小部経典14-1:ニッデーサ

2010.11.7
 
阿羅漢にして 正自覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る


 マハーニッデーサ聖典(大義釈)


1 八なるものの章


1.1 欲望の経についての釈示


1.


 [2]773.(766) 欲望〔の対象〕を欲しているとして、もし、彼の、その〔欲望〕が適うなら、たしかに、喜びの意“おもい”ある者と成る――人は、〔まさに〕その、求めるところのものを得て。(1)


 [3]「欲望〔の対象〕を欲しているとして」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)諸々の事物(事)の欲望と、(2)諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の欲望とである。(1)どのようなものが、諸々の事物の欲望であるのか。諸々の意に適う形態(色)、諸々の意に適う音声(声)、諸々の意に適う臭香“におい”(香)、諸々の意に適う味感“あじわい”(味)、諸々の意に適う感触(所触:感覚)、諸々の敷物、諸々の着物、侍女や奴隷たち、山羊や羊たち、鶏や豚たち、象や牛や馬や騾馬たち、田畑、地所、金貨、黄金、村や町や王都、国土と、地方と、蔵と、貯蔵庫と、それが何であれ、〔欲に〕染まるべき事物は、諸々の事物の欲望である。

 [4]さらに、また、諸々の過去の欲望〔の対象〕、諸々の未来の欲望〔の対象〕、諸々の現在の欲望〔の対象〕、諸々の内なる欲望〔の対象〕、諸々の外なる欲望〔の対象〕、諸々の内なると外なる欲望〔の対象〕、諸々の下劣なる欲望〔の対象〕、諸々の中等なる欲望〔の対象〕、諸々の精妙なる欲望〔の対象〕、諸々の悪所の欲望〔の対象〕、諸々の人間の欲望〔の対象〕、諸々の天上の欲望〔の対象〕、諸々の〔因縁によって〕現起した欲望〔の対象〕(地獄を除く他の悪趣の有情・人間・四大王天・兜率天における欲望の対象)、諸々の化作された欲望〔の対象〕(化楽天における欲望の対象)、諸々の他によって化作された欲望〔の対象〕(他化自在天における欲望の対象)、諸々の遍く収取された欲望〔の対象〕、諸々の遍く収取されたものでない欲望〔の対象〕、諸々のわがものと〔錯視〕された欲望〔の対象〕、諸々のわがものと〔錯視〕されたものでない欲望〔の対象〕があり、一切もろともの欲望の行境(欲界)の諸法(事象)も、一切もろともの形態の行境(心と身体が完全に同調して機能している世界・色界)の諸法(事象)も、一切もろともの形態なき行境(心が身体に依存せず単独で機能している世界・無色界)の諸法(事象)も、諸々の渇愛の基盤(根拠)となり、諸々の渇愛の対象(所縁)となるなら、欲せられるべきものの義(意味)によって、染まるべきものの義(意味)によって、酔うべきものの義(意味)によって、諸々の欲望〔の対象〕となる。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。

 [5](2)どのようなものが、諸々の〔心の〕汚れの欲望であるのか。欲〔の思い〕は、欲望である。貪欲は、欲望である。欲〔の思い〕と貪欲は、欲望である。思惟は、欲望である。貪欲は、欲望である。思惟と貪欲は、欲望である。すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪欲、欲望〔の対象〕にたいする愉悦、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛(軛)、欲望〔の対象〕にたいする執取(取)、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の妨害“さまたげ”(蓋)である。


 [6]〔しかして、詩偈に言う〕「欲望よ、〔わたしは〕おまえの根元を見た。欲望よ、〔おまえは〕思惟から生まれた。〔わたしは〕おまえを思惟しないであろう。欲望よ、このように、〔おまえは〕有ることなくあるであろう(消滅する)」と。


 [7]これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「欲しているとして」とは、欲しているとして、求めているとして、楽しみにしているとして、切望しているとして、熱望しているとして、渇望しているとして。ということで、「欲望〔の対象〕を欲しているとして」。

 [8]「もし、彼の、その〔欲望〕が適うなら」とは、「もし、彼の」とは、彼の――あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、人間であれ。「その〔欲望〕が」とは、諸々の事物の欲望と説かれる(諸々の事物の欲望のことである)。諸々の意に適う形態、諸々の意に適う音声、諸々の意に適う臭香、諸々の意に適う味感、諸々の意に適う感触である。「適う」とは、実現する、適う、得る、獲得する、到達する、見い出す。ということで、「もし、彼の、その〔欲望〕が適うなら」。

 [9]「たしかに、喜びの意ある者と成る」とは、「たしかに」とは、一定の言葉、疑念なき言葉、疑いなき言葉、二様なき言葉、二種なき言葉、必然の言葉、虚構なき言葉、確保する言葉。これが、「たしかに」ということになる。「喜び」とは、すなわち、五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)に関するものとしての、喜悦、歓喜、喜ぶこと、喜び楽しむこと、歓喜すること、笑い、笑喜、歓悦、満足、〔心が〕躍り上がること、わが意を得ること、心が満悦することである。「意」とは、すなわち、心、意(マノー)、意図(マーナサ)、心臓(心)、白きもの(認識の領域)、意(マノー)、意の〔認識の〕場所(意処)、意の機能(意根)、識知〔作用〕(識)、識知〔作用〕の範疇(識蘊)、それから生じる〔心〕、意の識知〔作用〕の界域(意識界)である。これが、意と説かれる。この意が、この喜びと、共具したもの、共に生じたもの、交わり合ったもの、結び付いたもの、一なる生起あるもの、一なる止滅あるもの、一なる基盤あるもの、一なる対象あるものと成る。「喜びの意ある者と成る」とは、喜びの意ある者と成り、満足した意ある者、笑った意ある者、笑喜した意ある者、わが意を得た者、躍り上がった意ある者、歓喜した意ある者、強く歓喜した意ある者と成る。ということで、「たしかに、喜びの意ある者と成る」。

 [10]「人は、〔まさに〕その、求めるところのものを得て」とは、「得て」とは、得て、獲得して、到達して、見い出して。「人(マッチャ)」とは、有情、人(ナラ)、若者(マーナヴァ)、男子(ポーサ)、人物(プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人(ジャントゥ)、インダに赴く者、マヌから生じる者。「〔まさに〕その、求めるところのものを」とは、〔まさに〕その、求めるところのもので、〔まさに〕その、楽しみにするところのもので、〔まさに〕その、切望するところのもので、〔まさに〕その、熱望するところのもので、〔まさに〕その、渇望するところのもので、あるいは、形態を、あるいは、音声を、あるいは、臭香を、あるいは、味感を、あるいは、感触を。ということで、「人は、〔まさに〕その、求めるところのものを得て」。

 [11]それによって、世尊は言った。


 [12]「欲望〔の対象〕を欲しているとして、もし、彼の、その〔欲望〕が適うなら、たしかに、喜びの意ある者と成る――人は、〔まさに〕その、求めるところのものを得て」と。


2.


 [13]774.(767) もし、彼が、〔欲望の対象を〕欲しているとして、人に、欲〔の思い〕が生じたとして、それらの欲望〔の対象〕が衰え滅びるなら、〔彼は〕矢に貫かれた者のように、悩み苦しむ。(2)


 [14]「もし、彼が、〔欲望の対象を〕欲しているとして」とは、「もし、彼が」とは、彼が――あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、人間であれ。「〔欲望の対象を〕欲しているとして」とは、諸々の欲望〔の対象〕を、求めているとして、楽しみにしているとして、切望しているとして、熱望しているとして、渇望しているとして。しかして、あるいは、欲望〔の対象〕にたいする渇愛によって、行き、導かれ、運ばれ、集められる。たとえば、あるいは、象の乗物によって、あるいは、馬の乗物によって、あるいは、牛の乗物によって、あるいは、山羊の乗物によって、あるいは、羊の乗物によって、あるいは、駱駝の乗物によって、あるいは、驢馬の乗物によって、行き、導かれ、運ばれ、集められるように、まさしく、このように、欲望〔の対象〕にたいする渇愛によって、行き、導かれ、運ばれ、集められる。ということで、「もし、彼が、〔欲望の対象を〕欲しているとして」。

 [15]「人に、欲〔の思い〕が生じたとして」とは、「欲〔の思い〕」とは、すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪欲、欲望〔の対象〕にたいする愉悦、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛、欲望〔の対象〕にたいする執取、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の妨害“さまたげ”である。彼に、〔まさに〕その、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、生じたもの、産出したもの、発現したもの、再出したもの、出現したものと成る。「人(ジャントゥ)に」とは、有情に、人(ナラ)に、若者に、男子に、人物に、生ある者に、生に赴く者に、人(ジャントゥ)に、インダに赴く者に、マヌから生じる者に。ということで、「人に、欲〔の思い〕が生じたとして」。

 [16]「それらの欲望〔の対象〕が衰え滅びるなら」とは、(1)あるいは、それらの欲望〔の対象〕が衰え滅びるなら。(2)あるいは、彼が、〔それらの〕欲望〔の対象〕から衰え滅びるなら。(1)どのように、それらの欲望〔の対象〕が衰え滅びるのか。彼が、まさしく、〔世に〕止住しているとして、それらの財物を、あるいは、王たちが運び去り、あるいは、盗賊たちが運び去り、あるいは、火が焼き、あるいは、水が運び、あるいは、愛しからざる相続者たちが運び去り、あるいは、安置しておいたものに到達せず、あるいは、難儀している生業“なりわい”(仕事)が破綻し、あるいは、家に、家の炭たる者(家を滅ぼす者)が生起し、彼が、それらの財物を、離散し、砕破し、砕破させる。第八のものとしては(結局のところは)、無常なることだけとなる。このように、それらの欲望〔の対象〕が、失われ、衰え滅び、滅亡し、崩落し、消没し、破滅する。(2)どのように、彼が、〔それらの〕欲望〔の対象〕から衰え滅びるのか。それらの財物が、まさしく、〔世に〕止住しているとして、彼が、死滅し、死に、破滅する。このように、彼が、〔それらの〕欲望〔の対象〕から、失われ、衰え滅び、滅亡し、崩落し、消没し、破滅する。


 [17]〔しかして、詩偈に言う〕「盗賊たちが、王たちが、運び去る。火が焼き、滅し行く。しかして、終極には、執持〔の対象〕(所有物)と共に、肉体を捨棄する。このことを了知して、思慮ある者は、しかして、〔正しく〕受益し、さらには、布施をするがよい。実力のとおりに、しかして、布施をして、さらには、〔正しく〕受益して、非難されることなき者は、天上の境位へと近づき行く」〔と〕。ということで――


 [18]「それらの欲望〔の対象〕が衰え滅びるなら」。

 [19]「〔彼は〕矢に貫かれた者のように、悩み苦しむ」とは、たとえば、あるいは、鉄製の矢に貫かれた者が、あるいは、骨製の矢に貫かれた者が、あるいは、牙製の矢に貫かれた者が、あるいは、角製の矢に貫かれた者が、あるいは、木製の矢に貫かれた者が、悩み苦しみ、怒り狂い、傷つけられ、責め苛まれ、病者と〔成り〕、失意の者と成るように、まさしく、このように、諸々の事物の欲望には、変化があり他なる状態あることから、〔彼に〕憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が生起する。彼は、しかして、欲望の矢に〔貫かれ〕、さらには、憂いの矢に貫かれ、悩み苦しみ、怒り狂い、傷つけられ、責め苛まれ、病者と〔成り〕、失意の者と成る。ということで、〔彼は〕矢に貫かれた者のように、悩み苦しむ」。

 [20]それによって、世尊は言った。


 [21]「もし、彼が、〔欲望の対象を〕欲しているとして、人に、欲〔の思い〕が生じたとして、それらの欲望〔の対象〕が衰え滅びるなら、〔彼は〕矢に貫かれた者のように、悩み苦しむ」と。


3.


 [22]775.(768) 足で蛇の頭を〔避ける〕ように、彼が、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるなら、彼は、世における、この執着を超克する――〔常に〕気づきある者として。(3)


 [23]「彼が、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるなら」とは、「彼が」とは、彼が、或る者として、相応するままに、関係するままに、流儀のままに、或る境位を得た者として、或る法(性質)を具備した者として――あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、人間であれ。「諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるなら」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)諸々の事物の欲望と、(2)諸々の〔心の〕汚れの欲望とである。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける」とは、二つの契機によって、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。(1)あるいは、鎮静〔の観点〕から。(2)あるいは、断絶〔の観点〕から。(1)どのように、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるのか。「悦楽少なきものの義(意味)によって、骨鎖の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「共通多きものの義(意味)によって、肉片の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「焼き尽くすものの義(意味)によって、草の松明の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「大いなる苦悶の義(意味)によって、火坑の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「暫し現起するものの義(意味)によって、夢の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「暫時のものの義(意味)によって、借り物の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「折れ裂けるものの義(意味)によって、木果の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「断頭の義(意味)によって、屠殺場の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「貫くものの義(意味)によって、刃や槍の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「恐怖を有するものの義(意味)によって、蛇の頭の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「大いなる苦しめるものの義(意味)によって、火の集塊“かたまり”の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。

 [24]覚者(仏:ブッダ)の随念を修行しながらもまた、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。法(法:ダンマ)の随念を修行しながらもまた……略……。僧団(僧:サンガ)の随念を修行しながらもまた……。戒の随念を修行しながらもまた……。棄捨“ほどこし”の随念を修行しながらもまた……。天神たちの随念を修行しながらもまた……。呼吸についての気づき(安般念)を修行しながらもまた……。死についての気づき(死念)を修行しながらもまた……。身体の在り方についての気づき(身至念)を修行しながらもまた……。寂止の随念を修行しながらもまた、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。

 [25]第一の瞑想(初禅・第一禅)を修行しながらもまた、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。第二の瞑想(第二禅)を修行しながらもまた……略……。第三の瞑想(第三禅)を修行しながらもまた……。第四の瞑想(第四禅)を修行しながらもまた……。虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)への入定を修行しながらもまた……。識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定を修行しながらもまた……。無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定を修行しながらもまた……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)への入定を修行しながらもまた、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。このように、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。

 [26](2)どのように、断絶〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるのか。預流道を修行しながらもまた、悪所に赴くべき諸々の欲望〔の対象〕を、断絶〔の観点〕から遍く避ける。一来道を修行しながらもまた、粗大なる諸々の欲望〔の対象〕を、断絶〔の観点〕から遍く避ける。不還道を修行しながらもまた、微細なるものを共具した諸々の欲望〔の対象〕を、断絶〔の観点〕から遍く避ける。阿羅漢道を修行しながらもまた、一切をもって一切を、一切の点において一切を、残りなく残余なく、断絶〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。このように、断絶〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。ということで、「彼が、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるなら」。

 [27]「足で蛇の頭を〔避ける〕ように」とは、蛇(サッパ)は、蛇(アヒ)と説かれる。どのような義(意味)によって、蛇(サッパ)となるのか。這い回りながら(サンサッパント)行く、ということで、「蛇(サッパ)」。曲がりながら(ブジャント)行く(ガッチャティ)、ということで、「蛇(ブジャガ)」。胸(ウラ)で行く(ガッチャティ)、ということで、「蛇(ウラガ)」。降ろした(パンナ)頭で行く(ガッチャティ)、ということで、「蛇(パンナガ)」。頭(シラ)で眠る(スパティ)、ということで、「蛇(サリーサパ)」。穴(ビラ)に臥す(サヤティ)、ということで、「蛇(ビラーサヤ)」。洞窟(グハー)に臥す(サヤティ)、ということで、「蛇(グハーサヤ)」。彼の牙(ダーター)は武器(アーヴダ)となる、ということで、「蛇(ダーターヴダ)」。彼の毒(ヴィサ)はおぞましい(ゴーラ)、ということで、「蛇(ゴーラヴィサ)」。彼の舌(ジヴハー)は二様(ドゥヴィダー)である、ということで、「蛇(ドゥヴィジヴハ)」。二つ(ドゥヴィ)の舌で味(ラサ)を味わう、ということで、「蛇(ドゥヴィラサンニュー)」。たとえば、人が、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌い、足で蛇の頭を、避けるべきであり、退避するべきであり、遍く避けるべきであり、回避するべきであるように、まさしく、このように、安楽を欲し、苦痛を嫌う者は、諸々の欲望〔の対象〕を、避けるべきであり、退避するべきであり、遍く避けるべきであり、回避するべきである。ということで、足で蛇の頭を〔避ける〕ように」。

 [28]「彼は、世における、この執着を超克する――〔常に〕気づきある者として」とは、「彼は」とは、〔まさに〕その、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける者は。執着は、渇愛と説かれる(渇愛のことである)。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染、随貪、共感、愉悦、愉悦への貪欲、心の貪染、欲求、耽溺、固執、貪求、遍き貪求、執着(サンガ)、汚泥、動揺、幻想、生じさせるもの(輪廻を生むもの)、産出させるもの(苦を生むもの)、貪愛(縫うもの)、網、流れ、執着(ヴィサッティカー)、糸、執着(ヴィサター)、実行するもの(業を作るもの)、伴侶、切願、〔迷いの〕生存に導くもの、〔欲の〕林、〔欲の〕林叢“したばえ”、親愛、愛執、期待、結縛、願望、願望すること、願望あること、形態への願望、音声への願望、臭香“におい”への願望、味感“あじわい”への願望、感触への願望、利得への願望、財産への願望、子供への願望、生命への願望、渇望、強き渇望、固き渇望、渇望すること、渇望あること、動貪、動貪すること、動貪あること、問尋あること、善を欲すること、法(正義)ならざるものへの貪欲(ラーガ)、不正への貪欲(ローバ)、欲念、欲念すること、切望、羨望、等しき切望、欲望〔の対象〕への渇愛(欲愛)、生存への渇愛(有愛)、非生存への渇愛(非有愛)、形態〔の行境〕(色界)への渇愛、形態なき〔行境〕(無色界)への渇愛、止滅〔の入定〕(滅尽定)への渇愛、形態への渇愛、音声への渇愛、臭香への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛、激流、束縛、拘束、執取(取)、妨げ、妨害(蓋)、覆うもの、結縛するもの、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)、悪習(随眠)、妄執(纏)、蔓、物欲、苦の根元、苦の因縁、苦の起源、悪魔の罠、悪魔の釣針、悪魔の境域、渇愛の川、渇愛の網、渇愛の革紐、渇愛の海、強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。

 [29]「執着(ヴィサッティカー)」とは、どのような義(意味)によって、執着となるのか。執着したもの(ヴィサタ)、ということで、「執着」。広きもの(ヴィサーラ)、ということで、「執着」。拡散したもの(ヴィサタ)、ということで、「執着」。不正なるもの(ヴィサマ)、ということで、「執着」。冒険する(ヴィサッカティ)、ということで、「執着」。収集する(ヴィサンハラティ)、ということで、「執着」。言葉を違える者(ヴィサンヴァーディカ)、ということで、「執着」。毒根(ヴィサムーラ)、ということで、「執着」。毒果(ヴィサパラ)、ということで、「執着」。毒の受益(ヴィサパリボーガ)、ということで、「執着」。あるいは、また、その渇愛は、広きもの(ヴィサーラ)にして、形態にたいし、音声にたいし、臭香にたいし、味感にたいし、感触にたいし、家にたいし、衆徒にたいし、居住にたいし、利得にたいし、名声にたいし、賞賛にたいし、安楽にたいし、衣料にたいし、〔行乞の〕施食にたいし、臥坐所にたいし、病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)にたいし、欲望の界域(欲界)にたいし、形態の界域(色界)にたいし、形態なき界域(無色界)にたいし、欲望の生存(欲有)にたいし、形態の生存(色有)にたいし、形態なき生存(無色有)にたいし、表象の生存(想有)にたいし、表象なき生存(無想有)にたいし、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)にたいし、一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)にたいし、四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)にたいし、五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)にたいし、過去にたいし、未来にたいし、現在にたいし、諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、拡散したもの(ヴィサタ)となり、拡張したもの(ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。

 [30]「世における」とは、悪所の世における、人間の世における、天の世における、〔五つの〕範疇(蘊)の世における、〔十八の〕界域(界)の世における、〔十二の認識の〕場所(処)の世における。「〔常に〕気づきある者」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立(身念住・身念処)を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における感受の随観という気づきの確立(受念住・受念処)を修行している者は、気づきある者となり、心における心の随観という気づきの確立(心念住・心念処)を修行している者は、気づきある者となり、諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立(法念住・法念処)を修行している者は、気づきある者となる。

 [31]他の四つの契機によってもまた、気づきある者となる。気づきなきを遍く避けることから、気づきある者となり、気づきが為されるべき諸々の法(事象)が為されたことから、気づきある者となり、気づきを遍く結縛する諸々の法(事象)が打破されたことから、気づきある者となり、気づきの形相となる諸々の法(事象)が忘却なきことから、気づきある者となる。

 [32]他の四つの契機によってもまた、気づきある者となる。気づきを具備したことから、気づきある者となり、気づきによって住したことから、気づきある者となり、気づきによって熟練なることから、気づきある者となり、気づきによって低下なきことから、気づきある者となる。

 [33]他の四つの契機によってもまた、気づきある者となる。気づきを具備したことから、気づきある者となり、静まったことから、気づきある者となり、静められたことから、気づきある者となり、寂静の法(性質)を具備したことから、気づきある者となる。覚者の随念によって、気づきある者となり、法(教え)の随念によって、気づきある者となり、僧団の随念によって、気づきある者となり、戒の随念によって、気づきある者となり、棄捨の随念によって、気づきある者となり、天神たちの随念によって、気づきある者となり、呼吸についての気づきによって、気づきある者となり、死についての気づきによって、気づきある者となり、身体の在り方についての気づきによって、気づきある者となり、寂止の随念によって、気づきある者となる。すなわち、気づき、随念、現念、気づき、思念すること、保持すること、列挙すること、忘却なきこと、気づき、気づきの機能(念根)、気づきの力(念力)、正しい気づき(正念)、気づきという正覚の支分(念覚支)、一道の道である。これが、気づき(念)と説かれる。この気づきを、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者は、彼は、気づきある者と説かれる。

 [34]「彼は、世における、この執着を超克する――〔常に〕気づきある者として」とは、あるいは、世における、その執着があり、あるいは、世における、その執着を、〔常に〕気づきある者は、超え、超え上がり、超え渡り、等しく超越し、超克する。ということで、「彼は、世における、この執着を超克する――〔常に〕気づきある者として」。

 [35]それによって、世尊は言った。


 [36]「足で蛇の頭を〔避ける〕ように、彼が、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるなら、彼は、世における、この執着を超克する――〔常に〕気づきある者として」と。


4.


 [37]776.(769) 田畑、地所、黄金、あるいは、牛や馬、奴隷や下僕、婦女たち、眷属たちを、多々なる欲望〔の対象〕を、その人が貪り求めるなら――(4)


 [38]「田畑、地所、黄金、あるいは」とは、「田畑」とは、米の田畑、稲の田畑、小豆の田畑、豆の田畑、麦の田畑、小麦の田畑、胡麻の田畑。「地所」とは、家屋の地所、貯蔵庫の地所、前〔庭〕の地所、後〔庭〕の地所、聖園の地所、精舎の地所。「黄金」とは、黄金は、貨幣(金貨)と説かれる。ということで、「田畑、地所、黄金、あるいは」。

 [39]「牛や馬、奴隷や下僕」とは、「牛」とは、牛たちと説かれる。「馬」とは、家畜等々と説かれる。「奴隷」とは、四者の奴隷がいる。内なる生まれの奴隷、財によって買われた奴隷、あるいは、自ら奴隷たることへと近づき行く者(自発的に奴隷となる者)、あるいは、欲することなく奴隷の境域へと近づき行く者(非自発的に奴隷となる者)である。


 [40]〔しかして、詩偈に言う〕「まさに、或る者たちは、生っ粋の者としてもまた、奴隷たちと成り、財によって買われた者としてもまた、奴隷たちと成り、さらには、或る者たちは、自ら奴隷たることへと近づき行き、恐怖に駆られた者としてもまた、奴隷たちと成る」と。


 [41]「下僕」とは、三者の奴隷がいる。雇われ者、労夫、〔他者に〕依拠して生きる者である。ということで、「牛や馬、奴隷や下僕」。

 [42]「婦女たち、眷属たちを、多々なる欲望〔の対象〕を」とは、「婦女たち」とは、婦女を遍く収め取るものと説かれる。「眷属たちを」とは、四者の眷属がいる。親族の眷属もまた、眷属である。氏姓の眷属もまた、眷属である。呪文の眷属もまた、眷属である。技能の眷属もまた、眷属である。「多々なる欲望〔の対象〕を」とは、多くの欲望〔の対象〕を。これらの多々なる欲望〔の対象〕として、諸々の意に適う形態……略……諸々の意に適う感触がある。ということで、「婦女たち、眷属たちを、多々なる欲望〔の対象〕を」。

 [43]「その人が貪り求めるなら」とは、「その」とは、彼が、或る者として、相応するままに、関係するままに、流儀のままに、或る境位を得た者として、或る法(性質)を具備した者として――あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、人間であれ。「人(ナラ)が」とは、有情が、人(ナラ)が、若者(マーナヴァ)が、男子(ポーサ)が、人物(プッガラ)が、生ある者が、生に赴く者が、人(ジャントゥ)が、インダに赴く者が、マヌから生じる者が。「貪り求める」とは、〔心の〕汚れの欲望によって、諸々の事物の欲望にたいし、貪り求め、貪求し、遍く貪求し、遍く結縛される。ということで、「その人が貪り求めるなら」。

 [44]それによって、世尊は言った。


 [45]「田畑、地所、黄金、あるいは、牛や馬、奴隷や下僕、婦女たち、眷属たちを、多々なる欲望〔の対象〕を、その人が貪り求めるなら」と。


5.


 [46]777.(770) 彼を、諸々の力なきものが押しつぶす。彼を、諸々の危難が踏みにじる。そののち、彼に、苦しみが従い行く――壊れた舟に、水が〔浸み入る〕ように。(5)


 [47]「彼を、諸々の力なきものが押しつぶす」とは、「諸々の力なきものが」とは、力なく、力弱く、力少なく、強さ少なく、下劣であり、劣悪であり、下等であり、悪辣であり、劣小であり、微小である、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)が――それらの〔心の〕汚れが、その人を、打ち負かし、遍く打ち負かし、征服し、蹂躙し、遍く奪い去り、踏みにじる。ということで、このようにもまた、「彼を、諸々の力なきものが押しつぶす」。しかして、あるいは、力なく、力弱く、力少なく、強さ少なく、下劣であり、劣悪であり、下等であり、悪辣であり、劣小であり、微小である、〔その〕人を――その〔人〕に、信の力(信力)と精進の力(精進力)と気づきの力(念力)と〔心の〕統一の力(定力)と知慧の力(慧力)と恥〔の思い〕の力(慚力)と〔良心の〕咎め(愧力)の力が存在しないなら――それらの〔心の〕汚れが、その人を、打ち負かし、遍く打ち負かし、征服し、蹂躙し、遍く奪い去り、踏みにじる。ということで、このようにもまた、「彼を、諸々の力なきものが押しつぶす」ということになる。

 [48]「彼を、諸々の危難が踏みにじる」とは、二つの諸々の危難がある。(1)諸々の明白なる危難と、(2)諸々の隠蔽された危難とである。(1)どのようなものが、諸々の明白なる危難であるのか。獅子たち、虎たち、豹たち、熊たち、鬣狗(ハイエナ)たち、狼たち、水牛たち、象たち、蛇たち、蝎“さそり”たち、百足“むかで”たち、あるいは、盗賊たちが、あるいは、〔凶悪なる〕人間たちが――あるいは、〔すでに〕行為を為した者(既遂の者)たちとして、あるいは、〔いまだ〕行為を為していない者(未遂の者)たちとして――存するべきであり、眼の病、耳の病、鼻の病、舌の病、身の病、頭の病、耳(外耳)の病、口の病、歯の病、咳、喘息、感昌、発熱、老化、腹の病、気絶、下痢、腹痛、虎列刺(コレラ)、癩病、腫物、疱瘡、肺病、癲癇、肌荒、痒疥、疥癬、掻傷、皹(あかぎれ)、出血、糖尿、痔、吹出物、潰瘍、胆汁から等しく現起する病苦、痰から等しく現起する病苦、風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する病苦、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての病苦、季節の変化から生じる病苦、平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる病苦、突然の病苦、行為の報い(業報)から生じる病苦、寒さ、暑さ、飢え、渇き、大便、小便、虻や蚊や風や熱や蛇行するもの(蛇)たちの接触、あるいは、かくのごときものである。これらが、諸々の明白なる危難と説かれる。

 [49](2)どのようなものが、諸々の隠蔽された危難であるのか。身体による悪しき行ない、言葉による悪しき行ない、意による悪しき行ない、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害“さまたげ”(蓋)、加害〔の思い〕という〔修行の〕妨害、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害、疑惑〔の思い〕という〔修行の〕妨害、貪欲(貪)、憤怒(瞋)、迷妄(痴)、忿怒(忿)、怨恨(恨)、偽装(覆)、加虐(悩)、嫉妬(嫉)、物惜(慳)、幻想(諂)、狡猾(誑)、強情(傲)、激昂(怒)、思量(慢)、高慢(過慢)、驕慢(驕)、放逸、一切の〔心の〕汚れ、一切の悪しき行ない、一切の懊悩、一切の苦悶、一切の熱苦、一切の善ならざる行作(現行)である。これらが、諸々の隠蔽された危難と説かれる。

 [50]「諸々の危難(パリッサヤ)」とは、どのような義(意味)によって、諸々の危難となるのか。(1)遍く打ち負かす(パリサハティ)、ということで、「諸々の危難」。(2)遍き衰退(パリハーヤ)のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」。(3)そこに依拠するもの(アーサヤ)、ということで、「諸々の危難」。(1)どのように、遍く打ち負かす、ということで、「諸々の危難」となるのか。それらの危難は、その人を、打ち負かし、遍く打ち負かし、征服し、蹂躙し、遍く奪い去り、踏みにじる。このように、遍く打ち負かす、ということで、「諸々の危難」。(2)どのように、遍き衰退のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」となるのか。それらの危難は、諸々の善なる法(性質)の、障りのために、遍き衰退のために、等しく転起する。どのような諸々の善なる法(性質)の、であるのか。正しい〔実践の〕道の、〔真理に〕随順する〔実践の〕道の、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道の、遮るものなき〔実践の〕道の、義(道理)のままなる〔実践の〕道の、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道の、諸戒における円満成就を作り為すことの、諸々の〔感官の〕機能(根)において門が守られていることの、食について量を知ることの、〔眠らずに〕起きていることへの専念の、気づきと正知の、四つの気づきの確立(四念住・四念処:身体と感受と心と法についての気づき)の修行への専念の、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)の修行への専念の、四つの神通の足場(四神足:意欲・心・精進・考察)の修行への専念の、五つの機能(五根:信・精進・気づき・心の統一・知慧)の修行への専念の、五つの力(五力:信・精進・気づき・心の統一・知慧)の修行への専念の、七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・安息・心の統一・放捨)の修行への専念の、聖なる八つの支分ある道(八正道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の修行への専念の。これらの善なる法(性質)の、障りのために、遍き衰退のために、等しく転起する。このように、遍き衰退のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」。

 [51](3)どのように、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」となるのか。そこにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)が生起し、自己状態(個我的あり方)の依拠とする。たとえば、穴には穴に依拠する生き物たちが臥し、水には水に依拠する生き物たちが臥し、林には林に依拠する生き物たちが臥し、木には木に依拠する生き物たちが臥すように、まさしく、このように、そこにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)が生起し、自己状態の依拠とする。このように、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 [52]まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 [53]〔すなわち〕「比丘たちよ、内弟子(煩悩)と共にある比丘は、師匠(煩悩)と共にある〔比丘〕は、平穏ならず、苦痛のうちに、〔世に〕住みます。比丘たちよ、では、どのように、内弟子(煩悩)と共にある比丘は、師匠(煩悩)と共にある〔比丘〕は、平穏ならず、苦痛のうちに、〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、眼によって、形態を見て〔そののち〕、それらの悪しき善ならざる法(性質)が、諸々の束縛されるべき思念と思惟として生起するなら、それらの悪しき善ならざる法(性質)は、彼の内に、住し、流れ込みます(アンヴァーサヴァティ)。ということで、それゆえに、『内弟子(アンテーヴァーシカ)と共にある』と説かれます。それらは、彼に、慣行となります。〔すなわち〕諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に、慣行となります(サムダーチャラティ)。ということで、それゆえに、『師匠(アーチャリヤ)と共にある』と説かれます。

 [54]比丘たちよ、さらには、また、他に、比丘に、耳によって、音声を聞いて〔そののち〕……略……鼻によって、臭香“におい”を嗅いで〔そののち〕……舌によって、味感“あじわい”を味わって〔そののち〕……身によって、感触と接触して〔そののち〕……意によって、法(意の対象)を識知して〔そののち〕、それらの悪しき善ならざる法(性質)が、諸々の束縛されるべき思念と思惟として生起するなら、それらの悪しき善ならざる法(性質)は、彼の内に、住し、流れ込みます。ということで、それゆえに、『内弟子と共にある』と説かれます。それらは、彼に、慣行となります。〔すなわち〕諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に、慣行となります。ということで、それゆえに、『師匠と共にある』と説かれます。比丘たちよ、まさに、このように、内弟子と共にある比丘は、師匠と共にある〔比丘〕は、平穏ならず、苦痛のうちに、〔世に〕住みます」と。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 [55]まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 [56]〔すなわち〕「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、内なる垢にして、内なる朋友ならざるものにして、内なる敵にして、内なる殺戮者にして、内なる義(利益)に反するものです。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、貪欲(貪)は、内なる垢にして、内なる朋友ならざるものにして、内なる敵にして、内なる殺戮者にして、内なる義(利益)に反するものです。憤怒(瞋)は、内なる垢にして、内なる朋友ならざるものにして、内なる敵にして、内なる殺戮者にして、内なる義(利益)に反するものです。迷妄(痴)は、内なる垢にして、内なる朋友ならざるものにして、内なる敵にして、内なる殺戮者にして、内なる義(利益)に反するものです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、内なる垢にして、内なる朋友ならざるものにして、内なる敵にして、内なる殺戮者にして、内なる義(利益)に反するものがあります。


 [57]〔しかして、詩偈に言う〕『義(道理)ならざるものを生むもの――〔それが〕貪欲である。〔人の〕心を乱すもの――〔それが〕貪欲である。〔心の〕内から生じた、その恐怖を、人は覚らない。

 [58]貪る者は、義(道理)を知らない。貪る者は、法(真理)を見ない。その人を、貪欲が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 [59]義(道理)ならざるものを生むもの――〔それが〕憤怒である。〔人の〕心を乱すもの――〔それが〕憤怒である。〔心の〕内から生じた、その恐怖を、人は覚らない。

 [60]怒る者は、義(道理)を知らない。怒る者は、法(真理)を見ない。その人を、憤怒が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 [61]義(道理)ならざるものを生むもの――〔それが〕迷妄である。〔人の〕心を乱すもの――〔それが〕迷妄である。〔心の〕内から生じた、その恐怖を、人は覚らない。

 [62]迷う者は、義(道理)を知らない。迷う者は、法(真理)を見ない。その人を、迷妄が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る』」と。


 [63]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 [64]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「大王よ、三つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)が、人の、益ならざるもののために、苦のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ、生起します。どのようなものが、三つのものなのですか。大王よ、まさに、貪欲が、人の、益ならざるもののために、苦のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ、生起します。大王よ、まさに、憤怒が……略……。大王よ、まさに、迷妄が、人の、益ならざるもののために、苦のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ、生起します。大王よ、まさに、これらの三つの法(性質)が、人の、益ならざるもののために、苦のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ、生起します。


 [65]〔しかして、詩偈に言う〕『貪欲、しかして、憤怒、さらには、迷妄――自己から発生した諸々のものが、悪しき心の人を損なう――果を有する竹が、〔自らを滅ぼす〕ように』」と。


 [66]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 [67]さらには、このこともまた、世尊によって説かれた。


 [68]〔しかして、詩偈に言う〕「貪欲と、憤怒とは、因縁として〔まさに〕ここから〔発生したものとしてある〕(それ自身を縁として生起した)。不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕は、身の毛のよだつことは、〔まさに〕ここから生じるものとしてある(それ自身から生じる)。諸々の思考は、〔まさに〕ここから現起して、〔善き〕意を〔投げ捨てる〕――少年たちが、〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように」と。


 [69]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。「彼を、諸々の危難が押しつぶす」とは、それらの危難が、その人を、打ち負かし、遍く打ち負かし、征服し、蹂躙し、遍く奪い去り、踏みにじる。ということで、「彼を、諸々の危難が押しつぶす」。

 [70]「そののち、彼に、苦しみが従い行く」とは、「そののち」とは、それぞれの危難ののち、その人に、苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成り、生の苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成り、老の苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成り、病の苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成り、死の苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成り、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成り、地獄の苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成り、畜生の胎の苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成り、餓鬼の境域の苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成り、人間の苦しみが……入胎を根元とする苦しみが……胎における止住を根元とする苦しみが……胎からの出起を根元とする苦しみが……生まれた者に連結する苦しみが……生まれた者が他者の配下となる苦しみが……自己の行動(自害)としての苦しみが……他者の行動(他害)としての苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成り、苦痛としての苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成り、形成の苦しみが……変化の苦しみが……眼の病が……耳の病が……鼻の病が……舌の病が……身の病が……頭の病が……耳(外耳)の病が……口の病が……歯の病が……咳が……喘息が……感昌が……発熱が……老化が……腹の病が……気絶が……下痢が……腹痛が……虎列刺(コレラ)が……癩病が……腫物が……疱瘡が……肺病が……癲癇が……肌荒が……痒疥が……疥癬が……掻傷が……皹(あかぎれ)が……出血が……糖尿が……痔が……吹出物が……潰瘍が……胆汁から等しく現起する病苦が……痰から等しく現起する病苦が……風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する病苦が……〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての病苦が……季節の変化から生じる病苦が……平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる病苦が……突然の病苦が……行為の報い(業報)から生じる病苦が……寒さが……暑さが……飢えが……渇きが……大便が……小便が……虻や蚊や風や熱や蛇行するもの(蛇)たちの接触の苦しみが……母の死の苦しみが……父の死の苦しみが……兄弟の死の苦しみが……姉妹の死の苦しみが……子の死の苦しみが……娘の死の苦しみが……親族の災厄の苦しみが……財物の災厄の苦しみが……病の災厄の苦しみが……戒の災厄の苦しみが……見解の災厄の苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成る。ということで、「そののち、彼に、苦しみが従い行く」。

 [71]「壊れた舟に、水が〔浸み入る〕ように」とは、たとえば、壊れた舟に、水を行きつつ、そこかしこから、水が、従い、従い行き、随従のものと成り、前からもまた、水が、従い、従い行き、随従のものと成り、後からもまた……下からもまた……脇からもまた、水が、従い、従い行き、随従のものと成るように、まさしく、このように、それぞれの危難ののち、その人に、苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成り、生の苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成り……略([70]参照)……見解の災厄の苦しみが、従い、従い行き、随従のものと成る。ということで、「壊れた舟に、水が〔浸み入る〕ように」。

 [72]それによって、世尊は言った。


 [73]「彼を、諸々の力なきものが押しつぶす。彼を、諸々の危難が踏みにじる。そののち、彼に、苦しみが従い行く――壊れた舟に、水が〔浸み入る〕ように」と。


6.


