ、教師(ブッダ)の慈しむところとなる。


889.(889) かつて、〔わたしは〕梵の出生“うまれ”の者(婆羅門)として、〔世に〕存していた。〔血統良き〕両〔親〕から〔生まれた〕高貴の者として、〔世に〕有った。その〔わたし〕は、今日、法(真理)の王にして〔世の〕教師たる善き至達者(ブッダ)の子として、〔世に存している〕。


890.(890) 渇愛を離れ、執取なく、〔感官の〕門が守られ、〔自己が〕善く統御された者として、〔世に存している〕。悩苦の根元を吐き捨てて、わたしによって、煩悩の滅尽は得られた。


891.(891) わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、覚者(ブッダ)の教えは為された。重き荷は安置され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。ということで――


 ……アングリマーラ長老は……。


16.1.9 アヌルッダ長老の詩偈


892.(892) 母と父を捨棄して、姉妹と親族と兄弟を〔捨棄して〕、五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)を捨棄して、まさしく、アヌルッダ(人名)は、〔独り〕瞑想する。


893.(893) 諸々の舞踏や詩歌を行知した者、鐃“にょう”(シンバル)や鉦“かね”〔の音〕で目覚める者、悪魔の境域に喜びある者であるが、それによって、寂静〔の境地〕に到達することはなかった。


894.(894) しかしながら、この〔迷妄〕を超え行って、覚者(ブッダ)の教えに喜びある者として、一切の激流を超え行って、まさしく、アヌルッダは、〔独り〕瞑想する。


895.(895) 意が喜びとする、諸々の形態(色:眼の対象)、諸々の音声(声:耳の対象)、諸々の味感(味:舌の対象)、諸々の臭香(香:鼻の対象)、そして、諸々の感触(所触:身の対象)――しかして、これらを超え行って、まさしく、アヌルッダは、〔独り〕瞑想する。


896.(896) 〔行乞の〕施食(托鉢)から戻った牟尼(沈黙の聖者)は、伴侶なく、独りある者である。煩悩なきアヌルッダは、諸々の糞掃衣(ぼろ布)を求める。


897.(897) 牟尼にして、煩悩なく思慧あるアヌルッダは、諸々の糞掃衣(ぼろ布)を、選び、掴み、清め、染め、〔身に〕付けた。


898.(898) 〔世尊は説いた〕「しかして、彼が、欲多く、満ち足りることなく、〔他者と〕交わり、なおかつ、〔心が〕高ぶっている者として、〔世に有る〕なら、彼には、これらの悪しき法(性質)たる諸々の〔心の〕汚染(雑汚)が有る。


899.(899) しかしながら、欲少なく、〔常に〕満ち足りている、悩み苦しみのない、気づきの者として、〔世に〕有り、遠離〔の境地〕を喜び、〔心が〕富み、常に精進に励む者として、〔世に有るなら〕――


900.(900) 彼には、これらの善き法(性質)たる諸々の覚りの項目(菩提分)が有る。しかして、彼は、煩悩なき者として、〔世に〕有る」〔と〕。かくのごとく、偉大なる聖賢(ブッダ)によって説かれた。


901.(901) 世における、無上なる教師(ブッダ)は、わたしの思惟を了知して、意によって作られる身体をもって、神通によって、〔わたしのところへと〕近しく赴いた。


902.(902) わたしに、〔その〕思惟が有ったとき、それよりも、より上なるものを、〔覚者は〕説示した。戯論(分別妄想)なき〔境地〕に喜びある覚者(ブッダ)は、〔わたしに〕戯論なき〔境地〕を説示した。


903.(903) わたしは、彼の法(教え)を了知して、〔彼の〕教えに喜びある者として、〔世に〕住した。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


904.(904) 五十五年このかた、わたしは、常坐〔にして不臥〕なる者である。二十五年このかた、眠気は完破されている。


905.(905) 心が安立した如なる方(ブッダ)に、入息と出息は有りえなかった。〔心の〕寂静に励んで、動揺なき方は、眼ある方は、完全なる涅槃に到達した者となる(般涅槃した)。


906.(906) 退去なき心によって、〔苦痛の〕感受(受:知覚)を耐えた。灯火に涅槃(火が消えること)が〔有る〕ように、〔彼の〕心には、解脱〔の境地〕が有った。


907.(907) 今や、接触(触:感触・感覚)を第五とする、これらのもの(色・声・香・味・触)は、牟尼(ブッダ)にとって、最後のものである。正覚者が、完全なる涅槃に到達したとき、諸他の法(性質)は、〔もはや〕有りえないであろう。


908.(908) 〔天女に答えて言った〕「ジャーリニー(神名)よ、今や、天の衆のなかでの、さらなる居住(来世)は存在しない(天界に再生することもない)。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない」〔と〕。


909.(909) 彼のばあい、寸時に千種、世〔界〕は正しく知られた。彼は、梵〔天〕(ブラフマー神)に類する者である。神通の徳(性質)について、死滅と再生について、自在なる者であり、〔正しい〕時に天神たちを見る。彼は、比丘である。


910.(910) 食べ物を重荷とする者として、貧しき食糧の運び手として、かつて(前世において)、〔わたしは〕存していた。〔わたしは〕沙門に布施をした――福徳あるウパリッタ(人名)に。


911.(911) 〔まさに〕その〔わたし〕は、サキャ(釈迦)〔族〕の家に生まれた者として存し、〔人々は〕わたしのことを「アヌルッダ(人名)」と知る――諸々の舞踏や詩歌を具した者として、鐃(シンバル)や鉦〔の音〕で目覚める者として。


912.(912) しかして、〔わたしは〕何ものも恐れない〔世の〕教師たる正覚者(ブッダ)を見た。彼にたいし、心を清めて、〔家から〕家なきへと出家した。


913.(913) 〔わたしは〕知る――かつて、わたしが住した所である、過去(前世)の居住を。帝釈〔天〕(インドラ神)の生まれをもって、〔わたしは〕三十三天に止住した。


914.(914) わたしは、七回、人間〔界〕のインダ(インドラ神)として、王権を為した(統治した)。四辺を征圧したジャンブ洲(全インド)の権力者として、棒(刑罰)によらず、刃(武力)によらず、法(正義)によって統治した。


915.(915) ここから七〔回〕そこから七〔回〕と、〔合わせて〕十四〔回〕の輪廻があり、〔過去の〕居住を、〔わたしは〕証知した――天の世〔界〕に安立した者として、そのとき。


916.(916) 五つの支分ある〔心の〕統一(定:三昧の境地)において、〔心の〕専一が修められた寂静〔の境地〕において、〔わたしは〕安息を得た者として存している。わたしの天眼は清まった。


917.(917) 〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)から他の〔迷いの〕状態(来世)へと、有情たちの赴く所と帰る所を、死滅と再生を、〔わたしは〕知る――五つの支分ある瞑想(禅・静慮:禅定の境地)に安立した者として。


918.(918) わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、覚者(ブッダ)の教えは為された。重き荷は安置され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。


919.(919) ヴァッジ〔国〕のヴェールヴァ村において、わたしは、生命の消滅ののち、竹藪の下にて、煩悩なき者となり、涅槃に到達するであろう。ということで――


 ……アヌルッダ長老は……。


16.1.10 パーラーパリヤ長老の詩偈


920.(920) 花ひらいた大いなる林のなかで、沙門に、諸々の思うところが有った――〔人里から〕遠離し、〔心が〕一境にある、〔静所に〕坐した瞑想者に。


921.(921) 世の主“あるじ”たる最上の人(ブッダ)が〔世に〕止まり住んでいるとき、比丘たちの振る舞いは、〔今とは〕他のものとして存していた。今や、〔比丘たちの振る舞いは〕他のものとして見られる。


922.(922) 寒風から〔身を〕守る諸々の〔衣料〕については、恥〔の思い〕から隠すべきところを覆う諸々の〔衣料〕については、〔必要最小限の〕量として義(目的)あるものを、〔比丘たちは〕受けた――いかなるものにても〔足ることを知り〕満足している者たちとして。


923.(923) もしくは、上等のもの、あるいは、粗悪なもの、もしくは、少なかろうが、多かろうが、〔身体の〕保持を義(目的)とするものを、〔比丘たちは〕受けた――〔味に〕耽溺せず、貪欲なき者たちとして。


924.(924) 諸々の生命にとっての必需品、医薬品、しかして、日用品にたいし、激しい思い入れある者たちとして、〔彼らが〕存することはなかった――煩悩の滅尽〔という境地〕において、彼らがあるままに。


925.(925) 林のなかの木々の根元で、諸々の石窟において、そして、諸々の洞窟において、遠離〔の境地〕を増進しながら、それ(遠離の境地)を〔彼らの〕行き着く所として、〔世に〕住した。


926.(926) 〔彼らは〕低きに〔心が〕確立された〔慎みある〕者たちであり、〔他者にとって〕扶養し易く、柔和で、意が強情ならざる者たちである。〔彼らは〕優美で、寡黙で、義(道理)の思弁の支配に従い行く者たちである。


927.(927) そののち、〔彼らの〕行くところ、食するところ、慣れ親しむところは、〔常に〕清らかなものとして、〔世に〕存した。〔彼らの〕振る舞いの道は、滑らかな油の流れのように、〔世に〕有った。


928.(928) 一切の煩悩が完全に滅尽した、大いなる瞑想者にして大いなる益ある者たち――今や、それらの長老たちは、涅槃に到達した者となる(般涅槃した)。今や、そのような者たちは、僅かとなる。


929.(929) しかして、諸々の善なる法(性質)の、さらには、知慧の、完全なる滅尽あることから、一切の優れた行相を具した、勝者(ブッダ)の教えが、滅び去る。


930.(930) しかして、諸々の悪しき法(性質)の、さらには、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の、〔まさに〕その、〔増大する〕時節となり、しかして、彼ら、遠離〔の境地〕のために〔気づきを〕現起している者たちは、正なる法(教え)の残余ある者たちとなる。


931.(931) 増大しつつある、それらの〔心の〕汚れは、多くの人を侵す。〔わたしは〕思う――「羅刹たちが狂者たちと〔戯れる〕ように、〔それらは〕愚者たちと戯れる」〔と〕。


932.(932) 彼ら、諸々の〔心の〕汚れに征服された人たちは、諸々の〔心の〕汚れの事物(欲望の対象)のうちにおいて、そこかしこと、走り回っている――戦場の中で叫んでいるかのように。


933.(933) 〔彼らは〕正なる法(教え)を完全に捨て去って、互いに他の者たちと言い争う。〔彼らは〕諸々の悪しき見解に従いつつ、「これは、より勝っている」と思いなす。


934.(934) しかして、財を、子を、さらには、妻を、〔その一切を〕捨て放って、〔家を〕去った者たちが、たかが、〔一〕椀の行乞を因として、諸々の為すべきでないことに慣れ親しむ。


935.(935) 腹一杯食べて、〔彼らは〕臥している――〔横臥せず〕上向きに臥す者たちとして。目覚めた〔彼ら〕は、諸々の言説を説く――教師(ブッダ)が難じるところの、〔まさに〕その、〔無用の〕言説を。


936.(936) 全ての職人の技能を、心を為して学び、内に〔心は〕寂止されることなく、「〔これこそは〕沙門の資質たる義(目的)である」と坐視される。


937.(937) 塗料を、しかして、油と塗粉を、水と坐〔具〕と食を、〔さらには〕より多くのものを望みながら、在家者たちに接近する。


938.(938) 楊枝を、しかして、カピッタ〔の果〕を、花を、さらには、諸々の固形の食料を、しかして、諸々の〔施物に〕満ちた〔行乞の〕施食を、諸々のアンバ〔の果〕を、さらには、諸々のアーマラカ〔の果〕を。


939.(939) 諸々の医薬品については、医師たちのように〔振る舞う〕。為すべきことと為すべきでないことについては、在家者たちのように〔振る舞う〕。飾り立てることについては、娼婦たちのように〔振る舞う〕。権力については、士族たちのように〔振る舞う〕。


940.(940) 〔彼らは〕欺く者たち、騙す者たち、偽証の者たち、陰険な者たちである。多くの工面によって、〔世〕財を受ける。


941.(941) 諸々の計画、諸々の教相、諸々の工面に走り回り、生を義(目的)として、〔悪しき〕手段で、多くの財を引き寄せる。


942.(942) 〔形骸化した宗教的〕行為(業)ゆえに、衆(集会)を催す――しかして、法(真理)のためではなく。利得(施物)ゆえに、他者たちに法(教え)を説示する――しかして、義(道理)のためではなく。


943.(943) 僧団から完全に外にありながら、僧団の利得について言い争う。他者の利得に依拠して生きながら、恥知らずで(無慚)、恥じることがない。


944.(944) 或る者たちは、剃髪し、大衣を着ているが、そのように、〔比丘として為すべきことに〕専念することなく、〔他者からの〕利得と尊敬に〔心が〕耽溺し、尊ばれることだけを求める。


