小部経典14-2:ニッデーサ

2010.12.5
1.7 ティッサ・メッテイヤの経についての釈示


 [509]しかして、ティッサ・メッテイヤの経についての釈示を説くであろう。


49.


 [510]821.(814) かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔言った〕――敬愛なる方よ、淫欲に束縛された者の悩み苦しみのことを、〔わたしたちに〕説いてください。あなたの教えを聞いて、〔わたしたちは〕遠離について学ぶのです。(1)


 [511]「淫欲に束縛された者の」とは、「淫欲の法(性質)」というものは、すなわち、〔まさに〕その、正ならざる法(性質)、野卑の法(性質)、賤民の法(性質)、邪悪のもの、水を終極とするもの(行為後に水による洗浄を必要とするもの)、内密のもの、〔男女〕一対の両者による入定(性行為)である。何を契機とすることから、淫欲の法(性質)と説かれるのか。〔男女〕両者にとっての――〔欲に〕染まり、〔欲に〕貪染し、〔煩悩が〕漏れ出ていて、〔妄執に〕遍く取り囲まれ、心を遍く奪い去られた、そのような〔男女〕両者にとっての――法(性質)である、ということで、それを契機とすることから、淫欲の法(性質)と説かれる。たとえば、両者が、紛争を為す者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれ、両者が、口論を為す者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれ、両者が、談論を為す者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれ、両者が、論争を為す者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれ、両者が、問題を為す者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれ、両者が、論ある者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれ、両者が、論議者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれるように、まさしく、このように、〔男女〕両者にとっての――〔欲に〕染まり、〔欲に〕貪染し、〔煩悩が〕漏れ出ていて、〔妄執に〕遍く取り囲まれ、心を遍く奪い去られた、そのような〔男女〕両者にとっての――法(性質)である、ということで、それを契機とすることから、淫欲の法(性質)と説かれる。

 [512]「淫欲に束縛された者の」とは、淫欲の法(性質)にたいし、束縛された者の、専念する者の、専従する者の、等しく専従する者の、それを所行とする者の、それを多きとする者の、それに尊重ある者の、それへと下向した者の、それへと傾倒した者の、それへと傾斜した者の、それを信念した者の、それを優位主要とする者の。ということで、「淫欲に束縛された者の」。

 [513]「かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔言った〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。「尊者」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有する言葉、敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「尊者」ということになる。「ティッサ」とは、その長老の、名前、名称、呼称、概念、通称、名前、名前の行為、名前の領域、言語、字音、話法。「メッテイヤ」とは、その長老の、氏姓、名称、呼称、概念、通称。ということで、「かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔言った〕」。

 [514]「敬愛なる方よ、悩み苦しみのことを、〔わたしたちに〕説いてください」とは、「悩み苦しみのことを」とは、悩み苦しみを、害障を、逼悩を、打撃を、禍を、災禍を、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、知らしめてください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。「敬愛なる方よ」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有する言葉、敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「敬愛なる方よ」〔ということになる〕。ということで、「敬愛なる方よ、悩み苦しみのことを、〔わたしたちに〕説いてください」。

 [515]「あなたの教えを聞いて」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示されたものを、聞いて、聴いて、把握して、近しく保持して、近しく観て。ということで、「あなたの教えを聞いて」。

 [516]「〔わたしたちは〕遠離について学ぶのです」とは、「遠離」とは、三つの遠離がある。(1)身体の遠離、(2)心の遠離、(3)依り所の遠離である。(1)どのようなものが、身体の遠離であるのか。ここに、比丘が、〔世俗から〕遠離した臥坐所に、林に、木の根元に、山に、峡谷に、岩窟に、墓場に、林野に、野外に、藁積場に、〔それらに〕親しみ、身体によって遠離した者として〔世に〕住む。彼は、独りで行き、独りで立ち、独りで坐し、独りで臥所を営み、独りで〔行乞の〕食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐し(瞑想する)、独りで歩行〔瞑想〕(経行)に〔心を〕確立し、独りで、行じおこない、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。これが、身体の遠離である。

 [517](2)どのようなものが、心の遠離であるのか。第一の瞑想に入定した者のばあい、〔五つの修行の〕妨害“さまたげ”(蓋)から、心は、遠離したものと成る。第二の瞑想に入定した者のばあい、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念(尋伺)から、心は、遠離したものと成る。第三の瞑想に入定した者のばあい、喜悦(喜)から、心は、遠離したものと成る。第四の瞑想に入定した者のばあい、楽と苦から、心は、遠離したものと成る。虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定した者のばあい、形態の表象から、障礙の表象から、種々なることの表象から、心は、遠離したものと成る。識知無辺なる〔認識の〕場所に入定した者のばあい、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。無所有なる〔認識の〕場所に入定した者のばあい、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定した者のばあい、無所有なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。預流たる者のばあい、身体が有るという見解(有身見:心身について「自己である」「自己のものである」と妄想し執着する実体論的見解)から、疑惑〔の思い〕(疑)から、戒や掟への偏執(戒禁取)から、見解の悪習(見随眠)から、疑惑の悪習(疑随眠)から、さらには、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、遠離したものと成る。一来たる者のばあい、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものから、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕という束縛するものから、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕の悪習から、さらには、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、遠離したものと成る。不還たる者のばあい、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものから、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕という束縛するものから、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕の悪習から、さらには、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、遠離したものと成る。阿羅漢のばあい、形態〔の行境〕(色界)にたいする貪欲〔の思い〕から、形態なき〔行境〕(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕から、思量から、高揚から、無明から、思量の悪習から、生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から、無明の悪習から、さらには、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、さらには、外なる一切の形相から、心は、遠離したものと成る。これが、心の遠離である。

 [518](3)どのようなものが、依り所の遠離であるのか。諸々の依り所は、諸々の〔心の〕汚れとも、諸々の範疇とも、諸々の行作とも、説かれる。依り所の遠離は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の寂止、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。これが、依り所の遠離である。しかして、身体の遠離は、〔欲から〕遠く離れた身体となり離欲を喜び楽しむ者たちのものであり、しかして、心の遠離は、完全なる清浄の心があり最高の浄化を得た者たちのものであり、しかして、依り所の遠離は、〔もはや〕依り所なく〔寿命を〕形成する働きを離れるに至った人たちのものである。「〔わたしたちは〕遠離について学ぶのです」とは、その長老は、元来において、学ぶことを学んだ者であるが、しかしながら、また、法(教え)の説示に関連して、法(教え)の説示を〔他に〕告げ聞かせつつ、このように言った。「〔わたしたちは〕遠離について学ぶのです」と。

 [519]それによって、長老ティッサ・メッテイヤが言った。


 [520]かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔言った〕――「敬愛なる方よ、淫欲に束縛された者の悩み苦しみのことを、〔わたしたちに〕説いてください。あなたの教えを聞いて、〔わたしたちは〕遠離について学ぶのです」と。


50.


 [521]822.(815) かくのごとく、世尊は〔答えた〕――メッテイヤよ、淫欲に束縛されたなら、あるいは、また、教えを忘れてしまい、そして、誤って実践します。〔淫欲に束縛された〕彼のうちには、この、聖ならざる〔悩み苦しみ〕があります。(2)


 [522]「淫欲に束縛されたなら」とは、「淫欲の法(性質)」というものは、すなわち、〔まさに〕その、正ならざる法(性質)、野卑の法(性質)、賤民の法(性質)、邪悪のもの、水を終極とするもの(行為後に水による洗浄を必要とするもの)、内密のもの、〔男女〕一対の両者による入定(性行為)である。何を契機とすることから、淫欲の法(性質)と説かれるのか。〔男女〕両者にとっての――〔欲に〕染まり、〔欲に〕貪染し、〔煩悩が〕漏れ出ていて、〔妄執に〕遍く取り囲まれ、心を遍く奪い去られた、そのような〔男女〕両者にとっての――法(性質)である、ということで、それを契機とすることから、淫欲の法(性質)と説かれる。たとえば、両者が、紛争を為す者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれ、両者が、口論を為す者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれ、両者が、談論を為す者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれ、両者が、論争を為す者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれ、両者が、問題を為す者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれ、両者が、論ある者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれ、両者が、論議者たちであるなら、「淫欲の者たち」と説かれるように、まさしく、このように、〔男女〕両者にとっての――〔欲に〕染まり、〔欲に〕貪染し、〔煩悩が〕漏れ出ていて、〔妄執に〕遍く取り囲まれ、心を遍く奪い去られた、そのような〔男女〕両者にとっての――法(性質)である、ということで、それを契機とすることから、淫欲の法(性質)と説かれる。

 [523]「淫欲に束縛されたなら」とは、淫欲の法(性質)にたいし、束縛されたなら、専念する者であるなら、専従する者であるなら、等しく専従する者であるなら、それを所行とする者であるなら、それを多きとする者であるなら、それに尊重ある者であるなら、それへと下向した者であるなら、それへと傾倒した者であるなら、それへと傾斜した者であるなら、それを信念した者であるなら、それを優位主要とする者であるなら。ということで、「淫欲に束縛されたなら」。

 [524]「メッテイヤよ」とは、世尊は、その長老に、氏姓で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。さらに、また、貪欲を破壊した者(バッガ)、ということで、「世尊」。憤怒を破壊した者、ということで、「世尊」。迷妄を破壊した者、ということで、「世尊」。思量を破壊した者、ということで、「世尊」。見解を破壊した者、ということで、「世尊」。棘(渇愛)を破壊した者、ということで、「世尊」。〔心の〕汚れを破壊した者、ということで、「世尊」。法(教え)の宝を、分けた(バジ)、区分した、しっかり区分した、ということで、「世尊」。諸々の生存(バヴァ)の終極を為す者、ということで、「世尊」。身体を修めた者(バーヴィタ)、戒を修めた者、心を修めた者、知慧を修めた者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、音声少なく、騒音少なく、人の気配を離れ、人間の絶無なる臥所にして、坐禅に適切なる、諸々の林や林野や辺境の臥坐所に親しんだ(バジ)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)を分有する者(バーギン)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、義(道理)の味を、法(真理)の味を、解脱の味を、向上の戒を、向上の心(定心)を、向上の知慧を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの瞑想を、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心)を、四つの形態なき〔行境〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、八つの解脱を、八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)を、九つの順次の住への入定(九次第定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の表象の修行を、十の遍満への入定を、呼吸についての気づきという〔心の〕統一を、不浄〔の表象〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の如来の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙を、六つの神知を、六つの覚者の法(一切の身体の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転する。一切の言葉の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転する。一切の意の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転する。覚者たる世尊の知恵は、過去において打破されざるものとしてある。覚者たる世尊の知恵は、未来において打破されざるものとしてある。覚者たる世尊の知恵は、現在において打破されざるものとしてある)を、分有する者、ということで、「世尊」。「世尊」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる概念(施設)であり、すなわち、これ、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕――メッテイヤよ」。

 [525]「あるいは、また、教えを忘れてしまい」とは、二つの契機によって、教えを忘れる。(1)聖典の教えをもまた忘れ、(2)実践の教えをもまた忘れる。(1)どのようなものが、聖典の教えであるのか。すなわち、彼が学得したところの、経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、記説(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)である。これが、聖典の教えである。それをもまた、忘れ、等しく忘れ、忘却し、等しく忘却し、遍く外にある者と成る。ということで、このようにもまた、「あるいは、また、教えを忘れてしまい」。

 [526](2)どのようなものが、実践の教えであるのか。正しい〔実践の〕道、〔真理に〕随順する〔実践の〕道、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道、義(道理)のままなる〔実践の〕道、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道、諸戒における円満成就を作り為すこと、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていること、食について量を知ること、〔眠らずに〕起きていることへの専念、気づきと正知、四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道である。これが、実践の教えである。それをもまた、忘れ、等しく忘れ、忘却し、等しく忘却し、遍く外にある者と成る。ということで、このようにもまた、「あるいは、また、教えを忘れてしまい」。

 [527]「そして、誤って実践します」とは、生き物をもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとへもまた赴き(不倫をする)、虚偽をもまた語る。ということで、「そして、誤って実践します」。

 [528]「〔淫欲に束縛された〕彼のうちには、この、聖ならざる〔悩み苦しみ〕があります」とは、その人のうちには、この、聖ならざる法(性質)、愚者の法(性質)、迷乱の法(性質)、無知の法(性質)、詭弁不当の法(性質)がある。すなわち、この、誤った〔実践の〕道がある。ということで、「〔淫欲に束縛された〕彼のうちには、この、聖ならざる〔悩み苦しみ〕があります」。

 [529]それによって、世尊は言った。


 [530]かくのごとく、世尊は〔答えた〕――「メッテイヤよ、淫欲に束縛されたなら、あるいは、また、教えを忘れてしまい、そして、誤って実践します。〔淫欲に束縛された〕彼のうちには、この、聖ならざる〔悩み苦しみ〕があります」と。


51.


 [531]823.(816) かつては独り行じおこなって〔そののち〕、彼が、淫欲に慣れ親しむなら、世における迷走する乗物のような彼のことを、〔賢者たちは〕「下劣な凡夫」と言います。(3)


 [532]「かつては独り行じおこなって〔そののち〕」とは、二つの契機によって、かつては独り行じおこなって。(1)あるいは、出家と名づけられたことによって。(2)あるいは、衆徒を捨て去る義(意味)によって。(1)どのように、出家と名づけられたことによって、「かつては独り行じおこなって〔そののち〕」であるのか。一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って、蓄積の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近づき行って、独りで、行じおこない、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。このように、出家と名づけられたことによって、「かつては独り行じおこなって〔そののち〕」。

 [533](2)どのように、衆徒を捨て去る義(意味)によって、「かつては独り行じおこなって〔そののち〕」であるのか。彼は、このように、出家者として〔世に〕存しつつ、独りで、諸々の林や林野や辺境の臥坐所を受用する――音声少なく、騒音少なく、人の気配を離れ、人間の絶無なる臥所にして、坐禅に適切なる〔諸々の臥坐所〕として。彼は、独りで行き、独りで立ち、独りで坐し、独りで臥所を営み、独りで〔行乞の〕食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐し(瞑想する)、独りで歩行〔瞑想〕(経行)に〔心を〕確立し、独りで、行じおこない、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。このように、衆徒を捨て去る義(意味)によって、「かつては独り行じおこなって〔そののち〕」。

 [534]「彼が、淫欲に慣れ親しむなら」とは、「淫欲の法(性質)」というものは、すなわち、〔まさに〕その、正ならざる法(性質)……略([511]参照)……それを契機とすることから、淫欲の法(性質)と説かれる。「彼が、淫欲に慣れ親しむなら」とは、彼が、他時をもって、覚者を、法(教え)を、僧団を、学びを、〔それらを〕拒絶して、下劣なところへと逆戻りして(還俗して)、淫欲の法(性質)に、慣れ親しみ、慣用し、等しく慣れ親しみ、受用するなら。ということで、「彼が、淫欲に慣れ親しむなら」。

 [535]「世における迷走する乗物のような彼のことを」とは、「乗物」とは、象の乗物、馬の乗物、牛の乗物、山羊の乗物、羊の乗物、駱駝の乗物、驢馬の乗物。〔いまだ〕調御されず、訓練されず、教導されていない、迷走する〔乗物〕は、非道を収め取り、平坦ならざる、木株にもまた〔乗り上げ〕、岩にもまた乗り上げ、乗物をもまた〔打ち砕き〕、乗っている者をもまた打ち砕き、深淵にもまた落ち行く。たとえば、〔まさに〕その、〔いまだ〕調御されず、訓練されず、教導されていない、迷走する乗物が、非道を収め取るように、まさしく、このように、その離脱者(還俗者)は、迷走する乗物に相似の者として、非道を収取し、誤った見解を収取し……略……誤った〔心の〕統一を収取する。たとえば、〔まさに〕その、〔いまだ〕調御されず、訓練されず、教導されていない、迷走する乗物が、平坦ならざる、木株にもまた〔乗り上げ〕、岩にもまた乗り上げるように、まさしく、このように、その離脱者は、迷走する乗物に相似の者として、〔世の〕不正なる身体の行為を増進し、〔世の〕不正なる言葉の行為を増進し、〔世の〕不正なる意の行為を増進し、〔世の〕不正なる生き物を殺すことを増進し、〔世の〕不正なる与えられていないものを取ることを増進し、〔世の〕不正なる諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)を増進し、〔世の〕不正なる虚偽を説くことを増進し、〔世の〕不正なる中傷の言葉を増進し、〔世の〕不正なる粗暴の言葉を増進し、〔世の〕不正なる雑駁な虚論を増進し、〔世の〕不正なる強欲〔の思い〕を増進し、〔世の〕不正なる加害〔の思い〕を増進し、〔世の〕不正なる誤った見解を増進し、〔世の〕不正なる諸々の形成〔作用〕を増進し、〔世の〕不正なる五つの欲望の対象を増進し、〔世の〕不正なる五つの〔修行の〕妨害を増進する。たとえば、〔まさに〕その、〔いまだ〕調御されず、訓練されず、教導されていない、迷走する乗物が、乗物をもまた〔打ち砕き〕、乗っている者をもまた打ち砕くように、まさしく、このように、その離脱者は、迷走する乗物に相似の者として、地獄において、自己を打ち砕き、畜生の胎において、自己を打ち砕き、餓鬼の境域において、自己を打ち砕き、人間の世において、自己を打ち砕き、天の世において、自己を打ち砕く。たとえば、〔まさに〕その、〔いまだ〕調御されず、訓練されず、教導されていない、迷走する乗物が、深淵に落ち行くように、まさしく、このように、その離脱者は、迷走する乗物に相似の者として、生の深淵にもまた落ち行き、老の深淵にもまた落ち行き、病の深淵にもまた落ち行き、死の深淵にもまた落ち行き、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の深淵にもまた落ち行く。「世における」とは、悪所の世における……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世における。ということで、「世における迷走する乗物のような彼のことを」。

 [536]「〔賢者たちは〕『下劣な凡夫』と言います」とは、「凡夫(プトゥジャナ)たち」とは、どのような義(意味)によって、凡夫たちとなるのか。広く(プトゥ)、諸々の〔心の〕汚れを生じさせる(ジャーネーティ)、ということで、「凡夫たち」。広く、身体が有るという見解が〔いまだ〕打破されていない者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、教師たちに口が軽い者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、一切の境遇から〔いまだ〕出起していない者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる行作を行作する、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる激流によって運ばれる、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる熱苦によって熱せられる、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる苦悶によって嘆き悲しまされる、ということで、「凡夫たち」。広く、五つの欲望の対象について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、五つの〔修行の〕妨害によって、覆蔽された者たち、覆い護られた者たち、覆い被された者たち、覆い塞がれた者たち、覆い隠された者たち、覆い包まれた者たち、ということで、「凡夫たち」。「〔賢者たちは〕『下劣な凡夫』と言います」とは、「凡夫である、下劣である、劣悪である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「〔賢者たちは〕『下劣な凡夫』と言います」。

 [537]それによって、世尊は言った。


 [538]「かつては独り行じおこなって〔そののち〕、彼が、淫欲に慣れ親しむなら、世における迷走する乗物のような彼のことを、〔賢者たちは〕『下劣な凡夫』と言います」と。


52.


 [539]824.(817) あるいは、また、〔まさに〕その、かつての福徳、および、栄誉ですが、彼のそれは失われてしまいます。また、このことを見て、淫欲を捨棄するべく、〔遠離こそを〕学ぶように。(4)


 [540]「あるいは、また、〔まさに〕その、かつての福徳、および、栄誉ですが、彼のそれは失われてしまいます」とは、どのようなものが、福徳であるのか。ここに、一部の者は、かつての沙門の状態において、尊敬された者として、尊重された者として、思慕された者として、供養された者として、敬恭された者として、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)の得者として、〔世に〕有る。これが、福徳である。どのようなものが、栄誉であるのか。ここに、一部の者は、かつての沙門の状態において、栄誉と名誉を具した者として、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、多聞の者として、弁舌鋭き者として、応答に巧みな智ある者として、〔世に〕有る――あるいは、「経の専門家として〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として〔世に存している〕」と、あるいは、「法(教え)の言説者として〔世に存している〕」と、あるいは、「林にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔行乞の〕施食の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「糞掃衣の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「三つの衣料の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔決められた時間〕以後の食を否とする者として〔世に存している〕」と、あるいは、「常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第一の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第二の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第三の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第四の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「無所有なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と。これが、栄誉である。ということで、「〔まさに〕その、かつての福徳、および、栄誉ですが」。

 [541]「あるいは、また、彼のそれは失われてしまいます」とは、彼が、他時をもって、覚者を、法(教え)を、僧団を、学びを、〔それらを〕拒絶して、下劣なところへと逆戻りしたなら(還俗したなら)、その福徳も、その栄誉も、失われ、衰え滅び、滅亡し、崩落し、消没し、破滅する。ということで、「あるいは、また、〔まさに〕その、かつての福徳、および、栄誉ですが、彼のそれは失われてしまいます」。

 [542]「また、このことを見て、淫欲を捨棄するべく、〔遠離こそを〕学ぶように」とは、「このことを」とは、かつての沙門の状態において、福徳、および、栄誉があり、後段部分において、覚者を、法(教え)を、僧団を、学びを、〔それらを〕拒絶して、下劣なところへと逆戻りしたなら(還俗したなら)、福徳なきと、栄誉なきとがあるとして、〔まさに〕この、〔かつての〕得達、および、〔その後の〕衰滅を。「見て」とは、観て、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。ということで、「また、このことを見て」。「学ぶように」とは、三つの学びがある。(1)向上の戒の学び、(2)向上の心の学び、(3)向上の知慧の学びである。(1)どのようなものが、向上の戒の学びであるのか。ここに、比丘が、戒ある者と成り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)の統御によって〔自己が〕統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕行状と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。小なる戒の範疇、大なる戒の範疇、戒、立脚するもの(依所)、最初〔の行〕、行ない、自制、統御、諸々の善なる法(性質)への入定における、頭目、筆頭。これが、向上の戒の学びである。

 [543](2)どのようなものが、向上の心の学びであるのか。ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕から、まさしく、離れて、〔さらには〕諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑な〕思考を有し(有尋)、〔微細な〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想を成就して、〔世に〕住む。……略([142]参照)……第二の瞑想を……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して、〔世に〕住む。これが、向上の心の学びである。

 [544](3)どのようなものが、向上の知慧の学びであるのか。ここに、比丘が、知慧ある者と成り、聖なる洞察にして正しく苦痛の滅尽に至る、生成と滅至についての知慧を具備した者と〔成る〕。彼は、「これは、苦痛である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦痛の集起である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦痛の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。「これらは、諸々の煩悩(漏)である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、煩悩の集起である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、煩悩の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。これが、向上の知慧の学びである。「淫欲の法(性質)」というものは、すなわち、〔まさに〕その、正ならざる法(性質)……略([511]参照)……それを契機とすることから、淫欲の法(性質)と説かれる。

 [545]「また、このことを見て、淫欲を捨棄するべく、〔遠離こそを〕学ぶように」とは、淫欲の法の、捨棄のために、寂止のために、放棄のために、静息のために、向上の戒をもまた学ぶべきであり、向上の心をもまた学ぶべきであり、向上の知慧をもまた学ぶべきである。これらの三つの学び(三学:戒・心の統一・知慧)を、〔心を〕傾注している者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕知っている者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕見ている者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕注視している者として学ぶべきであり、心を確立している者として学ぶべきであり、信によって信念している者として学ぶべきであり、精進を励起している者として学ぶべきであり、気づきを現起させている者として学ぶべきであり、心を定めている者として学ぶべきであり、知慧によって覚知している者として学ぶべきであり、証知されるべきものを証知している者として学ぶべきであり、遍知されるべきものを遍知している者として学ぶべきであり、捨棄されるべきものを捨棄している者として学ぶべきであり、修行されるべきものを修行している者として学ぶべきであり、実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、実行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「また、このことを見て、淫欲を捨棄するべく、〔遠離こそを〕学ぶように」。

 [546]それによって、世尊は言った。


 [547]「あるいは、また、〔まさに〕その、かつての福徳、および、栄誉ですが、彼のそれは失われてしまいます。また、このことを見て、淫欲を捨棄するべく、〔遠離こそを〕学ぶように」と。


53.


 [548]825.(818) 諸々の思惟に打ち負かされた彼は、貧者のように思い惑います。そのような種類の者は、他者たちの〔悪しき〕評判を聞いて、愕然と成ります。(5)


 [549]「諸々の思惟に打ち負かされた彼は、貧者のように思い惑います」とは、欲望の思惟によって、加害の思惟によって、悩害の思惟によって、見解の思惟によって、襲われ、打ち負かされ、結集され、具備し、閉塞された者は、貧者のように、愚か者のように、迷乱した者のように、思い惑い、強く思い惑い、尋思し、沈思する。たとえば、梟が、木の枝で鼠を狙いながら、思い惑い、強く思い惑い、尋思し、沈思するように、たとえば、野狐(ジャッカル)が、川岸で魚たちを狙いながら、思い惑い、強く思い惑い、尋思し、沈思するように、たとえば、猫が、隙間やどぶやごみためで鼠を狙いながら、思い惑い、強く思い惑い、尋思し、沈思するように、たとえば、流水で〔道を〕断ち切られた驢馬が、隙間やどぶやごみためで、思い惑い、強く思い惑い、尋思し、沈思するように、まさしく、このように、その離脱者は――欲望の思惟によって、加害の思惟によって、悩害の思惟によって、見解の思惟によって、襲われ、打ち負かされ、結集され、具備し、閉塞された者は――貧者のように、愚か者のように、迷乱した者のように、思い惑い、強く思い惑い、尋思し、沈思する。ということで、「諸々の思惟に打ち負かされた彼は、貧者のように思い惑います」。

 [550]「そのような種類の者は、他者たちの〔悪しき〕評判を聞いて、愕然と成ります」とは、「他者たちの」とは、あるいは、師父(和尚)たちが、あるいは、師匠(阿闍梨)たちが、あるいは、師父を等しくする者たちが、あるいは、師匠を等しくする者たちが、あるいは、朋友たちが、あるいは、同輩たちが、あるいは、知己たちが、あるいは、道友たちが、〔彼を〕叱責する。〔すなわち〕「友よ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得なきがあります。〔まさに〕その、あなたには、悪しき利得があります。すなわち、あなたは、このような形態の秀逸なる教師を得て〔そののち〕、このような形態の見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家して〔そののち〕、このような形態の聖なる衆徒を得て〔そののち〕、下劣なる淫欲の法(性質)を契機とすることから、覚者を、法(教え)を、僧団を、学びを、〔それらを〕拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者として存しています。諸々の善なる法(性質)について、信もまた、まさに、あなたには有りませんでした。諸々の善なる法(性質)について、恥〔の思い〕(慚)もまた、まさに、あなたには有りませんでした。諸々の善なる法(性質)について、〔良心の〕咎め(愧)もまた、まさに、あなたには有りませんでした。諸々の善なる法(性質)について、精進もまた、まさに、あなたには有りませんでした。諸々の善なる法(性質)について、気づきもまた、まさに、あなたには有りませんでした。諸々の善なる法(性質)について、知慧もまた、まさに、あなたには有りませんでした」と。彼らの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示されたものを、聞いて、聴いて、把握して、近しく保持して、近しく観て、愕然と成り、責め苛まれ、打ち叩かれ、病者と〔成り〕、失意の者と成る。「そのような種類の者」とは、そのような種類の者、そのような者、それを確立した者、それを流儀とする者、それを相似とする者。すなわち、〔まさに〕その、離脱者(還俗者)である。ということで、「そのような種類の者は、他者たちの〔悪しき〕評判を聞いて、愕然と成ります」。

 [551]それによって、世尊は言った。


 [552]「諸々の思惟に打ち負かされた彼は、貧者のように思い惑います。そのような種類の者は、他者たちの〔悪しき〕評判を聞いて、愕然と成ります」と。


54.


 [553]826.(819) しかして、他者たちの論によって叱責された者は、諸々の刃“やいば”を作り為します。これは、まさに、彼にとっては、大いなる難所。〔彼は〕虚偽の言葉に沈みます。(6)


 [554]「しかして、他者たちの論によって叱責された者は、諸々の刃を作り為します」とは、「しかして」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、句の順序たること。これが、「しかして」ということになる。「諸々の刃を」とは、三つの刃がある。(1)身体による刃、(2)言葉による刃、(3)意による刃である。(1)三種類の身体による悪しき行ない(不殺生・不偸盗・不邪淫)は、身体による刃である。(2)四種類の言葉による悪しき行ない(虚偽を説くこと・中傷の言葉・粗暴の言葉・雑駁な虚論)は、言葉による刃である。(3)三種類の意による悪しき行ない(強欲の思い・加害の思い・誤った見解)は、意による刃である。「他者たちの論によって叱責された者は」とは、あるいは、師父たちによって、あるいは、師匠たちによって、あるいは、師父を等しくする者たちによって、あるいは、師匠を等しくする者たちによって、あるいは、朋友たちによって、あるいは、同輩たちによって、あるいは、知己たちによって、あるいは、道友たちによって、叱責された者は、正知しつつ虚偽を語る(故意に嘘をつく)。〔すなわち〕「尊き方よ、わたしは、出家を喜び楽しむ者として〔世に〕有りました。母は、わたしによって養われるべきであり、それによって、〔わたしは〕離脱者として存しています」と語り、「父は、わたしによって養われるべきであり、それによって、〔わたしは〕離脱者として存しています」と語り、「兄弟は、わたしによって養われるべきであり……「姉妹は、わたしによって養われるべきであり……「子は、わたしによって養われるべきであり……「娘は、わたしによって養われるべきであり……「朋友たちは、わたしによって養われるべきであり……「僚友たちは、わたしによって養われるべきであり……「親族たちは、わたしによって養われるべきであり……「血縁たちは、わたしによって養われるべきであり、それによって、〔わたしは〕離脱者として存しています」と語る。言葉の刃を、為し、行作し、生じさせ、産出させ、発現させ、再出させる。ということで、「しかして、他者たちの論によって叱責された者は、諸々の刃を作り為します」。

 [555]「これは、まさに、彼にとっては、大いなる難所」とは、これは、彼にとって、大いなる難所、大いなる林、大いなる茂み、大いなる難路、大いなる平坦ならざるところ、大いなる屈曲、大いなる汚泥、大いなる泥沼、大いなる障害、大いなる結縛であり、すなわち、これ、正知しつつ虚偽を説くことである。ということで、「これは、まさに、彼にとっては、大いなる難所」。

 [556]「〔彼は〕虚偽の言葉に沈みます」とは、虚偽の言葉は、虚偽を説くことと説かれる。ここに、一部の者は、あるいは、集会に在り、あるいは、衆に在り、あるいは、親族の中に在り、あるいは、組合の中に在り、あるいは、王族の中に在り、〔証人として〕連れ出され、証言を問い尋ねられた者としてある。〔すなわち〕「おい、人よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け」と。彼は、あるいは、知っていないのに、「知る」と言い、あるいは、知っているのに、「知らない」と言い、あるいは、見ていないのに、「見る」と言い、あるいは、見ているのに、「見ない」と言う。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何かしらの或る福利を因として、正知しつつ虚偽を語る。これが、虚偽の言葉と説かれる。

 [557]さらに、また、三つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1)まさしく、〔語る〕以前において、彼に有る――「〔わたしは〕虚偽を語るであろう」と。(2)〔現に〕語っている者に有る――「〔わたしは〕虚偽を語る」と。(3)〔すでに〕語った者に有る――「わたしによって、虚偽が語られた」と。これらの三つの行相によって、虚偽を説くことが有る。さらに、また、四つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1)まさしく、〔語る〕以前において、彼に有る――「〔わたしは〕虚偽を語るであろう」と。(2)〔現に〕語っている者に有る――「〔わたしは〕虚偽を語る」と。(3)〔すでに〕語った者に有る――「わたしによって、虚偽が語られた」と。(4)〔自己の〕見解と異なって〔虚偽を説く〕。これらの四つの行相によって、虚偽を説くことが有る。さらに、また、五つの行相によって……六つの行相によって……七つの行相によって……八つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1)まさしく、〔語る〕以前において、彼に有る――「〔わたしは〕虚偽を語るであろう」と。(2)〔現に〕語っている者に有る――「〔わたしは〕虚偽を語る」と。(3)〔すでに〕語った者に有る――「わたしによって、虚偽が語られた」と。(4)〔自己の〕見解と異なって〔虚偽を説く〕。(5)〔自己の〕忍耐(信受)と異なって〔虚偽を説く〕。(6)〔自己の〕嗜好(意欲)と異なって〔虚偽を説く〕。(7)〔自己の〕表象と異なって〔虚偽を説く〕。(8)〔自己の〕状態と異なって〔虚偽を説く〕。これらの八つの行相によって、虚偽を説くことが有る。「〔彼は〕虚偽の言葉に沈みます」とは、〔彼は〕虚偽の言葉に、沈み、沈潜し、潜入し、入り行く。ということで、「〔彼は〕虚偽の言葉に沈みます」。

 [558]それによって、世尊は言った。


 [559]「しかして、他者たちの論によって叱責された者は、諸々の刃を作り為します。これは、まさに、彼にとっては、大いなる難所。〔彼は〕虚偽の言葉に沈みます」と。


55.