 [74]778.(771) それゆえに、人は、常に気づきある者となり、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるがよい。それら(欲望の対象)を捨棄して、〔貪欲の〕激流を超え渡るがよい。〔人は〕舟〔に浸み入る水〕を汲み出してこそ、彼岸に至る者となる。(6)


 [75]「それゆえに、人は、常に気づきある者となり」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。諸々の欲望〔の対象〕について、この危険を等しく見ながら。ということで、「それゆえに」。「人(ジャントゥ)」とは、有情、人(ナラ)、若者(マーナヴァ)、男子(ポーサ)、人物(プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人(ジャントゥ)、インダに赴く者、マヌから生じる者。「常に」とは、常に、一切時において、一切時に、常住時に、常久時に、常恒に、連続して、途切れなく、矢つぎばやに、水波が生じたように、間隔なく、相続して、相伴い、接触し、食前に、食後に、初更(宵の内)に、中更(真夜中)に、後更(明け方)に、黒〔分〕(月が欠ける期間)に、白〔分〕(月が満ちる期間)に、雨期に、冬に、夏に、初年期(青年期)に、中年期に、後年期(老年期)に。「気づきある」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における……心における……諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となる。他の四つの契機によってもまた、気づきある者となる。……略([31-33]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。ということで、「それゆえに、人は、常に気づきある者となり」。

 [76]「諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるがよい」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)諸々の事物の欲望と、(2)諸々の〔心の〕汚れの欲望とである。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるがよい」とは、二つの契機によって、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。(1)あるいは、鎮静〔の観点〕から。(2)あるいは、断絶〔の観点〕から。(1)どのように、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきであるのか。「悦楽少なきものの義(意味)によって、骨鎖の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。「共通多きものの義(意味)によって、肉片の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。「焼き尽くすものの義(意味)によって、草の松明の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。……略([23-25]参照)……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を修行しながらもまた、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。このように、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。(2)……略([26]参照)……。このように、断絶〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるがよい」。

 [77]「それら(欲望の対象)を捨棄して、〔貪欲の〕激流を超え渡るがよい」とは、「それらを」とは、諸々の事物の欲望を遍知して、諸々の〔心の〕汚れの欲望を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らしめて、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らしめて、加害〔の思い〕という〔修行の〕妨害を……略……〔心の〕沈滞と眠気という〔修行の〕妨害を……〔心の〕高揚と悔恨という〔修行の〕妨害を……疑惑〔の思い〕という〔修行の〕妨害を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らしめて、欲望の激流を、生存の激流を、見解の激流を、無明の激流を、超えるべきであり、超え上がるべきであり、超え渡るべきであり、等しく超越するべきであり、超克するべきである。ということで、「それら(欲望の対象)を捨棄して、〔貪欲の〕激流を超え渡るがよい」。

 [78]「〔人は〕舟〔に浸み入る水〕を汲み出してこそ、彼岸に至る者となる」とは、たとえば、重き舟の重荷となる水を、舟が軽くなるために、汲み出して、汲み捨てて、捨て放って、すみやかに、軽やかに、まさしく、難少なくして、彼岸に至るべきであるように、まさしく、このように、諸々の事物の欲望を遍知して、諸々の〔心の〕汚れの欲望を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らしめて、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害を……加害〔の思い〕という〔修行の〕妨害を……〔心の〕沈滞と眠気という〔修行の〕妨害を……〔心の〕高揚と悔恨という〔修行の〕妨害を……疑惑〔の思い〕という〔修行の〕妨害を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らしめて、すみやかに、軽やかに、まさしく、難少なくして、彼岸に至るべきである。彼岸は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の寂止、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「彼岸に至るべきである」とは、彼岸に到達するべきであり、彼岸を体得するべきであり、彼岸を実証するべきである。「彼岸に至る者」とは、彼が、また、彼岸に至ることを欲する者であるなら、彼もまた、彼岸に至る者であり、彼が、また、彼岸に至るなら、彼もまた、彼岸に至る者であり、彼が、また、彼岸に至った者であるなら、彼もまた、彼岸に至る者である。

 [79]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。

 [80]〔すなわち〕「比丘たちよ、『超え渡った者』『彼岸に至った者』『陸に立つ婆羅門』とは、まさに、これは、阿羅漢の同義語です。彼は、証知によって彼岸に至る者、遍知によって彼岸に至る者、捨棄によって彼岸に至る者、修行によって彼岸に至る者、実証によって彼岸に至る者、入定(等至)によって彼岸に至る者です。一切の諸法(性質)の証知によって彼岸に至る者、一切の苦痛の遍知によって彼岸に至る者、一切の〔心の〕汚れの捨棄によって彼岸に至る者、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)の修行によって彼岸に至る者、止滅〔の境地〕(涅槃)の実証によって彼岸に至る者、一切の入定〔の境地〕への入定によって彼岸に至る者です。彼は、聖なる戒において、自在を得た者、奥義を得た者、聖なる〔心の〕統一において、自在を得た者、奥義を得た者、聖なる知慧において、自在を得た者、奥義を得た者、聖なる解脱において、自在を得た者、奥義を得た者です。彼は、彼岸に至った者、彼岸を得た者、終極に至った者、終極を得た者、突端に至った者、突端を得た者、最終極に至った者、最終極を得た者、完成に至った者、完成を得た者、救護所に至った者、救護所を得た者、避難所に至った者、避難所を得た者、帰依所に至った者、帰依所を得た者、恐怖なきに至った者、恐怖なきを得た者、死滅なきに至った者、死滅なきを得た者、不死に至った者、不死を得た者、涅槃に至った者、涅槃を得た者です。彼は、住むことを住んだ者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者、〔輪廻の〕旅程を去った者、〔涅槃の〕方角に至った者、突端に至った者、梵行を守った者、最上の見解を得た者、道を修行した者、〔心の〕汚れを捨棄した者、不動〔の境地〕(阿羅漢果)を理解した者、止滅〔の境地〕(涅槃)を実証した者です。彼にとって、苦痛は遍知され、集起は捨棄され、道は修行され、止滅は実証され、証知されるべきものは証知され、遍知されるべきものは遍知され、捨棄されるべきものは捨棄され、修行されるべきものは修行され、実証されるべきものは実証されました。

 [81]彼は、障礙を引き抜いた者、塹壕を埋めた者(輪廻を脱した者)、〔矢の〕引き抜きを求める者、閂(五下分結)なき者、聖なる者、〔高慢の〕旗を降ろした者、〔生の〕重荷を降ろした者、束縛を離れた者、五つの支分(五蓋)を捨棄した者、六つの支分(色・声・香・味・触・法における放捨)を具備した者、一つ〔の気づき〕を守護する者、四つの依託(知慧によって受用し回避し除去し捨棄すること)ある者、各自の真理(偏見)を除き去った者、求むことを等しく完全に捨てた者、混濁なき思惟ある者、安息なる身体の形成〔作用〕(身行)ある者、善く解脱した心ある者、善く解脱した知慧ある者、〔独存の〕全一者、〔梵行の〕完成者、最上の人士、最高の人士、最高の得るべきものを得た者です。彼は、まさしく、〔善悪の報いを〕蓄積することもなければ、摘出することもなく、〔すでに〕摘出して〔世に〕止住している者、まさしく、〔煩悩を〕捨棄することもなければ、執取することもなく、〔すでに〕捨棄して〔世に〕止住している者、まさしく、〔世俗を〕離れることもなければ、近づくこともなく、〔すでに〕離れて〔世に〕止住している者、まさしく、〔世俗を〕離煙することもなければ、喫煙することもなく、〔すでに〕離煙して〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき(無学)戒の範疇(戒蘊)を具備したことから〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき〔心の〕統一の範疇(定蘊)を具備したことから〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき知慧の範疇(慧蘊)を具備したことから〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき解脱の範疇を具備したことから〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき解脱の知見の範疇を具備したことから〔世に〕止住している者、真理(諦)を等しく実践して〔世に〕止住している者、動揺〔の思い〕を等しく超越して〔世に〕止住している者、〔心の〕汚れの火を完全に取り払って〔世に〕止住している者、〔輪廻に〕遍く赴かざることから〔世に〕止住している者、善きこと(幸運)を受持して〔世に〕止住している者、解き放ちを受用することから〔世に〕止住している者、慈愛(慈)という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している者、慈悲(悲)という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している者、歓喜(歓)という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している者、放捨(捨:客観的認識)という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している者、究極にして完全なる清浄によって〔世に〕止住している者、それに関わることなき〔あり方〕(渇愛なきあり方)という完全なる清浄によって〔世に〕止住している者、解脱したことから〔世に〕止住している者、満ち足りていることから〔世に〕止住している者、範疇(蘊)の最終極において〔世に〕止住している者、界域(界)の最終極において〔世に〕止住している者、〔認識の〕場所(処)の最終極において〔世に〕止住している者、境遇(趣)の最終極において〔世に〕止住している者、再生の最終極において〔世に〕止住している者、結生の最終極において〔世に〕止住している者、生存(有)の最終極において〔世に〕止住している者、輪廻の最終極において〔世に〕止住している者、転起の最終極において〔世に〕止住している者、最後の生存の最終極において〔世に〕止住している者、最後の積身“からだ”において〔世に〕止住している者、最後の肉身“からだ”を保つ阿羅漢です。


 [82]〔しかして、詩偈に言う〕『彼にとって、これは、最後の生存である。これは、最後の積身である。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない』」〔と〕。ということで――


 [83]「〔人は〕舟〔に浸み入る水〕を汲み出してこそ、彼岸に至る者となる」。それによって、世尊は言った。


 [84]「それゆえに、人は、常に気づきある者となり、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるがよい。それら(欲望の対象)を捨棄して、〔貪欲の〕激流を超え渡るがよい。〔人は〕舟〔に浸み入る水〕を汲み出してこそ、彼岸に至る者となる」と。


 [85]欲望の経についての釈示が、第一となる。


1.2 洞窟についての八なるものの経についての釈示


 [86]しかして、洞窟についての八なるものの経についての釈示を説くであろう。


7.


 [87]779.(772) 〔煩悩の〕洞窟(身体)に執着し、多く〔の迷妄〕に覆われた者――迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈み、止住している人――まさに、そのような種類の者である彼は、遠離〔の境地〕から遠くにある。なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨棄し易きものではないからである。(1)


 [88]「〔煩悩の〕洞窟(身体)に執着し、多く〔の迷妄〕に覆われた者」とは、まさに、「執着し」と、まさに、説かれたが、しかしながら、また、まずは、洞窟が説かれるべきである。洞窟は、身体と説かれる(身体のことである)。あるいは、「身体」ということになり、あるいは、「洞窟」ということになり、あるいは、「肉身(デーハ)」ということになり、あるいは、「肉身(サンデーハ)」ということになり、あるいは、「舟」ということになり、あるいは、「車」ということになり、あるいは、「旗」ということになり、あるいは、「蟻塚」ということになり、あるいは、「城市」ということになり、あるいは、「巣」ということになり、あるいは、「小屋」ということになり、あるいは、「腫物」ということになり、あるいは、「瓶“かめ”」ということになり、あるいは、「象」ということになる。これは、身体の同義語である。「〔煩悩の〕洞窟に執着し」とは、洞窟(身体)に、執着し(サッタ)、執着し(ヴィサッタ)、執着し(アーサッタ)、居着き、付着し、障害となった者としてある。たとえば、あるいは、壁の釘に、あるいは、吊り鉤に、物品が、執着し(サッタ)、執着し(ヴィサッタ)、執着し(アーサッタ)、居着き、付着し、障害となったものとしてあるように、まさしく、このように、洞窟(身体)に、執着し(サッタ)、執着し(ヴィサッタ)、執着し(アーサッタ)、居着き、付着し、障害となった者としてある。まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 [89]〔すなわち〕「ラーダよ、形態(色)にたいし、まさに、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪欲としてあるなら、それが、愉悦としてあるなら、それが、渇愛としてあるなら、それらが、接近や執取としてあるなら、心の、確立や固着や悪習としてあるなら、そこにおいて、執着したのであり(サッタ)、そこにおいて、執着したのです(ヴィサッタ)。それゆえに、『有情(サッタ)』と説かれます。ラーダよ、感受〔作用〕(受)にたいし、まさに……略……。ラーダよ、表象〔作用〕(想)にたいし、まさに……。ラーダよ、諸々の形成〔作用〕(行)にたいし、まさに……。ラーダよ、識知〔作用〕(識)にたいし、まさに、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪欲としてあるなら、それが、愉悦としてあるなら、それが、渇愛としてあるなら、それらが、接近や執取としてあるなら、心の、確立や固着や悪習としてあるなら、そこにおいて、執着したのであり(サッタ)、そこにおいて、執着したのです(ヴィサッタ)。それゆえに、『有情(サッタ)』と説かれます。『有情』とは、付着することの同義語です」〔と〕。ということで、「〔煩悩の〕洞窟に執着し」。「多く〔の迷妄〕に覆われた者」とは、多くの〔心の〕汚れ(煩悩)によって覆われ、貪欲(貪)によって覆われ、憤怒(瞋)によって覆われ、迷妄(痴)によって覆われ、忿怒(忿)によって覆われ、怨恨(恨)によって覆われ、偽装(覆)によって覆われ、加虐(悩)によって覆われ、嫉妬(嫉)によって覆われ、物惜(慳)によって覆われ、幻想“ごまかし”(諂)によって覆われ、狡猾(誑)によって覆われ、強情(傲)によって覆われ、激昂(怒)によって覆われ、思量(慢)によって覆われ、高慢(過慢)によって覆われ、驕慢(驕)によって覆われ、放逸によって覆われ、一切の〔心の〕汚れによって覆われ、一切の悪しき行ないによって覆われ、一切の懊悩によって覆われ、一切の苦悶によって覆われ、一切の熱苦によって覆われ、一切の善ならざる行作(現行)によって、覆われ、覆い隠され、塗り隠され、覆蔽され、覆い護られ、覆い被され、覆い塞がれ、覆い隠され、覆い包まれた者。ということで、「多く〔の迷妄〕に覆われた者」。

 [90]「迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈み、止住している人」とは、止住している人は、貪欲を所以に貪る者として〔世に〕止住し、憤怒を所以に怒る者として〔世に〕止住し、迷妄を所以に迷う者として〔世に〕止住し、思量を所以に結縛された者として〔世に〕止住し、見解を所以に偏執した者として〔世に〕止住し、高揚を所以に〔心の〕散乱に至った者として〔世に〕止住し、疑惑を所以に結論なきに至った者(疑惑者)として〔世に〕止住し、諸々の悪習を所以に強靱に至った者(頑迷固陋の者)として〔世に〕止住する。このようにもまた、「止住している人」。

 [91]まさに、このことが、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「比丘たちよ、眼によって識知されるべき諸々の形態で、諸々の好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴い〔欲に〕染まるべきものが、〔世に〕存在します。もし、比丘が、それを、愉悦し、歓取し、固執して〔世に〕止住するなら……。比丘たちよ、耳によって識知されるべき諸々の音声で……。比丘たちよ、鼻によって識知されるべき諸々の臭香で……。比丘たちよ、舌によって識知されるべき諸々の味感で……。比丘たちよ、身によって識知されるべき諸々の感触で……。比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、諸々の好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴い〔欲に〕染まるべきものが、〔世に〕存在します。もし、比丘が、それを、愉悦し、歓取し、固執して〔世に〕止住するなら……」と。このようにもまた、「止住している人」。

 [92]まさに、このことが、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「比丘たちよ、あるいは、形態への接近ある識知〔作用〕は、〔世に〕止住しつつ止住します。形態を対象とするものとして、形態を確立したものとして、愉悦〔の思い〕を注入するものとして、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起します。比丘たちよ、あるいは、感受〔作用〕への接近ある……。比丘たちよ、あるいは、表象〔作用〕への接近ある……。比丘たちよ、あるいは、諸々の形成〔作用〕への接近ある識知〔作用〕は、〔世に〕止住しつつ止住します。諸々の形成〔作用〕を対象とするものとして、諸々の形成〔作用〕を確立したものとして、愉悦〔の思い〕を注入するものとして、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起します」と。このようにもまた、「止住している人」。

 [93]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「比丘たちよ、もし、物質としての食(段食)にたいし、貪欲が存在し、愉悦が存在し、渇愛が存在するなら、そこにおいて、識知〔作用〕は、確立したものとなり、成長したものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が、確立したものとなり、成長したものとなるなら、そこにおいて、名前と形態(名色)に、入〔胎〕が存在します。そこにおいて、名前と形態に、入〔胎〕が存在するなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕に、増大が存在します。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕に、増大が存在するなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在します。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在するなら、そこにおいて、未来に、生と老と死が存在します。そこにおいて、未来に、生と老と死が存在するなら、比丘たちよ、『それは、憂いを有するものであり、塵を有するものであり、葛藤を有するものである』と、〔わたしは〕説きます」と。このようにもまた、「止住している人」。

 [94]〔すなわち〕「比丘たちよ、もし、接触(感覚)としての食(触食)にたいし……略……。比丘たちよ、もし、意の思欲としての食(意思食)にたいし……。比丘たちよ、もし、識知〔作用〕としての食(識食)にたいし、貪欲が存在し、愉悦が存在し、渇愛が存在するなら、そこにおいて、識知〔作用〕は、確立したものとなり、成長したものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が、確立したものとなり、成長したものとなるなら、そこにおいて、名前と形態に、入〔胎〕が存在します。そこにおいて、名前と形態に、入〔胎〕が存在するなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕に、増大が存在します。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕に、増大が存在するなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在します。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在するなら、そこにおいて、未来に、生と老と死が存在します。そこにおいて、未来に、生と老と死が存在するなら、比丘たちよ、『それは、憂いを有するものであり、塵を有するものであり、葛藤を有するものである』と、〔わたしは〕説きます」と。このようにもまた、「止住している人」。

 [95]「迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈み」とは、諸々の迷妄ならしむものは、五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)と説かれる。眼によって識知されるべき諸々の形態で、諸々の好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴い〔欲に〕染まるべきもの、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……。鼻によって識知されるべき諸々の臭香で……。舌によって識知されるべき諸々の味感で……。身によって識知されるべき諸々の感触で、諸々の好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴い〔欲に〕染まるべきものである。何を契機とすることから、諸々の迷妄ならしむものは、五つの欲望の対象と説かれるのか。多くのところとして、天〔の神々〕と人間たちは、五つの欲望の対象にたいし、迷い、等しく迷い、等しく迷乱する。迷い、等しく迷い、等しく迷乱した者たちは、無明によって、暗愚に作り為され、覆蔽され、覆い護られ、覆い被され、覆い塞がれ、覆い隠され、覆い包まれた者たちとなる。それを契機とすることから、諸々の迷妄ならしむものは、五つの欲望の対象と説かれる。「迷妄ならしむもののうちに沈み」とは、迷妄ならしむもののうちに、沈み、沈潜し、潜入し、潜った者。ということで、「迷妄ならしむもののうちに沈み、止住している人」。

 [96]「まさに、そのような種類の者である彼は、遠離〔の境地〕から遠くにある」とは、「遠離」とは、三つの遠離がある。(1)身体の遠離、(2)心の遠離、(3)依り所の遠離である。(1)どのようなものが、身体の遠離であるのか。ここに、比丘が、〔世俗から〕遠離した臥坐所に、林に、木の根元に、山に、峡谷に、岩窟に、墓場に、林野に、野外に、藁積場に、〔それらに〕親しみ、身体によって遠離した者として〔世に〕住む。彼は、独りで行き、独りで立ち、独りで坐し、独りで臥所を営み、独りで〔行乞の〕食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐し(瞑想する)、独りで歩行〔瞑想〕(経行)に〔心を〕確立し、独りで、行じおこない、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。これが、身体の遠離である。

 [97](2)どのようなものが、心の遠離であるのか。第一の瞑想に入定した者のばあい、〔五つの修行の〕妨害(蓋)から、心は、遠離したものと成る。第二の瞑想に入定した者のばあい、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念(尋伺)から、心は、遠離したものと成る。第三の瞑想に入定した者のばあい、喜悦(喜)から、心は、遠離したものと成る。第四の瞑想に入定した者のばあい、楽と苦から、心は、遠離したものと成る。虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定した者のばあい、形態の表象から、障礙の表象から、種々なることの表象から、心は、遠離したものと成る。識知無辺なる〔認識の〕場所に入定した者のばあい、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。無所有なる〔認識の〕場所に入定した者のばあい、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定した者のばあい、無所有なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。預流たる者のばあい、身体が有るという見解(有身見:心身について「自己である」「自己のものである」と妄想し執着する実体論的見解)から、疑惑〔の思い〕(疑)から、戒や掟への偏執(戒禁取)から、見解の悪習(見随眠)から、疑惑の悪習(疑随眠)から、さらには、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、遠離したものと成る。一来たる者のばあい、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものから、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕という束縛するものから、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕の悪習から、さらには、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、遠離したものと成る。不還たる者のばあい、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するものから、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕という束縛するものから、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕の悪習から、さらには、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、遠離したものと成る。阿羅漢のばあい、形態〔の行境〕(色界)にたいする貪欲〔の思い〕から、形態なき〔行境〕(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕から、思量から、高揚から、無明から、思量の悪習から、生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習から、無明の悪習から、さらには、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、さらには、外なる一切の形相から、心は、遠離したものと成る。これが、心の遠離である。

 [98](3)どのようなものが、依り所の遠離であるのか。諸々の依り所は、諸々の〔心の〕汚れとも、諸々の範疇とも、諸々の行作とも、説かれる。依り所の遠離は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の寂止、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。これが、依り所の遠離である。しかして、身体の遠離は、〔欲から〕遠く離れた身体となり離欲を喜び楽しむ者たちのものであり、しかして、心の遠離は、完全なる清浄の心があり最高の浄化を得た者たちのものであり、しかして、依り所の遠離は、〔もはや〕依り所なく〔寿命を〕形成する働きを離れるに至った人たちのものである。

 [99]「まさに、遠離〔の境地〕から遠くにある」とは、すなわち、彼が、このように、〔煩悩の〕洞窟に執着し、このように、多くの〔心の〕汚れに覆われ、このように、迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈んだ者であるなら、彼は、身体の遠離からもまた、遠くにあり、心の遠離からもまた、遠くにあり、依り所の遠離からもまた、遠くにあり、遠く離れ、極めて遠く離れ、現前になく、近隣になく、近くになく、遠く離れたところにある。「そのような種類の者」とは、そのような者、それを確立した者、それを流儀とする者、それを受益とする者。すなわち、〔まさに〕その、迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈んだ者である。ということで、「まさに、そのような種類の者である彼は、遠離〔の境地〕から遠くにある」。

 [100]「なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨棄し易きものではないからである」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)諸々の事物(事)の欲望と、(2)諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の欲望とである。(1)どのようなものが、諸々の事物の欲望であるのか。諸々の意に適う形態(色)、諸々の意に適う音声(声)、諸々の意に適う臭香(香)、諸々の意に適う味感(味)、諸々の意に適う感触(所触:感覚)、諸々の敷物、諸々の着物、侍女や奴隷たち、山羊や羊たち、鶏や豚たち、象や牛や馬や騾馬たち、田畑、地所、金貨、黄金、村や町や王都、国土と、地方と、蔵と、貯蔵庫と、それが何であれ、〔欲に〕染まるべき事物は、諸々の事物の欲望である。さらに、また、諸々の過去の欲望〔の対象〕、諸々の未来の欲望〔の対象〕、諸々の現在の欲望〔の対象〕、諸々の内なる欲望〔の対象〕、諸々の外なる欲望〔の対象〕、諸々の内なると外なる欲望〔の対象〕、諸々の下劣なる欲望〔の対象〕、諸々の中等なる欲望〔の対象〕、諸々の精妙なる欲望〔の対象〕、諸々の悪所の欲望〔の対象〕、諸々の人間の欲望〔の対象〕、諸々の天上の欲望〔の対象〕、諸々の〔因縁によって〕現起した欲望〔の対象〕(地獄を除く他の悪趣の有情・人間・四大王天・兜率天における欲望の対象)、諸々の化作された欲望〔の対象〕(化楽天における欲望の対象)、諸々の他によって化作された欲望〔の対象〕(他化自在天における欲望の対象)、諸々の遍く収取された欲望〔の対象〕、諸々の遍く収取されたものでない欲望〔の対象〕、諸々のわがものと〔錯視〕された欲望〔の対象〕、諸々のわがものと〔錯視〕されたものでない欲望〔の対象〕があり、一切もろともの欲望の行境(欲界)の諸法(事象)も、一切もろともの形態の行境(心と身体が完全に同調して機能している世界・色界)の諸法(事象)も、一切もろともの形態なき行境(心が身体に依存せず単独で機能している世界・無色界)の諸法(事象)も、諸々の渇愛の基盤(根拠)となり、諸々の渇愛の対象(所縁)となるなら、欲せられるべきものの義(意味)によって、染まるべきものの義(意味)によって、酔うべきものの義(意味)によって、諸々の欲望〔の対象〕となる。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。

 [101](2)どのようなものが、諸々の〔心の〕汚れの欲望であるのか。欲〔の思い〕は、欲望である。貪欲は、欲望である。欲〔の思い〕と貪欲は、欲望である。思惟は、欲望である。貪欲は、欲望である。思惟と貪欲は、欲望である。すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪欲、欲望〔の対象〕にたいする愉悦、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛(軛)、欲望〔の対象〕にたいする執取(取)、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の妨害(蓋)である。


 [102]〔しかして、詩偈に言う〕「欲望よ、〔わたしは〕おまえの根元を見た。欲望よ、〔おまえは〕思惟から生まれた。〔わたしは〕おまえを思惟しないであろう。欲望よ、このように、〔おまえは〕有ることなくあるであろう(消滅する)」と。


 [103]これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「世における」とは、悪所の世における、人間の世における、天の世における、〔五つの〕範疇(蘊)の世における、〔十八の〕界域(界)の世における、〔十二の認識の〕場所(処)の世における。「なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨棄し易きものではないからである」とは、なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、捨棄し難く、捨て去り難く、遍捨し難く、削除し難く、排し難く、排出し難く、超え難く、超え渡り難く、等しく超越し難く、超克し難いからである。ということで、「なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨棄し易きものではないからである」。

 [104]それによって、世尊は言った。


 [105]「〔煩悩の〕洞窟(身体)に執着し、多く〔の迷妄〕に覆われた者――迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈み、止住している人――まさに、そのような種類の者である彼は、遠離〔の境地〕から遠くにある。なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨棄し易きものではないからである」と。


8.


 [106]780.(773) 〔心の〕欲求という因縁ある者たち、生存(有)の快楽に結縛された者たち、彼らは、解脱し難い。なぜなら、他のもの(他者・他物)〔を依り所とする〕解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである。未来、あるいは、また、過去について、〔あれこれと〕期待している者たちがいる。あるいは、〔現前する〕これらの欲望〔の対象〕を、あるいは、以前〔に見た欲望の対象〕を、〔貪りの思いで〕渇望している者がいる。(2)


 [107]「〔心の〕欲求という因縁ある者たち、生存(有)の快楽に結縛された者たち」とは、欲求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染、随貪、共感、愉悦、愉悦への貪欲、心の貪染、欲求、耽溺、固執、貪求、遍き貪求、執着(サンガ)、汚泥、動揺、幻想、生じさせるもの(輪廻を生むもの)、産出させるもの(苦を生むもの)、貪愛(縫うもの)、網、流れ、執着(ヴィサッティカー)、糸、執着(ヴィサター)、実行するもの(業を作るもの)、伴侶、切願、〔迷いの〕生存に導くもの、〔欲の〕林、〔欲の〕林叢、親愛、愛執、期待、結縛、願望、願望すること、願望あること、形態への願望、音声への願望、臭香への願望、味感への願望、感触への願望、利得への願望、財産への願望、子供への願望、生命への願望、渇望、強き渇望、固き渇望、渇望すること、渇望あること、動貪、動貪すること、動貪あること、問尋あること、善を欲すること、法(正義)ならざるものへの貪欲(ラーガ)、不正への貪欲(ローバ)、欲念、欲念すること、切望、羨望、等しき切望、欲望〔の対象〕への渇愛(欲愛)、生存への渇愛(有愛)、非生存への渇愛(非有愛)、形態〔の行境〕(色界)への渇愛、形態なき〔行境〕(無色界)への渇愛、止滅〔の入定〕(滅尽定)への渇愛、形態への渇愛、音声への渇愛、臭香への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛、激流、束縛、拘束、執取(取)、妨げ、妨害(蓋)、覆うもの、結縛するもの、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)、悪習(随眠)、妄執(纏)、蔓、物欲、苦の根元、苦の因縁、苦の起源、悪魔の罠、悪魔の釣針、悪魔の境域、渇愛の川、渇愛の網、渇愛の革紐、渇愛の海、強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「〔心の〕欲求という因縁ある者たち」とは、〔心の〕欲求を因縁とする者たち、〔心の〕欲求を因とする者たち、〔心の〕欲求を縁とする者たち、〔心の〕欲求を契機(動機)とする者たち、〔心の〕欲求を起源とする者たち。ということで、「〔心の〕欲求という因縁ある者たち」。

 [108]「生存(有)の快楽に結縛された者たち」とは、一つの生存の快楽がある。安楽の感受(楽受)である。二つの生存の快楽がある。安楽の感受と、好ましい事物とである。三つの生存の快楽がある。若さ、無病、生命である。四つの生存の快楽がある。利得、名声、賞賛、安楽である。五つの生存の快楽がある。諸々の意に適う形態、諸々の意に適う音声、諸々の意に適う臭香、諸々の意に適う味感、諸々の意に適う感触である。六つの生存の快楽がある。眼の成就(視覚機能の完備)、耳の成就、鼻の成就、舌の成就、身の成就、意の成就である。「生存の快楽に結縛された者たち」とは、安楽の感受にたいし結縛された者たちであり、好ましい事物にたいし結縛された者たち、若さにたいし結縛された者たち、無病にたいし結縛された者たち、生命にたいし結縛された者たち、利得にたいし結縛された者たち、名声にたいし結縛された者たち、賞賛にたいし結縛された者たち、安楽にたいし結縛された者たち、諸々の意に適う形態にたいし結縛された者たち、諸々の意に適う音声にたいし……諸々の臭香にたいし……諸々の味感にたいし……諸々の意に適う感触にたいし結縛された者たち、眼の成就にたいし結縛された者たち、耳の……鼻の……舌の……身の……意の成就にたいし、結縛された者たち、縛着された者たち、連結された者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち。ということで、「生存の快楽に結縛された者たち」。

 [109]「彼らは、解脱し難い。なぜなら、他のもの(他者・他物)〔を依り所とする〕解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」とは、(1)あるいは、それらの生存の快楽の事物は、解脱し難い。(2)あるいは、有情たちは、ここから解き放ち難い。(1)どのように、それらの生存の快楽の事物は、解脱し難いのか。安楽の感受は、解脱し難く、好ましい事物は、解脱し難く、若さは、解脱し難く、無病は、解脱し難く、生命は、解脱し難く、利得は、解脱し難く、名声は、解脱し難く、賞賛は、解脱し難く、安楽は、解脱し難く、諸々の意に適う形態は、解脱し難く、諸々の意に適う音声は……諸々の臭香は……諸々の味感は……諸々の感触は、解脱し難く、眼の成就は、解脱し難く、耳の……鼻の……舌の……身の……意の成就は、解脱し難く、解き放ち難く、強く解き放ち難く、排し難く、排出し難く、超え難く、超え渡り難く、等しく超越し難く、超克し難い。このように、それらの生存の快楽の事物は、解脱し難い。

 [110](2)どのように、有情たちは、ここから解き放ち難いのか。有情たちは、安楽の感受から解き放ち難く、好ましい事物から解き放ち難く、若さから解き放ち難く、無病から解き放ち難く、生命から解き放ち難く、利得から解き放ち難く、名声から解き放ち難く、賞賛から解き放ち難く、安楽から解き放ち難く、諸々の意に適う形態から解き放ち難く、諸々の意に適う音声から……諸々の臭香から……諸々の味感から……諸々の感触から解き放ち難く、眼の成就から解き放ち難く、耳の……鼻の……舌の……身の……意の成就から、解き放ち難く、引き上げ難く、等しく引き上げ難く、出起させ難く、等しく出起させ難く、排し難く、排出し難く、超え難く、超え渡り難く、等しく超越し難く、超克し難い。このように、有情たちは、ここから解き放ち難い。ということで、「彼らは、解脱し難い」。

 [111]「なぜなら、他のもの(他者・他物)〔を依り所とする〕解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」とは、彼らは、〔すなわち〕自己みずから泥沼にはまった者たちは、他の泥沼にはまった者を引き上げることができない。まさに、このことが、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「チュンダよ、彼が、まさに、自己みずから泥沼にはまった者が、他の沼にはまった者を引き上げるであろう、という、この状況は見い出されません(ありえない)。チュンダよ、彼が、まさに、自己みずから、調御されることなく、教導されることなく、完全なる涅槃に到達していない者が、他者を、調御し、教導し、完全なる涅槃に到達させるであろう、という、この状況は見い出されません」と。このようにもまた、「なぜなら、他のもの〔を依り所とする〕解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」。

 [112]しかして、あるいは、誰であれ、他者は、解き放ち手として存在することがない。彼らが、〔自己を〕解き放つであろう、というのなら、自らの強靱によって、自らの力量によって、自らの精進によって、自らの勤勉によって、自らの人士たる強靱によって、自らの人士たる力量によって、自らの人士たる精進によって、自らの人士たる勤勉によって、自己みずから、正しい〔実践の〕道を、〔真理に〕随順する〔実践の〕道を、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道を、義(道理)のままなる〔実践の〕道を、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道を、実践しつつ、〔自己を〕解き放つであろう。ということで、このようにもまた、「なぜなら、他のもの〔を依り所とする〕解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」。

 [113]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。


 [114]〔しかして、詩偈に言う〕「わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません。ドータカさん、誰であれ、世における懐疑者を、〔諸々の懐疑から解き放つことはできないのです〕。ですから、最勝の法(真理)を了知している者として、このように、あなたは、〔あなた自身で〕この激流を超えるのです」と。


 [115]このようにもまた、「なぜなら、他のもの〔を依り所とする〕解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」。

 [116]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。


 [117]〔しかして、詩偈に言う〕「まさに、自己によって為された悪は、自己によって汚れ、自己によって為されなかった悪は、まさしく、自己によって清まる。清浄と清浄ならざるは、各自のこと。他者が他者を清めることはない(自己が自己を清める)」と。


 [118]このようにもまた、「なぜなら、他のもの〔を依り所とする〕解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」。

 [119]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、涅槃は、まさしく、〔世に〕止住します(存在する)。涅槃に至る道は、〔世に〕止住します。わたしは、訓戒者として〔世に〕止住します。そして、また、いっぽう、わたしの弟子たちは、わたしによって、このように教諭されながら、このように教示されながら、一部の者たちは、また、究極の目的たる涅槃に達し、一部の者たちは達しません。婆羅門よ、ここにおいて、わたしは、何を為すというのでしょう。婆羅門よ、如来は、道を告げ知らせる者です。覚者は、道を告げ知らせます。〔彼らは〕自己みずから実践しつつ、〔自己を〕解き放つでしょう」と。このようにもまた、「なぜなら、他のもの〔を依り所とする〕解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」。ということで、「彼らは、解脱し難い。なぜなら、他のもの(他者・他物)〔を依り所とする〕解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」。

 [120]「未来、あるいは、また、過去について、〔あれこれと〕期待している者たちがいる」とは、未来(パッチャー)は、未来に(アナーガタン)と説かれる。過去について(プレー)は、過去に(アティータン)と説かれる。さらに、また、過去と比較して、未来と、現在とは、未来にある。未来と比較して、過去と、現在とは、過去にある。どのように、過去について、期待を為すのか。「このような形態の者として、〔わたしは〕有った――過去の時(過去世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起する。「このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った……。「このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った……。「このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った……。「このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った――過去の時(過去世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起する。このようにもまた、過去について、期待を為す。

 [121]しかして、あるいは、「かくのごとく、わたしに、眼が有った――過去の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔有った〕」と、そこにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕は、欲〔の思い〕と貪欲に連結したものと成る。〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪欲に連結したことから、〔彼は〕それを愉悦し、愉悦している者となる。このようにもまた、過去について、期待を為す。「かくのごとく、わたしに、耳が有った――過去の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔有った〕」と……略……。「かくのごとく、わたしに、鼻が有った――過去の時に。かくのごとく、諸々の臭香が〔有った〕」と……。「かくのごとく、わたしに、舌が有った――過去の時に。かくのごとく、諸々の味感が〔有った〕」と……。「かくのごとく、わたしに、身が有った――過去の時に。かくのごとく、諸々の感触が〔有った〕」と……。「かくのごとく、わたしに、意が有った――過去の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔有った〕」と、そこにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕は、欲〔の思い〕と貪欲に連結したものと成る。〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪欲に連結したことから、〔彼は〕それを愉悦し、愉悦している者となる。このようにもまた、過去について、期待を為す。

 [122]しかして、あるいは、すなわち、彼に、女性を相手に笑い話し戯れたそれら〔の経験〕が過去にあるとして、それを味わい、それを欲し、しかして、それによって、歓悦を起こす。このようにもまた、過去について、期待を為す。

 [123]どのように、未来について、期待を為すのか。「このような形態の者として、〔わたしは〕存するであろう――未来の時(未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起する。「このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう――未来の時(未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起する。このようにもまた、未来について、期待を為す。

 [124]しかして、あるいは、「かくのごとく、わたしに、眼が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔存するであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為する。心に、作意の縁あることから、〔彼は〕それを愉悦し、愉悦している者となる。このようにもまた、未来について、期待を為す。「かくのごとく、わたしに、耳が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔存するであろう〕」と……略……。「かくのごとく、わたしに、鼻が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の臭香が〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、舌が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の味感が〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、身が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の感触が〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、意が存するであろう――未来の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔存するであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為する。心に、作意の縁あることから、〔彼は〕それを愉悦し、愉悦している者となる。このようにもまた、未来について、期待を為す。

 [125]しかして、あるいは、「わたしは、あるいは、この戒によって、あるいは、〔この〕掟によって、あるいは、〔この〕苦行によって、あるいは、〔この〕梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るであろう、あるいは、天〔の神〕の或る誰かと〔成るであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為する。心に、作意の縁あることから、〔彼は〕それを愉悦し、愉悦している者となる。このようにもまた、未来について、期待を為す。ということで、「未来、あるいは、また、過去について、〔あれこれと〕期待している者たちがいる」。

 [126]「あるいは、〔現前する〕これらの欲望〔の対象〕を、あるいは、以前〔に見た欲望の対象〕を、〔貪りの思いで〕渇望している者がいる」とは、「あるいは、〔現前する〕これらの欲望〔の対象〕を」とは、現在の五つの欲望の対象を、求めている者たち、楽しみにしている者たち、切望している者たち、熱望している者たち、渇望している者たちがいる。「あるいは、以前〔に見た欲望の対象〕を、〔貪りの思いで〕渇望している者がいる」とは、過去の五つの欲望の対象を、渇望している者たち、強く渇望している者たち、固く渇望している者たちがいる。ということで、「あるいは、〔現前する〕これらの欲望〔の対象〕を、あるいは、以前〔に見た欲望の対象〕を、〔貪りの思いで〕渇望している者がいる」。

 [127]それによって、世尊は言った。


 [128]「〔心の〕欲求という因縁ある者たち、生存(有)の快楽に結縛された者たち、彼らは、解脱し難い。なぜなら、他のもの(他者・他物)〔を依り所とする〕解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである。未来、あるいは、また、過去について、〔あれこれと〕期待している者たちがいる。あるいは、〔現前する〕これらの欲望〔の対象〕を、あるいは、以前〔に見た欲望の対象〕を、〔貪りの思いで〕渇望している者がいる」と。


9.