945.(945) このように、種々なることが過ぎ去ったとき、あるいは、〔いまだ〕体得されていないものを体得するのは、あるいは、〔すでに〕体得されたものを守り続けるのは、そのように、今や、為し易きことではない。


946.(946) 棘ある状況において、履物なしで歩むように、このように、牟尼(沈黙の聖者)は、〔常に〕気づき(念)を現起させて、村を歩むがよい。


947.(947) 過去の〔心の〕制止者(瞑想修行者)たちを思念して、彼らの行持“おこない”を思い浮かべながら、たとえ、何であれ、〔今が〕最後の時であるも、不死の境処を体得するがよい。


948.(948) この〔言葉〕を説いて、〔感官の〕機能(根)を修めた沙門は、さらなる生存が滅尽した〔真の〕婆羅門(人格完成者)たる聖賢は、サーラ〔樹〕の林において、完全なる涅槃に到達した(般涅槃した)。ということで――


 ……パーラーパリヤ長老は……。


 二十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「アディムッタ、パーラーパリヤ、テーラカーニ、ラッタパーラ、マールキャプッタとセーラ、バッディヤ、アングリ(アングリマーラ)、天眼者(アヌルッダ)、パーラーパリヤ、これらの十者の遍き栄誉ある〔長老たち〕があり、二十なるもの〔の集まり〕において、二百を超えること四十五の詩偈が有る」と。


17 三十なるものの集まり


17.1 第一の章


17.1.1 プッサ長老の詩偈


949.(949) 自己を修め、〔自己が〕善く統御された、清らかな信ある、多くの〔比丘〕たちを見て、パンダラサ姓の聖賢は、プッサという呼び名を有する〔比丘〕に尋ねた。


950.(950) 〔聖賢が尋ねた〕「未来の時において、〔世の人々の〕諸々の欲〔の思い〕は、どのようなものに〔成るのでしょうか〕。〔世の人々の〕諸々の志向は、どのようなものに〔成るのでしょうか〕。〔世の人々の〕諸々の営為は、どのようなものと成るのでしょうか。〔問いを〕尋ねられた者として、それを、わたしに告げ知らせてください」〔と〕。


951.(951) 〔長老は答えた〕「パンダラサという呼び名を有する聖賢よ、わたしの言葉を聞け。謹んで熟考せよ。未来のことを告げ知らせよう。


952.(952) 未来においては、多くの、しかして、忿怒と怨恨と隠覆と強情と狡猾の者たちが、さらには、嫉妬深く種々なる論ある者たちが、〔世に〕有るであろう。


953.(953) 深遠なる法(教え)について、〔自らを〕了知者と思量する者たちが、〔浅き〕岸辺を境涯とする者たちが、〔世に有るであろう〕。法(教え)について、軽薄で尊重なき者たちが、互いに他と尊重〔の思い〕なき者たちが、〔世に有るであろう〕。


954.(954) 未来においては、多くの危険が、世に生起するであろう。見事に説示されたこの法(教え)を、思慧に劣る者たちが汚すであろう。


955.(955) 僧団においては、たとえ、徳の劣る者たちでも、〔狡知に長けた〕熟達の者たちが取り仕切り、力ある者たちと成るであろう――無聞“むもん”で、口悪しき者たちであるとして。


956.(956) 僧団においては、たとえ、徳ある者たちでも、義(道理)のままに取り仕切りつつも、彼らは、力弱き者たちと成るであろう――意に恥〔の思い〕ある、〔邪〕義(目的)なき者たちであるとして。


957.(957) 未来においては、思慮浅き者たちが、銀を、しかして、金を、田畑を、地所を、山羊と羊を、さらには、侍女と奴隷を、愛用するであろう。


958.(958) 〔他者にたいする〕譴責の想い(想:表象・概念)ある者たちが、諸戒において〔心が〕定められていない愚者たちが、傲慢で紛争を喜ぶ獣愚の者たちが、〔世を〕渡り歩くであろう。


959.(959) しかして、〔心が〕高ぶっている、青い〔色の〕衣料を着た者たちが、〔世に〕有るであろう。虚言“うそつき”で、強情で、饒舌で、悪賢い者たちが、聖者たちのように、〔世を〕歩むであろう。


960.(960) 油〔を塗った〕諸々の優しい髪で、〔黒の〕塗薬〔を塗った〕眼の、〔心が〕揺れ動く者たちが、牙の色(白)〔の衣料〕を着た者たちが、道を行くであろう。


961.(961) 〔決められたとおり〕善く染められた阿羅漢の旗(袈裟)は、解脱者たちによって忌避されざるものである。〔しかしながら〕諸々の白き〔衣〕に耽溺する者たちは、黄褐色〔の衣〕(袈裟)を忌避するであろう。


962.(962) 利得を欲し、怠惰で、精進に劣る者たちが、〔世に〕有るであろう。林の葉に難渋する者たちが、〔林を離れて〕村々の外れに住するであろう。


963.(963) それらの者たち、それらの者たちが、常に、誤った生き方に喜びある者たちとして、利得を得るであろうなら、まさしく、彼らのところへ、彼らのところへと、自制なき者たちが、随学しつつ、親しみ行くであろう。


964.(964) それらの者たち、それらの者たちが、利得を得ない者たちであるなら、彼らは、供養されるべき者たちには成らないであろう。たとえ、彼らが、いとも愛されるべき慧者たちであるとして、そのとき、彼らのところへと親しみ行くことはないであろう。


965.(965) 自らの旗(袈裟)を難じつつ、蛮族の〔赤の〕染料で染められた〔衣〕を〔身に付け〕、異教の者たちの白き旗を、誰であれ、〔身に〕付けるであろう。


966.(966) しかして、そのとき、黄褐色〔の衣〕にたいする、彼らの尊重なき〔思い〕が有るであろう。さらには、黄褐色〔の衣〕にたいする、比丘たちの審慮〔の思い〕は有りえないであろう」〔と〕。


967.(967) 苦しみに征服され、矢に貫かれ、苦しんでいる象(比丘)には、大いなるおぞましさにして不可思議なる、審慮〔の思い〕が存した。


968.(968) まさに、そのとき、六牙の象(比丘)は、〔決められたとおり〕善く染められた阿羅漢の旗(袈裟)を見て、まさしく、ただちに、義(道理)を伴った諸々の詩偈を語った。


969.(969) 〔長老は言った〕「〔まさに〕その、無濁ならざる者が、黄褐色の衣をまとうことになるなら、調御と真理から離れた者であり、彼は、黄褐色〔の衣〕に値しない。


970.(970) しかしながら、彼が、汚濁を吐き捨て、諸戒において〔心が〕善く定められた者として存するなら、調御と真理を具した者であり、まさに、彼は、黄褐色〔の衣〕に値する。


971.(971) 堕落した戒の者、思慮浅き者、〔本能の〕現じ顕われるままの者、欲望のままに為す者、錯乱した心の者、無白の者――彼は、黄褐色〔の衣〕に値しない。


972.(972) しかしながら、彼が、戒を成就し、貪りを離れ、〔心が〕定められた者として〔存する〕なら、白き意と思惟ある者であり、まさに、彼は、黄褐色〔の衣〕に値する。


973.(973) 〔心が〕高ぶり、傲慢で、彼に戒が見い出されない、愚者は、白き〔衣〕に値する。黄褐色〔の衣〕が、何を為すというのだろう。


974.(974) 未来においては、比丘たちと、比丘尼たちとは、心が汚れた礼を欠く者たちとなり、慈愛の心ある如なる者たちを責め苛むであろう。


975.(975) 〔ふさわしい〕衣料を〔身に〕付けることを、たとえ、長老たちによって学ばせつつも、思慮浅く、〔本能の〕現じ顕われるまま、欲望のままに為す、愚者たちは、〔これを〕聞かないであろう。


976.(976) そのように学んだ、それらの愚者たちは、互いに他と尊重〔の思い〕なく、野馬が馭者にたいするように、師父(和尚)たち〔の言〕を取らないであろう。


977.(977) 最後の時を得たなら、比丘たち、および、比丘尼たちの実践は、未来の時において、このように成るであろう。


978.(978) この、未来における大いなる恐怖がやってくる前に、〔あなたたちは〕素直で、友誼に厚く、互いに他と尊重〔の思い〕を有する者たちと成れ。


979.(979) 慈愛の心ある、慈悲の者たちと成れ。戒において〔自己が〕善く統御された者たちと〔成れ〕。精進に励み、自己を精励し、常に断固たる勤勉〔努力〕ある者たちと〔成れ〕。


980.(980) 〔気づきを〕怠ること(放逸)を「恐怖である」と見て、しかして、〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)を「平安である」と〔見て〕、不死の境処を〔常に〕体得している者たちとなり、八つの支分ある〔聖なる〕道(八正道)を修めよ。ということで――


 ……プッサ長老は……。


17.1.2 サーリプッタ長老の詩偈


981.(981) 行じおこなうままに、気づきのままに、気づきある者――思惟を制した瞑想者として、〔常に気づきを〕怠らない者―自己が善く定められ、内に喜びある者――〔常に〕満ち足りている、独りある者――彼を、〔賢者たちは〕「比丘」と言う。


982.(982) 水気のあるものを〔食べているとして〕、あるいは、乾燥したものを食べているとして、甚だしく満腹した者として存さないように。気づきある比丘は、〔常に〕腹を空かし〔正しく〕量られた食の者として、遍歴遊行するように。


983.(983) 四〔口〕五口〔の食〕は食べずして、水を飲むように。自己を精励する比丘にとって、平穏の住のためには、〔これで〕十分だ。


984.(984) この義(目的)ある衣料が、適切なるものとして、それを覆い隠すなら、自己を精励する比丘にとって、平穏の住のためには、〔これで〕十分だ。


985.(985) 結跏で坐した者の〔両の〕膝まで、雨が降らない。自己を精励する比丘にとって、平穏の住のためには、〔これで〕十分だ。


986.(986) 〔まさに〕その、〔世俗の〕楽しみを「苦しみである」と見た者、苦しみを「〔毒〕矢である」と見た者――〔彼は〕両者の中間において、〔何ものにも〕成らなかった。世において、誰をもって、何が存するというのだろう。


987.(987) 何時であれ、わたしとともに、悪を求める者、怠惰なる者、精進に劣る者、少聞の者、礼を欠く者が、〔有っては〕ならない。世において、誰をもって、何が存するというのだろう。


988.(988) しかして、多聞にして思慮ある者、諸戒において〔心が〕善く定められた者は、心の止寂に専念する者もまた、〔わたしの〕頭上に立て。


989.(989) 〔まさに〕その、戯論(分別妄想)に専念し、戯論に喜びある獣愚の者――彼は、涅槃〔の境処〕を、束縛からの〔心の〕平安という無上なるものを、失った。


990.(990) しかして、〔まさに〕その、戯論(分別妄想)を捨棄して、戯論なき道に喜びある者――彼は、涅槃〔の境処〕に、束縛からの〔心の〕平安という無上なるものに、達した。


991.(991) もしくは、村であろうが、林であろうが――もしくは、低地であろうが、高地であろうが――そこに、阿羅漢(人格完成者)たちが住むなら、その地は、喜ぶべきものとなる。


992.(992) 〔世俗の〕人が喜ばないような所である、〔人里離れた〕諸々の林は、〔阿羅漢たちにとって〕喜ぶべきものである。貪欲を離れた者たちは、〔そこにおいて〕喜ぶであろう。彼らは、欲望〔の対象〕を求める者たちではない。


993.(993) 〔隠された〕諸々の財宝〔の在処“ありか”〕を伝授する者のように、〔わが身の〕罪過に見ある者(無自覚の罪過を指摘してくれる者)を、彼を、見るなら、そのような賢者と、〔過誤を「過誤である」と正しく〕批判して説く思慮ある者と、親しくするように。そのような者と親しくしている者には、より勝ることが有り、より悪しきことは〔有りえ〕ない。


994.(994) 〔他者を〕教え諭すように。〔真理を〕教え示すように。しかして、不当なことから〔自己を〕防護するように。まさに、彼は、正しくある者たちにとっては、愛しき者と成り、正しからざる者たちにとっては、愛しからざる者と成る。


995.(995・996) 世尊は、覚者は、眼“まなこ”ある方(ブッダ)は、他者のために、法(真理)を説示した。法(真理)が説示されているとき、〔真理を〕義(目的)とする者として、〔わたしは〕耳を傾けた。わたしの、その聴聞は、無駄ならざるもの。〔わたしは〕解脱者として、煩悩なき者として、〔世に〕存している。


996.(996・997) まさしく、過去(前世)の居住〔を知る神通〕のためにあらず、また、天眼〔の獲得〕のためにもあらず、〔他者の〕心を探知する神通のために〔あらず〕、〔有情たちの〕死滅と再生〔を知る神通〕のために〔あらず〕、耳の界域(天耳界)の清浄のためにあらず――わたしの誓願が、〔世に〕見い出されるのは(わたしの誓願は、法のためにある)。