 [560]827.(820) 〔かつては〕「賢者」と認知され、独り行じおこなうことを〔心に〕確立した者が、しかして、また、彼が、淫欲に束縛されたなら、愚か者のように引き回されます。(7)


 [561]「〔かつては〕『賢者』と認知され」とは、ここに、一部の者は、かつての沙門の状態において、栄誉と名誉を具した者として、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、多聞の者として、弁舌鋭き者として、応答に巧みな智ある者として、〔世に〕有る――あるいは、「経の専門家として〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として〔世に存している〕」と、あるいは、「法(教え)の言説者として〔世に存している〕」と……略([237]参照)……あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と。このように知られた者として、〔このように〕覚知された者として、〔このように〕認知された者として、〔世に〕有る。ということで、「〔かつては〕『賢者』と認知され」。

 [562]「独り行じおこなうことを〔心に〕確立した者が」とは、二つの契機によって、独り行じおこなうことを〔心に〕確立した者が。(1)あるいは、出家と名づけられたことによって。(2)あるいは、衆徒を捨て去る義(意味)によって。(1)どのように、出家と名づけられたことによって、「独り行じおこなうことを〔心に〕確立した者が」であるのか。一切の、家の居住の障害を断ち切って……略([532]参照)……。このように、出家と名づけられたことによって、「独り行じおこなうことを〔心に〕確立した者が」。(2)どのように、衆徒を捨て去る義(意味)によって、「独り行じおこなうことを〔心に〕確立した者が」であるのか。彼は、このように、出家者として〔世に〕存しつつ、独りで、諸々の林や林野や辺境の臥坐所を……略([533]参照)……。このように、衆徒を捨て去る義(意味)によって、「独り行じおこなうことを〔心に〕確立した者が」。

 [563]「しかして、また、彼が、淫欲に束縛されたなら」とは、「淫欲の法(性質)」というものは、すなわち、〔まさに〕その、正ならざる法(性質)、野卑の法(性質)……略([511]参照)……それを契機とすることから、淫欲の法(性質)と説かれる。「しかして、また、彼が、淫欲に束縛されたなら」とは、彼が、他時をもって、覚者を、法(教え)を、僧団を、学びを、〔それらを〕拒絶して、下劣なところへと逆戻りして、淫欲の法(性質)にたいし、束縛された者であるなら、専念する者であるなら、専従する者であるなら、等しく専従する者であるなら。ということで、「しかして、また、彼が、淫欲に束縛されたなら」。

 [564]「愚か者のように引き回されます」とは、貧者のように、愚か者のように、迷乱した者のように、引き回され、遍く引き回され、遍く汚れる。生き物をもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとへもまた赴き(不倫をする)、虚偽をもまた語る。このようにもまた、引き回され、遍く引き回され、遍く汚れる。〔まさに〕その、この者を、王たちは捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行する。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝禿の刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣でもまた頭を断ち切る。このようにもまた、引き回され、遍く引き回され、遍く汚れる。

 [565]あるいは、また、欲望の渇愛によって征服され、心を遍く奪い去られた者は、諸々の財物を遍く探し求めつつ、舟で大海に乗り入れるが、寒さが待ち受け、熱さが待ち受け、虻や蚊や風や熱や蛇行するもの(蛇)たちの接触によって責め苛まれながら、飢えと渇きで死につつ、ティグンバ〔国〕へと赴き、タッコーラ〔国〕へと赴き、タッカシーラ〔国〕へと赴き、カーラムカ〔国〕へと赴き、プラプーラ〔国〕へと赴き、ヴェースンガ〔国〕へと赴き、ヴェーラーパタ〔国〕へと赴き、ジャヴァ〔国〕へと赴き、ターマリ〔国〕へと赴き、ヴァンガ〔国〕へと赴き、エーラバンダナ〔国〕へと赴き、スヴァンナクータ〔国〕へと赴き、スヴァンナブーミ〔国〕へと赴き、タンバパンニ〔国〕へと赴き、スッパーラカ〔国〕へと赴き、バールカッチャ〔国〕へと赴き、スラッタ〔国〕へと赴き、バンガローカ〔国〕へと赴き、バンガナ〔国〕へと赴き、パラマバンガナ〔国〕へと赴き、ヨーナ〔国〕へと赴き、パラマヨーナ〔国〕へと赴き、ヴィナカ〔国〕へと赴き、ムーラパダ〔国〕へと赴き、マルカンターラ〔国〕へと赴き、膝行の道を赴き、山羊の道を赴き、羊の道を赴き、杭の道を赴き、傘の道を赴き、竹の道を赴き、鳥の道を赴き、鼠の道を赴き、洞窟の道を赴き、杖で歩むところを赴く。このようにもまた、引き回され、遍く引き回され、遍く汚れる。

 [566]〔財物を〕求めつつ〔ついに〕見い出さず、利得なきを根元とする苦痛と失意をもまた得知する。このようにもまた、引き回され、遍く引き回され、遍く汚れる。

 [567]〔財物を〕求めつつ〔ついに〕見い出すとして、利得あることからもまた、守護を根元とする苦痛と失意をもまた得知する。〔すなわち〕「どのようにすれば、わたしの諸々の財物を、まさしく、王たちが運び去らず、盗賊たちが運び去らず、火が焼かず、水が運ばず、愛しからざる相続者たちが運び去らないであろうか」と。彼が、このように守護し保護しつつも、それらの財物は破滅する。彼は、別離を根元とする苦痛と失意をもまた得知する。このようにもまた、引き回され、遍く引き回され、遍く汚れる。ということで、「しかして、また、彼が、淫欲に束縛されたなら、愚か者のように引き回されます」。

 [568]それによって、世尊は言った。


 [569]「〔かつては〕『賢者』と認知され、独り行じおこなうことを〔心に〕確立した者が、しかして、また、彼が、淫欲に束縛されたなら、愚か者のように引き回されます」と。


56.


 [570]828.(821) 牟尼は、この〔世において〕、過去と未来について、この危険を知って、独り行じおこなうことを、断固として為すように。淫欲に慣れ親しまないように。(8)


 [571]「牟尼は、この〔世において〕、過去と未来について、この危険を知って」とは、「この〔危険〕を」とは、かつての沙門の状態において、福徳、および、栄誉があり、後段部分において、覚者を、法(教え)を、僧団を、学びを、〔それらを〕拒絶して、下劣なところへと逆戻りしたなら(還俗したなら)、福徳なきと、栄誉なきとがあるとして、〔まさに〕この、〔かつての〕得達、および、〔その後の〕衰滅を。「知って」とは、知って、解して、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。すなわち、知慧、覚知……略([200-209]参照)……執着の網を超え行って、彼は、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「この〔世において〕」とは、この見解の、この忍耐(信受)の、この嗜好(意欲)の、この所取〔の経論〕において、この法(教え)において、この律において、この法(教え)と律において、この〔聖典の〕言葉において、この梵行において、この教師の教えにおいて、この自己状態において、この人間の世において。ということで、「牟尼は、この〔世において〕、過去と未来について、この危険を知って」。

 [572]「独り行じおこなうことを、断固として為すように」とは、二つの契機によって、独り行じおこなうことを、断固として為すべきである。(1)あるいは、出家と名づけられたことによって。(2)あるいは、衆徒を捨て去る義(意味)によって。(1)どのように、出家と名づけられたことによって、「独り行じおこなうことを、断固として為すように」であるのか。一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って、蓄積の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近づき行って、独りで、行じおこなうべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔行ないを〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。このように、出家と名づけられたことによって、「独り行じおこなうことを、断固として為すように」。

 [573](2)どのように、衆徒を捨て去る義(意味)によって、「独り行じおこなうことを、断固として為すように」であるのか。彼は、このように、出家者として〔世に〕存しつつ、独りで、諸々の林や林野や辺境の臥坐所を受用するべきである――音声少なく、騒音少なく、人の気配を離れ、人間の絶無なる臥所にして、坐禅に適切なる〔諸々の臥坐所〕として。彼は、独りで行くべきであり、独りで立つべきであり、独りで坐すべきであり、独りで臥所を営むべきであり、独りで〔行乞の〕食のために村に入るべきであり、独りで戻るべきであり、独りで静所に坐すべきであり(瞑想する)、独りで歩行〔瞑想〕(経行)に〔心を〕確立するべきであり、独りで、行じおこなうべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔行ないを〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。このように、衆徒を捨て去る義(意味)によって、「独り行じおこなうことを、断固として為すように」。かくのごとく、独り行じおこなうことを、断固として為すべきであり、強固に為すべきであり、諸々の善なる法(性質)について、断固たる受持ある者として〔世に〕存するべきであり、受持を確立した者として〔世に〕存するべきである。ということで、「独り行じおこなうことを、断固として為すように」。

 [574]「淫欲に慣れ親しまないように」とは、「淫欲の法(性質)」というものは、すなわち、〔まさに〕その、正ならざる法(性質)、野卑の法(性質)……略([511]参照)……それを契機とすることから、淫欲の法(性質)と説かれる。淫欲の法(性質)に、慣れ親しむべきではなく、慣用するべきではなく、等しく慣れ親しむべきではなく、受用するべきではなく、行じおこなうべきではなく、実行するべきではなく、受持して行持するべきではない。ということで、「淫欲に慣れ親しまないように」。

 [575]それによって、世尊は言った。


 [576]「牟尼は、この〔世において〕、過去と未来について、この危険を知って、独り行じおこなうことを、断固として為すように。淫欲に慣れ親しまないように」と。


57.


 [577]829.(822) 遠離こそを学ぶように。これは、聖者たちにとって、最上のもの。それによって、〔自己を〕「最勝である」〔と独善的に〕思いなさないなら、まさに、彼は、涅槃の現前にあります。(9)


 [578]「遠離こそを学ぶように」とは、「遠離」とは、三つの遠離がある。(1)身体の遠離、(2)心の遠離、(3)依り所の遠離である。(1)どのようなものが、身体の遠離であるのか。……略([96-98]参照)……。これが、依り所の遠離である。しかして、身体の遠離は、〔欲から〕遠く離れた身体となり離欲を喜び楽しむ者たちのものであり、しかして、心の遠離は、完全なる清浄の心があり最高の浄化を得た者たちのものであり、しかして、依り所の遠離は、〔もはや〕依り所なく〔寿命を〕形成する働きを離れるに至った人たちのものである。「遠離こそを学ぶように」とは、遠離こそを、学ぶべきであり、習行するべきであり、実行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「遠離こそを学ぶように」。

 [579]「これは、聖者たちにとって、最上のもの」とは、聖者たちは、覚者たちとも、覚者の弟子たちとも、独覚(縁覚・辟支仏)たちとも、説かれる。聖者たちにとって、これは、至高であり、最勝であり、殊勝であり、筆頭であり、最上であり、最も優れたものであり、すなわち、これ、遠離の行である。ということで、「これは、聖者たちにとって、最上のもの」。

 [580]「それによって、〔自己を〕『最勝である』〔と独善的に〕思いなさないなら」とは、身体による遠離の行によって、傲慢を為すべきではなく、傲慢なるままに為すべきでなく、思量“おもいあがり”を為すべきではなく、強靱“つよがり”を為すべきではなく、強情を為すべきではなく、それによって、思量を生じさせるべきではなく、それによって、〔心が〕強情となった者として、〔心が〕硬直した者として、頭が励起した者(天狗になった者)として、〔世に〕存するべきではない。ということで、「それによって、〔自己を〕『最勝である』〔と独善的に〕思いなさないなら」。

 [581]「まさに、彼は、涅槃の現前にあります」とは、彼は、涅槃の、現前にあり、近隣にあり、近くにあり、遠く離れていないところにあり、付近にある。ということで、「まさに、彼は、涅槃の現前にあります」。

 [582]それによって、世尊は言った。


 [583]「遠離こそを学ぶように。これは、聖者たちにとって、最上のもの。それによって、〔自己を〕『最勝である』〔と独善的に〕思いなさないなら、まさに、彼は、涅槃の現前にあります」と。


58.


 [584]830.(823) 〔一切から〕遠ざかった牟尼となり〔遠離のままに〕行じおこなう者を、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、激流を超えた者を、諸々の欲望〔の対象〕に拘束された人々は羨みます。(10)


 [585]「〔一切から〕遠ざかった牟尼となり〔遠離のままに〕行じおこなう者を」とは、〔一切から〕遠ざかり、離れ、遠離した者を。身体による悪しき行ないから、遠ざかり、離れ、遠離した者を、言葉による悪しき行ないから……略……意による悪しき行ないから……貪欲から……憤怒から……迷妄から……忿怒から……怨恨から……偽装から……加虐から……物惜から……幻想“ごまかし”から……狡猾から……強情から……激昂から……思量から……高慢から……驕慢から……放逸から……一切の〔心の〕汚れから……一切の悪しき行ないから……一切の懊悩から……一切の苦悶から……一切の熱苦から……一切の善ならざる行作から、遠ざかり、離れ、遠離した者を。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……執着の網を超え行って、彼は、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「〔遠離のままに〕行じおこなう者を」とは、行じおこなっている者を、〔世に〕住んでいる者を、振る舞っている者を、行持している者を、〔行ないを〕守っている者を、〔身を〕保っている者を、〔身を〕保ち行っている者を。ということで、「〔一切から〕遠ざかった牟尼となり〔遠離のままに〕行じおこなう者を」。

 [586]「諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)諸々の事物の欲望と、(2)諸々の〔心の〕汚れの欲望とである。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。諸々の事物の欲望を遍知して、諸々の〔心の〕汚れの欲望を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らしめて、諸々の欲望〔の対象〕について、期待なき者として、欲望を離れた者として、欲望を捨て去った者として、欲望を吐き捨てた者として、欲望を解き放った者として、欲望を捨棄した者として、欲望を放棄した者として、諸々の欲望〔の対象〕について、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、〔心が〕寂滅した者として、〔心が〕冷静に成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって、〔世に〕住む。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を」。

 [587]「激流を超えた者を、諸々の欲望〔の対象〕に拘束された人々は羨みます」とは、「人々」とは、有情の同義語である。人々は、諸々の欲望〔の対象〕について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たちであり、彼らは、欲望の激流を超え渡った者を、生存の激流を超え渡った者を、見解の激流を超え渡った者を、無明の激流を超え渡った者を、一切の形成〔作用〕の道を、超えた者を、超え上がった者を、超え渡った者を、等しく超越した者を、超克した者を、彼岸に至った者を、彼岸を得た者を、終極に至った者を、終極を得た者を、突端に至った者を、突端を得た者を、最終極に至った者を、最終極を得た者を、完成に至った者を、完成を得た者を、救護所に至った者を、救護所を得た者を、避難所に至った者を、避難所を得た者、帰依所に至った者を、帰依所を得た者を、恐怖なきに至った者を、恐怖なきを得た者を、死滅なきに至った者を、死滅なきを得た者を、不死に至った者を、不死を得た者を、涅槃に至った者を、涅槃を得た者を、求め、楽しみにし、切望し、熱望し、渇望する。たとえば、借金ある者たちが、借金なきを、切望し、熱望するように、たとえば、病苦ある者たちが、無病を、切望し、熱望するように、たとえば、結縛に結縛された者たちが、結縛からの解放を、切望し、熱望するように、たとえば、奴隷たちが、自由を、切望し、熱望するように、たとえば、難路に乗り入れた者たちが、平安の極地(安全地帯)を、切望し、熱望するように、まさしく、このように、人々は、諸々の欲望〔の対象〕について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たちであり、彼らは、欲望の激流を超え渡った者を、生存の激流を超え渡った者を……略……涅槃を得た者を、求め、楽しみにし、切望し、熱望し、渇望する。ということで、「激流を超えた者を、諸々の欲望〔の対象〕に拘束された人々は羨みます」。

 [588]それによって、世尊は言った。


 [589]「〔一切から〕遠ざかった牟尼となり〔遠離のままに〕行じおこなう者を、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、激流を超えた者を、諸々の欲望〔の対象〕に拘束された人々は羨みます」と。


 [590]ティッサ・メッテイヤの経についての釈示が、第七となる。


1.8 パスーラの経についての釈示


 [591]しかして、パスーラの経についての釈示を説くであろう。


59.


 [592]831.(824) 〔対話者パスーラに、世尊は答えた〕――〔彼らは〕「ここ(自説)だけに、清浄がある」と説きます。他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません(認めない)。それ(自説)に依存する者たちが、そこ(自説)において、「美しい(価値がある)」と説いているなら、〔彼らは〕各自の諸々の真理にたいし、個々〔それぞれ〕に固着しているのです。(1)


 [593]「〔彼らは〕『ここ(自説)だけに、清浄がある』と説きます」とは、ここだけに、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世〔界〕は、常恒である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世〔界〕は、常恒ならざるものである。……。「世〔界〕は、終極がある。……。「世〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)。……。「他のものとして生命があり、他のものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、有ることもあれば、有ることがないこともある。……。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「〔彼らは〕『ここ(自説)だけに、清浄がある』と説きます」。

 [594]「他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません(認めない)」とは、自己の、教師を、法(教え)の告知を、衆徒を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、〔それらを〕除いて、一切の他の論を、投げ放ち、投げ捨て、遍く投げ放つ。〔すなわち〕「その教師は、一切知者にあらず」「〔その〕法(教え)は、見事に告げ知らされた〔教え〕にあらず」「〔その〕衆徒は、善き実践者にあらず」「〔その〕見解は、立派にあらず」「〔その実践の〕道は、美しく設けられたものにあらず」「〔その聖者の〕道は、出脱〔の道〕にあらず」「ここにおいて、あるいは、清らかさは、あるいは、清浄は、あるいは、完全なる清浄は、あるいは、解き放ちは、あるいは、解脱は、あるいは、完全なる解脱は、存在しない」「そこにおいて、あるいは、〔人々が〕清まることは、あるいは、〔人々が〕清浄となることは、あるいは、〔人々が〕完全なる清浄となることは、あるいは、〔人々が〕解き放たれることは、あるいは、〔人々が〕解脱することは、あるいは、〔人々が〕完全に解脱することは、ない」「下劣である、劣悪である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように言い、このように説き、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません(認めない)」。

 [595]「それ(自説)に依存する者たちが、そこ(自説)において、『美しい(価値がある)』と説いているなら」とは、「それに依存する者たちが」とは、〔まさに〕その、教師に、法(教え)の告知に、衆徒に、見解に、〔実践の〕道に、〔聖者の〕道に、依存する者たちが、等しく依存する者たちが、〔思いが〕付着した者たちが、近づき行った者たちが、固執した者たちが、信念した者たちが。「そこにおいて」とは、自らの見解において、自らの忍耐(信受)において、自らの嗜好(意欲)において、自らの主張において。「『美しい』と説いているなら」とは、自らの主張について、美しいと説く者たちであるなら、荘厳と説く者たちであるなら、賢者と説く者たちであるなら、強固と説く者たちであるなら、正理と説く者たちであるなら、〔正しい〕因と説く者たちであるなら、〔正しい〕特相と説く者たちであるなら、〔正しい〕契機と説く者たちであるなら、〔正しい〕拠点と説く者たちであるなら。ということで、「それに依存する者たちが、そこにおいて、『美しい』と説いているなら」。

 [596]「〔彼らは〕各自の諸々の真理にたいし、個々〔それぞれ〕に固着しているのです」とは、多々なる沙門や婆羅門たちは、多々なる各自の真理にたいし、〔思いが〕固着した者たち、〔思いが〕確立した者たち、〔思いが〕付着した者たち、近づき行った者たち、固執した者たち、信念した者たちである。「世〔界〕は、常恒である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔思いが〕固着した者たち、〔思いが〕確立した者たち、〔思いが〕付着した者たち、近づき行った者たち、固執した者たち、信念した者たちである。「世〔界〕は、常恒ならざるものである。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔思いが〕固着した者たち、〔思いが〕確立した者たち、〔思いが〕付着した者たち、近づき行った者たち、固執した者たち、信念した者たちである。ということで、「〔彼らは〕各自の諸々の真理にたいし、個々〔それぞれ〕に固着しているのです」。

 [597]それによって、世尊は言った。


 [598]〔対話者パスーラに、世尊は答えた〕――「〔彼らは〕『ここ(自説)だけに、清浄がある』と説きます。他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません(認めない)。それ(自説)に依存する者たちが、そこ(自説)において、『美しい(価値がある)』と説いているなら、〔彼らは〕各自の諸々の真理にたいし、個々〔それぞれ〕に固着しているのです」と。


60.


 [599]832.(825) 彼らは、論を欲する者たちは、衆のうちに入って、互いに他と敵対し、〔他者を〕愚者と決め付けます。彼らは、他者〔の権威〕に依存し、論難の言説を説きます――〔自らについて〕「智者である」〔と〕説きながら、賞賛を欲する者たちとして。(2)


 [600]「彼らは、論を欲する者たちは、衆のうちに入って」とは、「彼らは、論を欲する者たちは」とは、それらの、論を欲する者たちとして、論を義(目的)とする者たちとして、論を志向する者たちとして、論を尊奉する者たちとして、論を遍く探求する者たちとして、〔世を〕歩んでいる者たちは。「衆のうちに入って」とは、士族の衆に、婆羅門の衆に、家長の衆に、沙門の衆に、入って、沈潜して、潜入して、入り行って。ということで、「彼らは、論を欲する者たちは、衆のうちに入って」。

 [601]「互いに他と敵対し、〔他者を〕愚者と決め付けます」とは、「敵対し」とは、二者の人で、二者の紛争を為す者、二者の言い争いを為す者、二者の談論を為す者、二者の論争を為す者、二者の問題を為す者、二者の論者、二者の論議者。彼らは、互いに他を、愚者〔の観点〕から、下劣〔の観点〕から、劣悪〔の観点〕から、下等〔の観点〕から、悪辣〔の観点〕から、劣小〔の観点〕から、微小〔の観点〕から、決め付ける、見る、視認する、注目する、尋思する、近しく注視する。ということで、「互いに他と敵対し、〔他者を〕愚者と決め付けます」。

 [602]「彼らは、他者〔の権威〕に依存し、論難の言説を説きます」とは、他の、教師に、法(教え)の告知に、衆徒に、見解に、〔実践の〕道に、〔聖者の〕道に、依存する者たち、等しく依存する者たち、〔思いが〕付着した者たち、近づき行った者たち、固執した者たち、信念した者たち。論難の言説は、紛争、言い争い、口論、論争、確執、と説かれる。しかして、あるいは、「論難の言説」とは、滋養(効用)なき、〔まさに〕その、言説である。〔彼らは〕論難の言説を説き、紛争〔の言説〕を説き、言い争い〔の言説〕を説き、口論〔の言説〕を説き、論争〔の言説〕を説き、確執〔の言説〕を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「彼らは、他者〔の権威〕に依存し、論難の言説を説きます」。

 [603]「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら、賞賛を欲する者たちとして」とは、賞賛を欲する者たちとして、賞賛を義(目的)とする者たちとして、賞賛を志向する者たちとして、賞賛を尊奉する者たちとして、賞賛を遍く探求する者たちとして、〔世を〕歩んでいる者たちは。「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら」とは、自らの主張について、智者と説く者たち、賢者と説く者たち、強固と説く者たち、正理と説く者たち、〔正しい〕因と説く者たち、〔正しい〕特相と説く者たち、〔正しい〕契機と説く者たち、〔正しい〕拠点と説く者たち。ということで、「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら、賞賛を欲する者たちとして」。

 [604]それによって、世尊は言った。


 [605]「彼らは、論を欲する者たちは、衆のうちに入って、互いに他と敵対し、〔他者を〕愚者と決め付けます。彼らは、他者〔の権威〕に依存し、論難の言説を説きます――〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら、賞賛を欲する者たちとして」と。


61.


 [606]833.(826) 衆の中で〔自己の〕言説に束縛された者は、賞賛を求めつつ、敗北を恐れる者と成ります。また、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成ります。彼は、〔他者の〕欠点を探し求める者であり、〔自己への〕非難には怒ります。(3)


 [607]「衆の中で〔自己の〕言説に束縛された者は」とは、あるいは、士族の衆の、あるいは、婆羅門の衆の、あるいは、家長の衆の、あるいは、沙門の衆の、〔それらの〕中で言説するために、自己の言説に、束縛された者は、専念する者は、専従する者は、等しく専従する者は、等しく専念する者は。ということで、「衆の中で〔自己の〕言説に束縛された者は」。

 [608]「賞賛を求めつつ、敗北を恐れる者と成ります」とは、「賞賛を求めつつ」とは、賞賛を、賛嘆を、栄誉を、名誉の伝播を、求めつつ、楽しみにしつつ、切望しつつ、熱望しつつ、渇望しつつ。「敗北を恐れる者と成ります」とは、論議〔を交わす〕より、まさしく、以前において、懐疑ある者と〔成り〕、敗北を恐れる者と成る。〔すなわち〕「いったい、まさに、わたしに、勝利が有るのだろうか」「いったい、まさに、わたしに、敗北が有るのだろうか」「どのように、批判〔の論〕を為そうか」「どのように、反駁〔の論〕を為そうか」「どのように、特別〔の論〕を為そうか」「どのように、特化〔の論〕を為そうか」「どのように、独特〔の論〕を為そうか」「どのように、弁明〔の論〕を為そうか」「どのように、簡略〔の論〕を為そうか」「どのように、総合〔の論〕を為そうか」と、このように、論議〔を交わす〕より、まさしく、以前において、懐疑ある者と〔成り〕、敗北を恐れる者と成る。ということで、「賞賛を求めつつ、敗北を恐れる者と成ります」。

 [609]「また、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成ります」とは、すなわち、それらの、問尋の審査者たち、衆たち、衆の属類たち、試問者たちであるが、彼らが、〔彼を〕排斥する(敗北を宣言する)。〔すなわち〕「義(意味)を離れ去ったことが語られた」と、義(意味)〔の観点〕から〔彼の賞賛を〕奪い去り、「文型を離れ去ったことが語られた」と、文型〔の観点〕から〔彼の賞賛を〕奪い去り、「義(意味)と文型を離れ去ったことが語られた」と、義(意味)と文型〔の観点〕から〔彼の賞賛を〕奪い去り、「あなたの義(意味)は、悪しく導かれた」「あなたの文型は、悪しく用いられた」「あなたの義(意味)と文型は、悪しく導かれ、悪しく用いられた」「あなたの批判〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの反駁〔の論〕は、悪しく為された」「あなたの特別〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの特化〔の論〕は、悪しく為された」「あなたの独特〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの弁明〔の論〕は、悪しく為された」「あなたの簡略〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの総合〔の論〕は、悪しく為され、悪しく言説され、悪しく発語され、悪しく話され、悪しく言われ、悪しく語られた、不正なる言説である」と、〔彼を〕排斥する。「また、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成ります」とは、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成り、責め苛まれ、打ち叩かれ、病者と〔成り〕、失意の者と成る。ということで、「また、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成ります」。

 [610]「彼は、〔他者の〕欠点を探し求める者であり、〔自己への〕非難には怒ります」とは、〔自己への〕非難には、〔自己への〕難詰には、〔自己の〕栄誉なきには、〔自己の〕不名誉の伝播には、怒り、加害し、反抗し、しかして、忿怒〔の思い〕(忿)を、さらには、憤怒〔の思い〕(瞋)を、かつまた、不興〔の思い〕を、明らかと為す。ということで、「彼は、〔自己への〕非難には怒ります」。「〔他者の〕欠点を探し求める者」とは、〔他者の〕欠点を探し求める者、〔他者の〕違反を探し求める者、〔他者の〕躓きを探し求める者、〔他者の〕落度を探し求める者、〔他者の〕欠陥を探し求める者。ということで、「彼は、〔他者の〕欠点を探し求める者であり、〔自己への〕非難には怒ります」。

 [611]それによって、世尊は言った。


 [612]「衆の中で〔自己の〕言説に束縛された者は、賞賛を求めつつ、敗北を恐れる者と成ります。また、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成ります。彼は、〔他者の〕欠点を探し求める者であり、〔自己への〕非難には怒ります」と。


62.