 [129]781.(774) 諸々の欲望〔の対象〕について、貪り求め、追い求め、〔心が〕迷乱した者たち――彼ら、しみったれで、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した者たちは、〔いざ、死の〕苦しみ〔の前〕に連れて行かれたなら、〔うってかわって〕嘆き悲しむ。「死んだ〔わたしたち〕は、これから、いったい、どう成るのだろう。(3)


 [130]「諸々の欲望〔の対象〕について、貪り求め、追い求め、〔心が〕迷乱した者たち」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)諸々の事物の欲望と、(2)諸々の〔心の〕汚れの欲望とである。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。〔心の〕汚れの欲望によって、諸々の事物の欲望について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たちとなる。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕について、貪り求め」。

 [131]「追い求め」とは、彼らが、また、諸々の欲望〔の対象〕を、探し求め、追求し、遍く探し求め、それを所行とする者たちであり、それを多きとする者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それへと下向した者たちであり、それへと傾倒した者たちであり、それへと傾斜した者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位主要とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。彼らが、また、渇愛を所以に、諸々の形態を、探し求め、追求し、遍く探し求め……諸々の音声を……諸々の臭香を……諸々の味感を……諸々の感触を、探し求め、追求し、遍く探し求め、それを所行とする者たちであり、それを多きとする者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それへと下向した者たちであり、それへと傾倒した者たちであり、それへと傾斜した者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位主要とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。彼らが、また、渇愛を所以に、諸々の形態を獲得し……諸々の音声を……諸々の臭香を……諸々の味感を……諸々の感触を獲得し、それを所行とする者たちであり、それを多きとする者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それへと下向した者たちであり、それへと傾倒した者たちであり、それへと傾斜した者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位主要とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。彼らが、また、渇愛を所以に、諸々の形態を受益し……諸々の音声を……諸々の臭香を……諸々の味感を……諸々の感触を受益し、それを所行とする者たちであり、それを多きとする者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それへと下向した者たちであり、それへと傾倒した者たちであり、それへと傾斜した者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位主要とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。たとえば、紛争を為す者が、紛争を追い求める者であり、作業を為す者が、作業を追い求める者であり、托鉢に歩んでいる者が、托鉢を追い求める者であり、瞑想する者が、瞑想を追い求める者であるように、まさしく、このように、彼らが、また、諸々の欲望〔の対象〕を、探し求め、追求し、遍く探し求め、それを所行とする者たちであり、それを多きとする者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それへと下向した者たちであり、それへと傾倒した者たちであり、それへと傾斜した者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位主要とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。彼らが、また、渇愛を所以に、諸々の形態を、探し求め、追求し、遍く探し求め……諸々の音声を……諸々の臭香を……諸々の味感を……諸々の感触を、探し求め、追求し、遍く探し求め、それを所行とする者たちであり、それを多きとする者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それへと下向した者たちであり、それへと傾倒した者たちであり、それへと傾斜した者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位主要とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。彼らが、また、渇愛を所以に、諸々の形態を獲得し……諸々の音声を……諸々の臭香を……諸々の味感を……諸々の感触を獲得し、それを所行とする者たちであり、それを多きとする者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それへと下向した者たちであり、それへと傾倒した者たちであり、それへと傾斜した者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位主要とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。彼らが、また、渇愛を所以に、諸々の形態を受益し……諸々の音声を……諸々の臭香を……諸々の味感を……諸々の感触を受益し、それを所行とする者たちであり、それを多きとする者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それへと下向した者たちであり、それへと傾倒した者たちであり、それへと傾斜した者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位主要とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。

 [132]「〔心が〕迷乱した者たち」とは、多くのところとして、天〔の神々〕と人間たちは、五つの欲望の対象にたいし、迷い、等しく迷い、等しく迷乱する。迷い、等しく迷い、等しく迷乱した者たちは、無明によって、暗愚に作り為され、覆蔽され、覆い護られ、覆い被され、覆い塞がれ、覆い隠され、覆い包まれた者たちとなる。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕について、貪り求め、追い求め、〔心が〕迷乱した者たち」。

 [133]「彼ら、しみったれで、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した者たちは」とは、「しみったれで」とは、(1)〔彼らは〕下に赴く、ということでもまた、「しみったれで」。(2)物惜しみの者たちもまた、しみったれの者たちと説かれる。(3)覚者たちの、弟子たちの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示したことを、〔彼らは〕取らない、ということで、「しみったれで」。(1)どのように、〔彼らは〕下に赴く、ということで、「しみったれ」となるのか。〔彼らは〕地獄に赴き、畜生の胎に赴き、餓鬼の境域に赴く。このように、〔彼らは〕下に赴く、ということで、「しみったれで」。(2)どのように、物惜しみの者たちは、しみったれの者たちと説かれるのか。五つの物惜しみがある。居住の物惜しみ、家の物惜しみ、利得の物惜しみ、名誉の物惜しみ、法(事象)の物惜しみである。すなわち、このような形態の、物惜しみ、物惜しみすること、物惜しみあること、物欲、吝嗇、緊縮すること、心の収取あることである。これが、物惜しみと説かれる。さらに、また、〔五つの〕範疇の物惜しみもまた、物惜しみであり、〔十八の〕界域の物惜しみもまた、物惜しみであり、〔十二の認識の〕場所の物惜しみもまた、物惜しみであり、収取である。これが、物惜しみと説かれる。この物惜しみとしみったれることを具備した人たちは、放逸の者たちである。このように、物惜しみの者たちは、しみったれの者たちと説かれる。(3)どのように、覚者たちの、弟子たちの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示したことを、〔彼らは〕取らない、ということで、「しみったれ」となるのか。覚者たちの、弟子たちの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示したことを、取らず、聞こうとせず、耳を傾けず、了知の心を現起させず、聞かない者たちであり、言葉を為さない者たちであり、逆転する者たちであり、まさしく、他によって、門と為す。このように、覚者たちの、弟子たちの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示したことを、〔彼らは〕取らない、ということで、「しみったれで」。

 [134]「彼ら、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した者たちは」とは、〔世の〕不正なる身体の行為(身業)に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正なる言葉の行為(口業)に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正なる意の行為(意業)に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正なる生き物を殺すことに〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正なる与えられていないものを取ることに〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正なる諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正なる虚偽を説くことに〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正なる中傷の言葉に……〔世の〕不正なる粗暴の言葉に……〔世の〕不正なる雑駁な虚論に……〔世の〕不正なる強欲〔の思い〕に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正なる加害〔の思い〕に……〔世の〕不正なる誤った見解に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正なる諸々の形成〔作用〕に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正なる五つの欲望の対象に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正なる五つの〔修行の〕妨害に、〔思いが〕固着した者たち、〔思いが〕定着した者たち、〔思いが〕確立した者たち、〔思いが〕付着した者たち、近づき行った者たち、固執した者たち、信念した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち。ということで、「彼ら、しみったれで、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した者たちは」。

 [135]「〔いざ、死の〕苦しみ〔の前〕に連れて行かれたなら、〔うってかわって〕嘆き悲しむ」とは、「〔いざ、死の〕苦しみ〔の前〕に連れて行かれたなら」とは、〔彼らが〕苦を得たなら、〔彼らが〕苦に得達したなら、〔彼らが〕苦に近づき行ったなら、〔彼らが〕死を得たなら、〔彼らが〕死に得達したなら、〔彼らが〕死に近づき行ったなら。「〔うってかわって〕嘆き悲しむ」とは、泣きわめき、泣き叫び、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、迷妄を惹起する。ということで、「〔いざ、死の〕苦しみ〔の前〕に連れて行かれたなら、〔うってかわって〕嘆き悲しむ」。

 [136]「『死んだ〔わたしたち〕は、これから、いったい、どう成るのだろう』〔と〕」とは、死んだあと、これから、〔わたしたちは〕どう成るのだろう。地獄にある者たちと成るであろう。畜生の胎ある者たちと成るであろう。餓鬼の境域ある者たちと成るであろう。人間たちと成るであろう。天〔の神々〕たちと成るであろう。形態ある者たちと成るであろう。形態なき者たちと成るであろう。表象ある者たちと成るであろう。表象なき者たちと成るであろう。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者たちと成るであろう。「はたして、未来の時(未来世)に、まさに、わたしたちは、〔世に〕有るのだろうか」「はたして、未来の時に、まさに、〔わたしたちは、世に〕有ることなくあるのだろうか」「はたして、何ものとして、未来の時に、まさに、〔わたしたちは、世に〕有るのだろうか」「はたして、どのように、未来の時に、まさに、〔わたしたちは、世に〕有るのだろうか」「はたして、未来の時に、まさに、わたしたちは、何に成って〔そののち〕、何ものとして、〔世に〕有るのだろうか」と、疑念に跳入した者となり、疑問に跳入した者となり、二様のものが生じた者となり、泣きわめき、泣き叫び、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、迷妄を惹起する。ということで、「『死んだ〔わたしたち〕は、これから、いったい、どう成るのだろう』〔と〕」。

 [137]それによって、世尊は言った。


 [138]「諸々の欲望〔の対象〕について、貪り求め、追い求め、〔心が〕迷乱した者たち――彼ら、しみったれで、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した者たちは、〔いざ、死の〕苦しみ〔の前〕に連れて行かれたなら、〔うってかわって〕嘆き悲しむ。『死んだ〔わたしたち〕は、これから、いったい、どう成るのだろう』〔と〕」と。


10.


 [139]782.(775) それゆえに、まさに、人は、この〔世において〕こそ、学ぶように。それが何であれ、世において、「不正である」と知られるなら、それを因として、不正を行じおこなうことがないように。慧者たちは言う。「まさに、この生命(寿命)は、僅かである」〔と〕。(4)


 [140]「それゆえに、まさに、人は、この〔世において〕こそ、学ぶように」とは、「それゆえに」とは、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。諸々の欲望〔の対象〕について、この危険を等しく見ながら。ということで、「それゆえに」。「学ぶように」とは、三つの学びがある。(1)向上の戒の学び、(2)向上の心の学び、(3)向上の知慧の学びである。

 [141](1)どのようなものが、向上の戒の学びであるのか。ここに、比丘が、戒ある者と成り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)の統御によって〔自己が〕統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕行状と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。小なる戒の範疇、大なる戒の範疇、戒、立脚するもの(依所)、最初〔の行〕、行ない、自制、統御、諸々の善なる法(性質)への入定における、頭目、筆頭。これが、向上の戒の学びである。

 [142](2)どのようなものが、向上の心の学びであるのか。ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕から、まさしく、離れて、〔さらには〕諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑な〕思考を有し(有尋)、〔微細な〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想を成就して、〔世に〕住む。〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、〔心の〕統一から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して、〔世に〕住む。さらには、喜悦の離貪あることから、しかして、放捨の者(愛憎の思いや価値意識に左右されない客観的認識者)として、〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として、〔世に住む〕。しかして、〔彼は〕身体による安楽を得知する。すなわち、彼のことを、聖者たちが、「〔彼は〕放捨の者にして気づきある者、安楽の住ある者である」と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して、〔世に〕住む。しかして、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、以前において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して、〔世に〕住む。これが、向上の心の学びである。

 [143](3)どのようなものが、向上の知慧の学びであるのか。ここに、比丘が、知慧ある者と成り、聖なる洞察にして正しく苦痛の滅尽に至る、生成と滅至についての知慧を具備した者と〔成る〕。彼は、「これは、苦痛である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦痛の集起である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦痛の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。「これらは、諸々の煩悩(漏)である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、煩悩の集起である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、煩悩の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。これが、向上の知慧の学びである。

 [144]これらの三つの学び(三学:戒・心の統一・知慧)を、〔心を〕傾注している者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕知っている者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕見ている者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕注視している者として学ぶべきであり、心を確立している者として学ぶべきであり、信によって信念している者として学ぶべきであり、精進を励起している者として学ぶべきであり、気づきを現起させている者として学ぶべきであり、心を定めている者として学ぶべきであり、知慧によって覚知している者として学ぶべきであり、証知されるべきものを証知している者として学ぶべきであり、遍知されるべきものを遍知している者として学ぶべきであり、捨棄されるべきものを捨棄している者として学ぶべきであり、修行されるべきものを修行している者として学ぶべきであり、実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、実行するべきであり、受持して行持するべきである。

 [145]「この〔世において〕」とは、この見解の、この忍耐(信受)の、この嗜好(意欲)の、この所取〔の経論〕において、この法(教え)において、この律において、この法(教え)と律において、この〔聖典の〕言葉において、この梵行において、この教師の教えにおいて、この自己状態において、この人間の世において。それによって説かれる。「この〔世において〕」と。「人(ジャントゥ)」とは、有情、人(ナラ)……略([10]参照)……マヌから生じる者。ということで、「それゆえに、まさに、人は、この〔世において〕こそ、学ぶように」。

 [146]「それが何であれ、世において、『不正である』と知られるなら」とは、「それが何であれ」とは、一切をもって一切を、一切の点において一切を、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「それが何であれ」ということになる。「『不正である』と知られるなら」とは、〔世の〕不正なる身体の行為を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる言葉の行為を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる意の行為を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる生き物を殺すことを、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる与えられていないものを取ることを、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる虚偽を説くことを、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる中傷の言葉を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる粗暴の言葉を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる雑駁な虚論を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる強欲〔の思い〕を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる加害〔の思い〕を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる誤った見解を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる諸々の形成〔作用〕を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる五つの欲望の対象を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正なる五つの〔修行の〕妨害を、「不正である」と、知るなら、了知するなら、識知するなら、解知するなら、理解するなら。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「それが何であれ、世において、『不正である』と知られるなら」。

 [147]「それを因として、不正を行じおこなうことがないように」とは、〔世の〕不正なる身体の行為を因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる言葉の行為を因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる意の行為を因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる生き物を殺すことを因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる与えられていないものを取ることを因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)を因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる虚偽を説くことを因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる中傷の言葉を因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる粗暴の言葉を因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる雑駁な虚論を因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる強欲〔の思い〕を因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる加害〔の思い〕を因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる誤った見解を因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる諸々の形成〔作用〕を因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる五つの欲望の対象を因として、不正を行じおこなうべきではなく、〔世の〕不正なる五つの〔修行の〕妨害を因として、不正を、行じおこなうべきではなく、習行するべきではなく、実行するべきではなく、受持して行持するべきではない。ということで、「それを因として、不正を行じおこなうことがないように」。

 [148]「慧者たちは言う。『まさに、この生命(寿命)は、僅かである』〔と〕」とは、「生命」とは、寿命、止住、〔身を〕保つこと、〔身を〕保ち行くこと、振る舞うこと、〔身を〕行持すること、〔行ないを〕守ること、生命、生命の機能(命根)。さらに、また、二つの契機によって、生命は、僅かである。(1)あるいは、止住の微小なることによって、生命は、僅かである。(2)あるいは、自らの味用“はたらき”の微小なることによって、生命は、僅かである。(1)どのように、止住の微小なることによって、生命は、僅かであるのか。過去における〔一つの〕心の瞬間においては、〔過去において〕生きたが、〔現在において〕生きることはなく、〔未来において〕生きるであろうことはない。未来における〔一つの〕心の瞬間においては、〔未来において〕生きるであろうが、〔過去において〕生きたことはなく、〔現在において〕生きることはない。現在における〔一つの〕心の瞬間においては、〔現在において〕生きるが、〔過去において〕生きたことはなく、〔未来において〕生きるであろうことはない。


 [149]〔しかして、詩偈に言う〕「生命は、自己状態(個我的あり方)も、楽と苦も、〔その〕全部が、一つの心〔の瞬間〕と結び付いたものであり、〔その〕瞬間は、軽やかに転起する。

 [150]八万四千のカッパ(劫:時間の単位・無限大の時間)のあいだ、それらの神たちが〔世に〕止住するとして、まさしく、しかるに、彼らもまた、二つの心と結び付いたものとして、生きることはない(一つの心だけが転起する)。

 [151]ここ(現世)において、死につつある者の、あるいは、〔いまだ〕止住している者の、それらの止滅した〔心身を構成する五つの〕範疇は、〔その〕全てでさえもが、等しく、〔すでに〕去り行ったものであり、結生なきものである(結生に至り着くことはない)。

 [152]しかして、それらが、直前に破壊された〔五つの範疇〕であるとして、さらには、それらが、未来に破壊された〔五つの範疇〕であるとして、その直後に止滅した〔五つの範疇〕にとって、特相における差異は存在しない(両者ともに破壊されたものとしてある)。

 [153]発現した〔心〕が〔すでに〕ないなら、生じたものは〔もはや〕なく、現在〔の瞬間の心の転起〕によって、〔有情は〕生きる。心の滅壊あることから、世〔の人々〕の死がある。〔これが〕最高の義(勝義:最高の真実)としての概念(施設)となる(あるがままの世界のあり方である)。

 [154]たとえば、〔水が〕諸々の低きにあるものとして転起するように、欲〔の思い〕によって変化させられ、六つの〔認識の〕場所(六処:眼・耳・鼻・舌・身・意)の縁あることから、諸々の断絶なき保持が転起する。

 [155]諸々の破壊されたものは安置の在り方なく、未来における集塊は存在しない。しかして、それらが、諸々の発現したものとして止住するとして、錐の先の芥子の如きもの。

 [156]しかして、諸々の発現した法(性質)には、それらには、滅壊が待ち受けている。諸々の崩壊の法(性質)として止住し、諸々の過去のものと交わることはない。

 [157]諸々の滅壊は、見えざるところから至り来て、見えざるところへと至り行く。虚空における雷光の生起のように、〔それらは〕生起し、かつまた、衰微する」と。


 [158]このように、止住の微小なることによって、生命は、僅かである。

 [159](2)どのように、自らの味用の微小なることによって、生命は、僅かであるのか。入息に連結するものとして、生命はあり、出息に連結するものとして、生命はあり、入息と出息に連結するものとして、生命はあり、〔四つの〕大いなる元素(地・水・火・風)に連結するものとして、生命はあり、物質としての食に連結するものとして、生命はあり、熱(体熱)に連結するものとして、生命はあり、識知〔作用〕(意識)に連結するものとして、生命はある。これらのものの根元もまた、力弱きものであり、これらのものの前因もまた、力弱きものである。それらが、諸々の縁であるとして、それらもまた、力弱きものであり、たとえ、それらが、諸々の増加するものであるとして、それらもまた、力弱きものである。これらのものと共に有るものもまた、力弱きものであり、これらのものと結合あるものもまた、力弱きものであり、これらのものと共に生じるものもまた、力弱きものである。たとえ、それが、専念するもの(渇愛)であるとして、それもまた、力弱きものである。これらは、互いに他と常に力弱きものであり、これらは、互いに他と安住なきものであり、これらは、互いに他を攻撃する。なぜなら、互いに他の救護者として存在せず、さらには、また、これらは、互いに他を救護しないからである。たとえ、それが、〔他を〕発現させるものであるとして、それは、〔もはや〕見い出されない(すでに消滅した)。


 [160]〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、〔それが〕何であれ、何ものかによって失われることはない。しかして、これらは、まさに、全てにわたり、〔自ら〕壊れるべきものである。諸々の前のものあるがゆえに、これらは、諸々の増加するものとしてある。たとえ、それらが、諸々の増加するものであるとして、それらは、前に死んだものとしてある(すでに消滅した)。しかして、諸々の前のものもまた、さらには、諸々の後のものもまた、いついかなる時も、互いに他を見なかった」と。


 [161]このように、自らの味用の微小なることによって、生命は、僅かである。

 [162]さらに、また、四大王天〔の神々〕たち(四天王)の生命と比較して、人間たちのばあい、生命は、僅かであり、生命は、微小であり、生命は、僅少であり、生命は、瞬間のものであり、生命は、軽きものであり、生命は、暫しのものであり、生命は、時に耐え得ぬものであり、生命は、長き止住なきものである。三十三天〔の神々〕たちの……略……。耶摩天〔の神々〕たちの……。兜率天〔の神々〕たちの……。化楽天〔の神々〕たちの……。他化自在天〔の神々〕たちの……。梵の衆たる天〔の神々〕(梵天衆)たちの生命と比較して、人間たちのばあい、生命は、僅かであり、生命は、微小であり、生命は、僅少であり、生命は、瞬間のものであり、生命は、軽きものであり、生命は、暫しのものであり、生命は、時に耐え得ぬものであり、生命は、長き止住なきものである。

 [163]まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 [164]〔すなわち〕「比丘たちよ、人間たちのばあい、この寿命は、僅かです。赴くべきは、来世です。智慮によって、覚るべきです。為すべきは、善なることです。歩むべきは、梵行です。生まれた者に、死なきは存在しないのです。比丘たちよ、彼が、長く生きるとして、彼は、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、僅かに多く〔生きるだけのことです〕。


 [165]〔しかして、詩偈に言う〕『人間たちの寿命は、僅かなもの。善き人は、それを蔑むもの。頭が燃えているかのように、〔世を〕歩むがよい。死の到来なきことは、存在しない。

 [166]昼夜は過ぎ行き、生命は止滅し、人間たちの寿命は滅尽する――諸々の小川の水のように』」〔と〕。ということで――


 [167]「『まさに、この生命は、僅かである』〔と〕」。「慧者たちは言う」とは、慧者たちである、ということで、「慧者たちは」。〔道心〕堅固の者たちである(ディティマー)、ということで、「慧者たちは(ディーラー)」。〔道心〕堅固の成就者たちである(ディティサンパンナー)、ということで、「慧者たちは」。為した悪を厭わしむ者たちである(ディーカタパーパー)、「慧者たちは」。慧(ディー)は、知慧と説かれる。すなわち、知慧、覚知、判別、精査、法(真理)の判別、省察、近察、精察、賢性、巧智、精緻、分明、思弁、近しき注視、英知、思慮、遍き導き、〔あるがままの〕観察、正知、〔導きの〕鞭、知慧、知慧の機能、知慧の力、知慧の刃、知慧の高楼、知慧の光明、知慧の光輝、知慧の灯火、知慧の宝、迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解であり、その知慧を具備したことから、慧者たちとなる。さらに、また、〔五つの〕範疇(五蘊)の慧ある者たち、〔十八の〕界域(十八界)の慧ある者たち、〔十二の認識の〕場所(十二処)の慧ある者たち、〔物事が〕縁によって生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)の慧ある者たち、〔四つの〕気づきの確立(四念住・四念処)の慧ある者たち、〔四つの〕正しい精励(四正勤)の慧ある者たち、〔四つの〕神通の足場(四神足)の慧ある者たち、〔五つの〕機能(五根)の慧ある者たち、〔五つの〕力(五力)の慧ある者たち、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)の慧ある者たち、〔沙門の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)の慧ある者たち、〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)の慧ある者たち、涅槃の慧ある者たちである。それらの慧者たちは、このように言う。「人間たちのばあい、生命は、僅かであり、生命は、微小であり、生命は、僅少であり、生命は、瞬間のものであり、生命は、軽きものであり、生命は、暫しのものであり、生命は、時に耐え得ぬものであり、生命は、長き止住なきものである」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「慧者たちは言う。『まさに、この生命は、僅かである』〔と〕」。

 [168]それによって、世尊は言った。


 [169]「それゆえに、まさに、人は、この〔世において〕こそ、学ぶように。それが何であれ、世において、『不正である』と知られるなら、それを因として、不正を行じおこなうことがないように。慧者たちは言う。『まさに、この生命(寿命)は、僅かである』〔と〕」と。


11.


 [170]783.(776) 〔わたしは〕見る――世において、震えおののいている〔人々〕を――諸々の生存にたいする渇愛に陥った、この人々を。下劣な人たちは、死魔の門にて泣きわめく――諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに。(5)


 [171]「〔わたしは〕見る――世において、震えおののいている〔人々〕を」とは、「〔わたしは〕見る」とは、肉眼によってもまた、〔わたしは〕見る、天眼によってもまた、〔わたしは〕見る、知慧の眼によってもまた、〔わたしは〕見る、覚者の眼によってもまた、〔わたしは〕見る、一切にわたる眼“まなこ”によってもまた、〔わたしは〕見る、〔わたしは〕視認する、〔わたしは〕注目する、〔わたしは〕尋思する、〔わたしは〕近しく注視する。「世において」とは、悪所の世において、人間の世において、天の世において、〔五つの〕範疇の世において、〔十八の〕界域の世において、〔十二の認識の〕場所の世において。

 [172]「震えおののいている〔人々〕を」とは、渇愛による震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、見解による震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、〔心の〕汚れによる震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、悪しき行ないによる震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、専念〔努力〕(加行)による震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、報い(異熟)による震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、貪欲によって貪る者となり震えおののいている〔人々〕を、憤怒によって怒る者となり震えおののいている〔人々〕を、迷妄によって迷う者となり震えおののいている〔人々〕を、思量によって結縛された者となり震えおののいている〔人々〕を、見解によって偏執した者となり震えおののいている〔人々〕を、高揚によって〔心の〕散乱に至った者となり震えおののいている〔人々〕を、疑惑によって結論なきに至った者(疑惑者)となり震えおののいている〔人々〕を、諸々の悪習によって強靱に至った者(頑迷固陋の者)となり震えおののいている〔人々〕を、利得によって震えおののいている〔人々〕を、利得なきによって震えおののいている〔人々〕を、名声によって震えおののいている〔人々〕を、名声なきによって震えおののいている〔人々〕を、賞賛によって震えおののいている〔人々〕を、非難によって震えおののいている〔人々〕を、安楽によって震えおののいている〔人々〕を、苦痛によって震えおののいている〔人々〕を、生によって震えおののいている〔人々〕を、老によって震えおののいている〔人々〕を、病によって震えおののいている〔人々〕を、死によって震えおののいている〔人々〕を、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤によって震えおののいている〔人々〕を、地獄の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、畜生の胎の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、餓鬼の境域の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、人間の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、入胎を根元とする苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、胎における止住を根元とする苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、胎からの出起を根元とする苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、生まれた者に連結する苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、生まれた者が他者の配下となる苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、自己の行動(自害)としての苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、他者の行動(他害)としての苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、苦痛としての苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、形成の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、変化の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、眼の病の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、耳の病の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、鼻の病の苦しみによって……略……舌の病の……身の病の……頭の病の……耳(外耳)の病の……口の病の……歯の病の……咳の……喘息の……感昌の……発熱の……老化の……腹の病の……気絶の……下痢の……腹痛の……虎列刺(コレラ)の……癩病の……腫物の……疱瘡の……肺病の……癲癇の……肌荒の……痒疥の……疥癬の……掻傷の……皹(あかぎれ)の……出血の……糖尿の……痔の……吹出物の……潰瘍の……胆汁から等しく現起する病苦の……痰から等しく現起する病苦の……風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する病苦の……〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての病苦の……季節の変化から生じる病苦の……平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる病苦の……突然の病苦の……行為の報い(業報)から生じる病苦の……寒さの……暑さの……飢えの……渇きの……大便の……小便の……虻や蚊や風や熱や蛇行するもの(蛇)たちの接触の苦しみによって……母の死の苦しみによって……父の死の苦しみによって……兄弟の死の苦しみによって……姉妹の死の苦しみによって……子の死の苦しみによって……娘の死の苦しみによって……親族の災厄の……財物の災厄の……病の災厄の……戒の災厄の……見解の災厄の苦しみによって、震えおののいている〔人々〕を、強く震えおののいている〔人々〕を、等しく震えおののいている〔人々〕を、もがき震えおののいている〔人々〕を、動揺している〔人々〕を、強く動揺している〔人々〕を、等しく動揺している〔人々〕を、〔わたしは〕見る、〔わたしは〕視認する、〔わたしは〕注目する、〔わたしは〕尋思する、〔わたしは〕近しく注視する。ということで、「〔わたしは〕見る――世において、震えおののいている〔人々〕を」。

 [173]「諸々の生存にたいする渇愛に陥った、この人々を」とは、「人々」とは、有情の同義語である。「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭香への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛。「渇愛に陥った」とは、渇愛に陥った、渇愛に従い行った、渇愛に添着した、渇愛のうちに坐した、渇愛によって、打ち倒され、征服され、心を遍く奪い去られた。「諸々の生存にたいする」とは、欲望の生存(欲有)にたいする、形態の生存(色有)にたいする、形態なき生存(無色有)にたいする。ということで、「諸々の生存にたいする渇愛に陥った、この人々を」。

 [174]「下劣な人たちは、死魔の門にて泣きわめく」とは、「下劣な人たちは」とは、下劣な人たちは、下劣なる身体の行為を具備した者たちである、ということで、「下劣な人たち」。下劣なる言葉の行為を具備した者たちである、ということで、「下劣な人たち」。下劣なる意の行為を具備した者たちである、ということで、「下劣な人たち」。下劣なる生き物を殺すことを具備した者たちである、ということで、「下劣な人たち」。下劣なる与えられていないものを取ることを……下劣なる諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)を……。下劣なる虚偽を説くことを……。下劣なる中傷の言葉を……。下劣なる粗暴の言葉を……。下劣なる雑駁な虚論を……。下劣なる強欲〔の思い〕を……。下劣なる加害〔の思い〕を……。下劣なる誤った見解を……。下劣なる諸々の形成〔作用〕を……。下劣なる五つの欲望の対象を……。下劣なる五つの〔修行の〕妨害を……。下劣なる思欲を……。下劣なる切望を……。下劣なる切願を具備した者たちである、ということで、「下劣な人たち」。下劣である、劣悪である、卑賤である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である、ということで、「下劣な人たちは」。「死魔の門にて泣きわめく」とは、「死魔の門にて」とは、悪魔の門において、死の門において。〔彼らが〕死魔を得たなら、〔彼らが〕死魔に得達したなら、〔彼らが〕死魔に近づき行ったなら、〔彼らが〕悪魔を得たなら、〔彼らが〕悪魔に得達したなら、〔彼らが〕悪魔に近づき行ったなら、〔彼らが〕死を得たなら、〔彼らが〕死に得達したなら、〔彼らが〕死に近づき行ったなら、泣きわめき、泣き叫び、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、迷妄を惹起する。ということで、「下劣な人たちは、死魔の門にて泣きわめく」。

 [175]「諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。「諸々の種々なる生存にたいする」とは、種々なる生存における、行為の生存(業有)にたいする、さらなる生存(再有)にたいする――〔すなわち〕欲望の生存(欲有)における行為の生存にたいする、欲望の生存におけるさらなる生存にたいする、形態の生存(色有)における行為の生存にたいする、形態の生存におけるさらなる生存にたいする、形態なき生存(無色有)における行為の生存にたいする、形態なき生存におけるさらなる生存にたいする。繰り返す生存にたいする、繰り返す境遇(趣)にたいする、繰り返す再生にたいする、繰り返す結生にたいする、繰り返す自己状態(個我的あり方)の発現にたいする、渇愛を離れていない者たちとして、渇愛を離れ去っていない者たちとして、渇愛を捨て去っていない者たちとして、渇愛を吐き捨てていない者たちとして、渇愛を解き放っていない者たちとして、渇愛を捨棄していない者たちとして、渇愛を放棄していない者たちとして。ということで、「諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに」。

 [176]それによって、世尊は言った。


 [177]「〔わたしは〕見る――世において、震えおののいている〔人々〕を――諸々の生存にたいする渇愛に陥った、この人々を。下劣な人たちは、死魔の門にて泣きわめく――諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに」と。


12.


 [178]784.(777) 見よ――わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)に、震えおののいている者たちを――水少なく、涸れた流れのなかにいる、魚たちのような者たちを(彼らは、所有物を失う不安と恐怖で悩み苦しんでいる)。また、このことを見て、我執なき者として、行じおこなうように(世に住むべきである)――諸々の生存にたいし、執着〔の思い〕を為さずにいる者として。(6)


 [179]「見よ――わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)に、震えおののいている者たちを」とは、「我執」とは、二つの我執がある。(1)渇愛の我執と、(2)見解の我執とである。(1)どのようなものが、渇愛の我執であるのか。およそ、渇愛と名づけられたものによって、境界が作り為され、制約が作り為され、限界が作り為され、最終極が作り為され、遍く収取され、わがものとされた、そのかぎりのものである。「これは、わたしのものである」「このものは、わたしのものである」「これだけが、わたしのものである」「これだけのものが、わたしのものである」「わたしの、諸々の形態であり、諸々の音声であり、諸々の臭香であり、諸々の味感であり、諸々の感触であり、諸々の敷物であり、諸々の着物であり、侍女や奴隷たちであり、山羊や羊たちであり、鶏や豚たちであり、象や牛や馬や騾馬たちであり、田畑であり、地所であり、金貨であり、黄金であり、村や町や王都であり、しかして、国土であり、しかして、地方であり、しかして、蔵であり、しかして、貯蔵庫である」〔と〕、大地の全部でさえも、渇愛を所以にわがものとする。およそ、百八の渇愛の行ないとしてある、そのかぎりのものである。これが、渇愛の我執である。

 [180](2)どのようなものが、見解の我執であるのか。二十の事態ある身体が有るという見解(有身見)、十の事態ある誤った見解(邪見)、十の事態ある極〔論〕を収め取るものとしての見解(辺執見)――すなわち、このような形態の、見解、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の演芸、見解の騒動、見解の束縛、収取、納受、固着、偏執、邪道、邪路、邪性、異教の〔認識の〕場所(境地・立場)、転倒への収取、転倒したものへの収取、転倒するものへの収取、誤った収取、「あるがままでないものについて、あるがままのものである」という収取――およそ、六十二の悪しき見解としてある、そのかぎりのものである。これが、見解の我執である。「見よ――わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)に、震えおののいている者たちを」とは、わがものとされた事物に、略奪の恐怖ある者たちとしてもまた震えおののき、略奪されつつあるときもまた震えおののき、略奪されたときもまた震えおののき、わがものとされた事物に、変化の恐怖ある者たちとしてもまた震えおののき、変化しつつあるときもまた震えおののき、変化したときもまた、震えおののき、強く震えおののき、等しく震えおののき、もがき震えおののき、動揺し、強く動揺し、等しく動揺する。このように、震えおののいている者たちを、強く震えおののいている者たちを、等しく震えおののいている者たちを、もがき震えおののいている者たちを、動揺している者たちを、強く動揺している者たちを、等しく動揺している者たちを、見よ、視認せよ、注目せよ、尋思せよ、近しく注視せよ。ということで、「見よ――わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)に、震えおののいている者たちを」。

 [181]「水少なく、涸れた流れのなかにいる、魚たちのような者たちを」とは、たとえば、水が完全に取り払われ、水少なく水僅かのところで、魚たちが、あるいは、烏たちに、あるいは、鷹たちに、あるいは、鶴たちに、攻撃されつつ、引き揚げられつつ、喰われつつ、震えおののき、強く震えおののき、等しく震えおののき、もがき震えおののき、動揺し、強く動揺し、等しく動揺するように、まさしく、このように、人々は、わがものとされた事物に、略奪の恐怖ある者たちとしてもまた震えおののき、略奪されつつあるときもまた震えおののき、略奪されたときもまた震えおののき、わがものとされた事物に、変化の恐怖ある者たちとしてもまた震えおののき、変化しつつあるときもまた震えおののき、変化したときもまた、震えおののき、強く震えおののき、等しく震えおののき、もがき震えおののき、動揺し、強く動揺し、等しく動揺する。ということで、「水少なく、涸れた流れのなかにいる、魚たちのような者たちを」。

 [182]「また、このことを見て、我執なき者として、行じおこなうように」とは、諸々の我執について、この危険(患)を、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。ということで、「また、このことを見て」。「我執なき者として、行じおこなうように」とは、「我執」とは、二つの我執がある。(1)渇愛の我執と、(2)見解の我執とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の我執である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の我執である。渇愛の我執を捨棄して、見解の我執を放棄して、眼をわがものとせずにいる者として、耳をわがものとせずにいる者として、鼻をわがものとせずにいる者として、舌をわがものとせずにいる者として、身をわがものとせずにいる者として、意をわがものとせずにいる者として、諸々の形態を……諸々の音声を……諸々の臭香を……諸々の味感を……諸々の感触を……諸々の法(意の対象)を……家を……衆徒を……居住を……利得を……名声を……賞賛を……安楽を……衣料を……〔行乞の〕施食を……臥坐所を……病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)を……欲望の界域(欲界)を……形態の界域(色界)を……形態なき界域(無色界)を……欲望の生存(欲有)を……形態の生存(色有)を……形態なき生存(無色有)を……表象の生存(想有)を……表象なき生存(無想有)を……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)を……一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)を……四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)を……五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)を……過去を……未来を……現在を……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)を、わがものとせずにいる者として、収取せずにいる者として、偏執せずにいる者として、固着せずにいるものとして、行じおこなうべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔行ないを〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。ということで、「また、このことを見て、我執なき者として、行じおこなうように」。

 [183]「諸々の生存にたいし、執着〔の思い〕を為さずにいる者として」とは、「諸々の生存にたいし」とは、欲望の生存にたいし、形態の生存にたいし、形態なき生存にたいし。執着〔の思い〕は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「諸々の生存にたいし、執着〔の思い〕を為さずにいる者として」とは、諸々の生存にたいし、執着〔の思い〕を為さずにいる者として、欲〔の思い〕を、愛情を、貪欲を、愛着を、為さずにいる者として、生じさせずにいる者として、産出させずにいる者として、発現させずにいる者として、再出させずにいる者として。ということで、「諸々の生存にたいし、執着〔の思い〕を為さずにいる者として」。

 [184]それによって、世尊は言った。


 [185]「見よ――わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)に、震えおののいている者たちを――水少なく、涸れた流れのなかにいる、魚たちのような者たちを(彼らは、所有物を失う不安と恐怖で悩み苦しんでいる)。また、このことを見て、我執なき者として、行じおこなうように(世に住むべきである)――諸々の生存にたいし、執着〔の思い〕を為さずにいる者として」と。


13.