997.(998) まさしく、木の根元に依拠して、剃髪し、大衣を着た、知慧についての最上者、まさしく、ウパティッサ長老(サーリプッタ)は、〔独り〕瞑想する。


998.(999) 思考なき〔境地〕に入定した、正自覚者(ブッダ)の弟子は、まさしく、ただちに、聖なる沈黙の状態を具した者と成る。


999.(1000) また、山の巌が、動揺せず、しっかりと確立しているように、このように、迷妄の滅尽あることから、比丘は、山のように、〔何ものにも〕動じない。


1000.(1001) 常に清らかさを求めている、穢れなき人には、毛先ばかりの悪でも、まさしく、雲ほどに見えてしまう(甚大なものとして認知される)。


1001.(1002) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。正知と気づきの者として、この身体を置き去りにするであろう。


1002.(1003) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。


1003.(1004) 〔常住と断滅の〕両者によっても、これは、死あるだけのこと。未来であろうと、過去であろうと、死ならざるものは〔有りえ〕ない。〔道を〕実践せよ。〔為すことなく〕滅び去ってはならない。まさに、〔いかなる〕時節であろうが、〔無駄に〕過ぎ行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。


1004.(1005) 辺境にある、内外共に守られた城市のように、このように、自己を守るがよい。〔いかなる〕時節であろうが、あなたたちを過ぎ行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。なぜなら、〔いかなる〕時節であろうが〔無駄に〕過ごした者たちは、地獄に引き渡され、憂い悲しむからである。


1005.(1006) 〔心身が〕寂静で、〔貪欲が〕止息し、智慮によって語り、〔心が〕高ぶらない者――〔彼は〕悪しき諸法(性質)を払い落とす――風が、木の葉を〔吹き払う〕ように。


1006.(1007) 〔心身が〕寂静で、〔貪欲が〕止息し、智慮によって語り、〔心が〕高ぶらない者――〔彼は〕悪しき諸法(性質)を落とし去った――風が、木の葉を〔吹き払う〕ように。


1007.(1008) 〔心身が〕寂静で、〔所作に〕苦労なく、清らかな信あり、〔心に〕濁りなく、善き戒あり、思慮ある者は、苦しみの終極を為す者として、〔世に〕存するであろう。


1008.(1009) このように、家ある者たち、そして、出家者たちでさえも、或る一部の者たちについて、信頼しないように(先入見なく事実のとおりに見る)。たとえ、善き者たちとして有っても、善ならざる者たちと成る。善ならざる者たちとして有っても、ふたたび、善き者たちと成る。


1009.(1010) 欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕と、加害〔の思い〕、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)と、〔心の〕高揚、そして、疑惑〔の思い〕――比丘にとって、これらの五つは、心の怠慢である。


1010.(1011) 彼が、〔他者から〕尊敬されているとして、さらには、〔他者の〕尊敬がなくても、両者にたいし、〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)に住する者として、〔心の〕統一(定:三昧の境地)が、〔まったくもって〕動じないなら――


1011.(1012) 彼を、常恒なる瞑想者を、微細な見(瞬間瞬間をあるがままに知り見るものの見方)の観察者を、執取の滅尽を喜びとする者を、〔賢者たちは〕「正しい人である」と言う。


1012.(1013) 大海、地、山、さらに、また、風――〔それらは〕教師(ブッダ)の優れた解脱の喩えには、結び付かない(解脱の境地は喩えようがない)。


1013.(1014) 〔法の〕輪を〔世尊に続いて〕従い転起させる長老(サーリプッタ)は、大いなる知恵ある者であり、〔心が〕定められた者であり、地と水と火に等しく、〔貪りに〕染まらず、〔怒りに〕汚れない。


1014.(1015) 知慧の最奥義(般若波羅蜜)を得た者は、大いなる覚慧ある者であり、大いなる思慧ある者であり、痴者に等しくして痴者ならず、涅槃に到達した者として、常に〔世を〕歩む。


1015.(1016) わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、覚者(ブッダ)の教えは為された。重き荷は安置され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。


1016.(1017) 〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)で、〔道を〕成就するように。これが、わたしの教示である。さあ、わたしは、完全なる涅槃に到達するであろう。〔わたしは〕一切所で、解脱者として存している。ということで――


 ……サーリプッタ長老は……。


17.1.3 アーナンダ長老の詩偈


1017.(1018) しかして、中傷する者と、忿怒する者と、さらには、物惜しみする者と、〔他者の〕破滅を喜ぶ者と、賢者は、友誼を為さぬもの。俗人との交際は、悪である。


1018.(1019) しかして、信ある者と、かつまた、博愛なる者と、知慧ある者と、さらには、多聞の者と、賢者は、友誼を為すもの。正しい人との交際は、幸いである。


1019.(1020) 見よ――様々に作り為された〔欲の〕幻影を――寄せ集めの、傷ある身体を――病んだ、妄想多きものを。それに、常久と止住は、〔何であれ〕存在しない。


1020. 見よ――様々に作り為された〔虚妄の〕形態を、宝珠や耳飾りやらで〔飾り立てられた身体を〕――骨と皮で覆われた〔身体〕を。諸々の衣と共にあって、美しく輝く〔だけのこと〕。


1021. 〔赤の〕染料が為された〔両の〕足、〔白の〕塗粉が塗られた顔――愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を求める者には、さにあらず。


1022. 八房に為された諸々の髪、〔黒の〕塗薬が塗られた〔両の〕眼――愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を求める者には、さにあらず。


1023. 様々な〔彩り〕の新しい塗薬箱のように、〔見てくれを〕十分に作り為した腐敗の身体――愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を求める者には、さにあらず。


1024.(1021) 多聞にして、様々な言説あり、覚者(ブッダ)の侍者にして、重荷を降ろし、束縛を離れた者――ゴータマ(アーナンダ)は、臥所を営む。


1025.(1022) 煩悩が滅尽し、束縛を離れ、執着を超え行き、善く涅槃に到達した者は、生と死の彼岸に至る者となり、最後の肉身を保つ(死後、涅槃に行く)。


1026.(1023) 太陽の眷属たる覚者(ブッダ)の諸々の法(教え)が確立した、〔まさに〕その、涅槃に至る道において、彼は、このゴータマ(アーナンダ)は、立つ。


1027.(1024) 〔わたしは〕覚者(ブッダ)から八万二〔千の法〕を、比丘たちから二千〔の法〕を、掴み取った。すなわち、〔世に〕転起している、八万四千のこれらの法(教え)である。


1028.(1025) この少聞の人は、荷牛のように老い朽ちる。彼の諸々の肉は増え行くが、彼の知慧は増え行くことがない。


1029.(1026) 多聞の者が、彼が、聞かれたもの(聴聞した教え)によって、少聞の者を軽んじるなら、盲者が灯明を保つように、まさしく、そのように、わたしには〔その愚が〕明白となる。


1030.(1027) 多聞の者に近侍するように。しかして、聞かれたもの(聴聞した教え)を失わないように。それは、梵行(禁欲清浄行)の根元である。それゆえに、法(教え)を保つ者として存するように。


1031.(1028) 前後〔関係〕を知り、義(意味)を知り、語義を熟知する者は、しかして、見事に把握された〔法〕を把握し、かつまた、義(意味)を近しく注視する。


1032.(1029) 忍耐によって、〔涅槃の境処への〕欲〔の思い〕(意欲)を為した者と成る。〔断固〕敢行して、それを〔考量し〕比較する。彼は、内に〔心が〕善く定められた者であり、〔正しい〕時に〔刻苦〕精励する。


1033.(1030) 多聞にして、法(教え)を保ち、知慧を有する、覚者(ブッダ)の弟子と――法(教え)の識別(識:認識作用一般、差異を識知する働き)あり、〔涅槃の境処を〕望む、そのような種類の者と、彼と、親しくするように。


1034.(1031) 多聞にして、法(教え)を保ち、〔教えの〕蔵を守る、大いなる聖賢は、一切世〔界〕の眼たる多聞の者は、供養されるべきである。


1035.(1032) 法(真理)を喜びとし、法(真理)に喜びあり、法(真理)を〔常に〕弁別し、法(真理)を〔常に〕思念している比丘は、正なる法(真理)から衰退しない。


1036.(1033) 〔身体が〕失われつつあるのに奮起せず、身体にたいする物惜しみ〔の思い〕を重んじ、肉体の楽しみを貪る者に、どうして、沙門の平穏〔の境地〕があるというのだろう。


1037.(1034) 一切の方角は定まらず、諸々の法(教え)は、わたしには〔いまだ〕明白とはならない。善き朋友(サーリプッタ)が〔死へと〕赴いたとき、〔世界は〕暗黒であるかに見える。


1038.(1035) 道友(サーリプッタ)が去り行き、教師(ブッダ)が過ぎ行き〔死へと〕赴いた者にとって、身体の在り方(時々刻々の身体の状況)についての気づき(念)のような、このような〔善き〕朋友は、〔今となっては〕存在しない。


1039.(1036) 彼ら、古き者たち――彼らは、過ぎ行った。わたしには、新しい者たちとは、〔互いが互いを〕行知することはない。その〔わたし〕は、今日、まさしく、独り、瞑想する――雨に降られた鳥捕りのように。


1040.(1037) 〔世尊は言った〕「〔わたしに〕相見“まみ”えるために〔遠方から〕超え来た、種々なる国々の多くの者たちを、〔聞く〕耳ある者たちを、妨げることがあってはならない。わたしに相見えよ。〔今が、その〕時である」〔と〕。


1041.(1038) 〔教師に〕相見えるために〔遠方から〕超え来た、種々なる国々の多々なる者たちに、教師(ブッダ)は、〔聴聞の〕機会を作る。眼ある方(ブッダ)は、〔他を〕妨げない。


1042.(1039) 二十五年のあいだ、学びある者(有学)と成り、〔世に〕存しているわたしに、欲望〔の対象〕の想い(想:表象・概念)は生起しなかった。見よ――法(事象)が善き法(事象)たることを。


1043.(1040) 二十五年のあいだ、学びある者と成り、〔世に〕存しているわたしに、憤怒(瞋)の想いは生起しなかった。見よ――法(事象)が見事に法(事象)たることを。


1044.(1041) 二十五年のあいだ、慈愛ある身体の行為(身業)によって、〔わたしは〕世尊(ブッダ)に奉仕してきた――影が離れないように。


1045.(1042) 二十五年のあいだ、慈愛ある言葉の行為(口業)によって、〔わたしは〕世尊(ブッダ)に奉仕してきた――影が離れないように。


1046.(1043) 二十五年のあいだ、慈愛ある意の行為(意業)によって、〔わたしは〕世尊(ブッダ)に奉仕してきた――影が離れないように。


1047.(1044) 歩行〔瞑想〕をしている覚者(ブッダ)の後に従い歩行〔瞑想〕をした。法(教え)が説示されているとき、わたしに、知恵が生起した。


1048.(1045) 〔いまだ〕為すべきこと有るわたしは、学びある者として、〔涅槃の〕意を得ずにいる者として、〔世に〕存している。しかして、わたしたちにとって慈しみ〔の思い〕ある方である、〔まさに〕その、教師(ブッダ)には、完全なる涅槃が〔存した〕(般涅槃した)。


1049.(1046) 一切の優れた行相を具した正覚者(ブッダ)が、完全なる涅槃に到達したとき、そのとき、〔まさに〕その、禍々“まがまが”しき〔思い〕が存した。そのとき、身の毛のよだつ〔思い〕が存した。


1050.(1047) 〔アーナンダ長老の死後、残された者は詩偈を唱えた〕「多聞にして、法(教え)を保ち、〔教えの〕蔵を守る、大いなる聖賢は、一切世〔界〕の眼たるアーナンダ(阿難:人名・ブッダの侍者)は、完全なる涅槃に到達した者となる(般涅槃した)。


1051.(1048) 多聞にして、法(教え)を保ち、〔教えの〕蔵を守る、大いなる聖賢は、一切世〔界〕の眼たる方(アーナンダ)は、暗黒のうちにありながら闇を除去する者である。


1052.(1049) 〔善き〕境遇ある者(善趣に赴く者)、〔常に〕気づきある者、しかして、〔まさに〕その、〔道心〕堅固の聖賢――正なる法(教え)を保つ、アーナンダ長老は、宝の鉱脈である」〔と〕。


1053.(1050) わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、覚者(ブッダ)の教えは為された。重き荷は安置され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。ということで――


 ……アーナンダ長老は……。


 三十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「プッサ、ウパティッサ(サーリプッタ)、アーナンダ、かくのごとく、これらの三者の栄誉ある〔長老たち〕があり、そこにおいて、百、および、〔それを〕超えること五と数えられた詩偈がある」と。