 [613]834.(827) すなわち、〔人々が〕彼の論を「遍く劣る」と言うなら、問尋の審査者たちが「〔あなたは〕排斥された」と〔言うなら〕、劣った論の者は、〔それを〕嘆き、憂い悲しみます。「〔彼は〕わたしを超え行った」と、泣き悲しむのです。(4)


 [614]「すなわち、〔人々が〕彼の論を『遍く劣る』と言うなら」とは、すなわち、彼の論を、円満成就したものではなく、下劣のものと、劣悪のものと、遍く劣るものと、遍く退けられたものと、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用するなら。ということで、「すなわち、〔人々が〕彼の論を『遍く劣る』と言うなら」。

 [615]「問尋の審査者たちが『〔あなたは〕排斥された』と〔言うなら〕」とは、すなわち、それらの、問尋の審査者たち、衆たち、衆の属類たち、試問者たちであるが、彼らが、〔彼を〕排斥する(敗北を宣言する)。〔すなわち〕「義(意味)を離れ去ったことが語られた」と、義(意味)〔の観点〕から〔彼の賞賛を〕奪い去り、「文型を離れ去ったことが語られた」と、文型〔の観点〕から〔彼の賞賛を〕奪い去り、「義(意味)と文型を離れ去ったことが語られた」と、義(意味)と文型〔の観点〕から〔彼の賞賛を〕奪い去り、「あなたの義(意味)は、悪しく導かれた」「あなたの文型は、悪しく用いられた」「あなたの義(意味)と文型は、悪しく導かれ、悪しく用いられた」「あなたの批判〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの反駁〔の論〕は、悪しく為された」「あなたの特別〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの特化〔の論〕は、悪しく為された」「あなたの独特〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの弁明〔の論〕は、悪しく為された」「あなたの簡略〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの総合〔の論〕は、悪しく為され、悪しく言説され、悪しく発語され、悪しく話され、悪しく言われ、悪しく語られた、不正なる言説である」と、〔彼を〕排斥する。ということで、「問尋の審査者たちが『〔あなたは〕排斥された』と〔言うなら〕」。

 [616]「劣った論の者は、〔それを〕嘆き、憂い悲しみます」とは、「〔それを〕嘆き」とは、「わたしによって、他のものが思案され、他のものが思い考えられ、他のものが近しく保持され、他のものが近しく観られた」「彼は、大いなる徒党ある者であり、大いなる衆ある者であり、大いなる取り巻きある者である。しかしながら、〔わたしの〕衆である、この党派は、和合〔の衆〕にあらず。和合の衆を因として、言説と論議はある。〔わたしは〕ふたたび敗れ去るであろう」と、すなわち、このような形態の、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあることである。ということで、「〔それを〕嘆き」。「憂い悲しみます」とは、「彼に、勝利がある」と憂い悲しみ、「わたしに、敗北がある」と憂い悲しみ、「彼に、利得がある」と憂い悲しみ、「わたしに、利得なきがある」と憂い悲しみ、「彼に、名声がある」と憂い悲しみ、「わたしに、名声なきがある」と憂い悲しみ、「彼に、賞賛がある」と憂い悲しみ、「わたしに、非難がある」と憂い悲しみ、「彼に、安楽がある」と憂い悲しみ、「わたしに、苦痛がある」と憂い悲しみ、「彼は、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)の得者である。わたしは、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されず、敬恭されず、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)の得者ではなく、〔世に〕存している」と、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、迷妄を惹起する。ということで、「〔それを〕嘆き、憂い悲しみます」。「劣った論の者」とは、円満成就した論の者ではなく、下劣なる論の者、劣悪なる論の者、遍く劣る論の者、遍く退けられた論の者。ということで、「劣った論の者は、〔それを〕嘆き、憂い悲しみます」。

 [617]「『〔彼は〕わたしを超え行った』と、泣き悲しむのです」とは、「彼は、わたしの論を、論によって、超えた、超え行った――超越した者として、等しく超越した者として、超克した者として」と、このようにもまた、「『〔彼は〕わたしを超え行った』と」。しかして、あるいは、「わたしの論を、論によって、征服して、蹂躙して、遍く奪い去って、踏みにじって、行じおこない、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く」と、このようにもまた、「『〔彼は〕わたしを超え行った』と」。悲泣は、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあること、と説かれる。ということで、「『〔彼は〕わたしを超え行った』と、泣き悲しむのです」。

 [618]それによって、世尊は言った。


 [619]「すなわち、〔人々が〕彼の論を『遍く劣る』と言うなら、問尋の審査者たちが『〔あなたは〕排斥された』と〔言うなら〕、劣った論の者は、〔それを〕嘆き、憂い悲しみます。『〔彼は〕わたしを超え行った』と、泣き悲しむのです」と。


63.


 [620]835.(828) これらの論争が、沙門たちのあいだで生じたなら、これらのうちには、興奮と失望が有ります。また、このことを見て、論難の言説を離れるように。なぜなら、賞賛を得ることより他に、義(利益)は存在しないからです。(5)


 [621]「これらの論争が、沙門たちのあいだで生じたなら」とは、「沙門たち」とは、彼らが誰であれ、これ(仏教)より外の者たちで、遍歴〔生活〕へと近づき行った者たちであり、遍歴〔生活〕に入った者たちである。これらの、見解の紛争が、見解の言い争いが、見解の口論が、見解の論争が、見解の確執が、沙門たちのあいだで、生じたなら、産出したなら、発現したなら、再出したなら、出現したなら。ということで、「これらの論争が、沙門たちのあいだで生じたなら」。

 [622]「これらのうちには、興奮と失望が有ります」とは、勝利と敗北が有り、利得と利得なきが有り、名声と名声なきが有り、賞賛と非難が有り、安楽と苦痛が有り、悦意と失意が有り、好ましいものと好ましくないものが有り、随貪と憤激が有り、興奮と失望が有り、共感と反感が有り、勝利によって、心は、興奮したものと成り、敗北によって、心は、失望したものと成り、利得によって、心は、興奮したものと成り、利得なきによって、心は、失望したものと成り、名声によって、心は、興奮したものと成り、名声なきによって、心は、失望したものと成り、賞賛によって、心は、興奮したものと成り、非難によって、心は、失望したものと成り、安楽によって、心は、興奮したものと成り、苦痛によって、心は、失望したものと成り、悦意によって、心は、興奮したものと成り、失意によって、心は、失望したものと成り、傲慢によって、心は、興奮したものと成り、屈服によって、心は、失望したものと成る。ということで、「これらのうちには、興奮と失望が有ります」。

 [623]「また、このことを見て、論難の言説を離れるように」とは、「また、このことを見て」とは、諸々の見解の紛争について、諸々の見解の言い争いについて、諸々の見解の口論について、諸々の見解の論争について、諸々の見解の確執について、この危険を、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。ということで、「また、このことを見て」。「論難の言説を離れるように」とは、論難の言説は、紛争、言い争い、口論、論争、確執、と説かれる。しかして、あるいは、「論難の言説」とは、滋養(効用)なき、〔まさに〕その、言説である。論難の言説を為すべきではなく、紛争を為すべきではなく、言い争いを為すべきではなく、口論を為すべきではなく、論争を為すべきではなく、確執を為すべきではなく、紛争と言い争いと口論と論争と確執を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らしめるべきであり、紛争と言い争いと口論と論争と確執から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住むべきである。ということで、「また、このことを見て、論難の言説を離れるように」。

 [624]「なぜなら、賞賛を得ることより他に、義(利益)は存在しないからです」とは、賞賛の利得より、他の義(利益)は存在しない。あるいは、自己の義(利益)は、あるいは、他者の義(利益)は、あるいは、両者の義(利益)は、あるいは、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)の義(利益)は、あるいは、未来の義(利益)は、あるいは、明瞭なる義(利益)は、あるいは、深遠なる義(利益)は、あるいは、秘密にされた義(利益)は、あるいは、隠蔽された義(利益)は、あるいは、導かれるべき義(利益)は、あるいは、導かれた義(利益)は、あるいは、罪過なき義(利益)は、あるいは、〔心の〕汚れなき義(利益)は、あるいは、浄化の義(利益)は、あるいは、最高の義(勝義:最高の真実)としての義(利益)は、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されない。ということで、「なぜなら、賞賛を得ることより他に、義(利益)は存在しないからです」。

 [625]それによって、世尊は言った。


 [626]「これらの論争が、沙門たちのあいだで生じたなら、これらのうちには、興奮と失望が有ります。また、このことを見て、論難の言説を離れるように。なぜなら、賞賛を得ることより他に、義(利益)は存在しないからです」と。


64.


 [627]836.(829) あるいは、また、衆の中で〔自己の〕論を告げて、そこにおいて、賞賛された者と成るとして、彼は、意“おもい”が〔そう〕有ったとおりの、その義(利益)を得て(心に想い描いたとおりの結果となり)、それによって、狂喜し、そして、傲慢になります。(6)


 [628]「あるいは、また、そこにおいて、賞賛された者と成るとして」とは、「そこにおいて」とは、自らの見解において、自らの忍耐(信受)において、自らの嗜好(意欲)において、自らの主張において。〔彼は〕賞賛された者、賛嘆された者、栄誉とされた者、名誉とされた者と成る。ということで、「あるいは、また、そこにおいて、賞賛された者と成るとして」。

 [629]「衆の中で〔自己の〕論を告げて」とは、あるいは、士族の衆の、あるいは、婆羅門の衆の、あるいは、家長の衆の、あるいは、沙門の衆の、〔それらの〕中で、自己の論を、告げて、告げ知らせて、付随する論を、告げて、告げ知らせて、強調して、増進して、提示して、照明して、語用して、遍く収取して。ということで、「衆の中で〔自己の〕論を告げて」。

 [630]「彼は、それによって、狂喜し、そして、傲慢になります」とは、彼は、〔まさに〕その、勝利の義(利益)によって、満足した者と成り、笑った者、笑喜した者、わが意を得た者、思惟が円満成就した者と〔成る〕。しかして、あるいは、歯を見せながら笑っている者と〔成る〕。「彼は、それによって、狂喜し、そして、傲慢になります」とは、彼は、〔まさに〕その、勝利の義(利益)によって、傲慢した者と成り、傲慢になること、〔高慢の〕旗、横柄、心が〔高慢の〕幟を欲することがある。ということで、「彼は、それによって、狂喜し、そして、傲慢になります」。

 [631]「意が〔そう〕有ったとおりの、その義(利益)を得て」とは、〔まさに〕その、勝利の義(利益)を、得て、獲て、到達して、見い出して、獲得して。「意が〔そう〕有ったとおりの」とは、意が〔そう〕有ったとおりの、心が〔そう〕有ったとおりの、思惟が〔そう〕有ったとおりの、識知が〔そう〕有ったとおりの。ということで、「意が〔そう〕有ったとおりの、その義(利益)を得て」。

 [632]それによって、世尊は言った。


 [633]「あるいは、また、衆の中で〔自己の〕論を告げて、そこにおいて、賞賛された者と成るとして、彼は、意が〔そう〕有ったとおりの、その義(利益)を得て(心に想い描いたとおりの結果となり)、それによって、狂喜し、そして、傲慢になります」と。


65.


 [634]837.(830) その傲慢なるもの――それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地。また、この者は、〔以前にも増して〕思量“おもいあがり”と高慢〔の論〕を説きます。また、このことを見て、論争しないように。なぜなら、智者たちは、それによって、清浄を説かないからです。(7)


 [635]「その傲慢なるもの――それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地」とは、すなわち、傲慢、傲慢になること、〔高慢の〕旗、横柄、心が〔高慢の〕幟を欲すること。ということで、「その傲慢なるもの」。「それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地」とは、それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地、害障の境地、逼悩の境地、打撃の境地、禍の境地、災禍の境地。ということで、「その傲慢なるもの――それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地」。

 [636]「また、この者は、〔以前にも増して〕思量と高慢〔の論〕を説きます」とは、その人は、思量〔の論〕をも説き、高慢〔の論〕をも説く。ということで、「また、この者は、〔以前にも増して〕思量と高慢〔の論〕を説きます」。

 [637]「また、このことを見て、論争しないように」とは、諸々の見解の紛争について、諸々の見解の言い争いについて、諸々の見解の口論について、諸々の見解の論争について、諸々の見解の確執について、この危険を、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。ということで、「また、このことを見て」。「論争しないように」とは、紛争を為すべきではなく、言い争いを為すべきではなく、口論を為すべきではなく、論争を為すべきではなく、確執を為すべきではなく、紛争と言い争いと口論と論争と確執を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らしめるべきであり、紛争と言い争いと口論と論争と確執から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住むべきである。ということで、「また、このことを見て、論争しないように」。

 [638]「なぜなら、智者たちは、それによって、清浄を説かないからです」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、〔五つの〕範疇(五蘊)の智ある者たち、〔十八の〕界域(十八界)の智ある者たち、〔十二の認識の〕場所(十二処)の智ある者たち、〔物事が〕縁によって生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)の智ある者たち、〔四つの〕気づきの確立(四念住・四念処)の智ある者たち、〔四つの〕正しい精励(四正勤)の智ある者たち、〔四つの〕神通の足場(四神足)の智ある者たち、〔五つの〕機能(五根)の智ある者たち、〔五つの〕力(五力)の智ある者たち、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)の智ある者たち、〔沙門の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)の智ある者たち、〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)の智ある者たち、涅槃の智ある者たちであり、それらの智ある者たちは、見解の紛争によって、見解の言い争いによって、見解の口論によって、見解の論争によって、見解の確執によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説かず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「なぜなら、智者たちは、それによって、清浄を説かないからです」。

 [639]それによって、世尊は言った。


 [640]「その傲慢なるもの――それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地。また、この者は、〔以前にも増して〕思量と高慢〔の論〕を説きます。また、このことを見て、論争しないように。なぜなら、智者たちは、それによって、清浄を説かないからです」と。


66.


 [641]838.(831) 王の食禄に養われた〔蛮勇の〕勇士が、敵の勇士を求めながら、雄叫びをあげつつ行くように、勇士よ、まさしく、彼(敵)のいるところに、そこへと去り行きなさい。〔ここには〕戦いのための〔縁となる〕、〔まさに〕その、「これ」〔という思い、すなわち、「これこそが、真理である」と主張するための「これ」〕は、すでに、もう、存在しないのです。(8)


 [642]「王の食禄に養われた〔蛮勇の〕勇士が」とは、「勇士」とは、勇士、勇者、勇猛なる者、恐怖なき者、驚愕なき者、恐懼なき者、逃げない者。「王の食禄に養われた」とは、王の食禄によって、王の食料によって、養われた者、養育された者、育成された者、成長した者。ということで、「王の食禄に養われた〔蛮勇の〕勇士が」。

 [643]「敵の勇士を求めながら、雄叫びをあげつつ行くように」とは、彼は、敵の勇士を、敵人を、敵賊を、敵の力士を、求めながら、楽しみにしながら、切望しながら、熱望しながら、渇望しながら、わめきつつ、叫喚しつつ、雄叫びをあげつつ、行く、近づく、近づき行く。ということで、「敵の勇士を求めながら、雄叫びをあげつつ行くように」。

 [644]「勇士よ、まさしく、彼(敵)のいるところに、そこへと去り行きなさい」とは、まさしく、その悪しき見解ある者のいるところに、そこへと去り行きなさい、そこへと行きなさい、そこへと赴きなさい、そこへと超え行きなさい。彼は、あなたにとって、敵の勇士であり、敵人であり、敵賊であり、敵の力士である。ということで、「勇士よ、まさしく、彼のいるところに、そこへと去り行きなさい」。

 [645]「〔ここには〕戦いのための〔縁となる〕、〔まさに〕その、『これ』〔という思い、すなわち、『これこそが、真理である』と主張するための『これ』〕は、すでに、もう、存在しないのです」とは、まさしく、以前において、〔すなわち〕菩提〔樹〕の根元において、それらの、敵対を為し、反逆を為し、対抗を為し、相反を為すものである、諸々の〔心の〕汚れは、〔もはや〕それらは、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。「戦いのための〔縁となる〕、〔まさに〕その、『これ』」とは、すなわち、これ、戦いという義(目的)のために、紛争という義(目的)のために、言い争いという義(目的)のために、口論という義(目的)のために、論争という義(目的)のために、確執という義(目的)のために。ということで、「〔ここには〕戦いのための〔縁となる〕、〔まさに〕その、『これ』〔という思い、すなわち、『これこそが、真理である』と主張するための『これ』〕は、すでに、もう、存在しないのです」。

 [646]それによって、世尊は言った。


 [647]「王の食禄に養われた〔蛮勇の〕勇士が、敵の勇士を求めながら、雄叫びをあげつつ行くように、勇士よ、まさしく、彼(敵)のいるところに、そこへと去り行きなさい。〔ここには〕戦いのための〔縁となる〕、〔まさに〕その、『これ』〔という思い、すなわち、『これこそが、真理である』と主張するための『これ』〕は、すでに、もう、存在しないのです」と。


67.


 [648]389.(832) 彼ら、〔特定の〕見解に執持して論争し、そして、「これこそが、真理である」と説く者たち――彼らに、あなたは、説きなさい。まさに、彼らは、ここには存在しません――論が生じたとき、敵対を為す者たちは。(9)


 [649]「彼ら、〔特定の〕見解に執持して論争し」とは、彼らは、六十二の悪しき見解のなかの、何らかの或る悪しき見解を、収め取って、収取して、執持して、偏執して、固着して、論争し、紛争を為し、言い争いを為し、口論を為し、論争を為し、確執を為す。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する」「どうして、あなたは、この法(教え)と律を了知しないのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、益を有することがある。あなたには、益を有することがない」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを前に言った」「あなたの久しく行じおこなうところは、転覆された。あなたの論は、論破された。あなたは、批判された者として存している」「論からの解き放ちのために、歩め(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」〔と〕。ということで、「彼ら、〔特定の〕見解に執持して論争し」。

 [650]「そして、『これこそが、真理である』と説く者たち」とは、「世〔界〕は、常恒である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世〔界〕は、常恒ならざるものである。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「そして、『これこそが、真理である』と説く者たち」。

 [651]「彼らに、あなたは、説きなさい。まさに、彼らは、ここには存在しません――論が生じたとき、敵対を為す者たちは」とは、彼らに、悪しき見解ある者たちに、あなたは、説きなさい――論によって、論を、批判〔の論〕によって、批判〔の論〕を、反駁〔の論〕によって、反駁〔の論〕を、特別〔の論〕によって、特別〔の論〕を、特化〔の論〕によって、特化〔の論〕を、独特〔の論〕によって、独特〔の論〕を、弁明〔の論〕によって、弁明〔の論〕を、簡略〔の論〕によって、簡略〔の論〕を、総合〔の論〕によって、総合〔の論〕を。彼らは、あなたにとって、敵の勇士であり、敵人であり、敵賊であり、敵の力士である。ということで、「彼らに、あなたは、説きなさい。まさに、彼らは、ここには存在しません」。「論が生じたとき、敵対者たちは」とは、論が、まさしく、生じたとき、産出したとき、発現したとき、再出したとき、出現したとき、敵対を為す者たちは、反逆を為す者たちは、対抗を為す者たちは、相反を為す者たちは、紛争を為し、言い争いを為し、口論を為し、論争を為し、確執を為すであろうが、彼らは、〔ここには〕存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され……略([191]参照)……知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼らに、あなたは、説きなさい。まさに、彼らは、ここには存在しません――論が生じたとき、敵対を為す者たちは」。

 [652]それによって、世尊は言った。


 [653]「彼ら、〔特定の〕見解に執持して論争し、そして、「これこそが、真理である」と説く者たち――彼らに、あなたは、説きなさい。まさに、彼らは、ここには存在しません――論が生じたとき、敵対を為す者たちは」と。


68.


 [654]840.(833) いっぽうで、彼ら、〔一切にたいし〕敵対を為さずして行じおこない、諸々の見解によって見解(ものの見方)を遮られない者たち――彼らに、この〔世において〕、「〔これこそ〕最高である」〔と〕執持されたもの(特定の見解)が存在しないなら――パスーラさん、彼らにたいし、あなたは、何を得るというのでしょう。(10)


 [655]「いっぽうで、彼ら、〔一切にたいし〕敵対を為さずして行じおこない」とは、敵対は、悪魔の軍団と説かれる。身体による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。言葉による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。意による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。貪欲は、悪魔の軍団である。憤怒は、悪魔の軍団である。迷妄は、悪魔の軍団である。忿怒は……。怨恨は……。偽装は……。加虐は……。嫉妬は……。物惜は……。幻想は……。狡猾は……。強情は……。激昂は……。思量は……。高慢は……。驕慢は……。放逸は……。一切の〔心の〕汚れは……。一切の悪しき行ないは……。一切の懊悩は……。一切の苦悶は……。一切の熱苦は……。一切の善ならざる行作は、悪魔の軍団である。

 [656]まさに、このことが、世尊によって説かれた。


 [657]〔しかして、詩偈に言う〕「おまえの第一の軍団は、『欲望』〔と呼ばれる〕。第二〔の軍団〕は、『不満』〔と〕呼ばれる。……略([331-334]参照)……勇士ならざる者は、それに勝利することがない。しかしながら、勝利すれば、安楽を得る」と。


 [658]すなわち、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)によって、しかして、一切の悪魔の軍団が、さらには、一切の敵対を為す〔心の〕汚れが、しかして、敗れ、さらには、敗北し、破壊し、破滅し、背面した(非在化した)ことから、それによって説かれる。「〔一切にたいし〕敵対を為さずして」と。「彼ら」とは、阿羅漢たち、煩悩の滅尽者たち。「行じおこない」とは、行じおこない、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「いっぽうで、彼ら、〔一切にたいし〕敵対を為さずして行じおこない」。

 [659]「諸々の見解によって見解(ものの見方)を遮られない者たち」とは、彼らの、六十二の悪しき見解が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼らは、諸々の見解によって見解を、遮られずにいる者たちであり、遮蔽されずにいる者たちであり、捨棄されずにいる者たちであり、打ちのめされずにいる者たちであり、打破されずにいる者たちである。ということで、「諸々の見解によって見解を遮られない者たち」。

 [660]「パスーラさん、彼らにたいし、あなたは、何を得るというのでしょう」とは、彼らにたいし、阿羅漢たちにたいし、煩悩の滅尽者たちにたいし、どのような、敵の勇士を、敵人を、敵賊を、敵の力士を、得るというのだろう。ということで、「パスーラさん、彼らにたいし、あなたは、何を得るというのでしょう」。

 [661]「彼らに、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたもの(特定の見解)が存在しないなら」とは、彼らに、阿羅漢たちに、煩悩の滅尽者たちに、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものが、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼らに、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたものが存在しないなら」。

 [662]それによって、世尊は言った。


 [663]「いっぽうで、彼ら、〔一切にたいし〕敵対を為さずして行じおこない、諸々の見解によって見解(ものの見方)を遮られない者たち――彼らに、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたもの(特定の見解)が存在しないなら――パスーラさん、彼らにたいし、あなたは、何を得るというのでしょう」と。


69.


 [664]841.(834) しかして、あなたは、〔わたしのところに、何ものかを〕尋ね求めてやってきました――意によって、諸々の悪しき見解を思い考えながら。〔そして、あなたは〕清き者(ブッダ)とともに〔論争という〕軛“くびき”を装着しました。まさに、あなたは、〔それがために、もはや〕進み行くことができないのです。(11)


 [665]「しかして、あなたは、〔わたしのところに、何ものかを〕尋ね求めてやってきました」とは、「しかして」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、句の順序たること。これが、「しかして」ということになる。「尋ね求めてやってきました」とは、考えながら、思考しながら、思惟しながら。〔すなわち〕「いったい、まさに、わたしに、勝利が有るのだろうか」「いったい、まさに、わたしに、敗北が有るのだろうか」「どのように、批判〔の論〕を為そうか」「どのように、反駁〔の論〕を為そうか」「どのように、特別〔の論〕を為そうか」「どのように、特化〔の論〕を為そうか」「どのように、独特〔の論〕を為そうか」「どのように、弁明〔の論〕を為そうか」「どのように、簡略〔の論〕を為そうか」「どのように、総合〔の論〕を為そうか」と、このように、考えながら、思考しながら、思惟しながら、〔わたしのところに〕やってきた者として〔あなたは〕存している、〔わたしのところに〕近づき行った者として〔あなたは〕存している、〔わたしのところに〕得達した者として〔あなたは〕存している、わたしと共に〔論争という軛を〕装着した者として〔あなたは〕存している。ということで、「しかして、あなたは、〔わたしのところに、何ものかを〕尋ね求めてやってきました」。

 [666]「意によって、諸々の悪しき見解を思い考えながら」とは、「意」とは、すなわち、心、意(マノー)、意図(マーナサ)、心臓(心)、白きもの(認識の領域)、意(マノー)、意の〔認識の〕場所(意処)、意の機能(意根)、識知〔作用〕(識)、識知〔作用〕の範疇(識蘊)、それから生じる〔心〕、意の識知〔作用〕の界域(意識界)である。心で、見解を――あるいは、「世〔界〕は、常恒である」と、あるいは、「世〔界〕は、常恒ならざるものである」と……略([226]参照)……あるいは、「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない」と――思い考えながら、熟慮しながら。ということで、「意によって、諸々の悪しき見解を思い考えながら」。

 [667]「〔そして、あなたは〕清き者(ブッダ)とともに〔論争という〕軛を装着しました。まさに、あなたは、〔それがために、もはや〕進み行くことができないのです」とは、清きは、知慧と説かれる。すなわち、知慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。何を契機とすることから、清きは、知慧と説かれるのか。その知慧によって、身体による悪しき行ないが、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、言葉による悪しき行ないが……略([266]参照)……一切の善ならざる行作が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもする。それを契機とすることから、清きは、知慧と説かれる。しかして、あるいは、正しい見解によって、誤った見解が……正しい思惟によって、誤った思惟が……略([267]参照)……正しい解脱によって、誤った解脱が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもする。しかして、あるいは、聖なる八つの支分ある道(八支聖道)によって、一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもする。世尊は、これらの清き法(性質)を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方であり、それゆえに、世尊は、清き者である。彼は、貪欲を払拭した方であり、悪を払拭した方であり、〔心の〕汚れを払拭した方であり、苦悶を払拭した方である。ということで、「清き者」。

 [668]「〔そして、あなたは〕清き者(ブッダ)とともに〔論争という〕軛を装着しました。まさに、あなたは、〔それがために、もはや〕進み行くことができないのです」とは、パスーラ遍歴遊行者は、清き者にして覚者たる世尊と共に、〔論争という〕軛の装着を装着して、〔論争という〕軛の収取を収取して、論談するためには、論議するためには、論談に入定するためには、能力がない。それは、何を因としてか。パスーラ遍歴遊行者は、下劣であり、劣悪であり、下等であり、悪辣であり、劣小であり、微小である〔からである〕。まさに、彼は、世尊は、至高でもあり、最勝でもあり、殊勝でもあり、筆頭でもあり、最上でもあり、最も優れた方でもある。たとえば、兎が、発情した象と共に、軛の装着を装着して、軛の収取を収取するためには、能力がないように、たとえば、野狐が、獣王たる獅子と共に、軛の装着を装着して、軛の収取を収取するためには、能力がないように、たとえば、乳を飲む幼い子牛が、こぶある雄牛と共に、軛の装着を装着して、軛の収取を収取するためには、能力がないように、たとえば、烏が、ガルラやヴェーナテイヤ(金翅鳥)と共に、軛の装着を装着して、軛の収取を収取するためには、能力がないように、たとえば、チャンダーラ(旃陀羅:賤民・非人)が、転輪王と共に、軛の装着を装着して、軛の収取を収取するためには、能力がないように、たとえば、泥鬼が、インダ天王(インドラ神)と共に、軛の装着を装着して、軛の収取を収取するためには、能力がないように、まさしく、このように、パスーラ遍歴遊行者は、清き者にして覚者たる世尊と共に、〔論争という〕軛の装着を装着して、〔論争という〕軛の収取を収取して、論談するためには、論議するためには、論談に入定するためには、能力がない。それは、何を因としてか。パスーラ遍歴遊行者は、下劣の知慧ある者であり、劣悪の知慧ある者であり、下等の知慧ある者であり、悪辣の知慧ある者であり、劣小の知慧ある者であり、微小の知慧ある者である〔からである〕。まさに、彼は、世尊は、大いなる知慧ある方であり、多々なる知慧ある方であり、敏速なる知慧ある方であり、疾走する知慧ある方であり、鋭敏なる知慧ある方であり、洞察の知慧ある方であり、知慧の細別に巧みな智ある方であり、細別された知恵ある方であり、融通無礙に到達した方であり、四つの離怖を得た方であり、十の力を保持する方であり、人のなかの雄牛たる方であり、人のなかの獅子たる方であり、人のなかの龍象たる方であり、人のなかの良馬たる方(善き生まれの者)であり、人のなかの荷牛たる方(忍耐強き者)であり、終極なき知恵ある方であり、終極なき威光ある方であり、終極なき福徳ある方であり、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方であり、導く方であり、教導する方であり、指導する方であり、知らしめる方であり、納得させる方であり、見させる方であり、清信させる方である。まさに、彼は、世尊は、〔いまだ〕生起していない道を生起させる方であり、〔いまだ〕了解されていない道を了解させる方であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方であり、さらには、また、道に従い行く者たちである、彼の弟子たちは、今現在、〔世に〕住み、未来において、〔教えを〕具備した者たちとしてある。

 [669]まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る、〔世の〕眼として有る方であり、知恵として有る方であり、法(真理)として有る方であり、梵として有る方であり、〔法の〕説者たる方であり、〔法の〕伝授者たる方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死〔の境処〕を与える方であり、法(真理)の主であり、如来である。彼にとって、世尊にとって、〔いまだ〕知られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見い出されていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕実証されていないものは〔存在せず〕、知慧によって〔いまだ〕体得されていないものは存在しない。過去と未来と現在を加え含めて、一切の法(性質)が、一切の行相をもって、覚者たる世尊の知恵の門において、視野へと至り来る。それが何であれ、導かれるべきもの(未了義のもの)が、まさに、存在するなら、〔その〕法(性質)は、知られるべきものとなる。あるいは、自己の義(利益)が、あるいは、他者の義(利益)が、あるいは、両者の義(利益)が、あるいは、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)の義(利益)が、あるいは、未来の義(利益)が、あるいは、明瞭なる義(意味)が、あるいは、深遠なる義(意味)が、あるいは、秘密にされた義(意味)が、あるいは、隠蔽された義(意味)が、あるいは、導かれるべき義(意味)が、あるいは、導かれた義(意味)が、あるいは、罪過なき義(意味)が、あるいは、〔心の〕汚れなき義(意味)が、あるいは、浄化の義(意味)が、あるいは、最高の義(勝義)としての義(意味)が、その全てが、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 [670]一切の身体の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転し、一切の言葉の行為は、〔覚者たる世尊の〕知恵に遍く随転し、一切の意の行為は、〔覚者たる世尊の〕知恵に遍く随転する。覚者たる世尊の知恵は、過去において、打破されざるものとしてあり、未来において、打破されざるものとしてあり、現在において、打破されざるものとしてある。それが、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりが、知恵となる。それが、知恵としてあるかぎり、そのかぎりが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを最終極とするものが、知恵となる。知恵を最終極とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を最終極の境位とするのが、それらの法(性質)となる。たとえば、二つの箱の面が、正しく接触したなら、下の箱の面は、上のものを超克することがなく、上の箱の面は、下のものを超克することがなく、互いに他を最終極の境位とするように、まさしく、このように、覚者たる世尊の、導かれるべきものと、知恵とは、互いに他を最終極の境位とするものとなる。それが、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりが、知恵となる。それが、知恵としてあるかぎり、そのかぎりが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを最終極とするものが、知恵となる。知恵を最終極とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を最終極の境位とするのが、それらの法(性質)となる。一切の諸法(性質)において、覚者たる世尊の知恵は転起する。

 [671]一切の諸法(性質)は、覚者たる世尊の、〔心を〕傾注することと連結したものとしてあり、望みと連結したものとしてあり、意を為すことと連結したものとしてあり、心の生起と連結したものとしてある。一切の有情において、覚者たる世尊の知恵は転起する。しかして、世尊は、一切の有情の、志欲を知り、悪習を知り、所行を知り、信念を知る。少なき塵の者たちとして、大きな塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、可能なると可能ならざる者たちとして、有情たちを覚知する。天〔界〕を含む世〔界〕が、魔〔界〕を含み梵〔界〕を含む〔世界〕が、沙門や婆羅門を含む人々が、天〔の神〕や人間を含む〔人々〕が、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 [672]たとえば、それらが何であれ、魚や亀たちが、もしくは、巨大魚を加え含めて、大海の内において遍く転起するように、まさしく、このように、天〔界〕を含む世〔界〕が、魔〔界〕を含み梵〔界〕を含む〔世界〕が、沙門や婆羅門を含む人々が、天〔の神〕や人間を含む〔人々〕が、覚者の知恵の内において遍く転起する。たとえば、それらが何であれ、翼あるもの(鳥)たちが、もしくは、ガルラやヴェーナテイヤ(金翅鳥)を加え含めて、虚空の部域(天空)において遍く転起するように、まさしく、このように、すなわち、また、彼らが、知慧としてはサーリプッタと同等の者たちであるとして、彼らもまた、覚者の知恵の部域において遍く転起する。覚者の知恵は、天〔の神々〕と人間たちの知慧を、充満して〔止住し〕、凌駕して止住する。

 [673]すなわち、また、彼らが、士族の賢者たちが、婆羅門の賢者たちが、家長の賢者たちが、沙門の賢者たちが、精緻の者たちとして、他の異論を為した者たちとして、毛を貫く形質の者たちとして、思うに、知慧を具したことで、諸々の悪しき見解を破り去りつつ〔世を〕歩むとして、彼らは、諸々の問いを準備しては準備して、如来のもとへと近しく赴いて、しかして、諸々の秘密にされたものを、さらには、諸々の隠蔽されたものを、問い尋ねる。それらの問いは、世尊によって、言説され、まさしく、回答され、〔問い尋ねの〕契機が釈示されたものと成る。しかして、商売人(質問者)たちは、それら〔の問い〕を、世尊のために成就する。しかして、まさに、世尊は、そこにおいて、輝きまさる――すなわち、これ、知慧によって。ということで、〔そして、あなたは〕清き者(ブッダ)とともに〔論争という〕軛を装着しました。まさに、あなたは、〔それがために、もはや〕進み行くことができないのです」。

 [674]それによって、世尊は言った。


 [675]「しかして、あなたは、〔わたしのところに、何ものかを〕尋ね求めてやってきました――意によって、諸々の悪しき見解を思い考えながら。〔そして、あなたは〕清き者(ブッダ)とともに〔論争という〕軛を装着しました。まさに、あなたは、〔それがために、もはや〕進み行くことができないのです」と。


 [676]パスーラの経についての釈示が、第八となる。


1.9 マーガンディヤの経についての釈示


 [677]しかして、マーガンディヤの経についての釈示を説くであろう。


70.