 [186]785.(778) 〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を取り除くように――〔感官とその対象の〕接触(触:感覚・経験)を遍く知って、貪求なき者となり。〔まさに〕その、自己を難じる者が〔為す〕こと、それを為さずにいる者は――慧者は、諸々の見られ聞かれたもの(欲望の対象)に汚されない。(7)


 [187]「〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を取り除くように」とは、「極」とは、接触(触)は、一つの極であり、接触の集起は、第二の極である。過去は、一つの極であり、未来は、第二の極である。安楽の感受(楽受)は、一つの極であり、苦痛の感受(苦受)は、第二の極である。名前(名:精神的事象)は、一つの極であり、形態(色:物質的事象)は、第二の極である。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処:眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処)は、一つの極であり、六つの外なる〔認識の〕場所(六外処:色処・声処・香処・味処・触処・法処)は、第二の極である。身体を有すること(有身)は、一つの極であり、身体を有することの集起は、第二の極である。「欲〔の思い〕」とは、すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪欲、欲望〔の対象〕にたいする愉悦、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛、欲望〔の対象〕にたいする執取、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の妨害である。「〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を取り除くように」とは、〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を、取り除くべきであり、取り除き去るべきであり、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らしめるべきである。ということで、「〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を取り除くように」。

 [188]「〔感官とその対象の〕接触を遍く知って、貪求なき者となり」とは、「接触」とは、眼の接触(眼触)、耳の接触(耳触)、鼻の接触(鼻触)、舌の接触(舌触)、身の接触(身触)、意の接触(意触)、名辞の接触(増語触)、障礙の接触(有対触)、安楽として感受されるべき接触、苦痛として感受されるべき接触、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触、善なる接触、善ならざる接触、〔善悪が〕説き示されない接触(無記触)、欲望の行境の接触、形態の行境の接触、形態なき行境の接触、空性の接触、無相の接触、無願の接触、世〔俗〕の接触(世間触)、世〔俗〕を超える接触(出世間触)、過去の接触、未来の接触、現在の接触。すなわち、このような形態の、接触、触れること、接触すること、接触あることである。これが、接触と説かれる。

 [189]「〔感官とその対象の〕接触を遍く知って」とは、接触を、三つの遍知によって遍く知って。(1)所知の遍知によって、(2)推量の遍知によって、(3)捨棄の遍知によって。(1)どのようなものが、所知の遍知であるのか。〔彼は〕接触を知る。「これは、眼の接触である」「これは、耳の接触である」「これは、鼻の接触である」「これは、舌の接触である」「これは、身の接触である」「これは、意の接触である」「これは、名辞の接触である」「これは、障礙の接触である」「これは、安楽として感受されるべき接触である」「これは、苦痛として感受されるべき接触である」「これは、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触である」「これは、善なる接触である」「これは、善ならざる接触である」「これは、〔善悪が〕説き示されない接触である」「これは、欲望の行境の接触である」「これは、形態の行境の接触である」「これは、形態なき行境の接触である」「これは、空性の接触である」「これは、無相の接触である」「これは、無願の接触である」「これは、世〔俗〕の接触である」「これは、世〔俗〕を超える接触である」「これは、過去の接触である」「これは、未来の接触である」「これは、現在の接触である」と、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。これが、所知の遍知である。

 [190](2)どのようなものが、推量の遍知であるのか。このように所知を為して、〔彼は〕接触を推量する。無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊するもの〔の観点〕から、疾患〔の観点〕から、禍〔の観点〕から、恐怖〔の観点〕から、災禍〔の観点〕から、動揺するもの〔の観点〕から、滅壊するもの〔の観点〕から、常久ならざるもの〔の観点〕から、救護所ならざるもの〔の観点〕から、避難所ならざるもの〔の観点〕から、帰依所ならざるもの〔の観点〕から、空虚〔の観点〕から、虚妄〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、変化の法(性質)〔の観点〕から、真髄なきもの〔の観点〕から、悩苦の根元〔の観点〕から、殺戮者〔の観点〕から、非生存〔の観点〕から、煩悩を有するもの〔の観点〕から、形成されたもの(有為)〔の観点〕から、悪魔の餌〔の観点〕から、生と老と病と死の法(性質)〔の観点〕から、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)〔の観点〕から、〔心の〕汚染(雑染)の法(性質)〔の観点〕から、集起〔の観点〕から、滅至〔の観点〕から、悦楽〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、出離〔の観点〕から、〔彼は〕推量する。これが、推量の遍知である。

 [191](3)どのようなものが、捨棄の遍知であるのか。このように推量して、〔彼は〕接触にたいする欲〔の思い〕と貪欲を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめる。まさに、このことが、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「比丘たちよ、それが、諸々の接触にたいする欲〔の思い〕と貪欲であるなら、それを捨棄しなさい。このように、その接触は、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕(先端が切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう」と。これが、捨棄の遍知である。「〔感官とその対象の〕接触を遍く知って」とは、接触を、これらの三つの遍知によって遍く知って。「貪求なき者となり」とは、貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この貪求が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、貪求なき者と説かれる。彼は、形態について貪求なき者として、音声について貪求なき者として、臭香について貪求なき者として、味感について貪求なき者として、感触について貪求なき者として、家について……衆徒について……居住について……利得について……名声について……賞賛について……安楽について……衣料について……〔行乞の〕施食について……臥坐所について……病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)について……欲望の界域(欲界)について……形態の界域(色界)について……形態なき界域(無色界)について……欲望の生存(欲有)について……形態の生存(色有)について……形態なき生存(無色有)について……表象の生存(想有)について……表象なき生存(無想有)について……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)について……一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)について……四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)について……五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)について……過去について……未来について……現在について……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)について、貪求なき者として、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、貪求を離れた者として、貪求を離れ去った者として、貪求を捨て去った者として、貪求を吐き捨てた者として、貪求を解き放った者として、貪求を捨棄した者として、貪求を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、〔心が〕寂滅した者として、〔心が〕冷静に成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって、〔世に〕住む。ということで、「〔感官とその対象の〕接触を遍く知って、貪求なき者となり」。

 [192]「〔まさに〕その、自己を難じる者が〔為す〕こと、それを為さずにいる者は」とは、「〔まさに〕その」とは、すなわち。「自己を難じる者が〔為す〕」とは、二つの契機によって、自己を難じる。しかして、〔自己が〕為したことによって、さらには、〔自己が〕為さなかったことによって。どのように、しかして、〔自己が〕為したことによって、さらには、〔自己が〕為さなかったことによって、自己を難じるのか。「わたしによって、身体による悪しき行ないが為された」「わたしによって、身体による善き行ないが為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、言葉による悪しき行ないが為された」「わたしによって、言葉による善き行ないが為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、意による悪しき行ないが為された」「わたしによって、意による善き行ないが為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、生き物を殺すことが為された」「わたしによって、生き物を殺すことからの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、与えられていないものを取ることが為された」「わたしによって、与えられていないものを取ることからの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)が為された」「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないからの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、虚偽を説くことが為された」「わたしによって、虚偽を説くことからの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、中傷の言葉が為された」「わたしによって、中傷の言葉からの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、粗暴の言葉が為された」「わたしによって、粗暴の言葉からの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、雑駁な虚論が為された」「わたしによって、雑駁な虚論からの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、強欲〔の思い〕が為された」「わたしによって、強欲〔の思い〕なきが為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、加害〔の思い〕が為された」「わたしによって、加害〔の思い〕なきが為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、誤った見解が為された」「わたしによって、正しい見解が為されなかった」と、自己を難じる。このように、しかして、〔自己が〕為したことによって、さらには、〔自己が〕為さなかったことによって、自己を難じる。しかして、あるいは、「〔わたしは〕諸戒における円満成就を為す者として〔世に〕存していない」と、自己を難じる。「〔わたしは〕諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者として〔世に〕存している」と、自己を難じる。「〔わたしは〕食について量を知らない者として〔世に〕存している」と、自己を難じる。「〔眠らずに〕起きていることに〔いまだ〕専念していない者として〔世に存している〕」と、自己を難じる。「気づきと正知を〔いまだ〕具備していない者として〔世に存している〕」と、自己を難じる。「わたしによって、四つの気づきの確立(四念住・四念処)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、四つの正しい精勤(四正勤)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、四つの神通の足場(四神足)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、五つの機能(五根)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、五つの力(五力)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、七つの覚りの支分(七覚支)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、聖なる八つの支分ある道(八正道)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、苦痛が〔いまだ〕遍知されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、集起が〔いまだ〕捨棄されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、道が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、止滅が〔いまだ〕実証されていない」と、自己を難じる。このように、しかして、〔自己が〕為したことによって、さらには、〔自己が〕為さなかったことによって、自己を難じる。このように、自己を難じる行為を、為さずにいる者、生じさせずにいる者、産出させずにいる者、発現させずにいる者、再出させずにいる者。ということで、「〔まさに〕その、自己を難じる者が〔為す〕こと、それを為さずにいる者は」。「慧者は、諸々の見られ聞かれたもの(欲望の対象)に汚されない」とは、「汚れ」とは、二つの汚れがある。(1)渇愛の汚れと、(2)見解の汚れとである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の汚れである。(2)……略([180]参照)……これが、見解の汚れである。「慧者」とは、賢者、知慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明する者、思慮ある者。慧者は、渇愛の汚れを捨棄して、見解の汚れを放棄して、見られたものに汚されず、聞かれたものに汚されず、思われたものに汚されず、識られたものに、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。ということで、「慧者は、諸々の見られ聞かれたもの(欲望の対象)に汚されない」。

 [193]それによって、世尊は言った。


 [194]「〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を取り除くように――〔感官とその対象の〕接触(触:感覚・経験)を遍く知って、貪求なき者となり。〔まさに〕その、自己を難じる者が〔為す〕こと、それを為さずにいる者は――慧者は、諸々の見られ聞かれたもの(欲望の対象)に汚されない」と。


14.


 [195]786.(779) 〔心中の〕表象“おもい”(想:概念・心象)を遍く知って、〔貪欲の〕激流を超え渡るように――諸々の執持〔の対象〕(所有物)に汚されない牟尼(沈黙の聖者)として。〔貪欲の〕矢が引き抜かれた者は、〔気づきを〕怠ることなく行じおこなう者は、この世、および、他〔世〕を、〔両者ともに〕願い求めない。(8)


 [196]「〔心中の〕表象(想)を遍く知って、〔貪欲の〕激流を超え渡るように」とは、「表象」とは、欲望の表象、加害の表象、悩害の表象、離欲の表象、加害なきの表象、悩害なきの表象、形態の表象、音声の表象、臭香の表象、味感の表象、感触の表象、法(意の対象)の表象。すなわち、このような形態の、表象、表象すること、表象あることである。これが、表象と説かれる。「〔心中の〕表象を遍く知って」とは、表象を、三つの遍知によって遍く知って。(1)所知の遍知によって、(2)推量の遍知によって、(3)捨棄の遍知によって。

 [197](1)どのようなものが、所知の遍知であるのか。〔彼は〕表象を知る。「これは、欲望の表象である」「これは、加害の表象である」「これは、悩害の表象である」「これは、離欲の表象である」「これは、加害なきの表象である」「これは、悩害なきの表象である」「これは、形態の表象である」「これは、音声の表象である」「これは、臭香の表象である」「これは、味感の表象である」「これは、感触の表象である」「これは、法(意の対象)の表象である」と、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。これが、所知の遍知である。

 [198](2)どのようなものが、推量の遍知であるのか。このように所知を為して、〔彼は〕表象を推量する。無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊するもの〔の観点〕から、疾患〔の観点〕から、禍〔の観点〕から、恐怖〔の観点〕から、災禍〔の観点〕から、動揺するもの〔の観点〕から、滅壊するもの〔の観点〕から、常久ならざるもの〔の観点〕から、救護所ならざるもの〔の観点〕から、避難所ならざるもの〔の観点〕から、帰依所ならざるもの〔の観点〕から、空虚〔の観点〕から、虚妄〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、変化の法(性質)〔の観点〕から、真髄なきもの〔の観点〕から、悩苦の根元〔の観点〕から、殺戮者〔の観点〕から、非生存〔の観点〕から、煩悩を有するもの〔の観点〕から、形成されたもの(有為)〔の観点〕から、悪魔の餌〔の観点〕から、生と老と病と死の法(性質)〔の観点〕から、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)〔の観点〕から、〔心の〕汚染(雑染)の法(性質)〔の観点〕から、集起〔の観点〕から、滅至〔の観点〕から、悦楽〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、出離〔の観点〕から、〔彼は〕推量する。これが、推量の遍知である。

 [199](3)どのようなものが、捨棄の遍知であるのか。このように推量して、〔彼は〕表象にたいする欲〔の思い〕と貪欲を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめる。まさに、このことが、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「比丘たちよ、それが、表象にたいする欲〔の思い〕と貪欲であるなら、それを捨棄しなさい。このように、その表象は、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう」と。これが、捨棄の遍知である。「〔心中の〕表象を遍く知って」とは、表象を、これらの三つの遍知によって遍く知って。「〔貪欲の〕激流を超え渡るように」とは、欲望の激流を、生存の激流を、見解の激流を、無明の激流を、超えるべきであり、超え上がるべきであり、超え渡るべきであり、等しく超越するべきであり、超克するべきである。ということで、「〔心中の〕表象を遍く知って、〔貪欲の〕激流を超え渡るように」。

 [200]「諸々の執持〔の対象〕(所有物)に汚されない牟尼(沈黙の聖者)として」とは、「諸々の執持」とは、二つの執持がある。(1)渇愛の執持と、(2)見解の執持とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の執持である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の執持である。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。すなわち、知慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。その知恵を具備した者が、牟尼であり、沈黙を得た者である。三つの牟尼の資質がある。(1)身体による牟尼の資質、(2)言葉による牟尼の資質、(3)意による牟尼の資質である。

 [201](1)どのようなものが、身体による牟尼の資質であるのか。三種類の身体による悪しき行ない(不殺生・不偸盗・不邪淫)の捨棄が、身体による牟尼の資質である。三種類の身体による善き行ないが、身体による牟尼の資質である。身体という対象(所縁)についての知恵が、身体による牟尼の資質である。身体の遍知が、身体による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、身体による牟尼の資質である。身体にたいする欲〔の思い〕と貪欲の捨棄が、身体による牟尼の資質である。身体の形成〔作用〕(入息出息)の止滅たる第四の瞑想(第四禅)への入定が、身体による牟尼の資質である。これが、身体による牟尼の資質である。

 [202](2)どのようなものが、言葉による牟尼の資質であるのか。四種類の言葉による悪しき行ない(虚偽を説くこと・中傷の言葉・粗暴の言葉・雑駁な虚論)の捨棄が、言葉による牟尼の資質である。四種類の言葉による善き行ないが、言葉による牟尼の資質である。言葉という対象についての知恵が、言葉による牟尼の資質である。言葉の遍知が、言葉による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、言葉による牟尼の資質である。言葉にたいする欲〔の思い〕と貪欲の捨棄が、言葉による牟尼の資質である。言葉の形成〔作用〕(尋伺)の止滅たる第二の瞑想(第二禅)への入定が、言葉による牟尼の資質である。これが、言葉による牟尼の資質である。

 [203](3)どのようなものが、意による牟尼の資質であるのか。三種類の意による悪しき行ない(強欲の思い・加害の思い・誤った見解)の捨棄が、意による牟尼の資質である。三種類の意による善き行ないが、意による牟尼の資質である。心という対象についての知恵が、意による牟尼の資質である。心の遍知が、意による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、意による牟尼の資質である。心にたいする欲〔の思い〕と貪欲の捨棄が、意による牟尼の資質である。心の形成〔作用〕の止滅たる表象と感受されたものの止滅(想受滅)への入定が、意による牟尼の資質である。これが、意による牟尼の資質である。


 [204]〔しかして、詩偈に言う〕「身体による牟尼を、言葉による牟尼を、意による牟尼を、煩悩なき者を、〔三つの〕牟尼の資質を成就した牟尼を、〔賢者たちは〕『一切を捨棄する者』と言う。

 [205]身体による牟尼を、言葉による牟尼を、意による牟尼を、煩悩なき者を、〔三つの〕牟尼の資質を成就した牟尼を、〔賢者たちは〕『悪しきが洗い清められた者』と言う」と。


 [206]これらの三つの牟尼の資質の法(性質)を具備した六者の牟尼たちがいる。家ある者たる牟尼たち、家なき者たる牟尼たち、〔いまだ〕学びある者(有学)たる牟尼たち、〔もはや〕学びなき者(無学)たる牟尼たち、独者たる牟尼たち、牟尼たる牟尼たちである。どのような者たちが、家ある者たる牟尼たちであるのか。すなわち、彼らが、家ある者たちであり、〔涅槃の〕境処が見られ、〔世尊の〕教えが識知されたなら、これらの者たちが、家ある者たる牟尼たちである。どのような者たちが、家なき者たる牟尼たちであるのか。すなわち、彼らが、出家者たちであり、〔涅槃の〕境処が見られ、〔世尊の〕教えが識知されたなら、これらの者たちが、家なき者たる牟尼たちである。七者の〔いまだ〕学びある者(七有学:預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道)が、〔いまだ〕学びある者たる牟尼たちである。阿羅漢たちが、〔もはや〕学びなき者たる牟尼たちである。独覚(縁覚・辟支仏)たちが、独者たる牟尼たちである。牟尼たる牟尼たちは、阿羅漢にして正自覚者たる如来たちと説かれる。


 [207]〔しかして、詩偈に言う〕「迷乱の形質ある無知なる者が、〔ただの〕沈黙によって、牟尼(沈黙の聖者)と成るのではない。しかしながら、彼が、〔あたかも〕秤“はかり”を掴んでいるかのように、優れているものを〔正しく〕取って、賢者であるなら――

 [208]牟尼である彼は、諸々の悪を遍く避ける。それによって、彼は、牟尼と〔成る〕。彼が、世において、〔善と悪の〕両者を〔あるがままに〕思い量るなら、それによって、〔彼は〕『牟尼』〔と〕呼ばれる。

 [209]正しからざる者たちと、正しくある者たちと、〔両者の〕法(性質)を〔あるがままに〕知って、内、および、外に、一切世〔界〕において〔あるがままに知って〕、天〔の神々〕や人間たちに供養されるべき者となり、執着の網を超え行って、彼は、『牟尼』〔と呼ばれる〕」と。


 [210]「汚れ」とは、二つの汚れがある。(1)渇愛の汚れと、(2)見解の汚れとである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の汚れである。(2)……略([180]参照)……これが、見解の汚れである。牟尼は、渇愛の汚れを捨棄して、見解の汚れを放棄して、諸々の執持〔の対象〕について、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。ということで、「諸々の執持〔の対象〕(所有物)に汚されない牟尼(沈黙の聖者)として」。

 [211]「〔貪欲の〕矢が引き抜かれた者は、〔気づきを〕怠ることなく行じおこなう者は」とは、「矢」とは、七つの矢がある。貪欲の矢、憤怒の矢、迷妄の矢、思量の矢、見解の矢、憂いの矢、懐疑の矢である。彼の、これらの矢が、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、矢を引き抜いた者として、矢を抜き去った者として、矢を取り出した者として、矢を等しく取り出した者として、矢を摘出した者として、矢を等しく摘出した者として、矢を捨て去った者として、矢を吐き捨てた者として、矢を解き放った者として、矢を捨棄した者として、矢を放棄した者として、無欲の者として、〔心が〕寂滅した者として、〔心が〕冷静に成った者として、安楽の得知ある者として、〔かくのごとく〕説かれ、梵と成った自己によって、〔世に〕住む。ということで、「〔貪欲の〕矢が引き抜かれた者は」。

 [212]「行じおこなう者は」とは、行じおこなっている者は、〔世に〕住んでいる者は、振る舞っている者は、行持している者は、〔行ないを〕守っている者は、〔身を〕保っている者は、〔身を〕保ち行っている者は。「〔気づきを〕怠ることなく」とは、諸々の善なる法(性質)について、真剣に為す者として、常に為す者として、停滞なく為す者として、畏縮なき生活者として、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置かない者(道心堅固の者)として、重荷を捨て置かない者(忍耐強固の者)として。「どのように、わたしは、あるいは、〔いまだ〕円満成就なき戒の範疇を円満成就するのだろう、あるいは、〔すでに〕円満成就ある戒の範疇を、そこかしこにおいて、知慧によって資助するのだろう」と、諸々の善なる法(性質)について、すなわち、そこにおける、欲〔の思い〕(意欲)と、努力と、邁進と、勤勇と、反転なきと、気づきと、正知と、熱情、精励、〔心の〕確立、専念〔努力〕、不放逸である。「どのように、わたしは、あるいは、〔いまだ〕円満成就なき〔心の〕統一の範疇を円満成就するのだろう、あるいは、〔すでに〕円満成就ある〔心の〕統一の範疇を、そこかしこにおいて、知慧によって資助するのだろう」と、諸々の善なる法(性質)について……略……。「どのように、わたしは、あるいは、〔いまだ〕円満成就なき知慧の範疇を円満成就するのだろう……解脱の範疇を……解脱の知見の範疇を円満成就するのだろう、あるいは、〔すでに〕円満成就ある解脱の知見の範疇を、そこかしこにおいて、知慧によって資助するのだろう」と、諸々の善なる法(性質)について、すなわち、そこにおける、欲〔の思い〕(意欲)と、努力と、邁進と、勤勇と、反転なきと、気づきと、正知と、熱情、精励、〔心の〕確立、専念〔努力〕、不放逸である。「どのように、わたしは、あるいは、〔いまだ〕遍知されていない苦痛を遍知するのだろう、あるいは、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の〔心の〕汚れを捨棄するのだろう、あるいは、〔いまだ〕修行されていない道を遍知するのだろう、あるいは、〔いまだ〕実証されていない止滅を実証するのだろう」と、諸々の善なる法(性質)について、すなわち、そこにおける、欲〔の思い〕(意欲)と、努力と、邁進と、勤勇と、反転なきと、気づきと、正知と、熱情、精励、〔心の〕確立、専念〔努力〕、不放逸である。ということで、「〔貪欲の〕矢が引き抜かれた者は、〔気づきを〕怠ることなく行じおこなう者は」。

 [213]「この世、および、他〔世〕を、〔両者ともに〕願い求めない」とは、自らの自己状態たるこの世を願い求めず、他の自己状態たる他〔世〕を願い求めない。自らの形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と形成〔作用〕と識知〔作用〕(色受想行識)たるこの世を願い求めず、他の形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と形成〔作用〕と識知〔作用〕たる他〔世〕を願い求めない。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)たるこの世を願い求めず、六つの外なる〔認識の〕場所(六外処)たる他〔世〕を願い求めない。人間の世たるこの世を願い求めず、天の世たる他〔世〕を願い求めない。欲望の界域(欲界)たるこの世を願い求めず、形態の界域(色界)や形態なき界域(無色界)たる他〔世〕を願い求めない。欲望の界域や形態の界域たるこの世を願い求めず、形態なき界域たる他〔世〕を願い求めない。さらなる、あるいは、境遇を、あるいは、再生を、あるいは、結生を、あるいは、生存を、あるいは、輪廻を、あるいは、転起を、願い求めず、求めず、楽しみにせず、切望せず、熱望せず、渇望しない。ということで、「この世、および、他〔世〕を、〔両者ともに〕願い求めない」。

 [214]それによって、世尊は言った。


 [215]「〔心中の〕表象(想:概念・心象)を遍く知って、〔貪欲の〕激流を超え渡るように――諸々の執持〔の対象〕(所有物)に汚されない牟尼(沈黙の聖者)として。〔貪欲の〕矢が引き抜かれた者は、〔気づきを〕怠ることなく行じおこなう者は、この世、および、他〔世〕を、〔両者ともに〕願い求めない」と。


 [216]洞窟についての八なるものの経についての釈示が、第二となる。


1.3 邪悪についての八なるものの経についての釈示


 [217]しかして、邪悪についての八なるものの経についての釈示を説くであろう。


15.


 [218]787.(780) また、或る者たちは、まさに、〔憎しみや怒りなどの〕汚れた意“おもい”で、〔自己の論を〕説く。しかして、また、まさに、〔自説こそが〕真理(諦)である〔という、思い上がりの〕意で、〔自己の論を〕説く。しかしながら、牟尼は、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕生じた〔悪意ある〕論に近づかない。それゆえに、牟尼は、〔他者にたいする〕鬱屈(偏見)が、どこにも存在しない。(1)


っっっfqq [219]「また、或る者たちは、まさに、〔憎しみや怒りなどの〕汚れた意で、〔自己の論を〕説く」とは、それらの異教の者(外道)たちは、汚れた意ある者たちとして、邪悪な意ある者たちとして、〔他を〕遮る意ある者たちとして、〔他を〕遮断する意ある者たちとして、〔他を〕打つ意ある者たちとして、〔他を〕打破する意ある者たちとして、〔他に〕憤る意ある者たちとして、〔他に〕憤懣する意ある者たちとして、〔自己の論を〕説き、しかして、世尊を、さらには、比丘の僧団を、事実ならざることによって批判する。ということで、「また、或る者たちは、まさに、〔憎しみや怒りなどの〕汚れた意で、〔自己の論を〕説く」。

 [220]「しかして、また、まさに、〔自説こそが〕真理である〔という、思い上がりの〕意で、〔自己の論を〕説く」とは、彼らが、それらの異教の者たちに、信を置きながら、信頼しながら、信念しながら、真理の意ある者たちとして、真理の表象“おもい”ある者たちとして、事実の意ある者たちとして、事実の表象ある者たちとして、真実の意ある者たちとして、真実の表象ある者たちとして、あるがままの意ある者たちとして、あるがままの表象ある者たちとして、顛倒なき意ある者たちとして、顛倒なき表象ある者たちとして、〔自己の論を〕説き、しかして、世尊を、さらには、比丘の僧団を、事実ならざることによって批判する。ということで、「しかして、また、まさに、〔自説こそが〕真理である〔という、思い上がりの〕意で、〔自己の論を〕説く」。

 [221]「しかしながら、牟尼は、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕生じた〔悪意ある〕論に近づかない」とは、その論が、生じたもの、産出したもの、発現したもの、再出したもの、出現したものと成る。〔すなわち〕他者からの声(評判・風評)としての、しかして、世尊への、さらには、比丘の僧団への、事実ならざることによる、罵倒、批判として。ということで、「しかしながら、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕生じた〔悪意ある〕論に」。「牟尼は、近づかない」とは、「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。すなわち、知慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。その知恵を具備した者が、牟尼であり、沈黙を得た者である。……略([200-209]参照)……執着の網を超え行って、彼は、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。〔まさに〕その、論に近づく者――彼は、二つの契機によって、論に近づく。〔悪しき論を〕作り為す者は、〔悪しき論を〕作り為す者たることによって、論に近づく。しかして、あるいは、〔論を〕説いているとして、〔他者によって〕批判されつつ、〔他者に〕怒り、〔他者に〕加害し、〔他者に〕反抗し、「〔わたしは、悪しき論を〕作り為すことなき者として〔世に〕存している」と、しかして、忿怒〔の思い〕(忿)を、さらには、憤怒〔の思い〕(瞋)を、かつまた、不興〔の思い〕を、明らかと為す。〔まさに〕その、論に近づく者――彼は、これらの二つの契機によって、論に近づく。牟尼は、二つの契機によって、論に近づくことがない。〔悪しき論を〕作り為すことなき牟尼は、〔悪しき論を〕作り為す者たることによって、論に近づくことがない。しかして、あるいは、〔論を〕説いているとして、〔他者によって〕批判されつつ、〔他者に〕怒らず、〔他者に〕加害せず、〔他者に〕反抗せず、「〔わたしは、悪しき論を〕作り為すことなき者として〔世に〕存している」と、しかして、忿怒〔の思い〕を、さらには、憤怒〔の思い〕を、かつまた、不興〔の思い〕を、明らかと為すことがない。牟尼は、これらの二つの契機によって、論に、近づかず、近づき行かず、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「しかしながら、牟尼は、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕生じた〔悪意ある〕論に近づかない」。

 [222]「それゆえに、牟尼は、〔他者にたいする〕鬱屈(偏見)が、どこにも存在しない」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。牟尼には、〔他を〕打つ心たることが〔存在せず〕、〔他者にたいする〕鬱屈が生じることもまた存在せず、五つの心の鬱屈もまた存在せず、三つの心の鬱屈もまた存在せず、〔すなわち〕貪欲の鬱屈、憤怒の鬱屈、迷妄の鬱屈は、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「それゆえに、牟尼は、〔他者にたいする〕鬱屈(偏見)が、どこにも存在しない」。

 [223]それによって、世尊は言った。


 [224]「また、或る者たちは、まさに、〔憎しみや怒りなどの〕汚れた意で、〔自己の論を〕説く。しかして、また、まさに、〔自説こそが〕真理(諦)である〔という、思い上がりの〕意で、〔自己の論を〕説く。しかしながら、牟尼は、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕生じた〔悪意ある〕論に近づかない。それゆえに、牟尼は、〔他者にたいする〕鬱屈(偏見)が、どこにも存在しない」と。


16.


 [225]788.(781) まさに、どのようにして、自らの見解を超え行くというのだろう――欲〔の思い〕に導かれ、好みによって〔思いが〕固着した者が。〔諸々の特定の見解について〕「〔それらは〕完全である」〔と〕、自ら、〔執着の思いを〕作り為している者は、まさに、〔限定された自己だけの観点から〕知るであろうとおりに、そのように、〔自説を独善的に〕説くであろう。(2)


 [226]「まさに、どのようにして、自らの見解を超え行くというのだろう」とは、すなわち、それらの異教の者たちが、女性遍歴遊行者のスンダリーを殺して、釈迦〔族〕の子の沙門たちの不名誉を喧伝して、「このように、この利得と名声と尊敬と敬仰を、〔沙門たちから〕取り戻すのだ」と、彼らが、このような見解ある者たちとなり、このような忍耐(信受)ある者たちとなり、このような嗜好(意欲)ある者たちとなり、このような主張ある者たちとなり、このような志欲ある者たちとなり、このような志向ある者たちとなるとして、彼らは、自らの見解を、自らの忍耐を、自らの嗜好を、自らの主張を、自らの志欲を、自らの志向を、超え行くことができなかった。しかして、まさに、その名声なき〔悪評〕こそが、彼らに戻り来たものとなる。ということで、このようにもまた、「まさに、どのようにして、自らの見解を超え行くというのだろう」。しかして、あるいは、「世〔界〕は、常恒である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、すなわち、彼が、このような論ある者であるなら、彼は、自らの見解を、自らの忍耐を、自らの嗜好を、自らの主張を、自らの志欲を、自らの志向を、どのようにして、超えるというのだろう、超越するというのだろう、等しく超越するというのだろう、超克するというのだろう。それは、何を因としてか。彼の、その見解は、そのように、完全なるものとして、受持され、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念された〔からである〕。ということで、このようにもまた、「まさに、どのようにして、自らの見解を超え行くというのだろう」。「世〔界〕は、常恒ならざるものである。……略……。「世〔界〕は、終極がある。……。「世〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)。……。「他のものとして生命があり、他のものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、有ることもあれば、有ることがないこともある。……。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、すなわち、彼が、このような論ある者であるなら、彼は、自らの見解を、自らの忍耐を、自らの嗜好を、自らの主張を、自らの志欲を、自らの志向を、どのようにして、超えるというのだろう、超越するというのだろう、等しく超越するというのだろう、超克するというのだろう。それは、何を因としてか。彼の、その見解は、そのように、完全なるものとして、受持され、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念された〔からである〕。ということで、このようにもまた、「まさに、どのようにして、自らの見解を超え行くというのだろう」。

 [227]「欲〔の思い〕に導かれ、好みによって〔思いが〕固着した者が」とは、「欲〔の思い〕に導かれ」とは、自らの見解によって、自らの忍耐によって、自らの嗜好によって、自らの主張によって、行き、導かれ、運ばれ、集められる。たとえば、あるいは、象の乗物によって、あるいは、馬の乗物によって、あるいは、牛の乗物によって、あるいは、山羊の乗物によって、あるいは、羊の乗物によって、あるいは、駱駝の乗物によって、あるいは、驢馬の乗物によって、行き、導かれ、運ばれ、集められるように、まさしく、このように、自らの見解によって、自らの忍耐によって、自らの嗜好によって、自らの主張によって、行き、導かれ、運ばれ、集められる。ということで、「欲〔の思い〕に導かれ」。「好みによって〔思いが〕固着した者が」とは、自らの見解によって、自らの嗜好によって、自らの主張によって、〔思いが〕固着した者が、〔思いが〕確立した者が、〔思いが〕付着した者が、近づき行った者が、固執した者が、信念した者が。ということで、「欲〔の思い〕に導かれ、好みによって〔思いが〕固着した者が」。

 [228]「〔諸々の特定の見解について〕『〔それらは〕完全である』〔と〕、自ら、〔執着の思いを〕作り為している者は」とは、自ら、完全なるものと為し、円満成就のものと為し、至上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為す。「この教師は、一切知者である」と、自ら、完全なるものと為し、円満成就のものと為し、至上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為す。「この法(教え)は、見事に告げ知らされた〔教え〕である」……。「この衆徒は、善き実践者である」……。「この見解は、立派である」……。「この〔実践の〕道は、美しく設けられた」……。「この〔聖者の〕道は、出脱〔の道〕である」と、自ら、完全なるものと為し、円満成就のものと為し、至上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為し、生じさせ、産出させ、発現させ、再出させる。ということで、「〔諸々の特定の見解について〕『〔それらは〕完全である』〔と〕、自ら、〔執着の思いを〕作り為している者は」。

 [229]「まさに、〔限定された自己だけの観点から〕知るであろうとおりに、そのように、〔自説を独善的に〕説くであろう」とは、知るであろうとおりに、そのように、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう。「世〔界〕は、常恒である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、知るであろうとおりに、そのように、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう。「世〔界〕は、常恒ならざるものである。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、知るであろうとおりに、そのように、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう。ということで、「まさに、〔限定された自己だけの観点から〕知るであろうとおりに、そのように、〔自説を独善的に〕説くであろう」。

 [230]それによって、世尊は言った。


 [231]「まさに、どのようにして、自らの見解を超え行くというのだろう――欲〔の思い〕に導かれ、好みによって〔思いが〕固着した者が。〔諸々の特定の見解について〕『〔それらは〕完全である』〔と〕、自ら、〔執着の思いを〕作り為している者は、まさに、〔限定された自己だけの観点から〕知るであろうとおりに、そのように、〔自説を独善的に〕説くであろう」と。


17.