18 四十なるものの集まり


18.1 第一の章


18.1.1 マハー・カッサパ長老の詩偈


1054.(1051) 衆に尊ばれる者として、〔世を〕歩まぬもの。意が離れる者と成り、〔心の〕統一(定:三昧の境地)は得難きものと〔成る〕。「種々なる人が群れ集うのは、苦しみである」と見て、衆を喜ばぬもの。


1055.(1052) 牟尼(沈黙の聖者)は、家々を訪ね回らぬもの。意が離れる者と成り、〔心の〕統一は得難きものと〔成る〕。彼が、〔世俗の〕安楽をもたらす者となり、〔出家の〕義(目的)を遠ざけるなら、彼は、〔俗事に〕思い入れある者であり、味を貪る者である。


1056.(1053) すなわち、家々における、この敬拝と供養であるが、まさに、それを、〔賢者たちは〕「汚泥である」と知った。微細な矢は抜き難く、〔他者からの〕尊敬は、俗人には捨て難い。


1057.(1054) 臥坐所から降りて、〔行乞の〕食のために、〔わたしは〕城市に入った。癩病の人が〔何やら〕食べているところに、彼〔の傍ら〕に、〔わたしは〕恭しく立った。


1058.(1055) 彼は、爛熟した手で、わたしに、一握り〔の食〕を授けてくれた。一握り〔の食〕を〔鉢に〕置く〔彼〕の〔腐った〕指も、このとき、〔一緒に〕断ち切られた。


1059.(1056) しかして、〔城市の〕壁の根元に依拠して、〔わたしは〕その一握り〔の食〕を食べた。あるいは、〔それを〕食べつつも、あるいは、食べてしまったときも、わたしに、忌避〔の思い〕は見い出されない。


1060.(1057) 〔戸口に〕立って受ける〔行乞の〕食を食とし、しかして、腐尿(発酵した牛の尿)を薬とし、木の根元を臥坐所とし、さらには、糞掃衣(ぼろ布)を衣料とする、彼が、これらのものを征服して〔そののち〕(不満の思いが克服され、常に満ち足りているなら)、まさに、彼は、四方の人となる。


1061.(1058) 或る者たちが〔そそり立つ〕巌の連なりを登りつつ、〔結局は〕打ちのめされてしまう、そのような所でも、覚者たる彼(ブッダ)の相続者にして正知と気づきの者、神通の力に支えられたカッサパ(迦葉:人名・ブッダの高弟)は、〔楽々と〕登る。


1062.(1059) 〔行乞の〕施食(托鉢)から戻り、巌に登って、執取〔の思い〕なく、〔あらゆる〕恐れと恐ろしさを捨棄した者、カッサパは、〔独り〕瞑想する。


1063.(1060) 〔行乞の〕施食(托鉢)から戻り、巌に登って、執取〔の思い〕なく、〔欲の炎に〕焼かれている者たちのなかにいながら涅槃に到達した者、カッサパは、〔独り〕瞑想する。


1064.(1061) 〔行乞の〕施食(托鉢)から戻り、巌に登って、執取〔の思い〕なく、為すべきことを為した煩悩なき者、カッサパは、〔独り〕瞑想する。


1065.(1062) カレーリの花畑が広がった、意が喜びとする、諸々の地域――喜ばしく、象の鳴き声がする、それらの巌は、わたしを喜ばせる。


1066.(1063) 青き雲の色の、好ましく、冷たい水があり、〔常に〕清らかさを保ち、〔心地よい〕インダゴーパカ〔草〕に覆われた、それらの巌は、わたしを喜ばせる。


1067.(1064) 青き雲の峰に等しく、楼閣の如くで、喜ばしく、象の鳴き声がする、それらの巌は、わたしを喜ばせる。


1068.(1065) 雨を得た諸々の喜ばしき平地、聖賢たちが慣れ親しむ山々、孔雀たち〔の声〕が鳴り響く、それらの巌は、わたしを喜ばせる。


1069.(1066) 瞑想することを欲し自己を精励する者として〔世に〕存している、わたしには、〔それで〕十分だ。〔解脱という〕義(目的)を欲し自己を精励する比丘である、わたしには、〔それで〕十分だ。


1070.(1067) 平穏を欲し自己を精励する比丘である、わたしには、〔それで〕十分だ。〔心の〕制止を欲し自己を精励する、そのような者である、わたしには、〔それで〕十分だ。


1071.(1068) 諸々の雲に覆われた空のように、ウンマーの花々をまとい、種々なる鳥の群れがそぞろ行く、それらの巌は、わたしを喜ばせる。


1072.(1069) 在家の者たちがそぞろ行くことなく、鹿の群れが慣れ親しみ、種々なる鳥の群れがそぞろ行く、それらの巌は、わたしを喜ばせる。


1073.(1070) 澄んだ水をたたえ、広々とした岩盤があり、黒面の猿や鹿が群れつどい、水と苔に覆われた、それらの巌は、わたしを喜ばせる。


1074.(1071) 心を一境にし、法(事象)を〔常に〕正しく観察している者にとってのような、そのような、わたしにとっての歓楽は、五つの支分ある楽器によっては有りえない(世俗の歓楽を超えた歓楽が存在する)。


1075.(1072) 〔世俗に関わる〕多くの行為(業)を為さないように。〔世俗に関わる〕人を遍く避けるように。〔俗事に〕努めないように。彼が、〔世俗の〕安楽をもたらす者となり、〔出家の〕義(目的)を遠ざけるなら、彼は、〔俗事に〕思い入れある者であり、味を貪る者である。


1076.(1073) 〔世俗に関わる〕多くの行為を為さないように。義(道理)のない〔俗事〕に導くこの者を遍く避けるように。身体は難渋し、疲弊する。〔俗事に〕苦しんだ彼は、〔心の〕止寂を知らない。


1077.(1074) 〔彼は〕唇を打つばかりで、自己さえも見ない。強情な首で(天狗になって)〔世を〕歩み、「わたしは、〔誰よりも〕より勝っている」と思いなす。


1078.(1075) 〔誰よりも〕より勝っていない愚者は、自己のことを、「〔誰よりも〕より勝っている者として〔世に〕存している」と思いなす。彼を、強情な意の人を、識者たちは賞賛しない。


1079.(1076) しかしながら、彼が、「わたしは、〔誰よりも〕より勝っている者として〔世に〕存している」と、あるいは、また、「わたしは、〔誰よりも〕より勝っていない」と、あるいは、「〔彼に〕劣る」「彼と同等である」と、諸々の種類に〔心が〕動かないなら――


1080.(1077) 知慧ある者であり、そのような如なる者を、諸戒において〔心が〕善く定められた者を、心の止寂に専念する者を、しかして、彼を、識者たちは賞賛する。


1081.(1078) 彼に、共に梵行(禁欲清浄行)を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められないなら、〔彼は〕正なる法(真理)から遠く離れて有る――地が、天空から〔遠く離れて有る〕ように。


1082.(1079) しかしながら、彼らの、恥〔の思い〕(慚)と〔良心の〕咎め(愧)が、常に正しく現起しているなら、彼らは、梵行が育ち実った者たちであり、彼らの、諸々のさらなる〔迷いの〕生存は滅尽したものとなる。


1083.(1080) 〔心が〕高ぶり、動揺し、〔それでいて〕糞掃衣を着た比丘――彼は、獅子の皮を〔被った〕猿のように、それによって光り輝かない。


1084.(1081) 〔心が〕高ぶらず、動揺せず、賢明で、〔感官の〕機能(根)が統御された〔比丘〕は、山窟にある獅子のように、糞掃衣によって美しく輝く。


1085.(1082) これらの、神通と福徳ある数多くの天〔の神々〕たちは、梵の衆たる数万の天〔の神々〕たち(梵天衆)は、彼らの全てが――


1086.(1083) 法(教え)の軍団長、勇者にして偉大なる瞑想者、〔心が〕定められた方、サーリプッタ(舎利弗:人名・ブッダの高弟)を礼拝しながら、合掌を為し、立つ。


1087.(1084) 〔天の神々たちは言った〕「善き生まれの人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。〔まさに〕その、あなたのばあい、〔人が〕依拠して瞑想する、その〔対象物〕でさえも、〔わたしたちは〕証知しません。


1088.(1085) まさに、稀有なることです。覚者たちの深遠なる境涯は、〔覚者〕自らのものです。すなわち、わたしたちは、〔髪の〕毛を貫く者たちの集まりですが、〔それを〕証知しません」〔と〕。


1089.(1086) そのように、天の衆たちに供養され、供養に値する方、〔まさに〕その、サーリプッタを見て、そのとき、カッピナ(マハー・カッサパ)には、笑みが有った。


1090.(1087) 覚者(ブッダ)の田畑(福田)におけるかぎり、偉大なる牟尼(ブッダ)を除いて、わたしは、〔心の汚れを〕払い落とす徳(頭陀行)において、殊勝の者であり、わたしと同等の者は、〔どこにも〕見い出されない。


1091.(1088) わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、覚者(ブッダ)の教えは為された。重き荷は安置され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。


1092.(1089) ゴータマ(ブッダ)は、〔世俗の物差しでは〕量ることができない。〔彼は〕衣料に〔汚され〕ず、臥所に〔汚され〕ず、食に汚されない――蓮の花が、垢(汚れ)を離れ、〔汚〕水に〔汚されない〕ように。離欲して〔涅槃の境処に〕下向した方、三つの〔迷いの〕生存(三界)を出離した方である。


1093.(1090) 彼は、偉大なる牟尼(ブッダ)は、気づきの確立(念処・念住)を首とし、信を手とし、知慧を頭とし、常に、偉大なる知恵ある方として、涅槃に到達した方として、〔世を〕歩む。ということで――


 ……マハー・カッサパ長老は……。


 四十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「四十なるものの集まりにおいて、マハー・カッサパという呼び名を有する長老が、まさしく、独りあり、四十の詩偈が、さらに、また、二つ〔の詩偈〕がある」と。


19 五十なるものの集まり


19.1 第一の章


19.1.1 ターラプタ長老の詩偈


1094.(1091) いったい、何時、わたしは、伴侶なき独一者となり、諸々の山窟に住むのだろう。一切の生存を「常住ならざるもの(無常)である」と〔あるがままに〕観察するのだろう。それは、わたしにとって、このことは――それは、いったい、何時のことに成るのだろう。


1095.(1092) いったい、何時、わたしは、破れた布きれを〔身に〕付ける、黄褐色の衣(袈裟)の牟尼となり、我執なく、依存〔の対象〕なく、まさしく、そのように、貪り(貪)と、怒り(瞋)と、迷い(痴)を打ち砕いて、山腹に赴き、安楽の者として住むのだろう。


1096.(1093) 何時、この身体を、常住ならざるものと、殺と病の巣と、死と老に悩まされるものと、〔あるがままに〕観察しながら、恐怖〔の思い〕を離れた者となり、独り、林に住むのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。


1097.(1094) いったい、何時、わたしは、恐怖〔の思い〕を生み、苦しみをもたらし、多くの種類に随転する、渇愛の蔓草を――知慧によって作られる鋭い剣を掴み取って――断ち切って住むのだろう。それはまた、何時のことに成るのだろう。


1098.(1095) いったい、何時、知慧によって作られる、聖賢たちの烈火の刃を、即座に取って、獅子坐に〔坐し〕、軍団を有する悪魔を、即座に打ち破るのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。


1099.(1096) いったい、何時、わたしは、諸々の集いにおいて、正しくある者たちによって――法(教え)を重んじる、如なる者たちによって――あるがままに見る、〔感官の〕機能に勝利した者たちによって――〔刻苦〕精励の者と見られることに成るのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。


1100.(1097) いったい、何時、わたしを、ギリッバジャ(地名・王舎城の別名)において義(道理)を義(目的)をする、その〔わたし〕を、諸々の倦怠や飢えや渇きが、諸々の風と熱が、あるいは、諸々の虫や蛇が、悩まさなくなるのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。


1101.(1098) いったい、何時、まさに、その、偉大なる聖賢によって見い出された、極めて見難き四つの真理(四聖諦)という、その〔法〕に、自己が定められた気づきある者となり、知慧によって至り着くのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。


1102.(1099) いったい、何時、わたしは、しかして、無量なる、諸々の形態(色:眼の対象)を、諸々の音声(声:耳の対象)を、諸々の味感(味:舌の対象)を、諸々の臭香(香:鼻の対象)を、さらには、諸々の感触(所触:身の対象)を、諸々の法(法:意の対象)を、「燃え盛るものである」と、諸々の〔心の〕寂止(奢摩他・止)に専念する者となり、知慧によって見ているのだろう。それは、わたしにとって、このことは、何時のことに〔成るのだろう〕。