 [678]842.(835) 〔世尊は言った〕――渇愛、不満、貪欲と、〔これらの名をもつ悪魔の娘たちを〕見て、〔わたしには〕淫欲(性交)にたいする欲〔の思い〕さえも、有りませんでした。この、糞尿に満ちたものが、まさしく、何だというのでしょう。足でさえも、それに触れることを求めません。(1)


 [679]「渇愛、不満、貪欲と、〔これらの名をもつ悪魔の娘たちを〕見て、〔わたしには〕淫欲(性交)にたいする欲〔の思い〕さえも、有りませんでした」とは、渇愛と、不満と、貪欲とを、〔これらの名をもつ〕悪魔の娘たちを、見て〔そののち〕、観て〔そののち〕、淫欲の法(性質)にたいする、あるいは、欲〔の思い〕は、あるいは、貪欲は、あるいは、愛情は、有ることなくあった。ということで、「渇愛、不満、貪欲と、〔これらの名をもつ悪魔の娘たちを〕見て、〔わたしには〕淫欲にたいする欲〔の思い〕さえも、有りませんでした」。

 [680]「この、糞尿に満ちたものが、まさしく、何だというのでしょう。足でさえも、それに触れることを求めません」とは、尿に満ち、糞に満ち、痰に満ち、血に満ち、骨の結索と腱の連結、血と肉の塗装、皮の結合にして、表皮に覆われ、種々の穴があり、〔不浄物が〕滲み出ては流れ出ている、虫の群れの慣れ親しむところ、種々なる汚垢に遍く満ちた、この肉体が、まさしく、何だというのだろう。足でさえも、〔それを〕踏むことを求めない。また、どうして、あるいは、共住が、あるいは、共合が。ということで、「この、糞尿に満ちたものが、まさしく、何だというのでしょう。足でさえも、それに触れることを求めません」。〔対話者であるマーガンディヤは〕「しかして、これは、稀有ならざることである――人間が、諸々の天の欲望〔の対象〕を切望しながら、諸々の人間の欲望〔の対象〕を求めないのは――あるいは、諸々の人間の欲望〔の対象〕を切望しながら、諸々の天の欲望〔の対象〕を求めないのは。それなのに、あなたは、両者ともどもに、求めず、楽しみにせず、切望せず、熱望せず、渇望しない。あなたには、どのような見があるのか。あなたは、どのような見解を具備した者であるのか」と、〔世尊に〕問い尋ねる。ということで――

 [681]それによって、世尊は言った。


 [682]〔世尊は言った〕――「渇愛、不満、貪欲と、〔これらの名をもつ悪魔の娘たちを〕見て、〔わたしには〕淫欲(性交)にたいする欲〔の思い〕さえも、有りませんでした。この、糞尿に満ちたものが、まさしく、何だというのでしょう。足でさえも、それに触れることを求めません」と。


71.


 [683]843.(836) 〔マーガンディヤが尋ねた〕――もし、〔あなたが〕このような宝を求めないなら、〔すなわち〕人のなかのインダたる者(国王)の多くに切望された女性〔という宝〕を〔求めないなら〕、悪しき見解、戒や掟、生〔のあり方〕、そして、〔迷いの〕生存への再生を、〔あなたは〕どのようなものと説くのですか。(2)


72.


 [684]844.(837) かくのごとく、世尊は〔答えた〕――マーガンディヤさん、「〔わたしは〕これを説く」という〔執着は〕、彼(ブッダ)には有りません。〔彼は〕諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔正しく〕判別するのです。そして、諸々の見解について〔あるがままに〕見ている者として、〔それらに〕執持せずして、〔正しく〕弁別しつつ、〔わたしは〕内なる寂静を見たのです。(3)


 [685]「『〔わたしは〕これを説く』という〔執着は〕、彼(ブッダ)には有りません」とは、「〔わたしは〕これを説く」とは、〔わたしは〕これを説く、〔わたしは〕このことを説く、〔わたしは〕これだけを説く、〔わたしは〕これだけで説く、〔わたしは〕この悪しき見解を説く――あるいは、「世〔界〕は、常恒である」と……略([226]参照)……あるいは、「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない」と。「彼には有りません」とは、わたしには有りません。「〔わたしは〕これだけで説く」という〔執着は〕、彼には有りません。ということで、「『〔わたしは〕これを説く』という〔執着は〕、彼には有りません」。

 [686]「マーガンディヤさん」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([524]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、これ、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕――マーガンディヤさん」。

 [687]「〔彼は〕諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔正しく〕判別するのです」とは、「諸々の法(見解)について」とは、六十二の悪しき見解について。「〔正しく〕判別するのです」とは、判別して、判断して、弁別して、精査して、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。「〔執着の対象として〕執持されたもの」とは、限界あるものへの収取、片々のものへの収取、優れたものへの収取、部位のものへの収取、積集のものへの収取、等しき積集のものへの収取であり、「これは、真理である、如実である、真実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものである。〔それは、もはや〕存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「〔彼は〕諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔正しく〕判別するのです」。

 [688]「そして、諸々の見解について〔あるがままに〕見ている者として、〔それらに〕執持せずして」とは、諸々の見解について、危険を見ている者として、諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない。しかして、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「そして、諸々の見解について〔あるがままに〕見ている者として、〔それらに〕執持せずして」。

 [689]しかして、あるいは、「『世〔界〕は、常恒である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』とは、これは、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の演芸、見解の騒動、見解の束縛、苦痛を有するもの、悩苦を有するもの、葛藤を有するもの、苦悶を有するものであり、厭離のためならずに、離貪のためならずに、止滅のためならずに、寂止のためならずに、証知のためならずに、正覚のためならずに、涅槃のためならずに、等しく転起する」と、諸々の見解について、危険を見ている者として、諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない。しかして、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「そして、諸々の見解について〔あるがままに〕見ている者として、〔それらに〕執持せずして」。

 [690]しかして、あるいは、「『世〔界〕は、常恒ならざるものである。……。「『世〔界〕は、終極がある。……。『世〔界〕は、終極がない。……。「『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)。……。「『他のものとして生命があり、他のものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「『如来は、死後に有る。……。「『如来は、死後に有ることがない。……。「『如来は、死後に、有ることもあれば、有ることがないこともある。……。「『如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』とは、これは、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の演芸、見解の騒動、見解の束縛、苦痛を有するもの、悩苦を有するもの、葛藤を有するもの、苦悶を有するものであり、厭離のためならずに、離貪のためならずに、止滅のためならずに、寂止のためならずに、証知のためならずに、正覚のためならずに、涅槃のためならずに、等しく転起する」と、諸々の見解について、危険を見ている者として、諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない。しかして、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「そして、諸々の見解について〔あるがままに〕見ている者として、〔それらに〕執持せずして」。

 [691]しかして、あるいは、「これらの見解を、このように収取した者たちは、このように偏執した者たちは、このような境遇の者たちと成るであろう、このような未来の運命ある者たちと〔成るであろう〕」と、諸々の見解について、危険を見ている者として、諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない。しかして、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「そして、諸々の見解について〔あるがままに〕見ている者として、〔それらに〕執持せずして」。

 [692]しかして、あるいは、「これらの見解は、地獄のために等しく転起するものであり、畜生の胎のために等しく転起するものであり、餓鬼の境域のために等しく転起するものである」と、諸々の見解について、危険を見ている者として、諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない。しかして、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「そして、諸々の見解について〔あるがままに〕見ている者として、〔それらに〕執持せずして」。

 [693]しかして、あるいは、「これらの見解は、無常なるものであり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と、諸々の見解について、危険を見ている者として、諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない。しかして、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「そして、諸々の見解について〔あるがままに〕見ている者として、〔それらに〕執持せずして」。

 [694]「〔正しく〕弁別しつつ、〔わたしは〕内なる寂静を見たのです」とは、「内なる寂静を」とは、内なる、貪欲の寂静を、憤怒の寂静を、迷妄の寂静を、忿怒の……怨恨の……偽装の……加虐の……嫉妬の……物惜の……幻想の……狡猾の……強情の……激昂の……思量の……高慢の……驕慢の……放逸の……一切の〔心の〕汚れの……一切の悪しき行ないの……一切の懊悩の……一切の苦悶の……一切の熱苦の……一切の善ならざる行作の、静まりを、寂静を、寂止を、寂滅を、静息を。「〔正しく〕弁別しつつ」とは、選別しつつ、弁別しつつ、精査しつつ、比較しつつ、推量しつつ、分明しつつ、明瞭と為しつつ。「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、選別しつつ、弁別しつつ、精査しつつ、比較しつつ、推量しつつ、分明しつつ、明瞭と為しつつ。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と……。「一切の諸法(性質)は、無我である(諸法無我)」と、選別しつつ、弁別しつつ、精査しつつ……略([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全ては、止滅の法(性質)である」と、選別しつつ、弁別しつつ、精査しつつ、比較しつつ、推量しつつ、分明しつつ、明瞭と為しつつ。「見たのです」とは、〔わたしは〕見た、〔わたしは〕視認した、〔わたしは〕観た、〔わたしは〕理解した。ということで、「〔正しく〕弁別しつつ、〔わたしは〕内なる寂静を見たのです」。

 [695]それによって、世尊は言った。


 [696]かくのごとく、世尊は〔答えた〕――「マーガンディヤさん、『〔わたしは〕これを説く』という〔執着は〕、彼(ブッダ)には有りません。〔彼は〕諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔正しく〕判別するのです。そして、諸々の見解について〔あるがままに〕見ている者として、〔それらに〕執持せずして、〔正しく〕弁別しつつ、〔わたしは〕内なる寂静を見たのです」と。


73.


 [697]845.(838) かくのごとく、マーガンディヤが〔尋ねた〕――それらの〔前もって「こうである」と〕想い描かれたものがあり、〔それらにたいする〕諸々の〔断定的〕判断があります。牟尼よ、まさに、それら〔の断定的判断〕に執持しないで、〔あなたは〕説きます。「内なる寂静」という、〔まさに〕その、この義(意味)を。それは、慧者たちによって、いったい、どのように〔告げ〕知らされたのですか。(4)


 [698]「それらの〔前もって「こうである」と〕想い描かれたものがあり、〔それらにたいする〕諸々の〔断定的〕判断があります」とは、諸々の〔断定的〕判断は、六十二の悪しき見解、諸々の見解としての〔断定的〕判断、と説かれる。「想い描かれたもの」とは、諸々の想い描かれたもの、諸々の妄想されたもの、諸々の行作されたもの、諸々の確立されたもの、ということでもまた、「想い描かれたもの」。しかして、あるいは、諸々の無常なるもの、諸々の形成されたもの、諸々の縁によって生起したもの、諸々の滅尽の法(性質)、諸々の衰微の法(性質)、諸々の離貪の法(性質)、諸々の止滅の法(性質)、諸々の変化の法(性質)、ということでもまた、「想い描かれたもの」。ということで、「それらの〔前もって「こうである」と〕想い描かれたものがあり、〔それらにたいする〕諸々の〔断定的〕判断があります」。

 [699]「かくのごとく、マーガンディヤが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。「マーガンディヤ」とは、その婆羅門の、名前、名称、呼称、概念、通称。ということで、「かくのごとく、マーガンディヤが〔尋ねた〕」。

 [700]「牟尼よ、まさに、それら〔の断定的判断〕に執持しないで、〔あなたは〕説きます。『内なる寂静』という、〔まさに〕その、この義(意味)を」とは、「まさに、それら〔の断定的判断〕に」とは、六十二の悪しき見解に。「牟尼(ムニ)よ」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……執着の網を超え行って、彼は、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「執持しないで」とは、諸々の見解について、危険を見ている者として、「諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない」とも、〔あなたは〕語り、「〔わたしには〕内なる寂静がある」とも、〔あなたは〕語る。「〔まさに〕その、この義(意味)を」とは、すなわち、最高の義(勝義:最高の真実)としては。ということで、「牟尼よ、まさに、それら〔の断定的判断〕に執持しないで、〔あなたは〕説きます。『内なる寂静』という、〔まさに〕その、この義(意味)を」。

 [701]「それは、慧者たちによって、いったい、どのように〔告げ〕知らされたのですか」とは、「いったい、どのように」とは、疑念についての問い、疑問についての問い、二様のものについての問い、多様のものについての問い。〔すなわち〕「このように、いったい、まさに、あるのか」「いったい、まさに、ないのか」「何が、いったい、まさに」「どのように、いったい、まさに」〔と〕。ということで、「いったい、どのように」。「慧者たちによって」とは、慧者たちによって、賢者たちによって、知慧ある者たちによって、覚慧ある者たちによって、知恵ある者たちによって、分明する者たちによって、思慮ある者たちによって。「〔告げ〕知らされた」とは、知らされたもの、〔告げ〕知らされたもの、告げ知らされたもの、説示されたもの、知らしめられたもの、確立されたもの、開顕されたもの、区分されたもの、明瞭と為されたもの、明示されたもの。ということで、「それは、慧者たちによって、いったい、どのように〔告げ〕知らされたのですか」。

 [702]それによって、その婆羅門が言った。


 [703]かくのごとく、マーガンディヤが〔尋ねた〕――「それらの〔前もって『こうである』と〕想い描かれたものがあり、〔それらにたいする〕諸々の〔断定的〕判断があります。牟尼よ、まさに、それら〔の断定的判断〕に執持しないで、〔あなたは〕説きます。『内なる寂静』という、〔まさに〕その、この義(意味)を。それは、慧者たちによって、いったい、どのように〔告げ〕知らされたのですか」と。


74.


 [704]846.(839) かくのごとく、世尊は〔答えた〕――マーガンディヤさん、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです。そして、これらを放棄して、執持せずして、〔心が〕寂静となり、〔何ものにも〕依存せずして、〔迷いの〕生存を渇望しないのです。(5)


 [705]「〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず」とは、見られたもの(見解)によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった、聞かれたもの(伝承)によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった、見られたものと聞かれたものによってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった、知恵によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった。ということで、「〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず」。

 [706]「マーガンディヤさん」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([524]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、これ、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕――マーガンディヤさん」。

 [707]「戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです」とは、戒によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった、掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった、戒と掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった。ということで、「戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです」。

 [708]「〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです」とは、見解もまた、〔正しいものは〕求められるべきである。〔すなわち〕「(1)施されたものは、存在する。(2)祭祀されたものは、存在する。(3)捧げられたものは、存在する。(4)諸々の善く為され悪しく為された行為の果である報いは、存在する。(5)この世は、存在する。(6)他世は、存在する。(7)母は、存在する。(8)父は、存在する。(9)化生の有情たちは、存在する。(10)彼ら、この世をも、他世をも、自ら、証知して、実証して〔そののち〕、〔他に〕知らせる者たちである、正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは、世において、存在する」という、十の基盤(根拠)ある、正しい見解である。聴聞もまた、〔正しいものは〕求められるべきである。他者から〔伝え聞く〕話としての、経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、記説(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)である。知恵もまた、〔正しいものは〕求められるべきである。行為を自らのものとする知恵、真理に随順する知恵、神知の知恵、入定の知恵である。戒もまた、〔正しいものは〕求められるべきである。戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御である。掟もまた、〔正しいものは〕求められるべきである。〔すなわち〕「林にある者についての支分、〔行乞の〕施食の者についての支分、糞掃衣の者についての支分、三つの衣料の者についての支分、〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者についての支分、〔決められた時間〕以後の食を否とする者についての支分、常坐〔にして不臥〕なる者についての支分、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者についての支分」という、八つの払拭〔行〕(頭陀)の支分である。

 [709]「〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです」とは、正しい見解のみによってでもまたなく、聴聞のみによってでもまたなく、知恵のみによってでもまたなく、戒のみによってでもまたなく、掟のみによってでもまたなく、〔人は〕内なる寂静を得た者と成る。これらの法(性質)なくしては、内なる寂静を得ることもまたない。さらに、また、これらの法(性質)は、内なる寂静を、得るための、到達するための、体得するための、実証するための、資糧と成る。ということで、「〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです」。

 [710]「そして、これらを放棄して、執持せずして」とは、「これらを」とは、諸々の黒の項目の法(性質)のばあい、根絶〔の観点〕から、〔それらの〕捨棄が求められるべきであり、三つの界域(三界)のもので、諸々の善なる法(性質)については、それに関わらない〔あり方〕が求められるべきである。すなわち、諸々の黒の項目の法(性質)は、根絶の捨棄によって、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕(先端が切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成り、かつまた、三つの界域のもので、諸々の善なる法(性質)については、それに関わらない〔あり方〕が有ることから、このことからもまた、〔彼は〕収取しない、〔彼は〕偏執しない、〔彼は〕固着しない。しかして、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「そして、これらを放棄して、執持せずして」。すなわち、渇愛も、見解も、思量も、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、ということで、このことからもまた、〔彼は〕収取しない、〔彼は〕偏執しない、〔彼は〕固着しない。ということで、このようにもまた、「そして、これらを放棄して、執持せずして」。

 [711]すなわち、功徳の行作も、功徳なき行作も、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)も、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、ということで、このことからもまた、〔彼は〕収取しない、〔彼は〕偏執しない、〔彼は〕固着しない。ということで、このようにもまた、「そして、これらを放棄して、執持せずして」。

 [712]「〔心が〕寂静となり、〔何ものにも〕依存せずして、〔迷いの〕生存を渇望しないのです」とは、「〔心が〕寂静となり」とは、貪欲が静められたことから、寂静となり、憤怒が静められたことから、寂静となり、迷妄が静められたことから、寂静となり、忿怒が……怨恨が……偽装が……加虐が……嫉妬が……物惜が……幻想が……狡猾が……強情が……激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、静まったことから、静められたことから、寂止したことから、寂滅したことから、静息したことから、静まり、寂静となり、寂止となり、寂滅となり、静息となった者。ということで、「〔心が〕寂静となり」。

 [713]「〔何ものにも〕依存せずして」とは、二つの依存がある。(1)渇愛の依存と、(2)見解の依存とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の依存である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の依存である。渇愛の依存を捨棄して、見解の依存を放棄して、眼に依存せずして、耳に依存せずして、鼻に依存せずして、舌に依存せずして、身に依存せずして、意に依存せずして、諸々の形態に……諸々の音声に……諸々の臭香“におい”に……諸々の味感“味わい”に……諸々の感触に……家に……衆徒に……居住に……利得に……名声に……賞賛に……安楽に……衣料に……〔行乞の〕施食に……臥坐所に……病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)に……欲望の界域(欲界)に……形態の界域(色界)に……形態なき界域(無色界)に……欲望の生存(欲有)に……形態の生存(色有)に……形態なき生存(無色有)に……表象の生存(想有)に……表象なき生存(無想有)に……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)に……一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)に……四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)に……五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)に……過去に……未来に……現在に……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)に、依存せずして、収取せずして、偏執せずして、固着せずして。ということで、「〔心が〕寂静となり、〔何ものにも〕依存せずして」。「〔迷いの〕生存を渇望しないのです」とは、欲望の生存を渇望するべきではなく、形態の生存を渇望するべきではなく、形態なき生存を、渇望するべきではなく、強く渇望するべきではなく、固く渇望するべきではない。ということで、「〔心が〕寂静となり、〔何ものにも〕依存せずして、〔迷いの〕生存を渇望しないのです」。

 [714]それによって、世尊は言った。


 [715]かくのごとく、世尊は〔答えた〕――「マーガンディヤさん、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです。そして、これらを放棄して、執持せずして、〔心が〕寂静となり、〔何ものにも〕依存せずして、〔迷いの〕生存を渇望しないのです」と。


75.


 [716]847.(840) かくのごとく、マーガンディヤが〔言った〕――もし、おっしゃるように、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないなら、〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら、わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです。或る者たちは、見解によって清浄を信受します。(6)


 [717]「もし、おっしゃるように、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず」とは、見られたもの(見解)によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった、聞かれたもの(伝承)によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を……見られたものと聞かれたものによってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を……知恵によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった。ということで、「もし、おっしゃるように、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず」。

 [718]「かくのごとく、マーガンディヤが〔言った〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([246]参照)……。「マーガンディヤ」とは、その婆羅門の、名前……略([699]参照)……。ということで、「かくのごとく、マーガンディヤが〔言った〕」。

 [719]「戒や掟によってもまた、清浄を言わないなら」とは、戒によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を……略……掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を……略……戒と掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった。ということで、「戒や掟によってもまた、清浄を言わないなら」。

 [720]「〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら」とは、「見解もまた、〔正しいものは〕求められるべきである」と、このように、〔あなたは〕語り、「聴聞もまた、〔正しいものは〕求められるべきである」と、このように、〔あなたは〕語り、「知恵もまた、〔正しいものは〕求められるべきである」と、このように、〔あなたは〕語り、一定して承認することが、〔あなたは〕できない、一定して拒絶することもまた、〔あなたは〕できない。ということで、「〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら」。

 [721]「わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです」とは、「あなたには、この、迷愚の法(教え)、愚者の法(性質)、迷乱の法(性質)、無知の法(性質)、詭弁不当の法(性質)がある」と、このように、〔わたしは〕思う、このように、〔わたしは〕知る、このように、〔わたしは〕了知する、このように、〔わたしは〕識知する、このように、〔わたしは〕解知する、このように、〔わたしは〕理解する。ということで、「わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです」。

 [722]「或る者たちは、見解によって清浄を信受します」とは、或る沙門や婆羅門たちは、見解によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。「世〔界〕は、常恒である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、或る沙門や婆羅門たちは、見解によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。「世〔界〕は、常恒ならざるものである。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、或る沙門や婆羅門たちは、見解によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。ということで、「或る者たちは、見解によって清浄を信受します」。

 [723]それによって、その婆羅門が言った。


 [724]かくのごとく、マーガンディヤが〔言った〕――「もし、おっしゃるように、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないなら、〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら、わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです。或る者たちは、見解によって清浄を信受します」と。


76.


 [725]848.(841) かくのごとく、世尊は〔答えた〕――マーガンディヤさん、つまり、〔あなたは〕見解(特定の主義・主張)に依存して問い尋ねているのです。諸々の執持されたもののうちで迷妄へと陥り、そして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象(想:概念・心象)を、微塵でさえも見なかったのです。それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕「迷愚である」と決め付けるのです。(7)


 [726]「つまり、〔あなたは〕見解(特定の主義・主張)に依存して問い尋ねているのです」とは、マーガンディヤ婆羅門は、見解に依存して、見解を問い尋ね、付着に依存して、付着を問い尋ね、結縛に依存して、結縛を問い尋ね、障害に依存して、障害を問い尋ねる。「問い尋ねているのです」とは、繰り返し問い尋ねる。ということで、「つまり、〔あなたは〕見解に依存して問い尋ねているのです」。

 [727]「マーガンディヤさん」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([524]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、これ、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕――マーガンディヤさん」。

 [728]「諸々の執持されたもののうちで迷妄へと陥り」とは、すなわち、その見解が、あなたによって、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたなら、あなたは、まさしく、その見解によって、迷乱した者として〔世に〕存し、強く迷乱した者として〔世に〕存し、等しく迷乱した者として〔世に〕存し、迷妄に陥った者として〔世に〕存し、強き迷妄に陥った者として〔世に〕存し、等しき迷妄に陥った者として〔世に〕存し、暗黒に跳入した者として〔世に〕存している。ということで、「諸々の執持されたもののうちで迷妄へと陥り」。

 [729]「そして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象(想)を、微塵でさえも見なかったのです」とは、この〔法〕から、あるいは、内なる寂静から、あるいは、〔実践の〕道から、あるいは、法(教え)の説示から、〔正しく〕結び付いた表象を、〔正しく〕得た表象を、〔正しい〕特相の表象を、〔正しい〕契機の表象を、〔正しい〕拠点の表象を、獲得しない。どうして、知恵を〔獲得するというのだろう〕。ということで、このようにもまた、「そして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象を、微塵でさえも見なかったのです」。しかして、あるいは、あるいは、無常を、あるいは、無常の表象に随順するものを、あるいは、苦痛を、あるいは、苦痛の表象に随順するものを、あるいは、無我を、あるいは、無我の表象に随順するものを、獲得しない。どうして、知恵を〔獲得するというのだろう〕。ということで、このようにもまた、「そして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象を、微塵でさえも見なかったのです」。

 [730]「それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕『迷愚である』と決め付けるのです」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。迷愚の法(性質)〔の観点〕から、愚者の法(性質)〔の観点〕から、迷乱の法(性質)〔の観点〕から、無知の法(性質)〔の観点〕から、詭弁不当の法(性質)〔の観点〕から、〔あなたは〕決め付ける、〔あなたは〕見る、〔あなたは〕視認する、〔あなたは〕注目する、〔あなたは〕尋思する、〔あなたは〕近しく注視する。ということで、「それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕『迷愚である』と決め付けるのです」。

 [731]それによって、世尊は言った。


 [732]かくのごとく、世尊は〔答えた〕――「マーガンディヤさん、つまり、〔あなたは〕見解(特定の主義・主張)に依存して問い尋ねているのです。諸々の執持されたもののうちで迷妄へと陥り、そして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象(想:概念・心象)を、微塵でさえも見なかったのです。それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕『迷愚である』と決め付けるのです」と。


77.


 [733]849.(842) 「等しい」「勝“まさ”る」、あるいは、また、「劣る」〔と〕、彼が、〔種々に〕思いなすなら、彼は、その〔思い〕によって、〔他者と〕論争するでありましょう。〔しかしながら、これらの〕三つの種類について〔心が〕動かずにいるなら、彼には、「等しい」「勝る」という〔思いは〕有りません。(8)


 [734]「『等しい』『勝る』、あるいは、また、『劣る』〔と〕、彼が、〔種々に〕思いなすなら、彼は、その〔思い〕によって、〔他者と〕論争するでありましょう」とは、あるいは、「わたしは、〔他者に〕等しい者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」と、彼が、〔種々に〕思いなすなら、彼は、その思量によって、その見解によって、あるいは、その人とともに、紛争を為すであろう、言い争いを為すであろう、口論を為すであろう、論争を為すであろう、確執を為すであろう。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する」「どうして、あなたは、この法(教え)と律を了知しないのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、益を有することがある。あなたには、益を有することがない」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを前に言った」「あなたの久しく行じおこなうところは、転覆された。あなたの論は、論破された。あなたは、批判された者として存している」「論からの解き放ちのために、歩め(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」〔と〕。ということで、「『等しい』『勝る』、あるいは、また、『劣る』〔と〕、彼が、〔種々に〕思いなすなら、彼は、その〔思い〕によって、〔他者と〕論争するでありましょう」。

 [735]「〔しかしながら、これらの〕三つの種類について〔心が〕動かずにいるなら、彼には、『等しい』『勝る』という〔思いは〕有りません」とは、彼の、これらの三つの種類〔の思い〕が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、〔これらの〕三つの種類について、〔心が〕動かず、〔心が〕動揺しない。〔心が〕動かずにいる人には、彼には、〔三つの種類の思いが〕有りえない。あるいは、「わたしは、〔他者に〕等しい者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」と。ということで、「〔しかしながら、これらの〕三つの種類について〔心が〕動かずにいるなら、彼には、『等しい』『勝る』という〔思いは〕有りません」。

 [736]それによって、世尊は言った。


 [737]「『等しい』『勝る』、あるいは、また、『劣る』〔と〕、彼が、〔種々に〕思いなすなら、彼は、その〔思い〕によって、〔他者と〕論争するでありましょう。〔しかしながら、これらの〕三つの種類について〔心が〕動かずにいるなら、彼には、『等しい』『勝る』という〔思いは〕有りません」と。


78.