 [232]789.(782) その人が、自己の〔保持する〕諸々の戒や掟を、まさしく、〔他者から〕尋ねられていないのに、他者たちに説くなら――彼が、まさしく、自ら、自己のことを、〔あれこれと〕説くなら――彼のことを、智者たちは、「聖ならざる法(性質)の者」と言う。(3)


 [233]「その人が、自己の〔保持する〕諸々の戒や掟を」とは、「その」とは、彼が、或る者として、相応するままに、関係するままに、流儀のままに、或る境位を得た者として、或る法(性質)を具備した者として――あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、人間であれ。「諸々の戒や掟を」とは、(1)まさしく、戒も、掟も、存在する。(2)掟は存在するが、戒ではない。(1)どのように、まさしく、戒でもあれば、掟でもあるのか。ここに、比丘が、戒ある者と成り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)の統御によって〔自己が〕統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕行状と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。すなわち、そこにおける、自制、統御、違犯なきこと――これが、戒であり、すなわち、受持すること――それが、掟である。統御の義(意味)によって、戒となり、受持の義(意味)によって、掟となる。これが、まさしく、戒でもあれば、掟でもある、と説かれる。(2)どのように、掟ではあるが、戒ではないのか。八つの払拭〔行〕(頭陀)の支分がある。林にある者についての支分、〔行乞の〕施食の者についての支分、糞掃衣の者についての支分、三つの衣料の者についての支分、〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者についての支分、〔決められた時間〕以後の食を否とする者についての支分、常坐〔にして不臥〕なる者についての支分、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者についての支分である。これが、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「むしろ、皮膚も、腱も、骨も、乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人士たる強靱によって、人士たる力量によって、人士たる精進によって、人士たる勤勉によって、得られるべきものであるなら、それを得ずして、精進の確立は有ることなし」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持である。これが、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。


 [234]〔しかして、詩偈に言う〕「渇愛の矢が打破されないうちは、〔わたしは〕食べないであろう、飲まないであろう、精舎から出ないであろう、また、脇をつけて横たわらないであろう(横になって寝ない)」と――


 [235]心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「それまでは、わたしは、この結跏を破らないであろう。わたしの心が、執取せずして、諸々の煩悩から解脱することがない、そのかぎりは」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「それまでは、わたしは、この坐から出起しないであろう。……略……〔瞑想のための〕歩行場から降りないであろう。……精舎から出ないであろう。……半屋根から出ないであろう。……高楼から出ないであろう。……楼房から……洞窟から……山窟から……小屋から……楼閣から……見張塔から……円室から……宝庫から……奉仕堂から……天幕から……木の根元から出ないであろう。わたしの心が、執取せずして、諸々の煩悩から解脱することがない、そのかぎりは」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。

 [236]「まさしく、この、早刻時に、聖なる法(教え)を、将来するのだ、等しく将来するのだ、到達するのだ、体得するのだ、実証するのだ」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「まさしく、この、日中時に……略……夕刻時に……食前に……食後に……初更(宵の内)に……中更(真夜中)に……後更(明け方)に……黒〔分〕(月が欠ける期間)に……白〔分〕(月が満ちる期間)に……雨期に……冬に……夏に……初年期(青年期)に……中年期に……後年期(老年期)に、聖なる法(教え)を、将来するのだ、等しく将来するのだ、到達するのだ、体得するのだ、実証するのだ」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「人(ジャントゥ)が」とは、有情が、人(ナラ)が、若者が、男子が、人物が、生ある者が、生が赴く者が、人(ジャントゥ)が、インダが赴く者が、マヌから生じる者が。ということで、「その人が、自己の〔保持する〕諸々の戒や掟を」。

 [237]「まさしく、〔他者から〕尋ねられていないのに、他者たちに説くなら」とは、「他者たちに」とは、他の、士族たちに、婆羅門たちに、庶民たちに、隷民たちに、在家者たちに、出家者たちに、天〔の神々〕たちに、人間たちに。「〔他者から〕尋ねられていないのに」とは、問い尋ねられていないのに、問尋されていないのに、乞い求められていないのに、要請されていないのに、清信されていないのに。「説くなら」とは、自己の、あるいは、戒を、あるいは、掟を、あるいは、戒と掟を、説く。あるいは、「わたしは、戒の成就者として〔世に〕存している」と、あるいは、「掟の成就者として〔世に存している〕」と、あるいは、「戒と掟の成就者として〔世に存している〕」と――あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たるによって、あるいは、容貌が蓮華のように美しいことによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって、あるいは、「高貴なる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「巨万の財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「在家者を含む出家者たちに名声が知られた者として〔世に存している〕」と、あるいは、「諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)の得者として〔世に〕存している」と、あるいは、「経の専門家として〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として〔世に存している〕」と、あるいは、「法(教え)の言説者として〔世に存している〕」と、あるいは、「林にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔行乞の〕施食の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「糞掃衣の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「三つの衣料の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔決められた時間〕以後の食を否とする者として〔世に存している〕」と、あるいは、「常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第一の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第二の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第三の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第四の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「無所有なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「まさしく、〔他者から〕尋ねられていないのに、他者たちに説くなら」。

 [238]「彼のことを、智者たちは、『聖ならざる法(性質)の者』と言う」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、〔五つの〕範疇(五蘊)の智ある者たち、〔十八の〕界域(十八界)の智ある者たち、〔十二の認識の〕場所(十二処)の智ある者たち、〔物事が〕縁によって生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)の智ある者たち、〔四つの〕気づきの確立(四念住・四念処)の智ある者たち、〔四つの〕正しい精励(四正勤)の智ある者たち、〔四つの〕神通の足場(四神足)の智ある者たち、〔五つの〕機能(五根)の智ある者たち、〔五つの〕力(五力)の智ある者たち、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)の智ある者たち、〔沙門の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)の智ある者たち、〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)の智ある者たち、涅槃の智ある者たちであり、それらの智ある者たちは、このように言う。「これは、聖ならざる者たちの法(性質)であり、これは、聖なる者たちの法(性質)ではなく、これは、愚者たちの法(性質)であり、これは、賢者たちの法(性質)ではなく、これは、正しい人ならざる者たちの法(性質)であり、これは、正しい人たちの法(性質)ではない」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「彼のことを、智者たちは、『聖ならざる法(性質)の者』と言う」。

 [239]「彼が、まさしく、自ら、自己のことを、〔あれこれと〕説くなら」とは、自己(アートゥマン)は、自己(アッタン)と説かれる。「まさしく、自ら、〔あれこれと〕説くなら」とは、まさしく、自ら、自己のことを、〔あれこれと〕説く。あるいは、「わたしは、戒の成就者として〔世に〕存している」と、あるいは、「掟の成就者として〔世に存している〕」と、あるいは、「戒と掟の成就者として〔世に存している〕」と――あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たるによって、あるいは、容貌が蓮華のように美しいことによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって、あるいは、「高貴なる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「巨万の財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「在家者を含む出家者たちに名声が知られた者として〔世に存している〕」と、あるいは、「諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)の得者として〔世に〕存している」と、あるいは、「経の専門家として〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として〔世に存している〕」と、あるいは、「法(教え)の言説者として〔世に存している〕」と、あるいは、「林にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔行乞の〕施食の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「糞掃衣の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「三つの衣料の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔決められた時間〕以後の食を否とする者として〔世に存している〕」と、あるいは、「常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第一の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第二の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第三の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第四の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「無所有なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「彼が、まさしく、自ら、自己のことを、〔あれこれと〕説くなら」。

 [240]それによって、世尊は言った。


 [241]「その人が、自己の〔保持する〕諸々の戒や掟を、まさしく、〔他者から〕尋ねられていないのに、他者たちに説くなら――彼が、まさしく、自ら、自己のことを、〔あれこれと〕説くなら――彼のことを、智者たちは、『聖ならざる法(性質)の者』と言う」と。


18.


 [242]790.(783) しかしながら、自己が寂滅した、寂静なる比丘は、「かくのごとく、わたしは」と、諸々の戒について誇らずにいる。彼のことを、智者たちは、「聖なる法(性質)の者」と説く――彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の妄想〕が、世において、どこにも存在しないなら。(4)


 [243]「しかしながら、自己が寂滅した、寂静なる比丘は」とは、「寂静なる」とは、貪欲が静められたことから、寂静となり、憤怒が静められたことから、寂静となり、迷妄が静められたことから、寂静となり、忿怒(忿)が……怨恨(恨)が……偽装(覆)が……加虐(悩)が……嫉妬(嫉)が……物惜(慳)が……幻想(諂)が……狡猾(誑)が……強情(傲)が……激昂(怒)が……思量(慢)が……高慢(過慢)が……驕慢(驕)が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作(現行)が、静まったことから、静められたことから、寂止させられたことから、燃え尽きたこしたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから、静息したことから、静まり、寂静となり、寂止となり、寂滅となり、静息となった者。ということで、「寂静なる」。「比丘(ビック)」とは、七つの法(性質)が破壊された(ビンナ)ことから、比丘となる。〔すなわち〕身体が有るという見解(有身見)が、破壊されたものと成り、疑惑〔の思い〕(疑)が、破壊されたものと成り、戒や掟への偏執(戒禁取)が、破壊されたものと成り、貪欲が、破壊されたものと成り、憤怒が、破壊されたものと成り、迷妄が、破壊されたものと成り、思量が、破壊されたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる〔迷いの〕生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、破壊されたものと成る。


 [244]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤさん、自己〔自身〕が作り為した道によって、完全なる涅槃に赴き、疑いを超え、虚無(非有:無)と実体(有:存在)とを〔両者ともに〕捨棄して、さらなる〔迷いの〕生存が滅尽した、〔梵行の〕完成者――彼は、『比丘』〔と呼ばれます〕」と。


 [245]「しかしながら、自己が寂滅した、寂静なる比丘は」とは、貪欲が寂滅されたことから、自己が寂滅した者となり、憤怒が寂滅されたことから、自己が寂滅した者となり、迷妄が寂滅されたことから、自己が寂滅した者となり、忿怒が……怨恨が……偽装が……加虐が……嫉妬が……物惜が……幻想“ごまかし”が……狡猾が……強情が……激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が寂滅されたことから、自己が寂滅した者となる。ということで、「しかしながら、自己が寂滅した、寂静なる比丘は」。

 [246]「『かくのごとく、わたしは』と、諸々の戒について誇らずにいる」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、句の順序たること。これが、「かくのごとく、わたしは」ということになる。「諸々の戒について誇らずにいる」とは、ここに、一部の者は、誇る者と成り、誇示する者と〔成る〕。彼は、誇り、誇示する。あるいは、「わたしは、戒の成就者として〔世に〕存している」と、あるいは、「掟の成就者として〔世に存している〕」と、あるいは、「戒と掟の成就者として〔世に存している〕」と――あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たるによって、あるいは、容貌が蓮華のように美しいことによって……略([237]参照)……あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、誇り、誇示する。このように、誇らず、誇示せず、誇ることから、誇示することから、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。ということで、「『かくのごとく、わたしは』と、諸々の戒について誇らずにいる」。

 [247]「彼のことを、智者たちは、『聖なる法(性質)の者』と説く」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、〔五つの〕範疇の智ある者たち、〔十八の〕界域の智ある者たち、〔十二の認識の〕場所の智ある者たち、〔物事が〕縁によって生起する〔道理〕の智ある者たち、〔四つの〕気づきの確立の智ある者たち、〔四つの〕正しい精励の智ある者たち、〔四つの〕神通の足場の智ある者たち、〔五つの〕機能の智ある者たち、〔五つの〕力の智ある者たち、〔七つの〕覚りの支分の智ある者たち、〔沙門の〕道の智ある者たち、〔沙門の〕果の智ある者たち、涅槃の智ある者たちであり、それらの智ある者たちは、このように説く。「これは、聖なる者たちの法(性質)であり、これは、聖ならざる者たちの法(性質)ではなく、これは、賢者たちの法(性質)であり、これは、愚者たちの法(性質)ではなく、これは、正しい人たちの法(性質)であり、これは、正しい人ならざる者たちの法(性質)ではない」と、このように説く。聖者たちは、彼のことを、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「彼のことを、智者たちは、『聖なる法(性質)の者』と説く」。

 [248]「彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の妄想〕が、世において、どこにも存在しないなら」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩(漏)の滅尽者に。「増長」とは、七つの増長がある。貪欲の増長、憤怒の増長、迷妄の増長、思量の増長、見解の増長、〔心の〕汚れ(煩悩)の増長、行為(業)の増長である。彼の、これらの増長が、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。「世において」とは、悪所の世において、人間の世において、天の世において、〔五つの〕範疇の世において、〔十八の〕界域の世において、〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の妄想〕が、世において、どこにも存在しないなら」。

 [249]それによって、世尊は言った。


 [250]「しかしながら、自己が寂滅した、寂静なる比丘は、『かくのごとく、わたしは』と、諸々の戒について誇らずにいる。彼のことを、智者たちは、『聖なる法(性質)の者』と説く――彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の妄想〕が、世において、どこにも存在しないなら」と。


19.


 [251]791.(784) 彼に、〔執着の対象として〕想い描かれ〔妄想によって〕形成された諸々の法(見解)が〔存在し〕、〔特別のものとして〕偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら、すなわち、自己〔の見解〕について〔のみ〕、福利を見るなら、〔まさに〕その、動揺を縁とする〔虚妄の〕寂静に依存する者である。(5)


 [252]「彼に、〔執着の対象として〕想い描かれ〔妄想によって〕形成された諸々の法(見解)が〔存在し〕」とは、「妄想」とは、二つの妄想がある。(1)渇愛の妄想と、(2)見解の妄想とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。「形成された」とは、形成された、行作された、確立された、ということでもまた、「形成された」。しかして、あるいは、無常なるものであり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である、ということでもまた、「形成された」。「彼に」とは、悪しき見解ある者に。諸々の法(見解)は、六十二の悪しき見解と説かれる。ということで、「彼に、〔執着の対象として〕想い描かれ〔妄想によって〕形成された諸々の法(見解)が〔存在し〕」。

 [253]「〔特別のものとして〕偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら」とは、「偏重された」とは、二つの偏重がある。(1)渇愛の偏重と、(2)見解の偏重とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の偏重である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の偏重である。彼の、渇愛の偏重は〔いまだ〕捨棄されず、見解の偏重は〔いまだ〕放棄されず、彼の、渇愛の偏重が〔いまだ〕捨棄されていないことから、見解の偏重が〔いまだ〕放棄されていないことから、彼は、あるいは、渇愛を、あるいは、見解を、偏重して、行じおこなう。渇愛を旗とする者として、渇愛を幟とする者として、渇愛を優位主要とする者として、見解を旗とする者として、見解を幟とする者として、見解を優位主要とする者として、あるいは、渇愛に、あるいは、見解に、取り囲まれ、行じおこなう。ということで、「偏重された」。「存在する」とは、存在する、等しく見い出される、存する、認知される。「諸々の浄白ならざるもの」とは、諸々の浄白ならざるもの、諸々の清白ならざるもの、諸々の完全なる清浄ならざるもの、諸々の汚染したもの、諸々の汚染あるもの。ということで、「〔特別のものとして〕偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら」。

 [254]「すなわち、自己〔の見解〕について〔のみ〕、福利を見るなら」とは、「すなわち、自己〔の見解〕について〔のみ〕」とは、すなわち、自己について。自己は、悪しき見解と説かれる。自己の見解について、二つの福利を、〔彼は〕見る。(1)〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)の福利と、(2)未来の福利とである。(1)どのようなものが、見解について、〔現に見られる〕所見の法(現世)の福利であるのか。或る見解ある教師が〔世に〕有るなら、その見解ある弟子たちが〔世に〕有る。その見解ある教師を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、敬恭を為す。しかして、それを因縁として、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)を得る。これが、見解について、〔現に見られる〕所見の法(現世)の福利である。(2)どのようなものが、見解について、未来の福利であるのか。「この見解は、あるいは、龍たることのために、あるいは、金翅鳥たることのために、あるいは、夜叉たることのために、あるいは、阿修羅たることのために、あるいは、ガンダッバ(音楽神)たることのために、あるいは、〔天の〕大王たることのために、あるいは、インダ〔神〕(インドラ神)たることのために、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)たることのために、あるいは、天〔の神〕たることのために、十分である。この見解は、清らかさのために、清浄のために、完全なる清浄のために、解き放ちのために、解脱のために、完全なる解脱のために、十分である。この見解によって、〔人々は〕清まり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱する。この見解によって、〔わたしは〕清まり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱するのだ」と、未来に果を期待できる者と成る。これが、見解について、未来の福利である。自己の見解について、これらの二つの福利を、〔彼は〕見る、〔彼は〕視認する、〔彼は〕注目する、〔彼は〕尋思する、〔彼は〕近しく注視する。ということで、「すなわち、自己〔の見解〕について〔のみ〕、福利を見るなら」。

 [255]「〔まさに〕その、動揺を縁とする〔虚妄の〕寂静に依存する者である」とは、三つの寂静がある。(1)究極の寂静、(2)置換(彼分)の寂静、(3)主義(世俗)の寂静である。(1)どのようなものが、究極の寂静であるのか。究極の寂静は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の寂止、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。これが、究極の寂静である。(2)どのようなものが、置換の寂静であるのか。第一の瞑想に入定した者のばあい、〔五つの修行の〕妨害が、寂静と成る。第二の瞑想に入定した者のばあい、〔粗雑な〕思考と〔微細な〕想念(尋伺)が、寂静と成る。第三の瞑想に入定した者のばあい、喜悦(喜)が、寂静と成る。第四の瞑想に入定した者のばあい、楽と苦が、寂静と成る。虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定した者のばあい、形態の表象が、障礙の表象が、種々なることの表象が、寂静と成る。識知無辺なる〔認識の〕場所に入定した者のばあい、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象が、寂静と成る。無所有なる〔認識の〕場所に入定した者のばあい、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象が、寂静と成る。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定した者のばあい、無所有なる〔認識の〕場所の表象が、寂静と成る。これが、置換の寂静である。(3)どのようなものが、主義の寂静であるのか。諸々の主義の寂静は、六十二の悪しき見解、諸々の見解としての寂静、と説かれる。しかして、また、主義の寂静が、この義(意味)において志向された「寂静」ということになる(本偈における「寂静」の意味である)。「〔まさに〕その、動揺を縁とする〔虚妄の〕寂静に依存する者である」とは、動揺の寂静に、強き動揺の寂静に、揺らいでいる寂静に、等しく揺らいでいる寂静に、揺れ動いている寂静に、対立している寂静に、想い描かれた寂静に、妄想された寂静に、無常なるものに、形成されたもの(有為)に、縁によって生起したもの(縁已生)に、滅尽の法(性質)に、衰微の法(性質)に、離貪の法(性質)に、止滅の法(性質)に、〔虚妄の〕寂静に、依る者、依存する者、〔思いが〕付着した者、近づき行った者、固執した者、信念した者である。ということで、「〔まさに〕その、動揺を縁とする〔虚妄の〕寂静に依存する者である」。

 [256]それによって、世尊は言った。


 [257]「彼に、〔執着の対象として〕想い描かれ〔妄想によって〕形成された諸々の法(見解)が〔存在し〕、〔特別のものとして〕偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら、すなわち、自己〔の見解〕について〔のみ〕、福利を見るなら、〔まさに〕その、動揺を縁とする〔虚妄の〕寂静に依存する者である」と。


20.


 [258]792.(785) まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない。〔比丘は〕諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔正しく〕判別するように。それゆえに、人は、それらの〔妄執が〕固着する場において、法(見解)を放棄し、かつまた、執取する。(6)


 [259]「まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない」とは、「諸々の見解にたいする固着」とは、「世〔界〕は、常恒である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔心の〕固着としての偏執であり、見解として〔妄執が〕固着する場である。「世〔界〕は、常恒ならざるものである。……。「世〔界〕は、終極がある。……。「世〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)。……。「他のものとして生命があり、他のものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、有ることもあれば、有ることがないこともある。……。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔心の〕固着としての偏執であり、見解として〔妄執が〕固着する場である。ということで、「まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない」とは、まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではなく、超克し難きものであり、超え難く、超え渡り難く、等しく超越し難く、超克し難い。ということで、「まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない」。

 [260]「〔比丘は〕諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔正しく〕判別するように」とは、「諸々の法(見解)について」とは、六十二の悪しき見解について。「〔正しく〕判別するように」とは、判別して、判断して、弁別して、精査して、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。「〔執着の対象として〕執持されたもの」とは、諸々の〔妄執が〕固着する場における、限界あるものへの収取、片々のものへの収取、優れたものへの収取、部位のものへの収取、積集のものへの収取、等しき積集のものへの収取であり、「これは、真理である、如実である、真実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものである。ということで、「〔比丘は〕諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔正しく〕判別するように」。

 [261]「それゆえに、人は、それらの〔妄執が〕固着する場において」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。「人(ナラ)」とは、有情、人(ナラ)、若者(マーナヴァ)、男子(ポーサ)、人物(プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人(ジャントゥ)、インダに赴く者、マヌから生じる者。「それらの〔妄執が〕固着する場において」とは、それらの見解として〔妄執が〕固着する場において。ということで、「それゆえに、人は、それらの〔妄執が〕固着する場において」。

 [262]「法(見解)を放棄し、かつまた、執取する」とは、「放棄する」とは、二つの契機によって放棄する。(1)あるいは、他者による中断によって放棄する。(2)あるいは、不可能であるとして放棄する。(1)どのように、他者による中断によって放棄するのか。他者が、中断させる。〔すなわち〕「その教師は、一切知者にあらず」「〔その〕法(教え)は、見事に告げ知らされた〔教え〕にあらず」「〔その〕衆徒は、善き実践者にあらず」「〔その〕見解は、立派にあらず」「〔その実践の〕道は、美しく設けられたものにあらず」「〔その聖者の〕道は、出脱〔の道〕にあらず」「ここにおいて、あるいは、清らかさは、あるいは、清浄は、あるいは、完全なる清浄は、あるいは、解き放ちは、あるいは、解脱は、あるいは、完全なる解脱は、存在しない」「そこにおいて、あるいは、〔人々が〕清まることは、あるいは、〔人々が〕清浄となることは、あるいは、〔人々が〕完全なる清浄となることは、あるいは、〔人々が〕解き放たれることは、あるいは、〔人々が〕解脱することは、あるいは、〔人々が〕完全に解脱することは、ない」「下劣である、劣悪である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように、他者が中断させる。このように中断させられつつ、教師を放棄し、法(教え)の告知を放棄し、衆徒を放棄し、見解を放棄し、〔実践の〕道を放棄し、〔聖者の〕道を放棄する。このように、他者による中断によって放棄する。(2)どのように、不可能であるとして放棄するのか。戒〔の成就〕を不可能であるとして、戒を放棄する。掟〔の成就〕を不可能であるとして、掟を放棄する。戒と掟〔の成就〕を不可能であるとして、戒と掟を放棄する。このように、不可能であるとして放棄する。「法(見解)を、かつまた、執取する」とは、教師を収取し、法(教え)の告知を収取し、衆徒を収取し、見解を収取し、〔実践の〕道を収取し、〔聖者の〕道を、収取し、偏執し、固着する。ということで、「法(見解)を放棄し、かつまた、執取する」。

 [263]それによって、世尊は言った。


 [264]「まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない。〔比丘は〕諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔正しく〕判別するように。それゆえに、人は、それらの〔妄執が〕固着する場において、法(見解)を放棄し、かつまた、執取する」と。


21.


 [265]793.(786) まさに、清き者には、世のどこにおいても、諸々の種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は存在しない。幻想“ごまかし”も、思量“おもいあがり”も、〔両者ともに〕捨棄して、清き者は、彼は、何によって、〔迷いの生存に〕赴くというのだろう。彼は、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者である。(7)


 [266]「まさに、清き者には、世のどこにおいても、諸々の種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は存在しない」とは、「清き者」とは、清きは、知慧と説かれる。すなわち、知慧、覚知、判別、精査、法(真理)の判別、省察、近察、精察、賢性、巧智、精緻、分明、思弁、近しき注視、英知、思慮、遍き導き、〔あるがままの〕観察、正知、〔導きの〕鞭、知慧、知慧の機能、知慧の力、知慧の刃、知慧の高楼、知慧の光明、知慧の光輝、知慧の灯火、知慧の宝、迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。何を契機とすることから、清きは、知慧と説かれるのか。その知慧によって、身体による悪しき行ないが、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、言葉による悪しき行ないが……意による悪しき行ないが、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、貪欲が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、憤怒が……迷妄が……忿怒が……怨恨が……偽装が……加虐が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、嫉妬が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、物惜が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、幻想が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、狡猾が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、強情が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもする。それを契機とすることから、清きは、知慧と説かれる。

 [267]しかして、あるいは、正しい見解(正見)によって、誤った見解(邪見)が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、正しい思惟(正思惟)によって、誤った思惟(邪思惟)が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、正しい言葉(正語)によって、誤った言葉(邪語)が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、正しい生業“なりわい”(正業)によって、誤った生業(邪業)が、払拭されもし……正しい生き方(正命)によって、誤った生き方(邪命)が、払拭されもし……正しい努力(正精進)によって、誤った努力(邪精進)が、払拭されもし……正しい気づき(正念)によって、誤った気づき(邪念)が、払拭されもし……正しい〔心の〕統一(正定)によって、誤った〔心の〕統一(邪定)が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、正しい知恵(正智)によって、誤った知恵(邪智)が、払拭されもし……正しい解脱(正解脱)によって、誤った解脱(邪解脱)が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもする。

 [268]しかして、あるいは、聖なる八つの支分ある道(八支聖道)によって、一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもする。阿羅漢は、これらの清き法(性質)を、具した者であり、具完した者であり、所有した者であり、完備した者であり、具有した者であり、完有した者であり、具備した者であり、それゆえに、阿羅漢は、清き者である。彼は、貪欲を払拭した者であり、悪を払拭した者であり、〔心の〕汚れを払拭した者であり、苦悶を払拭した者である。ということで、「清き者」。「どこにおいても」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。

 [269]「〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた」とは、二つの妄想がある。(1)渇愛の妄想と、(2)見解の妄想とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。「諸々の種々なる生存にたいし」とは、種々なる生存における、行為の生存(業有)にたいし、さらなる生存(再有)にたいし――〔すなわち〕欲望の生存(欲有)における行為の生存にたいし、欲望の生存におけるさらなる生存にたいし、形態の生存(色有)における行為の生存にたいし、形態の生存におけるさらなる生存にたいし、形態なき生存(無色有)における行為の生存にたいし、形態なき生存におけるさらなる生存にたいし。繰り返す生存にたいし、繰り返す境遇にたいし、繰り返す再生にたいし、繰り返す結生にたいし、繰り返す自己状態(個我的あり方)の発現にたいし。「まさに、清き者には、世のどこにおいても、諸々の種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は存在しない」とは、清き者には、世のどこにおいても、しかして、諸々の種々なる生存にたいし、想い描かれ、妄想され、行作され、確立された、〔特定の〕見解は、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「まさに、清き者には、世のどこにおいても、諸々の種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は存在しない」。

 [270]「幻想も、思量も、〔両者ともに〕捨棄して、清き者は」とは、幻想は、騙しの性行と説かれる。ここに、一部の者は、身体による悪しき行ないを行じおこなって、言葉による悪しき行ないを行じおこなって、意による悪しき行ないを行じおこなって、それを隠蔽することを因として、悪しき欲求を作為する。〔すなわち〕「わたしのことを知ってはならない」と求め、「わたしのことを知ってはならない」と思惟し、「わたしのことを知ってはならない」と言葉を語り、「わたしのことを知ってはならない」と身体によって勤しむ。すなわち、このような形態の、幻想、幻想者たること、誇大、騙すこと、欺き、偽善、欺瞞、秘匿、遍き秘匿、隠蔽、遍き隠蔽、明瞭ならざる行為、公然ならざる行為、隠匿、悪行である。これが、幻想と説かれる。

 [271]「思量」とは、一種類としての、思量がある。すなわち、心の傲慢である。二種類としての、思量がある。自己を高尚とする思量、他者を蔑視する思量である。三種類としての、思量がある。「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、「わたしは、〔他者に〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量である。四種類としての、思量がある。利得によって思量を生じさせ、名声によって思量を生じさせ、賞賛によって思量を生じさせ、安楽によって思量を生じさせる。五種類としての、思量がある。「〔わたしは〕諸々の意に適う形態の得者として〔世に〕存している」と、思量を生じさせ、「〔わたしは〕諸々の意に適う音声の得者として〔世に〕存している」と……「〔わたしは〕諸々の意に適う臭香の得者として〔世に〕存している」と……「〔わたしは〕諸々の意に適う味感の得者として〔世に〕存している」と……「〔わたしは〕諸々の意に適う感触の得者として〔世に〕存している」と、思量を生じさせる。六種類としての、思量がある。眼の成就(具足)によって思量を生じさせ、耳の成就によって……鼻の成就によって……舌の成就によって……身の成就によって……意の成就によって思量を生じさせる。七種類としての、思量がある。思量、高慢、思量と高慢、卑下慢、増上慢、我慢(自我意識)、邪慢である。八種類としての、思量がある。利得によって思量を生じさせ、利得なきによって卑下慢を生じさせ、名声によって思量を生じさせ、名声なきによって卑下慢を生じさせ、賞賛によって思量を生じさせ、非難によって卑下慢を生じさせ、安楽によって思量を生じさせ、苦痛によって卑下慢を生じさせる。九種類としての、思量がある。〔他者に〕勝る者の、「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、〔他者に〕勝る者の、「わたしは、〔他者に〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、〔他者に〕勝る者の、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量、〔他者に〕等しい者の、「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、〔他者に〕等しい者の、「わたしは、〔他者に〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、〔他者に〕等しい者の、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量、〔他者に〕劣る者の、「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、〔他者に〕劣る者の、「わたしは、〔他者に〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、〔他者に〕劣る者の、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量である。十種類としての、思量がある。ここに、一部の者は、思量を生じさせる――あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たるによって、あるいは、容貌が蓮華のように美しいことによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって。すなわち、このような形態の、思量、思量すること、思量あること、傲慢、傲慢になること、〔高慢の〕旗、横柄、心が〔高慢の〕幟を欲することである。これが、思量と説かれる。「幻想も、思量も、〔両者ともに〕捨棄して、清き者は」とは、清き者は、幻想も、思量も、〔両者ともに〕捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らしめて。ということで、「幻想も、思量も、〔両者ともに〕捨棄して、清き者は」。

 [272]「彼は、何によって、〔迷いの生存に〕赴くというのだろう。彼は、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者である」とは、「接近」とは、二つの接近がある。(1)渇愛の接近と、(2)見解の接近とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の接近である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の接近である。彼の、渇愛の接近は〔すでに〕捨棄され、見解の接近は〔すでに〕放棄され、渇愛の接近が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の接近が〔すでに〕放棄されたことから、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない人は、どのような貪欲によって、赴くであろう、どのような憤怒によって、赴くであろう、どのような迷妄によって、赴くであろう、どのような思量によって、赴くであろう、どのような見解によって、赴くであろう、どのような高揚によって、赴くであろう、どのような疑惑によって、赴くであろう、どのような諸々の悪習によって、赴くであろう――あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者(疑惑者)である」と、あるいは、「強靱に至った者(頑迷固陋の者)である」と。〔彼の〕それらの行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、諸々の〔未来の〕境遇に、何よって、赴くというのだろう――あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって〔迷いの生存に〕赴くであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「彼は、何によって、〔迷いの生存に〕赴くというのだろう。彼は、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者である」。

 [273]それによって、世尊は言った。


 [274]「まさに、清き者には、世のどこにおいても、諸々の種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は存在しない。幻想も、思量も、〔両者ともに〕捨棄して、清き者は、彼は、何によって、〔迷いの生存に〕赴くというのだろう。彼は、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者である」と。


22.


 [275]794.(787) まさに、〔執着の対象に〕近づく者は、諸々の法(見解)のうち、〔特定の〕論に近づく。〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう(彼は、論争の相手にはならない)。なぜなら、彼には、自己と自己でないものが、〔両者ともに〕存在しないのだから。彼は、まさしく、この〔世において〕、一切の見解を払い落としたのだ。(8)


 [276]「まさに、〔執着の対象に〕近づく者は、諸々の法(見解)のうち、〔特定の〕論に近づく」とは、「接近」とは、二つの接近がある。(1)渇愛の接近と、(2)見解の接近とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の接近である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の接近である。彼の、渇愛の接近は〔いまだ〕捨棄されず、見解の接近は〔いまだ〕放棄されず、渇愛の接近が〔いまだ〕捨棄されていないことから、見解の接近が〔いまだ〕放棄されていないことから、諸々の法(見解)のうち、〔特定の〕論に近づく――あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者である」と、あるいは、「強靱に至った者である」と。〔彼の〕それらの行作は〔いまだ〕捨棄されず、〔それらの〕行作が〔いまだ〕捨棄されていないことから、〔未来の〕境遇について、論に近づく――あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。〔特定の〕論に、〔彼は〕近づく、〔彼は〕近づき行く、〔彼は〕収取する、〔彼は〕偏執する、〔彼は〕固着する。ということで、「まさに、〔執着の対象に〕近づく者は、諸々の法(見解)のうち、〔特定の〕論に近づく」。

 [277]「〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう」とは、「接近」とは、二つの接近がある。(1)渇愛の接近と、(2)見解の接近とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の接近である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の接近である。彼の、渇愛の接近は〔すでに〕捨棄され、見解の接近は〔すでに〕放棄され、渇愛の接近が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の接近が〔すでに〕放棄されたことから、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない人を、どのような貪欲によって、説くというのだろう、どのような憤怒によって、説くというのだろう、どのような迷妄によって、説くというのだろう、どのような思量によって、説くというのだろう、どのような見解によって、説くというのだろう、どのような高揚によって、説くというのだろう、どのような疑惑によって、説くというのだろう、どのような諸々の悪習によって、説くというのだろう――あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者である」と、あるいは、「強靱に至った者である」と。〔彼の〕それらの行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、諸々の〔未来の〕境遇を、何によって、説くというのだろう――あるいは、「地獄にある者である」と……略([272]参照)……あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう」。

 [278]「なぜなら、彼には、自己と自己でないものが、〔両者ともに〕存在しないのだから」とは、「自己が」とは、自己についての誤った見解が存在しない。「自己でないものが」とは、断絶の見解が存在しない。「自己が」とは、収取されたものが存在しない。「自己でないものが」とは、解き放つべきものが存在しない。彼に、収取されたものが存在しないなら、彼に、解き放つべきものは存在しない。彼に、解き放つべきものが存在しないなら、彼に、収取されたものは存在しない。阿羅漢は、収取することと解き放つことを等しく超越した者であり、増大と衰退を超克した者である。彼は、住むことを住んだ者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない」〔と〕。ということで、「なぜなら、彼には、自己と自己でないものが、〔両者ともに〕存在しないのだから」。

 [279]「彼は、まさしく、この〔世において〕、一切の見解を払い落としたのだ」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、まさしく、この〔世において〕、一切の悪しき見解を、払い落とした、払拭した、等しく払拭した、振り払った、捨棄した、除去した、終息を為した、状態なきへと至らしめた。ということで、「彼は、まさしく、この〔世において〕、一切の見解を払い落としたのだ」。

 [280]それによって、世尊は言った。


 [281]「まさに、〔執着の対象に〕近づく者は、諸々の法(見解)のうち、〔特定の〕論に近づく。〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう(彼は、論争の相手にはならない)。なぜなら、彼には、自己と自己でないものが、〔両者ともに〕存在しないのだから。彼は、まさしく、この〔世において〕、一切の見解を払い落としたのだ」と。


 [282]邪悪についての八なるものの経についての釈示が、第三となる。


1.4 清浄についての八なるものの経についての釈示


 [283]しかして、清浄についての八なるものの経についての釈示を説くであろう。


23.


 [284]795.(788) 「〔わたしは〕見る――清浄で、無病で、最高なる者を。見られたものによって、人の清浄は有る」〔と〕、このように〔自己だけの観点で〕証知しながら、「〔これこそ〕最高である」と〔自分勝手に〕知って、清浄を随観する(理解する)者は、かくのごとく、〔形だけの〕知恵を信受する(盲信する)。(1)


 [285]「〔わたしは〕見る――清浄で、無病で、最高なる者を」とは、「〔わたしは〕見る――清浄で」とは、〔わたしは〕見る――清浄なる者を、〔わたしは〕視認する――清浄なる者を、〔わたしは〕注目する――清浄なる者を、〔わたしは〕尋思する――清浄なる者を、〔わたしは〕近しく注視する――清浄なる者を。「無病で、最高なる者を」とは、最高の、無病を得た者を、救護所を得た者を、避難所を得た者を、帰依所を得た者を、恐怖なきを得た者を、死滅なきを得た者を、不死を得た者を、涅槃を得た者を。ということで、「〔わたしは〕見る――清浄で、無病で、最高なる者を」。

 [286]「見られたものによって、人の清浄は有る」とは、眼の識知〔作用〕による形態を見ることによって、人に、清らかさが、清浄が、完全なる清浄が、解き放ちが、解脱が、完全なる解脱が、有り、人は、清まり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱する。ということで、「見られたものによって、人の清浄は有る」。

 [287]「このように〔自己だけの観点で〕証知しながら、『〔これこそ〕最高である』と〔自分勝手に〕知って」とは、このように、証知しながら、了知しながら、識知しながら、解知しながら、理解しながら。「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、知って、解して、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。ということで、「このように〔自己だけの観点で〕証知しながら、『〔これこそ〕最高である』と〔自分勝手に〕知って」。

 [288]「清浄を随観する(理解する)者は、かくのごとく、〔形だけの〕知恵を信受する(盲信する)」とは、彼が、清浄を見るなら、彼は、清浄を随観する者である。「知恵を信受する」とは、眼の識知〔作用〕による形態を見ることによって、「知恵である」と信受する、「道(マッガ)である」と信受する、「道(パタ)である」と信受する、「出脱〔の道〕である」と信受する。ということで、「清浄を随観する者は、かくのごとく、〔形だけの〕知恵を信受する」。

 [289]それによって、世尊は言った。


 [290]「『〔わたしは〕見る――清浄で、無病で、最高なる者を。見られたものによって、人の清浄は有る』〔と〕、このように〔自己だけの観点で〕証知しながら、『〔これこそ〕最高である』と〔自分勝手に〕知って、清浄を随観する(理解する)者は、かくのごとく、〔形だけの〕知恵を信受する(盲信する)」と。


24.