1103.(1100) いったい、何時、わたしは、悪口を言われたとして、それを理由に、意が離れる者と成らなくなるのだろう。しかして、また、賞賛されたとして、それを理由に、満ち足りた者と成らなくなるのだろう。それは、わたしにとって、このことは、何時のことに〔成るのだろう〕。


1104.(1101) いったい、何時、わたしは、しかして、諸々の薪と、諸々の草と、さらには、諸々の蔓と、これらの〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)を、さらには、無量なる諸々の法(事象)を、まさしく、諸々の内なるものも、諸々の外なるものも、等しきものと〔考量し〕比較できるのだろう。それは、わたしにとって、このことは、何時のことに〔成るのだろう〕。


1105.(1102) いったい、何時、わたしに――〔黄褐色の〕衣料(袈裟)を有し、林のなかで、〔かつて〕聖賢たちが行き来した道を行く〔わたし〕に――雨期の黒雲が、新鮮な水を降り注ぐのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。


1106.(1103) 何時、林のなかの山窟で、冠毛ある孔雀鳥の鳴き声を聞いて、不死〔の境処〕を得るために、奮起して思弁するのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。


1107.(1104) いったい、何時、ガンガー〔川〕を、ヤムナー〔川〕を、サラッサティー〔川〕を、パーターラ・キッタ〔の深淵〕を、さらには、ヴァラヴァー・ムカ〔の海溝〕を、禍々しき〔障害〕を、神通によって、沈むことなく超え渡るのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。


1108.(1105) いったい何時、戦場を歩む象のように、諸々の欲望の対象(妙欲)にたいする欲〔の思い〕を破り去るのだろう。瞑想(禅・静慮:禅定の境地)に専念する者となり、一切の美しい相(美しく価値があるように見えるもの)を避けるのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。


1109.(1106) 何時、財ある者たちに責め苛まれ、借金に苦悩する貧者が、〔隠された〕財宝に達して、〔幸せになる〕ように、偉大なる聖賢の教えに到達して、満ち足りた者と成るのだろう。それは、いったい、何時のことに成るのだろう。


1110.(1107) 多年にわたり、おまえに乞われてきた者として、〔わたしは〕存している。「家に住むこと、このことは、おまえにとって、もう、十分だ(すみやかに出家せよ)」〔と〕。心よ、〔まさに〕その、今や、出家者であるわたしを、おまえは、何を動機として、〔心の〕平静に結び付けないのか(わたしの心は平安を得ない)。


1111.(1108) 心よ、まさに、おまえに乞われてきた者として、わたしは存しているではないか。「ギリッバジャ(地名・王舎城の別名)には、様々な〔彩り〕の覆(羽毛)ある、宙を行く〔鳥〕たちがいて、彼らは、大いなるインダ(インドラ神)の声(雷鳴)が鳴り響くのに唱和し、林のなかで瞑想するおまえを喜ぶであろう」〔と〕。


1112.(1109) 家における、しかして、朋友たちを、さらには、愛しい者たちを、親族たちを、世における、遊興の歓楽を、さらには、欲望の対象を、〔その〕一切を捨棄して、このこと(出家)に到達した〔わたし〕である。心よ、しかして、また、おまえは、わたしに満足しない。


1113.(1110) この〔心〕は、まさしく、わたしのものである。まさに、おまえは、他者たちのものではない。甲冑〔を身に付ける〕時に嘆き悲しむことが、何になるというのだろう。「この一切は、動揺するものである」と見ながら、不死の境処を望み求めつつ〔わたし〕は、〔家を〕出た。


1114.(1111) 二足の者たちのなかの最上者にして、〔真理と〕見事に結び付いた〔法〕を説く方(ブッダ)は、調御されるべき人の馭者にして、偉大なる能力ある方(ブッダ)は、「心は、動揺するもの、猿に似ている。貪りを離れないうちは、極めて防護し難きもの」と〔説いた〕。


1115.(1112) まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、〔蜜のように〕甘美で、意が喜びとし、無知なる凡夫たちが依存する所である。彼らは、さらなる生存(再生)を求める者たちであり、〔迷える〕心に導かれた者たちであり、地獄に捨てられた者たちであり、苦しみを〔自ら〕求める。


1116.(1113) 「孔雀や白鷺の鳴き声がする森に、豹たちや虎たちに囲まれて住みながら、身体にたいする期待〔の思い〕を捨棄せよ。〔気づきを〕失ってはならない」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。


1117.(1114) 「しかして、〔四つの〕瞑想(四禅)を、さらには、〔五つの〕機能(五根)と〔五つの〕力(五力)を、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)と〔心の〕統一(定:三昧の境地)の修行を、修めよ。しかして、覚者(ブッダ)の教えにおいて、三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)を体得せよ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。


1118.(1115) 「不死〔の境処〕を得るために、出脱〔の教え〕を、一切の苦しみの滅尽という〔不死への〕沈潜を、一切の〔心の〕汚れ(煩悩)を清める八つの支分ある〔聖なる〕道(八正道)を、修めよ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。


1119.(1116) 「〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)を、『苦しみである』と、根源“あり”のままに観よ。しかして、それあることから、苦しみを集起させる、〔まさに〕その〔集起の因〕を捨棄せよ。まさしく、この〔世において〕、苦しみの終極を為せ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。


1120.(1117) 「『〔一切は〕常住ならざるもの(無常)である。苦しみである』と、『〔一切は〕空である。自己ならざるもの(無我)である』と、しかして、『〔一切は〕悩苦である。屠殺である』と、根源のままに観察せよ。〔迷える〕心の、諸々の意による〔微細な〕想念を破壊せよ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。


1121.(1118) 「剃髪し、醜い形姿で、呪い〔の言葉〕を浴び、まさしく、鉢を手にする者となり、家々を行乞せよ。偉大なる聖賢たる教師(ブッダ)の言葉に専念せよ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。


1122.(1119) 「自己が善く統御された者と〔成れ〕――道の外れを歩みつつ、家々においては、諸々の欲望〔の対象〕について、執着の意なき者と〔成れ〕――満月〔の夜〕の月明かりのなかの月のように」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。


1123.(1120) 「しかして、林にある者と成れ。〔行乞の〕施食の者と〔成れ〕。さらには、墓場にある者と成れ。糞掃衣の者と〔成れ〕。常坐〔にして不臥〕なる者と成れ。常に、〔心の汚れを〕払い落とすこと(頭陀)に喜びある者と〔成れ〕」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。


1124.(1121) 木々を育てて果を求める者が、まさしく、その木を、根において断ち切るよう、〔彼に〕求めるようなもので、その喩えのように、心よ、〔おまえは〕このことを為す――動揺し、常住ならざるもののうちに、〔おまえが〕わたしを駆り立てる、というのなら。


1125.(1122) 形なき者よ、遠くに行く者よ、独り歩む者よ、おまえの言葉を、わたしは、今や、為さないであろう。まさに、諸々の欲望〔の対象〕は、苦しみである。辛く、大いなる恐怖である。〔自己の〕意に相対する者(心のあり方を観察する者)として、まさしく、涅槃〔の境処〕へと、〔わたしは〕歩むであろう。


1126.(1123) 不運のゆえにあらず、あるいは、恥〔の思い〕なきがゆえに〔あらず〕、〔迷える〕心を因としてにあらず、さらには、〔親族に〕追放されたがゆえにあらず――わたしが〔家を出たのは〕。しかして、わたしは、生計を因として、〔家を〕出たのではない。心よ、しかして、〔出家の〕承諾は、おまえのために、わたしによって為されたのだ。


1127.(1124) 「求むこと少なきこと、隠覆“かくしだて”の捨棄、苦しみの寂止は、正しい人たちによって褒め称えられた」と、心よ、まさに、そのとき、わたしを駆り立てたのだ。今や、おまえは、かつて歩んだところへと、〔ふたたび〕赴く。


1128.(1125) 渇愛〔の思い〕、無明と、愛しいものと愛しくないもの(愛憎の対象)と、諸々の美しい形態(美しく価値があるように見えるもの)、諸々の安楽の感受(楽受:快感)と、意に適う諸々の欲望の対象と、〔その一切は〕吐き捨てられた。吐き捨てられたものうちに帰ることは、わたしはできない。


1129.(1126) 心よ、一切所で、おまえの言葉は、わたしによって為された。多くの生において、わたしのために、〔おまえが〕怒りある者として存することはなかった(わたしは、おまえを怒らせなかった)。おまえの〔自分勝手な〕知恩〔の情〕によって(受けた恩恵を欲の思いで執着することを因として)、内に発生するものがある(心に苦悩や妄想が生起する)。おまえによって作られた苦しみのうちに、長きにわたり輪廻した。


1130.(1127) 心よ、まさしく、おまえは、〔真の〕婆羅門として為さない。おまえは、士族として、王族として、存し、為す。或る時は、〔わたしたちは〕庶民たちやら隷民たちやらと成る。あるいは、また、天〔の神〕たることも、まさしく、おまえに由縁する。


1131.(1128) まさしく、おまえを因として、〔わたしたちは〕阿修羅たちと成る。おまえを根元として、〔わたしたちは〕地獄にある者たちと成る。しかして、或る時は、畜生の境遇もまたあれば、あるいは、また、餓鬼たることも、まさしく、おまえに由縁する。


1132.(1129) ムフンムフンと芝居を見せるかのように、まさに、〔おまえは〕わたしを繰り返し裏切るではないか。狂者を〔誘惑する〕ように、〔おまえは〕わたしを誘惑する。心よ、しかして、また、おまえが、何だというのだろう。〔おまえは〕わたしに見捨てられたのだ。


1133.(1130) かつて、この心は、〔気ままに〕歩みさすらう者として歩んできた――求める所から、欲する所へと、安楽“すき”なように。わたしは、今日、それ(心)を、根源から制御するであろう――鉤をもつ捕捉者(象使い)が、狂象を〔調御する〕ように。


1134.(1131) しかして、教師(ブッダ)は、わたしのために、この世〔界〕を「常住ならず、常久ならず、真髄なきものである」と確立した(喝破した)。心よ、わたしを、勝者(ブッダ)の教えに入らしめよ。極めて超え難い大激流から超え渡らしめよ。


1135.(1132) 心よ、おまえにとって、このことは、過去のようにはならない。わたしがおまえの支配に戻るには、十分ではない(何の魅力もない)。偉大なる聖賢(ブッダ)の教えにおける出家者として、〔わたしは〕存している。わたしのような者たちは、〔もはや〕破滅〔の道〕を保つ者たちと成らない。


1136.(1133) 諸々の山、諸々の海、諸々の川、諸々の大地、四方(東西南北)、〔四〕維(四方の中間)、〔上方と〕下方――一切は、常住ならざるもの(無常)である。三つの生存(三界)は、〔老と死によって〕悩まされている。心よ、〔おまえは〕どこに赴き、安楽を喜ぶというのだろう。


1137.(1134) 厭わしきかな、かくのごとく、心よ、わたしのために、他に、何を為すというのだろう。心よ、おまえの支配に転じ行くのは、十分ではない(何の魅力もない)。もはや、鞴“ふいご”の口を、両〔側〕から吹きはすまい。〔この身体は〕厭わしきものとして存せ。〔汚物に〕満ち、〔汚物が〕流れ出る九つの流れあるものは。


1138.(1135) 野猪や羚羊が出没し慣れ親しむ山腹の峰に、まさしく、美妙なる自然のなか、新鮮な水が降り注ぐ雨の森において、〔おまえは〕そこにある洞窟の家に赴き、〔それらを〕喜ぶであろう。


1139.(1136) 美しい青首、美しい冠毛、美しい尾翼、種々様々な〔彩り〕の翼の覆“おおい”ある、宙を行く〔鳥〕たちがいて、彼らは、美しく精妙な声が響くのに唱和し、林のなかで瞑想するおまえを喜ぶであろう。


1140.(1137) 天が雨降り、草が四指〔の高さ〕になり、森〔の木々〕が雲にも似て花ひらいたとき、山々の間にあって、〔わたしは〕木の枝に等しい者として、〔地に〕臥すであろう。その〔場所〕は、わたしにとって、綿毛に似て柔らかいものと成るであろう。


1141.(1138) しかしながら、あたかも、イッサラ〔天〕(自在天:イーシュヴァラ神)であるかのように、そのように、〔わたしは〕為すであろう。それが、〔わたしに〕得られるなら、それで、もう、わたしにとって、十分と成れ。休みなく〔働く革職人〕が、まさしく、猫の皮を〔鞣す〕ように、見事に鞣した〔猫の皮〕を〔袋にする〕ように、わたしは、おまえに為すであろう。


1142.(1139) しかしながら、あたかも、イッサラ〔天〕であるかのように、そのように、〔わたしは〕為すであろう。それが、〔わたしに〕得られるなら、それで、もう、わたしにとって、十分と成れ。巧みな智ある、鉤もつ捕捉者が、発情した象を〔制御する〕ように、精進によって、おまえを、わたしの支配に導くであろう。