 [738]850.(843) 〔真の〕婆羅門たる彼は、「〔これこそ〕真理である」と、〔いったい〕何を説くというのでしょう。あるいは、彼は、「〔それは〕虚偽である」と、何によって、〔誰と〕論争するというのでしょう。あるいは、また、彼のうちに、「等しい」「等しくない」〔という思い〕が存在しないなら、彼は、何によって、論に関わるというのでしょう。(9)


 [739]「〔真の〕婆羅門たる彼は、『〔これこそ〕真理である』と、〔いったい〕何を説くというのでしょう」とは、「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。……略([299-300]参照)……〔何ものにも〕依存しない、如なる者――彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」〔と〕。「〔真の〕婆羅門たる彼は、『〔これこそ〕真理である』と、〔いったい〕何を説くというのでしょう」とは、「世〔界〕は、常恒である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔真の〕婆羅門は、何を説くというのだろう、何を言説するというのだろう、何を発語するというのだろう、何を提示するというのだろう、何を語用するというのだろう。「世〔界〕は、常恒ならざるものである。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔真の〕婆羅門は、何を説くというのだろう、何を言説するというのだろう、何を発語するというのだろう、何を提示するというのだろう、何を語用するというのだろう。ということで、「〔真の〕婆羅門たる彼は、『〔これこそ〕真理である』と、〔いったい〕何を説くというのでしょう」。

 [740]「あるいは、彼は、『〔それは〕虚偽である』と、何によって、〔誰と〕論争するというのでしょう」とは、〔真の〕婆羅門は、「わたしの〔見解〕こそ、真理である。あなたの〔見解は〕、虚偽である」と、どのような思量によって、どのような見解によって、あるいは、どのような人とともに、紛争を為すというのだろう、言い争いを為すというのだろう、口論を為すというのだろう、論争を為すというのだろう、確執を為すというのだろう。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略([649]参照)……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」〔と〕。ということで、「あるいは、彼は、『〔それは〕虚偽である』と、何によって、〔誰と〕論争するというのでしょう」。

 [741]「あるいは、また、彼のうちに、『等しい』『等しくない』〔という思い〕が存在しないなら」とは、「彼のうちに」とは、その人のうちに、阿羅漢のうちに、煩悩の滅尽者のうちに。「わたしは、〔他者に〕等しい者として〔世に〕存している」という思量が存在せず、「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量が存在せず、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」という卑下慢が、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「あるいは、また、彼のうちに、『等しい』『等しくない』〔という思い〕が存在しないなら」。

 [742]「彼は、何によって、論に関わるというのでしょう」とは、彼は、どのような思量によって、どのような見解によって、あるいは、どのような人ともに、論に、関わるというのだろう、加わるというのだろう、紛争を為すというのだろう、言い争いを為すというのだろう、口論を為すというのだろう、論争を為すというのだろう、確執を為すというのだろう。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略([649]参照)……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」〔と〕。ということで、「彼は、何によって、論に関わるというのでしょう」。

 [743]それによって、世尊は言った。


 [744]「〔真の〕婆羅門たる彼は、『〔これこそ〕真理である』と、〔いったい〕何を説くというのでしょう。あるいは、彼は、『〔それは〕虚偽である』と、何によって、〔誰と〕論争するというのでしょう。あるいは、また、彼のうちに、『等しい』『等しくない』〔という思い〕が存在しないなら、彼は、何によって、論に関わるというのでしょう」と。


79.


 [745]851.(844) 家を捨棄して、目印なくして行く者――牟尼は、村において、諸々の親愛〔の情〕(愛着の思い)を為さずにいるのです。諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者は、〔何ものも〕偏重せずにいるのです。〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為すことはないのです。(10)


 [746]しかして、まさに、ハーリッダカーニ家長は、尊者マハーカッチャーナのいるところに、そこへと近しく赴いた。近しく赴いて、尊者マハーカッチャーナを敬拝して、一方に坐った。一方に坐った、まさに、ハーリッダカーニ家長は、尊者マハーカッチャーナに、こう言った。「尊きカッチャーナよ、世尊によって、このことが、アッタカ・ヴァッガ(八なるものの章)のマーガンディヤの問いにおいて説かれました。


 [747]〔すなわち〕『家を捨棄して、目印なくして行く者――牟尼は、村において、諸々の親愛〔の情〕を為さずにいるのです。諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者は、〔何ものも〕偏重せずにいるのです。〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為すことはないのです』と。


 [748]尊きカッチャーナよ、いったい、まさに、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、どのように見られるべきなのですか」と。


 [749]〔尊者マハーカッチャーナは答えた〕「家長よ、形態の界域は、まさに、識知〔作用〕にとっての家です。また、いっぽう、形態の界域にたいする貪欲の結縛としての識知〔作用〕は、『家ありて行く者』と説かれます。家長よ、感受〔作用〕の界域は、まさに……。家長よ、表象〔作用〕の界域は、まさに……。家長よ、諸々の形成〔作用〕の界域は、まさに、識知〔作用〕にとっての家です。また、いっぽう、形態の界域にたいする貪欲の結縛としての識知〔作用〕は、『家ありて行く者』と説かれます。家長よ、このように、まさに、家ありて行く者と成ります。

 [750]家長よ、では、どのように、家なくして行く者と成るのですか。家長よ、形態の界域にたいし、まさに、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪欲としてあるなら、それが、愉悦としてあるなら、それが、渇愛としてあるなら、それらが、接近や執取としてあるなら、心の、確立や固着や悪習としてあるなら、それらは、如来のばあい、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、『家なくして行く者』と説かれます。家長よ、感受〔作用〕の界域にたいし、まさに……。家長よ、表象〔作用〕の界域にたいし、まさに……。家長よ、諸々の形成〔作用〕の界域にたいし、まさに、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪欲としてあるなら、それが、愉悦としてあるなら、それが、渇愛としてあるなら、それらが、接近や執取としてあるなら、心の、確立や固着や悪習としてあるなら、それらは、如来のばあい、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、『家なくして行く者』と説かれます。家長よ、このように、まさに、家なくして行く者と成ります。

 [751]家長よ、では、どのように、目印ありて行く者と成るのですか。家長よ、形態の形相にたいする目印ありて行く結縛は、まさに、『目印ありて行く者』と説かれます。家長よ、音声の形相にたいする目印ありて行く結縛は、まさに……。家長よ、臭香の形相にたいする目印ありて行く結縛は、まさに……。家長よ、味感の形相にたいする目印ありて行く結縛は、まさに……。家長よ、感触の形相にたいする目印ありて行く結縛は、まさに……。家長よ、法(意の対象)の形相にたいする目印ありて行く結縛は、まさに、『目印ありて行く者』と説かれます。家長よ、このように、まさに、目印ありて行く者と成ります。

 [752]家長よ、では、どのように、目印なくして行く者と成るのですか。家長よ、形態の形相にたいする目印ありて行く結縛は、まさに、如来のばあい、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、『目印なくして行く者』と説かれます。家長よ、音声の形相にたいする目印ありて行く結縛は、まさに……。家長よ、臭香の形相にたいする目印ありて行く結縛は、まさに……。家長よ、味感の形相にたいする目印ありて行く結縛は、まさに……。家長よ、感触の形相にたいする目印ありて行く結縛は、まさに……。家長よ、法(意の対象)の形相にたいする目印ありて行く結縛は、まさに、如来のばあい、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、『目印なくして行く者』と説かれます。家長よ、このように、まさに、目印なくして行く者と成ります。

 [753]家長よ、では、どのように、村において、親愛〔の情〕が生じた者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の比丘は、在家者たちと交わりある者として〔世に〕住みます。〔すなわち〕喜びを共にし、憂いを共にし、安楽の者たちのなかで安楽の者となり、苦痛の者たちのなかで苦痛の者となり、生起した諸々の為すべき用事にたいし、自己みずから、専念〔努力〕を惹起します。家長よ、このように、まさに、村において、親愛〔の情〕が生じた者と成ります。

 [754]家長よ、では、どのように、村において、親愛〔の情〕が生じた者と成らないのですか。家長よ、ここに、一部の比丘は、在家者たちと交わりなき者として〔世に〕住みます。〔すなわち〕喜びを共にせず、憂いを共にせず、安楽の者たちのなかで安楽の者とならず、苦痛の者たちのなかで苦痛の者とならず、生起した諸々の為すべき用事にたいし、自己みずから、専念〔努力〕を惹起しません。家長よ、このように、まさに、村において、親愛〔の情〕が生じた者と成りません。

 [755]家長よ、では、どのように、諸々の欲望〔の対象〕から遠ざからない者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の比丘は、諸々の欲望〔の対象〕について、貪欲を離れない者として、欲〔の思い〕を離れ去らない者として、愛情を離れ去らない者として、涸渇を離れ去らない者として、苦悶を離れ去らない者として、渇愛を離れ去らない者として、〔世に〕有ります。家長よ、このように、まさに、諸々の欲望〔の対象〕か遠ざからない者と成ります。

 [756]家長よ、では、どのように、諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の比丘は、諸々の欲望〔の対象〕について、貪欲を離れた者として、欲〔の思い〕を離れ去った者として、愛情を離れ去った者として、涸渇を離れ去った者として、苦悶を離れ去った者として、渇愛を離れ去った者として、〔世に〕有ります。家長よ、このように、まさに、諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者と成ります。

 [757]家長よ、では、どのように、〔諸々の欲望の対象を〕偏重している者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の比丘には、このような〔思いが〕有ります。〔すなわち〕『このような形態の者として、〔わたしは〕存するであろう――未来の時(未来世)に』と。『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう――未来の時(未来世)に』と。家長よ、このように、まさに、〔諸々の欲望の対象を〕偏重している者と成ります。

 [758]家長よ、では、どのように、〔諸々の欲望の対象を〕偏重していない者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の比丘には、このような〔思いが〕有りません。〔すなわち〕『このような形態の者として、〔わたしは〕存するであろう――未来の時(未来世)に』と。『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう――未来の時(未来世)に』と。家長よ、このように、まさに、〔諸々の欲望の対象を〕偏重していない者と成ります。

 [759]家長よ、では、どのように、〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為す者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の者は、このような形態の言説を為す者と成ります。〔すなわち〕『あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する』『どうして、あなたは、この法(教え)と律を了知しないのだろう』『あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している』『わたしには、益を有することがある。あなたには、益を有することがない』『前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを前に言った』『あなたの久しく行じおこなうところは、転覆された。あなたの論は、論破された。あなたは、批判された者として存している』『論からの解き放ちのために、歩め(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ』と。家長よ、このように、まさに、〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為す者と成ります。

 [760]家長よ、では、どのように、〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為す者と成らないのですか。家長よ、ここに、一部の者は、このような形態の言説を為す者と成りません。〔すなわち〕『あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ』と。家長よ、このように、まさに、〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為す者と成りません。家長よ、かくのごとく、まさに、世尊によって、すなわち、そのことが、アッタカ・ヴァッガ(八なるものの章)のマーガンディヤの問いにおいて説かれました。


 [761]〔すなわち〕『家を捨棄して、目印なくして行く者――牟尼は、村において、諸々の親愛〔の情〕を為さずにいるのです。諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者は、〔何ものも〕偏重せずにいるのです。〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為すことはないのです』と。


 [762]家長よ、まさに、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、このように見られるべきです」と。

 [763]それによって、世尊は言った。


 [764]「家を捨棄して、目印なくして行く者――牟尼は、村において、諸々の親愛〔の情〕(愛着の思い)を為さずにいるのです。諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者は、〔何ものも〕偏重せずにいるのです。〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為すことはないのです」と。


80.


 [765]852.(845) それら(諸々の悪しき見解)から遠離した者として、世を渡り歩くべきであるなら、龍(牟尼)は、それらに執持して、〔自説を〕説くことはないのです。汚水に生える、荊“いばら”ある水蓮が、水に〔汚されず〕、さらには、泥に汚されないように、このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は、貪求なき者であり、欲望〔の対象〕にも、世〔間〕にも、汚されないのです。(11)


 [766]「それら(諸々の悪しき見解)から遠離した者として、世を渡り歩くべきであるなら」とは、「それらから」とは、それらの悪しき見解から。「遠離した者」とは、身体による悪しき行ないから、遠ざかり、離れ、遠離した者、言葉による悪しき行ないから……意による悪しき行ないから……貪欲から……略([585]参照)……一切の善ならざる行作から、遠ざかり、離れ、遠離した者。「渡り歩くべきである」とは、〔世を〕渡り歩くべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔行ないを〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。「世を」とは、悪所の世を……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世を。ということで、「それらから遠離した者として、世を渡り歩くべきであるなら」。

 [767]「龍(牟尼)は、それらに執持して、〔自説を〕説くことはないのです」とは、「龍(ナーガ)」とは、(1)罪悪(アーグ)を為さない(ナ・カローティ)、ということで、「龍」。(2)赴かない(ナ・ガッチャティ)、ということで、「龍」。(3)帰り来ない(ナ・アーガッチャティ)、ということで、「龍」。(1)どのように、罪悪を為さない、ということで、「龍」となるのか。諸々の罪悪は、諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる〔迷いの〕生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすもの、と説かれる。


 [768]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤさん、世において、何であれ、罪悪を作らず、一切の束縛を捨て去って、〔一切の〕結縛を〔捨て去って〕、解脱者となり、一切所で執着しないなら、真実なることから、如なる者は、『龍』〔と〕呼ばれます」と。


 [769]このように、罪悪を為さない、ということで、「龍」。

 [770](2)どのように、赴かない、ということで、「龍」となるのか。欲〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚を所以に赴かず、疑惑を所以に赴かず、諸々の悪習を所以に赴かず、諸々の党派の法(性質)によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。このように、赴かない、ということで、「龍」。

 [771](3)どのように、帰り来ない、ということで、「龍」となるのか。預流道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、一来道によって……不還道によって……阿羅漢道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰しない。このように、帰り来ない、ということで、「龍」。

 [772]「龍(牟尼)は、それらに執持して、〔自説を〕説くことはないのです」とは、龍は、それらの悪しき見解を、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、説くであろうことは、言説するであろうことは、発語するであろうことは、提示するであろうことは、語用するであろうことは――「世〔界〕は、常恒である。……略……「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、説くであろうことは、言説するであろうことは、発語するであろうことは、提示するであろうことは、語用するであろうことは――ない。ということで、「龍(牟尼)は、それらに執持して、〔自説を〕説くことはないのです」。

 [773]「汚水に生える、荊ある水蓮が、水に〔汚されず〕、さらには、泥に汚されないように」とは、汚(エーラ)は、水と説かれる。水に生える(アンブジャ)は、蓮華と説かれる。荊ある(カンダカ)は、荒々しい茎ある(カラダンダ)と説かれる。水(ヴァーリ)は、水(ウダカ)と説かれる。蓮(ヴァーリジャ)は、蓮華、水から発生するもの、と説かれる。水(ジャラ)は、水(ウダカ)と説かれる。泥は、泥土と説かれる。たとえば、蓮華が、水から生じ、水から発生し、水によっても、泥によっても、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されないものとしてあり、強く汚されないものとしてあり、近しく汚されないものとしてあるように。ということで、「汚水に生える、荊ある水蓮が、水に〔汚されず〕、さらには、泥に汚されないように」。

 [774]「このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は、貪求なき者であり、欲望〔の対象〕にも、世〔間〕にも、汚されないのです」とは、「このように」とは、喩えを現に実践するもの。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……執着の網を超え行って、彼は、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「〔内なる〕寂静を説く」とは、牟尼は、〔内なる〕寂静を説く者であり、救護所を説く者であり、避難所を説く者であり、帰依所を説く者であり、恐怖なきを説く者であり、死滅なきを説く者であり、不死を説く者であり、涅槃を説く者である。ということで、「このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は」。「貪求なき者であり」とは、貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この貪求が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、貪求なき者と説かれる。彼は、形態について貪求なき者として、音声について……臭香について……味感について……感触について……家について……衆徒について……居住について……利得について……名声について……賞賛について……安楽について……衣料について……〔行乞の〕施食について……臥坐所について……病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)について……欲望の界域(欲界)について……形態の界域(色界)について……形態なき界域(無色界)について……欲望の生存(欲有)について……形態の生存(色有)について……形態なき生存(無色有)について……表象の生存(想有)について……表象なき生存(無想有)について……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)について……一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)について……四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)について……五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)について……過去について……未来について……現在について……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)について、貪求なき者として、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、貪求を離れた者として、貪求を離れ去った者として、貪求を捨て去った者として、貪求を吐き捨てた者として、貪求を解き放った者として、貪求を捨棄した者として、貪求を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、〔心が〕寂滅した者として、〔心が〕冷静に成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって、〔世に〕住む。ということで、「このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は、貪求なき者であり」。

 [775]「欲望〔の対象〕にも、世〔間〕にも、汚されないのです」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)諸々の事物の欲望と、(2)諸々の〔心の〕汚れの欲望とである。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「世〔間〕に」とは、悪所の世に、人間の世に、天の世に、〔五つの〕範疇の世に、〔十八の〕界域の世に、〔十二の認識の〕場所の世に。「汚れ」とは、二つの汚れがある。(1)渇愛の汚れと、(2)見解の汚れとである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の汚れである。(2)……略([180]参照)……これが、見解の汚れである。牟尼は、渇愛の汚れを捨棄して、見解の汚れを放棄して、欲望〔の対象〕にも、世〔間〕にも、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。ということで、「このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は、貪求なき者であり、欲望〔の対象〕にも、世〔間〕にも、汚されないのです」。

 [776]それによって、世尊は言った。


 [777]「それら(諸々の悪しき見解)から遠離した者として、世を渡り歩くべきであるなら、龍(牟尼)は、それらに執持して、〔自説を〕説くことはないのです。汚水に生える、荊ある水蓮が、水に〔汚されず〕、さらには、泥に汚されないように、このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は、貪求なき者であり、欲望〔の対象〕にも、世〔間〕にも、汚されないのです」と。


81.


 [778]853.(846) 〔真の〕知に至る者は、見解に至る者ではありません。彼は、思想によって、思量に至ることがありません。なぜなら、彼は、それに関わらないからです。〔特定の宗教的〕行為(業)によって〔導かれ〕ず、また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによっても導かれません。彼は、諸々の〔妄執が〕固着する場に連れて行かれないのです。(12)


 [779]「〔真の〕知に至る者は、見解に至る者ではありません。彼は、思想によって、思量に至ることがありません」とは、「ありません」とは、否定〔の言葉〕。「〔真の〕知に至る者」とは、知は、四つの〔沙門の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における、知恵(智)、知慧(般若・慧)、知慧の機能、知慧の力、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)、〔あるがままの〕考察、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)、正しい見解(正見)、と説かれる。それらの知によって、生と老と死の、終極に至った者、終極を得た者、突端に至った者、突端を得た者、最終極に至った者、最終極を得た者、完成に至った者、完成を得た者、救護所に至った者、救護所を得た者、避難所に至った者、避難所を得た者、帰依所に至った者、帰依所を得た者、恐怖なきに至った者、恐怖なきを得た者、死滅なきに至った者、死滅なきを得た者、不死に至った者、不死を得た者、涅槃に至った者、涅槃を得た者。あるいは、諸々の知の、終極に至った者、ということで、〔真の〕知に至る者となり、あるいは、諸々の知によって、終極に至った者、ということで、〔真の〕知に至る者となり、あるいは、七つの法(性質)が知られたことから、〔真の〕知に至る者となる。〔すなわち〕身体が有るという見解(有身見)が、知られたものと成り、疑惑〔の思い〕(疑)が、知られたものと成り、戒や掟への偏執(戒禁取)が、知られたものと成り、貪欲が、知られたものと成り、憤怒が、知られたものと成り、迷妄が、知られたものと成り、思量が、知られたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる〔迷いの〕生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、彼にとって、知られたものと成る。


 [780]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤさん、ここに、それらが、沙門たちのものとして存しようが、婆羅門たちのものとして〔存しようが〕、全部の知(ヴェーダ)を〔あるがままに〕弁別して、一切の感受(ヴェーダナー)について、貪欲を離れたなら、一切の知を超え行って、彼は、『〔真の〕知に至る者(ヴェーダグー)』〔と呼ばれます〕」と。


 [781]「見解に至る者ではありません」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、見解によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められず、また、その悪しき見解を、真髄〔の観点〕から、信受せず、再帰しない。ということで、「〔真の〕知に至る者は、見解に至る者ではありません」。「思想によって、思量に至ることがありません」とは、あるいは、思われたものとしての形態によって、あるいは、他者からの声(評判・風評)によって、あるいは、大勢の人の〔信奉する〕主義(世俗)によって、思量に、行かず、近づかず、近づき行かず、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「〔真の〕知に至る者は、見解に至る者ではありません。彼は、思想によって、思量に至ることがありません」。

 [782]「なぜなら、彼は、それに関わらないからです」とは、渇愛を所以に、見解を所以に、それに関わる者と〔成らず〕、それを最高とする者と〔成らず〕、それを行き着く所とする者と成らない。すなわち、渇愛も、見解も、思量も、彼のばあい、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことから、それに関わる者と〔成ることは〕なく、それを最高とする者と〔成ることは〕なく、それを行き着く所とする者と成ることはない。ということで、「なぜなら、彼は、それに関わらないからです」。

 [783]「〔特定の宗教的〕行為によって〔導かれ〕ず、また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによっても導かれません」とは、「〔特定の宗教的〕行為によって〔導かれ〕ず」とは、あるいは、功徳の行作によって、あるいは、功徳なき行作によって、あるいは、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。ということで、「〔特定の宗教的〕行為によって〔導かれ〕ず」。「また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによっても導かれません」とは、あるいは、聞かれたものとしての清浄によって、あるいは、他者からの声によって、あるいは、大勢の人の〔信奉する〕主義によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。ということで、「〔特定の宗教的〕行為によって〔導かれ〕ず、また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによっても導かれません」。

 [784]「彼は、諸々の〔妄執が〕固着する場に連れて行かれないのです」とは、「接近」とは、二つの接近がある。(1)渇愛の接近と、(2)見解の接近とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の接近である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の接近である。彼の、渇愛の接近は〔すでに〕捨棄され、見解の接近は〔すでに〕放棄され、渇愛の接近が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の接近が〔すでに〕放棄されたことから、彼は、諸々の〔妄執が〕固着する場に、連れて行かれない者として、近しく汚されない者として、近づき行かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。ということで、「彼は、諸々の〔妄執が〕固着する場に連れて行かれないのです」。

 [785]それによって、世尊は言った。


 [786]「〔真の〕知に至る者は、見解に至る者ではありません。彼は、思想によって、思量に至ることがありません。なぜなら、彼は、それに関わらないからです。〔特定の宗教的〕行為(業)によって〔導かれ〕ず、また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによっても導かれません。彼は、諸々の〔妄執が〕固着する場に連れて行かれないのです」と。


82.


 [787]854.(847) 〔誤った〕表象が離貪した者には、〔人を縛る〕諸々の拘束は存在しないのです。知慧によって解脱した者には、〔人を惑わす〕諸々の迷妄は存在しないのです。彼ら、〔特定の〕表象やら見解やらを収め取った者たち――彼らは、〔互いに〕対立しながら、世を渡り歩くのです。(13)


 [788]「〔誤った〕表象が離貪した者には、〔人を縛る〕諸々の拘束は存在しないのです」とは、彼が、〔心の〕止寂(奢摩他・止)を先行とする聖者の道を修行するなら、彼には、最初から、〔他と〕比較して、諸々の拘束は、鎮静されたものとして有る。阿羅漢の資質が得られたとき、〔その〕阿羅漢の、諸々の拘束も、諸々の迷妄も、諸々の〔修行の〕妨害も、欲望の表象、加害の表象、悩害の表象、見解の表象も、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成る。ということで、「〔誤った〕表象が離貪した者には、〔人を縛る〕諸々の拘束は存在しないのです」。

 [789]「知慧によって解脱した者には、〔人を惑わす〕諸々の迷妄は存在しないのです」とは、彼が、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)を先行とする聖者の道を修行するなら、彼には、最初から、〔他と〕比較して、諸々の迷妄は、鎮静されたものとして有る。阿羅漢の資質が得られたとき、〔その〕阿羅漢の、諸々の迷妄も、諸々の拘束も、諸々の〔修行の〕妨害も、欲望の表象、加害の表象、悩害の表象、見解の表象も、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成る。ということで、「知慧によって解脱した者には、〔人を惑わす〕諸々の迷妄は存在しないのです」。

 [790]「彼ら、〔特定の〕表象やら見解やらを収め取った者たち――彼らは、〔互いに〕対立しながら、世を渡り歩くのです」とは、彼らが、表象を――〔すなわち〕欲望の表象を、加害の表象を、悩害の表象を――収取するなら、彼らは、表象を所以に、〔互いに〕対立し、等しく対立する。王たちもまた、王たちと論争し、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争し、母もまた、子と論争し、子もまた、母と論争し、父もまた、子と論争し、子もまた、父と論争し、兄弟もまた、兄弟と論争し、姉妹もまた、姉妹と論争し、兄弟もまた、姉妹と論争し、姉妹もまた、兄弟と論争し、道友もまた、道友と論争する。彼らは、そこにおいて、紛争と口論と論争を惹起し、互いに他を、諸々の拳によってもまた攻撃し、諸々の土塊によってもまた攻撃し、諸々の棒によってもまた攻撃し、諸々の刃によってもまた攻撃する。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇する〕。彼らが、見解を――あるいは、「世〔界〕は、常恒である」と……略([226]参照)……あるいは、「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない」と――収取するなら、彼らは、見解を所以に、〔互いに〕対立し、等しく対立する。〔自己の〕教師〔の観点〕から、〔他者の〕教師と対立し、〔自己の〕法(教え)の告知〔の観点〕から、〔他者の〕法(教え)の告知と対立し、〔自己の〕衆徒〔の観点〕から、〔他者の〕衆徒と対立し、〔自己の〕見解〔の観点〕から、〔他者の〕見解と対立し、〔自己の実践の〕道〔の観点〕から、〔他者の実践の〕道と対立し、〔自己の聖者の〕道〔の観点〕から、〔他者の聖者の〕道と対立する。

 [791]しかして、あるいは、彼らは、論争し、紛争を為し、言い争いを為し、口論を為し、論争を為し、確執を為す。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略([649]参照)……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と。彼らの、諸々の行作は〔いまだ〕捨棄されず、諸々の行作が〔いまだ〕捨棄されていないことから、〔未来の〕境遇において対立し、地獄において対立し、畜生の胎において対立し、餓鬼の境域において対立し、人間の世において対立し、天の世において対立し、〔自己の〕境遇〔の観点〕によって〔他者の〕境遇と……〔自己の〕再生〔の観点〕によって〔他者の〕再生と……〔自己の〕結生〔の観点〕によって〔他者の〕結生と……〔自己の〕生存〔の観点〕によって〔他者の〕生存と……〔自己の〕輪廻〔の観点〕によって〔他者の〕輪廻と……〔自己の〕転起〔の観点〕によって〔他者の〕転起と、対立し、等しく対立し、〔論を〕説き、〔世を〕渡り歩き、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。「世を」とは、悪所の世を……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世を。ということで、「彼ら、〔特定の〕表象やら見解やらを収め取った者たち――彼らは、〔互いに〕対立しながら、世を渡り歩くのです」。

 [792]それによって、世尊は言った。


 [793]「〔誤った〕表象が離貪した者には、〔人を縛る〕諸々の拘束は存在しないのです。知慧によって解脱した者には、〔人を惑わす〕諸々の迷妄は存在しないのです。彼ら、〔特定の〕表象やら見解やらを収め取った者たち――彼らは、〔互いに〕対立しながら、世を渡り歩くのです」と。


 [794]マーガンディヤの経についての釈示が、第九となる。


1.10 〔身体の〕破壊の前にの経についての釈示


 [795]しかして、〔身体の〕破壊の前にの経についての釈示を説くであろう。


83.


 [796]855.(848) 〔対話者が尋ねた〕――どのように見ある者が、どのように戒ある者が、「寂静者」と呼ばれるのですか。ゴータマ(ブッダ)よ、それを、わたしに説いてください。〔問いを〕尋ねられた者として、最上の人のことを。(1)


 [797]「どのように見ある者が、どのように戒ある者が、『寂静者』と呼ばれるのですか」とは、「どのように見ある者が」とは、何を確立したことで、何を流儀とすることで、何を相似とすることで、どのようなものとして見を具備した者が。ということで、「どのように見ある者が」。「どのように戒ある者が」とは、何を確立したことで、何を流儀とすることで、何を相似とすることで、どのようなものとして戒を具備した者が。ということで、「どのように見ある者が、どのように戒ある者が」。「『寂静者』と呼ばれる」とは、「静まった者」「寂静となった者」「寂止した者」「寂滅した者」「静息した者」と、説かれ、呼ばれ、言説され、発語され、提示され、語用される。〔対話者は、世尊に〕「どのように見ある者が」と、向上の知慧を問い尋ね、「どのように戒ある者が」と、向上の戒を問い尋ね、「『寂静者』〔と呼ばれるのですか〕」と、向上の心(定心)を問い尋ねる。ということで、「どのように見ある者が、どのように戒ある者が、『寂静者』と呼ばれるのですか」。

 [798]「ゴータマ(ブッダ)よ、それを、わたしに説いてください」とは、「それを」とは、〔わたしが〕問い尋ねるところの、それを、〔わたしが〕乞い求めるところの、それを、〔わたしが〕要請するところの、それを、〔わたしが〕清信するところの、それを。「ゴータマよ」とは、その〔対話者として〕化作された者(化仏)は、覚者たる世尊に、氏姓で語りかける。「説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、知らしめてください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「ゴータマ(ブッダ)よ、それを、わたしに説いてください」。

 [799]「〔問いを〕尋ねられた者として、最上の人のことを」とは、問い尋ねられた者として、問尋された者として、乞い求められた者として、要請された者として、清信された者として。「最上の人のことを」とは、至高者のことを、最勝者のことを、殊勝者のことを、筆頭者のことを、最上者のことを、最も優れた者のことを。ということで、「〔問いを〕尋ねられた者として、最上の人のことを」。

 [800]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。


 [801]〔対話者が尋ねた〕――「どのように見ある者が、どのように戒ある者が、『寂静者』と呼ばれるのですか。ゴータマ(ブッダ)よ、それを、わたしに説いてください。〔問いを〕尋ねられた者として、最上の人のことを」と。


84.