 [291]796.(789) もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら、あるいは、〔形だけの〕知恵によって、彼が苦を捨棄するなら、彼は、〔見解や知恵にたいする〕依存〔の思い〕を有する者であり、〔自己でない〕他のものによって清まる〔ことになる〕。なぜなら、〔他のものである、彼の〕見解は、彼のことを、そのように〔形だけで〕説いている者と、〔自ら〕説くからである。(2)


 [292]「もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら」とは、もし、眼の識知〔作用〕による形態を見ることによって、人に、清らかさが、清浄が、完全なる清浄が、解き放ちが、解脱が、完全なる解脱が、有り、人が、清まり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱するなら。ということで、「もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら」。

 [293]「あるいは、〔形だけの〕知恵によって、彼が苦を捨棄するなら」とは、もし、眼の識知〔作用〕による形態を見ることによって、人が、生の苦しみを捨棄し、老の苦しみを捨棄し、病の苦しみを捨棄し、死の苦しみを捨棄し、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみを捨棄するなら。ということで、「あるいは、〔形だけの〕知恵によって、彼が苦を捨棄するなら」。

 [294]「彼は、〔見解や知恵にたいする〕依存〔の思い〕を有する者であり、〔自己でない〕他のものによって清まる〔ことになる〕」とは、〔四つの〕気づきの確立より他の、〔四つの〕正しい精励より他の、〔四つの〕神通の足場より他の、〔五つの〕機能より他の、〔五つの〕力より他の、〔七つの〕覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、〔それらとは〕他のものである、清浄ならざる道によって、誤った〔実践の〕道によって、出脱ならざる道によって、人は、清まり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱する〔ことになる〕。「依存〔の思い〕を有する者」とは、貪欲を有する者、憤怒を有する者、迷妄を有する者、渇愛を有する者、見解を有する者、〔心の〕汚れを有する者、執取を有する者。ということで、「彼は、〔見解や知恵にたいする〕依存〔の思い〕を有する者であり、〔自己でない〕他のものによって清まる〔ことになる〕」。

 [295]「なぜなら、〔他のものである、彼の〕見解は、彼のことを、そのように〔形だけで〕説いている者と、〔自ら〕説くからである」とは、まさしく、その見解が、その人のことを説く。「まさしく、かくのごとく、この人は、誤った見解ある者である、転倒した見ある者である」〔と〕。「そのように〔形だけで〕説いている者と」とは、そのように〔形だけで〕、説いている者と、言説している者と、語っている者と、提示している者と、語用している者と。「世〔界〕は、常恒である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、そのように〔形だけで〕、説いている者と、言説している者と、語っている者と、提示している者と、語用している者と。「世〔界〕は、常恒ならざるものである。……。「世〔界〕は、終極がある。……。「世〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)。……。「他のものとして生命があり、他のものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、有ることもあれば、有ることがないこともある。……。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、そのように〔形だけで〕、説いている者と、言説している者と、語っている者と、提示している者と、語用している者と。ということで、「なぜなら、〔他のものである、彼の〕見解は、彼のことを、そのように〔形だけで〕説いている者と、〔自ら〕説くからである」。

 [296]それによって、世尊は言った。


 [297]「もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら、あるいは、〔形だけの〕知恵によって、彼が苦を捨棄するなら、彼は、〔見解や知恵にたいする〕依存〔の思い〕を有する者であり、〔自己でない〕他のものによって清まる〔ことになる〕。なぜなら、〔他のものである、彼の〕見解は、彼のことを、そのように〔形だけで〕説いている者と、〔自ら〕説くからである」と。


25.


 [298]797.(790) 見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教的行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、〔真の〕婆羅門(人格完成者)は、他のものから〔生まれた、虚妄の〕清浄を、〔清浄とは〕言わない。善(功徳)についても、悪(功徳なき)についても、〔何であれ〕汚されない者は、自己を捨棄する者であり、この〔世において〕、〔執着の思いを〕作り為さずにいる。(3)


 [299]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教的行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、〔真の〕婆羅門(人格完成者)は、他のものから〔生まれた、虚妄の〕清浄を、〔清浄とは〕言わない」とは、「ない」とは、否定〔の言葉〕。「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。〔すなわち〕身体が有るという見解(有身見)が、拒否されたものと成り、疑惑〔の思い〕(疑)が、拒否されたものと成り、戒や掟への偏執(戒禁取)が、拒否されたものと成り、貪欲が、拒否されたものと成り、憤怒が、拒否されたものと成り、迷妄が、拒否されたものと成り、思量が、拒否されたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる〔迷いの〕生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、彼にとって、拒否されたものと成る。


 [300]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤさん、一切の悪しき〔行為〕を拒否して、〔世俗の〕垢を離れ、〔心が〕善く定められ、自己を安立した者――彼は、輪廻を超え行って、全一者となります。〔何ものにも〕依存しない、如なる者――彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」と。


 [301]「〔真の〕婆羅門は、他のものから〔生まれた、虚妄の〕清浄を、〔清浄とは〕言わない」とは、〔四つの〕気づきの確立より他の、〔四つの〕正しい精励より他の、〔四つの〕神通の足場より他の、〔五つの〕機能より他の、〔五つの〕力より他の、〔七つの〕覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、〔それらとは〕他のものである、清浄ならざる道によって、誤った〔実践の〕道によって、出脱ならざる道によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、言わず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「〔真の〕婆羅門は、他のものから〔生まれた、虚妄の〕清浄を、〔清浄とは〕言わない」。

 [302]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて」とは、或る沙門や婆羅門たちで、見られたものを清浄とする者たちが存在する。彼らは、〔特定の〕一部の諸形態を見ることを、幸福と信受し、〔特定の〕一部の諸形態を見ることを、不幸と信受する。どのような諸形態を見ることを、幸福と信受するのか。彼らは、早朝に出起して、幸福の在り方をした諸形態を見る。〔すなわち〕風鳥を見る、珍重なるヴェールヴァ〔樹〕の新芽を見る、妊婦を見る、童子を肩に乗せて行く者を見る、満ちた鉢を見る、赤い魚を見る、良馬を見る、良馬の車を見る、雄牛を見る、褐色の牛を見る。このような形態の諸形態を見ることを、幸福と信受する。どのような諸形態を見ることを、不幸と信受するのか。籾殻の山を見る、酪の鉢を見る、空の鉢を見る、芸人を見る、裸の沙門を見る、驢馬を見る、驢馬の乗物を見る、一結の乗物を見る、片目を見る、手萎えを見る、足萎えを見る、半身不髄を見る、老いた者を見る、病んだ者を見る、死んだ者を見る。このような形態の諸形態を見ることを、不幸と信受する。これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちであり、見られたものを清浄とする者たちである。彼らは、見られたものによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。

 [303]或る沙門や婆羅門たちで、聞かれたものを清浄とする者たちが存在する。彼らは、〔特定の〕一部の諸音声を聞くことを、幸福と信受し、〔特定の〕一部の諸音声を聞くことを、不幸と信受する。どのような諸音声を聞くことを、幸福と信受するのか。彼らは、早朝に出起して、幸福の在り方をした諸音声を聞く。〔すなわち〕あるいは、「繁栄」と、あるいは、「繁栄中」と、あるいは、「円満」と、あるいは、「珍重」と、あるいは、「無憂」と、あるいは、「悦意」と、あるいは、「善星」と、あるいは、「善福」と、あるいは、「吉祥」と、あるいは、「吉祥の繁栄」と。このような形態の諸音声を聞くことを、幸福と信受する。どのような諸音声を聞くことを、不幸と信受するのか。あるいは、「片目」と、あるいは、「手萎え」と、あるいは、「足萎え」と、あるいは、「半身不髄」と、あるいは、「老いた者」と、あるいは、「病んだ者」と、あるいは、「死んだ者」と、あるいは、「切断」と、あるいは、「破壊」と、あるいは、「焼失」と、あるいは、「消失」と、あるいは、「非存」と。このような形態の諸音声を聞くことを、不幸と信受する。これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちであり、聞かれたものを清浄とする者たちである。彼らは、聞かれたものによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。

 [304]或る沙門や婆羅門たちで、戒を清浄とする者たちが存在する。彼らは、戒のみによって、自制のみによって、統御のみによって、違犯なきのみによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。〔異教の〕沙門ムンディカープッタは、このように言う。「家長よ、まさに、わたしは、四つの法(性質)を具備した者を、人士たる人にして、善を成就し、最高の善ある、最上の得るべきものを得た、〔誰も〕太刀打ちできない沙門と、〔世に〕知らしめる。どのような四つによって、であるのか。家長よ、ここに、身体によって、悪しき行為を為さず、悪しき言葉を語らず、悪しき思惟を思惟せず、悪しき生き方を生きない。家長よ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した者を、人士たる人にして、善を成就し、最高の善ある、最上の得るべきものを得た、〔誰も〕太刀打ちできない沙門と、〔世に〕知らしめる」〔と〕。まさしく、このように、或る沙門や婆羅門たちで、戒を清浄とする者たちが存在する。彼らは、戒のみによって、自制のみによって、統御のみによって、違犯なきのみによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。

 [305]或る沙門や婆羅門たちで、掟を清浄とする者たちが存在する。彼らは、あるいは、象の掟ある者(象の行動を自らに課す者)たちと成り、あるいは、馬の掟ある者たちと成り、あるいは、牛の掟ある者たちと成り、あるいは、山犬の掟ある者たちと成り、あるいは、烏の掟ある者たちと成り、あるいは、ヴァースデーヴァ〔力士〕の掟ある者たちと成り、あるいは、バラデーヴァ〔力士〕の掟ある者たちと成り、あるいは、プンナバッダ〔夜叉〕の掟ある者たちと成り、あるいは、マニバッダ〔夜叉〕の掟ある者たちと成り、あるいは、火の掟ある者たちと成り、あるいは、龍の掟ある者たちと成り、あるいは、金翅鳥の掟ある者たちと成り、あるいは、夜叉の掟ある者たちと成り、あるいは、阿修羅の掟ある者たちと成り、あるいは、ガンダッバ(音楽神)の掟ある者たちと成り、あるいは、〔天の〕大王の掟ある者たちと成り、あるいは、月の掟ある者たちと成り、あるいは、太陽の掟ある者たちと成り、あるいは、インダ〔神〕(インドラ神)の掟ある者たちと成り、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)の掟ある者たちと成り、あるいは、天〔の神〕の掟ある者たちと成り、あるいは、方角の掟ある者たちと成る。これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちであり、掟を清浄とする者たちである。彼らは、掟よって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。

 [306]或る沙門や婆羅門たちで、思われたものを清浄とする者たちが存在する。彼らは、早朝に出起して、地を撫で、緑(草)を撫で、牛糞を撫で、亀を撫で、鋤先を踏み、胡麻の荷を撫で、珍重なる胡麻を咀嚼し、珍重なる油を塗布し、珍重なる楊子を咀嚼し、珍重なる粘土によって沐浴し、珍重なる衣を着衣し、珍重なる頭巾を巻く。これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちであり、思われたものを清浄とする者たちである。彼らは、思われたものによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。ということで、「〔真の〕婆羅門は、他のものから〔生まれた、虚妄の〕清浄を、〔清浄とは〕言わない」。

 [307]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて」とは、〔真の〕婆羅門は、見られたものとしての清浄についてもまた、清浄を言わず、聞かれたものとしての清浄についてもまた、清浄を言わず、戒としての清浄についてもまた、清浄を言わず、掟としての清浄についてもまた、清浄を言わず、思われたものとしての清浄についてもまた、清浄を、言わず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて、〔真の〕婆羅門は、他のものから〔生まれた、虚妄の〕清浄を、〔清浄とは〕言わない」。

 [308]「善(功徳)についても、悪(功徳なき)についても、〔何であれ〕汚されない者は」とは、功徳(善)は、それが何であれ、三つの界域(三界)のもので、功徳の行作と説かれる。功徳なき(悪)は、一切の善ならざるものと説かれる。すなわち、功徳の行作も、功徳なき行作も、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)も、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕(先端が切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことから、善についても、悪についても、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。ということで、「善についても、悪についても、〔何であれ〕汚されない者は」。

 [309]「自己を捨棄する者であり、この〔世において〕、〔執着の思いを〕作り為さずにいる」とは、「自己を捨棄する者」とは、自己の見解を捨棄する者。「自己を捨棄する者」とは、収取を捨棄する者。「自己を捨棄する者」とは、渇愛を所以に、見解を所以に、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものが、その全てが、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄されたものと成る。「この〔世において〕、〔執着の思いを〕作り為さずにいる」とは、あるいは、功徳の行作を、あるいは、功徳なき行作を、あるいは、不動の行作を、為さずにいる者、生じさせずにいる者、産出させずにいる者、発現させずにいる者、再出させずにいる者。ということで、「自己を捨棄する者であり、この〔世において〕、〔執着の思いを〕作り為さずにいる」。

 [310]それによって、世尊は言った。


 [311]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教的行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、〔真の〕婆羅門(人格完成者)は、他のものから〔生まれた、虚妄の〕清浄を、〔清浄とは〕言わない。善(功徳)についても、悪(功徳なき)についても、〔何であれ〕汚されない者は、自己を捨棄する者であり、この〔世において〕、〔執着の思いを〕作り為さずにいる」と。


26.


 [312]798.(791) 前の〔教師や教義〕を捨棄して、他の〔教師や教義〕に依存する者たち――動揺〔の思い〕に従い行く彼らは、〔自らの〕執着〔の思い〕を超えない。彼らは、〔特定の何かを、執着の対象として〕執持し、〔排除の対象として〕放棄する――猿が、枝を掴んでは放つようなもの。(4)


 [313]「前の〔教師や教義〕を捨棄して、他の〔教師や教義〕に依存する者たち」とは、前の教師を捨棄して、他の教師に依存する者たち、前の法(教え)の告知を捨棄して、他の法(教え)の告知に依存する者たち、前の衆徒を捨棄して、他の衆徒に依存する者たち、前の見解を捨棄して、他の見解に依存する者たち、前の〔実践の〕道を捨棄して、他の〔実践の〕道に依存する者たち、前の〔聖者の〕道を捨棄して、他の〔聖者の〕道に、依存する者たち、等しく依存する者たち、〔思いが〕付着した者たち、近づき行った者たち、固執した者たち、信念した者たち。ということで、「前の〔教師や教義〕を捨棄して、他の〔教師や教義〕に依存する者たち」。

 [314]「動揺〔の思い〕に従い行く彼らは、〔自らの〕執着〔の思い〕を超えない」とは、動揺は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「動揺〔の思い〕に従い行く」とは、動揺〔の思い〕に従い行く者たち、動揺〔の思い〕に従い行った者たち、動揺〔の思い〕に添着した者たち、動揺〔の思い〕によって、倒され、打ち倒され、征服され、心を遍く奪い去られた者たち。「彼らは、〔自らの〕執着〔の思い〕を超えない」とは、貪欲の執着を、憤怒の執着を、迷妄の執着を、思量の執着を、見解の執着を、〔心の〕汚れの執着を、悪しき行ないの執着を、超えず、超え上がらず、超え渡らず、等しく超越せず、超克しない。ということで、「動揺〔の思い〕に従い行く彼らは、〔自らの〕執着〔の思い〕を超えない」。

 [315]「彼らは、〔特定の何かを、執着の対象として〕執持し、〔排除の対象として〕放棄する」とは、〔或る〕教師を収取し、それを解き放って、他の教師を収取する。〔或る〕法(教え)の告知を収取し、それを解き放って、他の法(教え)の告知を収取する。〔或る〕衆徒を収取し、それを解き放って、他の衆徒を収取する。〔或る〕見解を収取し、それを解き放って、他の見解を収取する。〔或る実践の〕道を収取し、それを解き放って、他の〔実践の〕道を収取する。〔或る聖者の〕道を収取し、それを解き放って、他の〔聖者の〕道を収取する。〔彼らは〕収取もし、解き放ちもし、〔彼らは〕執取もし、放棄もする。ということで、「彼らは、〔特定の何かを、執着の対象として〕執持し、〔排除の対象として〕放棄する」。

 [316]「猿が、枝を掴んでは放つようなもの」とは、たとえば、猿が、林や森のなかを歩みつつ、〔或る〕枝を掴み、それを放って、他の枝を掴むように、まさしく、このように、多々なる沙門や婆羅門たちは、多々なる悪しき見解を、収取もし、解き放ちもし、執取もし、放棄もする。ということで、「猿が、枝を掴んでは放つようなもの」。

 [317]それによって、世尊は言った。


 [318]「前の〔教師や教義〕を捨棄して、他の〔教師や教義〕に依存する者たち――動揺〔の思い〕に従い行く彼らは、〔自らの〕執着〔の思い〕を超えない。彼らは、〔特定の何かを、執着の対象として〕執持し、〔排除の対象として〕放棄する――猿が、枝を掴んでは放つようなもの」と。


27.


 [319]799.(792) 人は、自ら〔自分勝手に〕、諸々の掟を受持して、〔自分勝手な〕表象(想:概念・心象)に執着し、〔迷いのままに〕高下に赴く。しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法(真理)を行知して、広き知慧ある者となり、高下に赴かない。(5)


 [320]「人は、自ら〔自分勝手に〕、諸々の掟を受持して」とは、「自ら〔自分勝手に〕、受持して」とは、自ら、受持して。「諸々の掟を」とは、あるいは、象の掟を、あるいは、馬の掟を、あるいは、牛の掟を、あるいは、山犬の掟を、あるいは、烏の掟を、あるいは、ヴァースデーヴァ〔力士〕の掟を、あるいは、バラデーヴァ〔力士〕の掟を、あるいは、プンナバッダ〔夜叉〕の掟を、あるいは、マニバッダ〔夜叉〕の掟を、あるいは、火の掟を、あるいは、龍の掟を、あるいは、金翅鳥の掟を、あるいは、夜叉の掟を、あるいは、阿修羅の掟を……略([305]参照)……あるいは、方角の掟を、取って、等しく取って、執取して、等しく執取して、収取して、偏執して、固着して。「人(ジャントゥ)」とは、有情、人(ナラ)……略([10]参照)……マヌから生じる者。ということで、「人は、自ら〔自分勝手に〕、諸々の掟を受持して」。

 [321]「〔自分勝手な〕表象に執着し、〔迷いのままに〕高下に赴く」とは、教師から教師へと赴く。法(教え)の告知から法(教え)の告知へと赴く。衆徒から衆徒へと赴く。見解から見解へと赴く。〔実践の〕道から〔実践の〕道へと赴く。〔聖者の〕道から〔聖者の〕道へと赴く。「〔自分勝手な〕表象に執着し」とは、欲望の表象に、加害の表象に、悩害の表象に、見解の表象に、執着し(サッタ)、執着し(ヴィサッタ)、執着し(アーサッタ)、居着き、付着し、障害となった者としてある。たとえば、あるいは、壁の釘に、あるいは、吊り鉤に、物品が、執着し(サッタ)、執着し(ヴィサッタ)、執着し(アーサッタ)、居着き、付着し、障害となったものとしてあるように、まさしく、このように、欲望の表象に、加害の表象に、悩害の表象に、見解の表象に、執着し(サッタ)、執着し(ヴィサッタ)、執着し(アーサッタ)、居着き、付着し、障害となった者としてある。ということで、「〔自分勝手な〕表象に執着し、〔迷いのままに〕高下に赴く」。

 [322]「しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法(真理)を行知して」とは、「知ある者」とは、知ある者、明知に至った者、知恵ある者、分明する者、思慮ある者。「諸々の知によって」とは、諸々の知は、四つの〔沙門の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における、知恵(智)、知慧(般若・慧)、知慧の機能、知慧の力、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)、〔あるがままの〕考察、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)、正しい見解(正見)、と説かれる。それらの知によって、生と老と死の、終極に至った者、終極を得た者、突端に至った者、突端を得た者、最終極に至った者、最終極を得た者、完成に至った者、完成を得た者、救護所に至った者、救護所を得た者、避難所に至った者、避難所を得た者、帰依所に至った者、帰依所を得た者、恐怖なきに至った者、恐怖なきを得た者、死滅なきに至った者、死滅なきを得た者、不死に至った者、不死を得た者、涅槃に至った者、涅槃を得た者。あるいは、諸々の知の、終極に至った者、ということで、〔真の〕知に至る者となり、あるいは、諸々の知によって、終極に至った者、ということで、〔真の〕知に至る者となり、あるいは、七つの法(性質)が知られたことから、〔真の〕知に至る者となる。〔すなわち〕身体が有るという見解(有身見)が、知られたものと成り、疑惑〔の思い〕(疑)が、知られたものと成り、戒や掟への偏執(戒禁取)が、知られたものと成り、貪欲が、知られたものと成り、憤怒が、知られたものと成り、迷妄が、知られたものと成り、思量が、知られたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる〔迷いの〕生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、彼にとって、知られたものと成る。


 [323]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤさん、ここに、それらが、沙門たちのものとして存しようが、婆羅門たちのものとして〔存しようが〕、全部の知(ヴェーダ)を〔あるがままに〕弁別して、一切の感受(ヴェーダナー)について、貪欲を離れたなら、一切の知を超え行って、彼は、『〔真の〕知に至る者(ヴェーダグー)』〔と呼ばれます〕」と。


 [324]「しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法(真理)を行知して」とは、法(真理)を、行知して、知悉して。「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「一切の諸法(性質)は、無我である(諸法無我)」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「無明という縁から、諸々の形成〔作用〕(諸行)が〔発生する〕」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「諸々の形成〔作用〕という縁から、識知〔作用〕(識)が〔発生する〕」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「識知〔作用〕という縁から、名前と形態(名色)が〔発生する〕」と……。「名前と形態という縁から、六つの〔認識の〕場所(六処)が〔発生する〕」と……。「六つの〔認識の〕場所という縁から、接触(触)が〔発生する〕」と……。「接触という縁から、感受(受)が〔発生する〕」と……。「感受という縁から、渇愛(愛)が〔発生する〕」と……。「渇愛という縁から、執取(取)が〔発生する〕」と……。「執取という縁から、生存(有)が〔発生する〕」と……。「生存という縁から、生が〔発生する〕」と……。「生という縁から、老と死が〔発生する〕」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある」と……。「名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある」と……。「六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある」と……。「接触の止滅あることから、感受の止滅がある」と……。「感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある」と……。「渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある」と……。「執取の止滅あることから、生存の止滅がある」と……。「生存の止滅あることから、生の止滅がある」と……。「生の止滅あることから、老と死の止滅がある」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「これは、苦痛である」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「これは、苦痛の集起である」と……。「これは、苦痛の止滅である」と……。「これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道である」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「これらは、諸々の煩悩(漏)である」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「これは、煩悩の集起である」と……。「これは、煩悩の止滅である」と……。「これは、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「これらの法(性質)は、証知されるべきである」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「これらの法(性質)は、遍知されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、捨棄されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、修行されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、実証されるべきである」と、法(真理)を、行知して、知悉して。六つの接触の場所(六触処:眼・耳・鼻・舌・身・意)の、集起と、滅至と、悦楽と、危険と、出離とを、法(真理)として、行知して、知悉して。〔心身を構成する〕五つの執取の範疇(五取蘊:色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)の、集起と、滅至と、悦楽と、危険と、出離とを、法(真理)として、行知して、知悉して。四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)の、集起と、滅至と、悦楽と、危険と、出離とを、法(真理)として、行知して、知悉して。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全ては、止滅の法(性質)である」と、法(真理)を、行知して、知悉して。ということで、「しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法(真理)を行知して」。

 [325]「広き知慧ある者となり、高下に赴かない」とは、教師から教師へと赴かない。法(教え)の告知から法(教え)の告知へと赴かない。衆徒から衆徒へと赴かない。見解から見解へと赴かない。〔実践の〕道から〔実践の〕道へと赴かない。〔聖者の〕道から〔聖者の〕道へと赴かない。「広き知慧ある者」とは、広き知慧ある者、大いなる知慧ある者、多々なる知慧ある者、敏速なる知慧ある者、疾走する知慧ある者、鋭敏なる知慧ある者、洞察の知慧ある者。広きは、地と説かれる。その地と等しく広大にして拡張した知慧を具備した者。ということで、「広き知慧ある者となり、高下に赴かない」。

 [326]それによって、世尊は言った。


 [327]「人は、自ら〔自分勝手に〕、諸々の掟を受持して、〔自分勝手な〕表象(想:概念・心象)に執着し、〔迷いのままに〕高下に赴く。しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法(真理)を行知して、広き知慧ある者となり、高下に赴かない」と。


28.


 [328]800.(793) あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の諸法(事象)にたいし、敵対という有り方を離れている。このように見る者である彼を、〔迷妄の覆“おおい”が〕開かれた者として行じおこなう者を、この世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)。(6)


 [329]「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の諸法(事象)にたいし、敵対という有り方を離れている」とは、敵対は、悪魔の軍団と説かれる。身体による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。言葉による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。意による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。貪欲は、悪魔の軍団である。憤怒は、悪魔の軍団である。迷妄は、悪魔の軍団である。忿怒は、悪魔の軍団である。怨恨は……略([49]参照)……。一切の善ならざる行作は、悪魔の軍団である。

 [330]まさに、このことが、世尊によって説かれた。


 [331]〔しかして、詩偈に言う〕「おまえの第一の軍団は、『欲望』〔と呼ばれる〕。第二〔の軍団〕は、『不満』〔と〕呼ばれる。おまえの第三〔の軍団〕は、『飢えと渇き』〔と呼ばれる〕。第四〔の軍団〕は、『渇愛』〔と〕呼ばれる。

 [332]おまえの第五〔の軍団〕は、『〔心の〕沈滞と眠気』〔と呼ばれる〕。第六〔の軍団〕は、『恐怖』〔と〕呼ばれる。おまえの第七〔の軍団〕は、『疑惑』〔と呼ばれる〕。おまえの第八〔の軍団〕は、『偽装と強情』〔と呼ばれる〕。

 [333]利得、名声、尊敬、さらには、〔まさに〕その、誤って得た福徳なるもの――彼が、自己を褒め上げようとも、他者たちを見下そうとも――

 [334]ナムチ(悪魔)よ、これは、おまえの軍団であり、黒き者(悪魔)の攻撃である。勇士ならざる者は、それに勝利することがない。しかしながら、勝利すれば、安楽を得る」と。


 [335]すなわち、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)によって、しかして、一切の悪魔の軍団が、さらには、一切の敵対を為す〔心の〕汚れが、しかして、敗れ、さらには、敗北し、破壊し、破滅し、背面した(非在化した)ことから、彼は、敵対という有り方を離れている者と説かれる。彼は、見られたものにたいし、敵対という有り方を離れている者であり、聞かれたものにたいし、敵対という有り方を離れている者であり、思われたものにたいし、敵対という有り方を離れている者であり、識られたものにたいし、敵対という有り方を離れている者である。ということで、「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の諸法(事象)にたいし、敵対という有り方を離れている」。

 [336]「このように見る者である彼を、〔迷妄の覆が〕開かれた者として行じおこなう者を」とは、まさしく、その、清らかな見ある者を、清浄の見ある者を、完全なる清浄の見ある者を、清白の見ある者を、完全なる清白の見ある者を。しかして、あるいは、清らかな見を、清浄の見を、完全なる清浄の見を、清白の見を、完全なる清白の見を。「〔迷妄の覆が〕開かれた者として」とは、渇愛の覆、見解の覆、〔心の〕汚れの覆、悪しき行ないの覆、無明の覆があり、それらの覆が、開かれ、砕破され、撤去され、等しく撤去され、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものと成る。「行じおこなう者を」とは、行じおこなっている者を、行じ歩んでいる者を、〔世に〕住んでいる者を、振る舞っている者を、行持している者を、〔行ないを〕守っている者を、〔身を〕保っている者を、〔身を〕保ち行っている者を。ということで、「このように見る者である彼を、〔迷妄の覆が〕開かれた者として行じおこなう者を」。

 [337]「この世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう」とは、「妄想」とは、二つの妄想がある。(1)渇愛の妄想と、(2)見解の妄想とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。彼の、渇愛の妄想は〔すでに〕捨棄され、見解の妄想は〔すでに〕放棄され、渇愛の妄想が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が〔すでに〕放棄されたことから、どのような貪欲によって、想い描くというのだろう、どのような憤怒によって、想い描くというのだろう、どのような迷妄によって、想い描くというのだろう、どのような思量によって、想い描くというのだろう、どのような見解によって、想い描くというのだろう、どのような高揚によって、想い描くというのだろう、どのような疑惑によって、想い描くというのだろう、どのような諸々の悪習によって、想い描くというのだろう――あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者(疑惑者)である」と、あるいは、「強靱に至った者(頑迷固陋の者)である」と。〔彼の〕それらの行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、諸々の〔未来の〕境遇を、何によって、想い描くというのだろう――あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、想い描くであろう、妄想するであろう、妄想を惹起するであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。「世において」とは、悪所の世において、人間の世において、天の世において、〔五つの〕範疇の世において、〔十八の〕界域の世において、〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「この世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう」。

 [338]それによって、世尊は言った。


 [339]「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の諸法(事象)にたいし、敵対という有り方を離れている。このように見る者である彼を、〔迷妄の覆が〕開かれた者として行じおこなう者を、この世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)」と。


29.


 [340]801.(794) 〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、彼ら(知慧ある者たち)は、「究極の清浄である」と説かない。〔執着の思いで〕拘束された執取の拘束(欲望や執着の対象)を捨てて、世のどこにおいても、〔自分勝手な〕願望を作らない。(7)


 [341]「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず」とは、「妄想」とは、二つの妄想がある。(1)渇愛の妄想と、(2)見解の妄想とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。彼らの、渇愛の妄想は〔すでに〕捨棄され、見解の妄想は〔すでに〕放棄され、渇愛の妄想が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の妄想を、あるいは、見解の妄想を、想い描かず、生じさせず、産出させず、発現させず、再出させない。ということで、「〔特定の何かを〕想い描かず」。「〔特定の何かを〕偏重せず」とは、「偏重」とは、二つの偏重がある。(1)渇愛の偏重と、(2)見解の偏重とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の偏重である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の偏重である。彼らの、渇愛の偏重は〔すでに〕捨棄され、見解の偏重は〔すでに〕放棄され、渇愛の偏重が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の偏重が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛を〔偏重して、行じおこなうことは〕なく、あるいは、見解を偏重して、行じおこなうことはない。渇愛を旗とする者たちではなく、渇愛を幟とする者たちではなく、渇愛を優位主要とする者たちではなく、見解を旗とする者たちではなく、見解を幟とする者たちではなく、見解を優位主要とする者たちではなく、あるいは、渇愛に〔取り囲まれ、行じおこなうことは〕なく、あるいは、見解に取り囲まれ、行じおこなうことはない。ということで、「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず」。

 [342]「彼ら(知慧ある者たち)は、『究極の清浄である』と説かない」とは、究極の清浄を、輪廻の清浄を、無作の見解(修行不要論)を、常恒の論(常住論)を、説かず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「彼ら(知慧ある者たち)は、『究極の清浄である』と説かない」。

 [343]「〔執着の思いで〕拘束された執取の拘束(欲望や執着の対象)を捨てて」とは、「拘束」とは、四つの拘束(四繋)がある。(1)強欲〔の思い〕としての身体の拘束、(2)加害〔の思い〕としての身体の拘束、(3)戒や掟への偏執としての身体の拘束、(4)「これは真理である」という〔心の〕固着としての身体の拘束である。(1)自己の見解にたいする貪欲は、強欲〔の思い〕としての身体の拘束である。(2)他者の諸論にたいする憤懣と不興は、加害〔の思い〕としての身体の拘束である。(3)自己の、あるいは、戒への、あるいは、掟への、あるいは、戒と掟への、偏執は、戒や掟への偏執としての身体の拘束である。(4)自己の見解は、「これは真理である」という〔心の〕固着としての身体の拘束である。何を契機とすることから、執取の拘束と説かれるのか。それらの拘束によって、形態を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着し、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……境遇を……再生を……結生を……生存を……輪廻を……転起を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着する。それを契機とすることから、執取の拘束と説かれる。「捨てて」とは、〔四つの〕拘束を、捨て去って、捨てて、しかして、あるいは、結び束ねられ、拘束され、結縛され、縛着され、連結され、居着き、付着し、障害となった、結縛するものとしての〔四つの〕拘束を、振り落として、捨てて。たとえば、あるいは、駕篭を、あるいは、車を、あるいは、荷車を、あるいは、戦車を、装備の廃棄を為し、破砕するように、まさしく、このように、〔四つの〕拘束を、捨て去って、捨てて、しかして、あるいは、結び束ねられ、拘束され、結縛され、縛着され、連結され、居着き、付着し、障害となった、結縛するものとしての〔四つの〕拘束を、振り落として、捨てて。ということで、「〔執着の思いで〕拘束された執取の拘束を捨てて」。

 [344]「世のどこにおいても、〔自分勝手な〕願望を作らない」とは、願望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「〔自分勝手な〕願望を作らない」とは、願望を、作らず、生じさせず、産出させず、発現させず、再出させない。「どこにおいても」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「世のどこにおいても、〔自分勝手な〕願望を作らない」。

 [345]それによって、世尊は言った。


 [346]「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、彼ら(知慧ある者たち)は、『究極の清浄である』と説かない。〔執着の思いで〕拘束された執取の拘束(欲望や執着の対象)を捨てて、世のどこにおいても、〔自分勝手な〕願望を作らない」と。


30.


 [347]802.(795) 〔執着の対象として〕執持されたものを、あるいは、〔あるがままに〕知って、あるいは、〔あるがままに〕見て、〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門――彼には、〔執着の対象が〕存在しない。〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない。彼には、この〔世において〕、「〔これこそ〕最高である」〔と〕執持されたもの(執着の対象)が存在しない。(8)


 [348]「〔執着の対象として〕執持されたものを、あるいは、〔あるがままに〕知って、あるいは、〔あるがままに〕見て、〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門――彼には、〔執着の対象が〕存在しない」とは、「罪悪」とは、四つの罪悪(境界)がある。(1)身体が有るという見解、疑惑〔の思い〕、戒や掟への偏執、見解の悪習、疑惑の悪習、さらには、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ、これが、第一の罪悪である。(2)粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕という束縛するもの、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、〔粗大なる〕憤激〔の思い〕の悪習、さらには、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ、これが、第二の罪悪である。(3)微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕という束縛するもの、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕という束縛するもの、微細を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、〔微細を共具した〕憤激〔の思い〕の悪習、さらには、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ、これが、第三の罪悪である。(4)形態〔の行境〕(色界)にたいする貪欲〔の思い〕、形態なき〔行境〕(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕、思量、高揚、無明、思量の悪習、生存にたいする貪欲〔の思い〕の悪習、無明の悪習、さらには、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ、これが、第四の罪悪である。すなわち、しかして、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)によって、これらの四つの罪悪(境界)が、超越され、等しく超越され、超克されたものと成ることから、彼は、〔世の〕罪悪を超え行く者と説かれる。「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。〔すなわち〕身体が有るという見解が、拒否されたものと成り、疑惑〔の思い〕が、拒否されたものと成り、戒や掟への偏執が、拒否されたものと成り……略([299-300]参照)……〔何ものにも〕依存しない、如なる者――彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」〔と〕。「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。

 [349]「〔あるがままに〕知って」とは、あるいは、他者の心〔を探知する〕知恵(他心智)によって知って、あるいは、過去における居住の随念の知恵(宿命随念智)によって知って。「〔あるがままに〕見て」とは、あるいは、肉眼によって見て、あるいは、天眼によって見て。「〔執着の対象として〕執持されたものを、あるいは、〔あるがままに〕知って、あるいは、〔あるがままに〕見て、〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門――彼には、〔執着の対象が〕存在しない」とは、彼には、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものは、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「〔執着の対象として〕執持されたものを、あるいは、〔あるがままに〕知って、あるいは、〔あるがままに〕見て、〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門――彼には、〔執着の対象が〕存在しない」。

 [350]「〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない」とは、貪り〔の対象〕を貪る者たちは、すなわち、五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち、と説かれる。離貪〔の思い〕に染まった者たちは、すなわち、諸々の形態の行境(色界)や形態なき行境(無色界)への入定について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち、と説かれる。「〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない」とは、すなわち、欲望〔の行境〕(欲界)にたいする貪欲〔の思い〕も、形態〔の行境〕(色界)にたいする貪欲〔の思い〕も、形態なき〔行境〕(無色界)にたいする貪欲〔の思い〕も、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕(先端が切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことから、〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない。

 [351]「彼には、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたもの(執着の対象)が存在しない」とは、「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。彼には、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものは、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼には、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたものが存在しない」。

 [352]それによって、世尊は言った。


 [353]「〔執着の対象として〕執持されたものを、あるいは、〔あるがままに〕知って、あるいは、〔あるがままに〕見て、〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門――彼には、〔執着の対象が〕存在しない。〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない。彼には、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたもの(執着の対象)が存在しない」と。


 [354]清浄についての八なるものの経についての釈示が、第四となる。


1.5 最高についての八なるものの経についての釈示


 [355]しかして、最高についての八なるものの経についての釈示を説くであろう。


31.