1143.(1140) まさに、調教師が、真っすぐに〔進む〕馬とともに〔行く〕ように、善く調御され確立されたおまえとともに、心を守る者たちに常に慣れ親しまれてきた至福の道を、実践することができるのだ。


1144.(1141) 象を、堅固な縄で柱に〔繋ぎ止める〕ように、おまえを、力で〔瞑想の〕対象(所縁)に縛り付けるであろう。おまえは、わたしによって善く守られ、気づき(念)によって善く修められ、一切の〔迷いの〕生存にたいし依存なきものと成るであろう。


1145.(1142) 邪道に従い行く〔心〕を、知慧によって断ち切って、〔心の〕制止(瑜伽)によって制御して、〔正しい〕道において、〔自己を〕確たるものとせよ。〔物事の〕集起を〔あるがままに〕見て、さらには、消滅と発生を〔あるがままに見て〕、〔おまえは〕至高の説き手(ブッダ)の相続者と成るであろう。


1146.(1143) 四つの転倒の支配が確立した〔愚かな〕牧童を〔迷わす〕ように、心よ、〔おまえは〕わたしを遍く導く。束縛するものと結縛するものを断ち切る方(ブッダ)に、慈悲ある方にして偉大なる牟尼(ブッダ)に、まさに、〔おまえは〕仕え親しむのではないのか。


1147.(1144) 種々様々な森のうちに独り存する鹿が、雨雲のような花畑がある、喜ばしき山へと〔入って行く〕ように、〔世俗の〕混乱のない〔静かな〕山で、そこにおいて、〔わたしは〕喜び楽しむのだ。心よ、〔おまえは〕疑念なきものとなり、〔やがては〕滅び行くであろう。


1148.(1145) 彼らが、おまえの欲〔の思い〕の支配によって転起する者たちとなり、男たちも、女たちも、〔まさに〕その、〔世俗の〕安楽を味わい楽しむなら、〔彼らは〕無知なる者たちであり、悪魔の支配に転じ行く者たちであり、〔迷いの〕生存を喜ぶ者たちであり、心よ、おまえの従僕たちである。ということで――


 ……ターラプタ長老は……。


 五十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「五十なるものの集まりにおいて、清らかなるターラプタが、独りあり、そこにおいて、五十、および、〔それを〕超えること、さらなる五の詩偈がある」と。


20 六十なるものの集まり


20.1 第一の章


20.1.1 マハー・モッガッラーナ長老の詩偈


1149.(1146) 林にある者たちとして、〔行乞の〕施食の者たちとして、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者たちとして、内に〔心が〕善く定められた者たちとして、〔わたしたちは〕死魔の軍団を打ち破るであろう。


1150.(1147) 林にある者たちとして、〔行乞の〕施食の者たちとして、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者たちとして、象が葦の家を〔踏み敷く〕ように、〔わたしたちは〕死魔の軍団を打ち払うのだ。


1151.(1148) 木の根元にある者たちとして、〔不退転の〕常恒なる者たちとして、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者たちとして、内に〔心が〕善く定められた者たちとして、〔わたしたちは〕死魔の軍団を打ち破るであろう。


1152.(1149) 木の根元にある者たちとして、〔不退転の〕常恒なる者たちとして、鉢に残飯が盛られたのを喜ぶ者たちとして、象が葦の家を〔踏み敷く〕ように、〔わたしたちは〕死魔の軍団を打ち払うのだ。


1153.(1150) 〔この身体は〕厭わしきものとして存せ。肉と腱で縫い合わされた骸骨の小屋について、悪臭に満ち他のものである四肢について、〔おまえは〕わがものと〔錯視〕する。


1154.(1151) 皮に覆われた糞袋よ、胸に腫物(乳房)ある魔女よ、おまえの身体には、一切時において〔不浄物が〕流れ出る、それらの九つの流れがある。


1155.(1152) おまえの肉体を、九つの流れがあり、悪臭を作り為す、遍き結縛を、比丘は、それを、遍く避ける――しかして、清らかさを欲する者が、糞を〔避ける〕ように。


1156.(1153) わたしが、おまえ〔の正体〕を知るように、このように、もし、人が、おまえ〔の正体〕を知るなら、雨期に糞坑“こえだめ”を〔避ける〕ように、遠く離れて、〔おまえを〕遍く避けるであろう。


1157.(1154) 〔娼婦は言った〕「偉大なる勇者よ、このように、このことは、沙門よ、〔あなたが〕語るとおりです。そして、或る者たちは、ここ(女性の身体)に沈みます――老いた牛が、汚泥に〔沈む〕ように」〔と〕。


1158.(1155) 彼が、鬱金“うこん”で、あるいは、また、他の染料で、虚空を染めようと思うなら、それは、悩苦の生成あるだけのこと。


1159.(1156) その虚空に等しく、内に善く定められた、〔わたしの〕心へと、悪しき心の者よ、鳥捕りが火の集塊“かたまり”に〔落ち行く〕ように、近づいてはならない。


1160.(1157) 見よ――様々に作り為された〔欲の〕幻影を――寄せ集めの、傷ある身体を――病んだ、妄想多きものを。それに、常久と止住は、〔何であれ〕存在しない。


1161. 見よ――様々に作り為された〔虚妄の〕形態を、宝珠や耳飾りやらで〔飾り立てられた身体を〕――骨と皮で覆われた〔身体〕を。諸々の衣と共にあって、美しく輝く〔だけのこと〕。


1162. 〔赤の〕染料が為された〔両の〕足、〔白の〕塗粉が塗られた顔――愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を求める者には、さにあらず。


1163. 八房に為された諸々の髪、〔黒の〕塗薬が塗られた〔両の〕眼――愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を求める者には、さにあらず。


1164. 様々な〔彩り〕の新しい塗薬箱のように、〔見てくれを〕十分に作り為した腐敗の身体――愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を求める者には、さにあらず。


1165. 猟師は、罠を置いた。鹿は、網に近寄らなかった。「餌を食べて、〔さあ〕行こう」〔と〕。猟師は、泣き叫ぶ。


1166. 猟師の罠は、断ち切られた。鹿は、網に近寄らなかった。「餌を食べて、〔さあ〕行こう」〔と〕。猟師は、憂い悲しむ。


1167.(1158) 無数の〔優れた〕行相を成就したサーリプッタ(舎利弗:人名・ブッダの高弟)が、涅槃に到達したとき、そのとき、〔まさに〕その、禍々しき〔思い〕が存した――そのとき、身の毛のよだつ〔思い〕が存した。


1168.(1159) 諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)は、まさに、常住ならざるもの(無常)にして、生起と衰微の法(性質)である。〔それらは〕生起しては、止滅する。それらの寂止は、安楽である。


1169.(1160) 彼らが、〔心身を構成する〕五つの範疇(五蘊:物質的形態・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用)を「他者である」と、さらには、「自己ではない」と、〔あるがままに〕見るなら、矢で毛の先端を〔射抜く〕ように、〔彼らは〕微細なる〔道理〕を理解する。


1170.(1161) しかして、彼らが、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)を「他者である」と、さらには、「自己ではない」と、〔あるがままに〕見るなら、矢で毛の先端を〔射抜く〕ように、〔彼らは〕精緻なる〔道理〕を理解したのだ。


1171.(1162) 刃で刺されたかのように、頭が焼かれているかのように、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を捨棄するために、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するように。


1172.(1163) 刃で刺されたかのように、頭が焼かれているかのように、〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕を捨棄するために、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するように。


1173.(1164) 自己を修め最後の肉体を保つ方(ブッダ)に促された〔わたし〕は、ミガーラ・マートゥの高楼(鹿母講堂:ミガーラの母のヴィサーカーが寄進した堂舎)を、足の指で動かした。


1174.(1165) このことは、緩やかに励んで〔云々〕にあらず――このことは、僅かの強さでもって〔云々〕にあらず――一切の拘束からの解放という、到達すべき涅槃〔の境処〕は。


1175.(1166) しかして、この青年比丘は、この最上の人は、軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身“からだ”を保つ(死後、涅槃に行く)。


1176.(1167) 諸々の雷光が、しかして、ヴェーバーラ〔山〕の〔岩の裂け目に〕、さらには、パンダヴァ〔山〕の〔岩の〕裂け目に、〔次々と〕落下する。〔他に〕比類なき、そのような方(ブッダ)の子(仏弟子)は、山の〔岩の〕裂け目に赴き、〔独り〕瞑想する。


1177.(1168) 辺境の臥坐所にある寂静と止息の牟尼(カッサパ)は、最勝の覚者(ブッダ)の相続者にして、梵〔天〕(ブラフマー神)に敬拝された者である。


1178.(1169) 辺境の臥坐所にある寂静と止息の牟尼を、最勝の覚者(ブッダ)の相続者を、カッサパ(迦葉:人名・ブッダの高弟)を、婆羅門よ、敬拝せよ。


1179.(1170) しかして、彼が、百生にわたり、全てが婆羅門の生に赴き(婆羅門として再生し)、人間たちのなかでは、繰り返し、ヴェーダ(ヴェーダ聖典)を成就した聞経者(婆羅門)として〔存するもまた〕――


1180.(1171) もし、三つのヴェーダ(ヴェーダ聖典)の奥義に至る読誦者として存するもまた、この者は、この方(カッサパ)への敬拝の、十六分の一にも値しない。


1181.(1172) すなわち、彼(カッサパ)は、食前に、八つの解脱を順逆に見た。そののち、〔行乞の〕食のために、〔村へと〕赴く。


1182.(1173) 婆羅門よ、そのような比丘を襲ってはならない。自己を傷つけてはならない。そのような阿羅漢(人格完成者)にたいし、意を清めよ(信を起こせ)。すみやかに、合掌し、敬拝せよ。おまえの頭が〔七つに〕裂けることがあってはならない。


1183.(1174) この者(ポッカラ)は、正なる法(教え)を見ることなく、輪廻〔のあり方〕を偏重する者、下へと赴く曲がり道や悪しき道を走り回っている。


1184.(1175) 糞にまみれた蛆虫のように、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)に耽溺し、利得と尊敬〔の思い〕に沈んだ者、虚しきポッカラ(人名)は、〔あの世へと〕行く。


1185.(1176) しかして、この方を、善き見あるサーリプッタがやってくるのを、見よ。〔心と知慧の〕両分において解脱した方を――内に〔心が〕善く定められた方を――


1186.(1177) 〔貪欲の〕矢を抜き、束縛が滅尽した方を――三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)ある、死を捨棄する方を――人間たちにとっての、施与されるべき方を――無上なる功徳の田畑(福田)たる方を〔見よ〕。


1187.(1178) これらの、神通と福徳ある数多くの天〔の神々〕たちは、梵〔天〕を惣領とする数万の天〔の神々〕たち(梵天衆)は、〔その〕全てが、モッガッラーナ(目連:人名・ブッダの高弟)を礼拝しながら、合掌を為し、立つ。


1188.(1179) 〔天の神々たちは言った〕「善き生まれの人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。敬愛なる方よ、〔まさに〕その、あなたの、諸々の煩悩は滅尽し、〔あなたは〕施与されるべき者として、〔世に〕存しています」〔と〕。


1189.(1180) 人と天に供養され、死の征服者として〔世に〕生起した者は、白蓮華が〔汚〕水に〔汚されない〕ように、形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)に汚されない。


1190.(1181) 彼のばあい、寸時に千種、世〔界〕は正しく知られた。彼は、梵〔天〕に類する者である。神通の徳(性質)について、死滅と再生について、自在なる者であり、〔正しい〕時に天神たちを見る。彼は、比丘である。


1191.(1182) サーリプッタこそは、知慧によって、戒によって、そして、寂止〔の境地〕によって、彼もまた、彼岸に至った比丘として、この方こそは、最高の者として存すべきである。


1192.(1183) 〔わたしは〕百千の千万の自己の状態“すがた”を、瞬時に化作“けさ”するであろう。わたしは、諸々の神変に巧みな智ある者として、神通において自在と成った者として、〔世に〕存している。


1193.(1184) モッガッラーナの姓ある〔わたし〕は、〔心の〕統一(定:三昧の境地)と明知の自在者として、〔知慧の〕最奥義(波羅蜜)に至った者として、依存なき方(ブッダ)の教えにおいて〔感官の〕機能(根)が定められた慧者として、象が、まさしく、蔦葛を〔断ち切る〕ように、〔欲の〕結縛を断絶した。


1194.(1185) わたしによって、教師(ブッダ)は奉仕され、覚者(ブッダ)の教えは為された。重き荷は安置され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。


1195.(1186) しかして、〔まさに〕その義(目的)のために、家から家なきへと出家したところの、一切の束縛するものの滅尽という、その義(目的)は、わたしによって獲得された。