 [802]856.(849) かくのごとく、世尊は〔答えた〕――〔身体の〕破壊(死)の前に、渇愛〔の思い〕を離れ、過去の極(過去の記憶)に依存せず、〔過去と未来の〕中間(現在)において名称されない者――彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません。(2)


 [803]「〔身体の〕破壊(死)の前に、渇愛〔の思い〕を離れ」とは、身体の破壊より前に、自己状態の破壊より前に、死体の捨置より前に、生命の機能の断絶より前に、渇愛を離れた者として、渇愛を離れ去った者として、渇愛を捨て去った者として、渇愛を吐き捨てた者として、渇愛を解き放った者として、渇愛を捨棄した者として、渇愛を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、〔心が〕寂滅した者として、〔心が〕冷静に成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって、〔世に〕住む。

 [804]「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。さらに、また、貪欲を破壊した者(バッガ)、ということで、「世尊」。憤怒を破壊した者、ということで、「世尊」。迷妄を破壊した者、ということで、「世尊」。思量を破壊した者、ということで、「世尊」。見解を破壊した者、ということで、「世尊」。渇愛を破壊した者、ということで、「世尊」。〔心の〕汚れを破壊した者、ということで、「世尊」。法(教え)の宝を、分けた(バジ)、区分した、しっかり区分した、ということで、「世尊」。諸々の生存(バヴァ)の終極を為す者、ということで、「世尊」。身体を修めた者(バーヴィタ)、戒を修めた者、心を修めた者、知慧を修めた者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、音声少なく、騒音少なく、人の気配を離れ、人間の絶無なる臥所にして、坐禅に適切なる、諸々の林や林野や辺境の臥坐所に親しんだ(バジ)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)を分有する者(バーギン)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、義(道理)の味を、法(真理)の味を、解脱の味を、向上の戒を、向上の心(定心)を、向上の知慧を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの瞑想を、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心)を、四つの形態なき〔行境〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、八つの解脱を、八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)を、九つの順次の住への入定(九次第定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の表象の修行を、十の遍満への入定を、呼吸についての気づきという〔心の〕統一を、不浄〔の表象〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の如来の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙を、六つの神知を、六つの覚者の法(性質)を、分有する者、ということで、「世尊」。「世尊」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる概念(施設)であり、すなわち、これ、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕――〔身体の〕破壊の前に、渇愛〔の思い〕を離れ」。

 [805]「過去の極(過去の記憶)に依存せず」とは、過去の極は、過去の時(過去世)と説かれる。過去の時に関して、〔彼の〕渇愛は〔すでに〕捨棄され、〔彼の〕見解は〔すでに〕放棄され、渇愛が〔すでに〕捨棄されたことから、見解が〔すでに〕放棄されたことから、このようにもまた、「過去の極に依存せず」。しかして、あるいは、「このような形態の者として、〔わたしは〕有った――過去の時(過去世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。「このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った……。「このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った……。「このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った……。「このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った――過去の時(過去世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。このようにもまた、「過去の極に依存せず」。しかして、あるいは、「かくのごとく、わたしに、眼が有った――過去の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔有った〕」と、そこにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕は、欲〔の思い〕と貪欲に連結したものと成らない。〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪欲に連結していないことから、〔彼は〕それを愉悦せず、愉悦せずにいる者となる。このようにもまた、「過去の極に依存せず」。「かくのごとく、わたしに、耳が有った――過去の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔有った〕」と……略……。「かくのごとく、わたしに、鼻が有った――過去の時に。かくのごとく、諸々の臭香が〔有った〕」と……。「かくのごとく、わたしに、舌が有った――過去の時に。かくのごとく、諸々の味感が〔有った〕」と……。「かくのごとく、わたしに、身が有った――過去の時に。かくのごとく、諸々の感触が〔有った〕」と……。「かくのごとく、わたしに、意が有った――過去の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔有った〕」と、そこにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕は、欲〔の思い〕と貪欲に連結したものと成らない。〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪欲に連結していないことから、〔彼は〕それを愉悦せず、愉悦せずにいる者となる。このようにもまた、「過去の極に依存せず」。しかして、あるいは、女性を相手に笑い話し戯れたそれら〔の経験〕が過去にあるとして、それを味わず、それを欲さず、しかして、それによって、歓悦を起こさない。このようにもまた、「過去の極に依存せず」。

 [806]「〔過去と未来の〕中間(現在)において名称されない者」とは、中間は、現在の時と説かれる。現在の時に関して、〔彼の〕渇愛は〔すでに〕捨棄され、〔彼の〕見解は〔すでに〕放棄され、渇愛が〔すでに〕捨棄されたことから、見解が〔すでに〕放棄されたことから、「貪る者である」と名称されるべき者ではなく、「怒る者である」と名称されるべき者ではなく、「迷う者である」と名称されるべき者ではなく、「結縛された者である」と名称されるべき者ではなく、「偏執した者である」と名称されるべき者ではなく、「〔心の〕散乱に至った者である」と名称されるべき者ではなく、「結論なきに至った者である」と名称されるべき者ではなく、「強靱に至った者である」と名称されるべき者ではない。〔彼の〕それらの行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、〔未来の〕境遇によって名称されるべき者ではない――あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、〔虚構の〕名称に赴くであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「〔過去と未来の〕中間において名称されない者」。

 [807]「彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」とは、「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。「偏重」とは、二つの偏重がある。(1)渇愛の偏重と、(2)見解の偏重とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の偏重である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の偏重である。彼の、渇愛の偏重は〔すでに〕捨棄され、見解の偏重は〔すでに〕放棄され、渇愛の偏重が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の偏重が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛を〔偏重して、行じおこなうことは〕なく、あるいは、見解を偏重して、行じおこなうことはない。渇愛を旗とする者ではなく、渇愛を幟とする者ではなく、渇愛を優位主要とする者ではなく、見解を旗とする者ではなく、見解を幟とする者ではなく、見解を優位主要とする者ではなく、あるいは、渇愛に〔取り囲まれ、行じおこなうことは〕なく、あるいは、見解に取り囲まれ、行じおこなうことはない。このようにもまた、「彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」。しかして、あるいは、「このような形態の者として、〔わたしは〕存するであろう――未来の時(未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。「このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう――未来の時(未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。このようにもまた、「彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」。しかして、あるいは、「かくのごとく、わたしに、眼が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔存するであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しない。心に、作意の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、愉悦せずにいる者となる。このようにもまた、「彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」。「かくのごとく、わたしに、耳が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔存するであろう〕」と……略……。「かくのごとく、わたしに、鼻が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の臭香が〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、舌が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の味感が〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、身が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の感触が〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、意が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔存するであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しない。心に、作意の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、愉悦せずにいる者となる。このようにもまた、「彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」。しかして、あるいは、「わたしは、あるいは、この戒によって、あるいは、〔この〕掟によって、あるいは、〔この〕苦行によって、あるいは、〔この〕梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るであろう、あるいは、天〔の神〕の或る誰かと〔成るであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しない。心に、作意の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、愉悦せずにいる者となる。このようにもまた、「彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」。

 [808]それによって、世尊は言った。


 [809]かくのごとく、世尊は〔答えた〕――「〔身体の〕破壊(死)の前に、渇愛〔の思い〕を離れ、過去の極(過去の記憶)に依存せず、〔過去と未来の〕中間(現在)において名称されない者――彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」と。


85.


 [810]857.(850) 忿怒なく、畏怖なく、誇らず、悔やまず、智慮によって語り、〔心が〕高ぶらない者――まさに、彼は、言葉を制した牟尼(沈黙の聖者)です。(3)


 [811]「忿怒なく、畏怖なく」とは、まさに、「忿怒なく」と、まさに、それが説かれたが、しかしながら、また、まずは、忿怒が説かれるべきである。十の行相によって、忿怒は生じる。〔すなわち〕「わたしにとって義(利益)なきを、〔彼は〕行じおこなった」と、忿怒は生じる。「わたしにとって義(利益)なきを、〔彼は〕行じおこなう」と、忿怒は生じる。「わたしにとって義(利益)なきを、〔彼は〕行じおこなうであろう」と、忿怒は生じる。「わたしにとって愛しく意に適う者の義(利益)なきを、〔彼は〕行じおこなった」と、忿怒は生じる。「わたしにとって愛しく意に適う者の義(利益)なきを、〔彼は〕行じおこなう」と、忿怒は生じる。「わたしにとって愛しく意に適う者の義(利益)なきを、〔彼は〕行じおこなうであろう」と、忿怒は生じる。「わたしにとって愛しからず意に適わない者の義(利益)を、〔彼は〕行じおこなった」と、忿怒は生じる。「わたしにとって愛しからず意に適わない者の義(利益)を、〔彼は〕行じおこなう」と、忿怒は生じる。「わたしにとって愛しからず意に適わない者の義(利益)を、〔彼は〕行じおこなうであろう」と、忿怒は生じる。あるいは、また、義(利益)なきことがあるとき、忿怒は生じる。すなわち、このような形態の、心の、憤り、憤懣、憤激、激しい反感、忿怒(忿)、強き忿怒、等しき忿怒、憤怒(瞋)、強き憤怒、等しき憤怒、心の加害〔の思い〕、意の強き憤怒、忿怒、忿怒すること、忿怒あること、憤怒、憤怒すること、憤怒あること、加害、加害すること、加害あること、反感、激しい反感、狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。これが、忿怒と説かれる。

 [812]さらに、また、忿怒の、旺盛なると微小なることが知られるべきである。どのような時でも、忿怒は存在する――心の混濁ほどのものとして有り、しかして、それまでは、口を痙攣させるものと成ることはない。どのような時でも、忿怒は存在する――口を痙攣させるほどのものとして有り、しかして、それまでは、顎を動かすものと成ることはない。どのような時でも、忿怒は存在する――顎を動かすほどのものとして有り、しかして、それまでは、粗暴の言葉を放つものと成ることはない。どのような時でも、忿怒は存在する――粗暴の言葉を放つほどのものとして有り、しかして、それまでは、方々を睨み付けるものと成ることはない。どのような時でも、忿怒は存在する――方々を睨み付けるほどのものとして有り、しかして、それまでは、棒や刃を撫で回すものと成ることはない。どのような時でも、忿怒は存在する――棒や刃を撫で回すほどのものとして有り、しかして、それまでは、棒や刃を振り上げるものと成ることはない。どのような時でも、忿怒は存在する――棒や刃を振り上げるほどのものとして有り、しかして、それまでは、棒や刃を打ち落とすものと成ることはない。どのような時でも、忿怒は存在する――棒や刃を打ち落とすほどのものとして有り、しかして、それまでは、素振りや振り回しを為すものと成ることはない。どのような時でも、忿怒は存在する――素振りや振り回しを為すほどのものとして有り、しかして、それまでは、等しく打ち砕き遍く打ち砕くものと成ることはない。どのような時でも、忿怒は存在する――等しく打ち砕き遍く打ち砕くほどのものとして有り、しかして、それまでは、手足と肢体を引き裂くものと成ることはない。どのような時でも、忿怒は存在する――手足と肢体を引き裂くほどのものとして有り、しかして、それまでは、生命を取り上げるものと成ることはない。どのような時でも、忿怒は存在する――生命を取り上げるほどのものとして有り、しかして、それまでは、一切を捨て去り遍く捨て去る様相と成ることはない。すなわち、忿怒は、他の人を害して〔そののち〕、自己を害することから、このことから、忿怒は、最高の増長に至ったものと〔成り〕、最高の広大を得たものと成る。彼の、この忿怒が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、忿怒なき者と説かれる。忿怒が捨棄されたことから、忿怒なき者となり、忿怒の基盤(根拠)が遍知されたことから、忿怒なき者となり、忿怒の因が断絶されたことから、忿怒なき者となる。ということで、「忿怒なく」。

 [813]「畏怖なく」とは、ここに、一部の者は、恐れある者と成り、恐懼ある者、遍き恐れある者と〔成る〕。彼は、恐れ、恐懼し、遍く恐れ、恐怖し、畏怖を惹起する。「あるいは、家を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衆徒を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、居住を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、利得を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、名声を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、賞賛を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、安楽を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衣料を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、〔行乞の〕施食を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、臥坐所を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、看病の者を、〔わたしは〕得ない」「〔わたしは〕覚知されざる者として〔世に〕存している」と、恐れ、恐懼し、遍く恐れ、恐怖し、畏怖を惹起する。

 [814]ここに、比丘が、恐れなき者と成り、恐懼なき者、遍き恐れなき者と〔成る〕。彼は、恐れず、恐懼せず、遍く恐れず、恐怖せず、畏怖を惹起しない。「あるいは、家を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衆徒を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、居住を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、利得を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、名声を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、賞賛を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、安楽を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衣料を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、〔行乞の〕施食を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、臥坐所を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、看病の者を、〔わたしは〕得ない」「〔わたしは〕覚知されざる者として〔世に〕存している」と、恐れず、恐懼せず、遍く恐れず、恐怖せず、畏怖を惹起しない。ということで、「忿怒なく、畏怖なく」。

 [815]「誇らず、悔やまず」とは、ここに、一部の者は、誇る者と成り、誇示する者と〔成る〕。彼は、誇り、誇示する。あるいは、「わたしは、戒の成就者として〔世に〕存している」と、あるいは、「掟の成就者として〔世に存している〕」と、あるいは、「戒と掟の成就者として〔世に存している〕」と――あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たるによって、あるいは、容貌が蓮華のように美しいことによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって、あるいは、「高貴なる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「巨万の財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「在家者を含む出家者たちに名声が知られた者として〔世に存している〕」と、あるいは、「諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)の得者として〔世に〕存している」と、あるいは、「経の専門家として〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として〔世に存している〕」と、あるいは、「法(教え)の言説者として〔世に存している〕」と、あるいは、「林にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔行乞の〕施食の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「糞掃衣の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「三つの衣料の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔決められた時間〕以後の食を否とする者として〔世に存している〕」と、あるいは、「常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第一の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第二の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第三の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第四の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「無所有なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、誇り、誇示する。このように、誇らず、誇示せず、誇ることから、誇示することから、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。ということで、「誇らず」。

 [816]「悔やまず」とは、「悔恨(悪作)」とは、手による悔恨もまた、悔恨となり、足による悔恨もまた、悔恨となり、手と足による悔恨もまた、悔恨となる。適ならざるものについて、適なるものとする了解あること、適なるものについて、適ならざるものとする了解あること、時ならざるものについて、時なるものとする了解あること、時なるものについて、時ならざるものとする了解あること、罪ならざるものについて、罪なるものとする了解あること、罪なるものについて、罪ならざるものとする了解あること。すなわち、このような形態の、悔恨、悔恨すること、悔恨あること、心の後悔〔の思い〕、意の散乱である。これが、悔恨と説かれる。

 [817]さらに、また、二つの契機によって、心の後悔〔の思い〕にして、意の散乱たる、悔恨は生起する。しかして、〔自己が〕為したことから、さらには、〔自己が〕為さなかったことから。どのように、しかして、〔自己が〕為したことから、さらには、〔自己が〕為さなかったことから、心の後悔〔の思い〕にして、意の散乱たる、悔恨は生起するのか。「わたしによって、身体による悪しき行ないが為された」「わたしによって、身体による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして、意の散乱たる、悔恨は生起する。「わたしによって、言葉による悪しき行ないが為された」「わたしによって、言葉による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして、意の散乱たる、悔恨は生起する。「わたしによって、意による悪しき行ないが為された」「わたしによって、意による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして、意の散乱たる、悔恨は生起する。「わたしによって、生き物を殺すことが為された」「わたしによって、生き物を殺すことからの離断が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして、意の散乱たる、悔恨は生起する。「わたしによって、与えられていないものを取ることが為された」「わたしによって、与えられていないものを取ることからの離断が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして、意の散乱たる、悔恨は生起する。「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)が為された」「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないからの離断が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして、意の散乱たる、悔恨は生起する。「わたしによって、虚偽を説くことが為された」「わたしによって、虚偽を説くことからの離断が為されなかった」と……。「わたしによって、中傷の言葉が為された」「わたしによって、中傷の言葉からの離断が為されなかった」と……。「わたしによって、粗暴の言葉が為された」「わたしによって、粗暴の言葉からの離断が為されなかった」と……。「わたしによって、雑駁な虚論が為された」「わたしによって、雑駁な虚論からの離断が為されなかった」と……。「わたしによって、強欲〔の思い〕が為された」「わたしによって、強欲〔の思い〕なきが為されなかった」と……。「わたしによって、加害〔の思い〕が為された」「わたしによって、加害〔の思い〕なきが為されなかった」と……。「わたしによって、誤った見解が為された」「わたしによって、正しい見解が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして、意の散乱たる、悔恨は生起する。このように、しかして、〔自己が〕為したことから、さらには、〔自己が〕為さなかったことから、心の後悔〔の思い〕にして、意の散乱たる、悔恨は生起する。

 [818]しかして、あるいは、「〔わたしは〕諸戒における円満成就を為す者として〔世に〕存していない」と、心の後悔〔の思い〕にして、意の散乱たる、悔恨は生起する。「〔わたしは〕諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者として〔世に〕存している」と、心の後悔〔の思い〕にして、意の散乱たる、悔恨は生起する。「〔わたしは〕食について量を知らない者として〔世に〕存している」と……。「〔眠らずに〕起きていることに〔いまだ〕専念していない者として〔世に存している〕」と……。「気づきと正知を〔いまだ〕具備していない者として〔世に存している〕」と……。「わたしによって、四つの気づきの確立(四念住・四念処)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの正しい精勤(四正勤)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの神通の足場(四神足)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの機能(五根)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの力(五力)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、七つの覚りの支分(七覚支)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、聖なる八つの支分ある道(八正道)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、苦痛が〔いまだ〕遍知されていない」と……。「わたしによって、集起が〔いまだ〕捨棄されていない」と……。「わたしによって、道が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、止滅が〔いまだ〕実証されていない」と、心の後悔〔の思い〕にして、意の散乱たる、悔恨は生起する。彼の、この悔恨が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、悔恨なき者と説かれる。ということで、「誇らず、悔やまず」。

 [819]「智慮によって語り、〔心が〕高ぶらない者」とは、智慮は、知慧と説かれる。すなわち、知慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。智慮によって、遍く収取しては遍く収取して、言葉を語る。たとえ、多くを言説しつつも、たとえ、多くを発語しつつも、たとえ、多くを説示しつつも、たとえ、多くを語用しつつも、悪しく言説されたものとして、悪しく発語されたものとして、悪しく話されたものとして、悪しく言われたものとして、悪しく語られたものとして、言葉を語らない。ということで、「智慮によって語り」。「〔心が〕高ぶらない者」とは、そこで、どのようなものが、〔心の〕高揚(掉挙)であるのか。すなわち、心の、高揚、寂止なき、心の散乱、心の迷走である。これが、〔心の〕高揚と説かれる。彼の、この〔心の〕高揚が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、〔心が〕高ぶらない者と説かれる。ということで、「智慮によって語り、〔心が〕高ぶらない者」。

 [820]「まさに、彼は、言葉を制した牟尼(沈黙の聖者)です」とは、ここに、比丘が、(1)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有る。(2)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として、〔世に〕有る。これらの者たちを分裂させるために、ここから聞いて〔そののち〕、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらの者たちを分裂させるために、そちらで聞いて〔そののち〕、これらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合に喜びある者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有る。(3)粗暴の言葉を捨棄して、粗暴の言葉から離間した者として、〔世に〕有る。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛らしく、心臓に至る、上品で、大勢の人に欲せられ、大勢の人の意に適う、そのような形態の言葉を語る者として、〔世に〕有る。(4)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として、〔世に〕有る。〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(道理)を説く者として、法(真理)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を――〔正しい〕時に、理由を有し、結末ある、義(道理)を伴った〔言葉〕を――語る者として、〔世に〕有る。〔彼は〕四つの言葉による善き行ない(虚偽を説かないこと・中傷の言葉なきこと・粗暴の言葉なきこと・雑駁な虚論なきこと)を具備した者として、四つの汚点から離れ去った言葉を語り、三十二の畜生言説(無用論・無駄話[1449]参照)から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。

 [821]〔彼は〕十の言説の基盤(根拠)を言説する。それは、すなわち、この、(1)求めることが少ないこと(少欲)についての言説を言説し、(2)満ち足りていること(知足)についての言説を言説し、(3)〔世俗の事物から〕遠く離れていること(遠離)についての言説を……(4)〔他者と不必要に〕交わらないことについての言説を……(5)精進に励むことについての言説を……(6)戒についての言説を……(7)〔心の〕統一についての言説を……(8)知慧についての言説を……(9)解脱についての言説を……(10)解脱の知見についての言説を……〔四つの〕気づきの確立(四念住・四念処)についての言説を……〔四つの〕正しい精励(四正勤)についての言説を……〔四つの〕神通の足場(四神足)についての言説を……〔五つの〕機能(五根)についての言説を……〔五つの〕力(五力)についての言説を……〔七つの〕覚りの支分(七覚支)についての言説を……〔沙門の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)についての言説を……〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)についての言説を……涅槃についての言説を言説する。「言葉を制した」とは、〔言葉が〕傾念された者として、〔言葉が〕遍く傾念された者として、〔言葉が〕守られた者として、〔言葉が〕保護された者として、〔言葉が〕守護された者として、〔言葉が〕寂止した者として。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……執着の網を超え行って、彼は、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。ということで、「まさに、彼は、言葉を制した牟尼です」。

 [822]それによって、世尊は言った。


 [823]「忿怒なく、畏怖なく、誇らず、悔やまず、智慮によって語り、〔心が〕高ぶらない者――まさに、彼は、言葉を制した牟尼(沈黙の聖者)です」と。


86.


 [824]858.(851) 未来について執着なき者は、過去を憂いません。諸々の接触(触:感覚・経験)について遠離を見る者は、諸々の見解についても導かれません。(4)


 [825]「未来について執着なき者は」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この執着たる渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、このようにもまた、「未来について執着なき者は」。しかして、あるいは、「このような形態の者として、〔わたしは〕存するであろう――未来の時(未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。「このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう――未来の時(未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。このようにもまた、「未来について執着なき者は」。しかして、あるいは、「かくのごとく、わたしに、眼が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔存するであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しない。心に、作意の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、愉悦せずにいる者となる。このようにもまた、「未来について執着なき者は」。「かくのごとく、わたしに、耳が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔存するであろう〕」と……略……。「かくのごとく、わたしに、意が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔存するであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しない。心に、作意の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、愉悦せずにいる者となる。このようにもまた、「未来について執着なき者は」。しかして、あるいは、「わたしは、あるいは、この戒によって、あるいは、〔この〕掟によって、あるいは、〔この〕苦行によって、あるいは、〔この〕梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るであろう、あるいは、天〔の神〕の或る誰かと〔成るであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しない。心に、作意の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、愉悦せずにいる者となる。このようにもまた、「未来について執着なき者は」。

 [826]「過去を憂いません」とは、あるいは、変化した事物を憂い悲しまず、あるいは、変化した事物について憂い悲しまない。「わたしの眼が、変化した」と憂い悲しまず、「わたしの耳が……「わたしの鼻が……「わたしの舌が……「わたしの身が……「わたしの諸々の形態が……「わたしの諸々の音声が……「わたしの諸々の臭香が……「わたしの諸々の味感が……「わたしの諸々の感触が……「わたしの家が……「わたしの衆徒が……「わたしの居住が……「わたしの利得が……「わたしの名声が……「わたしの賞賛が……「わたしの安楽が……「わたしの衣料が……「わたしの〔行乞の〕施食が……「わたしの臥坐所が……「わたしの病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)が……「わたしの母が……「わたしの父が……「わたしの兄弟が……「わたしの姉妹が……「わたしの子が……「わたしの娘が……「わたしの朋友たちが……「わたしの僚友たちが……「わたしの親族たちが……「わたしの血縁たちが、変化した」と、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、迷妄を惹起しない。ということで、「過去を憂いません」。

 [827]「諸々の接触(触)について遠離を見る者は」とは、「接触」とは、眼の接触(眼触)、耳の接触(耳触)、鼻の接触(鼻触)、舌の接触(舌触)、身の接触(身触)、意の接触(意触)、名辞の接触(増語触)、障礙の接触(有対触)、安楽として感受されるべき接触、苦痛として感受されるべき接触、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触、善なる接触、善ならざる接触、〔善悪が〕説き示されない接触(無記触)、欲望の行境の接触、形態の行境の接触、形態なき行境の接触、空性の接触、無相の接触、無願の接触、世〔俗〕の接触(世間触)、世〔俗〕を超える接触(出世間触)、過去の接触、未来の接触、現在の接触。すなわち、このような形態の、接触、触れること、接触すること、接触あることである。これが、接触と説かれる。

 [828]「諸々の接触について遠離を見る者は」とは、眼の接触を、あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己の属性〔の観点〕によって、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって、遠離したものとして見る。耳の接触を……遠離したものとして見る。鼻の接触を……遠離したものとして見る。舌の接触を……遠離したものとして見る。身の接触を……遠離したものとして見る。意の接触を……遠離したものとして見る。名辞の接触を……遠離したものとして見る。障礙の接触を……遠離したものとして見る。安楽として感受されるべき接触を……遠離したものとして見る。苦痛として感受されるべき接触を……遠離したものとして見る。苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を……遠離したものとして見る。善なる接触を……遠離したものとして見る。善ならざる接触を……遠離したものとして見る。〔善悪が〕説き示されない接触を……遠離したものとして見る。欲望の行境の接触を……遠離したものとして見る。形態の行境の接触を……遠離したものとして見る。形態なき行境の接触を……遠離したものとして見る。世〔俗〕の接触を、あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己の属性〔の観点〕によって、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって、遠離したものとして見る。

 [829]しかして、あるいは、過去の接触を、諸々の未来〔の接触〕からも、諸々の現在の接触からも、遠離したものとして見る。未来の接触を、諸々の過去〔の接触〕からも、諸々の現在の接触からも、遠離したものとして見る。現在の接触を、諸々の過去〔の接触〕からも、諸々の未来の接触からも、遠離したものとして見る。しかして、あるいは、すなわち、それらの接触が、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、空性に関するものであるなら、それらの接触を、遠離したものとして見る。貪欲から、憤怒から、迷妄から、忿怒から、怨恨から、偽装から、加虐から、嫉妬から、物惜から、幻想から、狡猾から、強情から、激昂から、思量から、高慢から、驕慢から、放逸から、一切の〔心の〕汚れから、一切の悪しき行ないから、一切の懊悩から、一切の苦悶から、一切の熱苦から、一切の善ならざる行作から、遠離したものとして見る。ということで、「諸々の接触について遠離を見る者は」。

 [830]「諸々の見解についても導かれません」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、見解によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められず、また、その悪しき見解を、真髄〔の観点〕から、信受せず、再帰しない。ということで、「諸々の見解についても導かれません」。

 [831]それによって、世尊は言った。


 [832]「未来について執着なき者は、過去を憂いません。諸々の接触(触:感覚・経験)について遠離を見る者は、諸々の見解についても導かれません」と。


87.


 [833]859.(852) 〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく、羨望〔の思い〕なく、物惜しみ〔の思い〕なき者は、尊大ならず、〔他者に〕忌避されず、中傷〔の思い〕に陥る者でもありません。(5)


 [834]「〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく」とは、「〔欲望の対象から〕退去し」とは、貪欲が捨棄されたことから、退去した者となり、憤怒が捨棄されたことから、退去した者となり、迷妄が捨棄されたことから、退去した者となり、忿怒が……怨恨が……偽装が……加虐が……嫉妬が……物惜が……幻想が……狡猾が……強情が……激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が捨棄されたことから、退去した者となる。まさに、このことが、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「比丘たちよ、では、どのように、比丘は、退去した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢)が、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、退去した者と成ります」〔と〕。ということで、「〔欲望の対象から〕退去し」。

 [835]「虚言なく」とは、三つの虚言の事例がある。(1)日用品の受用と名づけられた虚言の事例、(2)振る舞いの道と名づけられた虚言の事例、(3)なぞかけと名づけられた虚言の事例である。

 [836](1)どのようなものが、日用品の受用と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、〔在俗の〕家長たちが、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)によって〔布施をするために〕、比丘を招く。その〔比丘〕は、悪しき欲求ある者であり、〔自らの〕欲求に支配された者であり、〔それらの施物を〕義(目的)とする者であり、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品をより一層欲することに執取して、衣料を〔とりあえずは〕拒絶し、〔行乞の〕施食を〔とりあえずは〕拒絶し、臥坐所を〔とりあえずは〕拒絶し、病のための日用品となる薬の必需品を〔とりあえずは〕拒絶する。彼は、このように言う。「沙門にとって、高価な衣料が、何だというのだ。〔しかるに〕これは、適切なることである――すなわち、沙門が、あるいは、墓場から、あるいは、塵芥場“ごみすてば”から、あるいは、店先から、諸々のぼろ布を集めて、大衣と為して〔身に〕付けるなら。沙門にとって、高価な〔行乞の〕施食が何だというのだ。〔しかるに〕これは、適切なることである――すなわち、沙門が、残飯行(乞食行)によって、〔行乞の〕団子食“だんごめし”によって、生命を“いのち”営むなら。沙門にとって、高価な臥坐所が、何だというのだ。〔しかるに〕これは、適切なることである――すなわち、沙門が、あるいは、木の根元にある者として、あるいは、墓場にある者として、あるいは、野外にある者として、〔世に〕存するなら。沙門にとって、高価な病のための日用品となる薬の必需品が、何だというのだ。〔しかるに〕これは、適切なることである――すなわち、沙門が、あるいは、腐尿(発酵した牛の尿)によって、あるいは、薬果の破断したものによって、薬と為すなら」と。それに執取して、粗悪な衣料を〔身に〕付け、粗悪な〔行乞の〕施食を食べ、粗悪な臥坐所を受用し、粗悪な病のための日用品となる薬の必需品を受用する。〔まさに〕その、この者のことを、〔在俗の〕家長たちは、このように知る。「この沙門は、求むこと少なき者であり、〔常に〕満ち足りている者であり、〔世俗から〕遠離した者であり、〔世俗と〕交わりなき者であり、精進に励む者であり、〔俗塵の〕払拭(頭陀)を説く者である」と。より一層、より一層、〔家長たちは〕諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品によって〔布施をするために、その比丘を〕招く。彼は、このように言う。「三つのものが面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第一に〕信が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第二に〕施すべき法(性質)が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第三に〕施与されるべき者たちが、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。まさしく、しかして、あなたたちには、この信が存在し、さらには、施すべき法(性質)が等しく見い出される。かつまた、わたしは、納受する者である。それで、もし、わたしが納受しないであろうなら、このように、あなたたちは、功徳から遍く外にある者たちと成るであろう。わたしには、これに義(目的)はないが、しかるに、また、まさしく、あなたたちへの慈しみ〔の思い〕によって、〔わたしは〕納受する」と。それに執取して、さらに多くの衣料を納受し、さらに多くの〔行乞の〕施食を納受し、さらに多くの臥坐所を納受し、さらに多くの病のための日用品となる薬の必需品を納受する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、日用品の受用と名づけられた虚言の事例である。

 [837](2)どのようなものが、振る舞いの道と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、〔自らの〕欲求に支配された者として、〔他者に〕尊ばれることを志向し、「このように、人は、わたしを尊ぶであろう」と、行くに装い、立つに装い、坐すに装い、臥すに装い、作為して行き、作為して立ち、作為して坐し、作為して臥所を営み、〔心が〕定められた者であるかのように行き、〔心が〕定められた者であるかのように立ち、〔心が〕定められた者であるかのように坐し、〔心が〕定められた者であるかのように臥所を営み、まさしく、視野のうちなる瞑想者(見かけ上の瞑想者)と成る。すなわち、このような形態の、振る舞いの道(行住坐臥)のための、作為的虚飾、虚飾、常習的虚飾、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、振る舞いの道と名づけられた虚言の事例である。

 [838](3)どのようなものが、なぞかけと名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、〔自らの〕欲求に支配された者として、〔他者に〕尊ばれることを志向し、「このように、人は、わたしを尊ぶであろう」と、聖なる法(教え)に依拠した言葉を語る。「彼が、このような形態の衣料を〔身に〕保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と語る。「彼が、このような形態の鉢を〔身に〕保つなら……銅椀を〔身に〕保つなら……水瓶を〔身に〕保つなら……濾過器を〔身に〕保つなら……袋を〔身に〕保つなら……履物を〔身に〕保つなら……身体を縛る〔帯〕を〔身に〕保つなら……〔縛り〕紐を〔身に〕保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と語る。「彼に、このような形態の師父(和尚)がいるなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と語る。「彼に、このような形態の師匠(阿闍梨)がいるなら……師父を等しくする者たちがいるなら……師匠を等しくする者たちがいるなら……朋友たちがいるなら……同輩たちがいるなら……知己たちがいるなら……道友たちがいるなら……彼は、大いなる権能ある沙門である」と語る。「彼が、このような形態の精舎に住するなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と語る。「彼が、このような形態の半屋根に住するなら……高楼に住するなら……楼房に住するなら……岩窟に住するなら……山窟に住するなら……小屋に住するなら……楼閣に住するなら……見張塔に住するなら……円室に住するなら……宝庫に住するなら……奉仕堂に住するなら……天幕に住するなら……木の根元に住するなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と語る。