 [356]803.(796) 諸々の見解について、「〔これこそ〕最高である」と〔独善的に固執し〕固着しながら、世において、人が、それをより上と為すなら、それより他のものについては、〔その〕一切を、「劣る」と言う。それゆえに、〔人は〕諸々の論争を超克しない。(1)


 [357]「諸々の見解について、『〔これこそ〕最高である』と〔独善的に固執し〕固着しながら」とは、或る沙門や婆羅門たちで、悪しき見解ある者たちが存在する。彼らは、六十二の悪しき見解のなかの、何らかの或る悪しき見解を、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、互いに自らの見解のうちに、住し、強く住し、固く住し、遍く住する。たとえば、あるいは、在家者たちが、諸々の家屋のうちに住し、あるいは、罪を有する者たちが、諸々の罪のうちに住し、あるいは、〔心の〕汚れを有する者たちが、諸々の〔心の〕汚れのうちに住するように、まさしく、このように、或る沙門や婆羅門たちで、悪しき見解ある者たちが存在する。彼らは、六十二の悪しき見解のなかの、何らかの或る悪しき見解を、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、互いに自らの見解のうちに、住し、強く住し、固く住し、遍く住する。ということで、「諸々の見解について、『〔これこそ〕最高である』と〔独善的に固執し〕固着しながら」。

 [358]「世において、人が、それをより上と為すなら」とは、「それを」とは、すなわち。「より上と為す」とは、より上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為す。「この教師は、一切知者である」と、より上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為す。「この法(教え)は、見事に告げ知らされた〔教え〕である」……。「この衆徒は、善き実践者である」……。「この見解は、立派である」……。「この〔実践の〕道は、美しく設けられた」……。「この〔聖者の〕道は、出脱〔の道〕である」と、より上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為し、発現させ、再出させる。「人(ジャントゥ)が」とは、有情が、人(ナラ)が……略([10]参照)……マヌから生じる者が。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「世において、人が、それをより上と為すなら」。

 [359]「それより他のものについては、〔その〕一切を、『劣る』と言う」とは、自己の、教師を、法(教え)の告知を、衆徒を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、〔それらを〕除いて、一切の他の論説を、投げ放ち、投げ捨て、遍く投げ放つ。〔すなわち〕「その教師は、一切知者にあらず」「〔その〕法(教え)は、見事に告げ知らされた〔教え〕にあらず」「〔その〕衆徒は、善き実践者にあらず」「〔その〕見解は、立派にあらず」「〔その実践の〕道は、美しく設けられたものにあらず」「〔その聖者の〕道は、出脱〔の道〕にあらず」「ここにおいて、あるいは、清らかさは、あるいは、清浄は、あるいは、完全なる清浄は、あるいは、解き放ちは、あるいは、解脱は、あるいは、完全なる解脱は、存在しない」「そこにおいて、あるいは、〔人々が〕清まることは、あるいは、〔人々が〕清浄となることは、あるいは、〔人々が〕完全なる清浄となることは、あるいは、〔人々が〕解き放たれることは、あるいは、〔人々が〕解脱することは、あるいは、〔人々が〕完全に解脱することは、ない」「下劣である、劣悪である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「それより他のものについては、〔その〕一切を、『劣る』と言う」。

 [360]「それゆえに、〔人は〕諸々の論争を超克しない」とは、「それゆえに」とは、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。「諸々の論争を」とは、諸々の見解の紛争を、諸々の見解の言い争いを、諸々の見解の口論を、諸々の見解の論争を、さらには、諸々の見解の確執を。「超克しない」とは、〔いまだ〕超越していない者であり、〔いまだ〕等しく超越していない者であり、〔いまだ〕超克していない者である。ということで、「それゆえに、〔人は〕諸々の論争を超克しない」。

 [361]それによって、世尊は言った。


 [362]「諸々の見解について、『〔これこそ〕最高である』と〔独善的に固執し〕固着しながら、世において、人が、それをより上と為すなら、それより他のものについては、〔その〕一切を、『劣る』と言う。それゆえに、〔人は〕諸々の論争を超克しない」と。


32.


 [363]804.(797) 見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教的行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、すなわち、自己〔の見解〕について〔のみ〕、福利を見るなら、彼は、そこにおいて、それ(自己の見解)だけに執持して、他の一切を「劣る」と見る。(2)


 [364]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教的行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、すなわち、自己〔の見解〕について〔のみ〕、福利を見るなら」とは、「すなわち、自己〔の見解〕について〔のみ〕」とは、すなわち、自己について。自己は、悪しき見解と説かれる。自己の見解について、二つの福利を、〔彼は〕見る。(1)〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)の福利と、(2)未来の福利とである。(1)どのようなものが、見解について、〔現に見られる〕所見の法(現世)の福利であるのか。或る見解ある教師が〔世に〕有るなら、その見解ある弟子たちが〔世に〕有る。その見解ある教師を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、敬恭を為す。しかして、それを因縁として、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐所や病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)を得る。これが、見解について、〔現に見られる〕所見の法(現世)の福利である。(2)どのようなものが、見解について、未来の福利であるのか。「この見解は、あるいは、龍たることのために、あるいは、金翅鳥たることのために、あるいは、夜叉たることのために、あるいは、阿修羅たることのために、あるいは、ガンダッバ(音楽神)たることのために、あるいは、〔天の〕大王たることのために、あるいは、インダ〔神〕(インドラ神)たることのために、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)たることのために、あるいは、天〔の神〕たることのために、十分である。この見解は、清らかさのために、清浄のために、完全なる清浄のために、解き放ちのために、解脱のために、完全なる解脱のために、十分である。この見解によって、〔人々は〕清まり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱する。この見解によって、〔わたしは〕清まり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱するのだ」と、未来に果を期待できる者と成る。これが、見解について、未来の福利である。自己の見解について、これらの二つの福利を、〔彼は〕見る。見られたものとしての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕見る。……略……。聞かれたものとしての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕見る。……。戒としての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕見る。……。掟としての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕見る。……。思われたものとしての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕見る。(1)〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)の福利と、(2)未来の福利とである。(1)どのようなものが、思われたものとしての清浄について、〔現に見られる〕所見の法(現世)の福利であるのか。或る見解ある教師が〔世に〕有るなら、その見解ある弟子たちが〔世に〕有る。……略……。これが、思われたものとしての清浄について、〔現に見られる〕所見の法(現世)の福利である。(2)どのようなものが、思われたものとしての清浄について、未来の福利であるのか。「この見解は、あるいは、龍たることのために……十分である。……略……。これが、思われたものとしての清浄について、未来の福利である。思われたものとしての清浄についてもまた、これらの二つの福利を、〔彼は〕見る、〔彼は〕視認する、〔彼は〕注目する、〔彼は〕尋思する、〔彼は〕近しく注視する。ということで、「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて、すなわち、自己〔の見解〕について〔のみ〕、福利を見るなら」。

 [365]「彼は、そこにおいて、それ(自己の見解)だけに執持して」とは、「それだけに」とは、その悪しき見解に。「そこにおいて」とは、自らの見解において、自らの忍耐(信受)において、自らの嗜好(意欲)において、自らの主張において。「執持して」とは、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して。ということで、「彼は、そこにおいて、それ(自己の見解)だけに執持して」。

 [366]「他の一切を『劣る』と見る」とは、他の、教師を、法(教え)の告知を、衆徒を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、下劣〔の観点〕から、劣悪〔の観点〕から、下等〔の観点〕から、悪辣〔の観点〕から、劣小〔の観点〕から、微小〔の観点〕から、〔彼は〕見る、〔彼は〕視認する、〔彼は〕注目する、〔彼は〕尋思する、〔彼は〕近しく注視する。ということで、「他の一切を『劣る』と見る」。

 [367]それによって、世尊は言った。


 [368]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教的行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、すなわち、自己〔の見解〕について〔のみ〕、福利を見るなら、彼は、そこにおいて、それ(自己の見解)だけに執持して、他の一切を『劣る』と見る」と。


33.


 [369]805.(798) あるいは、また、それを、智者たちは、「拘束」と説く――それに依存する者が、他を「劣る」と見るなら。それゆえに、まさに、あるいは、見られたものに、聞かれたものに、あるいは、思われたものに、戒や掟に、比丘は、依存しないように。(3)


 [370]「あるいは、また、それを、智者たちは、『拘束』と説く」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、〔五つの〕範疇(五蘊)の智ある者たち、〔十八の〕界域(十八界)の智ある者たち、〔十二の認識の〕場所(十二処)の智ある者たち、〔物事が〕縁によって生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)の智ある者たち、〔四つの〕気づきの確立(四念住・四念処)の智ある者たち、〔四つの〕正しい精励(四正勤)の智ある者たち、〔四つの〕神通の足場(四神足)の智ある者たち、〔五つの〕機能(五根)の智ある者たち、〔五つの〕力(五力)の智ある者たち、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)の智ある者たち、〔沙門の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)の智ある者たち、〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)の智ある者たち、涅槃の智ある者たちであり、それらの智ある者たちは、このように説く。「これは、拘束である」「これは、付着である」「これは、結縛である」「これは、障害である」と、このように説き、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「あるいは、また、それを、智者たちは、『拘束』と説く」。

 [371]「それに依存する者が、他を『劣る』と見るなら」とは、「それに依存する者が」とは、〔まさに〕その、教師に、法(教え)の告知に、衆徒に、見解に、〔実践の〕道に、〔聖者の〕道に、依存する者が、等しく依存する者が、〔思いが〕付着した者が、近づき行った者が、固執した者が、信念した者が。「他を『劣る』と見るなら」とは、他の、教師を、法(教え)の告知を、衆徒を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、下劣〔の観点〕から、劣悪〔の観点〕から、下等〔の観点〕から、悪辣〔の観点〕から、劣小〔の観点〕から、微小〔の観点〕から、〔彼は〕見る、〔彼は〕視認する、〔彼は〕注目する、〔彼は〕尋思する、〔彼は〕近しく注視する。ということで、「それに依存する者が、他を『劣る』と見るなら」。

 [372]「それゆえに、まさに、あるいは、見られたものに、聞かれたものに、あるいは、思われたものに、戒や掟に、比丘は、依存しないように」とは、「それゆえに」とは、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。あるいは、見られたものに、あるいは、見られたものとしての清浄に、あるいは、聞かれたものに、あるいは、聞かれたものとしての清浄に、あるいは、思われたものに、あるいは、思われたものとしての清浄に、あるいは、戒に、あるいは、戒としての清浄に、あるいは、掟に、あるいは、掟としての清浄に、依存しないべきであり、収取しないべきであり、偏執しないべきであり、固着しないべきである。ということで、「それゆえに、まさに、あるいは、見られたものに、聞かれたものに、あるいは、思われたものに、戒や掟に、比丘は、依存しないように」。

 [373]それによって、世尊は言った。


 [374]「あるいは、また、それを、智者たちは、『拘束』と説く――それに依存する者が、他を『劣る』と見るなら。それゆえに、まさに、あるいは、見られたものに、聞かれたものに、あるいは、思われたものに、戒や掟に、比丘は、依存しないように」と。


34.


 [375]806.(799) あるいは、知恵によって、あるいは、また、戒や掟によっても、世において、〔いかなる〕見解でさえも想い描かないように。自己を〔他者と〕「等しい」と見なさないように。あるいは、また、「劣る」「勝る」〔と〕思いなさないように。(4)


 [376]「あるいは、知恵によって、あるいは、また、戒や掟によっても、世において、〔いかなる〕見解でさえも想い描かないように」とは、あるいは、八つの入定(四禅と四無色界定)の知恵によって、あるいは、五つの神知(漏尽通を除く五つの神通:宿命通・天眼通・他心通・天耳通・神足通)の知恵によって、あるいは、誤った知恵によって、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、戒と掟によって、見解を、想い描かないべきであり、生じさないべきであり、産出させないべきであり、発現させないべきであり、再出させないべきである。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「あるいは、知恵によって、あるいは、また、戒や掟によっても、世において、〔いかなる〕見解でさえも想い描かないように」。

 [377]「自己を〔他者と〕『等しい』と見なさないように」とは、「わたしは、〔他者に〕等しい者として〔世に〕存している」と、自己を喧伝するべきではない――あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たるによって、あるいは、容貌が蓮華のように美しいことによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「自己を〔他者と〕『等しい』と見なさないように」。

 [378]「あるいは、また、『劣る』『勝る』〔と〕思いなさないように」とは、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」と、自己を喧伝するべきではない――あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略……あるいは、何らかの或る根拠によって。「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」と、自己を喧伝するべきではない――あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略……あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「あるいは、また、『劣る』『勝る』〔と〕思いなさないように」。

 [379]それによって、世尊は言った。


 [380]「あるいは、知恵によって、あるいは、また、戒や掟によっても、世において、〔いかなる〕見解でさえも想い描かないように。自己を〔他者と〕『等しい』と見なさないように。あるいは、また、『劣る』『勝る』〔と〕思いなさないように」と。


35.


 [381]807.(800) 自己を捨棄して、執取することなく、〔比丘である〕彼は、〔いかなる〕知恵によってもまた、依存を為さない。まさに、彼は、相争う者たちのなかにいながら、〔特定の〕党派に走り行く者ではない。彼は、〔いかなる〕見解でさえも、何であれ、信受しない。(5)


 [382]「自己を捨棄して、執取することなく」とは、「自己を捨棄して」とは、自己の見解を捨棄して。「自己を捨棄して」とは、収取を捨棄して。「自己を捨棄して」とは、渇愛を所以に、見解を所以に、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものを、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らしめて。ということで、「自己を捨棄して」。「執取することなく」とは、四つの執取によって、執取することなく、収取することなく、偏執することなく、固着することなく。ということで、「自己を捨棄して、執取することなく」。

 [383]「〔比丘である〕彼は、〔いかなる〕知恵によってもまた、依存を為さない」とは、あるいは、八つの入定の知恵によって、あるいは、五つの神知の知恵によって、あるいは、誤った知恵によって、あるいは、渇愛の依存を、あるいは、見解の依存を、為さず、生じさせず、産出させず、発現させず、再出させない。ということで、「〔比丘である〕彼は、〔いかなる〕知恵によってもまた、依存を為さない」。

 [384]「まさに、彼は、相争う者たちのなかにいながら、〔特定の〕党派に走り行く者ではない」とは、まさに、彼は、相争い、分裂し、二様に分かれ、二様のものが生じ、種々なる見解があり、種々なる忍耐(信受)があり、種々なる嗜好(意欲)があり、種々なる主張があり、種々なる見解の依存に依存する者たちのなかにいながら――〔すなわち〕欲〔の思い〕の境遇に赴きつつある者たちのなかにいながら、憤怒の境遇に赴きつつある者たちのなかにいながら、迷妄の境遇に赴きつつある者たちのなかにいながら、恐怖の境遇に赴きつつある者たちのなかにいながら、欲〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚を所以に赴かず、疑惑を所以に赴かず、諸々の悪習を所以に赴かず、諸々の党派の法(性質)によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。ということで、「まさに、彼は、相争う者たちのなかにいながら、〔特定の〕党派に走り行く者ではない」。

 [385]「彼は、〔いかなる〕見解でさえも、何であれ、信受しない」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、何であれ、悪しき見解を、信受せず、再帰しない。ということで、「彼は、〔いかなる〕見解でさえも、何であれ、信受しない」。

 [386]それによって、世尊は言った。


 [387]「自己を捨棄して、執取することなく、〔比丘である〕彼は、〔いかなる〕知恵によってもまた、依存を為さない。まさに、彼は、相争う者たちのなかにいながら、〔特定の〕党派に走り行く者ではない。彼は、〔いかなる〕見解でさえも、何であれ、信受しない」と。


36.


 [388]808.(801) この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、種々なる〔迷いの〕生存のために〔あれこれと願い求めず〕、彼に、この〔世において〕、〔生と死の〕両極について、〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら、彼に、諸々の〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない。〔比丘は〕諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔正しく〕判別するように。(6)


 [389]「この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、種々なる〔迷いの〕生存のために〔あれこれと願い求めず〕、彼に、この〔世において〕、〔生と死の〕両極について、〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「極」とは、接触(触)は、一つの極であり、接触の集起は、第二の極である。過去は、一つの極であり、未来は、第二の極である。安楽の感受(楽受)は、一つの極であり、苦痛の感受(苦受)は、第二の極である。名前(名:精神的事象)は、一つの極であり、形態(色:物質的事象)は、第二の極である。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処:眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処)は、一つの極であり、六つの外なる〔認識の〕場所(六外処:色処・声処・香処・味処・触処・法処)は、第二の極である。身体を有すること(有身)は、一つの極であり、身体を有することの集起は、第二の極である。誓願は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。

 [390]「種々なる〔迷いの〕生存のために〔あれこれと願い求めず〕」とは、種々なる生存における、行為の生存(業有)のために、さらなる生存(再有)のために――〔すなわち〕欲望の生存(欲有)における行為の生存のために、欲望の生存におけるさらなる生存のために、形態の生存(色有)における行為の生存のために、形態の生存におけるさらなる生存のために、形態なき生存(無色有)における行為の生存のために、形態なき生存におけるさらなる生存のために。繰り返す生存のために、繰り返す境遇のために、繰り返す再生のために、繰り返す結生のために、繰り返す自己状態(個我的あり方)の発現のために。「この〔世〕」とは、自らの自己状態である。「あの〔世〕」とは、他の自己状態である。「この〔世〕」とは、自らの形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と形成〔作用〕と識知〔作用〕(色受想行識)である。「あの〔世〕」とは、他の形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と形成〔作用〕と識知〔作用〕である。「この〔世〕」とは、六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)である。「あの〔世〕」とは、六つの外なる〔認識の〕場所(六外処)である。「この〔世〕」とは、人間の世である。「あの〔世〕」とは、天の世である。「この〔世〕」とは、欲望の界域(欲界)である。「あの〔世〕」とは、形態の界域(色界)や形態なき界域(無色界)である。「この〔世〕」とは、欲望の界域や形態の界域である。「あの〔世〕」とは、形態なき界域である。「この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、種々なる〔迷いの〕生存のために〔あれこれと願い求めず〕、彼に、この〔世において〕、〔生と死の〕両極について、〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら」とは、彼に、しかして、両極について、さらには、種々なる生存のために、この〔世〕において、および、あの〔世〕において、渇愛としての誓願が、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、種々なる〔迷いの〕生存のために〔あれこれと願い求めず〕、彼に、この〔世において〕、〔生と死の〕両極について、〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら」。

 [391]「彼に、諸々の〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない」とは、「固着」とは、二つの固着がある。(1)渇愛の固着と、(2)見解の固着とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の固着である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の固着である。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「彼に、諸々の〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない」とは、諸々の〔妄執が〕固着する場は、彼に存在しない、〔それらは〕何であれ、存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼に、諸々の〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない」。

 [392]「〔比丘は〕諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔正しく〕判別するように」とは、「諸々の法(見解)について」とは、六十二の悪しき見解について。「〔正しく〕判別するように」とは、判別して、判断して、弁別して、精査して、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。「〔執着の対象として〕執持されたもの」とは、限界あるものへの収取、片々のものへの収取、優れたものへの収取、部位のものへの収取、積集のものへの収取、等しき積集のものへの収取であり、「これは、真理である、如実である、真実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものである。〔それは、もはや〕存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「〔比丘は〕諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔正しく〕判別するように」。

 [393]それによって、世尊は言った。


 [394]「この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、種々なる〔迷いの〕生存のために〔あれこれと願い求めず〕、彼に、この〔世において〕、〔生と死の〕両極について、〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら、彼に、諸々の〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない。〔比丘は〕諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔正しく〕判別するように」と。


37.


 [395]809.(802) 彼には、この〔世において〕、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、〔執着の対象として〕想い描かれた〔自分勝手な〕表象(想:概念・心象)は、微塵でさえも存在しない。〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を、この世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)。(7)


 [396]「彼には、この〔世において〕、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、〔執着の対象として〕想い描かれた〔自分勝手な〕表象(想)は、微塵でさえも存在しない」とは、「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。彼には、あるいは、見られたものについて、あるいは、見られたものとしての清浄について、あるいは、聞かれたものについて、あるいは、聞かれたものとしての清浄について、あるいは、思われたものについて、あるいは、思われたものとしての清浄について、表象を先行とすることは、表象によって想い描かれるべきことは――表象による口論によって、表象によって、現起され、等しく現起され、想い描かれ、妄想され、形成され、行作され、確立された、〔特定の〕見解は――存在せず、存せず、等しく見い出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、静息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼には、この〔世において〕、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、〔執着の対象として〕想い描かれた〔自分勝手な〕表象は、微塵でさえも存在しない」。

 [397]「〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を」とは、「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。〔すなわち〕身体が有るという見解が、拒否されたものと成り、疑惑〔の思い〕が、拒否されたものと成り、戒や掟への偏執が、拒否されたものと成り……略([299-300]参照)……〔何ものにも〕依存しない、如なる者――彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」〔と〕。「〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を」とは、〔特定の〕見解に、執取せず、収取せず、偏執せず、固着しない、その婆羅門を。ということで、「〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を」。

 [398]「この世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう」とは、「妄想」とは、二つの妄想がある。(1)渇愛の妄想と、(2)見解の妄想とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。彼の、渇愛の妄想は〔すでに〕捨棄され、見解の妄想は〔すでに〕放棄され、渇愛の妄想が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が〔すでに〕放棄されたことから、どのような貪欲によって、想い描くというのだろう、どのような憤怒によって、想い描くというのだろう、どのような迷妄によって、想い描くというのだろう、どのような思量によって、想い描くというのだろう、どのような見解によって、想い描くというのだろう、どのような高揚によって、想い描くというのだろう、どのような疑惑によって、想い描くというのだろう、どのような諸々の悪習によって、想い描くというのだろう――あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者である」と、あるいは、「強靱に至った者である」と。〔彼の〕それらの行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、諸々の〔未来の〕境遇を、何によって、想い描くというのだろう――あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、想い描くであろう、妄想するであろう、妄想を惹起するであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「この世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう」。

 [399]それによって、世尊は言った。


 [400]「彼には、この〔世において〕、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、〔執着の対象として〕想い描かれた〔自分勝手な〕表象(想:概念・心象)は、微塵でさえも存在しない。〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を、この世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)」と。


38.


 [401]810.(803) 〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、諸々の法(見解)もまた、彼らには受容されない。〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない。彼岸に至った如なる者は、〔特定の見解を〕信受しない(この世に戻らない)。(8)


 [402]「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず」とは、「妄想」とは、二つの妄想がある。(1)渇愛の妄想と、(2)見解の妄想とである。(1)どのようなものが、渇愛の妄想であるのか。およそ、渇愛と名づけられたものによって、境界が作り為され、制約が作り為され、限界が作り為され、最終極が作り為され、遍く収取され、わがものとされた、そのかぎりのものである。「これは、わたしのものである」「このものは、わたしのものである」「これだけが、わたしのものである」「これだけのものが、わたしのものである」「わたしの、諸々の形態であり、諸々の音声であり、諸々の臭香であり、諸々の味感であり、諸々の感触であり、諸々の敷物であり、諸々の着物であり、侍女や奴隷たちであり、山羊や羊たちであり、鶏や豚たちであり、象や牛や馬や騾馬たちであり、田畑であり、地所であり、金貨であり、黄金であり、村や町や王都であり、しかして、国土であり、しかして、地方であり、しかして、蔵であり、しかして、貯蔵庫である」〔と〕、大地の全部でさえも、渇愛を所以にわがものとする。およそ、百八の渇愛の行ないとしてある、そのかぎりのものである。これが、渇愛の妄想である。(2)どのようなものが、見解の妄想であるのか。二十の事態ある身体が有るという見解(有身見)、十の事態ある誤った見解(邪見)、十の事態ある極〔論〕を収め取るものとしての見解(辺執見)――すなわち、このような形態の、見解、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の演芸、見解の騒動、見解の束縛、収取、納受、固着、偏執、邪道、邪路、邪性、異教の〔認識の〕場所(境地・立場)、転倒への収取、転倒したものへの収取、転倒するものへの収取、誤った収取、「あるがままでないものについて、あるがままのものである」という収取――およそ、六十二の悪しき見解としてある、そのかぎりのものである。これが、見解の妄想である。彼らの、渇愛の妄想は〔すでに〕捨棄され、見解の妄想は〔すでに〕放棄され、渇愛の妄想が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の妄想を、あるいは、見解の妄想を、想い描かず、生じさせず、産出させず、発現させず、再出させない。ということで、「〔特定の何かを〕想い描かず」。

 [403]「〔特定の何かを〕偏重せず」とは、「偏重」とは、二つの偏重がある。(1)渇愛の偏重と、(2)見解の偏重とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の偏重である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の偏重である。彼らの、渇愛の偏重は〔すでに〕捨棄され、見解の偏重は〔すでに〕放棄され、渇愛の偏重が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の偏重が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛を〔偏重して、行じおこなうことは〕なく、あるいは、見解を偏重して、行じおこなうことはない。渇愛を旗とする者たちではなく、渇愛を幟とする者たちではなく、渇愛を優位主要とする者たちではなく、見解を旗とする者たちではなく、見解を幟とする者たちではなく、見解を優位主要とする者たちではなく、あるいは、渇愛に〔取り囲まれ、行じおこなうことは〕なく、あるいは、見解に取り囲まれ、行じおこなうことはない。ということで、「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず」。

 [404]「諸々の法(見解)もまた、彼らには受容されない」とは、諸々の法(見解)は、六十二の悪しき見解と説かれる。「彼らには」とは、彼らには、阿羅漢たちには、煩悩の滅尽者たちには。「受容されない」とは、「世〔界〕は、常恒である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と受用されない。「世〔界〕は、常恒ならざるものである。……。「世〔界〕は、終極がある。……。「世〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)。……。「他のものとして生命があり、他のものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、有ることもあれば、有ることがないこともある。……。「如来は、死後に、有ることもなければ、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と受用されない。ということで、「諸々の法(見解)もまた、彼らには受容されない」。

 [405]「〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない」とは、「ない」とは、否定〔の言葉〕。「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。〔すなわち〕身体が有るという見解が、拒否されたものと成り……略([299-300]参照)……〔何ものにも〕依存しない、如なる者――彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」〔と〕。「〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない」とは、〔真の〕婆羅門は、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、戒と掟によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。ということで、「〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない」。

 [406]「彼岸に至った如なる者は、〔特定の見解を〕信受しない(この世に戻らない)」とは、彼岸は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の寂止、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。彼は、彼岸に至った者、彼岸を得た者、終極に至った者、終極を得た者、突端に至った者、突端を得た者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない」〔と〕。ということで、「彼岸に至った」。「〔特定の見解を〕信受しない」とは、預流道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、一来道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、不還道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、阿羅漢道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰しない。ということで、「彼岸に至った如なる者は、〔特定の見解を〕信受しない」。「如なる者」とは、阿羅漢は、五つの行相によって、如なる者である(あるがままの如実者である)。(1)好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる者、(2)捨て去った者、ということで、如なる者、(3)超え渡った者、ということで、如なる者、(4)解き放った者、ということで、如なる者、(5)それを釈示することから、如なる者である。

 [407](1)どのように、阿羅漢は、好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる者であるのか。阿羅漢は、利得にたいしてもまた、如なる者であり、利得なきにたいしてもまた、如なる者であり、名声にたいしてもまた、如なる者であり、名声なきにたいしてもまた、如なる者であり、賞賛にたいしてもまた、如なる者であり、非難にたいしてもまた、如なる者であり、安楽にたいしてもまた、如なる者であり、苦痛にたいしてもまた、如なる者である。もし、〔或る者たちが〕一つの腕を香料で塗るとして、もし、〔或る者たちが〕一つの腕を鉈で撃打するとして、それにたいし、貪欲〔の思い〕は存在せず、それにたいし、憤激〔の思い〕は存在しない。〔彼は〕随貪と憤激を捨棄した者であり、興奮と失望を超克した者であり、共感と反感を等しく超越した者である。このように、阿羅漢は、好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる者である。

 [408](2)どのように、阿羅漢は、捨て去った者、ということで、如なる者であるのか。阿羅漢のばあい、貪欲は、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄され、憤怒は……迷妄は……忿怒は……怨恨は……偽装は……加虐は……嫉妬は……物惜は……幻想は……狡猾は……強情は……激昂は……思量は……高慢は……驕慢は……放逸は……一切の〔心の〕汚れは……一切の悪しき行ないは……一切の懊悩は……一切の苦悶は……一切の熱苦は……一切の善ならざる行作は、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄された。このように、阿羅漢は、捨て去った者、ということで、如なる者である。

 [409](3)どのように、阿羅漢は、超え渡った者、ということで、如なる者であるのか。阿羅漢は、欲望の激流を超え渡った者であり、生存の激流を超え渡った者であり、見解の激流を超え渡った者であり、無明の激流を超え渡った者であり、一切の輪廻の道を、超えた者であり、超え上がった者であり、超え渡った者であり、等しく超越した者であり、超克した者である。彼は、住むことを住んだ者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない」と。このように、阿羅漢は、超え渡った者、ということで、如なる者である。

 [410](4)どのように、阿羅漢は、解き放った者、ということで、如なる者であるのか。阿羅漢のばあい、貪欲から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、憤怒から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、迷妄から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、忿怒から……怨恨から……偽装から……加虐から……嫉妬から……物惜から……幻想から……狡猾から……強情から……激昂から……思量から……高慢から……驕慢から……放逸から……一切の〔心の〕汚れから……一切の悪しき行ないから……一切の懊悩から……一切の苦悶から……一切の熱苦から……一切の善ならざる行作から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱した。このように、阿羅漢は、解き放った者、ということで、如なる者である。

 [411](5)どのように、阿羅漢は、それを釈示することから、如なる者であるのか。阿羅漢は、戒が存しているとき、「戒ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、信が存しているとき、「信ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、精進が存しているとき、「精進ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、気づきが存しているとき、「気づきある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、〔心の〕統一が存しているとき、「〔心の〕統一ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、知慧が存しているとき、「知慧ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、明知が存しているとき、「三つの明知ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、神知が存しているとき、「六つの神知ある者である」と、それを釈示することから、如なる者である。このように、阿羅漢は、それを釈示することから、如なる者である。ということで、「彼岸に至った如なる者は、〔特定の見解を〕信受しない」。

 [412]それによって、世尊は言った。


 [413]「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、諸々の法(見解)もまた、彼らには受容されない。〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない。彼岸に至った如なる者は、〔特定の見解を〕信受しない(この世に戻らない)」と。


 [414]最高についての八なるものの経についての釈示が、第五となる。


1.6 老の経についての釈示


 [415]しかして、老の経についての釈示を説くであろう。


39.


 [416]811.(804) まさに、この生命(寿命)は、僅かである。百年にも満たずに、〔人は〕死ぬ。彼が、たとえ、もし、〔百年を〕超えて生きるとして、しかして、まさに、彼は、老“おい”によってもまた、死ぬ。(1)


 [417]「まさに、この生命(寿命)は、僅かである」とは、「生命」とは、寿命、止住、〔身を〕保つこと、〔身を〕保ち行くこと、振る舞うこと、〔身を〕行持すること、〔行ないを〕守ること、生命、生命の機能(命根)。さらに、また、二つの契機によって、生命は、僅かであり、生命は、僅少である。(1)あるいは、止住の微小なることによって、生命は、僅かである。(2)あるいは、自らの味用“はたらき”の微小なることによって、生命は、僅かである。(1)どのように、止住の微小なることによって、生命は、僅かであるのか。過去における〔一つの〕心の瞬間においては、〔過去において〕生きたが、〔現在において〕生きることはなく、〔未来において〕生きるであろうことはない。未来における〔一つの〕心の瞬間においては、〔未来において〕生きるであろうが、〔過去において〕生きたことはなく、〔現在において〕生きることはない。現在における〔一つの〕心の瞬間においては、〔現在において〕生きるが、〔過去において〕生きたことはなく、〔未来において〕生きるであろうことはない。


 [418]〔しかして、詩偈に言う〕「生命は、自己状態(個我的あり方)も、楽と苦も、〔その〕全部が、一つの心〔の瞬間〕と結び付いたものであり、〔その〕瞬間は、軽やかに転起する。

 [419]八万四千のカッパ(劫:時間の単位・無限大の時間)のあいだ、それらの神たちが〔世に〕止住するとして、まさしく、しかるに、彼らもまた、二つの心と結び付いたものとして、生きることはない(一つの心だけが転起する)。

 [420]ここ(現世)において、死につつある者の、あるいは、〔いまだ〕止住している者の、それらの止滅した〔心身を構成する五つの〕範疇は、〔その〕全てでさえもが、等しく、〔すでに〕去り行ったものであり、結生なきものである(結生に至り着くことはない)。

 [421]しかして、それらが、直前に破壊された〔五つの範疇〕であるとして、さらには、それらが、未来に破壊された〔五つの範疇〕であるとして、その直後に止滅した〔五つの範疇〕にとって、特相における差異は存在しない(両者ともに破壊されたものとしてある)。

 [422]発現した〔心〕が〔すでに〕ないなら、生じたものは〔もはや〕なく、現在〔の瞬間の心の転起〕によって、〔有情は〕生きる。心の滅壊あることから、世〔の人々〕の死がある。〔これが〕最高の義(勝義:最高の真実)としての概念(施設)となる(あるがままの世界のあり方である)。

 [423]たとえば、〔水が〕諸々の低きにあるものとして転起するように、欲〔の思い〕によって変化させられ、六つの〔認識の〕場所(六処:眼・耳・鼻・舌・身・意)の縁あることから、諸々の断絶なき保持が転起する。

 [424]諸々の破壊されたものは安置の在り方なく、未来における集塊は存在しない。しかして、それらが、諸々の発現したものとして止住するとして、錐の先の芥子の如きもの。

 [425]しかして、諸々の発現した法(性質)には、それらには、滅壊が待ち受けている。諸々の崩壊の法(性質)として止住し、諸々の過去のものと交わることはない。

 [426]諸々の滅壊は、見えざるところから至り来て、見えざるところへと至り行く。虚空における雷光の生起のように、〔それらは〕生起し、かつまた、衰微する」と。


 [427]このように、止住の微小なることによって、生命は、僅かである。

 [428](2)どのように、自らの味用の微小なることによって、生命は、僅かであるのか。入息に連結するものとして、生命はあり、出息に連結するものとして、生命はあり、入息と出息に連結するものとして、生命はあり、〔四つの〕大いなる元素(地・水・火・風)に連結するものとして、生命はあり、物質としての食に連結するものとして、生命はあり、熱(体熱)に連結するものとして、生命はあり、識知〔作用〕(意識)に連結するものとして、生命はある。これらのものの根元もまた、力弱きものであり、これらのものの前因もまた、力弱きものである。それらが、諸々の縁であるとして、それらもまた、力弱きものであり、たとえ、それらが、諸々の増加するものであるとして、それらもまた、力弱きものである。これらのものと共に有るものもまた、力弱きものであり、これらのものと結合あるものもまた、力弱きものであり、これらのものと共に生じるものもまた、力弱きものである。たとえ、それが、専念するもの(渇愛)であるとして、それもまた、力弱きものである。これらは、互いに他と常に力弱きものであり、これらは、互いに他と安住なきものであり、これらは、互いに他を攻撃する。なぜなら、互いに他の救護者として存在せず、さらには、また、これらは、互いに他を救護しないからである。たとえ、それが、〔他を〕発現させるものであるとして、それは、〔もはや〕見い出されない(すでに消滅した)。


 [429]〔しかして、詩偈に言う〕「しかして、〔それが〕何であれ、何ものかによって失われることはない。しかして、これらは、まさに、全てにわたり、〔自ら〕壊れるべきものである。諸々の前のものあるがゆえに、これらは、諸々の増加するものとしてある。たとえ、それらが、諸々の増加するものであるとして、それらは、前に死んだものとしてある(すでに消滅した)。しかして、諸々の前のものもまた、さらには、諸々の後のものもまた、いついかなる時も、互いに他を見なかった」と。


 [430]このように、自らの味用の微小なることによって、生命は、僅かである。

 [431]さらに、また、四大王天〔の神々〕たち(四天王)の生命と比較して、人間たちのばあい、生命は、僅かであり、生命は、微小であり、生命は、僅少であり、生命は、瞬間のものであり、生命は、軽きものであり、生命は、暫しのものであり、生命は、時に耐え得ぬものであり、生命は、長き止住なきものである。三十三天〔の神々〕たちの……略……。耶摩天〔の神々〕たちの……。兜率天〔の神々〕たちの……。化楽天〔の神々〕たちの……。他化自在天〔の神々〕たちの……。梵の衆たる天〔の神々〕(梵天衆)たちの生命と比較して、人間たちのばあい、生命は、僅かであり、生命は、微小であり、生命は、僅少であり、生命は、瞬間のものであり、生命は、軽きものであり、生命は、暫しのものであり、生命は、時に耐え得ぬものであり、生命は、長き止住なきものである。まさに、このことが、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「比丘たちよ、人間たちのばあい、この寿命は、僅かです。赴くべきは、来世です。智慮によって、覚るべきです。為すべきは、善なることです。歩むべきは、梵行です。生まれた者に、死なきは存在しないのです。比丘たちよ、彼が、長く生きるとして、彼は、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、僅かに多く〔生きるだけのことです〕。


 [432]〔しかして、詩偈に言う〕『人間たちの寿命は、僅かなもの。善き人は、それを蔑むもの。頭が燃えているかのように、〔世を〕歩むがよい。死の到来なきことは、存在しない。

 [433]昼夜は過ぎ行き、生命は止滅し、人間たちの寿命は滅尽する――諸々の小川の水のように』」〔と〕。ということで――


 [434]「まさに、この生命は、僅かである」。

 [435]「百年にも満たずに、〔人は〕死ぬ」とは、カララ(受胎後一週間)の時でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、アッブタ(受胎後二週間)の時でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、ペーシ(受胎後三週間)の時でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、ガナ(受胎後四週間)の時でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、パサーカ(受胎後五週間以降)の時でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、生まれたばかりでさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、産屋においてでさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、半月でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、一月でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、二月でさえも……三月でさえも……四月でさえも……五月でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、六月でさえも……七月でさえも……八月でさえも……九月でさえも……十月でさえも……一年でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、二年でさえも……三年でさえも……四年でさえも……五年でさえも……六年でさえも……七年でさえも……八年でさえも……九年でさえも……十年でさえも……二十年でさえも……三十年でさえも……四十年でさえも……五十年でさえも……六十年でさえも……七十年でさえも……八十年でさえも……九十年でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅する。ということで、「百年にも満たずに、〔人は〕死ぬ」。

 [436]「彼が、たとえ、もし、〔百年を〕超えて生きるとして」とは、彼が、百年を超え行って生きるとして、彼は、あるいは、一年を生き、あるいは、二年を生き、あるいは、三年を生き、あるいは、四年を生き、あるいは、五年を生き……略……あるいは、十年を生き、あるいは、二十年を生き、あるいは、三十年を生き、あるいは、四十年を生きる。ということで、「彼が、たとえ、もし、〔百年を〕超えて生きるとして」。「しかして、まさに、彼は、老によってもまた、死ぬ」とは、すなわち、老いた者、年長の者、老練の者、歳月を重ねた者、年齢を加えた者、歯が破断した者、白髪の者、抜け毛の者、禿頭の者、皺の者、斑点だらけの四肢の者、湾曲の者、蜷局の者、杖を行き着く所とする者と成るとき、彼は、老によってもまた、死滅し、死に、消没し、破滅し、死からの解脱は存在しない。


 [437]〔しかして、詩偈に言う〕「熟した諸果には、早く落ちるがゆえの恐れがあるように、このように、死すべき者(人間)として生まれた者たちには、常に、死ゆえの恐れがある。

 [438]また、陶工の作った土器が、〔その〕全てが、破壊を結末とするように、このように、死すべき者(人間)たちの生命はある。

 [439]青年たちも、大人たちも、彼らが愚者たちであれ、さらには、彼らが賢者たちであれ――〔その〕全てが、死魔の支配に赴く――〔その〕全てが、死を行き着く所とする。

 [440]死魔に打ち負かされた彼らが〔他世へと〕行きつつあるとして、他世からは、父が子を救うことはなく、あるいは、また、親族たちが親族たちを〔救うこともない〕。

 [441]〔死に行く者を〕見ているだけの親族たちを、個々に泣き叫んでいる〔親族〕たちを、見よ。死すべき者(人間)たちの、まさしく、一者一者“ひとりひとり”が、屠殺される牛のように、〔死へと〕導かれる。このように、世〔の人々〕は、死魔によっても、老によっても、悩み苦しめられている」〔と〕。ということで――


 [442]「しかして、まさに、彼は、老によってもまた、死ぬ」。

 [443]それによって、世尊は言った。


 [444]「まさに、この生命(寿命)は、僅かである。百年にも満たずに、〔人は〕死ぬ。彼が、たとえ、もし、〔百年を〕超えて生きるとして、しかして、まさに、彼は、老によってもまた、死ぬ」と。


40.