1196.(1187) 〔覚者の〕弟子のヴィドゥラ(人名)を襲って、さらには、婆羅門のカクサンダ(人名)を〔襲って〕、ドゥッシン(悪魔)が〔大釜で〕煮られた所である地獄は、どのようなものとして存していたのか。


1197.(1188) 〔そこには〕百の鉄杭があり、〔その〕全てが、各自それぞれに〔苦痛の〕感受(受:楽苦の知覚)あるものとして存していた。〔覚者の〕弟子のヴィドゥラ(人名)を襲って、さらには、婆羅門のカクサンダ(人名)を〔襲って〕、ドゥッシン(悪魔)が〔大釜で〕煮られた所である地獄は、このようなものとして存していた。


1198.(1189) このことを証知する、覚者(ブッダ)の弟子である、〔まさに〕その、比丘――黒き者(悪魔)よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。


1199.(1190) 好ましき瑠璃色の、光り輝く火炎の、諸々の宮殿が、カッパ(劫:時間の単位・無限大の時間)の期間、海の中に立ち、そこに、種々なる色艶ある、多々なる仙女たちが舞う。


1200.(1191) このことを証知する、覚者(ブッダ)の弟子である、〔まさに〕その、比丘――黒き者(悪魔)よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。


1201.(1192) 比丘の僧団が見ているところで、まさに、彼は、覚者(ブッダ)に促され、ミガーラ・マートゥの高楼(鹿母講堂)を、足の指で動かした。


1202.(1193) このことを証知する、覚者(ブッダ)の弟子である、〔まさに〕その、比丘――黒き者(悪魔)よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。


1203.(1194) 彼は、ヴェージャヤンタの高楼(最勝講堂)を、足の指で動かした。神通の力に支えられ、しかして、天神たちを畏怖させた。


1204.(1195) このことを証知する、覚者(ブッダ)の弟子である、〔まさに〕その、比丘――黒き者(悪魔)よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。


1205.(1196) すなわち、彼は、ヴェージャヤンタの高楼において、帝釈〔天〕(インドラ神)に遍く尋ねる。「さて、友よ、〔あなたは〕煩悩の滅尽という諸々の解脱〔の境地〕を知っていますか」〔と〕。彼に、帝釈〔天〕は説き示した――問いを尋ねられた者として、真実のとおりに。


1206.(1197) このことを証知する、覚者(ブッダ)の弟子である、〔まさに〕その、比丘――黒き者(悪魔)よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。


1207.(1198) 彼は、スダンマ〔の集会場〕(善法講堂)において、集会のうちに立ち、梵〔天〕(ブラフマー神)に遍く尋ねる。「友よ、〔まさに〕その、かつて有った、あなたの見解ですが、あなたのその見解は、今日もまた、〔かつてのとおり〕ありますか(あなたの見解は以前のままですか)。梵世(梵天界)における光り輝きが離転しつつある(徐々に消滅する)のを、〔あなたは〕見ますか」〔と〕。


1208.(1199) 梵〔天〕は、彼に説き示した――問いを尋ねられた者として、真実のとおりに。「敬愛なる方よ、〔まさに〕その、かつて有った、わたしの見解ですが、わたしのその見解は、〔かつてのとおり〕ありません。


1209.(1200) 梵世における光り輝きが離転しつつあるのを、〔わたしは〕見ます。〔まさに〕その、わたしが、今日、どうして、〔かつてのように〕『わたしは、常住にして常恒なる者として、〔世に〕存している』〔と〕説けましょう」〔と〕。


1210.(1201) このことを証知する、覚者(ブッダ)の弟子である、〔まさに〕その、比丘――黒き者(悪魔)よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。


1211.(1202) 彼は、解脱〔の境地〕によって、大いなるネール(須弥山)の峰を見た。さらには、およそ、地に臥す人たちであるなら、プッバヴィデーハ(東勝身:地名・須弥山の東方に位置する大陸)の者たちの林を〔見た〕。


1212.(1203) このことを証知する、覚者(ブッダ)の弟子である、〔まさに〕その、比丘――黒き者(悪魔)よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。


1213.(1204) まさに、火は思わない――「わたしは、愚者を焼くのだ」と。まさしく、愚者は、その燃える火を襲って(火に近づいて)、焼かれてしまう。


1214.(1205) 悪魔よ、まさしく、このように、おまえは、如来である彼を襲って、火に触れる愚者のように、自ら、自己を焼くであろう。


1215.(1206) 悪魔は、如来である彼を襲って、不善を生んだ。パーピマント(悪魔)よ、「わたしに、悪〔の報い〕は実らない」〔などと〕、いったい、何を、思いなすというのだろう。


1216.(1207) 死神よ、長夜にわたり、おまえが〔悪を〕為していると、〔その〕悪は蓄積される。悪魔よ、覚者(ブッダ)から厭い離れよ。比丘たちにたいし、〔悪しき〕願望を為してはならない。


1217.(1208) かくのごとく、比丘は、ベーサカラー林において、悪魔を一喝した。そののち、その夜叉(悪魔)は、失意の者となり、まさしく、そこにおいて、〔虚空の〕間に消え入った。ということで――


 まさに、このように、尊者マハー・モッガッラーナ長老は、諸々の詩偈を語った、という。


 六十なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「六十なるものの集まりにおいて、偉大なる神通あるモッガッラーナ長老が、まさしく、独りあり、それらの六十八の詩偈が有る」と。


21 大なるものの集まり


21.1 第一の章


21.1.1 ヴァンギーサ長老の詩偈


1218.(1209) 家から家なきへと、まさに、離欲した者として〔世に〕存しているわたしに、これらの尊大な思考が、黒き者(悪魔)から〔やってきて〕まとわりつく。


1219.(1210) 大いなる射手の貴公子たちが、強弓をもつ手練“てだれ”の者たちが、〔勇猛で〕逃げることなき千の者を、遍きにわたり、完全に退散させるであろう〔ように〕――


1220.(1211) それで、もし、また、これらの者たちよりも、より一層の女たちがやってくるとして、わたしを悩ますことは、まさしく、ないであろう。〔わたしは〕自己の法(教え)における確立者である。


1221.(1212) なぜなら、わたしは、太陽の眷属たる覚者(ブッダ)の、この、涅槃に至る道を、一度、聞いたことがあるからだ。そこにおいて、わたしの意は喜んでいる。


1222.(1213) パーピマント(悪魔)よ、もし、このように住しているわたしのもとへと、〔おまえが〕近づき行くなら、死魔よ、そのように、〔わたしは〕為すであろう。わたしの道すらも、〔おまえは〕見ない。


1223.(1214) しかして、不満〔の思い〕を、さらには、歓楽〔の思い〕を、全てにわたり捨棄して、さらには、家〔の生活〕に依存した〔迷える〕思考を〔全てにわたり捨棄して〕、どこにおいても、〔欲の〕林叢“したばえ”(欲の思い)を作らないなら、〔欲の〕林叢なきことから、〔欲の〕林叢なき者となる。彼は、比丘である。


1224.(1215) この〔世において〕、しかして、地に、宙に、それが何であれ、形態の在り方をしたものであり、地上に沈潜したものであるなら、一切は、常住ならざるもの(無常)であり、老い朽ちる。思慧ある者たちは、このように行知して、〔世を〕歩む。


1225.(1216) 見られ聞かれたものに、しかして、憤り〔の思い〕(反発の対象)に、さらには、思われたものに、諸々の〔心の〕依り所(依存の対象)に、〔世の〕人たちは拘束されている。ここに(この世において)、〔心が〕不動の者となり、欲〔の思い〕を取り除け。彼が、まさに、ここに(この世において)、〔欲望の対象に〕汚されないなら、彼を、〔賢者たちは〕「牟尼」〔と〕言う。


1226.(1217) しかして、六十〔八の悪しき見解〕に依存し、〔迷える〕思考を有する者たちは、凡夫たることから、法(正義)ならざる者たちであり、固着ある者たちである。しかしながら、どこにおいても、〔特定の〕党派を〔自らの〕赴く所とする者(特定の党派に肩入れする者)として〔世に〕存することなくあるなら、しかして、〔心の〕汚れ(不正)を掴み取る者にはならない。彼は、比丘である。


1227.(1218) 善良で、長夜にわたり〔心が〕定められ、虚言なく、賢明で、羨望〔の思い〕なき者――牟尼は、寂静の境処に到達した。縁によって完全なる涅槃に到達した者は、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。


1228.(1219) ゴータマ〔の弟子〕よ、思量“おもいあがり”を捨棄せよ――しかして、思量の道を、残りなく捨棄せよ――長夜にわたり後悔する者と成って、思量の道に〔心が〕耽溺した、〔まさに〕その者は。


1229.(1220) 隠覆〔の思い〕で〔心が〕隠覆され、思量に打ち倒された人々は、地獄に堕ちる。思量に打ち倒され、地獄に再生した人たちは、長夜にわたり憂い悲しむ。


1230.(1221) 道の勝者にして正しき実践者たる比丘は、何時であれ、まさに、憂い悲しまない。しかして、栄誉を、さらには、安楽を、〔彼は〕味わい楽しむ。真実“まこと”に、彼を、〔賢者たちは〕「法(真理)を見る者」と言う。


1231.(1222) それゆえに、この〔世において〕、鬱屈なく、精励ある者は、〔五つの修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、清浄の者となる。しかして、思量を残りなく捨棄して、明知によって、〔苦しみの〕終極を為す者となり、〔心が〕静まった者となる。


1232.(1223) 〔アーナンダに尋ねた〕「〔わたしは〕欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕によって、焼かれています。わたしの心は、遍く焼かれています。ゴータマ(アーナンダ)よ、どうか、慈しみ〔の思い〕によって、〔貪りの炎を〕寂滅させる〔道〕を説いてください」〔と〕。


1233.(1224) 〔アーナンダは答えた〕「表象〔作用〕(想:認識対象を表象し概念化する働き)の転倒によって、あなたの心は、遍く焼かれています。貪欲を伴った美しい相(世において「価値がある」と評価される事象)を遍く避けなさい。


1234.(1225) 〔身体について〕美しくない〔とする想い〕(不浄想)によって、一境に善く定められた心を修めなさい。あなたに、身体の在り方についての気づき(念)が〔常に〕存しなさい。〔迷いの世について〕厭離〔の思い〕多き者と成りなさい。


1235.(1226) さらには、無相〔の想い〕を修めなさい。思量の悪習(随眠)を廃棄しなさい。そののち、思量の寂止あることから、〔あなたは〕寂静なる者として、〔世を〕歩むでありましょう」〔と〕。


1236.(1227) それがために自己を苦しめず、さらには、他者たちを害さないであろう、その言葉こそを、語るように。まさに、それは、見事に語られた言葉である。


1237.(1228) 愛ある言葉(思いやりの言葉)こそを、語るように――その言葉が、〔皆に〕喜ばれる〔言葉〕であるなら――その〔言葉〕が、諸々の悪しき〔言葉〕を取らずして、他者たちに語るべきところの、愛ある〔言葉〕であるなら。


1238.(1229) まさに、真理は、不死の言葉である。これは、永遠の法(真理)である。真理において、さらには、義(道理)において、かつまた、法(教え)において、正しくある者たちは、〔自己を〕確立した者たちは、言う。


1239.(1230) 涅槃〔の境処〕を得るために、苦しみの終極を為すために、覚者(ブッダ)が語るところの、その、平安の言葉であるが、まさに、それは、諸々の言葉のなかの最上のものである。


1240.(1231) 深遠なる知慧の者は、思慮ある者は、道と道ならざるものの熟知者は、偉大なる知慧あるサーリプッタ(舎利弗:人名・ブッダの高弟)は、比丘たちに、法(教え)を説示する。


1241.(1232) 〔彼は〕簡潔〔の観点〕によってもまた説示し、詳細〔の観点〕によってもまた語る。サーリカー〔鳥〕(九官鳥)の鳴き声のように、即応即答〔の言葉〕が発せられる。


1242.(1233) 彼が、それを説示していると、〔蜜のように〕甘美な言葉を聞いている比丘たちは、〔愛着に〕染まり〔思わず〕聞き惚れてしまう麗美な声によって、心が躍り上がり、喜びあふれ、耳を傾ける。


1243.(1234) 今日、〔満月の〕十五〔日〕に、五百の比丘たちが、清浄のために集いあつまった。束縛するものと結縛するものを断ち切り、煩悶なく、さらなる生存が滅尽した聖賢たちである。


1244.(1235) 幕僚たちに取り囲まれた転輪王が、この大地を、遍きにわたり、海辺に至るまで訪ね回るように――


1245.(1236) このように、戦場を征圧した無上なる先導者(ブッダ)に、弟子たちは――三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)ある、死を捨棄する者たちは――奉侍する。


1246.(1237) 〔彼らの〕全ては、世尊の子たちである。ここに、籾殻(中身のない者)は見い出されない。渇愛の矢を打ち砕く方(ブッダ)を、太陽の眷属(ブッダ)を、敬拝するがよい。