 [839]しかして、あるいは、逆上に逆上し、渋面に渋面し、虚言に虚言し、饒舌に饒舌し、口で尊ばれている者が、「この沙門は、これらの、このような形態の諸々の寂静なる住への入定の、得者である」と、そのような、深遠で、秘密にされ、精緻で、隠蔽され、世〔俗〕を超える、空性に関する言説を言説する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、なぞかけと名づけられた虚言の事例である。彼の、これらの三つの虚言の事例が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、虚言なき者と説かれる。ということで、「〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく」。

 [840]「羨望〔の思い〕なく、物惜しみ〔の思い〕なき者は」とは、羨望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この羨望たる渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、羨望〔の思い〕なき者と説かれる。彼は、諸々の形態を羨望せず、諸々の音声を……諸々の臭香を……諸々の味感を……諸々の感触を……家を……衆徒を……居住を……利得を……名声を……賞賛を……安楽を……衣料を……〔行乞の〕施食を……臥坐所を……病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)を……欲望の界域(欲界)を……形態の界域(色界)を……形態なき界域(無色界)を……欲望の生存(欲有)を……形態の生存(色有)を……形態なき生存(無色有)を……表象の生存(想有)を……表象なき生存(無想有)を……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)を……一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)を……四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)を……五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)を……過去を……未来を……現在を……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)を、羨望せず、求めず、楽しみにせず、切望せず、熱望せず、渇望しない。ということで、「羨望〔の思い〕なく」。「物惜しみ〔の思い〕なき者は」とは、「物惜しみ」とは、五つの物惜しみがある。居住の物惜しみ、家の物惜しみ、利得の物惜しみ、名誉の物惜しみ、法(事象)の物惜しみである。すなわち、このような形態の、物惜しみ、物惜しみすること、物惜しみあること、物欲、吝嗇、緊縮すること、心の収取あることである。これが、物惜しみと説かれる。さらに、また、〔五つの〕範疇の物惜しみもまた、物惜しみであり、〔十八の〕界域の物惜しみもまた、物惜しみであり、〔十二の認識の〕場所の物惜しみもまた、物惜しみであり、収取である。これが、物惜しみと説かれる。彼の、この物惜しみが、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、物惜しみ〔の思い〕なき者と説かれる。ということで、「羨望〔の思い〕なく、物惜しみ〔の思い〕なき者は」。

 [841]「尊大ならず、〔他者に〕忌避されず」とは、尊大とは、三つの尊大がある。(1)身体の属性としての尊大、(2)言葉の属性としての尊大、(3)心の属性としての尊大である。(1)どのようなものが、身体の属性としての尊大であるのか。ここに、一部の者は、(1―1)僧団に在るもまた、身体の属性としての尊大を見示し、(1―2)衆徒に在るもまた、身体の属性としての尊大を見示し、(1―3)食堂に在るもまた、身体の属性としての尊大を見示し、(1―4)浴室に在るもまた、身体の属性としての尊大を見示し、(1―5)水浴場に在るもまた、身体の属性としての尊大を見示する。(1―6)家屋の内に入りつつもまた、身体の属性としての尊大を見示する。(1―7)家屋の内に入ってもまた、身体の属性としての尊大を見示する。

 [842](1―1)どのように、僧団に在る者として、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、僧団に在るとして、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老たる比丘たちに、ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高き坐であろうが坐り、〔衣を〕頭まで着込んでであろうが坐り、立ったままであろうが語り、腕を振り乱したままであろうが語る。このように、僧団に在る者として、身体の属性としての尊大を見示する。

 [843](1―2)どのように、衆徒に在る者として、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、衆徒に在るとして、〔他者にたいし〕心作“こころくばり”を為すことなく、長老たる比丘たちが、履物なしで歩行〔瞑想〕をしているのに、履物有りで歩行〔瞑想〕をし、低き歩行場で歩行〔瞑想〕をしているのに、高き歩行場で歩行〔瞑想〕をし、大地で歩行〔瞑想〕をしているのに、歩行場で歩行〔瞑想〕をする。ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高き坐であろうが坐り、〔衣を〕頭まで着込んでであろうが坐り、立ったままであろうが語り、腕を振り乱したままであろうが語る。このように、衆徒に在る者として、身体の属性としての尊大を見示する。

 [844](1―3)どのように、食堂に在る者として、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老たる比丘たちに、分け入ってであろうが坐り、新参の比丘たちにもまた、坐を拒み、ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高き坐であろうが坐り、〔衣を〕頭まで着込んでであろうが坐り、立ったままであろうが語り、腕を振り乱したままであろうが語る。このように、食堂に在る者として、身体の属性としての尊大を見示する。

 [845](1―4)どのように、浴室に在る者として、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、浴室において、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老たる比丘たちに、ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高き坐であろうが坐り、許しを乞わずにいようが、要請されていなかろうが、薪をくべ、扉をもまた締め、腕を振り乱したままであろうが語る。このように、浴室に在る者として、身体の属性としての尊大を見示する。

 [846](1―5)どのように、水浴場に在る者として、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、水浴場において、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老たる比丘たちに、ぶつかりながらであろうが入り、前であろうが入り、ぶつかりながらであろうが沐浴し、前であろうが沐浴し、上であろうが沐浴し、ぶつかりながらであろうが上がり、前であろうが上がり、上であろうが上がる。このように、水浴場に在る者として、身体の属性としての尊大を見示する。

 [847](1―6)どのように、家屋の内に入りつつある者として、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、家屋の内に入りつつあるとして、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老たる比丘たちに、ぶつかりながらであろうが行き、前であろうが行き、〔家から〕離れてもまた、長老たる比丘たちの、前へ前へと行く。このように、家屋の内に入りつつある者として、身体の属性としての尊大を見示する。

 [848](1―7)どのように、家屋の内に入った者として、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、家屋の内に入ったとして、「尊き方よ、入らないでください」と説かれているのに入り、「尊き方よ、立たないでください」と説かれているのに立ち、「尊き方よ、坐らないでください」と説かれているのに坐り、空間なくもまた入り、空間なくもまた立ち、空間なくもまた坐り、すなわち、また、家々には、しかして、秘密の、さらには、隠蔽された、それらの内室が有り、そこに、良家の婦女たちが〔坐し〕、良家の娘たちが〔坐し〕、良家の嫁たちが〔坐し〕、良家の少女たちが坐すとして、そこにさえも、無理やり入り、少年の頭をもまた撫でまわす。このように、家屋の内に入った者として、身体の属性としての尊大を見示する。これが、身体の属性としての尊大である。

 [849](2)どのようなものが、言葉の属性としての尊大であるのか。ここに、一部の者は、(2―1)僧団に在るもまた、言葉の属性としての尊大を見示し、(2―2)衆徒に在るもまた、言葉の属性としての尊大を見示し、(2―3)家屋の内に入ってもまた、言葉の属性としての尊大を見示する。

 [850](2―1)どのように、僧団に在る者として、言葉の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、僧団に在るとして、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老たる比丘たちに、あるいは、許しを乞わずに、あるいは、要請されていずに、聖園に在る比丘たちに、法(教え)を語り、問いに答え、戒条(波羅提木叉:戒律条項)を誦説する。立ったままであろうが語り、腕を振り乱したままであろうが語る。このように、僧団に在る者として、言葉の属性としての尊大を見示する。

 [851](2―2)どのように、衆徒に在る者として、言葉の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、衆徒に在るとして、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老たる比丘たちに、あるいは、許しを乞わずに、あるいは、要請されていずに、聖園に在る比丘たちに、法(教え)を語り、問いに答える。立ったままであろうが語り、腕を振り乱したままであろうが語る。聖園に在る比丘尼たちに、在俗信者(優婆塞)たちに、女性在俗信者(優婆夷)たちに、法(教え)を語り、問いに答える。立ったままであろうが語り、腕を振り乱したままであろうが語る。このように、衆徒に在る者として、言葉の属性としての尊大を見示する。

 [852](2―3)どのように、家屋の内に入った者として、言葉の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、〔布施を受けるために〕家屋の内に入ったとして、あるいは、婦女に、あるいは、少女に、このように言う。〔すなわち〕「某名よ、某姓よ、何が存するのか。粥は存するのか。食べるものは存するのか。固形の食料は存するのか。何を飲もうか。何を食べようか。何を喰おうか。あるいは、何が存するのか。あるいは、わたしに、何を施してくれるのか」と語り散らす。このように、家屋の内に入った者として、言葉の属性としての尊大を見示する。これが、言葉の属性としての尊大である。

 [853](3)どのようなものが、心の属性としての尊大であるのか。ここに、一部の者は、高貴なる家からの出家者として〔世に〕存していないのに、高貴なる家からの出家者を相手に、〔彼と〕同等の者として、自己を、心によって思い定め、大いなる家からの出家者として〔世に〕存していないのに、大いなる家からの出家者を相手に、〔彼と〕同等の者として、自己を、心によって思い定め、大いなる財物ある家からの出家者として〔世に〕存していないのに、大いなる財物ある家からの出家者を相手に、〔彼と〕同等の者として、自己を、心によって思い定め、巨万の財物ある家からの出家者として〔世に〕存していないのに……略([237]参照)……経の専門家として〔世に〕存していないのに、経の専門家を相手に、〔彼と〕同等の者として、自己を、心によって思い定め、律の保持者として〔世に〕存していないのに……法(教え)の言説者として〔世に〕存していないのに……林にある者として〔世に〕存していないのに……〔行乞の〕施食の者として〔世に〕存していないのに……糞掃衣の者として〔世に〕存していないのに……三つの衣料の者として〔世に〕存していないのに……〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者として〔世に〕存していないのに……〔決められた時間〕以後の食を否とする者として〔世に〕存していないのに……常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に〕存していないのに……〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に〕存していないのに……第一の瞑想の得者として〔世に〕存していないのに、第一の瞑想の得者を相手に、〔彼と〕同等の者として、自己を、心によって思い定め……略([237]参照)……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に〕存していないのに、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者を相手に、〔彼と〕同等の者として、自己を、心によって思い定める。これが、心の属性としての尊大である。彼の、これらの三つの尊大が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、尊大ならざる者と説かれる。ということで、「尊大ならず」。

 [854]「〔他者に〕忌避されず」とは、(1)〔他者に〕忌避される人が存在し、(2)〔他者に〕忌避されない〔人〕が存在する。(1)しからば、どのような人が、〔他者に〕忌避される人であるのか。ここに、一部の人は、劣戒にして悪しき法(性質)の者として、不浄にして行状“おこない”に疑いある者として、生業“なりわい”を隠蔽し、沙門でないのに沙門と公言し(沙門を名乗り)、梵行者でないのに梵行者と公言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑として、〔世に〕有る。これが、〔他者に〕忌避される人と説かれる。しかして、あるいは、忿怒の者として、葛藤多き者として、〔世に〕有り、たとえ、少なきを言われた者として存しつつも、憤り、怒り、加害し、反抗し、しかして、忿怒〔の思い〕(忿)を、さらには、憤怒〔の思い〕(瞋)を、かつまた、不興〔の思い〕を、明らかと為す。これが、〔他者に〕忌避される人と説かれる。しかして、あるいは、忿怒ある者として、怨恨ある者として、〔世に〕有り、偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕有り、嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕有り、幻想“ごまかし”ある者として、狡猾ある者として、〔世に〕有り、強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕有り、悪しき欲求ある者として、誤った見解ある者として、〔世に〕有り、自らの見解に偏執ある者として、執取と収取ある者として、放棄するに難き者として、〔世に〕有る。これが、〔他者に〕忌避される人と説かれる。

 [855](2)しからば、どのような人が、〔他者に〕忌避されない人であるのか。ここに、比丘が、戒ある者と成り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)の統御によって〔自己が〕統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕行状と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。これが、〔他者に〕忌避されない人と説かれる。しかして、あるいは、忿怒なき者として、葛藤なき者として、〔世に〕有り、たとえ、多くを言われた者として存しつつも、憤らず、怒らず、加害せず、反抗せず、しかして、忿怒〔の思い〕を、さらには、憤怒〔の思い〕を、かつまた、不興〔の思い〕を、明らかと為さない。これが、〔他者に〕忌避されない人と説かれる。しかして、あるいは、忿怒なき者として、怨恨なき者として、〔世に〕有り、偽装なき者として、加虐なき者として、〔世に〕有り、嫉妬なき者として、物惜なき者として、〔世に〕有り、幻想なき者として、狡猾なき者として、〔世に〕有り、強情なき者として、高慢なき者として、〔世に〕有り、悪しき欲求ある者として、〔世に〕有ることなく、誤った見解ある者として、〔世に有ること〕なく、自らの見解に偏執なき者として、執取と収取なき者として、放棄するに易き者として、〔世に〕有る。これが、〔他者に〕忌避されない人と説かれる。一切の愚者たる凡夫たちは、〔他者に〕忌避される者たちであり、八者の聖者たる人(預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道・阿羅漢果)は、善き凡夫と比較して、〔他者に〕忌避されない者たちである。ということで、「尊大ならず、〔他者に〕忌避されず」。

 [856]「中傷〔の思い〕に陥る者でもありません」とは、「中傷」とは、ここに、一部の者は、中傷の言葉ある者として〔世に〕有る。これらの者たちを分裂させるために、ここから聞いて〔そののち〕、そちらで告知する者であり、あるいは、そちらの者たちを分裂させるために、そちらで聞いて〔そののち〕、これらの者たちに告知する者であり、かくのごとく、あるいは、和合の者たちを分裂する者として、あるいは、分裂した者たちに〔さらなる分裂を〕付与する者として、党派を喜びとする者として、党派に喜びある者として、党派を愉悦とする者として、党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有る。これが、中傷と説かれる。

 [857]さらに、また、二つの契機によって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。(1)あるいは、愛しい者たるを欲することによって。(2)あるいは、分裂を志向することによって。(1)どのように、愛しい者たるを欲することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中するのか。「この者にとって、〔わたしは〕愛しい者と成るのだ、〔わたしは〕意に適う者と成るのだ、〔わたしは〕信頼ある者と成るのだ、〔わたしは〕内々の者と成るのだ、〔わたしは〕親密の者と成るのだ」と、このように、愛しい者たるを欲することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。(2)どのように、分裂を志向することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中するのか。「どのように、これらの者たちは、種々に存するのであろうか、別々に存するのであろうか、諸々の党派の者たちとして存するのであろうか、二種の者たちとして存するのであろうか、二様の者たちとして存するのであろうか、二徒の者たちとして存するのであろうか、分裂するのであろうか、和合しないのであろうか、苦痛であり、平穏ではなく、〔混乱のうちに〕住むのであろうか」と、このように、分裂を志向することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。彼の、この中傷〔の思い〕が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、中傷〔の思い〕に、陥る者ではなく、束縛された者ではなく、専念する者ではなく、等しく専従する者ではない。ということで、「中傷〔の思い〕に陥る者でもありません」。

 [858]それによって、世尊は言った。


 [859]「〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく、羨望〔の思い〕なく、物惜しみ〔の思い〕なき者は、尊大ならず、〔他者に〕忌避されず、中傷〔の思い〕に陥る者でもありません」と。


88.


 [860]860.(853) 諸々の快楽に溺れない者は、高慢〔の思い〕に陥る者でもありません。そして、〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕、即応即答〔の知慧〕ある者は、信仰なく、離貪しません(今に生きる者は、限定された特定の信仰を持たず、無執着の者には、離貪という行為自体が存在しない)。(6)


 [861]「諸々の快楽に溺れない者は」とは、諸々の快楽は、五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)と説かれる。何を契機とすることから、諸々の快楽は、五つの欲望の対象と説かれるのか。多くのところとして、天〔の神々〕と人間たちは、五つの欲望の対象を、求め、楽しみにし、切望し、熱望し、渇望する。それを契機とすることから、諸々の快楽は、五つの欲望の対象と説かれる。彼らの、これらの快楽たる渇愛が、〔いまだ〕捨棄されていないなら、彼らの、眼からは、形態への渇愛が、流れ出、漏れ出、流れ、転起し、耳からは、音声への渇愛が……鼻からは、臭香への渇愛が……舌からは、味感への渇愛が……身からは、感触への渇愛が……意からは、法(意の対象)への渇愛が、流れ出、漏れ出、流れ、転起する。彼らの、これらの快楽たる渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼らの、眼からは、形態への渇愛が、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起せず、耳からは、音声への渇愛が……略……意からは、法(意の対象)への渇愛が、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。ということで、「諸々の快楽に溺れない者は」。

 [862]「高慢〔の思い〕に陥る者でもありません」とは、どのようなものが、高慢(過慢)であるのか。ここに、一部の者は、他者を軽んじる――あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略([237]参照)……あるいは、何らかの或る根拠によって。すなわち、このような形態の、思量、思量すること、思量あること、傲慢、傲慢になること、〔高慢の〕旗、横柄、心が〔高慢の〕幟を欲することである。これが、高慢と説かれる。彼の、この高慢が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、しかして、高慢に、陥る者ではなく、束縛された者ではなく、専念する者ではなく、等しく専従する者ではない。ということで、「高慢〔の思い〕に陥る者でもありません」。

 [863]「そして、〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕、即応即答〔の知慧〕ある者は」とは、「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」とは、優雅な身体の行為を具備した者、ということで、「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」。優雅な言葉の行為を……。優雅な意の行為を具備した者、ということで、「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」。優雅な〔四つの〕気づきの確立を具備した者……。優雅な〔四つの〕正しい精励を具備した者……。優雅な〔四つの〕神通の足場を具備した者……。優雅な〔五つの〕機能を具備した者……。優雅な〔五つの〕力を具備した者……。優雅な〔七つの〕覚りの支分を具備した者を具備した者、ということで、「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」。優雅な聖なる八つの支分を具備した者、ということで、「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」。

 [864]「即応即答〔の知慧〕ある者は」とは、三者の即応即答〔の知慧〕ある者がいる。(1)聖典について即応即答〔の知慧〕ある者、(2)遍問について即応即答〔の知慧〕ある者、(3)到達について即応即答〔の知慧〕ある者である。(1)どのような者が、聖典について即応即答〔の知慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者に、覚者の言葉が――経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、記説(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)が――学得されたものとして有る。彼のばあい、〔学得した〕聖典に依拠して、〔答えが〕明白となる。これが、聖典について即応即答〔の知慧〕ある者である。(2)どのような者が、遍問について即応即答〔の知慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者は、しかして、義(意味)について、しかして、正理について、しかして、特相について、しかして、契機について、しかして、拠点と拠点なきについて、遍く問い尋ねられた者として有る。彼のばあい、その遍問に依拠して、〔答えが〕明白となる。これが、遍問について即応即答〔の知慧〕ある者である。(3)どのような者が、到達について即応即答〔の知慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者に、四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分ある道、聖なる八つの支分、四つの聖者の道、四つの沙門の果、四つの融通無礙、六つの神知が、到達されたものとして有る。彼のばあい、義(意味)は知られ、法(性質)は知られ、言語は知られ、義(意味)が知られたとき、義(意味)は明白となり、法(性質)が知られたとき、法(性質)は明白となり、言語が知られたとき、言語は明白となる。これらの三つについて、知恵があり、応答の融通無礙がある。この応答の融通無礙を、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者は、彼は、即応即答〔の知慧〕ある者と説かれる。彼に、聖典が存在しないなら、遍問が存在しないなら、到達が存在しないなら、どうして、彼に、〔答えが〕明白となるというのだろう。ということで、「そして、〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕、即応即答〔の知慧〕ある者は」。

 [865]「信仰なく、離貪しません」とは、自らをもって、自ら、証知したものにして、自己の現見のものたる法(真理)に〔信を置き〕、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、あるいは、天〔の神〕の、あるいは、悪魔の、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)の、誰であれ、他者の〔法に〕信を置かない。「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、自らをもって、自ら、証知したものにして……略……。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と……。「一切の諸法(性質)は、無我である(諸法無我)」と……。「無明という縁から、諸々の形成〔作用〕が〔発生する〕」と……略([324]参照)……。「生という縁から、老と死が〔発生する〕」と……。「無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある」と……略([324]参照)……。「生の止滅あることから、老と死の止滅がある」と……。「これは、苦痛である」と……略([324]参照)……。「これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道である」と……。「これらは、諸々の煩悩である」と……略([324]参照)……。「これは、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と……。「これらの法(性質)は、遍知されるべきである」と……略([324]参照)……。「これらの法(性質)は、実証されるべきである」と、自らをもって、自ら、証知したものにして……略……。六つの接触の場所の、集起と、滅至と、悦楽と、危険と、出離とに……略……。〔心身を構成する〕五つの執取の範疇の、集起と……略……。四つの大いなる元素の、集起と、滅至と、悦楽と、危険と、出離とに、自らをもって、自ら、証知したものにして……略……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全ては、止滅の法(性質)である」と、自らをもって、自ら、証知したものにして、自己の現見のものたる法(真理)に〔信を置き〕、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、あるいは、天〔の神〕の、あるいは、悪魔の、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)の、誰であれ、他者の〔法に〕信を置かない。

 [866]まさに、このことが、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「サーリプッタよ、あなたは、信を置きますか――信の機能(信根)が、修行され、多く為されたなら、不死への沈潜(涅槃)と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成り〕、精進の機能(精進根)が……気づきの機能(念根)が……〔心の〕統一の機能(定根)が……知慧の機能(慧根)が、修行され、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕」と。

 [867]〔尊者サーリプッタは答えた〕「尊き方よ、まさに、わたしは、ここに、世尊への信によって、赴くのではありません――信の機能が……精進の機能が……気づきの機能が……〔心の〕統一の機能が……知慧の機能が、修行され、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕。尊き方よ、彼らにとって、まさに、このことが、〔いまだ〕知られていないものとして〔存在し〕、〔いまだ〕見られていないものとして〔存在し〕、〔いまだ〕見い出されていないものとして〔存在し〕、〔いまだ〕実証されていないものとして〔存在し〕、知慧によって〔いまだ〕体得されていないものとして存在するなら、彼らは、そこにおいて、他者たちへの信によって、赴くでしょう――信の機能が……精進の機能が……気づきの機能が……〔心の〕統一の機能が……知慧の機能が、修行され、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕。尊き方よ、しかしながら、彼らにとって、まさに、このことが、〔すでに〕知られたものであり、〔すでに〕見られたものであり、〔すでに〕見い出されたものであり、〔すでに〕実証されたものであり、知慧によって〔すでに〕体得されたものであるなら、〔もはや〕疑いなき彼らは、そこにおいて、疑惑なき者たちとしてあります――信の機能が……精進の機能が……気づきの機能が……〔心の〕統一の機能が……知慧の機能が、修行され、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕。尊き方よ、そして、わたしにとって、まさに、このことは、〔すでに〕知られたものであり、〔すでに〕見られたものであり、〔すでに〕見い出されたものであり、〔すでに〕実証されたものであり、知慧によって〔すでに〕体得されたものであり、〔もはや〕疑いなきわたしは、そこにおいて、疑惑なき者としてあります――信の機能が……精進の機能が……気づきの機能が……〔心の〕統一の機能が……知慧の機能が、修行され、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕」と。

 [868]〔世尊は言った〕「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、彼らにとって、まさに、このことが、〔すでに〕知られたものであり、〔すでに〕見られたものであり、〔すでに〕見い出されたものであり、〔すでに〕実証されたものであり、知慧によって〔すでに〕体得されたものであるなら、〔もはや〕疑いなき彼らは、そこにおいて、疑惑なき者たちとしてあります――信の機能が……略……知慧の機能が、修行され、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕」と。


 [869]〔しかして、詩偈に言う〕「〔特定のものについて〕信なく、かつまた、作られざるもの(涅槃)について知あり、しかして、〔輪廻の〕鎖を断ち切った、その人――〔造悪の〕機会を打ち砕き、〔自利の〕願望を吐き捨てた者――まさに、彼は、最上の人である」と。


 [870]「信仰なく、離貪しません」とは、一切の愚者たる凡夫たちは、〔欲に〕染まり(貪欲する)、七者の〔いまだ〕学びある者は、善き凡夫と比較して、離貪し(欲に染まらない)、阿羅漢は、まさしく、〔欲に〕染まることもなければ、離貪することもない。彼は、〔すでに〕離貪した者として〔世に有る〕――貪欲の滅尽あることから、貪欲が離れたことから、憤怒の滅尽あることから、憤怒が離れたことから、迷妄の滅尽あることから、迷妄が離れたことから。彼は、住むことを住んだ者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない」〔と〕。ということで、「信仰なく、離貪しません」。

 [871]それによって、世尊は言った。


 [872]「諸々の快楽に溺れない者は、高慢〔の思い〕に陥る者でもありません。そして、〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕、即応即答〔の知慧〕ある者は、信仰なく、離貪しません(今に生きる者は、限定された特定の信仰を持たず、無執着の者には、離貪という行為自体が存在しない)」と。


89.


 [873]861.(854) 利得(行乞の施物)を欲して学ばず、利得がないときも怒りません。そして、〔他者の道を〕遮らない者(他者にたいし敵意なき者)は、諸々の味について渇愛〔の思い〕で貪りません。(7)


 [874]「利得を欲して学ばず、利得がないときも怒りません」とは、どのように、利得を欲して学ばないのか。比丘たちよ、ここに、比丘が、比丘を、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)の得者として見る。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「いったい、まさに、何によって、この尊者は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品の得者であるのか」と。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「この尊者は、まさに、経の専門家として〔世に存している〕。それによって、この尊者は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品の得者なのだ」と。彼は、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、利得の発現のために、利得を遍熟させながら、経典を遍く学得する。このようにもまた、利得を欲して学ぶ。

 [875]しかして、あるいは、比丘が、比丘を、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品の得者として見る。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「いったい、まさに、何によって、この尊者は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品の得者であるのか」と。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「この尊者は、まさに、律の保持者として〔世に存している〕。……略……法(教え)の言説者として〔世に存している〕。……論の専門科として〔世に存している〕。それによって、この尊者は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品の得者なのだ」と。彼は、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、利得の発現のために、利得を遍熟させながら、論を遍く学得する。このようにもまた、利得を欲して学ぶ。

 [876]しかして、あるいは、比丘が、比丘を、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品の得者として見る。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「いったい、まさに、何によって、この尊者は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品の得者であるのか」と。彼には、このような〔思いが〕有る。〔すなわち〕「この尊者は、まさに、林にある者として〔世に存している〕。……〔行乞の〕施食の者として〔世に存している〕。……糞掃衣の者として〔世に存している〕。……三つの衣料の者として〔世に存している〕。……〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者として〔世に存している〕。……〔決められた時間〕以後の食を否とする者として〔世に存している〕。……常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に存している〕。……〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に存している〕。それによって、この尊者は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品の得者なのだ」と。彼は、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、利得の発現のために、利得を遍熟させながら、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者と成る。このようにもまた、利得を欲して学ぶ。

 [877]どのように、利得を欲して学ばないのか。ここに、比丘が、利得を因としてではなく、利得を縁としないことから、利得を契機としないことから、利得の発現のためではなく、利得を遍熟させることなく、自己の調御という義(目的)のために、自己の平静という義(目的)のために、自己を完全なる涅槃に到達させるという義(目的)のために、まさしく、そのかぎりにおいて、経典を学得し、律を学得し、論を学得する。このようにもまた、利得を欲して学ばない。

 [878]しかして、あるいは、比丘が、利得を因としてではなく、利得を縁としないことから、利得を契機としないことから、利得の発現のためではなく、利得を遍熟させることなく、少欲だけに依拠して、知足だけに依拠して、謹厳だけに依拠して、遠離だけに依拠して、この義(目的)たることだけに依拠して、まさしく、そのかぎりにおいて、林にある者と成り、〔行乞の〕施食の者と成り、糞掃衣の者と成り、三つの衣料の者と成り、〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者と成り、〔決められた時間〕以後の食を否とする者と成り、常坐〔にして不臥〕なる者と成り、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者と成る。このようにもまた、利得を欲して学ばない。ということで、「利得を欲して学ばず」。

 [879]「利得がないときも怒りません」とは、どのように、利得がないときに怒るのか。ここに、一部の者は、「あるいは、家を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衆徒を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、居住を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、利得を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、名声を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、賞賛を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、安楽を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衣料を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、〔行乞の〕施食を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、臥坐所を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、看病の者を、〔わたしは〕得ない」「〔わたしは〕覚知されざる者として〔世に〕存している」と、怒り、加害し、反抗し、しかして、忿怒〔の思い〕(忿)を、さらには、憤怒〔の思い〕(瞋)を、かつまた、不興〔の思い〕を、明らかと為す。このように、利得がないときに怒る。

 [880]どのように、利得がないときに怒らないのか。ここに、比丘が、「あるいは、家を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衆徒を、〔わたしは〕得ない」……略……「〔わたしは〕覚知されざる者として〔世に〕存している」と、怒らず、加害せず、反抗せず、しかして、忿怒〔の思い〕を、さらには、憤怒〔の思い〕を、かつまた、不興〔の思い〕を、明らかと為さない。このように、利得がないときに怒らない。ということで、「利得を欲して学ばず、利得がないときも怒りません」。

 [881]「そして、〔他者の道を〕遮らない者は、諸々の味について渇愛〔の思い〕で貪りません」とは、「遮り(敵意)」とは、すなわち、心の、憤り、憤懣、憤激、激しい反感、忿怒、強き忿怒、等しき忿怒、憤怒、強き憤怒、等しき憤怒、心の加害〔の思い〕、意の強き憤怒、忿怒、忿怒すること、忿怒あること、憤怒、憤怒すること、憤怒あること、加害、加害すること、加害あること、反感、激しい反感、狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。これが、遮り(敵意)と説かれる。彼の、この遮りが、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、遮らない者(敵意なき者)と説かれる。「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭香への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛。「味」とは、根の味、幹の味、皮の味、葉の味、花の味、果の味、酸っぱみ、甘み、苦み、辛み、塩気、刺激、弛緩、渋み、美味、不味、冷、暖。或る沙門や婆羅門たちで、味に貪求ある者たちが存在する。彼らは、舌の先端で諸々の至高の味を遍く探し求めながら、〔各地を〕逍遥する。彼らは、酸っぱいものを得ては、酸っぱくないものを遍く探し求め、酸っぱくないものを得ては、酸っぱいものを遍く探し求め、甘いものを得ては、甘くないものを遍く探し求め、甘くないものを得ては、甘いものを遍く探し求め、苦いものを得ては、苦くないものを遍く探し求め、苦くないものを得ては、苦いものを遍く探し求め、辛いものを得ては、辛くないものを遍く探し求め、辛くないものを得ては、辛いものを遍く探し求め、塩気のものを得ては、塩気のないものを遍く探し求め、塩気のないものを得ては、塩気のものを遍く探し求め、刺激のものを得ては、刺激のないものを遍く探し求め、刺激のないものを得ては、刺激のものを遍く探し求め、弛緩のものを得ては、弛緩のないものを遍く探し求め、弛緩のないものを得ては、弛緩のものを遍く探し求め、美味しいものを得ては、不味いものを遍く探し求め、不味いものを得ては、美味しいものを遍く探し求め、冷たいものを得ては、暖かいものを遍く探し求め、暖かいものを得ては、冷たいものを遍く探し求める。彼らは、それぞれのものを得ても、それぞれのもので満足せず、次から次へと遍く探し求める。諸々の意に適う味について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たちとなる。彼の、この味への渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、根源のままに審慮して〔そののち〕、食を食する。まさしく、戯れのためにあらず、驕りのためにあらず、装うことのためにあらず、飾ることのためにあらず――この身体の、止住のために、保持のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。「かくのごとく、しかして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受を打破するであろうし、さらには、新しい〔苦痛の〕感受を生起させないであろう。しかして、〔修行の〕続行と、罪過なきことと、平穏の住とが、わたしに有るであろう」と。

 [882]たとえば、〔木を〕育成するという義(目的)のために、まさしく、そのかぎりにおいて、林を燃やすように、あるいは、また、たとえば、荷を超え渡すという義(目的)のために、まさしく、そのかぎりにおいて、車軸に塗油するように、あるいは、また、たとえば、砂漠を超え出るという義(目的)のために、まさしく、そのかぎりにおいて、子の肉を食として食するように、まさしく、このように、比丘は、根源“あり”のままに審慮して〔そののち〕、食を食する。まさしく、戯れのためにあらず、驕りのためにあらず、装うことのためにあらず、飾ることのためにあらず……略……平穏の住とが、〔わたしに有るであろう〕」と。〔彼は〕味への渇愛を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめる。〔彼は〕味への渇愛から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。ということで、「そして、〔他者の道を〕遮らない者は、諸々の味について渇愛〔の思い〕で貪りません」。

 [883]それによって、世尊は言った。


 [884]「利得(行乞の施物)を欲して学ばず、利得がないときも怒りません。そして、〔他者の道を〕遮らない者(他者にたいし敵意なき者)は、諸々の味についても、渇愛〔の思い〕で貪りません」と。


90.