 [445]812.(805) わがものと〔錯視〕されたもの(欲望や執着の対象)について、〔世の〕人たちは憂い悲しむ。まさに、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、常住のものとして存在しない。これは、変じ異なる状態として存在しているだけである。かくのごとく見て、〔賢者は〕家に住み止“とど”まらないように。(2)


 [446]「わがものと〔錯視〕されたもの(欲望や執着の対象)について、〔世の〕人たちは憂い悲しむ」とは、「〔世の〕人たち」とは、士族たちと、婆羅門たちと、庶民たちと、隷民たちと、在家者たちと、出家者たちと、天〔の神々〕たちと、人間たちと。「我執」とは、二つの我執がある。(1)渇愛の我執と、(2)見解の我執とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の我執である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の我執である。わがものと〔錯視〕された事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、略奪されつつあるときもまた憂い悲しみ、略奪されたときもまた憂い悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、変化しつつあるときもまた憂い悲しみ、変化したときもまた、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、迷妄を惹起する。ということで、「わがものと〔錯視〕されたもの(欲望や執着の対象)について、〔世の〕人たちは憂い悲しむ」。

 [447]「まさに、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、常住のものとして存在しない」とは、二つの執持がある。(1)渇愛の執持と、(2)見解の執持とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の執持である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の執持である。渇愛の執持は、無常なるものであり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)であり、変化の法(性質)である。見解の執持もまた、無常なるものであり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰微の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)であり、変化の法(性質)である。まさに、このことが、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「比丘たちよ、いったい、あなたたちは、見ることがありますか。すなわち、これが、執持〔の対象〕であるとして、常住で、常久で、常恒で、変化なき法(性質)として、常恒に等しく、まさしく、そのとおり、〔世に〕止住するであろう、その執持〔の対象〕を」と。〔比丘たちは答えた〕「尊き方よ、まさに、このことはありません」と。〔世尊は言った〕「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、わたしもまた、まさに、等しく随観することはありません。すなわち、これが、執持〔の対象〕であるとして、常住で、常久で、常恒で、変化なき法(性質)として、常恒に等しく、まさしく、そのとおり、〔世に〕止住するであろう、その執持〔の対象〕を」と。諸々の執持〔の対象〕は、常住なるものとして、常久なるものとして、常恒なるものとして、変化なき法(性質)として、存在せず、存せず、等しく見い出されず、得られない。ということで、「まさに、諸々の執持〔の対象〕は、常住のものとして存在しない」。

 [448]「これは、変じ異なる状態として存在しているだけである」とは、種々なる状態として、変じ異なる状態として、他なる状態として、存している、等しく見い出されている、認知されている。まさに、このことが、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「アーナンダよ、十分です。憂い悲しんではいけません。嘆き悲しんではいけません。アーナンダよ、まさに、このことは、わたしによって、まさしく、前もって、告げ知らされたではありませんか。〔すなわち〕『まさしく、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となり、他なる状態となる』〔と〕。アーナンダよ、それ(常住なるもの)を、どうして、ここに、得られるというのですか。すなわち、それが、生じたもの、成ったもの、作り為されたもの、崩壊の法(性質)であるなら、それが、まさに、崩壊してはならない、という、この状況は見い出されません(ありえない)」と。前のもの、前のものである、〔五つの〕範疇、〔十八の〕界域、〔十二の認識の〕場所には、変化があり他なる状態あることから、後のもの、後のものとして、〔五つの〕範疇と、〔十八の〕界域と、〔十二の認識の〕場所とが、転起する。ということで、「これは、変じ異なる状態として存在しているだけである」。

 [449]「かくのごとく見て、〔賢者は〕家に住み止まらないように」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。諸々の執持〔の対象〕について、かくのごとく、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。ということで、「かくのごとく見て」。「〔賢者は〕家に住み止まらないように」とは、一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って、蓄積の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近づき行って、独りで、行じおこなうべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔行ないを〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。ということで、「かくのごとく見て、〔賢者は〕家に住み止まらないように」。

 [450]それによって、世尊は言った。


 [451]「わがものと〔錯視〕されたもの(欲望や執着の対象)について、〔世の〕人たちは憂い悲しむ。まさに、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、常住のものとして存在しない。これは、変じ異なる状態として存在しているだけである。かくのごとく見て、〔賢者は〕家に住み止まらないように」と。


41.


 [452]813.(806) 〔まさに〕その、「これは、わたしのものである」と、人が思うもの――それは、死によってもまた、失われる。また、このことを知って、賢者は、わたし(ブッダ)にしたがう者は、我執〔の思い〕に屈さないように。(3)


 [453]「それは、死によってもまた、失われる」とは、「死」とは、すなわち、それらそれらの有情たちにとっての、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命を終えること、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置、生命の機能の断絶である。「それ」とは、形態の在り方をしたもの、感受〔作用〕の在り方をしたもの、表象〔作用〕の在り方をしたもの、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたもの、識知〔作用〕の在り方をしたものである。「失われる」とは、失われ、捨棄され、喪失され、消没し、破滅する。このこともまた、語られた。


 [454]〔しかして、詩偈に言う〕「まさしく、〔死の〕前に、諸々の財物が、死すべき者(人間)を捨棄する。あるいは、それより前に、死すべき者が、それらを捨棄する。欲望〔の対象〕を欲する者よ、財物ある者たちは、常恒ならず。それゆえに、憂いの時において、わたしは憂い悲しまない。

 [455]月は、満ち行き、円満し、滅し去る。太陽は、〔闇を〕滅却に据え置いて、去り行く。賊よ、世の諸法(性質)は、わたしによって、〔あるがままに〕知られた。それゆえに、憂いの時において、わたしは憂い悲しまない」と。


 [456]「〔まさに〕その、『これは、わたしのものである』と、人が思うもの――それは、死によってもまた、失われる」とは、「〔まさに〕その」とは、形態の在り方をしたもの、感受〔作用〕の在り方をしたもの、表象〔作用〕の在り方をしたもの、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたもの、識知〔作用〕の在り方をしたものである。「人」とは、名称、呼称、概念、通称、名前、名前の行為、名前の領域、言語、字音、話法。「『これは、わたしのものである』と思う」とは、渇愛の思いによって思い、見解の思いによって思い、思量の思いによって思い、〔心の〕汚れの思いによって思い、悪しき行ないの思いによって思い、専念〔努力〕(加行)の思いによって思い、報い(異熟)の思いによって思う。ということで、「〔まさに〕その、『これは、わたしのものである』と、人が思うもの」。

 [457]「また、このことを知って、賢者は」とは、諸々のわがものと〔錯視〕されたものについて、この危険を、知って、解して、比較して、推量して、分明して、明瞭と為して。かくのごとく、また、このことを知って、賢者は、慧者は、賢者は、知慧ある者は、覚慧ある者は、知恵ある者は、分明する者は、思慮ある者は。ということで、「また、このことを知って、賢者は」。

 [458]「わたし(ブッダ)にしたがう者は、我執〔の思い〕に屈さないように」とは、「我執」とは、二つの我執がある。(1)渇愛の我執と、(2)見解の我執とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の我執である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の我執である。「わたしにしたがう者」とは、覚者にしたがう者、法(教え)にしたがう者、僧団にしたがう者。彼は、世尊をわがものとする。世尊は、その人を遍く収め取る。まさに、このことが、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、虚言“うそつき”で、強情で、饒舌で、悪賢く、傲慢で、〔心が〕定められていない者たちであるなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの比丘たちは、わたしにしたがう者たちではありません。比丘たちよ、しかして、それらの比丘たちは、この法(教え)と律から離れ去った者たちであり、さらには、彼らは、この法(教え)と律において、増大を〔惹起せず〕、成長を〔惹起せず〕、広大を惹起しません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、虚言なく、饒舌ならず、慧者で、強情ならず、〔心が〕善く定められた者たちであるなら、比丘たちよ、わたしにとって、まさに、それらの比丘たちは、わたしにしたがう者たちです。比丘たちよ、しかして、それらの比丘たちは、この法(教え)と律から離れ去った者たちではなく、さらには、彼らは、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起します。


 [459]〔しかして、詩偈に言う〕『虚言で、強情で、饒舌で、悪賢く、傲慢で、〔心が〕定められていない者たち――彼らは、正自覚者(ブッダ)によって説示された法(教え)において、成長することがない。

 [460]虚言なく、饒舌ならず、慧者で、強情ならず、〔心が〕善く定められた者たち――まさに、彼らは、正自覚者(ブッダ)によって説示された法(教え)において、成長する』」と。


 [461]「わたし(ブッダ)にしたがう者は、我執〔の思い〕に屈さないように」とは、わたしにしたがう者は、渇愛の我執を捨棄して、見解の我執を放棄して、我執〔の思い〕に、屈するべきではなく、屈服するべきではなく、それへと下向した者として〔世に〕存するべきではなく、それへと傾倒した者として〔世に存するべきでは〕なく、それへと傾斜した者として〔世に存するべきでは〕なく、それを信念した者として〔世に存するべきでは〕なく、それを優位主要とする者として〔世に存するべきでは〕ない。ということで、「わたし(ブッダ)にしたがう者は、我執〔の思い〕に屈さないように」。

 [462]それによって、世尊は言った。


 [463]「〔まさに〕その、『これは、わたしのものである』と、人が思うもの――それは、死によってもまた、失われる。また、このことを知って、賢者は、わたし(ブッダ)にしたがう者は、我執〔の思い〕に屈さないように」と。


42.


 [464]814.(807) また、夢で一緒になった者を、目覚めた人が〔もはや〕見ないように、また、このように、〔かつて〕愛された人も、命を終えた亡者となるなら、〔誰も〕見ない。(4)


 [465]「また、夢で一緒になった者を」とは、〔夢で〕一緒になった者を、〔夢で〕遭遇した者を、〔夢で〕集会した者を、〔夢で〕集合した者を。ということで、「また、夢で一緒になった者を」。「目覚めた人が〔もはや〕見ないように」とは、たとえば、人が、夢に在るなら、月を見、太陽を見、大海を見、山の王たるシネール(須弥山)を見、象〔兵〕を見、馬〔兵〕を見、車〔兵〕を見、歩〔兵〕を見、軍団の軍勢を見、喜ばしき聖園を見、喜ばしき林を見、喜ばしき地を見、喜ばしき蓮池を見るが、目覚めたなら、何ものをも見ないように。ということで、「目覚めた人が〔もはや〕見ないように」。

 [466]「また、このように、〔かつて〕愛された人も」とは、「このように」とは、喩えを現に実践するもの。「〔かつて〕愛された人も」とは、わがものと〔錯視〕された人で、あるいは、母を、あるいは、父を、あるいは、兄弟を、あるいは、姉妹を、あるいは、子を、あるいは、娘を、あるいは、朋友を、あるいは、僚友を、あるいは、親族を、あるいは、血縁を。ということで、「また、このように、〔かつて〕愛された人も」。

 [467]「命を終えた亡者となるなら、〔誰も〕見ない」とは、亡者は、死んだ者と説かれる。命を終えた者を、〔誰も〕見ない、〔誰も〕視認しない、〔誰も〕遭遇しない、〔誰も〕見い出さない、〔誰も〕獲得しない。ということで、「命を終えた亡者となるなら、〔誰も〕見ない」。

 [468]それによって、世尊は言った。


 [469]「また、夢で一緒になった者を、目覚めた人が〔もはや〕見ないように、また、このように、〔かつて〕愛された人も、命を終えた亡者となるなら、〔誰も〕見ない」と。


43.


 [470]815.(808) 〔かつて〕見られもまたし、聞かれもまたした、それらの人たちであるが、彼らのばあい、〔世俗の慣習にすぎない〕この名前が呼ばれる〔だけのこと〕。人が亡者となるなら、名前だけが残り、告げ知らされる〔だけのこと〕。(5)


 [471]「〔かつて〕見られもまたし、聞かれもまたした、それらの人たちであるが」とは、「〔かつて〕見られもまたし」とは、彼らが、眼の識知〔作用〕によって征服された者たち(眼で認識された者たち)であるとして。「聞かれもまたし」とは、彼らが、耳の識知〔作用〕によって征服された者たち(耳で認識された者たち)であるとして。「それらの人たちであるが」とは、士族たちと、婆羅門たちと、庶民たちと、隷民たちと、在家者たちと、出家者たちと、天〔の神々〕たちと、人間たちと。ということで、「〔かつて〕見られもまたし、聞かれもまたした、それらの人たちであるが」。

 [472]「彼らのばあい、〔世俗の慣習にすぎない〕この名前が呼ばれる〔だけのこと〕」とは、「彼らのばあい」とは、それらの、士族たちのばあい、婆羅門たちのばあい、庶民たちのばあい、隷民たちのばあい、在家者たちのばあい、出家者たちのばあい、天〔の神々〕たちのばあい、人間たちのばあい。「名前」とは、名称、呼称、概念、通称、名前、名前の行為、名前の領域、言語、字音、話法。「呼ばれる〔だけのこと〕」とは、〔彼は〕説かれる、〔彼は〕呼ばれる、〔彼は〕言説される、〔彼は〕発語される、〔彼は〕提示される、〔彼は〕語用される。ということで、「彼らのばあい、〔世俗の慣習にすぎない〕この名前が呼ばれる〔だけのこと〕」。

 [473]「名前だけが残り、告げ知らされる〔だけのこと〕」とは、形態の在り方をしたもの、感受〔作用〕の在り方をしたもの、表象〔作用〕の在り方をしたもの、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたもの、識知〔作用〕の在り方をしたものが、失われ、捨棄され、喪失され、消没し、破滅し、名前だけが残る。「告げ知らされる〔だけのこと〕」とは、告げ知らすために、言説するために、発語するために、提示するために、語用するために。ということで、「名前だけが残り、告げ知らされる〔だけのこと〕」。「人が亡者となるなら」とは、「亡者となるなら」とは、死んだなら、命を終えたなら。「人(ジャントゥ)が」とは、有情が、人(ナラ)が、若者(マーナヴァ)が、男子(ポーサ)が、人物(プッガラ)が、生ある者が、生に赴く者が、人(ジャントゥ)が、インダに赴く者が、マヌから生じる者が。ということで、「人が亡者となるなら」。

 [474]それによって、世尊は言った。


 [475]「〔かつて〕見られもまたし、聞かれもまたした、それらの人たちであるが、彼らのばあい、〔世俗の慣習にすぎない〕この名前が呼ばれる〔だけのこと〕。人が亡者となるなら、名前だけが残り、告げ知らされる〔だけのこと〕」と。


44.


 [476]816.(809) わがものと〔錯視〕されたもの(欲望や執着の対象)にたいし貪求〔の思い〕ある者たちは、憂いや嘆きや物惜しみ〔の心〕を捨棄しない。それゆえに、牟尼(沈黙の聖者)たちは、執持〔の対象〕(所有物)を捨棄して、〔無一物に〕平安を見る者たちとして、行じおこなった。(6)


 [477]「わがものと〔錯視〕されたもの(欲望や執着の対象)にたいし貪求〔の思い〕ある者たちは、憂いや嘆きや物惜しみ〔の心〕を捨棄しない」とは、「憂い」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、憂い、憂うこと、憂いあること、内なる憂い、内なる遍き憂い、内なる焼悩、内なる遍き焼悩、心の遍き焼尽、失意、憂いの矢。「嘆き」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の……略……あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあること、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあること。「物惜しみ」とは、五つの物惜しみがある。居住の物惜しみ、家の物惜しみ、利得の物惜しみ、名誉の物惜しみ、法(事象)の物惜しみである。すなわち、このような形態の、物惜しみ、物惜しみすること、物惜しみあること、物欲、吝嗇、緊縮すること、心の収取あることである。これが、物惜しみと説かれる。さらに、また、〔五つの〕範疇の物惜しみもまた、物惜しみであり、〔十八の〕界域の物惜しみもまた、物惜しみであり、〔十二の認識の〕場所の物惜しみもまた、物惜しみであり、収取である。これが、物惜しみと説かれる。貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「我執」とは、二つの我執がある。(1)渇愛の我執と、(2)見解の我執とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の我執である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の我執である。わがものと〔錯視〕された事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、略奪されつつあるときもまた憂い悲しみ、略奪されたときもまた憂い悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、変化しつつあるときもまた憂い悲しみ、変化したときもまた憂い悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた嘆き悲しみ、略奪されつつあるときもまた嘆き悲しみ、略奪されたときもまた嘆き悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた嘆き悲しみ、変化しつつあるときもまた嘆き悲しみ、変化したときもまた嘆き悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物を、守護し、保護し、執持し、わがものとし、物惜しみする。わがものと〔錯視〕された事物について、憂い〔の心〕を捨棄せず、嘆き〔の心〕を捨棄せず、物惜しみ〔の心〕を捨棄せず、貪求〔の心〕を、捨棄せず、捨棄し去らず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめない。ということで、「わがものと〔錯視〕されたものにたいし貪求〔の思い〕ある者たちは、憂いや嘆きや物惜しみ〔の心〕を捨棄しない」。

 [478]「それゆえに、牟尼(沈黙の聖者)たちは、執持〔の対象〕(所有物)を捨棄して、〔無一物に〕平安を見る者たちとして、行じおこなった」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。わがものと〔錯視〕された諸々のものについて、この危険を等しく見ている者たちは。ということで、「それゆえに」。「牟尼(ムニ)たち」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。すなわち、知慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解であり、その知恵を具備した者たちが、牟尼たちであり、沈黙を得た者たちである。三つの牟尼の資質がある。(1)身体による牟尼の資質、(2)言葉による牟尼の資質、(3)意による牟尼の資質である。……略([201-209]参照)……執着の網を超え行って、彼は、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「執持」とは、二つの執持がある。(1)渇愛の執持と、(2)見解の執持とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の執持である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の執持である。牟尼たちは、渇愛の執持を遍捨して、見解の執持を、放棄して、捨て去って、捨棄して、除去して、終息を為して、状態なきへと至らしめて、行じおこなった、〔世に〕住んだ、振る舞った、行持した、〔行ないを〕守った、〔身を〕保った、〔身を〕保ち行った。「〔無一物に〕平安を見る者たちとして」とは、平安は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の寂止、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「平安を見る者たち」とは、平安を見る者たち、救護所を見る者たち、避難所を見る者たち、帰依所を見る者たち、恐怖なきを見る者たち、死滅なきを見る者たち、不死を見る者たち、涅槃を見る者たち。ということで、「それゆえに、牟尼たちは、執持〔の対象〕を捨棄して、〔無一物に〕平安を見る者たちとして、行じおこなった」。

 [479]それによって、世尊は言った。


 [480]「わがものと〔錯視〕されたもの(欲望や執着の対象)にたいし貪求〔の思い〕ある者たちは、憂いや嘆きや物惜しみ〔の心〕を捨棄しない。それゆえに、牟尼(沈黙の聖者)たちは、執持〔の対象〕(所有物)を捨棄して、〔無一物に〕平安を見る者たちとして、行じおこなった」と。


45.


 [481]817.(810) 〔欲望の対象から〕退去して行じおこなう比丘が、遠離の坐所に親しんでいるなら――〔賢者たちは〕言う「彼にとって、それ(遠離の坐所)は、〔比丘として〕ふさわしいことである」〔と〕――彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないようにするなら。(7)


 [482]「〔欲望の対象から〕退去して行じおこなう比丘が」とは、退去して行じおこなう者たちは、七者の〔いまだ〕学びある者(七有学:預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道)と説かれる。阿羅漢は、〔すでに〕退去した者である。何を契機とすることから、退去して行じおこなう者たちは、七者の〔いまだ〕学びある者と説かれるのか。彼らは、そこかしこから、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、行じおこない、行じ歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行き、眼の門において、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、行じおこない、行じ歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行き、耳の門において、心を……略……鼻の門において、心を……舌の門において、心を……身の門において、心を……意の門において、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、行じおこない、行じ歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。たとえば、あるいは、鶏の羽が、あるいは、腱の削り滓(薄片)が、火に入れられたなら、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されることがないように、まさしく、このように、そこかしこから、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、行じおこない、行じ歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行き、眼の門において、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、行じおこない、行じ歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行き、耳の門において、心を……略……鼻の門において、心を……舌の門において、心を……身の門において、心を……意の門において、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、行じおこない、行じ歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。それを契機とすることから、退去して行じおこなう者たちは、七者の〔いまだ〕学びある者と説かれる。「比丘が」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘が、あるいは、〔いまだ〕学びある比丘が。ということで、「〔欲望の対象から〕退去して行じおこなう比丘が」。

 [483]「遠離の坐所に親しんでいるなら」とは、坐所は、そこにおいて〔人々が〕坐すところと説かれる。床、椅子、敷布、座布団、皮革、草の敷物、葉の敷物、藁の敷物である。その坐所は、適当ならざる形態を見ることから、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてあり、適当ならざる音声を聞くことから、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてあり、適当ならざる臭香“におい”を嗅ぐことから……適当ならざる味感“あじわい”を味わうことから……適当ならざる感触と接触することから……適当ならざる五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)から、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてある。その遠離の坐所に、親しんでいるなら、等しく親しんでいるなら、慣れ親しんでいるなら、慣用しているなら、等しく慣れ親しんでいるなら、受用しているなら。ということで、「遠離の坐所に親しんでいるなら」。

 [484]「〔賢者たちは〕言う『彼にとって、それ(遠離の坐所)は、〔比丘として〕ふさわしいことである』〔と〕――彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないようにするなら」とは、「ふさわしいこと」とは、三つのふさわしいことがある。(1)衆徒としてふさわしいこと、(2)法(教え)としてふさわしいこと、(3)再出なきもの(不生のもの)としてふさわしいことである。(1)どのようなものが、衆徒としてふさわしいことであるのか。たとえ、もし、多くの比丘であるも、和合者たちとして、喜び合いながら、論争することなく、乳と水のように成り、互いに他を愛眼をもって見合いながら、〔世に〕住む。これが、衆徒としてふさわしいことである。(2)どのようなものが、法(教え)としてふさわしいことであるのか。四つの気づきの確立(四念住・四念処:身体と感受と心と法についての気づき)、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)、四つの神通の足場(四神足:意欲・心・精進・考察)、五つの機能(五根:信・精進・気づき・心の統一・知慧)、五つの力(五力:信・精進・気づき・心の統一・知慧)、七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・安息・心の統一・放捨)、聖なる八つの支分ある道(八正道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)がある。それらは、一緒に、〔涅槃に〕跳入し、清信し、等しく確立し、解脱する。それらの法(教え)に、論争は〔存在せず〕、異論は存在しない(互いに他と矛盾しない)。これが、法(教え)としてふさわしいことである。(3)どのようなものが、再出なきものとしてふさわしいことであるのか。たとえ、もし、多くの比丘であるも、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において、完全なる涅槃に到達する。彼らの、涅槃の界域における、あるいは、足りないことが、あるいは、満ち溢れることが、覚知されることはない。これが、再出なきものとしてふさわしいことである。「〔迷いの〕生存域において」とは、地獄にある者たちにとって、地獄は、〔彼らの〕生存域であり、畜生の胎ある者たちにとって、畜生の胎は、〔彼らの〕生存域であり、餓鬼の境域ある者たちにとって、餓鬼の境域は、〔彼らの〕生存域であり、人間たちにとって、人間の世は、〔彼らの〕生存域であり、天〔の神々〕たちにとって、天の世は、〔彼らの〕生存域である。「〔賢者たちは〕言う『彼にとって、それは、〔比丘として〕ふさわしいことである』〔と〕――彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないようにするなら」とは、〔賢者たちは〕「彼にとって、これは、ふさわしいことである、これは、適合するものである、これは、適切なるものである、これは、至当なるものである、これは、随順するものである――彼が、このように、覆い隠されたところである、地獄において、自己を見せないなら、畜生の胎において、自己を見せないなら、餓鬼の境域において、自己を見せないなら、人間の世において、自己を見せないなら、天の世において、自己を見せないなら」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「〔賢者たちは〕言う『彼にとって、それは、〔比丘として〕ふさわしいことである』〔と〕――彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないようにするなら」。

 [485]それによって、世尊は言った。


 [486]「〔欲望の対象から〕退去して行じおこなう比丘が、遠離の坐所に親しんでいるなら――〔賢者たちは〕言う『彼にとって、それ(遠離の坐所)は、〔比丘として〕ふさわしいことである』〔と〕――彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないようにするなら」と。


46.


 [487]818.(811) 一切所で依存なき牟尼は、愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない。彼のうちに、嘆きや物惜しみ〔の心〕は〔存在しない〕――〔蓮の〕葉に、水が着“つ”かないように。(8)


 [488]「一切所で依存なき牟尼は」とは、一切は、十二の〔認識の〕場所と説かれる。まさしく、眼と、形態と、耳と、音声と、鼻と、臭香と、舌と、味感と、身と、感触と、意と、法(意の対象)とである。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……執着の網を超え行って、彼は、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「依存なき」とは、二つの依存がある。(1)渇愛の依存と、(2)見解の依存とである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の依存である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の依存である。牟尼は、渇愛の依存を捨棄して、見解の依存を放棄して、眼に依存しない者として、耳に依存しない者として、鼻に依存しない者として、舌に依存しない者として、身に依存しない者として、意に依存しない者として、諸々の形態に……諸々の音声に……諸々の臭香に……諸々の味感に……諸々の感触に……家に……衆徒に……居住に……利得に……名声に……賞賛に……安楽に……衣料に……〔行乞の〕施食に……臥坐所に……病のための日用品となる薬の必需品(常備薬)に……欲望の界域(欲界)に……形態の界域(色界)に……形態なき界域(無色界)に……欲望の生存(欲有)に……形態の生存(色有)に……形態なき生存(無色有)に……表象の生存(想有)に……表象なき生存(無想有)に……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)に……一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)に……四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)に……五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)に……過去に……未来に……現在に……見られたものに……聞かれたものに……思われたものに……識られたものに……一切の法(事象)に、依存しない者として、〔思いが〕付着しない者として、近づき行かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。ということで、「一切所で依存なき牟尼は」。

 [489]「愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない」とは、「愛しいもの」とは、二つの愛しいものがある。(1)あるいは、有情たちであり、(2)あるいは、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。(1)どのような者たちが、愛しい有情たちであるのか。ここに、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの〔心の〕平安を欲する者たちであり、あるいは、母として、あるいは、父として、あるいは、兄弟たちとして、あるいは、姉妹たちとして、あるいは、子たちとして、あるいは、娘たちとして、あるいは、朋友たちとして、あるいは、僚友たちとして、あるいは、親族たちとして、あるいは、血縁たちとして、〔世に〕有るなら、これらの者たちが、愛しい有情たちである。(2)どのようなものが、諸々の愛しい形成〔作用〕であるのか。諸々の意に適う形態、諸々の意に適う音声、諸々の意に適う臭香、諸々の意に適う味感、諸々の意に適う感触である。これらが、諸々の愛しい形成〔作用〕である。「愛しくないもの」とは、二つの愛しくないものがある。(1)あるいは、有情たちであり、(2)あるいは、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。(1)どのような者たちが、愛しくない有情たちであるのか。ここに、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの〔心の〕平安なきを欲し、生命を奪うことを欲する者たちとして〔世に〕有るなら、これらの者たちが、愛しくない有情たちである。(2)どのようなものが、諸々の愛しくない形成〔作用〕であるのか。諸々の意に適わない形態、諸々の意に適わない音声、諸々の意に適わない臭香、諸々の意に適わない味感、諸々の意に適わない感触である。これらが、諸々の愛しくない形成〔作用〕である。「愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない」とは、「この者は、わたしにとって、愛しい有情である。しかして、これらは、わたしにとって、諸々の愛しい形成〔作用〕である」と、貪欲〔の思い〕を所以に、愛しいものを作らない。「この者は、わたしにとって、愛しくない有情である。しかして、これらは、わたしにとって、諸々の愛しくない形成〔作用〕である」と、憤激〔の思い〕を所以に、愛しくないものを、作らず、生じさせず、産出させず、発現させず、再出させない。ということで、「愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない」。

 [490]「彼のうちに、嘆きや物惜しみ〔の心〕は〔存在しない〕――〔蓮の〕葉に、水が着かないように」とは、「彼のうちに」とは、その人のうちに、阿羅漢のうちに、煩悩の滅尽者のうちに。「嘆き」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあること、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあること。「物惜しみ」とは、五つの物惜しみがある。居住の物惜しみ、家の物惜しみ、利得の物惜しみ、名誉の物惜しみ、法(事象)の物惜しみである。すなわち、このような形態の、物惜しみ、物惜しみすること、物惜しみあること、物欲、吝嗇、緊縮すること、心の収取あることである。これが、物惜しみと説かれる。さらに、また、〔五つの〕範疇の物惜しみもまた、物惜しみであり、〔十八の〕界域の物惜しみもまた、物惜しみであり、〔十二の認識の〕場所の物惜しみもまた、物惜しみであり、収取である。これが、物惜しみと説かれる。

 [491]「〔蓮の〕葉に、水が着かないように」とは、葉は、蓮華の葉と説かれる。水(ヴァーリ)は、水(ウダカ)と説かれる。たとえば、水が、蓮華の葉に、着かず、強く着かず、近しく着かず、着くことなくあり、強く着くことなくあり、近しく着くことなくあるように、まさしく、このように、その人に、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に、嘆き〔の心〕、および、物惜しみ〔の心〕は、着かず、強く着かず、近しく着かず、着くことなくあり、強く着くことなくあり、近しく着くことなくあり、さらには、阿羅漢たるその人は、それらの〔心の〕汚れによって、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。ということで、「彼のうちに、嘆きや物惜しみ〔の心〕は〔存在しない〕――〔蓮の〕葉に、水が着かないように」。

 [492]それによって、世尊は言った。


 [493]「一切所で依存なき牟尼は、愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない。彼のうちに、嘆きや物惜しみ〔の心〕は〔存在しない〕――〔蓮の〕葉に、水が着かないように」と。


47.


 [494]819.(812) また、蓮〔の葉〕に、水滴が〔着かない〕ように、蓮華に、水が着かないように、このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて汚されない。(9)


 [495]「また、蓮〔の葉〕に、水滴が〔着かない〕ように」とは、水滴は、水のしたたりと説かれる。蓮は、蓮華の葉と説かれる。たとえば、水滴が、蓮華の葉に、着かず、強く着かず、近しく着かず、着くことなくあり、強く着くことなくあり、近しく着くことなくあるように。ということで、「また、蓮〔の葉〕に、水滴が〔着かない〕ように」。「蓮華に、水が着かないように」とは、蓮華は、蓮華の花と説かれる。水(ヴァーリ)は、水(ウダカ)と説かれる。たとえば、水が、蓮華の花に、着かず、強く着かず、近しく着かず、着くことなくあり、強く着くことなくあり、近しく着くことなくあるように。ということで、「蓮華に、水が着かないように」。

 [496]「このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて汚されない」とは、「このように」とは、喩えを現に実践するもの。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……執着の網を超え行って、彼は、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「汚れ」とは、二つの汚れがある。(1)渇愛の汚れと、(2)見解の汚れとである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の汚れである。(2)……略([180]参照)……これが、見解の汚れである。牟尼は、渇愛の汚れを捨棄して、見解の汚れを放棄して、見られたものについて汚されず、聞かれたものについて汚されず、思われたものについて汚されず、識られたものについて、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心によって、〔世に〕住む。ということで、「このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて汚されない」。

 [497]それによって、世尊は言った。


 [498]「また、蓮〔の葉〕に、水滴が〔着かない〕ように、蓮華に、水が着かないように、このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて汚されない」と。


48.


 [499]820.(813) まさに、〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて〔汚されず〕、それ(見られ聞かれたもの)によって〔あれやこれや〕思い考えない。〔彼は〕他のものによって、清浄を求めない。なぜなら、彼は、〔欲に〕染まらず、離貪もしないのだから。(10)


 [500]「まさに、〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて〔汚されず〕、それ(見られ聞かれたもの)によって〔あれやこれや〕思い考えない」とは、「清き者」とは、清きは、知慧と説かれる。すなわち、知慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。何を契機とすることから、清きは、知慧と説かれるのか。その知慧によって、身体による悪しき行ないが、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、言葉による悪しき行ないが……意による悪しき行ないが、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、貪欲が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、憤怒が……迷妄が……忿怒が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……幻想が……狡猾が……強情が……激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもする。それを契機とすることから、清きは、知慧と説かれる。

 [501]しかして、あるいは、正しい見解(正見)によって、誤った見解(邪見)が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、正しい思惟(正思惟)によって、誤った思惟(邪思惟)が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもし、正しい言葉(正語)によって、誤った言葉(邪語)が、払拭されもし……正しい生業(正業)によって、誤った生業(邪業)が、払拭されもし……正しい生き方(正命)によって、誤った生き方(邪命)が、払拭されもし……正しい努力(正精進)によって、誤った努力(邪精進)が、払拭されもし……正しい気づき(正念)によって、誤った気づき(邪念)が、払拭されもし……正しい〔心の〕統一(正定)によって、誤った〔心の〕統一(邪定)が、払拭されもし……正しい知恵(正智)によって、誤った知恵(邪智)が、払拭されもし……正しい解脱(正解脱)によって、誤った解脱(邪解脱)が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもする。

 [502]しかして、あるいは、聖なる八つの支分ある道(八支聖道)によって、一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、払拭されもし、洗い清められもし、等しく洗い清められもし、洗浄されもする。阿羅漢は、これらの清き法(性質)を、具した者であり、具完した者であり、所有した者であり、完備した者であり、具有した者であり、完有した者であり、具備した者であり、それゆえに、阿羅漢は、清き者である。彼は、貪欲を払拭した者であり、悪を払拭した者であり、〔心の〕汚れを払拭した者であり、苦悶を払拭した者である。ということで、「清き者」。

 [503]「まさに、〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて〔汚されず〕、それ(見られ聞かれたもの)によって〔あれやこれや〕思い考えない」とは、清き者は、見られたものを思い考えず、見られたものについて思い考えず、見られたもの〔の観点〕から思い考えず、見られたものあることから、「わたしのものである」と思い考えず、聞かれたものを思い考えず、聞かれたものについて思い考えず、聞かれたもの〔の観点〕から思い考えず、聞かれたものあることから、「わたしのものである」と思い考えず、思われたものを思い考えず、思われたものについて思い考えず、思われたもの〔の観点〕から思い考えず、思われたものあることから、「わたしのものである」と思い考えず、識られたものを思い考えず、識られたものについて思い考えず、識られたもの〔の観点〕から思い考えず、識られたものあることから、「わたしのものである」と思い考えない。まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。〔すなわち〕「比丘たちよ、『〔わたしは〕存在する』とは、これは、思い考えられたものです。『これは、わたしとして存在する』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕有るであろう(永存する)』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕有ることなくあるであろう(消滅する)』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕形態ある者と成るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕形態なき者と成るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕表象ある者と成るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕表象なき者と成るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者と成るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。比丘たちよ、思い考えられたものは、貪欲です。思い考えられたものは、腫物です。思い考えられたものは、矢です。思い考えられたものは、禍です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、『〔わたしたちは〕思い考えることなき心によって、〔世に〕住むのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」〔と〕。ということで、「まさに、〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて〔汚されず〕、それによって〔あれやこれや〕思い考えない」。

 [504]「〔彼は〕他のものによって、清浄を求めない」とは、清き者は、〔四つの〕気づきの確立より他の、〔四つの〕正しい精励より他の、〔四つの〕神通の足場より他の、〔五つの〕機能より他の、〔五つの〕力より他の、〔七つの〕覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、〔それらとは〕他のものである、清浄ならざる道によって、誤った〔実践の〕道によって、出脱ならざる道によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、求めず、楽しみにせず、切望せず、熱望せず、渇望しない。ということで、「〔彼は〕他のものによって、清浄を求めない」。

 [505]「なぜなら、彼は、〔欲に〕染まらず、離貪もしないのだから」とは、一切の愚者たる凡夫たちは、〔欲に〕染まり(貪欲する)、七者の〔いまだ〕学びある者は、善き凡夫と比較して、離貪し(欲に染まらない)、阿羅漢は、まさしく、〔欲に〕染まることもなければ、離貪することもない。彼は、〔すでに〕離貪した者として〔世に有る〕――貪欲の滅尽あることから、貪欲が離れたことから、憤怒の滅尽あることから、憤怒が離れたことから、迷妄の滅尽あることから、迷妄が離れたことから。彼は、住むことを住んだ者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない」〔と〕。ということで、「なぜなら、彼は、〔欲に〕染まらず、離貪もしないのだから」。

 [506]それによって、世尊は言った。


 [507]「まさに、〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて〔汚されず〕、それ(見られ聞かれたもの)によって〔あれやこれや〕思い考えない。〔彼は〕他のものによって、清浄を求めない。なぜなら、彼は、〔欲に〕染まらず、離貪もしないのだから」と。


 [508]老の経についての釈示が、第六となる。



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