1247.(1238) 千を超える比丘たちは、善き至達者(ブッダ)に――〔世俗の〕塵を離れる法(教え)たる何ものも恐れない涅槃〔の境処〕を説示している方に――奉侍する。


1248.(1239) 〔彼らは〕正自覚者(ブッダ)によって説示された〔世俗の〕垢を離れる法(教え)を聞く。正覚者(ブッダ)は、比丘の僧団の尊ぶところの方は、まさに、美しく輝く。


1249.(1240) 世尊よ、〔あなたは〕象の名ある方として、聖賢たちのなかの第七の聖賢(過去七仏の第七)として、〔世に〕存している。〔あなたは〕まさしく、大いなる雨雲と成って、弟子たちに雨を降らせる。


1250.(1241) 昼住(昼の休息)から出て、教師(ブッダ)に相見えることを欲するがゆえに、偉大なる勇者よ、弟子のヴァンギーサ(人名)は、あなたの〔両の〕足を敬拝する。


1251.(1242) 〔世尊は〕悪魔の邪道なる道を征服して、諸々の鬱屈を破壊して、〔世を〕歩む。彼を――結縛からの解放を為し、〔物事を〕等分に区分けして、まさしく、〔何ものにも〕依存なき者を――見よ。


1252.(1243) まさに、激流の超脱という義(目的)ある、無数〔の流儀〕に関した道を、〔世尊は〕告げ知らせた。しかして、その不死〔の境処〕が告げ知らされたとき、法(真理)を見る者たちは、〔自己が〕安立し、不動の者たちとなる。


1253.(1244) 灯火の作り手(ブッダ)は、〔あるがままに〕洞察して、一切の止住(認識対象の固着・停滞)の超越を見た。彼は、至高〔の境地〕を、しかして、〔あるがままに〕知って、さらには、〔あるがままに〕実証して、十の半分の者たち(最初に説法した五人の比丘)に説示した。


1254.(1245) このように、法(真理)が見事に説示されたとき、法(真理)を識知している者たちに、何の怠り(放逸)があるというのだろう。それゆえに、まさに、世尊である彼(ブッダ)の教えにおいて、〔気づきを〕怠ることなく、常に〔彼を〕礼拝しながら、〔彼に〕学ぶように。


1255.(1246) 彼は、覚者(ブッダ)に従い覚った者――強き努力あるコンダンニャ長老は、間断なく、諸々の安楽の住と諸々の遠離〔の境地〕を得る者である。


1256.(1247) それが、教師(ブッダ)の教えを為す弟子によって得られるべきであるなら、その一切が、獲得するところとなった――彼が、怠ることなく学んでいると。


1257.(1248) 大いなる威力ある者、三つの明知ある者、〔他者の〕心を探知することの熟知者――覚者(ブッダ)の相続者たるコンダンニャは、教師の〔両の〕足を敬拝する。


1258.(1249) 苦しみの彼岸に至り、山腹に坐す牟尼(ブッダ)に、弟子たちは――三つの明知ある、死を捨棄する者たちは――奉侍する。


1259.(1250) 偉大なる神通あるモッガッラーナ(目連:人名・ブッダの高弟)は、心によって探索する。彼らの心を、解脱したか依り所なきかと調べながら。


1260.(1251) このように、一切の〔覚りの〕支分を成就し、苦しみの彼岸に至る牟尼(ブッダ)に、無数の〔優れた〕行相を成就したゴータマ(ブッダ)に、〔彼らは〕奉侍する。


1261.(1252) 雷雲が離れ去った天空において、垢(汚れ)を離れた月(満月)が、太陽のように光り輝くように、また、このように、アンギーラサ(古代の神人、ブッダの尊称の一つ)よ、偉大なる牟尼(ブッダ)よ、あなたは、福徳によって、一切世〔界〕に輝きまさる。


1262.(1253) かつて、〔わたしたちは〕詩作に夢中になったがゆえに、村から村へ、町から町へと、渡り歩いた。しかして、一切諸法(現象世界)の彼岸に至る正覚者(ブッダ)を見た。


1263.(1254) 苦しみの彼岸に至る牟尼は、彼は、わたしに、法(教え)を説示した。法(教え)を聞いて、〔わたしたちは、心が〕清まり、わたしたちに、信が生起した。


1264.(1255) わたしは、彼の言葉を聞いて、〔心身を構成する五つの〕範疇(五蘊)を、しかして、〔十二の認識の〕場所(十二処)を、さらには、〔十八の認識の〕界域(十八界)を、〔あるがままに〕知って、〔家から〕家なきへと出家した。


1265.(1256) すなわち、彼らが、〔覚者の〕教えを為す者たちであるなら、〔世の〕女たち、および、男たちの、まさに、多くの者たちの義(利益)のために、如来たちは、〔世に〕生起する。


1266.(1257) 彼らが、生臭なきに至り〔生臭なきを〕見る者たちであるなら、比丘たち、および、比丘尼たちの、まさに、まさに、彼らの義(利益)のために、牟尼(ブッダ)は、覚り(菩提)に到達した。


1267.(1258) 生ある者たちへの慈しみ〔の思い〕によって、四つの聖なる真理(四聖諦)が、眼ある覚者(ブッダ)によって、太陽の眷属(ブッダ)によって、見事に説示された。


1268.(1259) 〔すなわち〕苦しみを、苦しみの生起を、しかして、苦しみの超越を、さらには、苦しみの寂止に至る聖なる八つの支分ある道(八正道)を。


1269.(1260) このように、これらは、そのとおり説かれた。それらは、わたしによって、それそのとおりに見られた。わたしによって、自らの義(目的)は獲得され、覚者(ブッダ)の教えは為された。


1270.(1261) まさに、わたしにとって、善き訪問として存するものだった――覚者(ブッダ)の現前にあるわたしにとって。見事に区分された諸々の法(教え)における、〔まさに〕その、最勝のもの――〔わたしは〕それへと近づき行った。


1271.(1262) 神知の最奥義を得た者として、耳の界域(天耳界)を清めた者として、三つの明知ある者として、神通を得た者として、〔他者の〕心を探知することの熟知者として、〔わたしは〕存している。


1272.(1263) 〔長老が尋ねた〕「まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において、諸々の疑惑を断ち切る方である、〔まさに〕その、至上の知慧ある教師(ブッダ)に、〔わたしは〕尋ねます。アッガーラヴァ(地名)で、〔或る〕比丘が、命を終えました。〔世に〕知られ、福徳ある者で、自己が寂滅した者です。


1273.(1264) 世尊(ブッダ)よ、『ニグローダ・カッパ』という、その婆羅門の名は、あなたによって付けられました。彼は、あなたを礼拝しながら、〔苦からの〕解き放ちを期す者として、精進に励む者として、断固として法(真理)を見る者として、〔世を〕歩みました。


1274.(1265) サッカ(釈迦)〔族〕の方(ブッダ)よ、一切に眼ある方よ、わたしたちは、〔その〕全てでさえもが、彼のことを、〔あなたの〕弟子のことを、了知することを求めます。わたしたちの〔両の〕耳は、〔あなたの答えを〕聞くために、〔今か今かと〕待ち構えています。あなたは、わたしたちの教師です。あなたは、無上なる方として、〔世に〕存しています。


1275.(1266) わたしたちの疑惑を、断ち切ってください。それを、わたしに説いてください。広き知慧ある方よ、〔彼が〕完全なる涅槃に到達した者〔であるかどうか〕を、〔わたしたちに〕知らせてください。一切に眼ある方よ、まさしく、わたしたちの中において、語ってください――千の眼ある帝釈〔天〕(インドラ神)が、天〔の神々〕たちに〔語る〕ように。


1276.(1267) それらが何であれ、この〔世における〕、諸々の拘束、諸々の迷妄の道、諸々の知恵なき徒、諸々の疑惑の状況は、それらは、如来を得ては、〔もはや〕有りえないのです。〔世の〕人たちのなかの最高者を、まさに、この、眼ある方を〔得てそののちは〕。


1277.(1268) もし、まさに、人士たる方(ブッダ)が、風が層雲を〔吹き払う〕ように、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)を、しっかりと打ち払わないなら、一切世〔界〕は、まさしく、〔覆“おおい”に〕覆われた闇として存するでしょうし、光輝ある人たちでさえも、〔世を〕照らすことはないでしょう。


1278.(1269) しかしながら、慧者たちは、灯火の作り手たちとして、〔世に〕有ります。勇者よ、わたしは、あなたを、まさしく、それ、そのとおりの方と思うのです。〔あるがままの〕観察者と知り、〔わたしたちは、あなたのもとへと〕近づき行ったのです。〔光なき〕衆のうちにあるわたしたちに、カッパ(ニグローダ・カッパ)のことを、明らかにしてください。


1279.(1270) 麗しき方よ、麗しき〔その〕言葉を、すみやかに発してください。白鳥が〔首を〕もたげて、美しく整えられた、まろやかな声で、おもむろに鳴くように。まさしく、〔わたしたちの〕全てが、〔心が〕真っすぐに赴いた者たちとなり、あなたの〔言葉を〕聞くでありましょう。


1280.(1271) 残りなく生と死を捨棄した清き方(ブッダ)に請い求めて、法(真理)を説いてもらいましょう。なぜなら、凡夫たちには、欲することを〔考究して〕為すことなく、しかるに、如来たちには、〔是非を〕考究して為すことあるからです。


1281.(1272) 〔正しく〕成就された説明は、これは、正しく真っすぐな知慧ある、あなたの把握するところです。この、〔あなたへの〕最後の合掌は、しっかりと手向けられました。至上の知慧ある方よ、〔答えを〕知っている者は、〔わたしたちを〕迷わせてはなりません。


1282.(1273) 彼此“ひし”における聖なる法(真理)を知って、至上の精進ある方よ、知っている者は、〔わたしたちを〕迷わせてはなりません。炎暑のさなか、炎暑に焼かれた者が、水を〔待ち望む〕ように、〔わたしは、あなたの〕言葉を待ち望みます。所聞(声)〔の雨〕を降らせてください。


1283.(1274) それ(涅槃)を義(目的)として、カッパーヤナ(カッパ)は梵行(禁欲清浄行)を歩んだのですが、どうでしょう、それは、彼にとって、無駄ならざるものとして〔有ったの〕ですか。彼は、〔生存の依り所を残すことなく〕涅槃に到達したのですか、それとも、〔生存の〕依り所(身体)という残りものを有する者(有余依)として〔解脱したの〕ですか。〔彼が〕解脱者と成った〔経緯の〕とおりに、〔わたしたちは〕それを聞きたいのです」〔と〕。


1284.(1275) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「〔カッパは〕名前と形態(名色:現象世界)にたいする渇愛を、この〔世において〕断ちました。長夜にわたり悪しき習いとなった、黒き流れを〔断ちました〕。残りなく生と死を超えました」〔と〕。かくのごとく、五者(ブッダが最初に説法した五人の修行者)にとっての最勝なる方、世尊は説いた。


1285.(1276) 〔長老が言った〕「第七の聖賢(ブッダ)よ、この〔わたし〕は、あなたの言葉を聞いて、〔心が〕清まります。まさに、わたしの問い尋ねは、無駄ならざるものです(無駄ではなかった)。婆羅門(ブッダ)は、わたしを騙しませんでした。


1286.(1277) 覚者(ブッダ)の弟子(カッパ)は、〔覚者の〕説くとおり、そのとおりに為す者として、〔世に〕有りました。死魔の幻術師が広げた、堅固な網を、断ち切ったのです。


1287.(1278) 世尊よ、カッピヤ(カッパ)は、執取の最初“はじまり”を見ました。まさに、カッパーナ(カッパ)は、極めて超え難い死魔の領域を超え行ったのです。


1288.(1279) 最上の二足者たる方(ブッダ)よ、天の天たるあなたを、あなたの子(カッパ)を、〔わたしは〕敬拝します。善き生まれの偉大なる勇者(ブッダ)を、龍の正嫡たる龍(カッパ)を、〔わたしは敬拝します〕」〔と〕。ということで――


 まさに、このように、尊者ヴァンギーサ長老は、諸々の詩偈を語った、という。


 大なるものの集まりは、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「七十なるものの集まりにおいて、即応即答〔の知慧〕あるヴァンギーサ長老が、まさしく、独りあり、他の者は存在せず、七十一の詩偈がある」と。


 長老たちの詩偈は、〔以上で〕終了した。


 そこで、摂頌となる。


 〔しかして、詩偈に言う〕「千、および、三百六十の、それらの詩偈があり、しかして、二百、および、六十四の、長老たちが明示された。

 覚者の子たる煩悩なき者たちは、獅子吼を吼え叫んで、平安の終極を得て、諸々の火の集塊のように、涅槃に到達した者たちとなる(般涅槃した)」と。


 テーラガーター聖典は、〔以上で〕終了した。


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