 [885]862.(855) 〔愛憎の思いを〕放捨した、常に気づきある者は、世において、〔自己と他者について〕「等しい」と思いません。「勝る」〔とも思い〕ません。「より劣る」〔とも思い〕ません。彼には、諸々の増長〔の思い〕は存在しません。(8)


 [886]「〔愛憎の思いを〕放捨した、常に気づきある者は」とは、「〔愛憎の思いを〕放捨した」とは、六つの支分ある放捨(色・声・香・味・触・法における放捨)を具備した者。眼によって、形態を見て〔そののち〕、まさしく、悦意の者にも成らず、失意の者にも〔成ら〕ず、放捨の者(愛憎の思いや価値意識に左右されない客観的認識者)として、気づきと正知の者として、〔世に〕住む。耳によって、音声を聞いて〔そののち〕……略……。意によって、法(意の対象)を識知して〔そののち〕、まさしく、悦意の者にも成らず、失意の者にも〔成ら〕ず、放捨の者として、気づきと正知の者として、〔世に〕住む。眼によって、形態を見て〔そののち〕、意に適うものとして、貪り求めず、満喫せず、貪欲を生じさせない。彼の、身体は、まさしく、止住したものとして有り、心は、内に善く確立し、善く解脱し、止住したものとして〔有る〕。まさしく、また、まさに、眼によって、形態を見て〔そののち〕、意に適わないものとして、愕然と成らず、反抗する心なく、畏縮する意なく、加害する心なくある。彼の、身体は、まさしく、止住したものとして有り、心は、内に善く確立し、善く解脱し、止住したものとして〔有る〕。耳によって、音声を聞いて〔そののち〕……略……。鼻によって、臭香を嗅いで〔そののち〕……。舌によって、味感を味わって〔そののち〕……。身によって、感触と接触して〔そののち〕……。意によって、法(意の対象)を識知して〔そののち〕、意に適うものとして、貪り求めず、満喫せず、貪欲を生じさせない。彼の、身体は、まさしく、止住したものとして有り、心は、内に善く確立し、善く解脱し、止住したものとして〔有る〕。まさしく、また、まさに、意によって、法(意の対象)を識知して〔そののち〕、意に適わないものとして、愕然と成らず、反抗する心なく、畏縮する意なく、加害する心なくある。彼の、身体は、まさしく、止住したものとして有り、心は、内に善く確立し、善く解脱し、止住したものとして〔有る〕。

 [887]眼によって、形態を見て〔そののち〕、諸々の意に適う〔形態〕と意に適わない形態について、彼の、身体は、まさしく、止住したものとして有り、心は、内に善く確立し、善く解脱し、止住したものとして〔有る〕。耳によって、音声を聞いて〔そののち〕……略……。意によって、法(意の対象)を識知して〔そののち〕、諸々の意に適う〔法〕と意に適わない法(意の対象)について、彼の、身体は、まさしく、止住したものとして有り、心は、内に善く確立し、善く解脱し、止住したものとして〔有る〕。

 [888]眼によって、形態を見て〔そののち〕、貪るべきものについて貪らず、怒るべきものについて怒らず、迷うべきものについて迷わず、忿怒するべきものについて忿怒せず、驕慢するべきものについて驕慢せず、汚れるべきものについて汚れない。音声を聞いて〔そののち〕……略……。意によって、法(意の対象)を識知して〔そののち〕、貪るべきものについて貪らず、怒るべきものについて怒らず、迷うべきものについて迷わず、忿怒するべきものについて忿怒せず、驕慢するべきものについて驕慢せず、汚れるべきものについて汚れない。見られたものについては、見られただけのものとして、聞かれたものについては、聞かれただけのものとして、思われたものについては、思われただけのものとして、識られたものについては、識られただけのものとしてある。見られたものについて汚されず、聞かれたものについて汚されず、思われたものについて汚されず、識られたものについて汚されない。見られたものについて、接近なき者として、離去なき者として、依存しない者として、結縛されない者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。聞かれたものについて……略……。思われたものについて……。識られたものについて、接近なき者として、離去なき者として、依存しない者として、結縛されない者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。

 [889]阿羅漢に、眼は等しく見い出される。阿羅漢は、眼によって、形態を見る。阿羅漢に、欲〔の思い〕と貪欲は存在しない。阿羅漢は、善く解脱した心ある者として〔世に有る〕。阿羅漢に、耳は等しく見い出される。阿羅漢は、耳によって、音声を聞く。阿羅漢に、欲〔の思い〕と貪欲は存在しない。阿羅漢は、善く解脱した心ある者として〔世に有る〕。阿羅漢に、鼻は等しく見い出される。阿羅漢は、鼻によって、臭香を嗅ぐ。阿羅漢に、欲〔の思い〕と貪欲は存在しない。阿羅漢は、善く解脱した心ある者として〔世に有る〕。阿羅漢に、舌は等しく見い出される。阿羅漢は、舌によって、味感を……略……。阿羅漢に、身は等しく見い出される。阿羅漢は、身によって、感触と……略……。阿羅漢に、意は等しく見い出される。阿羅漢は、意によって、法(意の対象)を識知する。阿羅漢に、欲〔の思い〕と貪欲は存在しない。阿羅漢は、善く解脱した心ある者として〔世に有る〕。

 [890]眼は、形態を喜びとするものであり、形態に喜びあるものであり、形態に歓喜あるものである。それは、阿羅漢のばあい、調御されたものとしてあり、保護されたものとしてあり、守護されたものとしてあり、統御されたものとしてある。しかして、その〔眼〕の統御のために、法(教え)を説示する。耳は、音声を喜びとするものであり……略……。鼻は、臭香を喜びとするものであり……。舌は、味感を喜びとするものであり、味感に喜びあるものであり、味感に歓喜あるものである。それは、阿羅漢のばあい、調御されたものとしてあり、保護されたものとしてあり、守護されたものとしてあり、統御されたものとしてある。しかして、その〔舌〕の統御のために、法(教え)を説示する。身は、感触を喜びとするものであり……略……。意は、法(意の対象)を喜びとするものであり、法(意の対象)に喜びあるものであり、法(意の対象)に歓喜あるものである。それは、阿羅漢のばあい、調御されたものとしてあり、保護されたものとしてあり、守護されたものとしてあり、統御されたものとしてある。しかして、その〔意〕の統御のために、法(教え)を説示する。


 [891]〔しかして、詩偈に言う〕「調御された〔象〕を、〔人の〕集まるところ(戦場)へと、〔人間たちは〕導く。調御された〔象〕に、王は乗る。人間たちのなかで最勝の者は、〔自己が〕調御された者――彼は、〔他者からの〕誹謗の言葉を忍受する。

 [892]優れているのは、調御された騾馬たち、しかして、善き生まれのシンダヴァたち(シンドゥー産の良馬)、さらには、『クンジャラ』〔という名〕の巨象たちである。〔しかしながら〕それよりも優れているのは、調御された自己である。

 [893]まさに、これらの乗り物では、至らざる地(涅槃)に行くことはできない――善く調御された自己〔という乗り物〕で、調御された者が調御によって行くようには。

 [894]さらなる生存から解脱した者たちは、〔『等しい』『勝る』『劣る』という、三つの〕種類について〔心が〕動揺しない。調御された境地を獲得した者たちは、彼らは、世における征圧者たちである。

 [895]彼の、諸々の〔感官の〕機能が修められ、内、および、外に、一切世〔界〕において〔修められ〕――この〔世〕、および、他世を〔あるがままに〕洞察して、〔感官を〕修めた者となり、〔死の〕時を待つ――彼は、『調御された者』〔と呼ばれる〕」と。


 [896]「〔愛憎の思いを〕放捨した、常に気づきある者は」とは、「常に」とは、常に、一切時において、一切時に、常住時に、常久時に……略([75]参照)……後年期(老年期)に。「気づきある者は」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における……心における……諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となる。……略([31-33]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。ということで、「〔愛憎の思いを〕放捨した、常に気づきある者は」。

 [897]「世において、〔自己と他者について〕『等しい』と思いません」とは、「わたしは、〔他者に〕等しい者として〔世に〕存している」と、思量を生じさせない――あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略([237]参照)……あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「世において、〔自己と他者について〕『等しい』と思いません」。

 [898]「『勝る』〔とも思い〕ません。『より劣る』〔とも思い〕ません」とは、「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」と、高慢を生じさせない――あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略([237]参照)……あるいは、何らかの或る根拠によって。「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」と、卑下慢を生じさせない――あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略([237]参照)……あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「『勝る』〔とも思い〕ません。『より劣る』〔とも思い〕ません」。

 [899]「彼には、諸々の増長〔の思い〕は存在しません」とは、「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。「増長〔の思い〕」とは、七つの増長がある。貪欲の増長、憤怒の増長、迷妄の増長、思量の増長、見解の増長、〔心の〕汚れの増長、行為の増長である。彼の、これらの増長は、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼には、諸々の増長〔の思い〕は存在しません」。

 [900]それによって、世尊は言った。


 [901]「〔愛憎の思いを〕放捨した、常に気づきある者は、世において、〔自己と他者について〕『等しい』と思いません。『勝“まさ”る』〔とも思い〕ません。『より劣る』〔とも思い〕ません。彼には、諸々の増長〔の思い〕は存在しません」と。


91.


 [902]863.(856) 彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら、法(真理)を知って、依存なき者となります。彼に、〔迷いの〕生存への〔渇愛の思いが〕、あるいは、〔迷いの〕生存から離れることへの渇愛〔の思い〕が、見い出されないなら――(9)


 [903]「彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「依存」とは、二つの依存がある。(1)渇愛の依存と、(2)見解の依存とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の依存である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の依存である。彼の、渇愛の依存は〔すでに〕捨棄され、見解の依存は〔すでに〕放棄され、渇愛の依存が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の依存が〔すでに〕放棄されたことから、彼に、〔他者に〕依存することが、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら」。

 [904]「法(真理)を知って、依存なき者となります」とは、「知って」とは、知って、解して、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、知って、解して、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と……。「一切の諸法(性質)は、無我である(諸法無我)」と……略([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全ては、止滅の法(性質)である」と、知って、解して、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。「依存なき者となります」とは、二つの依存がある。(1)渇愛の依存と、(2)見解の依存とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の依存である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の依存である。渇愛の依存を捨棄して、見解の依存を放棄して、眼に依存しない者として、耳に依存しない者として、鼻に依存しない者として、舌に依存しない者として、身に依存しない者として、意に依存しない者として、諸々の形態に……諸々の音声に……諸々の臭香に……諸々の味感に……諸々の感触に……家に……衆徒に……居住に……略([29]参照)……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)に、依存しない者として、〔思いが〕付着しない者として、近づき行かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。ということで、「法(真理)を知って、依存なき者となります」。

 [905]「彼に、〔迷いの〕生存への〔渇愛の思いが〕、あるいは、〔迷いの〕生存から離れることへの渇愛〔の思い〕が、見い出されないなら」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭香への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「〔迷いの〕生存への」とは、生存の見解(有見:実体論)への。「〔迷いの〕生存から離れることへの」とは、非生存の見解(非有見:虚無論)への。「〔迷いの〕生存への」とは、常恒の見解(常見:常住論)への。「〔迷いの〕生存から離れることへの」とは、断絶の見解(断見:断滅論)への。「〔迷いの〕生存への」とは、繰り返す生存への、繰り返す境遇への、繰り返す再生への、繰り返す結生への、繰り返す自己状態(個我的あり方)の発現への。彼に、渇愛が、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼に、〔迷いの〕生存への〔渇愛の思いが〕、あるいは、〔迷いの〕生存から離れることへの渇愛〔の思い〕が、見い出されないなら」。

 [906]それによって、世尊は言った。


 [907]「彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら、法(真理)を知って、依存なき者となります。彼に、〔迷いの〕生存への〔渇愛の思いが〕、あるいは、〔迷いの〕生存から離れることへの渇愛〔の思い〕が、見い出されないなら」と。


92.


 [908]864.(857) 〔わたしは〕彼を、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、「寂静者」と説きます。彼に、諸々の拘束は見い出されません。彼は、執着〔の思い〕を超えたのです。(10)


 [909]「〔わたしは〕彼を、『寂静者』と説きます」とは、「寂静となった者」「寂止した者」「寂滅した者」「静息した者」と、彼のことを、〔わたしは〕説く、彼のことを、〔わたしは〕言説する、彼のことを、〔わたしは〕発語する、彼のことを、〔わたしは〕提示する、彼のことを、〔わたしは〕語用する。ということで、「〔わたしは〕彼を、『寂静者』と説きます」。

 [910]「諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)諸々の事物の欲望と、(2)諸々の〔心の〕汚れの欲望とである。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。諸々の事物の欲望を遍知して、諸々の〔心の〕汚れの欲望を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らしめて、諸々の欲望〔の対象〕について、期待なき者として、欲望を離れた者として、欲望を捨て去った者として、欲望を吐き捨てた者として、欲望を解き放った者として、欲望を捨棄した者として、欲望を放棄した者として、諸々の欲望〔の対象〕について、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、〔心が〕寂滅した者として、〔心が〕冷静に成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって、〔世に〕住む。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を」。

 [911]「彼に、諸々の拘束は見い出されません」とは、「拘束」とは、四つの拘束(四繋)がある。(1)強欲〔の思い〕としての身体の拘束、(2)加害〔の思い〕としての身体の拘束、(3)戒や掟への偏執としての身体の拘束、(4)「これは真理である」という〔心の〕固着としての身体の拘束である。(1)自己の見解にたいする貪欲は、強欲〔の思い〕としての身体の拘束である。(2)他者の諸論にたいする憤懣と不興は、加害〔の思い〕としての身体の拘束である。(3)自己の、あるいは、戒への、あるいは、掟への、あるいは、戒と掟への、偏執は、戒や掟への偏執としての身体の拘束である。(4)自己の見解は、「これは真理である」という〔心の〕固着としての身体の拘束である。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「彼に、諸々の拘束は見い出されません」とは、彼に、諸々の拘束は、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼に、諸々の拘束は見い出されません」。

 [912]「彼は、執着〔の思い〕を超えたのです」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「執着(ヴィサッティカー)」とは、どのような義(意味)によって、執着となるのか。執着したもの(ヴィサタ)、ということで、「執着」。広きもの(ヴィサーラ)、ということで、「執着」。拡散したもの(ヴィサタ)、ということで、「執着」。不正なるもの(ヴィサマ)、ということで、「執着」。冒険する(ヴィサッカティ)、ということで、「執着」。収集する(ヴィサンハラティ)、ということで、「執着」。言葉を違える者(ヴィサンヴァーディカ)、ということで、「執着」。毒根(ヴィサムーラ)、ということで、「執着」。毒果(ヴィサパラ)、ということで、「執着」。毒の受益(ヴィサパリボーガ)、ということで、「執着」。あるいは、また、その渇愛は、広きもの(ヴィサーラ)にして、形態にたいし、音声にたいし、臭香にたいし、味感にたいし、感触にたいし、家にたいし、衆徒にたいし、居住にたいし……略([29]参照)……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、拡散したもの(ヴィサタ)となり、拡張したもの(ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。「彼は、執着〔の思い〕を超えたのです」とは、彼は、この執着たる渇愛を、超えた、超え上がった、超え渡った、等しく超越した、超克した。ということで、「彼は、執着〔の思い〕を超えたのです」。

 [913]それによって、世尊は言った。


 [914]「〔わたしは〕彼を、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、『寂静者』と説きます。彼に、諸々の拘束は見い出されません。彼は、執着〔の思い〕を超えたのです」と。


93.


 [915]865.(858) 彼に、子供たち、家畜たち、田畑、そして、地所は見い出されません。あるいは、また、自己が、あるいは、自己でないものが、彼においては、〔対象として〕認められないのです。(11)


 [916]「彼に、子供たち、家畜たち、田畑、そして、地所は見い出されません」とは、「ません」とは、否定〔の言葉〕。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「子供たち」とは、四者の子供がいる。自己から生まれた子供、田畑から生まれた子供、〔他者から〕与えられた子供、内弟子としての子供である。「家畜たち」とは、山羊や羊たち、鶏や豚たち、象や牛や馬や騾馬たち。「田畑」とは、米の田畑、稲の田畑、小豆の田畑、豆の田畑、麦の田畑、小麦の田畑、胡麻の田畑。「地所」とは、家屋の地所、貯蔵庫の地所、前〔庭〕の地所、後〔庭〕の地所、聖園の地所、精舎の地所。「彼に、子供たち、家畜たち、田畑、そして、地所は見い出されません」とは、彼に、あるいは、子供という執持〔の対象〕は、あるいは、家畜という執持〔の対象〕は、あるいは、田畑という執持〔の対象〕は、あるいは、地所という執持〔の対象〕は、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼に、子供たち、家畜たち、田畑、そして、地所は見い出されません」。

 [917]「あるいは、また、自己が、あるいは、自己でないものが、彼においては、〔対象として〕認められないのです」とは、「自己が」とは、自己の見解が。「自己でないものが」とは、断絶の見解が。「自己が」とは、収取されたものが存在しない。「自己でないものが」とは、解き放つべきものが存在しない。彼に、収取されたものが存在しないなら、彼に、解き放つべきものは存在しない。彼に、解き放つべきものが存在しないなら、彼に、収取されたものは存在しない。阿羅漢は、収取することと解き放つことを等しく超越した者であり、増大と衰退を超克した者である。彼は、住むことを住んだ者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない」〔と〕。ということで、「あるいは、また、自己が、あるいは、自己でないものが、彼においては、〔対象として〕認められないのです」。

 [918]それによって、世尊は言った。


 [919]「彼に、子供たち、家畜たち、田畑、そして、地所は見い出されません。あるいは、また、自己が、あるいは、自己でないものが、彼においては、〔対象として〕認められないのです」と。


94.


 [920]866.(859) それをもって、〔世の〕凡夫たちが、しかして、沙門や婆羅門たちが、彼のことを〔種々に〕説くとして、そのことは、彼にとって偏重されることではありません(どうでもいいことである)。それゆえに、諸々の論にたいし〔いささかも〕動じないのです。(12)


 [921]「それをもって、〔世の〕凡夫たちが、しかして、沙門や婆羅門たちが、彼のことを〔種々に〕説くとして」とは、「凡夫(プトゥジャナ)」とは、広く(プトゥ)、諸々の〔心の〕汚れを生じさせる(ジャーネーティ)、ということで、「凡夫たち」。広く、身体が有るという見解が〔いまだ〕打破されていない者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、教師たちに口が軽い者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、一切の境遇から〔いまだ〕出起していない者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる行作を行作する、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる激流によって運ばれる、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる熱苦によって熱せられる、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる苦悶によって嘆き悲しまされる、ということで、「凡夫たち」。広く、五つの欲望の対象について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、五つの〔修行の〕妨害によって、覆蔽された者たち、覆い護られた者たち、覆い被された者たち、覆い塞がれた者たち、覆い隠された者たち、覆い包まれた者たち、ということで、「凡夫たち」。「沙門たち」とは、彼らが誰であれ、これ(仏教)より外の者たちで、遍歴〔生活〕へと近づき行った者たちであり、遍歴〔生活〕に入った者たちである。「婆羅門たち」とは、彼らが誰であれ、ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)たちである。「それをもって、〔世の〕凡夫たちが、しかして、沙門や婆羅門たちが、彼のことを〔種々に〕説くとして」とは、〔世の〕凡夫たちが、彼のことを、すなわち、貪欲によって説くとして、すなわち、憤怒によって説くとして、すなわち、迷妄によって説くとして、すなわち、思量によって説くとして、すなわち、見解によって説くとして、すなわち、高揚によって説くとして、すなわち、疑惑によって説くとして、すなわち、諸々の悪習によって説くとして――あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者(疑惑者)である」と、あるいは、「強靱に至った者(頑迷固陋の者)である」と。〔彼の〕それらの行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、彼のことを、すなわち、〔未来の〕境遇によって説くとして――あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。彼のことを、それによって、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「それをもって、〔世の〕凡夫たちが、しかして、沙門や婆羅門たちが、彼のことを〔種々に〕説くとして」。

 [922]「そのことは、彼にとって偏重されることではありません」とは、「彼にとって」とは、阿羅漢にとって、煩悩の滅尽者にとって。「偏重」とは、二つの偏重がある。(1)渇愛の偏重と、(2)見解の偏重とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の偏重である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の偏重である。彼の、渇愛の偏重は〔すでに〕捨棄され、見解の偏重は〔すでに〕放棄され、渇愛の偏重が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の偏重が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛を〔偏重して、行じおこなうことは〕なく、あるいは、見解を偏重して、行じおこなうことはない。渇愛を旗とする者ではなく、渇愛を幟とする者ではなく、渇愛を優位主要とする者ではなく、見解を旗とする者ではなく、見解を幟とする者ではなく、見解を優位主要とする者ではなく、あるいは、渇愛に〔取り囲まれ、行じおこなうことは〕なく、あるいは、見解に取り囲まれ、行じおこなうことはない。ということで、「そのことは、彼にとって偏重されることではありません」。

 [923]「それゆえに、諸々の論にたいし〔いささかも〕動じないのです」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。諸々の論にたいし、諸々の批判にたいし、非難にたいし、難詰にたいし、栄誉なきにたいし、不名誉の伝播にたいし、動かず、動じず、揺れ動かず、動揺せず、強く動揺せず、等しく動揺しない。ということで、「それゆえに、諸々の論にたいし〔いささかも〕動じないのです」。

 [924]それによって、世尊は言った。


 [925]「それをもって、〔世の〕凡夫たちが、しかして、沙門や婆羅門たちが、彼のことを〔種々に〕説くとして、そのことは、彼にとって偏重されることではありません(どうでもいいことである)。それゆえに、諸々の論にたいし〔いささかも〕動じないのです」と。


95.


 [926]867.(860) 貪求〔の思い〕を離れ、物惜しみ〔の思い〕なく、牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。〔概念化した〕時間(時計の時間・分別妄想・輪廻的あり方)なき者は、〔概念化した〕時間に至らないのです(輪廻しない・妄想しない)。(13)


 [927]「貪求〔の思い〕を離れ、物惜しみ〔の思い〕なく」とは、貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この貪求が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、貪求〔の思い〕を離れた者と説かれる。彼は、形態について貪求なき者として……略([29]参照)……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)について、貪求なき者として、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、貪求を離れた者として、貪求を離れ去った者として、貪求を捨て去った者として、貪求を吐き捨てた者として、貪求を解き放った者として、貪求を捨棄した者として、貪求を放棄した者として、無欲の者として……略([191]参照)……梵と成った自己によって、〔世に〕住む。ということで、「貪求〔の思い〕を離れ」。「物惜しみ〔の思い〕なく」とは、「物惜しみ」とは、五つの物惜しみがある。居住の物惜しみ、家の物惜しみ、利得の物惜しみ、名誉の物惜しみ、法(事象)の物惜しみである。すなわち、このような形態の……略([133]参照)……収取である。これが、物惜しみと説かれる。彼の、この物惜しみが、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、物惜しみ〔の思い〕なき者と説かれる。ということで、「貪求〔の思い〕を離れ、物惜しみ〔の思い〕なく」。

 [928]「牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません」とは、「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……執着の網を超え行って、彼は、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。あるいは、「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、〔他者に〕等しい者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」と、説かず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません」。

 [929]「〔概念化した〕時間なき者は、〔概念化した〕時間に至らないのです」とは、「時間」とは、二つの時間がある。(1)渇愛の時間と、(2)見解の時間とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の時間である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の時間である。彼の、渇愛の時間は〔すでに〕捨棄され、見解の時間は〔すでに〕放棄され、渇愛の時間が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の時間が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の時間に、あるいは、見解の時間に、至らず、近づかず、近づき行かず、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「〔概念化した〕時間に至らないのです」。「〔概念化した〕時間なき者は」とは、「時間」とは、二つの時間がある。(1)渇愛の時間と、(2)見解の時間とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の時間である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の時間である。彼の、渇愛の時間は〔すでに〕捨棄され、見解の時間は〔すでに〕放棄され、渇愛の時間が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の時間が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の時間を、あるいは、見解の時間を、営まず、生じさせず、産出させず、発現させず、再出させない。ということで、「〔概念化した〕時間なき者は、〔概念化した〕時間に至らないのです」。

 [930]それによって、世尊は言った。


 [931]「貪求〔の思い〕を離れ、物惜しみ〔の思い〕なく、牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。〔概念化した〕時間(時計の時間・分別妄想・輪廻的あり方)なき者は、〔概念化した〕時間に至らないのです(輪廻しない・妄想しない)」と。


96.


 [932]868.(861) 世において、彼に、自らのもの〔という思い〕が存在しないなら、しかして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまず、さらには、諸々の法(見解)にたいし赴かず、まさに、彼は、「寂静者」と呼ばれます。(14)


 [933]「世において、彼に、自らのもの〔という思い〕が存在しないなら」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「世において、自らのもの〔という思い〕が存在しないなら」とは、彼に、あるいは、「これは、わたしのものである」〔と〕、あるいは、「これは、他者たちのものである」と、何であれ、形態の在り方をしたもの、感受〔作用〕の在り方をしたもの、表象〔作用〕の在り方をしたもの、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたもの、識知〔作用〕の在り方をしたもので、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものが、存在せず、存せず……略([222]参照)……知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「世において、彼に、自らのもの〔という思い〕が存在しないなら」。「しかして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまず」とは、あるいは、変化した事物を憂い悲しまず、あるいは、変化した事物について憂い悲しまない。「わたしの眼が、変化した」と憂い悲しまず、「わたしの耳が……「わたしの鼻が……「わたしの舌が……「わたしの身が……「わたしの意が……「わたしの諸々の形態が……「わたしの諸々の音声が……「わたしの諸々の臭香が……「わたしの諸々の味感が……「わたしの諸々の感触が……「わたしの家が……「わたしの衆徒が……「わたしの居住が……「わたしの利得が……「わたしの名声が……「わたしの賞賛が……「わたしの安楽が……「わたしの衣料が……「わたしの〔行乞の〕施食が……「わたしの臥坐所が……「わたしの病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)が……「わたしの母が……「わたしの父が……「わたしの兄弟が……「わたしの姉妹が……「わたしの子が……「わたしの娘が……「わたしの朋友たちが……「わたしの僚友たちが……「わたしの親族たちが……「わたしの血縁たちが、変化した」と、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、迷妄を惹起しない。ということで、このようにもまた、「しかして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまず」。

 [934]しかして、あるいは、〔実体として〕存在していない苦痛の感受によって、襲われ、打ち負かされ、結集され、〔それを〕具備したとして、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、迷妄を惹起しない。眼の病によって……耳の病によって……略……鼻の病によって……舌の病によって……身の病によって……頭の病によって……耳(外耳)の病によって……口の病によって……歯の病によって……咳によって……喘息によって……感昌によって……発熱によって……老化によって……腹の病によって……気絶によって……下痢によって……腹痛によって……虎列刺(コレラ)によって……癩病によって……腫物によって……疱瘡によって……肺病によって……癲癇によって……肌荒によって……痒疥によって……疥癬によって……掻傷によって……皹(あかぎれ)によって……出血によって……糖尿によって……痔によって……吹出物によって……潰瘍によって……胆汁から等しく現起する病苦によって……痰から等しく現起する病苦によって……風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する病苦によって……〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての病苦によって……季節の変化から生じる病苦によって……平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる病苦によって……突然の病苦によって……行為の報い(業報)から生じる病苦によって……寒さによって……暑さによって……飢えによって……渇きによって……大便によって……小便によって……虻や蚊や風や熱や蛇行するもの(蛇)たちの接触によって、襲われ、打ち負かされ、結集され、〔それを〕具備したとして、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、迷妄を惹起しない。ということで、このようにもまた、「しかして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまず」。

 [935]しかして、あるいは、存していないときに、等しく見い出されていないときに、認知されていないときに、「ああ、まさに、わたしには、それが存在しない」「まさに、わたしには、それが存在するべきだ」「まさに、わたしは、それを得ないであろう」と、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、迷妄を惹起しない。ということで、このようにもまた、「しかして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまず」。「さらには、諸々の法(見解)にたいし赴かず」とは、欲〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚を所以に赴かず、疑惑を所以に赴かず、諸々の悪習を所以に赴かず、しかして、諸々の党派の法(性質)によって、行か〔ず〕、導かれ〔ず〕、運ばれ〔ず〕、集められない。ということで、「さらには、諸々の法(見解)にたいし赴かず」。

 [936]「まさに、彼は、『寂静者』と呼ばれます」とは、彼は、「静まった者」「寂静となった者」「寂止した者」「寂滅した者」「静息した者」と、説かれ、呼ばれ、言説され、発語され、提示され、語用される。ということで、「まさに、彼は、『寂静者』と呼ばれます」。

 [937]それによって、世尊は言った。


 [938]「世において、彼に、自らのもの〔という思い〕が存在しないなら、しかして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまず、さらには、諸々の法(見解)にたいし赴かず、まさに、彼は、『寂静者』と呼ばれます」と。


 [939]〔身体の〕破壊の前にの経についての釈示が、第十となる。



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